ちょっとだけ切ない短編集

 あぁ今日も終電を逃してしまった。
 しょうがない。いつものように、プロジェクトの進行状況を確認して、問題がありそうなところをレビューしておこうかな。

 僕が務める会社は、ソフトウェアの開発を行っている。小さな地方都市の、小さな小さな会社ですが、幸いな事に仕事が切れる事がない。人手不足とまでは言わないけど、待機工数が発生しないくらいには仕事が充実している。こんな事を言うと自慢に聞こえかもしれないが、僕が開発した”開発ライブラリ”が売れている。
 音声を使って操作コマンド入力を可能にする開発ライブラリだ。各種デバイスで、似たような事ができるようになっているが、それらとは認識率が違う上に、デバイスによる差異をなくしたラッパーまで用意している。一回ライブラリの使い方を覚えれば、違うデバイスでも同じ使い方ができるのだ。僕が作ったのは、それだけではなく、使っている人の声が、聞いている人にどう聞こえるのか?それを、108の感情から割り出すようにしている。感情判定ができるようになっているのだ。急いで聞こえる時には、手順を数個飛ばすようなアプリケーションの構築ができるようになる。画期的なのは、そこではなく、ライブラリが自動的に組み込んだアプリケーションの機能を学習して、最適化を行う部分にある。僕の最高傑作と言っても過言ではない。

 そんな開発ライブラリだが、単体での販売はそれほど多くない。組み込みが容易なために、値段設定は高くなっている。そのために、ライブラリの一部機能だけを使いたい顧客からのカスタマイズ案件が多い。社内要因は、そのカスタマイズや、ラッパーの開発が主な業務になっている。

 僕は、深夜の暇つぶしを始める事にした。
 社内のルールで、帰宅時には全ソースをコミットする事が義務付けられている。いつ倒れてもおかしくない職場(けしてブラックではない)なので、最新版のソースは、ローカル環境と社内サーバにしっかり保存する事になっている。
 文章(仕様書や見積もりや発注書や議事録)は、ローカルには置かないで、社内サーバにだけ保存するようになっている。これらの設定を作ったのは、数年前に他界してしまった。真辺という技術者だ。僕が、頼んで来て構築してもらった。ネットワークから、開発まで一人でできる奴で、都会の会社で火消し部隊を率いていたようだ。

 さて、最新版のソースを取得して・・・。
「増田の所、コンパイルエラーが出ているじゃぁないか・・・。ぉぃおい、このコーディングはなんだ・・・会議中に、奴は何を聞いていたんだ」

 コミットするソースは、最低限コンパイルエラーが出ないようにする事と義務付けている。
 そうしないと、他の人が待機してしまう可能性があるためだ。コンパイルエラーを回避する方法はいくらでもある。これも、真辺の置き土産だが、コンパイルチェックを行った結果を読み込ませると、ソースコードの修正を行ってくれるツールがある。サーバに仕込んでいるので、一通りこれで、コンパイルエラーを回避しておくことにする。最終コミット者に、修正内容がエラー内容と修正前のコードと共にメールで伝えられるというおまけ付きだ。

「恵子ちゃんの所も酷いなぁコンパイル以前の問題だなぁ、ラッパークラスを作ればいいのに、そうすればNULL判定だけでこの部分のソースが綺麗になるし、わかりやすい」
「中村部長も・・・これじゃぁデータに依存しちゃう。データ依存すると、開発コストが嵩むって自分で言っていたのに・・・仕様がわからないから指摘だけだな」

 僕の深夜の時間つぶしはこうして進んでいく。始発が動き出す頃には、一通り僕のライブラリを使っているプロジェクトに対してのレビューが完了する。時計を確認すると、既に7時を回っていた。後2時間もすれば、皆も出社して来るだろう、僕は何時ものように、そろそろ帰ろう。
 ホワイトボードには、何ヶ月か前に書いた、”午後出社”の文字が残されている。まぁ無くても、僕が午後にならないと出社しないのは皆知っているから問題ない。こういう所は、小さな会社で助かっている。大きな会社ではきっとこうは行かないだろう。

