「ちょっと! どこほっつき歩いてたのよ!」
「だからお兄ちゃんも、いい加減、携帯電話持ちなって!」
「なんだよ」
家に帰りつくなり、うるさい女共に囲まれた。
「導師が、車にひかれて倒れてたの!」
何を言われているのか、耳の理解を超える言葉の羅列。
世界が凍りつく。
俺はすぐに、身を翻した。
「どこに行くのよ!」
「あたしとお姉ちゃんとで、もう病院に連れてって、入院させてるから!」
振りむいたら、むっつりとふくれた二つの女の顔。
「外傷はないけど、内臓がどうなってるのか分からないから、今夜は病院で様子みるって」
「明日、お見舞いにいってあげて」
二人からそう言われて、なにも返さず二階へ上がった。
子供の頃から何も変わらない、小さな部屋。
小学生の時から使っている、机と簡易ベッド。
窓から見える景色は、道路脇のすぐ向かいの家の壁に阻まれていて、夜でも明るい空は、視界の三分の一程度。
この家の壁に囲まれて、目が覚めたら世界が変わっていたらいいのにと、何度願ったことか。
幾度となく裏切られても、そう願わずにはいられない。
どうにもならないって、いい加減あきらめらたいいのに。
今日はもう、このまま寝る。
朝になって、臨時休業の張り紙を店の前に出してから、動物病院へと向かった。
「いや~驚きましたよ! カリスマ経営者の荒間尚子と、超人気アイドルの荒間千里が姉妹だったなんて!」
先生は、連絡先が記載されたカルテを指差しながら、「この住所と電話番号であってます?」とか聞いてくる。
なにかあったら、連絡するために必要らしい。
「でも、そう言われてみると、顔とかそっくりですよね、ホントよく似てますよね、やっぱりお姉妹なんだなぁ~」
病院の奥から連れてこられた導師は、ゲージのなかでぐったりと横たわっていた。
「朝イチで検査したので、麻酔がまだ効いてるんです。もう少ししたら元気になりますから、お家につれて帰ってもらって大丈夫ですよ」
命に関わるような怪我はないから、おうちでゆっくり様子をみたのでいいと言われた。
お金は尚子が払ってくれていたらしく、預かり金があるからいらないと言われた。
ぐったりとした導師を抱いて、俺は家に戻る。
空は秋晴れの気持ちのいい空で、土手の上を歩いているうちに、導師はもぞもぞと動き出した。
目は閉じているから、まだ疲れているのだろう。
「ねぇ導師。空がきれいだよ」
むぅ、という小さな鳴き声がして、導師は寝返りをうった。
麻酔はもう、切れたみたいだ。
家にたどり着いて、俺は居間での導師の定位置に、座布団を敷いて寝かせた。
「ニャー」
「どうしたの、導師?」
座布団の上で、ゆっくりとのびをして顔を上げる導師。
導師はこちらを見上げるばかりで、なにも言わない。
後ろあしで、あごの下を掻いた。
「導師、体はどう?」
導師は、目を細めて鼻をひくひくさせる。
「ねぇ、導師ってば」
耳の後ろに手を伸ばした俺に、導師が答えた。
「ニャア」
「ねぇ、なにそれ、ニャアだけじゃ分かんないよ」
導師を膝に抱き上げる。
導師はゆっくりと目を閉じて、また開けた。
「病院はどうだった? なんで車になんか、ひかれたんだよ」
導師は黙ったまま、気持ちよさそうに目を閉じる。
「ねぇ、今日はなに食べたい? 今日だけは、特別に導師の好きなもの作ってあげる」
導師は俺の膝から下りると、首の下を掻いた。
あくびをして、その場にうずくまる。
「ねぇ、導師、なにかしゃべってよ」
「ニャー」
俺は、伸ばした腕ごと、全身が固まった。
「え、なにそれ、ちょっと待ってよ」
もしかして、導師の声が聞こえなくなってる?
どうしよう、なんで? なにがあった?
