川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます




「トマトジュースでもいいんだけど、こっちの方がトマト以外も入っていて奥深い味になるんだってさ」


 そうなんだ、とわたしはその話を感心しながら聴く。

 ぐつぐつとフライパンの中身が沸騰している。青司くんは丹念にそれらを木べらでかき混ぜていく。


「あとは水分がもう少し飛んだら終わりかな」


 しばらくしてコンロの火が止められ、青司くんは手を軽く流しで洗うとわたしたちにもう一度向き直った。


「お待たせ。じゃあ、ちゃんと話すね」

「うん……」

「おう」


 わたしと黄太郎も、居住まいを正して青司くんを見る。


 周囲には美味しいカレーのにおいが充満していて、「早く食べたい!」とつい思いそうになってしまう。

 でも、わたしはきちんと青司くんの話に耳を傾けた。


「結論から言うと、『俺は強くなりたかった』」

「は?」

「え?」


 突然意外過ぎる言葉が飛び出したので、わたしも黄太郎も唖然としてしまった。

 でも、青司くんはあいかわらずほわっとした笑顔を浮かべたまま、両の掌をこっちに向けてくる。


「待って。そう言うのにはちゃんと理由があるから」

「あ……そう、わかった」

「……続けろ」


 わたしはびっくりしつつも受け入れ、黄太郎も憮然としたまま話の続きを聴くことになった。


「ええと……まず、十年前っていうか……もっと前、ここに越してきてからの話になるんだけど……俺はずっと、母さんを守っていけるような男になりたいって思ってたんだ」


 それは青司くんの御両親が離婚して、この加輪辺(かわべ)町に引っ越してきてからの話になる。

 今から二十年以上も前のことだ。


「母さんは少し体が弱くて、それでも俺をひとりで育てていかなくちゃならなくて……。それなのに、俺は何にもできなくて、絵を描くことしか取り柄が無かった。だから、早く一人前の画家になりたいって思ってた。必死に周りの、俺より上手い人から技術を盗んで。描いて描いて……早く母さんを守れるくらいの強い大人になりたいって思ってた」


 ああ。そうか。

 だから青司くんはずっと……そういう目で紫織さんを見てきたんだ。

 青司くんが言った通り、それはたしかに恋愛感情じゃない。画家として追いつきたくて、それで目で追ってたんだ。


 それを、わたしは……。
「毎日、焦りがあった。なんでこんなに努力しているのに、早く上手くならないんだろうって。早く成長しないんだろうって。大人になるにはまだ何年もある。早く働いて稼いで、母さんに楽をさせたいのに、なんでだって毎日焦ってた。でも……そんな俺にも唯一癒される存在があった。それが……きみだ、真白」


 まっすぐ青司くんがわたしを見つめる。

 瞬間。わたしは金縛りにあったみたいに、体の動きも、呼吸も、止まってしまった。


 唯一癒される存在?

 それが……わたし?


「真白、きみが描く絵はとても自由だった。俺みたいに必死さがどこにもない、自由でのびのびとした絵……。きみは、人の顔や空をよく描いていた。俺はその絵に心奪われた。俺の焦る生活を一瞬でも忘れさせてくれるその絵が、なによりの癒しだった……」

「そんな風に、思ってくれてたの? 初めて知った……」


 わたしは愕然とした。

 当時そんな風に思われていたなんて、まるで知らなかった。


 どちらかというと青司くんからはあまり関心をもたれてなかったと思う。

 わたしから話しかけることはあったけど、向こうからは積極的に話しかけられなかったのだ。

 いつも話すのはみんなといるとき。

 みんなといるときは普通に会話できるけど、なんなら「可愛い」とかってからかわれたりもしてたけど、みんながいなくなるととたんに無視というか距離を取られていた。


 だから、とても今驚いている。


「俺は……次第に真白の絵だけじゃなく、真白自身にも興味を持つようになった。楽しそうに絵を描く真白、母さんの料理をおいしそうに食べる真白、どんなときも俺にはその笑顔がまぶしく映った。真白とできるだけ一緒にいたいって思った。でも……反対にのめりこんじゃダメだって、強く思うようにもなった」

「……」


 横で黄太郎が神妙な顔をしている。

 なに、どういうこと?