 さて、パソコンも落としたし、コミットされたのも確認した。

 さて帰ろう。

--
「恵子ちゃん。結合してみようかぁ」
「は~い。わかりました。コンパイルは通ると思うので・・・」
「いいよいいよ、納期までまだ時間があるから、インターフェースが正しいかだけ確認しよ」
「わかりました」
「部長。ライブラリも組み込むので、キーを発行してください」
「おぉわかった。それにしても、田中の奴も面倒な事するよなぁ都度キーを生成しないとダメなんて・・・ほら、発行したぞ」
「ありがとうございます。部長それを言ったら、そのおかげでライブラリを利用する事が出来る会社を限定できているんですから」
「あぁわかっている。わかっている。ほら、早く結合しろよ」
「ん?エラーが出るなぁ。ライブラリの組み込みの所だなぁ・・・部長、何か変えました?」
「バカ、俺に弄れるはずないだろう。どうせ、インターフェース関連の問題だろう、ドキュメントみて調べておけよ、ちょっと客先に行ってくる。キーが必要になったら、自分で発行していいからな」
「わかりました。戻りは」
「15時位になると思う。もしかしたら、お客さんとそのまま食事に行くかも知れない。そうなったら連絡する」
「わかりました。誰かに聞かれたら、飲みに行くから直帰しましたって答えておきます」

 ・・・・昼休みも終わって、午後の業務が開始された
「増田さん。わかりました。部長、ライブラリをラッピングする API を作っていたみたいです。それを入れてみたら、うまくいきました」
「あぁそうか、この前の会議で、ラッピング API を使うようにいわれて、そっちに切り替えたんだったな」
「よしテスト始めるか・・・」
「おっとその前に、今のソースをコミットして置くか・・・」
「よしっと」
「恵子ちゃんは、UI 周りのテストを初めて、今回は弱視の人向けになるから、そのつもりでテストをやってね」
「わかりました。テスト仕様書はどうしましょう?」
「あぁ・・・まだいいかな。でも、ひな形が有ったはずだから、メモだけを作っておいてね」
「増田さん。今回は、テスト仕様書の納品はないですよね?」
「うん。現物納品だよ」
「それなら、画面ショットとかいらないですよね?」
「いらない。いらない。テスト項目だけ先に作って、後でレビューしよう」
「了解です。3倍でいいですか?」
「そこまでいらないかな。倍でいいよ」
「わかりました!」

 どうやらテストを始めるようだ。僕の出番はしばらくはなさそうだな。
 テスト仕様書も作るようになったし、大分業務改善ができているよね。でも、増田。倍は少ないと思うけどな。ライブラリを使っているからって、UI周りは新規開発なんだから、コードの3倍くらいはテストしたほうがいいとは思うけどな。まぁプロジェクトリーダの増田が決めた事だから、それでいいのかもしれないな。
 昨晩直した所も無事コミットされたし、さて、ライブラリの拡張でもやろうかなぁそれとも、ラッピング API の方を充実させようか。時間はまだあるから、手つかずになっている。ライブラリの拡張をやってみようか。

・・・・
「よし今日の業務も無事終わり!」
「そうですね」
「恵子ちゃん。時間も早いから、ちょっと飯でもいかない?」
「ゴメンなさい。今日デートなの」
「ぉぃ。またかぁ」
「そ」
「まぁしょうがないな」

 電話がなる音がした。
「はい。はい。そうですね。解りました」
「部長?」
「そ、客から要望が出てきて、バカな社長が、明日にも見積もりを出しますって言ったらしく、今から見積書の作成をやるんだって」
「部長戻ってくるんだ」
「らしいね。恵子ちゃんは帰っていいよ。いかなきゃぁならない所あるんでしょ」
「すみません。今日が、丁度一周忌ですので・・・逢いにいかなくちゃ」
「あぁそうだね。そうした方がいいね。その後で、僕とデートしてね」
「気が向いたら考えます」
「お疲れさま」
「お先に失礼します。部長によろしく言っておいてください。増田さん。私なんかをデートに誘う前に、ナースの奥様に何か買って帰ったほうがいいんじゃないのですか?」

