川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

 青司くんはすばやくキッチンの中に入り、お茶の用意をしはじめた。

 わたしも何かした方がいいかと思って青司くんの側に行く。


「あ、大丈夫。真白はそっちに座ってて」


 そう言われて追い出された。


 たしかに、わたしはまだここの店員じゃない。
 だからそういう扱いになるのかもしれないけど……ちょっとさみしさを感じた。

 でも、文句を言うのもなにか違うので、黙ってカウンター席に座る。


 わたしの左隣には紫織さんが座っている。

 帰省……というか、旦那さんから避難してきたというのに今にも出勤しそうな雰囲気だ。

 ほんと、働く女性の鑑という感じ。


 一方わたしはというと、休日なので完全にオフモードだった。

 表向きは青司くんの手伝いにきているけど「仕事」という意識は薄い。

 わたしは単に青司くんに会いたいから来ている。

 青司くんの力になりたいから、好きだから、来ているのだ。


 そんなのは社会人としては甘い考えだと思う。

 なにせ動悸が不純すぎる。

 仕事は仕事なんだからって、本来ならそう割り切って真面目に取り組まなきゃならない。

 でも、青司くんだって「大概」だ。

 さっきみたいな態度をとられたら、わたしは自分がどういう立ち位置でふるまえばいいのかわからなくなる。


 もう働くことが決まってるから、「すでに店員」なのか。

 それともまだ一応は部外者だから、「まだお客さん」なのか。


 どっちつかずだ。

 宙ぶらりん。

 中途半端で、どうにもきまりが悪い。


 こうなっているのは、わたしがまだ今のアルバイト先を辞められていないのが大きな原因なんだろうけど。

 それでも、紫織さんの前でもこれは……かなり恰好がつかなかった。


「はい、ホットティーです。どうぞ」


 二人分の紅茶が紫織さんとわたしの目の前に置かれる。

 それはあの、ワイルドストロベリー柄のカップだった。

 紫織さんはさっそく一口飲むと……満足げに息を吐く。


「はあ……美味しいわ」

「ありがとうございます」

「それにこのカップ……桃花先生を思い出すわね」

「はい。紫織さんは、以前も使ったことありますよね?」

「ええ。でももうずいぶん昔のことね」


 紫織さんはカップを置くと、じっと青司くんを見つめた。
「ねえ……おばあちゃんにも聞いたけど、大丈夫なの?」

「大丈夫、とは?」

「喫茶店の経営よ。経験はあるの?」

「いえ……」


 はあ、と呆れたように天井を仰ぐ紫織さん。


「あのね、飲食ってのはそんなに簡単なもんじゃないわよ。クライアントを見ているとつくづくそう思うわ。どんなに広告を打っても、基本ができていないとすぐに赤字になるの。競合店が少なくて、かつ人通りの多い場所とかならまだしも。こんな田舎でちゃんとやっていけるの?」

「……それは」


 青司くんは言いよどみながら、冷蔵庫からブドウジュースのペットボトルを取り出した。それを小鍋に入れ火にかける。

 表情が少し暗い。

 紫織さんから現実的な指摘をされて、真剣に答えようとしているのだろう。


「真白ちゃんにもさっき聞いわ。あなたは、かつて桃花先生がやっていたみたいなことをしたいそうね。でも、あれはあくまでも先生の『趣味』で、あなたがやろうとしていることは『仕事』なの。そこには大きな違いがあるわ。そしてそれに、真白ちゃんを巻き込もうとしている……。その意味をわかってる?」

「紫織さん」


 度重なる鋭い指摘に、わたしは思わず口を挟んでしまった。

 わたしは自分がどうなろうが構わない。

 まず、実家暮らしだし。

 たとえお客さんが来なくて儲からなくても、きっとどうにかなると楽観していた。


 青司くんだって、この家は賃貸じゃないんだし。画家の仕事も一応……スランプだけど兼業である。だから、そういう心配事はそんなにないと思っていた。

 紫織さんはハッとして目を伏せる。


「あ、ごめんなさい……。つい、こういう細かいことが気になってしまうの。わたしの悪い癖だわ。それで夫とも喧嘩したのに……。ほんと、余計なことだったわよね、ごめんなさい。せっかく新しいことにチャレンジしようとしているのに、水を差すようなことを言って」