 とっても嬉しい言葉を聞いているはずなのに、どうしてわたし以外のふたりはこんな辛そうな顔をしているの?


「やっぱな、そんな気はしてたよ」


 黄太郎がそう言って、頬杖をつく。


「お前の真白に対する思いは、当時から並々ならぬもんがあるとは思ってた。どんなに隠そうとしていてもな、俺にだけはわかってたよ。でも……お前は結局なんにもしようとしなかった、ただのヘタレだ」

「そうだ。ただのヘタレだったよ。それは……ずっとそうだった」


 どういうこと?

 黄太郎だけが青司くんのわたしへのわかりにくい好意に気が付いていた、ってこと?

 でも、ヘタレって……。

 どうして。どうしてそうなっちゃったの?
「だって、母さんすら守れていないのに……まだなんにも成長できていないのに……真白のことだって幸せになんかできっこないって、そう思ってたんだ。だから一人前になるまでは……知らないふりをしていようって思ってた。俺の真白に対する思いも、真白の俺に対する思いも……全部、気付かないふりをしてた……」


 黄太郎がそれを聞いて、わたしをじっと見つめてくる。


「今度はお前に訊いてやろうか、真白。今の話を聞いてどう思った? それは、長い間お前を傷つけていた正当な理由になるか? 俺がフラれる原因になった理由としても、すんなり納得できるものかよ?」

「それは……」


 わたしは自分自身のことも、黄太郎のことも考えて慎重に言葉を選んだ。


「ずっとそんな思いを青司くんが抱えていたなんて……わたしは知らなかったから……。なんにも知らないまま、ただのほほんと片思いし続けていただけだから……何とも言えないよ。でも、黄太郎は……黄太郎はそれを知ってて、なんでわたしに……。どうして教えてくれなかったの!?」

「言えるかよ……」


 吐き捨てるように言って、黄太郎はそっぽを向いた。


「俺だって、真白のことばかり考えてたんだ。好きなやつがいるやつを好きになった時点で、難しい戦いになることはわかってた。だから、青司が動かないでいることを、いつも助かったって思い続けてたんだよ……! 悪いか!」

「黄太郎……」


 青司くんが申し訳なさそうな顔をしてわたしと黄太郎を見ている。


「そういう状態が大人になるまで続くと思ってた。でも……母さんが急に死んでしまって……俺も引っ越さなくちゃならなくなって……。真白にこの気持ちを伝えようと思ったけど……でも、俺はまだやっぱり一人前じゃなくて……だから……伝えられなかった。ほんと、ヘタレだよ」


 そう言って、力なく笑う。


 黄太郎はまだ憮然としたままだ。

 こんな青司くんのことはまだ認められないという思いが態度にありありと出ている。


「俺は……母さんのことも、真白のことも、ちゃんと胸を張って幸せにできるような大人に……強い人間になりたかった。十年前はここでそれができなかった。でも、今は図らずも海外で一人前になって、またこの土地に戻ってくることができた。今度こそ、できなかったことをやりきるために……ここでやり直そうって思ってるんだ」

「青司くん……」

「今は、その強い人間に……。強くなれた、って言い切れんのかよ?」


 しみじみと聞き入っていたけれど、ふと黄太郎がそんな質問をする。

 青司くんはちょっと考えてから言った。


「うん。と、言いたいところだけど……。画家としてはスランプ中、喫茶店だってこれからオープンってところだしね、そうとは言い切れないかな? 店が成功するかもわからないし……両方いい軌道に乗れてから、あらためて告白しようと思ってた。でも……ダメだな。再会して一緒に過ごす時間が増えたら、真白がどんどん可愛くみえてきちゃって……」

