彼は、僕にこんな感じで話を切り出した。
「彼女は僕を好きでいてくれるし、僕も彼女を愛している」
彼には家庭がある。
その事実を、彼女には告げているという。裏切りが成立してからの恋。
これほど残酷な結末を二人以外に強いる関係ははない。僕は、不倫を否定するつもりはない。僕には出来ない、ただそれだけだ。
僕の持っている”物”で、約束できることは、
”裏切らないこと”
話すことに”嘘”を、入れないこと。聞かれていない事や聞かれたくないことは、そう答える。それが唯一、僕が、恋人や、好きな人たちに言っていて実行していること。だから、僕には不倫は出来ないと思っている。
彼は、奥さんとの仲が悪いという。だから、自分に好意を寄せてくれる女性に引かれた。それが好意に変わったのだと言う。もう、彼女なしでは居られないし、凄く大切に思っている。
僕は、彼に問いただす。
「奥さんと別れないの?」
彼は言う
「別れようとは思っている。でも、それは今じゃぁない。もう少したってからだ」
「なんで?もう、奥さんに気持ちがないんでしょ?それに、リスクを考えている?」
「リスク?」
「そう、奥さんから見たら浮気だよ。お互いに気持ちが無いのなら、弱みは君に有ることになるんだよ」
「わかっているよ。だから、時期を見て、別れようと思っている」
「ふ~ん。それは”別れない”と言っているように聞こえるよ」
「なんで? 別れようとも思っているし、彼女の事は真剣に愛して居るんだよ」
「奥さんと結婚した時も同じ気持ちだったんでしょ?」
「そうだけど、気持ちは変わる物だからね」
”気持ちは変わる”この言葉は、彼が口にしてはいけない台詞
「君が、今言った台詞を、彼女に言える?」
「言えるよ」
「言えるのなら、さっさと離婚の話をして、奥さんを傷つけないようにしないと、本当にリスクを追う事になるよ」
「だから、何がリスクなんだ?」
「彼女に、リスクが覆い被さるって事だよ。いいかい。君と奥さんは、既に心が冷め切っていて、”夫婦生活が成り立っていない”と、言っているけど、そんな事は、浮気の理由にはならない。奥さんが、浮気の実態を知った時に、どっちにしろ離婚する事になる。君は流されてラッキーくらいに思っているのかもしれない。それに、奥さんが、彼女を相手取って慰謝料の請求をする可能性もある。実際、過去に事例もあるし、この場合不倫だと解って付き合っていた、彼女側に不利益な判断が下される。全部解っているのか?」
「あぁそうだ。でも、妻は裁判なんて起こさないし、彼女に無茶な事を言ってこない」
「本当にそう思うかい?君が今やっていることを、奥さんがやっていたとしたらどう思う?君は、気持ちが冷め切っているから、すんなりと別れるかい?相手の男には文句の1つも言わないのだね。でも、奥さんには慰謝料の請求はするよね?君がしている事は、そう言う裏切り行為なんだよ。だから、2重に裏切っているって言って居るんだ」
「妻には悪い事をしているって認識は持っている」
「まぁ話を聞け。君の不倫。違うな、恋愛をとやかく言うつもりはまったくない。ただ、不幸になる女性が居るのが許せないだけなんだ。いいかい。奥さんが、離婚に踏み切るとして、慰謝料の支払いが間違いなく発生する。それも、浮気を行った君が全面的に悪い。例え、夫婦仲が冷め切っていたとしても、奥さんが裁判をおこして”自分は夫を愛していました”と、涙ながらに語ったら、どう思うだろうね。完全に非は君にある。この事実だけでも、奥さんが不幸になる」
「まぁそうだろう。その位の覚悟はしている」
「覚悟をしていると言うのなら、奥さんが気がつく前に、彼女の存在がはっきりとする前に、何故離婚しない。それは、彼女を裏切っている事にもなる」
「あぁ解っているよ。だから、離婚は考えている」
「”考えている”するかどうかは解らないって事だよね?」
「違う。違う」
「何が違うんだい?いいかい。本当に彼女の事を思っているのなら、彼女に我慢させるな。彼女が我慢しているのは、君の傲慢さから来ている。お互い我慢しているなんて思うな。この恋愛が成就した時には、彼女は足かせを持った状態からのスタートなんだからな」
「解っているよ。だから、彼女がしたいと思っている事。やりたいと思っている事。全部叶えるつもりでいる」
「違うよ。彼女が求めているのは、そう言うことじゃぁない。些細な幸せなんだよ」
僕と彼との話は平行線になる事は解っている。価値観が違うのだろう。
僕には、守るべき物が、自分が言った台詞だけで、それが嘘にならなければいい。そして、自分を必要と言ってくれている人たちを裏切らないで居ればいい。でも、彼には守るべき地位と守るべき気持ちが沢山ある。
多分、世間的には、彼の方が大人に見えるだろう。僕は、企業体に就職したがそこの水が合わなくて、企業体を転々と移っている。社会不適合舎なのだ。
彼は違う。大手とは言えないが、そこそこ大きな会社に勤めて、着実に地位を上げて大きなプロジェクトも任せられる位になっているし、小さいとはいえ郊外にマンションも買っている。成功者ではないが、いい人生を歩んでいる。
僕が許せないのは、彼女との結婚や旅行を口にするのなら、自分の足下をしっかり固めて欲しい。
僕は、彼女の事は彼を通してしか知らない。彼から話を聞いて作り上げた彼女の像がまったく間違っているのかもしれない。その事を考えても、確実に言えることがある。お互い愛し合っているのだと思う。でも、それは足かせがあった状態での愛情で、何もなくなってしまった時に、実は何も残っていなかったって事にならない事を祈るばかりだ。
そして、多分彼女が望んで居るであろう。些細な幸せが実現出来る事を祈っている。
その些細な幸せを得ることが難しくて、いろんな恋愛の話が産まれているのだと言う事に、彼はまだ気がついていない。不倫カップルが難しいのは、お互いの努力だけではどうにもならない壁が存在していて、それが些細な幸せを奪うのだ。
だから、幸せの形を手に入れた後に、どちらかが我慢したり、どちらかが抑圧されていると、壁が目の前に広がったときに、乗り越えることができなくなってしまう。
そんなカップルを沢山見てきた。
僕は、そんな経験から、裏切りだけはしないように・・・それがどんな形だとしても・・・。必然と偶然の長い狭間の間の出来事だとしても、もう誰も裏切りたくない。
///
彼女は、僕にこう切り出した。
「優しいの。私の方を愛していると言ってくれるの」
彼女は、この言葉を、何度も何度も、自分に言い聞かせるように僕につげる。
僕が聞きたいのは、彼女が感じている真実ではなくて、具体的な事実だけなのだ、この日、僕を入れて、彼と彼女と、3人で逢う約束になっていた。僕が、贔屓にしている、雰囲気がいい居酒屋で話をする事にしていた。この店は、オープン当時から使っているので、多少の無理も聞いて貰える。この店は、半個室な状態になっていて、普段は一番奥は開けておくのだが、少し無理を言って奥を使わせて貰うことにした。ここは、3人掛けになっていて話をするのに都合がいいとおもったからだ。
僕は、少し早めに店に着いた。彼から、遅れると言う連絡が入った。僕は、彼女の事を知らないので、ナビも出来ないし来ても判断が出来ない。彼に言って、僕の連絡先を彼女に伝えて貰って、先に来て貰う事にした。程なくして、彼女から新宿に着いたと言う連絡が入った。最寄り駅につたようなので、迎えに行くことにした。
彼女と出会い、簡単な自己紹介を行った。
彼女を伴って、エレベータに乗った。簡単に世間はなしをして、彼を待つことにした。
席について、オーダーを行った。飲み物が来て、軽く飲んでから、彼とのなれそめを聞いていた。
「それで、彼とは、どうやって知り合ったの?」
「聞いていないのですか?」
「別に敬語じゃぁなくていいよ」
「あっはい」
「それで、出会いは?」
「ネットです。出会い系じゃぁ無いのですけど、チャットで知り合ったのです」
「そうなんだぁ」
「それで?彼が、結婚している事ははじめから知っていたの?」
「ううん。最初は知らなかった」
「そうなんだぁ」
「何回かデートした後に気になって聞いたら、教えてくれたんです。でも、奥さんとの関係は冷え切っていて、もう関係ないから、気にしないでって言われた」
「そうなんだぁ」
もし、本当に気にしなくて良いのなら、電話もメールも自由に出来ると思うんだけどね。事実と真実が違っている。
「うん。凄く優しいし、エッチも上手いし、奥さんにはない魅力を感じているって言ってくれるし、私の方を愛してくれるって言ってくれるんです」
「そうみたいだね。君は彼の事が好きなんだよね」
「当たり前です」
「うんうん」
「それに、今は無理だけど、数年後には結婚しようねっと言ってくれるんですよ。私の事が好きじゃなきゃそんな事言ってくれないと思うんですよ」
彼から聞いている話と殆ど同じだ。彼女の中では、彼女が感じている真実だけが重くて、そこから導き出される事実には目を向けていない。彼女が、彼のことを好きな事はよくわかる。よくわかるだけに、事実に目を向けるのが怖くなっている。
僕は、凄く悩んでいた。真実だけを考えて、事実を見ようとしていない人に、事実を認識させるのは簡単な事ではない。彼の考えが許せないのであって、彼女にはなんの罪はない。彼女には、幸せになって欲しい。純粋にそう思える。
でも僕はあえて、彼女にも事実を突きつける。
お互いに、事実を認めた上で、答えを見つける事が出来ると思ったからだ。
彼女に聞いてみた
「ねぇ彼の職業は知っているよね?」
「うん。詳しくは知らないけど、IT関連の技術者なんでしょ」
「そうだね。不規則な時間の中で仕事をしているんだよね」
「そうなんですよね。彼もよく今日みたいに、急に仕事で遅れるって連絡が入るんですよね。それに、泊まりは無理だから、どんどん逢える時間が短くなっちゃうんですよ」
こんな話をしている時に、彼から連絡が入って、今ビルの下に居る。今からあがる・・・とのこと。
彼も合流して、注文を行う。乾杯を行って、本格的に話をする事にした。彼を真ん中にする形で、私と彼女が向き合う様に座った。
「ねぇ遅れた理由は、嘘でしょ? 仕事じゃぁなかったんでしょ?」
僕は、彼に告げる。
「いきなり何を根拠にそんな事を言うんだ」
「だって早すぎるよ。15分の遅刻だよ?彼女さん。いつも遅刻は1時間とかじゃぁないの?」
「えっそうですよ」
「・・・・」
やはりな。彼は嘘を付いている。
「そうだね。実際の所は違うかも知れないけど、誰かと電話していて、違うな電話がかかってきて、時間に間に合いそうになったのでしょ?もし本当に、会議が長引いていたのなら、会議中に連絡は出来ないだろう。僕の連絡先を彼女に教える事も出来なかっただろう。もし逆に会議が終わってからの彼女に連作先を教えたのなら、彼女を待たせておいて、一緒に来ればいいだけだからね」
「・・・・」
「ねぇそうなの?」
「そんな事ないよ」
「まぁいいかぁ話を本筋に持って行こう」
「・・・・」
「えぇ奥さんとは、もう冷め切って居るんだよね?私の方が好きなんだよね?結婚してくれるんだよね?」
「答えてあげたら」
「そうだよ。奴とはもう冷え切っているし、君の方が好きに決まっている。時期が来れば結婚したいと思っている」
「だよね。私も、貴方の事が好きなの?好きで好きで毎日でも逢いたいし、毎日声も聞きたいし、メールもしたい」
「俺もだよ」
「じゃぁなんでそうしないで、彼女に我慢を強いるの?君は、奥さんとは冷え切って居るんだよね?」
「あぁそうだよ」
「じゃぁ家で電話しても問題無いだろうし、彼女から急な電話やメールも問題ないんだよな?」
「・・・・」
「・・・・。それは、奥さんに気がつかれると大変だから・・・・」
「何が大変なの?冷え切って居るんだし、彼も彼女さんと逢いたいっておもっているんだし、声も聞きたいし、メールもやりたい。何か障害があるの?」
「だって、不倫だ・・・よ」
「彼女さん。それは違う。君にとっては、純粋な恋愛だ。君が我慢する事がおかしい」
「・・・・」
「君に聞いて居るんだよ。彼女に我慢を強いて、君は彼女に何を与えているの?」
「・・・・」
「彼は、優しいし、私の方を愛していると言ってくれる」
「おまえに何が解る!!」
彼は、立ち上がって、手に持っていた、コップを僕に投げつけてきた。
壁にコップがあたって、割れる音が店中に響く。彼女の顔が青くなる。僕の、頬に赤い一筋の水分が流れ出る。
店員が、慌てて、こちらに駆け寄ってくるのがわかる。
手で、制してから
「解らんよ。相手に、不安と我慢を強いる関係なんて、僕には出来ないからね。前にも言ったけど、君は裏切りから恋愛にはいっている事が解っているの?」
「裏切り?」
「そうだよ。事実から目を背けない。彼は奥さんを裏切って居るんだよ」
「・・・・そうだけど、もう冷め切って居るんだから、裏切りにはならないと思う」
「彼女さんは優しいね。でも、僕は、君に聞いて居るんだよ。答えてよ」
「しょうがないだろう・・・おまえも解るだろう」
「解らんよ。本当に、彼女さんの事が大切で、守るべき存在だと思っているのなら、態度で示せよ」
「示しているよ」
「そうですよ。私が逢いたいって我が儘を言えば、時間作ってくれるし、優しくしてくれる」
「違うよ。そんな事は、当たり前の事なんだよ。時間作る?はぁ大切な思いがあれば当たり前だろう?」
「お前に、お前なんかに、時間を作る難しさが解らないんだよ。家にも帰る必要があるんだからな」
「はぁお前今自分が言っている意味がわかっているのか?」
「・・・・」
話は平行線をたどり始める。
「彼女さんが思っている真実と、君が言っている真実が同じことはわかった。でも、事実は違うよ。本当に、冷め切っているのならささっと結論を出すべきだろうし、なぜそうしない?」
「それはどういう意味だ?」
「彼女さんの方が大切で、本当に好きなのが、彼女さんだって言うのなら、なぜ彼女さんに我慢させる」
「関係が冷え切っている奥さんに気を遣って、彼女さんに我慢を強いるのは何故だって聞いて居るんだ?こんな簡単な事を今更言わせるなよ」
「・・・・」
「何かいいたそうだね」
「我慢なんてしてないよ。彼も、凄く我慢してくれていて、私に逢いたいって言ってくれるし、帰りたくないけど・・・帰らなきゃならない・・・、彼も凄く凄く我慢してくれるし、私の我が儘を聞いてくれるんだよ」
それだけ言うと、彼女は下を向いて涙を落とし始めた。それ以上言っても何もならないのは解っている。
店員を呼んで、割れた破片を片付けてもらう。店長にチップを渡す。
消毒液が有ったようで貰って、簡単に消毒してから、絆創膏を貼る。破片は、それほど散らばっていない。そういうコップなのだろう。
彼だけに聞こえるように、ちょっと来てっと言って席を立った。
「ちょっとトイレ。君も付き合って」
彼女は、その声を聞いて慌てて涙をぬぐいながら、顔を上げて笑おうとした。僕は、それに気がつかないフリをして、彼の腕を掴んで、席を立った。カウンターに居た顔見知りの女性店員に目配せして、僕たちのボックスに行ってもらった。
「解っているな? 彼女さんには、これから僕が話を聞いて、知恵をつけるぞ」
「・・・・」
「それは、承諾の意思表示と取るからな」
「本当に、彼女を愛して居るんだ。邪魔しないで欲しい」
「邪魔なんてしないよ。彼女さんに、”事実”と”真実”の違うを教えるだけだ」
「今まで君が言ってきた真実が、事実と違っているのなら、早めに訂正でも謝罪でもするんだな」
「・・・・」
「彼女さんが、自分の真実と自分の幸せを考えて動けるようになって貰う。だから、邪魔もしなければ応援もしない。僕は、彼女さんの味方になる」
「・・・・」
///
彼は結論から逃げている。
縛りのある関係の方が長続きすると彼は言う。それは確かに正しいだろう、僕もそれは認める。好きと言う感情だけじゃぁどうにもならない現実が目の前に存在することもある。
どこまで『愛していると話を切り出しても』『好きだ大切にしている』と口にして、身体を合わせて、将来の事を語ったとしても、空虚でしかない事実が存在する。不倫と言う名前のカップルには、将来を語る時に現実・結論から目を背ける行為にしかならない。
男女の関係だから、実際にそれだけでは語れない物がある事は解っている。
傷ついた者でしか解らない現実や乗り越えてきた現実が解る人間でしか味わえないリスクへの恐怖。
彼女は、僕に頻繁に連絡してくるようになった。
知り合ったばかりの僕に、何故?