俺は、震える手で動物病院の薬の袋を見た。
薬袋には、病院の電話番号がのっている。
導師になにが起こったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。
黒電話に手を伸ばしたとき、呼び鈴がなった。
「はい、もしもし」
「病院行った? どうだった?」
尚子だった。
「導師が、導師がしゃべってくれないんだ!」
「は? 導師がしゃべらなくなったって?」
「どうしよう、なんで? なんでしゃべってくれないの?」
自分でも、自分の声が震えているのが分かる。
受話器の向こうで、尚子がため息をついた。
「そ、じゃあ元に戻って、よかったんじゃないの」
「なにが?」
「普通の猫に戻って、あんたも、変な寝言を言わなくなる」
「は?」
「黙ってたけどさ、病院連れて行こうかと、千里と相談してた。あんたが、いつまでもおかしなこと言ってたから」
「魔法使いになりたいって? 導師と修行してるって?」
「……、そう」
もう少しで、わざと受話器を落としてしまいそうだった。
自分がいま、ここで立っていられるのも、不思議なくらいなのに。
腹の底から、嫌な笑いがこみあげてくるのを感じている。
遠くでなにかの、大きな音が聞こえる。
「ちょっと心配してた。でも、導師の声が聞こえなくなったんなら、私は安心したよ」
外から聞こえる音が、家の近くで止まった。
「あんたも色々あって、疲れてたんだと思う。父さんが亡くなってから、ずっと一人でバタバタしてたし。少し休んで、ゆっくりしなさい。導師が無事で、よかったね」
俺は受話器を置いた。
再び鳴りだしたサイレンの音。
それは、香澄が救急車で運ばれていく音だった。
知らせに来てくれたのは、北沢くんだった。
菜々子ちゃんは、学校に来ていないらしい。
ずっと病院で付き添いをしているから、学校には来られないんだって。
そのことをレジの前で聞いたとき、俺は黙ってうなずいただけだった。
「お見舞いとか、行かないんですか?」
「どうして?」
「だって、気になるじゃないですか、どうなってるのか。僕は見に行けないし」
「行っても、しょうがないから」
北沢くんは、やれやれといったかんじで肩をすくめると、すぐに帰っていってしまった。
彼はもう、居間に上がってお菓子を食べたりなんかしない。
導師は隣でずっと毛づくろいをしていて、それが終わったら、丸くなって目を閉じた。
今思えば、恋とか、つき合うとか、何も考えていなかった中学の頃、なんで俺は、あの時、あの場所で、香澄に告白したんだろう。
どうして二人きりで、あの時あの場所にいたのかすら、もう覚えていない。
とても暑かったから、もしかしたら、運動会の練習かなにかだったのかもしれない。
気が強くて、いつもクラスの中心にいた香澄が、一人で座っていた。
俺はなぜか、香澄を探していて、香澄は真っ青な顔で校舎の陰に座っていて、保健室に行こうって誘ったけど、嫌がった。
お腹が痛いって、彼女は泣いていた。
だったら、なおさら保健室に行けばいいじゃないかって言ったのに、うずくまったまま、かたくなにそこを動かなかった。
彼女は何かを恐れ、怖がっていた。
それが何かは分からなかったけど、その時になぜか俺は「君のことが好きだから」って、言った。
彼女はそれを聞いて、笑って、笑って、泣いたんだ。
その時に俺は、本当はどうすればよかったのか、それが分からなくて、ずっと考えてて、多分今でも、そのことを考え続けている。
自分が今でも一人でいる理由が、その全てだなんて思ってはないけど、そこで立ち止まったまま、動けていないのは多分事実。
だから、お腹の大きくなった、変わってしまった香澄が目の前に現れた時に、自分だけが取り残されたような気がして、ますますどうすればよかったのか答えが見えなくなって、ただ一人でずっと悩んでいた自分がバカみたいに思えて、情けなくて、悔しかったんだ。
レジ台から立ち上がる。
俺は、香澄に謝らなくてはいけない。
彼女はきっと、また笑うだろう。
ワケ分かんないって、いつの話しだって、彼女自身も、そんなことがあったことすら、覚えていないかもしれない。