「は?」


 ギロリと黄太郎の目つきが鋭さを増す。


「おいおい。まさかもう手を出したんじゃないだろうな?」

「……ええと」

「出したのか!?」

「……」


 一瞬バチッと青司くんと視線が合ってしまったが、わたしは思わず下を向いた。

 もうキスしてしまったとか言えない。

 付き合おうとも言われてないのに、なんか流れでそうなってしまったことを思い出す。


 青司くんは「さあ、そろそろ食べる準備しようかな」などと言って炊飯器からお皿にご飯を盛りはじめる。


「お前ら……」


 黄太郎が送ってくる視線が痛い。

 青司くん、お願いだからなんか反論して。わたしから説明することは不可能だよ。

 青司くんは三つ分のご飯の上にキーマカレーをかけると、スプーンなども用意しはじめた。


「はい。とりあえず、冷めちゃうから食べながら続きを聴いて」


 コト、コトッと、キーマカレーがそれぞれわたしと黄太郎の前に置かれる。

 それはとんでもなく美味しそうな香りを漂わせていた。
「さ、食べて食べて!」

「い、いただきます……」

「フンッ」


 青司くんに促されて、わたしと黄太郎はキーマカレーをさっそく一口すくう。


「……ん! 美味しい!」

「腹が減ってたからな。ちょうど良い……」


 ぶつくさ言いながらも、黄太郎はちゃっかりご飯部分をかっこんでいる。

 相当お腹が減っていたのだろう。

 怒るとお腹が減るし、逆にお腹が満たされれば怒りは治まる。

 これで少しは穏やかに話ができるといいんだけど……と思いながら青司くんを見ると、ちょうど野菜ジュースのパックを開けているところだった。


「あ、良かったらこれもどうぞ」


 そう言って、オレンジ色の液体が満たされたグラスが置かれる。


「ふ~。これがカレーの中に入ってるんだよね……言われないとちょっとわからないね」

「でしょ。でも美味しくなるんだ」

「青司、俺はどちらかというと水をもらいたいんだが」


 遠慮なくジュースを飲み干してから、黄太郎がそんなことを言う。


「はいはい。黄太郎、こっちもどうぞ」


 別のグラスに水が注がれ、それがまたわたしと黄太郎の前に置かれる。

 黄太郎はごくごくとそれを飲んだ。


「昔から辛いの苦手だよね。これ、女性も食べやすいようにってそんなに辛くしてないつもりなんだけど……」

「うるせえな。苦手なものは苦手なんだよ!」


 黄太郎は水を飲み干して二杯目の水を所望している。

 たしかにわたしも食べたけどそんなに辛くはなかった。でも、昔から黄太郎は辛いのが苦手だ。ちょっとでも辛いとすぐにひーひーしてしまう。

 舌が繊細というか、どんな食べ物も濃い味だと無理なようだ。


「カレーの部分が多いなら、わたしが食べてあげようか?」

「お、助かる」


 助け船を出すと、いきなり間に青司くんの手が伸びてきた。


「ん?」

「どうした青司」

「多いなら俺が引き受ける。真白が食べなくていいよ」


 そう言われて、わたしも黄太郎も一瞬ポカンとなる。

 え、これ、まさか……。
「ぷっ。あはははっ! おいおい、マジでどんだけ独占欲強いんだお前は。こんなの意識してんのお前だけだぞ」

「……」


 無言で黄太郎のお皿を引き上げた青司くんは、カレー部分を黙々と自分の皿に移し替えていく。


「真白と料理をシェア、なんて……間接キスにもなりゃしねえよ。あーもう、ほんとなんなんだお前は」


 呆れた様子でまたカレーの皿を受け取る黄太郎。

 今度は青司くんがぶすっとした表情になった。


「いいじゃないか。そんなこと言うとまたカレー戻すぞ、キタロウ」

「あっ」

「……」


 わたしはとっさに出たその呼び名に思わず声をあげてしまった。

 黄太郎もハッとして青司くんを見る。


「キタロウ……? お前、その呼び方やめろっつっただろ!」

「悪い。つい……」

「つい、じゃねーよ! てかカレーを俺に喰わせる時点で最初から嫌がらせだろ、コレ!」

「違う。これはほんとたまたま……っていうか最初からランチメニューの一品で考えてて……」

「却下だ却下! 俺もここに通うことを想定して、うどんとかにしろ!」