答えは簡単だった
「寂しいの」
「寂しい?」
「そう。彼と逢っている時には、彼からの愛情を感じるし、私も彼の事を愛している。でも、彼と別れた後に、彼は帰るべき場所へと帰っていく、信じているけど、信じられるけど、寂しい」
「そうなんだぁそれで、どうしたいの?」
「解らない。今のまま・・・じゃぁ寂しいけど、しょうがないんだよね」
「しょうがない?何で?」
「だって、メールも電話もあんまりしちゃぁダメだからね」
「彼からは、夫婦の間は冷め切っていて、彼女さんしか居ないって言っているよね?」
「うん。それは感じる事が出来る」
「それなら、それでいいんじゃぁないの?信じて居るんでしょ?」
「勿論信じているよ。お互いに愛し合っている。それに、私の気持ちも彼にぶつけたらしっかり答えてくれた」
「そうなんだぁでも、彼は離婚するとは言っていないんだよね?」
「・・・・うん。でもね。でもね。私と逢う時間も増やしてくれるし、メールも返してくれるんだよ」
「それじゃぁそれでいいんじゃぁないの?」
「うん。でも、不安なの?」
「何が不安なの?彼の事は信じて居るんでしょ?」
「信じているよ...でも・・・怖いの」
「それ以上を望んじゃって居るんだね」
「うん」
そうなんだ、愛し合っている。信じている。私の事を愛してくれる。そう言っても、不倫関係に違いはない。冷め切っていると言っていても、最後には彼は帰っていくのである。それが寂しい。その事実は紛れもない事実なのである。
彼女は多くの心配を持っている。
まだ彼女自身が時間に自由が効く立場にだ。これから時間と共に、自分にも世界が広がってくるし、やりたいと思っている仕事を任される事が有るだろう。その時に、彼との時間が取れなくなる。それは彼女自身の我が儘なのかもしれない。彼は、その時には、私を見つけたのと同じように、別の女の人を探すかもしれない。そんな不安を抱いてしまう。自分の気持ちは変わらない。でも、彼が将来の話をする時の、実現姓を考えてしまっている自分が居る事に気がついた。
最後には、彼からの言葉”愛している”」その言葉だけを信じているから大丈夫だと言い聞かせている
そんな話をした後に、彼から連絡が来た。
「少し聞きたい事がある」
「何か合ったの?」
「お前彼女に何か言ったのか?」
「少し話を聞いて上げただけだよ」
「そうかぁ」
「順序立てて説明しろよ」
「いや。お前が何も言っていないのならいいや」
「おい!そりゃぁないだろう」
「いいって言って居るんだ」
「そうか、そうか、それなら俺に連絡して来た事が解らんよ」
「・・・・・」
「だから、何があったんだ」
「・・・」
「だから、何かあったんだね」
「あぁ彼女が自殺を図った」
「はぁ何でそれを先に言わないんだ。彼女は大丈夫なんだろうな!」
「あぁ大丈夫だと・・・思う」
「お前・・・見舞いにも行っていないのか?」
「俺だって行きたいよ。でも、どの面下げて行けばいいんだよ!」
「お前、彼女を愛して居るんだろう?信じさせて居るんだろう?」
「あぁ」
「ここに来て、はっきりとさせないんだ!?」
「俺に何を言わせたい?」
「お前は簡単に言うよ。そうして、俺達の関係を否定するよな」
「否定していない。ただ、立場をはっきりさせろって言っていたんだ」
「はぁお前には解らないだろうなぁ俺だって苦しいんだ」
「あぁ解らないよ。好きだった子が自分が原因で自殺したり、目の前で友人が飛び降り自殺をしたり、信頼していた人に裏切られて多額借金を背負わされたり、ストーカー野郎に不倫だと勘違いされて刺されたりした程度の経験しかないからな!解るか?だから、リスクを考えろって言っていたんだ」
「・・・・」
「確かに、結婚している時には、幸福な時間を過ごせたよ。離婚したとはいえ元嫁とは、いい関係を保っているよ」
「・・・・」「・・・・」
「お前とは違うよ。俺は彼女を大切に思っているし、結婚してもいいと思っている」
「思っている。思っている。そうだな。お前は、思っていれば、なんでも叶えてくれるなにかを持っているか?思っているだけでなにもしていないからこうなったんだろう?」
「・・・・」
「お前は、結局彼女に将来の事は話すけど、将来への道を現実的な道を示せなかったんだ」
「・・・・」
「いいか、お前はどうしたいんだ?」
「まさか、10年後に結婚しようなんて考えていないだろうなぁ」
「・・・・」
「それは立派な事だと思うよ。俺には言えない台詞だからな」
「嫌みを言うなよ。何が言いたいんだ」
「解らないなら言ってやるよ。お前は、約束手形で彼女を縛って居るんだ。”愛している”だとか、”お前しか居ない”だとか、”自分たちには自分たちの関係がある”とか言っていないで、結論を出せよ」
「・・・・」
「お前、結婚を餌にしていないか?」
「そんな事はない。彼女の事は真剣に考えている」
「それなら、お前!」
「解っている。解っているけど・・・」
「なんだ、解っているのなら行動に移せばいいじゃぁいか」
「・・・・」
「あぁそうか怖いんだな」
「・・・・」
「彼女は、天秤に命を乗せたんだぞ。お前は、反対側に何を乗せるんだ。生半可な物じゃぁ釣り合わないぞ」
「・・・・」
---------------
それから、数日後、彼は離婚届と結婚届の両方をもらいに行って、両方に自分の名前を書き込んで判を押した。まだ提出はしていないようだが....これからの道のりは長いが、一歩目を踏み出した事には違いない。
彼は結論から逃げなかった。逃げる事は出来たのかもしれない。でも最後の一線で踏みとどまった。
僕の出現がこの結果を産んだ。彼女は傷つき。彼は僕を軽蔑したのかもしれない。そうして、彼の妻は知らなくていい事実を知ってしまった。
その罪を感じながら・・・僕を恨む人間が増えただけかもしれない。それはそれでいいのかもしれない。僕のエゴだと言う事も解っている。僕が感じた苦痛と苦渋をあじあう寸前で、落としどころが決まったのかもしれない。
まだ結論が出たわけでもない。
そして、数年・数十年後に、僕が行った事への罰が下るのかもしれない。
fin
僕が彼女を意識し始めたのは、何時だっただろうか?
彼女が、僕に向かって
「ちょっと家まで遠いけど送ってくれる?」
送った時に話した事がきっかけだったのだろうか?
彼女は、1つ年下の19歳になる大学生。話を聞いて初めて知ったのだが、僕と同じ大学の2つ下の学年になる。
僕と彼女の出会いは、バイト先が同じになったことがきっかけになる。
バイト先も同じだし、同じ大学に籍を置いている、話そうと思えば話せる関係にあるし、メールアドレス・電話番号も知っている。
同じ時間を共有する機会は多く存在している。
しかし、僕と彼女の距離は大きく離れている。離れている50kmが、短く感じてしまう位遠い場所に彼女は居る。
僕のこの気持ちを彼女に伝えることが出来ないでいる。この想いを気持ちを、僕の中に閉じ込めておくべきなのかもしれない。
僕は、彼女を近くに感じる、日々を過ごしていた。しかし、そんな日々に僕は満足していたのかもしれない。
想いを伝えることで彼女と時間を共有する権利を失うくらいなら・・・。
バイト先で、イベントが催されることになった。バイト先の関連会社が、新たにキャンプ場をオープンする。新装オープンを記念して、常連さんを交えてバーベキュー大会をやろうって事になった。勿論、店員やバイトに、全員参加が言い渡された。
大学でもそうだが、僕は貧乏くじを引いてしまう癖があるようだ。車を持っていて、1番の下っ端の僕が、買い出しを行って、設営の準備をやることになってしまった。
悪いことばかりではなかった。
彼女の迎えを、僕がやることになったのだ。彼女は一人だけ、遠いところに住んでいて、朝早くからの準備はキツいが、バイトの人数も少ないので、彼女自身も”朝から参加する”とのことだ。そこで、車を持っていて、朝から準備をする事になっている、僕が迎えに行くことになった。
これは嬉しい誤算だ。
大学から帰って来て、すぐに洗車場に行った。普段なら、簡単に洗うだけだったが、昨日は、お金をかけて、プロに中まで綺麗に清掃してもらった。彼女を乗せるのだ、当然のことだ。タバコを吸わないので、匂いは大丈夫だと思ったが、消臭効果が高い物を購入した。エアコンを使う季節ではないが、エアコンのフィルターの洗浄もお願いした。ガソリンは満タンにしてある。
陽が昇る前に、僕は、はやる気持ちを押さえてエンジンに火を入れた。
一秒でも早く彼女の下に行きたい。普段なら使わない高速を使って彼女が住んでいる街に急いだ。
予定の時間よりも大分早く着いてしまった。このまま訪問しては、彼女はまだ寝ているかもしれない。そして、どういう顔をして訪問したらいいのか解らない。誰も僕の想いを知らない。
不自然な態度よりも自然に接した方がいい事は解っているが、できるだろうか?
ここまで来て迎えに行かないわけには行かない。そんな事を車の中で考えている内に、約束の時間が近づいてきた。まずは、彼女に近くまで来ている事をメールで伝える。
【10分位で着きます】
それだけのメールを打つだけで、僕の心臓は信じられない位の速度で動いている。そして、8分30秒が過ぎた。
僕は、勇気を振り絞って彼女の住んでいる部屋に歩を進めた。
彼女の部屋は、2階だ。階段を上がって、彼女の部屋の前に着いた。彼女の部屋は前に、一度送っているので知っている。しかし、前と状況が違う。彼女は起きているのか?早い時間なのに、迷惑じゃないのか?着替えをしている最中だったら・・・。余計な事ばかり考えてしまう。
そして、僕の心臓が信じられない音を立てている。心臓の音がドアを通り越して、彼女に聞こえてしまわないか心配になるくらいだ。
僕は、彼女の部屋のベルを鳴らした。
(ピンポーン)
インターホンから、彼女の声が聞こえてきた。
「江端さん?」
「おはよう。江端です。約束より早いけど」
カメラがあるから、僕だってわかるはずだ。
僕はそう言ったつもりで答えたが、彼女に聞こえたかどうか不安になった。声が震えていたかもしれない。心臓の音が聞こえたかもしれない。それが彼女が気がついたかもしれない。
しかし彼女からの返事はあっけない物だ。
「うん。すぐ行くから、待っててね」
僕は安堵と共に、少し残念な気持ちになった。
「うん。下に車止めているから、車で待っているよ」
5分位して、助手席を叩く音がして、そちらを見たら彼女が笑って手を振っている。僕は、急いで助手席のドアを開けた。彼女が助手席に乗り込んで来た。
「お待たせ」
彼女は明るい笑顔で、僕にそう言ってくれた。凄く幸せな気持ちになることができた。
「じゃぁ行こうか」
彼女は、僕を促した。
会場に向かう道を、僕は海沿いの道を選んだ、この時間帯なら空いている。それが理由だが、早く行くのなら、高速を使えばいい。でも、僕はあえて、この道を選んだ。彼女とこの道をドライブしたかった。
彼女は、車の窓を開けながら・・・呟いた。
「気持ちいいね」
僕には確かにそう聞こえた、それが僕に言ったセリフなのか解らなかった、僕は返事ができないでいた。
彼女は、海を見ながらまた呟いた。
「朝日が照らされて綺麗だね」
僕は心の中で、(朝日も素敵だよ)そう思ったが、口に出す勇気は無かった。
楽しいドライブも終焉に近づいてきた。
左車線に入るために、ドアミラーを見ようと思った、後方を確認しようと思った時だった、意識しないつもりで居たが、彼女の姿が視界に入ってしまって、僕の視線は彼女に固定されてしまった。そのせいで、車が安定を失い左右に動いてしまった。
「大丈夫?どうしたの?」
彼女は不安そうに、僕に話しかけてきた。
「うん。ごめん、大丈夫だよ」
(君の姿が視界に入って、確認が出来なかった)
そんな事を言うことができない。
他愛も無い会話でさえも貴重に思える僕がいる。そして、その貴重な時間を今共有できていることに喜びを感じている。
もうすぐ待ち合わせ場所に着いてしまう。買い出しの時間はあるが、それは二人だけではない。
彼女と一緒に居る時間は、刻一刻と終焉と向かっている。
彼女はすぐ隣にいる。助手席までの距離 50cm 手を伸ばせば届く距離に居る。でも、50cm の物理的な距離よりも遠く感じる。彼女が、助手席に座っている。届く距離ではあるが、届く距離ではない。何もかもが遠く感じる。僕には、この距離を埋めることが出来ない。このままなら、何も変わらないことは解っている。
今の僕には、何も出来ない。このまま彼女の居ない平凡な日々を過ごすことは考えられない。しかし、僕には 50cm を埋める事が出来ない。
50cm などすぐに埋まる距離だ。
指示された場所に付いた。そこは、キャンプ場には見えなかった。それに、まだ誰も居なかった。
少し早かったのだろう。店長に電話してみたがつながらない。
「ごめん。早く着きすぎたみたい」
「いいよ。待っていよう」
助手席に座ったまま笑いかけてくれた。
彼女の携帯が鳴った。画面を確認している。僕からは見えない。見てはいけない。
「ちょっとごめん」
そう言って、彼女は車から降りて、少し離れた所で、電話に出るようだ。誰だろう?こんな時間に?彼氏?