でも、そうしなければ、そうすることが、俺が自分で前に進む、今度こそ、俺が本当に香澄から解放される、儀式になるんだ。
立ち上がった俺を、導師が見上げる。
導師はあれから、一言も声をかけてはくれないけど、多分、頑張れよって、言ってくれてる。
俺は、導師の頭をひとなでしてから、香澄の待つ病院へと向かった。
真っ白い、つるつるの床が続く長い廊下は、何度来ても楽しいもんじゃない。
三人の母と一人の父を看取った俺には、入院病棟なんて、見慣れすぎて気持ち悪いくらいだ。
俺にとっては、そんな記号でしかない。
学校、病院、家と本屋。香澄の部屋は、廊下の一番端っこの、大部屋だった。
カーテンを開けると、ベッドの脇に菜々子ちゃんが座っていた。
ちょっとびっくりしたみたいな顔で俺を見上げて、すぐに椅子を出してくれた。
香澄はぼんやりとした目で、出された椅子に座るまでの俺を、じっと観察していた。
「お見舞いに来た」
「来なくても、よかったのに」
菜々子ちゃんが言った。
「気になったんだ」
「誰が?」
「君が」
菜々子ちゃんとばかり話す俺を、彼女は変な顔で見てくる。
「なにそれ、ヘンなの。うちのお母さんと大人の話がしたかったの? そんな話、するような仲だったっけ?」
俺がにこっと笑ったら、彼女はため息をついて立ち上がった。
「まぁいいよ。洗濯しないといけなかったから。交代して」
まだ小さな菜々子ちゃんは、まだ小さいのに、洗濯をするために部屋を出て行った。
香澄は腕に点滴のチューブをさして、モニターの機械につながれていて、その数値は安定しているみたいだった。
「大きな事故にならずに、よかったね」
「あんたに、なにが分かるの?」
香澄はそう言うけど、俺はこんな風景を、考えてみたら親父の時も含めて、もうずっと見続けている。
「なんとなく、分かる」
香澄はため息をついた。
「何しに来たの?」
「お見舞いに来た」
「来なくてもよかったのに」
そう言った香澄の顔が、菜々子ちゃんのと全く同じで、思わす笑ってしまう。
「菜々子ちゃんと、同じこと言ってる」
香澄はムッとして背を向けたけれども、香澄はここだと怒ったり逃げたり出来ないから、俺にとっては都合がよかったのかもしれない。
「退院したら、一緒に住もう。俺は今でも、君のことが好きだし、出来れば一緒に暮らしたい」
香澄は頭だけ動かして、俺を見上げた。
「は?」
「一緒に、暮らそう」
俺は、笑われると思っていたけど、香澄は笑わなかった。
「いいよ、別に。同情されたいわけじゃないし」
「違う、そうじゃない。本気でそう思ってる。俺の心の準備が、あの時はまだ出来てなかっただけ」
これが俺の謝罪。
なのに、香澄は笑ってくれなかった。
「いらない。退院できたら、また考える」
「分かった」
またフラれた。
だけど、なんとなく俺はうれしくなってしまった。
「毎日、お見舞いに来てもいい?」
「いらない」
「何か、買ってくるものとか、欲しいものはある?」
「別にないよ」
「お腹の子は、男の子なの、女の子なの?」
香澄は今日初めて、ちゃんと俺を見上げた。
「名前、考えておかなくっちゃね」
自分が誰かの名付け親になるなんて、想像もしなかった。
どんな名前にしよう、子供がおおきくなって、なんでこの名前にしたのって聞かれたら、ちゃんとした理由を言える名前がいいな。
「あんたって、本当にバカだよね」
香澄は結局、最後まで笑ってくれなかったけど、代わりに俺が笑っておいたから大丈夫。
二階の部屋を片付けておこう、尚子と千里も追い出せるし、一石二鳥だ。俺にも家族が出来る。
家に帰ってテレビをつけたら、尚子と千里が姉妹だということが、芸能ワイドショーで大騒ぎになっていて、それを見てまた笑った。
その日から、俺は毎日香澄の病院を訪ねて、菜々子ちゃんの代わりに付き添いをする。
菜々子ちゃんは、学校に行けるようになった。
だけど、一番の問題は、お医者さんと話しが出来ないこと。
菜々子ちゃんは未成年だし、俺は他人。