「いえ。ご心配なさるのも、当然です」


 青司くんは重々しい口調で語りながら、沸騰しはじめた鍋の火を止めた。

 そして、そこに粉ゼラチンを振り入れる。
「正直、見切り発車です。甘いと言われれば否定できません。喫茶店で働いたこともありませんし、所詮は母の趣味の延長です。それすらも……真似事でしかない。真白には、悪いと思います。こんな不安定な仕事に付き合わせてしまって。でも……」


 お玉にかき混ぜられ、粉ゼラチンがジュースに溶けていく。

 一通り混ぜ終わったら、青司くんは冷蔵庫で冷やしていたムースケーキを取り出した。


「ここで、いろいろとやり直したいんです。みんなとのことも……。その方法が、これしかなかったんです。貯金ならわりとあります。だから、出来る限り続けてみたいんです……」


 調理台に型に入ったケーキを置き、青司くんはようやく真正面から紫織さんに向き合った。

 それが、青司くんの覚悟の表れだった。

 わたしは少しホッとする。この人についていくだけでいい。そう思った。


「そう。だったら、そこまで決意してるなら、もうなにも言うことはないわね。頑張って。……って、私も人の心配より、まずは自分のことよね……」


 紫織さんは苦笑いを浮かべると、また一口紅茶を飲んだ。

 わたしもつられていただく。

 周囲にはブドウジュースの甘い香りが充満しており、その匂いを嗅ぎながら飲むと、さながらぶどう味の紅茶を飲んでいるみたいになった。


「そういえばさっきからそれ、何を作っているの?」


 紫織さんが青司くんの手元を見ながら質問する。

 青司くんは、いつの間にか生のぶどうを房から一粒ずつもぎ取り、それをそれぞれまな板の上でたて半分に切っていた。

 巨峰のような濃い紫の大きなぶどうだ。


 ひとつずつ、それを丁寧にムースケーキの型の上に並べていく。


「これは、ぶどうのムースケーキです。あと三十分くらい冷やしたら、食べられますよ」


 花弁のように放射線状にぶどうを並べ終えた青司くんは、さらにその上に先ほど作ったブドウジュースのゼラチン液をお玉でかけはじめた。

 かけたのは、あくまでも少量だけである。

 それをまた冷蔵庫にしまい、残ったゼラチン液は適当なグラスに注ぎはじめる。


「こっちはもったいないからただのゼリーにしておきます。良かったらあとで持って帰ってください」

「あ、ええ。それは、ありがとう……」


 紫織さんは、青司くんのあまりの手際の良さに驚いているようだ。


「料理上手ねえ。その点は心配なさそうね」

「恐れ入ります」


 二人ともようやく笑い合って、少しだけ和やかな空気になる。

 青司くんはぶどうゼリーのグラスも冷蔵庫にしまった。
「あれ? そういえば菫(すみれ)ちゃん、戻ってきませんね。このブドウのジュースでも出してあげようかと思ってたんですけど」