彼女は、すごく”モテる”わけではないが、”モテない”わけではない。大学でも、可愛い方から数えても上位に来るのは間違いない。でも、彼氏が居るという話は聞いた事がなかった。
時計を確認すると、5分くらい経っただろうか。僕には、1時間にも2時間にも感じられた時間が過ぎて、彼女が戻ってきた。
何やら嬉しそうな雰囲気がある。やっぱり、彼氏だったのだろうか?彼女は、そのまま助手席に座った。
彼女が戻ってきて、何を話そうかと思っていたら、僕の携帯が鳴った。フロアマネージャーだ。
「おぉ江端。悪いな。少し遅れそうだ。貴子。居るだろう?」
「えぇもちろん迎えに行きましたからね」
「そうだったな。それじゃ悪いけど、二人で、荷物の受け取り頼むわ。お前の車ハッチバックだよな?」
「荷物?」
「貴子の指示に従ってくれ。なんか、常連さんが告白したいらしくてな。協力する事になってな。そのための物の受け取りを頼む」
「え?僕、そんな話し聞いていませんよ?」
「そうだったか?ワリぃ伝えたつもりで居たワ。買い出しとかは、俺がしておくから、頼むな」
「え?あっわかりました。朝日さん」
フロアマネージャーは、言いたいことを言って、電話を切った。かけ直しても、呼び出し音がなるだけで出てくれない。
「誰から?」
「あっフロアマネージャーから、それで、荷物の受け取りを頼まれたのだけど、朝日さんの指示に従えって言われたけど?」
「うん。大丈夫。それじゃ行きましょう」
「わかった」
僕は、彼女の指示通りに、車を走らせる。この辺りに住んでいないのに、土地勘が有るかのようなナビで、目的地には迷わずに付けたようだ。
「ここでいいの?」
「うん。ちょっと行ってくるから待っててね」
「うん」
そこは、有名な洋菓子屋だ。ここのケーキが好きでよく食べている。バイト先にも、何度か持っていったことがある。彼女は、中で店員となにか話している。時折、店員がこっちをみて笑っているように思える。彼女は、その都度うつむいて何かを言っているようだ。少し大きめの箱を彼女が持ってきた。
「うしろ。大丈夫?」
トランクルームも綺麗にしてよかった。
学校で使った物とか全部部屋に放り込んである。
甘い匂いがする?ケーキだろうか?滑り止めのシートをしておく。ずれないように、ネットで固定しておけばいいだろう。あとは、安全運転すればいい。
「疲れちゃった」
彼女は、手をプラプラしていた。
確かに、ケーキとはいえ、20cmを越えるような物だったから、重たかったかも知れない。それ以上に気を使ったのだろう。僕は、助手席の方に廻って、ドアを空けた。彼女は、嬉しそうにしてくれた。映画とかでよくあるシーンだ。彼女の荷物を一度僕が預かって、片手を出す。彼女は、解ってくれたようで、手を握ってくれた。手に心臓ができたかと思うくらいにドキドキして、彼女の熱が伝わって、手が熱くなる。
彼女に握られた手がまだ熱い。
「あっもう1ヶ所いい?」
「ん?いいよ?どこ?」
「バイトとか関係無いんだけど、知り合いの部屋なの?ダメかな?」
「いいよ。時間も余裕が有るだろうし、問題ないよ」
「ありがとう!」
誰だろう?知り合い?大学の?それとも、彼氏?
彼女のナビに従って、車を移動させた。少し大きめのマンションの前に付いた。彼女は、少し待っていて欲しいと言って、マンションの中に消えていった。どの部屋だろう?見ていてもわからない。やっぱり、彼氏なのかな?
僕的感覚で、3時間ほど経ってから彼女が戻ってきた。
大きいバッグを持ってきていた。荷物からは、男物の香水の匂いがする。やっぱり彼氏なのだろう・・・。
「もう。大丈夫だよ。行こう」
「ん」
「どうしたの?なにかあった?」
「ううん。なんでもないよ」
そういうのが精一杯だ。
彼女を乗せたまま、車を走らせる。
「そう言えば、江端さん。猫好きだったよね?」
「え?そうだけど?なんで?」
「ん。小耳に挟んだ」
「・・・フロアマネージャーが言っていたの?」
「そんな感じ」
「ふぅ~ん」
「どんな猫が好きなの?」
「うーん。どんなって聞かれると困るけど・・・暫く。猫は・・・」
「どうして?」
「うん。実家に住んでいた時に、狩っていたけど、今の所に引っ越してから、ペット禁止だからね」
「そうなの?」
「それに、僕・・・2年前に・・・」
「ん?」
「ううん。なんでもないよ。ペット禁止だし・・・ね。それに」
「それに?」
信号で車が止まった。
彼女の表情を見たくて、助手席の方を見て
「それに、好きだから、無責任な事はしたくない」
「え?あぁ猫の事だよね」
何を、そんなにびっくりするのだろう?彼女から振ってきた話なのに?
待ち合わせ場所に着いたが、誰も居ない。
彼女がなにか携帯を操作している。彼氏に連絡でもしているのだろうか?
僕の携帯が鳴った。また、フロアマネージャーだ。
「ごめん。フロアマネージャーから」
「うん。いいよ」
今度は、彼女に断ってから電話に出た。
彼女は、僕が電話に出た事を確認して、携帯を持って、車から降りた。彼氏に電話でもするのだろうか?彼女の事が気になって仕方がない。やはり、電話をしだした。彼氏と話しているのだろう。何か、慌てているし、手振り身振りをし始めた。正直、すごく可愛い。
「おい。江端!聞いているのか?」
「え?あっすみません。聞こえていませんでした」
「ウソつけ、貴子を見ていたのだろう?」
「え?え?」
「お前が、貴子に好意を寄せているのは、常連含めて全員知っているぞ?」
「は?」
「今日、お前以外には、待ち合わせ時間は2時間遅い時間になっている」
「えぇぇぇ??」
「貴子だけだろう?告白しろよ!」
「いやいや。なんで?はぁ?」
「いいな。フロアマネージャー命令な!貴子に、告白しろ!」
「いや、だって、彼女、彼氏が居るでしょ?」
「ハハハ。わからんぞ、江端。お前は、お前が思っている以上にいい男だぞ!根性出せよ!それじゃぁな。あぁ待ち合わせ場所も違うからな。本当の場所は・・・今は、内緒だな」
それで、電話が切れた。
え?常連さんへのサプライズのためのケーキを持っているから、待ち合わせ場所には行かなきゃならない。
え?は?なんで?
驚いて、車を降りてしまった。それから、何度電話しても、フロアマネージャーどころか、バイト仲間、連絡先を知っている常連さん。誰も出ない。まるで、僕と彼女だけしか居ないように思えてくる。
「ねぇどうしたの?」
彼女がいつの間にか、電話を終えて、僕の側に来ていた。
首をかしげて、途方に暮れる僕の顔を下からのぞき見ている。
「フロアマネージャーは、なんだって?」
言えるわけがない。
「ねぇ?」
くそぉ本当に可愛いな。
「もう、あれだけヒント出したのに?」
「え?」
「フロアマネージャーに何を言われたの?」
そういえばさっきの電話で、”常連含めて全員知っている”や”お前以外には”と、言っていた。
「うん。1分。いや、30秒・・・いや、10秒待って」
「わかった。後ろ向いているから、気持ちができたら、肩叩いてね」
彼女は、僕に背中を向けて、数を数え始めた。
彼女のカウントが3になった所で、僕は、彼女の肩を叩いた。初めて、自分から彼女に触った。
「うん。それで、なに?」
「うん。僕は、キミ。朝日貴子さんの事が好きです。彼氏が居るのも解っている。でも、好きな事だけでも伝えたい。迷惑かも知れないけど・・・僕と付き合ってください」
全部言えた。考えていた事とは違うけど、迷惑にしかならないだろうけど、やっと言えた。
「やっと、言ってくれたね」
「え?」
「克己さん。私、貴方の事を、2年前から知っていました」
「え?だって、バイトで・・・」
「うん。そうですね。克己さんが、バイト始めたのは、1年前ですよね。私がバイトに入ったのは、その少し後・・・だから、知り合って1年経っていない。ううん。正確には、今日で1年ですよ」
「え?」
「2年前の雨の日、克己さん。捨てられた子猫」
「あっ!」
「思い出してくれました?雨の日に、保健所に連れて行かれそうになっていた2匹の子猫を、保健所職員から奪って、自分がなんとかしますと言ったのを、動物病院に連れて行って、病気やノミのチェックを頼んで、有り金全部置いて、足りない分は、また持ってきますと言った事を、必死に里親を探したのを、見つかったのは、4日後ですよね?」
「え?なんで?」
「あれ、お兄ちゃん。あっ従兄弟なんですよ。さっき寄ってもらった部屋なのですけどね」
「え?」
「あぁちなみに、朝日健吾って名前です。聞き覚えは?」
「・・・・あっフロアマネージャー!」
「だから、さっきの荷物は、彼氏の物じゃ無いですよ」
そう言って、彼女はクスクスと笑った。
「え?なんで?どうして?」
「ねぇ克己さん。私の事好きなんですよね?」
「好きだよ」
「私の事、彼女にしてくれるのですよね?」
「うん」
「私の事、大事にしてくれますか?」
「もちろん」
「大好きな猫よりも?」
「もちろん・・・です」
「なんか怪しいなぁでも、嬉しい。私も、2年前から貴方の事が好きだった!」
彼女は、僕に抱きついてきた、僕も彼女を抱きしめた、あの時あった50cmの距離がなくなった瞬間だ。
そして、彼女のくちびるに触れるようなキスをした。
彼女の電話が鳴った。彼女が笑いながら、僕に携帯を渡してきた。
店長の声が聞こえてくる。
「おぉ江端。やっと言ったな!次のシフト覚悟しておけよ!」
「え?今日は?」
「はぁお前は・・・まぁだからなのだろうな。朝日さんの部屋に行け。バイトは今日は休みだ。朝日さんを幸せにしろよ。店長命令だ!」
「店長はなんて?」
「ねぇもしかして、全部、僕・・・はめられた?」
「イヤ?」
「ううん。すごく嬉しい!」
「それなら良かった。サプライズ成功だね。それから、さっきのケーキ。猫も食べられるケーキ何だよ。4人で食べようね!それから、私の部屋二部屋あって、一部屋空いていて、家賃高くて困っているのだけど、誰か、安心できる人で、私を一生大事にしてくれて、猫好きな人って知らない?」
「え?だって、親御さん」
「大丈夫。私のパパ。ママとは離婚しちゃっているけど、店長だよ。それで、店長命令は何だって?」
「ちょっとまって」
店長に電話する
「なんだ。江端!まだなにかあるのか?」
「朝日さんを一生大切にします。絶対に幸せにします」
それだけ言って電話を切った。
彼女が持ってきた、荷物は、ペットシートや餌や猫砂だった。
それから、僕は、大学から離れた場所から通っている。二人で!