「うどん!? 定食屋じゃないんだぞ。喫茶店だぞ?」

「いいじゃねーか。喫茶店でうどん。俺は好きだぞ。特にきつねうどんがな。逆に珍しくて客がわんさと来るんじゃねーか?」

「いやあ、無いね」

「は?」

「無いよ。百歩譲ってBLTサンドとかだよ」

「じゃあもうそれでいい。そのサンドイッチを作れ。今から!」

「え、今から? 材料が無いよ」

「じゃあさっきのスーパー行って買ってこい。その間俺はここで久しぶりの真白と楽しくおしゃべりしてるからな」

「そんな……ふたりきりになんかさせるかよ。黙ってそのキーマカレーを食べてろ」

「フンッ、わーったよ。じゃあ辛いけど食べてやるよ。辛いけど……味だけはまずくないからな」

「はっ、そりゃあよかった」


 同時に、ふんっとお互いそっぽを向く。

 その言葉の掛け合いに、しばし唖然としていたわたしは、急におかしさがこみあげてきてくすくすと笑ってしまった。


「ふふふっ。あはははっ……! ほんと、二人ともあの頃みたい。いっつもこうやってふざけ合ってて……ああ、おかしい」


 笑いすぎて涙が出てくる。

 青司くんも黄太郎も、そんなわたしを見てなんだか急に気が抜けてしまったらしい。

 二人ともだんだん苦笑いをしはじめた。


「フフッ、青司よう。なんだかんだ言ったが……こうやって真白がいつも笑っててほしいんだ、俺は」

「うん。それは、俺もだな」

「青司。これからお前は真白と一緒にいる時間が多くなるだろうから言っておく。いつも、そういう風に笑わせてやっててくれ。絶対、泣かせたりしないでくれ」

「ああ。もう傷付けたり、悲しい思いはさせない。絶対に。約束する……」

「そうか」

「ああ」


 黄太郎は満足そうに笑うと、もう一度残りのカレーを食べはじめた。

 わたしも無言のままカレーを食べる。
 いろんなものが混じりあったカレーは、まるでわたしたちの心の中のようだった。

 辛いだけでなく、いろんなもののうまみや甘さが足されて、複雑な味になる。

 そうして、ひとつの料理として完成する。


 わたしたちもこうでありたい。

 いろんな思いが交錯しているけど、じっくりと話して、話し合って、わかり合っていけたらいいなと思ってる。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした!」


 わたしたちが食べ終わると、ちょうど青司くんも自分の分のカレーを食べ終えたところだった。

 青司くんはすでに、カウンターの向こう側からわたしの左隣の席に移動している。


「ねえ、青司くん」

「あ、そうだった。真白、どうだった? 試食した感想」


 わたしの本来の役割を思い出した青司くんが、急に訊いてきた。

 ちょうど今わたしもそれを伝えようと思ったところだったんだけど……ちょうどいい、話すことにする。


「うん。とっても美味しかったよ。黄太郎は辛がっていたけど、わたしは大丈夫だった。ゆで卵とか、卵を乗せるともうちょっとマイルドになるかもね。サラダとかはつけないの?」

「ああ、ゆでたまご。忘れてたなあ……。母さんも目玉焼きつけてくれてたし、せめてゆで卵は乗せようかな。サラダは……カレーの中にたくさん野菜が入ってるからいいかなと思ったんだけど。見栄えの問題?」

「そう」

「うん。そっか。少なくても箸休めになるし、やっぱりつけた方がいいね。わかった」


 そんな会話をしていると、黄太郎が背後からぼそっと話しかけてくる。


「真白、やっぱ働く気なんだな。ここで」

「……うん」


 振り返り、わたしはちゃんと黄太郎に向き直る。


「青司くんを手伝ってあげたいの。わたしも……もう立ち止まっていたくないんだ。前に、進みたいんだよ」

「そうか」

「……黄太郎」


 今度は青司くんの声が背中から聞こえてくる。

 大好きな、独特の落ち着く声。

 その響きがすぐ近くで聞こえると、わたしはどうにもどきどきしてしまう。


「俺は……もう一度ちゃんと真白に向き合うつもりだ。そして、強くなる。強い人間になって、真白も、ここに来たお客さんも、みんな幸せにできるような人間になる。黄太郎……。そんな俺を、見守っててくれないか」