看護師さんは優しいけど、俺と菜々子ちゃんには、何も言わないし、何も教えてくれない。
香澄の体の状態を知っているのは、診察室で話しを聞く、彼女の両親だけだった。
病棟には一度も顔を出したことがないから、俺も見たことがない。
香澄は、出産の予定日が近いこともあって、ほとんどをベッドの上で寝て過ごしている。
菜々子ちゃんは学校から帰ってきたら、宿題と、北沢くんからもらった塾のテキストを、ベッドサイドでやっている。
「お家では、なにしてるの?」
香澄は静かに寝息を立てていて、俺は真剣な顔で問題を解く菜々子ちゃんの、横顔に聞いた。
「大人しくしてる」
「大人しくって?」
「大人しくは、大人しいって意味よ」
菜々子ちゃんは、大人だった。
突然、香澄に繋がる表示モニターが警告音を発した。
あわててナースコールを押すと、ほぼ同時に看護師さんが飛び込んで来る。
「どいてください!」
香澄がベッドごと慌ただしく運ばれていくのを、俺と菜々子ちゃんは、ただ黙って静かに見送った。
「おばあちゃんから、なにか聞いてない? 具合、悪いのかな」
彼女は首を横に振り、ただ前を向いて立っていた。
それからの数日は、俺が面会に行っても、関係者以外は面会謝絶状態で、菜々子ちゃんはうちにも勉強しに来なかった。
一度だけ病院の廊下で、おばあちゃんらしき人と、知らない大人の人と歩く菜々子ちゃんを見かけたけど、俺はあえて声をかけなかった。
邪魔になると思ったから。
彼女はうつむいて、大人しくしていた。
今日の朝も、病院の面会時間前に、店の前を掃いておく。
最近はろくに店も開けていないから、特に掃除する必要もないんだけど、体に染みついた日課なんだから仕方がない。
吹く風が少し冷たくなってきて、導師は建物の陰でうずくまっている。
数枚の枯れ葉と、どこからか飛んできた何かの紙くずを、まとめて片付けておいた。
もうとっくに学校は始まっている時間なのに、ランドセルを背負ったままの菜々子ちゃんが、店の前に立っていた。
「赤ちゃんは、いならいんだって、子供はもう、いらないんだって」
「菜々子ちゃんは、いらない子じゃないよ」
道を掃く、ほうきの手を止める。
「お腹の赤ちゃんは、このままだとお母さんが死んじゃうから、どいてもらうんだって」
菜々子ちゃんはランドセルを背負ったまま、学校に行かずにここに立っている。
「いつ?」
「今日」
「行こう。そんなこと、俺が許さない」
菜々子ちゃんの手を握って、病院へ歩き出す。
あんなに大きくなったお腹の子をあきらめるなんて、おかしいじゃないか。
菜々子ちゃんは、まだ産まれない赤ん坊を、自分と同じように思っている。
だからここへ来て、黙って立っている。
表情を殺した顔で。
それなのに、そんなこと、俺は許さない。
病院に着いたら、香澄は個室に移されていた。
菜々子ちゃんと二人、病院に通い詰めた顔パスパワーで、親族以外は面会謝絶の病室に、無理矢理入り込む。
香澄のお腹は、もうすでにペタンコになっていた。
菜々子ちゃんは、なにも言わずに香澄のベッドサイドに座る。
「お腹の赤ちゃんは?」
「死んだ」
香澄は沢山の管につながれた体で、数本の針が刺さった両腕を、顔の上に置いている。
「死んだの?」
「どーせ助からないし、もういいかなって思って」
香澄がそんなふうにしているから、ここからは香澄の顔が見えない。
菜々子ちゃんは、自分の母親に、自分の兄弟のことを聞いている。
「どーせ邪魔だし、いらないし、出てきても、苦労するだけだから、私が」
病院の個室はとても静かで、親子の会話を邪魔するものはなにもない。
「これ以上、余計なのが増えても、大変でしょ。ついでだから」
「そっか、分かった」
菜々子ちゃんはそう言った。
それで、香澄との話しは終わり。
「そんなこと、聞いてないだろ!」
つい声が大きくなる。
そんなことは、絶対嘘に決まっている。
菜々子ちゃんを一度生んでいるのに、本当にいらないのなら、妊娠が分かったときに、なんとかしてるはずだ。
俺は、そんなことは、聞いてないんだ。
菜々子ちゃんも、本当に聞きたかった話しじゃないはずだ!