そして、二人の荷物で重なっていらない物を捨てた。
可愛い猫二匹と、可愛い彼女と、新しい生活を始めるために・・・僕は、彼女への気持ちを隠す気持ちを捨てた。
「ねぇなんで、私よりも、コウとハタに先にキスするの?」
彼女を抱きしめて、深いキスをする。
そして、今日、お互いのベッドを捨てた。広い大きなベッドが届くからだ。
fin
僕は、雨が嫌いだ。
この表現は、間違っていないが、合っているわけではない。
正確に言うのなら、雨が降っているときに、差して一人で歩くのが嫌いだ。傘を差さないで移動することは、別に嫌いでもない。むしろ好きだと言える。雨に濡れながら歩くことで、思い出も、過去も、積み重なった想いも、全て流してくれる・・・そんな感じがする。
雨の日は、僕の心の中にある、蓋さえも溶かしてしまう。
思い出したくもない。でも、忘れたくない。そんな、蓋をしてしまい込んだ思い出を・・・。
そう、あれは、僕が初めて人を好きになった瞬間でもある。今から、何年前かも思い出せない。古い話のようで、つい昨日のようにさえも思えてしまう。覚えているのは、強烈に刷り込まれたイメージだけだ。
雨の中、小さな赤い傘をさして、僕を見て微笑む少女の顔を・・・。
そこは、寂れた港町。港といっても、漁船が停泊しているだけの港で、これといった名産があるわけでもなく、寂れた港町で、港を出ればすぐに山という特殊な地形に囲まれている場所である。そんな地域に、私は住んでいた。
僕の子供の頃の遊び場は、もっぱら、この寂れた港になっていくのは自然の流れである。
雨の日には、雨の日の遊びを、晴れの日には晴れの日の遊びを、そして風の日には、風の日の遊びを、作り出しては、”友”と日々遊び過ごしていた。そこは、男の世界で、女の入る隙間さえも無いように思っていた。
それが、錯覚だったとしても・・・。
小学校6年生の夏休み前の雨の日。いつものように友人たちと、雨の日の遊びを楽しんでいた。そこに、同級生の女の子が何気なく現れた。そのあまりにも自然な登場と、普段学校では見ない姿に、そして、傘を差して歩いてくる姿に、そして、僕をみて一瞬微笑んだ”女性の顔'”に、一瞬にして目と心を奪われてしまった。
その瞬間が、僕の初恋の瞬間だった・・・。
今ならはっきりと言える。それからは、僕は、目で彼女を追うのが日課になっていった。彼女とは同じクラスだ。席も近く自然と話せる間柄だったのです。今までと違うのは、僕が彼女を、その他大勢の同級生の女の子ではなく、1人の女性として認識してしまった事だ。
その気持ちは、自分の奥底に隠して、誰にもさとられないようにしまい込んでいた。
僕が通っていた小学校は、夏休みに1つの課外授業がある。
課外授業は、自主参加となっているが、小さな港町で、ほぼ全員が顔見知りのような場所なのだ、旅行に行くなどの予定が無い限り、皆参加する事になる。
夏休み前には、参加の申請を行う。
そして、クラスごとに、班が決められる。男女3人ずつの班だ。くじ引きで決めると言っていたが、先生が、全員参加なので、今の班のままで参加するようにしましょうといい出した。
僕と、彼女は同じ班だ。2泊3日。彼女と一緒にいられる。僕の心臓は、今までにないくらいに早くなっていた。
課外授業は、学校近くの700m程度の山の頂上付近にあるキャンプ場で過ごす。
テントを張って、その中で寝泊まりする。男女ごろ寝だ。今では、考えられないことが平気で行われていた。
私は、一番出口から遠い所を選んだ。
そして、他の男子は奥に陣取った。自然と、女子が隣になる。私の隣には、彼女が寝る事になった。
彼女が、二日連続で夜に起き出すハプニングがあった。彼女が起き出して、外に出ていく、必然と私も起こされた。キャンプ場で、外は月明かりがあるとはいえ、小学生女子が1人で歩くには怖い環境だ。そして、私たちがテントを張った場所は、同じ班に居た、私の親友がくじ引きで引いてきた、一番端だった。
何が有ったのかは、覚えているが、思い出してはダメな事だ。この日を堺に彼女と私の距離が一気に縮まったのは間違いない。
中学校に上がる頃には、僕と彼女は深まっていた。
そして、”今更なこと”を彼女に告げた。
”好き”
その言葉を絞り出すように告げた。
今ならはっきりと分かる。告げてはダメな気持ちと言うのが存在する事を・・・。
彼女は、私の気持ちを受け入れてくれた。これが、間違いの始まりだ。
小さな町で、私たちの事はすぐに同級生だけではなく、近所の人も知ることになる。
そして、中学校に通うようになる。僕と彼女の仲は変わらない。一緒に昼ごはんを食べて、お互いの家に遊びに行ったりしていた。
僕は、彼女以外いらない。彼女も僕以外いらないはずだった。
一年生の時には、違うクラスになった。二年生で同じクラスになった。
そして、受験の足音が聞こえ始めた三年生になる前の春休みに1つの事件が発生した。
違う。これは間違っている。
事件は既に発生していた。僕が、それを見ようとしていなかったからだ。彼女は、部活で、先輩や同級生・・・そしてコーチからいじめをうけていた。辛いのならやめればと何度か言った。でも、彼女は笑って大丈夫と返してくれた。
この頃には、僕の彼女はお互いの身体を何度も重ねていた。
春休みに入ってすぐに、珍しく寒い夜。
彼女から、僕に電話が入った。僕には、弟が居て、弟のサッカークラブの合否判定が来る夜で、話ができない。
僕は、厚着をして、近くの公衆電話に急いだ。
そこから、彼女の家に電話した。すぐに彼女が電話に出てくれた。
でも、彼女は一言だけ僕に聞いた
「ねぇ私の事好き?」
「当たり前だろう」
即座に返事を返す。僕に取っては、言わなくても解っている気持ちだと思っていた。
「違うの・・・ううん。違わないけど、違うの?」
そして、しばしの沈黙が流れる。
10円が消費されていく音が聞こえる。
「ねぇ・・・私の事、いつまでも好きで居てくれる?」
「もちろんだよ。僕は、君の事が好きだ。愛しているよ」
「嬉しい・・・ありがとう。でも・・・ううん。なんでもない。おやすみ。私も、大好きで、愛している。さようなら」
「うん。おやすみ。またね」
「・・・ごめん」
そう掠れる声で一言だけ言って、彼女との短い電話は終わった。
春休みが終わって、新中学3年生になった僕は、張り出されたクラス分けの紙を見て唖然とした、彼女の名前が無かった。
先生に詰め寄っても、曖昧な答えしか帰ってこない。
最後には、あとで話があるから職員室に来い。僕と、幼馴染が二人呼ばれた、周りの同級生はまた何かやったのだな程度に思っているのだろう。僕も幼馴染も、何度か二人揃って職員室に呼び出されている。
しかし、今日は心当たりがない。
先生は、そう言い残して、逃げるように、僕の前から居なくなっていた。他の先生も1人も居なくなっていた。
そして、一通りの儀式を終えて、皆が帰り支度をして帰り始めてから、僕と幼なじみは、一緒に呼び出された職員室に向かった。
そして、職員室について直ぐに先生に話しかけた。
ここで無くて、校長室に一緒に来てくれ。そういって、深刻な顔をした先生は、ほかに何も言わずに、校長室に歩き出した。校長室には、何人か見たこともない人たちが深刻な顔でそこに居て、なにかを話している。
僕が理解できたのは、彼女にもう二度と会うことができないことだけだ。
そこから後、そこで何を言われたのかまったく覚えていない。覚えているのは、涙が止まらなかったこと、春休みの寒い夜彼女からかかってきた一本の電話の内容と、その時に聞いた”ごめん”の言葉。
その言葉から悟ればよかった、彼女の家まで走ればよかった。彼女を、連れ出せばよかった。
彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、僕はなにができた?僕が悪い。僕が、彼女を、彼女を、彼女を・・・
幼かった自分への罪悪感と後悔の想いだけが残った。
それから、暫くして彼女の実家も空き家となり、家が解体され、人手に渡って、私の心に風穴を開けた以外は、何事無かったように時だけが過ぎていって、誰も、そこに彼女の家族が住んでいた事。そして、僕と彼女が最後に話した電話。
僕は、町を出た。居たくなかった。同級生は、僕の事を、哀れみで見る。幼馴染以外は・・・。僕は、町を捨てた・・・。僕が町に捨てられたのかも知れない。どちらでもいい。僕は、市の学校に進学した。学校なんてどこでも良かった。早く独立したくて、工業高校を選んだ。部活なんてやりたくなかった。でも寮がある部活があった。僕は、寮に入る選択をする。忙しく部活や勉強をしていれば、忘れられると思った。
高校卒業を控えた時に、久しぶりに幼馴染から連絡が入った。
電車で30分の距離が遠く感じる帰省だ。僕は、幼馴染と逢って話す事ができた。
彼は、僕に隠していた事があると告白した。
彼は、彼女に相談されていたとのこと、”いじめ”に合っていると・・・。僕も、話は聞いている。でも、聞いている話と、彼が話す話があまりにも違いすぎる。
彼女は、僕にだけは言わないでほしいと懇願してきたと、彼は話した。
原因が、僕にあるためだ。
彼も詳しい話は知らない。と、前置きをして話し始めた。
僕は、原因まで知らない。僕が知らない事を彼が知っている。その一点で、嫉妬心が芽生えなかったと言えば嘘になる。
彼は、僕の気持ちが解るのか、ゆっくりと語りだす。
彼は誰の事を話している?僕と彼女の事?
彼は、彼が信じる真実を、僕に話してくれている。僕は、それを聞いている。僕の知らなかった彼女がそこに確かに存在している。彼女は、僕が、彼に話していると思って、僕と身体を重ねた事も話していたようだ。彼は、笑いながら、彼女に”奴から聞いたのは、キスした事までだ、それもファーストキスの場所は意地でも言わなかったぞ”と教えたら、彼女は真っ赤になって、忘れてと言ったそうだ。
彼女は、彼に散々のろけたそうだ。彼もそれを黙って聞いてくれていただろう。
いつしか、それが相談になっていったらしい。
彼は、僕に聞いてきた。
「なぁ彼女を”いじめ”ていたグループのトップに心当たりはないか?」
「え?知らない。部活って話だから、部活の奴らを捕まえて問いただしても、”ごめん”としか言われなかった」
「そうか、部活・・・だと思っていたのか・・・」
「?」
疑問符しか出てこない。
彼は、どうしてそんな事を聞くのか?
彼はゆっくりと、息を吐いてから、
僕に、信じられない名前を告げます。彼が、人を貶めるような事をしないのは、僕が一番解っている。その彼が告げた名前が、僕には信じられなかった。
その名前は、一学年上の先輩で、子供の頃”女性”とは知らずに、一緒に遊んでいた人物の名前でした。
勿論、彼も先輩の事は知っていますし、幼馴染の1人で間違いない。よく遊んでいた”仲間”なのです。
そんな人の名前を冗談でも出すような、彼ではない。
僕には思い当たる理由が一つだけある。
それを口にすることはできない。彼に告げて、声に出す事で、全てが崩れ去る。
彼が、彼女の事を、先輩の事を好きだと知っている。
彼は私の目を見たまま何も語らない。
非難しているのでは無い。
僕がこれから語る残酷な事実を受け入れると言っているように思える。
彼の目を見ながら、時間だけが過ぎていく感覚がある。1分なのかも知れない。30分なのかもしれない。それを知る必要が無いことは、僕も彼も解っている。このまま、話を終わらせる事ができないことも解っている。
僕は彼に向かって、答えを提示します。
「彼女。僕に好きだと言ってきた。その時に、僕は彼女が好き。そう答えたのが、原因なのか?」
彼は、黙って頭を下げた。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。それから、彼にマシンガンの様に問いかけたのは覚えているが、何を問いと居かけたのを覚えていない。
もう既に、その時の事を彼に問い返すことも、共有する事もできなくなってしまった。
彼もまた、彼女の所に旅立ってしまった。
彼と話をしてから1ヶ月1ヶ月。
前日からふり続いている大雨で、何のかもが嫌になってしまった。
そんな朝、寮に届いた新聞に、認識できない事実が載っていた。
「高校生が運転するバイクが、中央分離帯に激突。運転する高校生死亡」
僕が、それを見ることを待っていたかのように、寮の電話がなり、近くに居た僕が電話に出た。
電話は、彼のお兄さんからだ。
「昨日の夜、バイクで事故って、病院に運ばれる途中で息をひきとったんだ。それで、急で悪いんだけど、告別式をやるから来てくれないか?」
そう冷静な声で言われて、なんの冗談かと現実の話か判断できないでいた。
僕に、お兄さんは言葉を続けた。
「それで、もう一つお願いがあるんだ、救急車で運ばれていく最中・・・弟が、”君に余計な事を言った”とすごく気にしていて、謝りたいから、直ぐに呼んでくれって言っていたらしいんだ。それは、叶わなかったからせめて弟に君から言葉をかけてやってほしい。いいかな?
」
受話器を持つのが精一杯の僕にお兄さんは言葉を続けた
「返事は、来てくれた時で構わないから。最後にひと目だけもで、君に逢いたいだろうと思うから、来てくれると嬉しいよ」
そういって、僕の返事を待たずに、お兄さんは電話を切った。
僕は、逃げるようにその場を離れ、雨のなか何も持たずに、地元へ向かう電車に飛び乗った。
電車を降りた所で、警察を名乗る人物に話しかけられた。
彼の乗るバイクのブレーキに細工された痕跡が見つかった。何か心当たりは無いかと聞かれた。
心当たりも何も、彼がバイクに乗っている事も知らなかった事を告げた。
警官は、なにか考えてから、なにか思い出したら、一報下さいと、電話番号が入った名刺を僕に渡してきた。
僕は、雨降るなら、僕の事を、置いていってしまった、彼女と彼との思い出だけが残っている 寂れた港に向かっていた。なぜ、そこに足を運んだのかわからない。でも、港に近づくと、港から、彼の声が聞こえるのではないかと思っていた。彼女と初めてキスをした場所は、彼女が雨の日に僕に微笑んでくれた場所だ。その場所も、あの頃と変わらないで残っている。
死のうとは思っていなかった、死んでいってしまった者たちを恨む気持ちは無い。
ただ、ただ、独りになってしまった事への寂しさだけが込み上げてくる。こみ上げてきては、雨に流されて、波に飲まれていく。そして、新たな思い出がこみ上げてきて、雨に流されていく、想いや思い出が昇華されるかのように、繰り返される。それでも、彼女への想いは消える事がない。彼との思い出がなくなる事はない。
僕は、雨に打たれながら・・・・。
そして、雨に流されながら・・・・。
そして、1人の女性が傘を持ち、僕に微笑みかけてくれた・・・。
違う。彼女ではない。彼女をいじめという最低な方法で追い詰めて、自殺という最悪な結末まで持っていった女だ。
右手で、彼女と同じ赤い傘を持ち、左手にナイフを握って、僕を見ている。彼女と同じ様に、微笑んでいる。ナイフは、鈍く光っている。まるで、工業オイルの管を切った時のように、ナイフが汚れているのだろう。
女は、僕の方に歩いてくる。
僕は、雨に打たれながら、女が側に来るのを待った。
女は僕の近くに来ると、ナイフを振りかざした。
「君が悪いんだよ。あんな女。私から、君を奪った、あの女が全て!!!」
「すべて、君が悪いんだよ。彼が死んだのも、君が私の町から出ていったのも、彼がいじめたからでしょう?大丈夫。もう排除したから、だから、安心して帰って来て、どこにもいかないように、縛り付けて、私だけを感じさせてあげる。いつもしているように、沢山気持ちよくしてあげるよ。あんな女の事なんか忘れさせてあげるよ。だから、だからぁぁ、もうぅぅぅぅどこにぃぃぃxも、いかないってぇぇぇやくそくぅぅしなぁぁぁさい!!!」
女の左手が僕の身体を狙っている。
すごくスローモーションだ。
”ゴン!”
なにが起こった?
女が持っていた、彼女が好きだった傘と同じ赤い傘が、海に浮かんで波にもてあそばれている。女は、その場で倒れ込んでいる。
手に持っていたナイフは、海とは反対方向に投げ出されていた。
雨が僕に味方してくれた?
わからない。わからないが、目の前では、警官が彼女を拘束して連れていく・・・。
これで終わったの?
彼にそう報告していいの?