・・・・
「増田君どうだい。出来そうかな」
「出来るとは言いませんが、できる限りの事をします。今日、遅くまでかかりそうですよ。最低でも検証コートを書いてから、流してみないとわからないですよ」
「わかった、ビルの管理会社には、私の方から申請を出しておく」
「よろしくお願いします。このビルで一人は嫌だなぁ」
「まぁそう言うな、後2ヶ月もすれば、新しい所に引っ越しするからな」
「え!?本決まりなんですか?」
「社長が今日決断したよ、それも逢って、その見積もりが重要な意味を持って来るんだ」
「え・・・あぁ・・・この見積もりの提出先が、引っ越し先なんですね。敷金をシステム開発費で減額するんですね」
「まぁ簡単に言ってしまえばそう言う事だな」
「わかりました、全力を尽くします」
「よろしく頼む。私も残るから・・・な」
「いや、邪魔なので帰ってください」
「ぉぃおい。邪魔は無いだろう、『お疲れのようですから、部長は引き上げてください』位の事は言って欲しいなぁ」
「何をいまさら・・・。いや本当に大丈夫ですから、居られても、プレッシャーにしかならないから、帰ってください」
「わかった、わかった。それじゃぁよろしく頼むな。お先」
「お疲れさま。部長、私、明日は午後から来ますね」
「おぉわかった。それじゃ」

 そう言えば、今日、嫁も遅くなるって連絡が来たな。
 数年前から目覚めなかった、高校生が目を覚ましたとかで、対応で忙しくなるとか言っていたな。

 どうしろって言うんだ、これじゃぁ検証コードが動かないぞ。ラッピング API を使って・・・ぉ?
 何だ、このオーバーライド。知らないぞ、誰かが作ったのか?
 ぉぉこれを使えば・・・出来そうだな。よし作ってみるか・・・・。

 23時
 出来た、ラッピング API のおかげだ・・・ん? これって、コミットされてないのか? サーバにだけソースが上がっていたのか?
 う~ん。う~ん。まぁいいかぁ他に影響しそうにないし、この見積もりでは必須の機能だから、コミットしちゃえ!
 さて見積もりの作成を行うか・・・。あぁそうかぁ、掃除の時間か

・・・・
「あれぇおばちゃん達って夜の掃除もやっているの?」
「何いってんだか、夜もこのメンバーだよ、一年前からずぅーとね。」
「一年前からかぁ・・・。」
「そうだね。発見したのも、おばちゃん達だったんだもんね」
「そうだよ、驚いたからね。」
「そうそう、増田さん。時々何だけど、パソコンの電源が付いたままになって居るけど、消してもいいの?」
「え、サーバ室の奴じゃぁ無くて・・・?」
「違う違う。ほら、今日も付いて居るでしょ。ディスプレイは付いてないけど、パソコン本体は動いている音するでしょ」
「夜だと静かだから、音で気がついたんだけどね」
「え!?だって、あのパソコン・・・・。田中さんが最後に使っていた物で、電源が故障して入らないはず・・・だよ」
「そうなの?だって、動いて居るでしょ。ほら音もするしね」

 増田は、パソコンに駆け寄って確認した、確かに電源が入っているし、HDD の駆動音もする。ファンの音も確かに聞こえてくる。増田は、おそるおそるディスプレイに電源を入れてみた。起動していない。ケーブルが繋がって居ないのではないかと思い。確認するが、問題ない・ディスプレイを他のパソコンに繋いでみたが、問題なく使える。
 そして、増田は決定的な事に気がついてしまった。居るはずが無い田中の椅子が暖かいのだ、そして、キーボード・マウスも微妙に暖かいのだ・・・・・・・・。