「じゃあなんで、名前考えようって、言ったの?」
香澄の腕が顔の上から下ろされたとき、サイドテーブルに指先が少しぶつかった。
そこから積み上げられた紙の山が、バサリと落ちる。
「俺は、一緒に住もうって言ったし、名前も考えようって言ったのに!」
「あんたの子供じゃないんだし、なんであんたに指示されないといけないのよ!」
拾い上げたその紙は、いろんな手術や検査の同意書で、香澄は、そこに何一つ了承のサインをしていなかった。
「ねぇ、これ、どういうこと?」
「あぁ、余計なことしたら、お金かかるでしょ、だから。しないの」
香澄は笑って言う。
「便利だよねー、本人の意志がないと、検査のひとつも出来ないんだってさ」
その笑った瞳から頬に伝うしずくは、本人の意志とは無関係に出てくる汗みたいなものだから、香澄にもきっと、どうしようも出来ないんだと思う。
「さっさと退院できたら楽なんだけど、病院以外で死ぬと、それはそれで厄介みたいで」
「結婚しよう。俺、今から婚姻届け、持ってくる」
「はぁ?」
「そしたら、お前もお腹の子も菜々子ちゃんも、俺のものになる」
「なるわけねーだろ、バカ!」
香澄なんかの声は無視して、廊下を走る。
急いでたら、看護師さんに走らないで下さい! って怒られたけど、後で謝っておくから平気。
このすぐ近くに区役所があるから、そこから勝手に婚姻届けを取ってくればいい。
それにサインして出してしまえば、誰だって家族になれるんだ。
役所に着いたら、引っ越しとかの住所変更と、戸籍抄本や印鑑証明の用紙と並んで、婚姻届けがおいてある。
やろうと思えば、こんなにも簡単にできるんだ。
俺は取り出した一枚の婚姻届けに自分の名前を書いて、一度うちに戻ってはんこを押した。
それから病院に返って、香澄に書類を渡す。
「あんた、バカじゃないの!」
「今日中に出しときたいから、早くサインして」
目の前で、香澄はその紙を破った。
「ちょっと! もう区役所しまっちゃうだろ! なんで破くんだよ!」
「あんたみたいなバカに、なんで私がこんがいてのきあ……」
舌がうまく回らないのか、後半は何を言っているのか分からない。
香澄と繋がった機械のアラームが鳴って、看護師が飛び込んでくる。
「ご家族以外は、面会謝絶ですよ!」
「明日から家族になります。そしたら、手術も出来ますか? 先生の、お話も聞けますか?」
飛び込んで来た医師らしい先生と看護師は、せわしなく手を動かしながらも、俺を見る。
「家族になったら、連絡してください」
「はい、分かりました」
意識を失った香澄を残して、俺と菜々子ちゃんは部屋を追い出された。
そう言えば、菜々子ちゃんには、まだ許可をもらっていない。
「ねぇ、俺がお父さんになっちゃダメ?」
「そんなこと聞かれたの、初めてなんだけど」
菜々子ちゃんは大人だから、いつでも落ち着いている。
「今日からこの人がお父さんってのは、何回かあったけど」
俺は、菜々子ちゃんの手をぎゅっと握った。
「俺が、お父さんになっちゃダメ?」
「すごく頼りないお父さんだよね……、ま、考えておく」
それから俺は、毎日区役所に通って、毎日十枚ずつ婚姻届けをもらってきて、毎日三枚ずつ香澄に渡そうとしたけど、香澄はずっと眠ったまんまで、どうすることも出来なかった。
俺は毎日、持ってきた届けを香澄の枕元に置いた。
夕方の家の居間で、菜々子ちゃんはまた勉強をするようになった。
俺はたまっていく片方だけ署名の入った婚姻届けの束を見ながら、ごろごろしている。