そうだ、警察なら、彼女のご両親の事を知っているかもしれない。引越し先がわからなかった。でも、彼女を追い詰めた奴が解った事を教えてあげないと・・・余計なお世話かも知れないけど・・・。
僕は、雨に打たれながら、雨が涙を流しているのを感じながら・・・。赤い傘が、波にもてあそばれて、沈んでいくのを眺めていた。
fin
そこは終末医療専門の病院だ。
誰も訪ねてくる事もなく、ただ死を待つだけの人たちが、最後の時を心安らか過ごす場所だ。冥界に旅立つその時まで、サポートを行う病院なのだ。
1人の女性が運び込まれた。
身寄りのない女性。女性というには幼い。少女と言ってもいい年齢だ。
「先生」
「もって1ヶ月と言われている」
「でも、なんでここに?」
看護師が不思議に思うのも当然だ。
ここは救いのない病院。少女が最後を迎えるのに相応しいとは思えない。
「彼女の希望だ」
「え?」
「彼女は、とある事件の被害者の家族で、唯一の生き残りで、マスコミがまだ追っている」
「それで・・・」
「それに、彼女は残された遺産を全部この病院と隣接する孤児院に寄付すると言っている」
「孤児院の事も知っているのですか?」
「そうだ。なぜ知っているのかは教えてくれなかったけどな」
「そうなのですね。不思議ですね」
医師と看護師が不思議がるのも当然なのだ。
終末医療を行っている病院と孤児院をつなげて考える人は少ないだろう。管理母体が違うので当然なのだが、孤児院の49%の株は医師が持っている。そして、若くしてでこの病院に来てしまった場合に残された子供の事を安心させるために、孤児院を運営しているのだ。
「それであの部屋なのですね」
「彼女が希望したからな」
その部屋は、暗い深い森に面しているが、近くにある山の影響で、麓にある孤児院からの声が聞こえてくる。
患者にとってはあまり気持ちがいい部屋ではない。暗い深い森は、”死”を連想させる。それを見ながら、将来ある子供たちの声を感じるのだ。子どもたちの声だけなら、思い出に浸る事ができる。しかし、”死”を感じながら未来を、将来を考える事などできない。
防音された個室に入る事もできた。しかし、彼女は自らその部屋を望んだ。
---
「先生!」
今日、5回目のナースコールが鳴り響く。
どこかの部屋の患者が冥界に旅立ったのだろう。
私は、この病院に務めるようになって希望を持つ事を辞めた。
先生は立派な人だ。私は、まだ患者さんに向き合う事ができないでいる。患者さんの名前を覚えない。これが、この病院でやっていくための鉄則なのだ。看護師の先輩たちの中には薬に手を出した人も多くいる。それだけ精神に負担がかかるのだ。
これは、私の罪滅ぼし。
娘を救えなかった私に課せられた罰なのだ。
「先生。森の女性が、お薬が欲しいと言っています。どうしますか?」
「痛み止めを処方する」
「わかりました」
森の女性。余命1ヶ月と宣告された少女。いつも、森を眺めて、子どもたちの声を聞いている少女を、私たちは”森の女性”と呼んでいる。
その少女が痛みに耐えられなくなって、薬を求めるようになったのは昨日のことだ。
処方された薬で、ゆっくりと寝られるようだ。
今日も、薬を入れた事で、寝てくれた。
肩が冷えないように、布団をかける。
彼女の希望で、窓は空けておく、夜の風が、朝の風が、森の匂いが、森からの音を聞いていたいのだと言っていた。
彼女から寝息が聞こえてきたので、私は部屋を出た。
---
僕は、あと何回・・・朝を迎えられるのだろうか?
1回?2回?
気にしてもしょうがない。僕は、早く父と母と弟が待つ場所に行きたい。でも、自分で旅立つのはダメだ。父に言われている。自ら命を断ってしまうと、父と母と弟が待つ場所に行く事はできない。でも、もうすぐ旅立てる。
僕が、この部屋を選んだのは、森からの使者が訪れるのを期待しているからだ。
この森には・・・彼の使者が住んでいた。僕に、この病院と孤児院の事を教えてくれた、男の子・・・。僕の初恋で、僕の初めての人。彼は僕に、自分が孤児院で育った事を教えてくれた。山の麓にある孤児院。彼は、病院の事も知っていた。
でも、僕は、彼に僕の身体の事を告げていない。別れも告げていない。全身の痛みに耐えながら、彼と初めてのキスをした日に僕は彼の前から姿を消した。
僕は、最初で最後のキスをした彼の事を思いながら、迎えが来てくれるのを待っている。
”ほぉーほぉーほぉー”
フクロウ?
痛み止めが効いたのか寝てしまっていた。看護師さんからは『虫が入ってくるから閉めましょう』と言われたけど、風を感じたいと・・・。無理を言って開けてもらっている。
身体を起こして外を見ると、真っ白いフクロウが、僕の髪の毛と同じ色のフクロウがこっちを見ている。
「君が迎えなの?」
もちろん、フクロウは何も答えてくれない。
黙って、窓に止まって僕を見ている。
僕を見つめるフクロウの目が、彼を思い出させられてしまう。真っ直ぐな視線で彼と同じ様に僕を見つめている。
彼は今何をしているのだろう?
僕の事を少しでも覚えていてくれたら嬉しい。僕はずるい。彼に忘れられたくなくて、彼に何も言わずに彼の前から消える事にした。
彼は、僕の事を覚えていてくれるだろうか?僕の事を探してくれるのだろうか?
あっ・・・。
フクロウは何も言わないで窓から飛び立ってしまった。
あれから毎晩、フクロウは僕のところにやってくる。
寝ている僕を起こすかのように鳴いて、僕の他愛もない話を聞いてから、帰っていく、まるで彼に僕の事を告げに行くかのように・・・。
僕を連れに来た使者ではないのか?
夜中の訪問者が来てから、痛み止めを入れなくても、寝られるようになった。身体の調子がいいわけではない。徐々に悪くなっているのも自分でもわかる。昨日できた事ができなくなっている。
僕は、もう長くないだろう。
僕の事は僕が一番わかっている。
僕が旅立ったら、フクロウはあの部屋に来るのだろうか?
夜目が効くフクロウだから、僕のところに来てくれたのだろうか?
フクロウは、アテナの使者。僕をアテナのところに連れて行ってくれるのだろうか?
戦いの女神の使者が僕のところに来るはずがない。僕は、負け戦を戦っているのだ。
違う!!僕は、負けるわけではない。僕は、負けない。僕は、自ら命を断つ戦いに勝っている。苦しい状況でも、彼の事を考えて、待っている家族の事を考えて、僕はひたすら戦っている。
戦いの女神の使者であるフクロウが見ている、見に来ているところで無様な戦いはできない。
”ほぉーほぉーほぉー”
今日も、フクロウは僕の戦いを確認しに来てくれた。
僕は、負けない。父に母に弟にあう為に、僕は自ら命を絶たない。
アテナの使者に僕は告げる。
「僕は、負けない!冥界に旅立つその時まで、僕は僕だ。僕のまま死んでいく!!」
「彼に・・・会いたい。僕の唯一の・・・彼に・・・」
”ほぉーほぉー”
僕は何を・・・願った?彼に・・・?
---
「先生」
「もう長くないだろう」
少女に処方する痛み止めの量が日増しに増えている。
寝て過ごす日々が続いている。窓も締め切って、一定の温度になるように空調を入れている。
少女は、天涯孤独で、引き取り手も連絡をする相手も居ない。
「そう言えば、彼女の部屋の窓を開けていないよな?」
「はい。以前は開けていましたが、ここ1週間は開けていません」
「そうか・・・」
「どうかされましたか?」
「いや、昨日も今日も枕元に鳥の羽が落ちていたからな」
「え?本当ですか?」
「白い・・・。真っ白な大きな羽が落ちていたから不思議に感じていて、なにか知らないかと思ったのだけどな」
「掃除したときには気が付きませんでしたが?」
「そうか・・・患者の誰かが持ってきたのかも知れないな」
「そうですね」
---
深夜にナースコールが鳴り響いた。
「先生。森の女性です」
「わかった。急げ!」
「はい!」
多分、痛みで起きたのだろう。
痛みの間隔が短くなってきてしまっているのか、苦しんでいるのを何度も見かけた。
今日が・・・。
心を閉ざす。少女の事を、考えてはダメ。感情に自分が引きずられる。
「先生!」
「あぁぁぁぁぁ来てくれた!!!!!ありがとう!」
少女が、窓の外を見てつぶやいている。
誰かが居るわけではない。この病院ではよくある事だ。最後が迫ってきているのは間違いない。
「あのね。僕、頑張ったよ。今日まで、貴方が来てくれるまで、頑張って死なないでいたよ!」
死なないでいた。
少女の言葉が胸をえぐっていく。少女は自分の死期を悟って、悟った上でなにかを待っていた。
少女の目は、窓の外をはっきりと捕らえて動かない。
「先生!」
「・・・・」
先生は、首を横にふるだけだ。
私もわかっている。彼女に、医者が、看護師ができることなど何もない・・・。
痛みも感じなくなったであろう身体を優しく支える事しかできない。
「あぁぁぁぁぁ。嬉しい。僕の事を覚えていてくれたのだね」
「もちろんだよ。僕も、貴方の事だけを考えていた」
「でも、お別れだね。僕には、時間がない・・・。みたいだから・・・。もっと、もっと、いろいろ・・・。話したいけど・・・。いざ、目の前に、貴方がいると・・・。言葉が出てこない」
「ほんとう?同じだね。ごめんなさい。僕の事・・・。忘れてほしくなくて」
「ゆるして・・・くれるの?」
「でも・・・もう・・・だめ・・・。こんど・・・でも・・・すぐじゃなくて・・・いいよ・・・ぼく・・・まって・・・い・・・る・・・から・・・ね」
少女は最後の力を振り絞るかの様に窓に手をのばす。何もない虚空を掴んでから力尽きた
”ほぉーほぉーほぉー”
え?嘘?どこに居たの?
少女が見つめていた窓の外を、大きな大きな大きなフクロウが1羽・・・。大きな翼をはためかせて、なにかを掴んで空に登っていく・・・。
もしかして、彼女を迎えに来たの?
---
「大和!」
「大和なら、ほら・・・例の・・・」
「そうか、フクロウが死んだとか言っていたな」
「そっちじゃなくて・・・。そっちもだけど」
「??」
「探していた彼女が見つかったらしくて、病院に行ったらしいぞ?」
「そうなのか?」
「フクロウが、知らせてくれたとは言っていたぞ」
「そうか、不思議な真っ白なフクロウだったからな」
「そうだな。彼女と同じ色だとか言っていたな」
fin
俺には長男だけど二番目の子供だ。
当然の事だと思う。
俺は少しだけ複雑な子供だ。
俺の父はバツ1なのだ。
父の再婚相手が、俺の産みの母で、産みの母の最初の配偶者が本当の父なのだ。
ようするに、俺が今『父』『母』と呼んでいる両親とは血が繋がっていない。
本当の両親が、どうなったのかは知らない・・・ことになっている。
一度酔った父が話してくれた。
俺の本当の父は、父の友人だった人物ですでに死去している。産みの母も、父と再婚して2年後に死去した。
自殺だと言っていた。父は、本当の母の死を自分たちの責任だと悔やんでいる。
父は友人に産みの母を頼まれたようだ。
死ぬ間際に頼まれたのだと言っていた。理由は話してくれなかった。
どういう経緯で母と結婚したのかはわからないが、母も産みの母を知っているようだ。
全員が、幼馴染と言ってもいい関係だったようなのだ。
そんな不思議な環境の中で、俺は二番目として生活してきた。
父の事も、母の事も、感謝しているし、尊敬もしている。弟の事も大事だ。しかし俺は、この家では2番目の存在でしか無いのだ。小さいときには、弟に嫉妬した事もある。でも、酔った父に真相を聞かされた時に、納得してしまった。
グレるという選択肢は俺にはなかった。本当の両親と、育ててくれた両親。どちらも俺にとっては両親なのだ。今の両親が二番目の両親などと考えていない。
明日、卒業式が終わったら、俺は家を出て一人暮らしを始める。
街に出て働くことになっている。就職先の寮に入る事が決まっている。
「父さん?なに?」
家を出る前に、父に呼ばれている。
部屋のリビングで、父さんの対面の椅子に座る。
「・・・」
なんかいいにくそうにしている。
もしかしたら、本当の両親の事を教えてくれようとしているのか?
「慧。明日の準備は終わっているのか?」
笑いそうになってしまう。
荷物をまとめて寮に運んである。父さんに運んでもらった。
そんな事も考えられないほど動揺しているのか?
「大丈夫。もう寮に運んだから、明日は着替えを少し持っていくだけだよ」
「あっそうだったな。・・・それでな」
「なに?」
話しにくそうにしているけど、チラチラとリビングからキッチンの方を見ている。
母がそっちで聞き耳を立てているのがわかる。
「あのな。慧」
「うん」
長い沈黙だ。
パタパタとキッチンから母が出てきたのがわかる。
「アナタ。慧が困惑しているでしょ」
「そう言っても・・・」
「もう。いいわね。私が」
「ダメだ!これは、俺の役目だ!」
びっくりした。
温和な父が母を怒鳴るなんて・・・。それほど、大事に思っていてくれたのか?
もしかして、二番目なんて思っていたのは、俺の勘違いだったのか?
「そ、そうね。アナタの役目ね。ごめんなさい。慧。少し、パパとママの話を聞いてくれる?」
母は、父の隣に座って、お茶を俺の前と自分と父の前に置く。
「もちろん。俺に関係する事?この目に関係する?」
両親が話しやすいように、目の話をする。
俺の目は、茶色と濃い青だ。父と母は、びっくりするくらいの黒色だ。この両親から、俺の様な目を持つ子供が産まれるわけがない。
両親は身体を少しだけ強張らせる。
大丈夫。俺は知っている、知っていて、父と母を、父さん。母さんと呼ぶ。呼んでいたいと思っている。
「慧。お前は、俺と母さんの本当の子供じゃない」
「うん。知っていたよ。だって、目が違いすぎるし、髪の毛の色も俺だけ違うからね」
わかっていた事だが、父にはっきりと言われるとやはり心に・・・来る。
「慧!でも、お前は、俺の子供だ。血が繋がっていなくても、俺と母さんの子供だ!」
「うん。ありがとう」
ダメだ。
泣くな!泣いちゃダメだ。涙を見せるな。哀しいわけじゃない。教えてもらえて嬉しいと思え!
「サトちゃん。あのね。私とパパの」「母さん!」
父が、母のセリフを止める。これも珍しい。
「そうね。私が言ってはダメね。ごめんなさい」
なにか事情があるのだろう。
「慧。お前の父親は、俺の同級生だった男だ」
父から、本当の父の学生時代の事を聞く。これは、ある意味・・・拷問に違いない。
なぜ顔も知らなければ、有ったこともない、父親の話を育ててくれた父から聞かなければならない。
学生時代の出来事なんて話の筋として関係ないだろう?
「アナタ」
「おっすまん。奴は、憎たらしいが、そんな男だった」
「そうだったのですね」
「他人事だな?」
「え?だって、俺の父さんは目の前に座っている人だけですからね。あった事もない人の事を父とは思えないですよ?」
「・・・。それで、お前の生みの・・・、本当の母親なのだが・・・」
ちらっと母を見る。
母が気にすると思っているのだろうか?それなら、杞憂だと先に話したほうがいいかも知れない
「そうね。加奈子の事は、私から話したほうがいいね」
「加奈子?」
「そうよ。慧の生みの親だけど・・・心が弱かったのね」
「??」
「加奈子は、慧を産んで、次の子を身ごもった時に、あの人が事件で死んでしまって・・・」
「え?」
「それはいいのだけど・・・」
事件?
死んだとは知っていたけど、なにかに巻き込まれて死んだのか?