「……」
 黄太郎は椅子から立ち上がると、フッと笑った。


「ああ。わかった。でも、もう一度真白を泣かせるようなことをしたら……今度こそ、その綺麗な顔がぐちゃぐちゃになるくらい殴ってやるからな。憶えとけよ」

「うん。そう、ならないようにする……」


 ははは、と若干引き気味で笑いながら、青司くんがそう答える。

 黄太郎はそのまますぐに店を出て行こうとした。


「あ、黄太郎。帰るの?」

「ああ……」


 呼びとめると、黄太郎は玄関横の桃花先生の肖像画の前で立ち止まる。


「お、送ってくよ。車で連れてきたし……」

「それはいい。歩いて帰る」


 青司くんも慌てて立ち上がるが、黄太郎はにべもなく断った。

 そして、大きく息を吐くと、


「青司。真白だけじゃなく、この店に来た客も幸せにしたい、って言ったな」

「あ、うん……」

「桃花先生みたいにか」

「そう……だね」

「そうか。なら、それができるようになるといいな」

「……黄太郎」


 わたしは思わずそうつぶやいた。

 あの黄太郎が、青司くんにそんなことを言ってるなんて。

 背中を向けたままの黄太郎は今どんな表情をしているかわからない。でも、わたしはありがたいと思った。そして、こんな素晴らしい人が元カレで、そして今は友でいて良かったと思った。


「じゃあな」


 そう言って、黄太郎は去って行った。

 残されたわたしたちは何気なく見つめ合う。


「真白……」


 青司くんの真剣な瞳を見つめる。


 先ほど言っていた言葉。

 強くなって幸せにしたいという言葉を思い出す。


「さっき黄太郎に……言った通りだ。俺は真白と、ここでもう一度やり直したい。真白も、その間俺をもう一度知っていってほしい。そして……この町でうまくやっていけるようになったら……その……」


 じっと熱く見つめ続けられると、どきどきして倒れそうになる。

 だめ、だめだ。

 これ以上こうしてたら、またキス……されたくなっちゃう。


「ただいまー! ってあれ?」


 その時、紫織さんと学さん、菫ちゃんの親子が戻ってきた。

 わたしたちはあわてて居住まいを正す。


「あれあれ~? お邪魔だったかしら~?」

「な、なにがですか?」


 紫織さんは意地悪そうな微笑みを浮かべてわたしに近寄ってくる。

 旦那さんの学さんはすいませんと申し訳なさそうな笑みを浮かべて、菫ちゃんの目を両手で覆っていた。

 わたしは恥ずかしくて死にたくなった。


「そんな隠さなくたっていーわよ」

「な、なにも、隠してないです!」

「え~? 別に~? かまわないけど~。でも菫の前ではあんまりそういうことやめてよね」

「だから、なにもないですって!」


 青司くんはと振り返ってみると、いつの間にか空気と化していて、わたしたちの使い終わった食器を洗っていた。

 ほんとこういう要領のいいところ、すごく青司くんらしいと思う。


 その後、菫ちゃんがテーブル席でお絵かきしたり、かつての昔話に花を咲かせたりした。

 このときも、外から店の中を覗いていた人がいたようなのだが、そのことにわたしはまったく気が付いていなかった。
 それから数日が経った。

 相変わらずわたしの勤めているレストランには新人が入らない。

 新しい人を入れてくれないといつまでたっても辞められないし、辞められないといつまでたっても青司くんのお店を手伝えない。

 焦りばかりがつのっていった。


 わたしはレストランに出勤する一方、朝と夕方だけは青司くんの喫茶店を手伝っていた。

 試食をしたり一緒に料理を作ったりと、その時間は楽しい。

 でも、この日の朝は少し違っていた。


「真白、ちょっとこれ見て」

「ん? なあに」


 青司くんがそう言って納戸から持ってきたのは、たくさんの水彩画だった。

 今まで作ったスイーツやドリンクなどが描かれている。

 いつのまに。


「うわあ……。すごい、これ全部描いたの?」

「うん。メニューもだいぶ出揃ってきたからね。結構描きためられたよ。どうかな?」

「うん! 良い! すごく良いと思う」

「そっか。じゃあさっそくこれ、紫織さんのデザイン会社に頼んで製本してもらうね」

「うん。そう、だね……」


 わたしはそうつぶやいたきり、テーブルの上に広げられた水彩画たちから目がそらせなくなってしまった。

 美しい彩色。精密な描写。

 ここまでモチーフの良さを引き出しているのに感心する。さすがはプロだ。


 でも、そんな風に見入っているわたしに、青司くんは不安そうに声をかけてくる。


「真白……? どうかした? もしかして紫織さんのところにお願いするの、良くない?」

「あ。ううん。全然そんなことないよ。そうじゃなくって……。青司くん、スランプだって言ってたけど……これもうスランプじゃなくない?」

「え。いや……」


 そう言ったわたしに、青司くんはあまりいい顔をしなかった。


「これはさすがに自分の身近なものだから……どうにか描けたんだ。でも……お客さんから注文を受けたテーマとかは……まだ描けないと思う。自分が興味の持てないものには、なんていうか……筆が乗らないんだ」