「あぁ田中さん仕事熱心だったからね」

 掃除のおばちゃんは、そう言ってその場を離れていった。
 心からの恐怖と、そして感情レベルで納得している自分が居る。恵子ちゃんの婚約者であった田中さんは、1年前の昨日、ここで倒れていたのが発見され、病院に搬送された。医師ができたのは、田中さんの死亡を確認する事だけだった。

 掃除のおばちゃんが最後に言ったセリフ「田中さん仕事熱心だったからね」が、頭から離れないでいる。

 会社の引っ越しも決まった。
 しかし、恵子ちゃんの隣の席には、電源が入らないはずのパソコンとディスプレイ。誰も使う事がない、マウスとキーボード。
 それから、田中さんが一番使っていた、コーヒーメーカが置かれている。会社も規模が大きくなって、一時的に机が足りなくなったが、田中さんの席だけは残されている。

 今でも、田中さんの席は誰かが使っている様に綺麗にキープされ、深夜にパソコンが起動されている。

fin
 僕には、彼女が居る。他の人には見えないが、僕には彼女を感じる事が出来るし、彼女を見ることができる。
 彼女とのであいは、かなり前にさかのぼらなければならない。僕と彼女は、世間で言う”幼なじみ”の関係にある。僕が、彼女を好きだって事に気がついて、彼女が受け入れてくれたのは、つい最近の事で、彼女が肉体を失った日になる。

 彼女が好きなアニメの劇場版のチケットを買って、日曜日に映画に誘った。彼女は友達と行く予定だったようだが、僕の誘いを受けてくれた。

 そして、映画を見る前に、待ちの駅前の喫茶件で僕の気持ちを打ち明けた。
 彼女は、わかっていたのだろうか、すぐに返事をくれた。

「私も、幸宏君の事、好きだよ」

 そして、言葉を続けた
「気がついていた?美久も幸宏君の事を見ていたの・・・を」

 僕は、正直に美香に告げた。「気が付かなかった」と・・・。
 僕は美香だけが居ればいい。美香がどこにいても見つける事が出来るし、美香を感じる事ができる。

 僕の美香への気持ちを、美香に熱く語っている。そんな僕の話を美香は微笑んで聞いてくれる。

 でも、美香は優しく微笑んで
「私が居なくなっても、私を探さないでね。美久に優しくしてね」
 僕は、このセリフの意味を理解する事が出来なかった。

 これから起こる悲劇を考えていなかった。

 お盆の真っただ中の8月16日。僕たちは、喫茶店を出て、この街唯一の地下道を通って映画館に向かっていた。

 この日地下道を歩いたのには、理由が合った。地上が太陽の日差しで暑かった事もあるが、地上でお披露目するビルの取材が行われていて、通りがふさがれていて、歩きにくかった。

 しかし、この選択を僕は後々まで後悔する事になる。

 9時31分。事故が発生した時間だ。

 完成を控えたビルの地下部分で、ガス漏れから引き起こされたガス爆発が発生した。
 僕達は、このビルの前を通り抜けて、50m 位の所を歩いていた。後ろから、鼓膜を突き破る爆音と一緒に瓦礫が飛んで来た。

 爆音や瓦礫の後に襲ってきたのは、猛烈な炎の乱舞だった。

 僕は、壁際に吹き飛ばされて強く胸を打った。息が止まる思いがした。
 しかし、これは序章でしか無かった。その後の炎の乱舞で、僕は身体の左半分を業火にさらすことになる。