「あら、そうね」


 青司くんに言われて、紫織さんも菫ちゃんの姿を探す。

 サンルームの方を覗くと、なんと奥の扉が開いていた。


「えっ、嘘。まさか外に出ていっちゃったの?」


 慌てて走り出す紫織さん。

 サンルームは外に通じるドアが付いていて、紫織さんはそこから庭に出た。


 わたしも青司くんもその後をついていく。

 庭ではくだんの菫ちゃんが、森屋園芸さんと一緒にいた。

 にこにこと機嫌が良さそうに花を見つめている。


 紫織さんは仕事中の森屋さんに近づくと、深々と頭を下げた。


「あ、すみません、うちの子が。お仕事の邪魔を……」

「いや……」

「ほら、菫、戻るわよ。青司くんがブドウジュースくれるって」


 森屋さんは平気だと言うかのように首を振った。

 けれど紫織さんは菫ちゃんの手を引っ張って、強引に部屋に戻ろうとしている。


「……ん、んんん~~~!」


 菫ちゃんは全力で抵抗しはじめた。

 まだここにいたいのだろう。


「もう、言うこときいて! おじさんの邪魔をしたら悪いでしょう」

「いや~~~~!!! まだお花、見るぅ!!!」


 顔を赤くして紫織さんの手を振りほどこうとしている。

 そんな菫ちゃんの様子に、あの森屋さんが意外な行動をとった。


「待て」

「え?」

「いたいなら、まだいさせてやれ」


 引っ張るのをやめて、紫織さんが森屋さんを見る。


「で、でも……ご迷惑に……」

「俺は大丈夫だ。だから、その子の気が済むまでいさせてやってくれ」

「そ、そうですか……? じゃあ……」


 ちらりと、紫織さんがこちらを見る。

 わたしと青司くんはそろって大丈夫と頷いてみせた。


「森屋さんがそう言ってくれるなんて、すごく珍しいことですよ。でも……そういうことですから遠慮なくお言葉に甘えときましょう」

「そうですよ紫織さん。森屋さんなら、きっと大丈夫です。たぶん」


 そう。

 だって森屋さんは、ずーっと桃花先生ひとすじだったんだから。

 ひとりの人を大切に思い続けられる人だから。


 だから、大丈夫。

 子ども好き……かどうかまでは知らないけれど、でもなんとなくこの二人は相性が良さそうだと感じた。


 菫ちゃんはさっきから花にしか興味がないようだし、森屋さんは森屋さんで何かをしながらもいつも視界の隅に菫ちゃんの姿を入れている。


「じゃあ……よろしくお願いします。菫、飽きたらすぐ戻ってくるのよ」

「……」


 菫ちゃんはもうお花に意識が向いてしまっているのか、お母さんの言葉が耳に入らないようだった。

 呆れた様子で紫織さんがため息を吐く。

 頼まれた森屋さんは軽く頷き、また作業に戻っていった。

 その背中に、青司くんが声をかける。


「あ、森屋さん」


 森屋さんははたと動きを止めた。

 どうやら今日は仕事中でも補聴器を着けていたようだ。


「今日も、良かったらこっちに休憩にいらしてください。またケーキを作ったので。できあがりにはあと三十分はかかるんですけど、その後だったらいつでも大丈夫です」

「……わかった」


 青司くんは、ぶっきらぼうでもそう答えてくれた森屋さんににっこりとほほ笑んだ。


 わたしたち三人はまた店の中に戻り、カウンター席につく。

 そして今度は、紫織さんの身の上話を聞くことになったのだった。
 二杯目の紅茶を淹れ直しながら、青司くんが口を開く。


「そういえば、旦那さんからは連絡はきましたか?」

「いいえ、まったく。メールも電話も何もないわ。ほんとに、こんな風に家出されても変わらないなんて……どうかしてるわ」


 憤慨しながら、紫織さんはまた熱い紅茶を飲む。

 わたしはそんな紫織さんに質問した。


「あの……紫織さんと旦那さんは、なんで喧嘩したんですか? あ、いえ、差し支えなければなんですけど……良かったら教えてもらえませんか」

「ああ、真白ちゃんにはまだ言ってなかったわね。理由は……あの子よ」

「あの子? 菫(すみれ)ちゃんですか?」

「ええ」


 遠くを見つめるような目つきで、紫織さんは語る。


「あの子、いわゆる発達障害なの。普通の子よりも言葉が遅くて、他人の考えにあまり興味を持てないみたい。だから、コミュニケーションがとても難しいの」

「発達障害……」


 それは、近年よく聞かれるようになった障害の名だ。

 たしか生まれつきの脳の特性の違いによって、健常者との考え方にズレがあるとかなんとか……だった気がする。大人になっても、社会生活が困難な人が多いらしい。


「私はあの子のために、早くからいろいろな支援を受けさせようとしているの。だけど……私の両親も主人の両親も、そんなわけない、菫が障害者なわけがないって頭から否定してくるのよ。主人も、最初は理解してくれてたのに……最近はだんだん親たちの意見に染まってきちゃって」