「うん」
「優しいのね。そういうところは、加奈子にそっくりね。加奈子は、慧の妹になる女の子を産むはずだったのに・・・」
「死産だったの?」
「そうね。死産・・・かな。よほど、ショックだったのだろうね」
「でも、それだと・・・」
「そう、パパは、あの人に頼まれて、心が壊れた加奈子と結婚したのよ」
「え?」
「私との結婚が決まっていたけど、アナタを実子として向かい入れる為に、私との結婚を先延ばしにしたの」
「え?母さんはそれで」
「良くないけど、しょうがなかったのよ。加奈子には、パパも私も返しきれない恩があるのよ」
「え?それじゃ俺の事は・・・恩を返す・・・ため・・・なのか?」
自分で言っていて悲しくなってくる。
違うと否定して欲しい。でも、今の言い方じゃ・・・。
「サトちゃん。違うわよ!貴方は、私とパパの子供!これは間違いない!あの人や加奈子が生き返っても渡さない。私の、パパの宝物!」
俺もしっかり愛されていた・・・のだ・・・。二番目でもいい。俺の両親は、この二人だ。
「慧。すまんな。混乱させてしまって、こんな話は、しないほうが良かった・・・」
「父さん。母さん。俺、二人の子供で良かった」
「慧」「サトちゃん」
「知らない両親の事なんかどうでもいい。二人の馴れ初めとかのほうが気になるよ」
「サトちゃん。それは、サトちゃんがお嫁さんを連れてきた時に、お嫁さんにだけ話してあげますよ」
「ハハハ。それじゃ、隠し事ができない嫁さんを見つけないとな。その前に彼女を探してこないとな」
「そうだな」
少しだけ気になった事を聞いておく。
父と母が話したくなければ無理に話さなくて良いと先に言ってから聞くことにしよう。
「父さん。母さん。話しにくかったら話さなくてもいい。俺の両親は、父さんと母さんだから・・・。でも、教えて欲しい事がある」
ここで一息入れる。
父も母も俺をまっすぐ見てくれている。
「俺の産みの両親だけど、なんで死んだの?」
聞いてしまった。
本当なら、聞かないほうが良かったかも知れない。
「そうだな。お前には知る権利があるだろうな」
そう、父が語り始める。
学生のときの話だ。本当の母と父と母の3人は幼馴染だったらしい。
本当の父の家は、裕福だったようだ。
父と母の家も、加奈子と呼ばれた加奈子母さんの家も貧乏だったようだ。
不愉快になる話であるが、加奈子母さんは資金援助と引き換えに、本当の父のところに嫁入りしたようだ。その資金で、父も母も家族が残した借金を完済したようだ。だから、父も母も親戚の付き合いが殆ど無いのだな。
本当の父は家に来ていたお手伝いさんに刺された。事情は、結局わからなかったらしい。父の表情から、なにか知っているのはわかるが、わからなかったと言っている父の言葉を信じる事にする。
暫く生死の境を彷徨ったクズは、父と母を呼んで加奈子母さんを娶ってくれとお願いしたと言っている。
実際には、お願いではなく、命令なのだろう。この時点で、加奈子母さんは心が壊れてしまっている。クズの実家は、加奈子母さんと俺を家から追い出した。心が壊れて何もわからない状態の加奈子母さんに財産を放棄させている。
そして、父は加奈子母さんと結婚して、俺を引き取った。
加奈子母さんを、父と母の二人で面倒を見ていた。そして、俺が3歳になった時に、加奈子母さんは自ら命を断った。理由はわからなかったらしい。
加奈子母さんは父と母に、クズからの手紙を渡したのだと、俺に向けての手紙ではなく、父に向けての手紙だ。その時に、加奈子母さんの手はやけどしていたらしい。
封は切られていない。父も母も読みたくないのだろう。
俺に処分を任せると言って渡してくれた。
その場で破いて燃やす事もできたが、父と母が知らない事情が書かれているかも知れない。
好奇心を抑える事ができなかった。
---
親愛なる我が友へ
俺は、お前に勝ちたかった。お前は、俺が持っていない物を全部持っている。
俺が好きになった女は、お前の事が好きだった。
お前にとって二番目の女なのだろう。
俺が金の力で娶った。
加奈子は、俺の子供を産んだ後もお前の事を愛していると泣いていた。子供は、お前の子供だと思っているぞ?
子供を産んだ後にすぐに犯して子供を作った。
二番目を産んだ後でお前に返すつもりだ。もらってくれるよな?
加奈子の目の前で、他の女を犯すのも楽しかったぞ。
お前はいつまでも二番目だと思い知らせてやった。
---
素晴らしくクズな内容が長々と書かれていた。素晴らしくクズな内容で、手紙を燃やす事に戸惑いはなかった。
父と母にとっては、加奈子母さんの変わりかも知れない。
二番目の愛情なのかもしれない。
加奈子母さんからも、父からも母からも愛情を受けている。
加奈子母さんは本当に心が壊れていたのだろうか?
fin
その女性の住む部屋は、古いアパートだだ。
(はぁ今日も疲れた)
誰も待っていない部屋に女性が入っていく。手に持っているのは、近くにある弁当屋さんの袋だ。
部屋に入って、仕事場にしていくポニーテールを解いて、髪の毛を下ろす。
(どんどん。好きだけど・・・今日も、隣の部屋からはいい匂いがしている)
アパートと言っても、女性の一人暮らしだ。セキュリティには気を使った。
部屋を借りる時に、隣に音が聞こえないようにとか、周りにどんな人が住んでいるのかを確認していた。
しかし、匂いまでは気にしていなかったのだ。キッチンは通路側ではなく、ベランダ側になっている。少し変則的な2LDKの作りになっている。
そのために、ベランダ越しに匂いが漂ってくるのだ。
(美味しそうな匂いだな。今日は、何を作っているのだろう?焼きそばかな?)
女性は隣に住んでいるのが、一つ年上の男性だと教えられている。
(まさか、美味しそうな匂いさせやがってと怒れないよな)
買ってきた、”舞茸のり弁”を袋から取り出す。
(私も料理したら。時間がないから無理!)
という言い訳をし続けて、もうすぐ1年が経つ。
その間、キッチンを使ったのは3回だけ。
キッチンではお湯を沸かすだけになってしまっている。
(ゴミ捨てとかでお隣さんに会うけど、料理なんてしているように見えないけどな。でも、ギャップがいいなぁ。彼女とか居るのかな?イケメンってよりは、かわいい系?古川慎くん似で好みだな)
彼氏居ない歴=年齢の女性には隣の男性に声をかけるなどという高難易度のミッションをこなすことなどできない。
---
(はぁ今日もお隣さんは、美味しそうな物を作っているな。ソースのいい匂いだな)
男性は、綺麗なキッチンで、封を切ったカップラーメンにお湯を注いでいる。
3分待てばできるやつだ。
仕事場から近くだからと借りた部屋だったが、その仕事場が不況の煽りを受けて、田舎に引っ越してしまった。
せっかく入った会社なので、男性は辞める事なく勤めている。
(通勤時間5分。夢の生活だと思ったのに、いきなり通勤時間30分だからな。それでも幸せだと思わないとな)
男性が部屋を決めたのは、裏に駐車場がついている事だ。隣は空き部屋だと教えられた、角部屋とそうじゃない部屋のどちらでも大丈夫だと言われたが、角部屋の方が家賃が高くなっているし、駐車場もついていないと言われた。
男性が部屋を決めてから3ヶ月後に、空き部屋の一つに女性が引っ越してきた。
年齢=彼女いない歴の男性は、今日もカップ麺をすすって餓えをしのいでいた。
(ごちそうさま!ゴミ出しの時に会う様な子が作った料理ならもっとうまいのだろうな)
---
今日は近くのスーパーの安売りをしている日だ。男性はカップ麺を求めてスーパーに来ていた。
「あれ?大家さん?」
「古川さん?」
大荷物を抱えた、大家さんが男性の前でレジを行っていた。
「古川さんも、買い物?」
「はい。安売りだったので」
「それにしては、あまり買っていないようだね」
「えぇ一人暮らしですから、こんな物じゃないですか?」
「そうなのね?」
二人は無人のレジで支払いを済ませた。
「そうだ。大家さん。車で来ていますから送っていきますよ。荷物もあるし歩いて帰るよりはいいでしょ?同じ場所に帰るのだし」
「そうじゃね。お言葉に甘えましょうかね」
「はい。正面に車を廻してきますね。あっ。荷物、持っていきますね車に積んでおきますよ」
「それなら、私も一緒に行きますよ」
二人は並んであるき始めた。
男性は、自分の買い物を手に持って、カートには大量に買っていた、大家さんの荷物を入れている。日用品も多いが、食料も多い。男性から見たら、何ができるのかわからないような、肉や野菜や魚介類が大量にカートに積み込まれている。
「大家さん。こんなに食べられるのですか?」
「ハハハ。孫が、今度遊びに来るからな。その時に出す料理の材料じゃよ」
「あぁそうなのですね。それで、調味料とかも沢山あるのですね」
「なんと言ったかな、あの板みたいな奴。孫娘が持ってきて、これでレシピがいろいろ見られるからって置いていってから、試しにやってみているのですよ」
「へぇそうなのですね」
男性は、車に大家さんが買った物を積み込んで家まで帰る事にした。
暫く車を走らせたら
「あっ!古川さん。ちょっと停めて!」
「どうしました?」
「孫娘が高校合格したお祝いを予約してくる!」
近くのケーキ屋さんで予約をするようだ。
「それなら待っていますよ」
「後で取りに行くから買い物したものをお願いしていいかい?」
「問題ないですよ。冷蔵庫には余裕がありますから」
男性は自虐的に少しだけ笑ってから停めた車を走らせた。
駐車場について、大家さんが買った大量の食材や調味料を抱えながら、自分のカップ麺が入った袋を持って部屋に戻る事になった。
「あっこんばんは」
(え?普段はポニーテールだと思っていたけど、学校?に行くときだけど?普段は下ろしている?こんな時間に、デートなのかな?やっぱり彼氏が居るのだろうな)
---
女性は、今日は仕事が休みだったので、一日部屋で過ごしていた。
さすがに何も食べないのは辛いがせっかくの休日にお弁当では気分が滅入ってしまう。そう考えて、夕方に外に食事に出かける事にした。自分で作るという発想は女性の頭からすっかり消えている状態なのだ。
「あっこんばんは」
(え?)
「あっこんばんは」
女性は、荷物を抱えた男性とすれ違った。
男性が持っていた物を女性が見て少しだけ残念な気分になってしまった。
(やはり、料理を作っているのね。それに、あの量。やっぱり、彼女が居るのね)
(こんなすっぴんで、髪の毛に縛った跡を残して、普段着のまま近くの定食屋に食事に出かけるような女じゃ彼女にはなれないよね)
女性は、マンションの敷地から出て、どっちに行こうか迷っていた。駅方面に向かうか、スーパー方面に向かうかだ。
スーパー方面から小柄な女性が歩いてきた。
「大家さん。こんばんは」
「はい。こんばんは。森川さん。今からデートかい?」
「違いますよ。今日お休みだったから、なにか買ってくるか、食べてこようか、考えていたところですよ」
「そうなのかい?」
「はい」
大家さんは少しだけ考えていた。
女性は、孫娘よりも少しだけ上だが、最近の女性には違いない。
大家さんから見たら、15歳も23歳も大した違いはない。
「そうかい。森川さん。ちょっと私の手伝いしてくれないかい?」
「手伝いですか?」
「孫娘の合格パーティを開くのだけど、その時に出す料理を食べてみて感想が欲しいのだけどダメかい?」
女性は少しだけ躊躇したが、以前に食べた大家さんからもらった”お煮しめ”の味を思い出して、承諾してしまう。
そして、外食をするという計画から、大家さんの家で食事をするという話になってしまった。
一通りの食事を終えて、女性は食事代を払うと大家さんに言ったのだが
「いいよ。意見ももらったし、食事代なんていらないよ」
「そう言われても」
「そうかい?」
「はい」
大家さんは少しだけ考えてから
「それなら、明日ゴミの日だろう。ゴミ出しを頼めるかい?」
「もちろんです」
女性は、明日の朝のゴミ出しの約束をして、少しだけ幸せの気分で部屋に帰った。
--- 翌朝
男性はいつもの時間に起きて、いつもの様に支度をして、部屋を出る。ゴミの日なのはわかっているが自炊をしていない男性の1人ぐらいではゴミは殆ど出ない。月に一回程度で十分なのだ。
女性はいつもよりも早く起きて、大家さんの部屋に行った。
約束していたゴミ出しをするためだ。
「おっ」
男性が扉を開けると、大きなゴミ袋を持った女性がドアにぶつかりそうになっていた。
「あっ申し訳ない」
(やっぱり、あの匂いは、この子からだったのか?大学生なのに毎日料理を作るなんて)
「いえ、大丈夫です」
(社会人だと聞いていたけど、魚とか匂いがしてくる、やっぱり料理しているみたいだね)
「おはようございます。ゴミ。持ちましょうか?」
(少しでも話せるチャンスだからな。彼氏が居るとは思うけど)
「いえ・・・。あっそれなら、これお願いします」
(そんな捨てられた子犬みたいな顔されたら・・・。私のゴミは恥ずかしいけど、大家さんのゴミなら・・・)
「わかりました」
(生ゴミって事は、昨日の夜に作ったのかな?)
「あっありがとうございます」
(優しいな。勘違いしちゃいそう)
(話が続かない・・)
(なにか話さないと・・)
二人は黙って、階段の方に歩いていく。
「あっ」
「どうしました?」
(私、なにかまずかった?)
「いえ、なんでもないです。学生さんですよね?」
(俺は、いきなり何を聞いている!?馬鹿なの?馬鹿なの?ほら、困っている)
(え?私の事?)
「え・・・いえ、働いています。社会人一年目です」
(え?)
「そうなのですか?」
「はい。あっゴミ重くないですか?」
(・・・。大家さんのゴミだから大変かな?)