「なんで、あんな人と結婚したいの?」
「初恋の人だったんだ」
「好きなの?」
「うん」
「アレが?」
あの頃と変わらない、片思い満載の婚姻届けの山に囲まれて、俺はその人の娘を見る。
「そうだよ」
「私だったら、別の女にするな」
菜々子ちゃんはふっとため息をついて、片肘をついた。
「たとえば、尚子さんみたいな」
「最悪だ、お前に女を見る目はない」
「私、あんな女になりたくないから、勉強してるの」
彼女は自分の母親のことを、そう呼ぶ。
「だから、さっさと自立して独立するの。自分でちゃんと働いて、仕事するの」
「それは、とてもいいことだね」
でもここは、親の代から続いた本屋で、その経営赤字は、再婚相手の連れ子である尚子が補ってくれている。
税金対策でもあるらしいけど。
「あんたに言うセリフじゃなかった。同じクズだった」
その言葉に、少なからずダメージを受けた俺が寝転がると、導師が腹の上に乗ってくる。
尚子に助けられているのは、確か。
「重い、重たいよ、導師」
だけど、どいてと言って下ろしてしまわないのは、その重みに、本当は耐えられるから。
片思いの婚姻届けに囲まれて、導師の頭を撫でていた俺は、そのまま眠ってしまった。
毎日届けた無駄な婚姻届にも、効能はあった。
その話しを聞いた香澄のお母さんと、俺は会うことになった。
「あの子が死んだらどうするの?」
病院の喫茶コーナー。
とってもアットホームな雰囲気のこぢんまりとしたお店で、客席はわずかに三テーブル程度、使い込まれた傷だらけのグラスに飲み物が注がれ、解放的な空間演出に、すぐ脇を来院者たちが通り抜けていく。
「死んだら、死亡届を出して、火葬に出します」
「子供は?」
「俺の子供ということになりますよね」
「うちで今後とも一切面倒はみないよ」
「当然です」
「入院費用は払う。後は勝手にして」
「分かりました」
後は、香澄自身と菜々子ちゃんの許可だけ。
香澄の病室を覗いても、ずっと寝てるだけだし、相変わらず看護師さんも主治医も、俺には何も教えてくれない。
菜々子ちゃんは、最近はずっと家の居間に来ていて、ひたすら尚子と北沢くんからもらった本で勉強している。
「俺を、お父さんにしてくれる?」
「あたしが結婚するんじゃないから。誰がなっても私には関係ないし」
やっぱり、香澄に意識を取り戻してもらうしかない。
もしも、導師が今でも話しが出来るなら、きっと魔法をかけてくれたに違いない。
俺の結婚の望みは叶わなくても、せめて香澄を、一時だけでも、目覚めさせることは出来ただろう。
俺は中途半端にしか魔法を習ってないから、そんな極意なんてものはさっぱり分からなくて、結局いつもと同じに、何も出来ないでいる。
「導師、なんで俺をもっと早く、魔法使いにしてくれなかったの?」
俺が導師をぎゅっと抱きしめたら、導師は腕から飛び出して逃げていった。
「また言ってる。なんで魔法使いになりたいわけ?」
「この世の全てを支配したいから、大魔王になりたいの」
菜々子ちゃんは、ふんと笑った。
「あんたって、本当にバカだよね」
毎日毎日、婚姻届けを片手に病室に通っていると、いいこともあって、もちろん嫌悪感たっぷりの視線でにらまれるのが九割なんだけど、それでもこっそり味方してくれる人が、わずかながら出てくる。
その日も、菜々子ちゃんの付き添いってことで、俺は病室に入れてもらえた。
「あんた、まだ来てたの」