「そう、だったんですか……」


 自分の身内が障害者だったと知らされて、ショックを受けない人はいないだろう。

 でも、否定したってその事実は変わらない。

 問題を解決するどころか、さらに悪い方向へ行ってしまいそうな気がする。


 そんな祖父母たちの態度を、諌めようともしない旦那さん。

 それは、とても辛いことだろうと思う。


 紫織さんは菫ちゃんを一番に思って行動してるのに。

 旦那さんは……親たちの方を優先して行動しているんだろうか。


「さすがに我慢の限界が来て、もう知らないって、出てきちゃった。行き先を告げずに来たから、ここにいることをきっとあの人は知らないわ。でもそれっきり。さっきも言ったけど、心配すらされてないみたい。ほんと……あんまりよね」

「これから、どうするんですか?」

「そうね、しばらく距離を置いて……っていうか、私たちがいなくなったことであの人が目を覚ましてくれればって思ってたんだけど、どうやら難しそうね」

「そんな……。ご家族に、どうにか理解してもらう方法はないんですか」
 否定するだけなんてひどすぎる。

 家族だったら、理解して支え合わなきゃいけないのに。

 その反対のことをするなんて。


「あ……」


 そう思った所で、気が付いてしまった。


 それはわたしも同じだった、って……。

 わたしは、今の青司くんを否定してしまっている。昔と変わってしまった青司くんを、まだ受け入れられないでいる。

 同じだ……。


 そう思ったら、紫織さんにこれ以上何を言っていいかわからなくなった。


「どうしたの、真白ちゃん」

「い、いえ……」


 わたしは……ちゃんとできているのだろうか?
 青司くんに対して。
 良き隣人として。


 幼馴染だったら、好きな人だったら、否定なんかしてないでちゃんと支えようとしなきゃいけないんじゃないの?

 いつまでも、昔のことを引きずってないで。

 今の青司くんを早く、受け入れなきゃいけないんじゃないの?


 でも、こういうのって人によるはず。

 すぐに受け入れられる人もいれば、ものすごく時間がかかる人もいる。

 頭ではどんなにわかってても、無理して相手に合わせようとすれば自分がひどいダメージを負ってしまうことだってある。


 今のわたしが、そうであるように。

 きっと旦那さんも、その他のご家族も……その受け入れる時期がまだ来てないだけなんじゃないだろうか。


「あの。たぶん、なんですけど……」

「ん?」

「たぶん皆さんも……怖い、んだと思います」

「え、怖い?」

「はい。旦那さんも、それぞれの御両親も……その……菫ちゃんの発達障害がどんなものかっていうのがまだよくわかってないんじゃないですか? だから、怖くなっちゃったんじゃないでしょうか。未知のものを人は恐れます。だからきっとご家族は……その恐怖からただ逃げたかっただけなんだと思います」

「あ……」


 紫織さんはハッとしたようにわたしを見る。

 次いで、窓の外の菫ちゃんを振り返った。


「そっか。それは……そうかもしれないわね。私は初めから否定されるばっかりで……きちんと周りに説明する機会が得られなかった。だから、ずっとわかってもらえないままで、不安な状態にさせつづけてしまったんだわ。主人も主人で、親たちよりは理解できてると思ってたんだけど、本心は違ったのかもね。あの子の将来はいったいどうなってしまうんだろうとか……そういう心配をしていたのかも」

「紫織さん……」


 紫織さんは先ほどからティースプーンをカップの中に入れて、くるくるとかきまぜ続けている。

 きっとわたしの言った内容を吟味しているのだろう。
 ふと気が付くと、青司くんがわたしをじっと見つめていた。

 さっきの「怖い」という言葉で気付かれたかもしれない。

 わたしが、自分の状況を紫織さんたちのことに重ね合わせてる、って――。


 青司くんは自分の分の紅茶を淹れると、こちらを向いて言った。


「真白、じゃあその恐怖をなくすには……いったいどうしたらいいと思う?」

「……」


 わたしは少し考えたあと、きちんと青司くんの目を見て言った。


「それには……怖いと思う対象をもっとよく知る、しかないと思う。知ればたいていのものは怖くなくなるはず。だから紫織さんももう一度、ご家族にイチから障害のことを説明……したらいいのかも」