「そうなの……」

「うん。描きたい、っていうモチベーションが上がらないんだ。ホント、これは深刻な問題だよ」


 そう言ってしゅんとうつむく。

 わたしはなんだか可哀想になってきた。

 青司くんはこんなに素晴らしい絵を描けるのに。その技術があるのに。それをうまく発揮できないなんて……。


「なんか、今までのわたしみたい」

「え?」

「わたしもずっと描けなかった、って言ったじゃない? 筆を持つことすら昔を思い出して辛かった、って。この間青司くんに促されて、ようやく久しぶりに描けたけどさ。でも全然……へたっぴだし、嫌になっちゃったよ」

「……」


 青司くんはハッとするとまた急に納戸に戻っていく。

 そしてとある絵を持ってきた。

 それは、わたしがこのあいだ描いた「青司くんの絵」だった。
「なっ! ちょ、ちょっと青司くん!? なんで今、それ持ってくるの……」

「いいじゃないか。俺、これ本当に嬉しかったんだ。描けなくなったって言ってたのに……真白がためらいながらも俺を、描いてくれたんだから。全然下手なんかじゃないよ。最高だよ」

「そんな……」


 恥ずかしくって、もう目の前の人の顔がまともに見られない。


「ホントやめて。青司くん、それ、まだ完成させてないし……あんまり見てほしくないんだけど……」


 わたしが顔を熱くしてなおもそう言うと、青司くんはハッとなった。


「あ。そうか」

「え?」

「いや、真白が……苦手だと思っていてもこうして『俺の絵』を描いてもらえたんなら……。俺だって、『真白の絵』を描こうとしたら……」

「せ、青司くん?」

「そうだ。『真白の絵』を描こう!」

「えええっ?」


 青司くんは拳をにぎりしめると、また納戸に行ってしまった。

 今度持ってきたのは、水彩紙のブロック、鉛筆、パレット、筆、水入れ、タオル、そして水彩絵の具などの画材一式だ。

 それらを、新聞紙をしいたテーブルの上に並べていく。


「そうだ。俺の興味の沸くモチーフなら……」


 そして筆をとると、息つく間もなくわたしの絵を描きはじめる。


「や、やめて……!」


 わたしは自分の顔がだんだんと紙の上に表現されてくると、無性に恥ずかしくなってきた。 

 耐えきれなくなって、ついに店を飛び出す。

 胸には自分の描いた「青司くんの肖像画」を抱えていた。だってこれをあそこに置いたままにはできない。


「わっ……!」


 玄関を開けるとすぐ外に業者の人がいた。

 危うくぶつかりそうになって頭を下げる。


「す、すみません!」

「え? ああ……おはようございます」


 たしか今日はケーキを冷蔵するショーケースが届く手筈になっていたはずだ。

 業者の人たちはびっくりした様子だったが、わたしはかまわず逃げ出した。


 絵を描くことに集中していた青司くんがようやく気付いたのか、背後から「真白!」と叫ぶ声がする。

 でも、たぶん追いかけてはこないだろう。

 業者の人に対応しなきゃならないからだ。


 ごめんね、青司くん。


 家に帰るとわたしは自室に駆け込み、もう一度自分の描いた絵をじっくりと見直した。


「全然、だめだ……」


 本気で描いてないってすぐわかる。

 デッサンも微妙に狂ってるし、なにより青司くんの良さが全く表現しきれていない。


「青司くんがわたしをちゃんと描こうとしたんだ……わたしも、それに応えられるようにしないと……」


 わたしは押入れを開けると、奥の方にしまっていた段ボールを引っ張り出した。

 そこには十年前に封印したものが全て放り込まれている。


「まずは下書きだけでもちゃんとやり直さないとね……」


 箱の中から鉛筆を探し出し、わたしは自分の机に向かう。

 記憶の中の、青司くんの姿を思い浮かべた。昔の青司くんではなく、今の青司くんを。

 そして、一心不乱に鉛筆を走らせた。