「いえ?平気ですよ。でもすごいですね。一年目で、しっかりされていて」
(すごいな。一年目なんて大変なのに、料理を毎日しているみたいだし)
「いえ、そうでもないです」
(仕事は慣れちゃったけど、食べ物が・・・なぁ)
二人は黙ってゴミ捨て場まで歩いた。
ゴミ捨て場では、大家さんが掃除をしていた。
「あれぇ二人ともおはようさん」
「おはようございます」「おはようございます」
「古川さん。昨日は荷物ありがとうね。森川さん。ゴミ捨てありがとう。帰りに寄ってね。お煮しめ作っておくから!」
大家さんは掃除をしながら、昨日お互いに聞いた、料理をしない話や彼氏や彼女が居ないと言った話をしてしまった。
「え?」
「え?」
二人に微妙な空気が流れる。
お互いの勘違いが一気に解消されていった。
一年後に角部屋の表札が”古川・森川”という物から”古川”に変わった。
そして、使い込んだキッチンからは匂いではなく二人の笑い声が聞こえてくる。
fin
そこは、寂しい港町。始発を待つ者は誰も居ない。
誰も居ないと解っていながら、1人の男性は毎日ホームに立つ。
ホームで始発電車が到着するのを待っている。
男が持つメモ用紙には、電車の時刻表と到着時間がメモされている。
ホームに電車が滑り込んでくるのを待っている。
数分後に、電車がホームに滑り込んできた。
男は、ホームに吊り下げられている時計を見る。毎朝、男が調整している時計だ。
電車が止まって扉が開く。
寂れた港町の駅では降りる客も少ない。
始発となれば、0人が規定の数字だ。
男は、ホームで客を見ている。
改札は自動改札が導入されている。それでも、お年寄りが多い港町なので、男の手伝いが必要になる場合がある。
男は、誰も降りてこない事を確認した。
男は、ホームから電車が離れたのを確認して娘が残した唯一のペンで、メモ用紙に電車が止まった時刻と利用者数を書き示す。
男の仕事は、駅長となっている。男1人で廻しているような小さな駅だ。
男は、天涯孤独だ。元々は、妻と小学5年生になる娘が居た。男の娘は、学校でいじめられていた。
男が知ったのは、娘が海に身を投げてからだ。男が仕事をしている最中の出来事だ。
そして、身体が弱かった妻が娘の自殺を知って・・・。翌日に自分で、自分の人生の幕引きを行った。
男は、いじめで宝物だった娘と最愛の妻を失った。
男は、止める周りの言葉を無視して翌日から業務に戻った。心に決めた事がある。誰にも話していない、誰にも相談していない事だ。
それから、男は1人で過ごしている。死ぬことを考えた、しかし死ぬのを辞めた。辞めたと言うのは間違っている。男は、ある事を心に決めているのだ。それから、電車の時刻と利用者数を書き始めた。そして、時々利用者数の数字を4色で印を付けている。数字を○で囲んでいる。
1日1枚のメモ用紙を使って、娘が修学旅行で買ってきた唯一の形見であるペンを使って、時刻と電車と利用者数と丸印を付けている。
男が、メモ用紙にメモを作り始めて、7年。娘が本来なら高校を卒業する年になっていた。
毎日付けていたメモも溜まっている。
男は、終電が出ていくまで同じことを繰り返す。時間帯によっては、利用者の人数が数えられない事もある。その場合には、自動改札のデータを見る事にしている。
そして、利用者が減っている事が解っている。
7年。男にとっては長くも短くもあった7年がすぎた。形見である娘からもらったペンも修理をしながら使っている。メモ用紙も大量になっている。大量の紙とペンで記された印を見ながら、男は決心した。
男は、娘をいじめた奴らが、娘が高校卒業するまでに、娘に詫びを入れてくる事を期待していた。
そして、校長を除く学校関係者が1人でも謝罪に現れる事を期待していた。
学校側もいじめの事実を認めた。男は、学校側が謝罪してくれるものとして、謝罪を聞いてから、娘と妻が待つ場所に向かおうと考えていた。しかし、学校だけじゃなくいじめていた本人たちやその親の1人も、謝罪に現れなかった。
ただ1人、校長だけが・・・校長として謝罪に現れた。
校長は、学校を辞めた。自分なりのけじめをとったのだ。男が嬉しかったのは、校長が自分の事を覚えていてくれたことだ。男は、校長がまだ新人と言われる年齢の時に、男の担任だった人物だ。
涙を流しながら謝罪してくれた。そして、命日には毎年墓前を清掃して、仏壇にも謝罪に来てくれている。妻にも同じ様に謝罪してくれている。
関係者の中で校長だけは許そうと男は考えた。
(まずは娘の担任の女性だ)
7年間、担任は学校には電車を使って通っている。
毎日顔を合わせておきながら会釈もしない。男が一番許す事ができない人物なのだ。
メモから剥がして、大量になった紙の中から、担任の印を探す。
担任は、今年に入ってから木曜日に遅くなる事が解っている。
「結城さん」
「え?」
男は、担任を拉致して、県境を越えた山の中に生きたまま放置する事にしている。
娘と妻が眠る海から遠ざけたかったのだ。
「結城さん。私の事がわかりますか?」
「なっ・・・。なんで・・・。こんな辞めて・・・。私が何をしたって言うのよ!離しなさい!」
担任がヒステリックな声をあげる。
男は、うるさそうにしながら話を続ける。
「そんな、ヒステリックにならないでください。私の事がわかりますか?」
「あんたなんか知らないわよ!早く、私を離しなさい」
「はぁ・・・。そうですか。残念です。私の事がわからないのなら、目は必要ないですよね」
男は、持っていたペンで、娘の形見とは違うペンで、担任の目を潰す。
担任の絶叫が響き渡る。心地よい音を聞いているかのように、男の心には揺らがない。
「うるさいですね。こんな人だったのですね。残念です。それに、謝罪するつもりが無いのなら、必要ないでしょう」
「し・・・ゃ・・ざ・・・い?」
「まだわかりませんか?本当に、残念な人ですね」
男は、口枷をする。
口枷が取れないように、顔に瞬間接着剤で固定する。手枷をして、足枷をして、小屋を出る。
顔が判断できないように、薬剤を顔にかける。別に、これで死ななくてもどうでもよかった。事情を知ってから苦しんでもらっても構わない。男を恨んでくれても構わない。そう考えているのだ。
小屋は男が購入したものだ。男は、自分がやりたい事が終われば、その後の事など考えていない。
「簡単に死なないですから安心してください。私はそろそろ帰らないと朝の業務に遅れてしまいます」
「それでは、結城先生。さようなら」
男は、また翌朝から同じ事を行う。
ホームや待合室から聞こえてくる噂話に耳を傾ける。
「結城先生が今日無断欠勤したけど、なにか聞いているか?」
「うーん。またじゃないのか?あの人、月に何回か同じ事をするからな」
「だよな。それに心配してもしょうがないだろうな」
「あぁそうだな。口うるさいヒステリックな人が居なくて静かで良かったよな」
そんな話声が聞こえてくる。
男がつける印の色がその日から減った。
男が付けている印はあと3つ。
娘からもらったペンで付けられ色は全部で5つ。一つは、これで使わなくなる。
男は、そっと、ペンからその色を抜き取って、元々入っていた。使えなくなってしまったインクをペンに戻す。
(次は誰にしましょうか?決まった行動をしている人からにしましょう。そうなると、こっちの男ですね。この女は最後にしたほうがいいでしょう。早くしないと、娘と妻に合うのが遅くなってしまいます)
男は、定期的に電車を使っている、二人の男を順番に拉致する事にした。
男は、二人の男性を観察していた。それこそ、7年間毎日の様に観察していた。1人は、力があるように思えたので、男は考えて身体を鍛えた。力負けをしたら計画自体がダメになってしまう。
インターネット通販で気絶させる事ができるほどの威力になっている違法なスタンガンを購入している。
同じ様に、大量の違法薬物も入手している。自分で使うためではない。
まず、男は、男性を拉致する。
スタンガンで気絶させて、担任が待っている場所につれていく。首輪をして目隠しと口枷と手枷をしてある。首輪や目隠しや口枷や手枷を外すと電流が流れる仕組みになっている事を教える。実際に電流は流れるが死ぬほどではない・・・と、考えていた。
男は次の日に、もうひとりの男を拉致する。
そして、同じ様に首輪を目隠しと口枷と手枷をする。餌も何も与えない。必要ないと思っている。
担任はまだ生きている。顔を潰した状態で二人の男の前に全裸で放置している。
翌日、男は、娘を自殺にまで追いやった女を拉致する。
男は、担任以外の口枷を外す。手枷を外して、男は姿を見せないで、3人に問う。
「7年前に自分たちが何をしたか覚えているのか?」
3人から期待した言葉は返ってこない。
男は、黒色以外をもとに戻したペンで、持ってきた紙に言葉を書く。
”思い出したら言ってくれ、明日また来る”
そして、目隠しを外して、その場を立ち去る。
用意してある食べ物や飲み物には、大量の媚薬が混ぜ込んである。
同じ様に、部屋を温める為に用意した囲炉裏には違法薬物が混ぜ込まれた草木が置いてある。火をつければ幻覚作用がある煙が出るようになっている。
最後の女は、全裸で首輪だけの状態になっている。
どうなろうと関係ないと、男は思っている。
翌日、男が小屋を尋ねると、予想通りの展開になっている。
首輪を外そうと頑張った形跡もあるのだが、無理だったようだ。
鉄の鎖で首を覆っているだけではなく首の周りも鉄製の者を使っている。
男は、昨日と同じ様に、新しい紙に娘のペンで言葉を綴る。
最初に死んだのは、担任だったようだ。
男と女に食事を与えられなくて、何度も犯されてから死んだ。
次は、片方の男だ。もうひとりの男に殺された。
次は男が死んだ。
女が最後に残ったのにはわけがある。
男が、男と女だけになった時に、女にナイフを渡した。
女は、男を刺して、自分の首輪を外そうとしていたができない。男に、懇願したが、男が求めている言葉ではなかった。
男は、女の様子を観察した。そして、ヒントを与えたが女が思い出す事はなかった。
女は最後まで、謝罪の言葉を口にする事はできなかった。でも、女は生きていた。
男は、監禁してから、7日目に男のところに警察が来た。
男は、翌日に娘が自殺した港から身を投げた。
男は、詳細にメモを残していた。
警察がたどり着く時に、女が生きていようと死んでいようと関係ないと書きながら・・・だ。
女は、娘の友達だと、娘が紹介した女だからだ。
男は、娘の友達が助かるのか、死んでしまうのか、どちらでもいいと考えていた。
---
男の遺体はすぐに見つかった。
男は、娘のペンと、妻が残した紙を持って、海に浮かんでいた。
男の顔は穏やかだった。
男が使っていた部屋には、男がメモに使った紙とインクが無くなったペン先と復讐の為に使った道具が残されてた。
fin
何気ない日常の何気ない時間。
それが僕にとってかけがえのない物だったと知ったのは、何もかも・・・。”自分の身体”と”君への想い”と”君と決めたルール”だけが残された日だった。
君は、僕にそんな事を望んでいないだろう。
僕は、初めて、君との約束を僕の都合で破る事にする。
君と決めたルールは4つ。この4つは何が有っても変えないと二人で決めた。
1.嫌がる事はしない
2.他人に迷惑をかけない
3.辛くても笑おう
4.大切にする
だ。
今から1番と4番のルールを破る。
---
高校1年の最初の席決めの時に、隣に座ったのが君で良かった。
最初にルールを決めようと言ったのは君だった。どうせ、1学期だけだと思って、僕は承諾した。
それから、君は高校3年間ずぅーと僕の隣だった。
数え切れないほど、君はルールを決めた。
明日持ってくるお弁当をルールで縛った事も有った。
君はルールという名前のゲームを楽しんでいるようだった。僕も、君と決めたルールを守るのが嬉しかった。
ルールで君と繋がっているのがわかったからだ。
最初のキスも、君が決めたルールだった。
初めて身体を重ねたのは、僕が決めたルールと罰で、君がわざと破って罰を実行する事にしたからだったよね。
お互いにルールを決めて、ゲームを楽しんだ。
僕たちは、高校3年間で数えきれないルールを決めた。
僕たちは、高校3年間の高校生活をルールに則った恋愛ゲームを本気で楽しんだ。
---
私は、君に恋をした。
私は、君を最初から好きだった。
私は、最初から君を求めていた。
私は、最後まで君を守るつもりだ。
私は、ルールを決める事で、君を守りたい。
君は、私のすべて。私が、君のすべてじゃなくてもいい。私のすべては君の物。
私が、私で決めたルールだ。
---
男と女は、高校卒業して、就職した。
男の両親も女の両親も、高校卒業後に二人がプレゼントした旅行で・・・。飛行機事故で帰らぬ人となった。
それから、二人はお互いしか居ないと、より強く思うようになった。
高校時代から続けているお互いのルールでお互いを縛った。
二人しか居なくなった、男と女は自然な流れで、結婚した。
言葉は少なかった。
お互いが決めたルールではなく、社会的なルールには興味がなかった。
「結婚しよう」
「うん」
これだけだった。
二人だけの小さな小さな結婚式をあげた。職場の人も、古くからの友人も、誰も呼ばない二人だけの結婚式だ。
それが周りから見て異常な事だとしても、お互いは二人だけが決めたルールに従っている。
男と女には、社会が決めたルールに従って、多額のお金が舞い込んできた。
しかし、男と女は、そのお金を全額寄付してしまった。自分たちの決めたルール。
・お金は自分たちで稼いだ分だけを使う。
したがって、お互いに稼いでいないお金は必要がない物だった。
自分たちと同じ様に両親を無くした子供たちが居る事を知って、その子たちが過ごす児童養護施設に寄付する事に決めた。
もともと、肉親への興味が薄かった二人は、お互い以外は必要としていなかった。
そんな二人が決めたルールは、4つのルールの上に成り立っていた。
1.嫌がる事はしない
2.他人に迷惑をかけない
3.辛くても笑おう
4.大切にする
二人だけが解る二人だけのルールだ。
---
男は暗い部屋に通された。頭に巻いた包帯が痛々しい。
「細川さん。落ち着いて聞いてください」
「大丈夫です。落ち着いています」
「奥様・・・。真帆さんで間違いありませんか?」
「・・・。刑事さん。教えてください。僕が、ここで、真帆じゃありませんと言ったら、真帆は帰ってきますか?」
「・・・。細川さん」
「大丈夫です。落ち着いています。真帆と決めたルールで、いつだったかな・・・。そうだ、高校の文化祭で決めた物だ。”取り乱さない”と決めました。そうだ。破ったら、相手の望む所にキスをするだったかな・・・。ねぇ刑事さん。教えてください。僕が、ルールを守らないから、真帆は寝たままなのですか?」
男は、泣くわけでもなく、喚くわけでもなく、淡々と刑事に質問していた。
刑事が答えられるわけもなく・・・。時間だけが流れていった。
男は、唯一人の理解者で、ただ1人の肉親を失った。
通り魔に殺されたのだ。
---
お互いの休みを利用して、買い物にでかけた。二人で街にあるスーパーにでかけた。買い物をすませた帰り道。
「真帆!」
ナイフを振り回す男が、男の目に映った。
男は、女と男の間に身体を入れた。女は振り返って、ナイフを持った男が自分の半身を世界で一番大切な男に向かって、ナイフを振りかざしたのを見た。
女は、咄嗟に男を抱きしめて、身体を回転させた。
ナイフは、女の背中に刺さった。ナイフを持った男は、ナイフを抜いて、女を何度も刺した。骨にナイフがあたって折れるまで何度も何度も刺した。男は、倒れ込む女を支えて、地面に頭を打ち付けて意識を飛ばした。
「よかった・・・りゅうちゃんを守れた・・・。よかった。ルールを・・・わたし・・・守れたよ・・・りゅ・・・うちゃ・・・ん」
女は自分が死ぬ事が怖かった。
最愛の竜司に会えなくなるのが怖かった。
竜司が守れたのが嬉しかった。
---
竜司は1人だけになってしまった家に戻った。
笑っている真帆の写真を見つけて、部屋に飾ってある。
遺影は、二人で決めていた。
お互いにいつ死んでもいいようにルールを決めていた。
竜司は、真帆の生命保険を全額寄付した。二人が決めたルールを守ったのだ。
翌日から仕事に出た竜司を同僚や上司は心配した。でも、竜司は、真帆以外から心配されても嬉しくなった。
毎日のように流れるニュースにも興味がなかった。
犯人が解っても、真帆が帰ってくるわけではない。
犯人の父親が偉い議員の先生だからと言って、真帆が新しいルールを決めてくれるわけではない。
犯人の父親が代理人を通して慰謝料を持ってきたからって、真帆が自分のルールを守ってくれるわけではない。
竜司の顔は、笑顔で愛想笑いの状態で固まってしまったかのようになっている。
真帆と決めたルールの三番目を実行している。”辛くても笑おう”
親戚を名乗る者たちや、竜司と真帆の事を知っていると言っている者たちがマスコミを賑わしている。そんな話を聞きながら、竜司は笑って過ごしている。
竜司は、真帆と一緒に過ごした時間を大切にしたいだけなのだ。
マスコミや世間が、竜司を追い詰めていった。
竜司は、いつの間にか、壊れていた。
竜司は、真帆が眠る場所を毎日訪れて話しかけるのが日課になった。
高校の出会いから、真帆と最後に買い物に行った日までを繰り返している。
そして、真帆のルールを思い出して、最後に笑ってその場を立ち去る。
まるで、なにかやらなければならない事を思い出したかのように、にこやかに笑って立ち去るのだ。
(真帆。僕は、君と決めたルールを守るよ。でも、君はルールを守ってくれなかったよね。だから、僕もルールを破る。君と決めた罰を君は実行してくれるのだろう?)