 紫織さんはわたしの言葉に大きくうなづいた。


「そうね。私、もう一度ちゃんと向き合ってみるわ。一度は逃げ出してしまったけれど……もう逃げない。菫のためにきちんと理解してもらえるよう、頑張るわ」


 にっこりと笑って、わたしたちにそう誓う。

 紫織さんは本当に真面目で、努力家だ。わたしはそんな彼女を素直に尊敬した。


 きっと、青司くんが憧れたのもこういうところだったんだと思う。

 ダメなことはダメってすっぱり諦める決断の速さだったり、目標に向かってまっすぐ突き進む意志の強さだったり。

 こんな素敵な人を大事にしないなんて、本当に旦那さんはもったいないことをしている。

 菫ちゃんのためにも、早くこの夫婦には仲直りしてほしいと思った。


 そうこうしていると、突如店のドアが開く。

 現れたのは背の高い眼鏡の男性だった。


「紫織! 菫!」


 突然、その名を男性が叫んだので、紫織さんは弾かれたように席を立った。


「あ、あなた!? どうしてここに……。てか私たちのこと心配してなかったんじゃ……」

「バカッ、そんなわけないだろう! 今まであちこち探し回って、ようやく……紫織のおばあさんにここにいるって訊いて、それで飛んできたんだ」

「だって連絡……。し、仕事は……?」

「そんなのお前たちの方が大事だ! 菫は?」

「そ、外で遊んでるけど……」

「はあ~~~」


 旦那さんらしき人は長いため息を吐くと床にしゃがみこんだ。
「ほんと、どれだけ心配したと思ってるんだ! 急に書置きだけ残していなくなるなんて。たしかに、最近親たちがいろいろ言ってきてうるさかった。けど、菫の件は俺たちだけでどうにかしていこうってそう話してたじゃないか」

「そ、そうだけど……あなた最近、全然菫の支援のこと考えてくれてなかったじゃない。そう思ってるんなら、もっと協力してよ!」

「……」


 旦那さんは周囲をちらと見回すと、青司くんとわたしに軽く頭を下げてきた。


「すみません。その……お騒がせして」

「あ、いえ。いいんですよ。紫織さんとはお互い昔馴染みなんで」

「そうですか。でも、こんなことむやみに人に聞かせるお話じゃないですよね。お恥ずかしい」

「……」


 旦那さんの弁に、紫織さんはムッとして言った。


「お恥ずかしい? だったらこんなこと私にさせないで。周囲に理解されないからって、最初から諦めてきすぎだったわ、私たち……。さっき、ようやくわかったの。一回ダメでも、何度でもあきらめずに挑戦するべきだったって。ねえ、もう一度、それぞれの親にちゃんとした説明をしない?」