香澄は酸素マスクをつけていて、体は動かせなくても、口だけは動くし、声は小さくても、意識ははっきりしてる。
「結婚しようよ」
「なにが目当てなわけ? 遺産とかないし、もうすぐ死ぬのに、なんで?」
「俺は初恋の人と結婚できるし、未婚の生涯独身者じゃなくなる。菜々子ちゃんを、簡単に俺の養子にすることが出来て、君の死後の不安も取り除ける」
香澄の半分開いた、焦点の合わない目が、懸命に俺を探している。
「残された時間は少しかもしれないけど、俺は、君を幸せにする」
かけられた布団の上から、香澄のお腹に手の平を重ねる。
「本当は、産みたかったんでしょ、菜々子ちゃんを見てたら分かる」
香澄にはもう、自分の手を動かす力すら残ってないらしい。
「俺はあの頃には、何も出来なかったけど、今なら出来る。君の命は助けられなくても、不安と心配はなくせるし、菜々子ちゃんを、ちゃんと育てる」
俺の後ろで見ていた、菜々子ちゃんが立ち上がった。
「私、あんたに育ててもらうつもりはないけど、自分で育つから」
彼女は、自分の母親を見下ろした。
「だけど、この人なら、成人するまで面倒みてくれる気がする。お父さんって、呼んであげてもいい気がする」
「私みたいになるな、お前は勉強して自立しろって、菜々子ちゃんに教えたのは、香澄ちゃんなんでしょ」
香澄の手が、何かを探していて、菜々子ちゃんは、その手にペンを握らせた。
香澄はガタガタの文字で自分の名前を書いて、菜々子ちゃんがはんこを押した。
他にも証人とか、戸籍とかが必要とかで、あちこち駆け回ってる間に、香澄はまた意識を失って、婚姻届けを提出出来たときには、もう動かなくなっていた。
婚姻届けは無事に出せたのかとお医者さんに聞かれて、はいとうなずいたら、時計を見て死亡時刻を確定した。
菜々子ちゃんは正式に俺の子供になり、俺は菜々子ちゃんの正式な保護者になった。
彼女はうちに引っ越してきて、そしてまた、うちに位牌が増えた。
「なんかこの部屋、縁起が悪いよね」
「全部、腐れ縁だからね」
「ヘンなの」
菜々子ちゃんは泣いていて、俺はその泣き顔を、初めて見た。
なってみてようやく分かったけど、保護者というのは結構急がしい。
参観日とか、持ち物とか、親の会とか、他にも色々たくさんあって、かつてないほどの雑用に追われている。
菜々子ちゃんはちゃんと約束を守って、俺のことを『お父さん』と呼んでくれていて、それだけはとてもありがたいし、助かった。
そして、導師がいなくなった。
数日前から、用意した餌を食べていない、姿も見ていない。
菜々子ちゃんに聞いたら、三日前には、うちにいたのを見たという。
「どっかに行っちゃったのかな、俺をおいて」
結局俺は、魔法使いになんてなれなかった。
きっとそんな素質もなかったし、尚子たちの言う通り、夢を見ていただけなのかもしれない。
「あたしがいるから、いいじゃない」
「菜々子ちゃんがいたって、魔法は使えないよ」
「あたしと、お母さんを幸せにする魔法をつかったんでしょ」
彼女は呆れたように言う。
「それで、世界を救ったっていうことで、いいんじゃない? 魔法使いの大魔王なんでしょ?」
導師は、菜々子ちゃんは魔女になるかもって、言ってた。
「きっと、導師の役目は終わったんだよ、それで、次の人の所に行ったんだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。よかったね」
彼女がそう思うのなら、そういうことにしておこう。
俺は多分、魔法使いになった。
完