---
男は、2つのルールを破る事に決めた。
”嫌がる事はしない”
男は、女が自分の復讐なんて望んでいない事は解っていた。嫌がるだろう事も解っていた。でも、自分の気持ちが抑えられないのだ。妻を、最愛の女性を、世界で唯一人の身内を奪った犯人が許せない。
”大切にする”
男と女は、決めていた。お互いの身体を大切にする事。自分の身体も心も大切にして、疲れたら休む事。自分の身体を傷つけない事。男は、復讐を果たした後で女の所に旅立とうと思っている。もしかしたら、会えない旅路かもしれない。長い長い旅路になるかも知れない。そう思っていても、男は女が居る場所に行くために、旅立つ決心した。
男と女のルールには、破った時の罰則がある。
4つの基本のルールを破ったら
男は言った
「死んでも許さない。ずぅーと一緒に居る」
女は言った
「ルールを破ったら、探してずぅーと側に居る」
---
「また、その事件ですか?」
「・・・。不思議な事が多いからな」
「そうですよね」
二人の刑事が見ている調書は、被疑者死亡で終わった事件だ。
被害者は、5年前に通り魔殺人事件を起こしている。
薬をやっていて、善悪の判断ができていなかったという理由で無罪になっている。父親が有名な議員先生だった事も影響しているのかも知れない。マスコミも、事件当初は通り魔事件と大々的に報じたが、犯人が解ってからは報道を自粛するようになった。
厚生施設に送られていた男が、遠い施設に移される事が決まった当日。
通り魔事件で唯一死亡した女性の旦那が通り魔犯を殺害した。
自分の妻が刺された場所をと寸分違わない場所を刺していた。背中を9箇所刺した。
警官の護衛も居た。少ないがマスコミも居た。
だが、誰一人として犯行現場を見ていなかった。
白昼の空白。そんな言葉が皆の頭によぎった。
男は、最愛の妻が眠る墓地の前で、墓地を汚さないように、布をかけて、墓地に寄り添うように自分で腹を切って自殺した。自分の血で墓地や地面が汚れないように、細心の注意がされていた。墓地とノートを抱きしめて眠るように死んでいた。
墓の前には、几帳面な字で事件を起こした事の謝罪と経緯が細かく書かれていた。
議員の息子が何時出てくるのかを知るために、男は議員の事務所で働き始めた事も書かれていた。議員の不正も全部メモとして残していた。
”他人に迷惑をかけない”
自分の死後に、警察が調べたりする手間を省いたのだ。男は女の決めたルールを守っただけなのだ。
墓地が汚れたりしたら迷惑をかけると思ったから、男は細心の注意をはらった。
男は、ルールを書いた、三冊にも及ぶノートを胸に抱いて、眠るように旅立った。
「どうやって殺したのか?」
「そうですよね。マスコミもいたし、警察も居たのですよね?」
「・・・。それに、刺し傷が全部同じなんてあり得るか?」
「無理ですよね。それに、事件現場から見つかる場所までもかなりありますよね?」
「あぁまるで誰かが助けたようだよな」
二人は持っていた調書を閉じた。
fin
私と彼の距離を表現するのに、一番適切な言葉は、紅茶が冷めない距離。
彼は隣の部屋に住んでいる。
それは偶然だった。
中学卒業までは、一緒の学校に通っていた。
高校になったら、彼のご家族は引っ越してしまった。何か理由が有ったのだろう。
中学卒業の時に彼に告白しようと思っていた。でも、告白ができなかった。
学校で一番可愛いと言われている子に告白されていた。受け入れると思っていた。
「紀子!」
「え?」
「一緒に帰ろう。オヤジとオフクロとお前のご両親は先に帰ると言っていたぞ」
「なんで?」
「ん?なにが?」
「だって、さっき」
「見ていたのか?」
「うん」
ダメ。泣いちゃダメ。
「紀子。俺は明日引っ越しをする」
「うん。聞いている」
「だからな」
「うん」
「あぁもう。俺は、お前が好きだ」
「え?なに?」
「聞こえただろう。もう一度なんて言わない」
「わたしのことがすき?」
「なんも言わない!」
「明、わたしも、好き」
「よかった」
明は、彼は、高校は別々になったけど、会いに来ると約束してくれた。
私も会いに行くと約束をした。明の新しい住所も私にだけ教えると言ってくれた。
交際が始まった。
そして、お互い都会の大学に合格した。
別々の大学だ。明は、大学の寮に入ると言っていた。私は、一人暮らしをする事にした。
引っ越しをした。
隣も同じ地方の高校から、都会の大学に入った人が来ると教えられた。
気にしてもしょうがないので、自分の荷解きをしていた。
インターホンがなった。
(だれ?)
確認したが姿が見えない。
「隣に引っ越してきた者です」
聞き覚えがある声だがわからない。
姿をわざと見せなくしているのだろうか?
「紀子。久しぶり。いや、5日ぶりか?」
「え?」
そこには、満面の笑みで明が立っていた。
夢じゃないよね?
「え?どうして?」
「隣に引っ越してきたからだぞ?」
「え?だって、寮に」
「最初は、寮に申請出していたけど、許可が出なかった。おじさんに相談したら、紀子が借りた部屋の隣が空いているからと言われて、オフクロもそれならと言ったからな」
「え?え?誰も教えてくれなかったよ?」
「俺が黙っていてくれとお願いした。実際、寮が空くかも知れないからな」
「!」
「紀子?」
泣き出しそうだ。
「紀子。なくなよ。悪かった。そうだ。紅茶でも飲まないか?ほら、デートした時に飲んだやつあるだろう?お前が美味しいって言っていたやつだよ。あれがうまく入れられるようになったからな」
「へ?」
「ほら来いよ。俺の片付けは終わっているから、一緒に飲もう!」
「うん?」
明に手をひかれるまま隣の部屋にはいる。
明が隣に引っ越してきた?
「明?」
「なに?」
「紅茶の入れ方教えてくれる?」
「ん?いいけど?」
「ほら、この前、明が美味しいと言った・・・ほら、あの紅茶?」
「オータムナルか?」
「そうそう、そのオーなんとかが美味しかった!」
「わかった。でも、お前、紅茶よりも緑茶だろう?」
「そうだよ?でも、明と飲むなら紅茶の方がいい!」
「そうだな!紀子。今度の休みに、買いに行こう。合格祝いをしていなかったよな?」
「え?それなら、明にだって、私何もしてないよ?」
「ううん。紀子からは、俺が欲しかった物がもらえたから必要ない」
「え?なにか?」
明がニヤニヤしている。
この顔の時は、私の嫌がる事を言わせようとしている時か、恥ずかしがるような事をするときの顔だ。
あ!
引っ越しをする前、両家の家族公認で、私と明は、2泊旅行にでかけた。
初めての二人だけの旅行だ。明は受験が終わってからバイトを始めた。貯めたお金で、伊豆旅行を計画してくれていた。卒業祝いだと両親を説得した。私の両親もどうやって説得したのかわからないが、了承してくれた。
そしてでかけた伊豆旅行で初めて私は明に抱かれた。
それまでキスしたりや触り合ったりはしていたが、そこまでだった。明なりの誠意だと言っていた。でも、伊豆旅行で初めて、明を迎い入れた。すごく痛かったが、すごく嬉しかった。明と一つになれたのが嬉しかった。
旅行では、土産物屋さんで見つけた3分が測れる砂時計を買った。
明が好きな紅茶を入れるのに必要などだと言っていた。
”最後の3分”
明が私に教えてくれた紅茶を入れる時に一番大事な時間だ。
準備の時間は必要だ。
茶葉が開いて紅茶が出てくる3分間が、明が言っている”最後の3分”。この間に話をしながら、紅茶と対面に座る人の事を考える時間なのだと言っている。
それから、私と明は、何度も何度も、”最後の3分”を楽しむ。
明が部屋に帰ってくる。
私が部屋に居るのを確認するかのように、そっけないメッセージが届く。
”今から行く”
これだけで十分だ。
私は、メッセージに”紅茶?”とだけ返す。
部屋に居ないときには、部屋に居ないと返事を返す事になっている。
明らからは一言だけの返事が返される。
ここで明の気分が解る。絵文字の時もあれば、長文の時もある。一言の時が多い。でも、それで十分だ。
明は鍵を持っているのに、わざわざインターホンを鳴らす。
私は、明が来る前に紅茶の準備を始める。
教えられたように、教えられた通りに、明が喜んでくれる事を期待して。
--
「これも片付けていいですか?」
「お願いします」
疲れ切った老夫婦が、業者の問いかけに答えを返す。
10月に差し掛かろうとしている時期。今年も気温が落ち着かずに夏のように暑い。
都会の片隅の大学生が多く住むマンションの一室で片付けが行われている。
この部屋に住んでいた。男子大学生が危険ドラッグをキメて運転していた車に跳ねられて死亡した。
マンションまで3分くらいの場所だ。
大学生は、彼女の為に予約していた、ケーキを取りに外に出て、事故にあってしまったのだ。
些細な事で喧嘩していた大学生は、仲直りのためにケーキを予約していたのだ。大学生は、彼女にケーキを予約してある事を告げて、紅茶を用意しておいて欲しいと彼女にお願いした。彼らなりの仲直りの方法なのだ。
彼女は、了承するまで3分間ぐずった。自分が無茶な事を言っているのは解っていた。でも、彼には解ってほしかった。彼とインターホン越しに話をした。彼が条件を出したが納得してくれた。彼女は、彼に謝罪して、彼も納得してくれた。
彼女は、紅茶を入れる準備を始める。
彼は、ケーキを受け取りに外にでかけた。
たった3分。
されど3分。
かれを引き止めた3分で、彼女は彼を失ってしまった。
引き止めないで、部屋に入れてから話せばよかったと彼女は悔やんだ。
彼女は、彼から送られたメッセージとインターホンに残された、彼との最後の3分間に交わされた会話が彼女に残された物だった。
--
彼が隣に居るのが当たり前だと思っていた。
”今から行く”
彼は私にそっけないメッセージをくれる。
これから、彼が好きなオータムナルの準備を始める。
ポットに入る分量と二人分のお湯を沸かす。
それから、二人分の茶葉を取り出して、軽く振るいにかける。小さな茶葉やゴミを取り除くためだ。
一度目のお湯は、ポットとカップを温めるのに使用する。
少しだけもったいないが、彼がこの方法が好きなのだ。
二度目のお湯を沸かす。
今度は、たっぷりと沸かす。
お湯がフツフツと言ってきたら一旦火を止める。お湯を休ませるのがいいそうだ。
その間に、オータムナルによく合うミルクを作る。
ダージリンとしては茶葉も厚くてしっかりしているし、渋めになる。
彼は、これに、甘めに作ったミルクを入れて飲むのが好きなのだ。
ミルク人肌くらいまで温めた所で、インターホンがなる。
スペアキーも渡しているし、部屋の番号も解っている。下のセキュリティロックの方法も解っているのに、彼は必ずインターホンを鳴らす。私は、インターホンを確認してロックを外す。
休めていたお湯に火を入れる。
彼の到着と同時くらいに、お湯が湧くのだ。
彼を出迎えに玄関に行く。その時に、お湯を火から下ろす。
持ってきてくれたケーキを受け取る。
最初の3分間は準備の時間だ。
ポットとカップをお湯から取り出す。
ケーキをお皿に並べる。
湧いたばかりのお湯をもう一度カップに注ぐ。
二人分の茶葉とポットを持っていく。
慣れた手付きで紅茶の準備を始める。
茶葉を見て、お湯の量を調整する。少しだけお湯が熱いと感じると、ここでお湯を冷ますのだ。
この間に、話しかけてはだめ。私だけが楽しめる。ゆっくりと眺めている事が許される時間なのだ。
茶葉を入れたポットにお湯を注ぐ。
そして、用意している砂時計をひっくり返す。
最高の3分が開始される。
私は、話をする。
紅茶ができるまでの3分間。開き始める茶葉からの匂いを感じながら、話をする。
3分間が終わってしまった。
紅茶が冷めたら居なくなってしまう。湯気が上がらなくなったら、彼を感じられなくなる。
残された3分。
私が彼を感じていられる最後の時間。
これは、私への罰。
私が、あんな事を言わなければ、彼との距離はもっと近くなっていた。
私は、永遠に彼と交わした”最後の3分”のために紅茶を入れる。
彼が美味しいと言ってくれた、彼が私に教えてくれた、彼が私に残してくれた物のために、私は”最後の3分”を楽しむ。
茶葉が開く3分間。
私が、彼と言葉を交わした、最後の3分。
彼が残してくれた。私の唯一の希望。
--
「なぁ母さん」
「なんですか?」
「のりちゃん」
「えぇ妊娠していて、産んで育てると言っているそうですよ」
「そうか、明の子供か」
「そうね。こんなに、哀しい初孫なんて」
「小野さんは?」
「賛成しているわ。謝罪しに行ったら怒られたわ。結婚を認めているから、子供を産ませますと言ってくれているわよ」
「そうか。嬉しいな。明の子供か。のりちゃんは抱かせてくれるかな」
「大丈夫よ。でも、明に似て、紅茶が好きになったら、この荷物を渡しましょう」
「そうだな」
「荷物片付け終わりました!」
「ありがとう」「今、行きます」
老夫婦は何もなくなった部屋を確認してから、そっとドアを閉めた。
fin