 旦那さんは眉根を寄せながら、それはとても難しいこと、だから諦めた方が早いということを訴えた。

 それでも、紫織さんはなかなか引き下がらない。

 言い合いが十分ほど経ったその頃。


 ようやく娘の菫ちゃんが戻ってきた。

 仕事がひと段落したらしい森屋さんとともに、サンルームの方から出てくる。


「あ、お父さ……?」


 父親の存在に気が付いたのか、そうつぶやくとすぐに菫ちゃんは森屋さんの後ろに隠れてしまった。

 紫織さんの旦那さんは、ガーンとわかりやすくショックを受けている。


「あ、ああぁ……菫……」

「菫~、どうする? もうお父さんが私たちを連れ戻しに来たみたいだけど、もう帰る?」

「……う、ううう~~~っ!」



 菫ちゃんは森屋さんの後ろで、ぶんぶんと首を真横に振っていた。

 顔がどんどん赤くなっていって、今にも泣きだしそうな表情になる。 

 場は、しばらくそのままのこう着状態となった。


「えーと……みなさん、一旦休憩しませんか?」


 そこに、低く穏やかな青司くんの声が通る。


「あ、ええと……」

「……」


 戸惑う旦那さんに、しぶしぶうなづく紫織さん。


「じゃ、じゃあ、そちらのテーブル席にどうぞ!」


 わたしは席を立って、うろたえている一同をフロアのテーブル席へとご案内した。

 こういうのは普段やってることだからだろうか。

 ウェイトレスとして、ついつい体が動いてしまう。


 カウンターに一番近いテーブルには、森屋さんと菫ちゃん、紫織さん、そして紫織さんの旦那さんの四名が、ちょうど顔を突き合わせるかたちで着席した。


 青司くんを見ると、ちょうど彼もわたしの方を見ていて「よくやった」とばかりににっこりしている。

 わたしは無言になりながら、またカウンター席に戻った。


 青司くんはすぐに冷蔵庫を開ける。

 先ほどのムースケーキを取り出して、お湯で温めた包丁で綺麗に八等分に切り分けていく。


 今日はお客さんがたくさんだった。

 青司くんがこの家に帰ってきてから過去最多の人数だ。

 わたしも青司くんも、たぶんこのとき同じくらいワクワクしていた。



「はい。まずはこれが真白の分」


 わたしの目の前に、とん、と紫色のムースケーキがひとつ置かれる。

 続いて同じケーキが四つ載ったお盆と、セットの飲み物が四つ乗ったお盆がカウンターに置かれた。


「真白。そっち、ケーキの方、手伝ってくれる?」

「うん」

 わたしは嬉しくなった。

 今度は青司くんの方から、ちゃんと仕事を振ってくれたからだ。

 どうせやるなら自発的にじゃなく、やっぱり青司くんに必要とされてから動きたい。


 わたしはケーキの乗ったお盆を持ち、青司くんと共に意気揚々とみんなの待つテーブル席へと歩いていった。
「お待たせいたしました」


 わたしと青司くんは、テーブルにブドウのムースケーキとぶどうのジュースを並べた。

 席の右側には紫織さんと娘の菫すみれちゃん、左側には紫織さんの旦那さんと森屋さんが座っている。


「うわあ、綺麗~。ね、菫(すみれ)?」

「……」


 ケーキの美しさに感動した紫織さんが、そう菫ちゃんに声をかける。

 しかし菫ちゃんはじっとケーキの一点を見つめたまま、動かなくなってしまった。


 ムースケーキは、一番下が砕かれたクッキーでできた生地、その上が薄紫色のぶどうのムース生地、そして一番上が生のブドウの上に濃い紫色のゼリーがかけられた層、と三層構造になっている。

 青司くんは、みんなが料理をじっくりと見終えた頃に話しだした。


「本日は、旬ではありませんが、ぶどうのムースケーキを作ってみました。たしか紫織さんはぶどうが一番お好きでしたよね?」

「ええ、そうよ……。よく憶えててくれたわね。さっきこのケーキ見た時、やったーって内心思ったわ。ありがとう、青司くん」


 そう言って紫織さんは嬉しそうに微笑む。


 ああ、やっぱり。

 そういうことも憶えてるんだ。

 青司くんは紫織さんのことを「憧れてただけ」って言ったけど……でも、やっぱり好きは好きだったんだ。だから、彼女の好物だってこうして今でも憶えている。


 少し、胸がちくりとした。

 わかってる。わたしはそんな青司くんを、ずっと好きだったんだから。

 ずっとずっと、そんな青司くんを見てきたんだから――。


 ふと紫織さんの旦那さんを見ると、この人もなんだか複雑そうな顔をしていた。


 昔馴染みとはいえ、こんな親しげにしている二人を見たら不安にもなるだろう。

 今は喧嘩中だから、よりこういうことに敏感になってるのかもしれない。


「俺も、果物は好きだ」

「森屋さん」


 森屋さんが突然ぼそっとつぶやく。

 そうだ。この人は、桃花先生の作ったフルーツタルトが好きだった。
 だから当然、このぶどうのムースケーキも好きだろう。

 というか果物が乗っているケーキならなんでも好きなんじゃないか?


 彼は早く食べたい、というようにフォークを手にしていた。


「あ、ではどうぞ。お召し上がりください」


 青司くんがあわてて促す。

 いただきますという声がぱらぱらと上がり、食事がはじまった。