 僕は、美香だけは、美香だけは守らないと・・・握っていた、美香の手に力を込める。強く握り返されるのがわかる。美香を引き寄せる。僕の身体で、美香を業火から守り抜く。

 僕は、この時まで美香の手を握っていた。確かに、左手で美香の手を握っていた。

 しかし、握っているハズの左手には、美香の重さを感じる事が出来なくなっていた。

 そこで、僕の意識は闇に閉ざされた。

 次に、僕が左手に美香の手を感じたのは、病院のベッドの上だった。美香の右手は、僕の左手に確かにあった。
 しかし、右手の先にあるハズの美香が居ないのだ。

 そして、僕は左半分のから来る激痛を感じて、改めて周りを見回した。
 両親と幸昭の姿があった、そこにいるハズの、美香がいない。

 声が出ない。左手には、確かに美香の右手が見える。僕が、美香にプレゼントした指輪もしている。

 でも、美香が居ない。僕は、左半身の火傷を追ったが、命に別条ない。身体の一部のやけど以外は、問題ないようだ。

 そして、僕は痛みを堪えて、聞いた。
「美香は、どこに居るの?右手だけここにあるのに?」

「美香ちゃんは見つかってないの?」

 僕は、母親の言っている意味が解らなかった。
 そもそも、これから映画を見ようと思って、地下街を歩いていた、僕たちがなんで病院のベッドに横になっているのか?理解できない。

 そして、なぜ美香の右手だけが僕の左手にあるのか・・・・。

 消防士らしき人が入ってきて、僕の話を聞きたいとの話だった。
 消防士は、大木と名乗った。ナース・・・看護師のお姉さんの同級生だと話していた。

 先に僕の置かれている状況の説明をお願いした。

 大木さんが言うには、完成間近のビルの地下で、テナントの工事が行われていたが、そこでガス漏れ事故が発生して、1店舗で小さな爆発が発生し、その隣接していた店舗を巻き込む形で大規模なガス爆発に発展したとの話だった。

 そして、地下道に逃げ場を失った爆風と炎が吹き抜けていった。

 まさにそこは生き地獄だと言っていた。
 地下道は、全長700m程度の小さな物だった。その地下道の中で、今のところ生還が確認出来たのは、僕を含めて2名だけ。

 そして、僕は爆発から 4日間意識を戻さなかった。今も地下道では懸命な救出作業が行われているが、生存者は確認されていない。
 絶望的な状況だと言う事だ。

 僕は、恐る恐る聞いた
「美香は、僕の彼女は?」

 大木さんらの返答は機械的に
「まだ発見に至っていません」だった。

 そして、その場に居た医者は変な事を言い出した
「君、幸宏君の左手は握った状態で炎に晒されてしまって、指が癒着してしまって、開くことが出来ない」

 そんなはずはない。
 僕の左手は、美香の右手をしっかり握っている。
 僕には、解るのだ。美香の右手である事と、右手が脈打っている感覚が、美香は生きている。

 それから数日後、”美香の遺体が見つかった”と、連絡が入った。

 遺体は、綺麗な状態で全身が確認できる状態だった。
 最初の爆風で壁に打ちつけられたときに、頭を打ったのが原因ではないのか?っと言うことだった。

 しかし、美香は僕の左手と繋がっている。ここにいるのだ、僕にはそれが解るし、僕には美香だけ居れば十分だ。

 それから、数年が過ぎた。僕は、まだ左手に美香の右手を握っている。美香が存在している事の証明として、僕はこの手を離すことはないだろう。

 そんな時に、美久から呼び出された。
「いい加減にして、私だって、美香が居なくなって寂しいの、あなたが何時までもそんな事をしているから、美香はあなたを忘れてくれない。」
「私は、あなたが好きなの、美香を見ている・・・あなたが好きだったの・・・」

 そう言って、僕の左手を握ってきた。僕は、美久の手を振りほどいて、美香が待っているベンチに急いだ。

 そして
「美香は生きているよ、君たちには見えないのかも知れないけど、美香は居るよ僕を待ってくれている」

 美久は黙って僕を見送った。
 僕たちは、手を繋ぎながら、美久の方を振り向いて、手を振ってその場を立ち去った。

 僕は、この日ある決心をしていた。
 僕は、美香の居る場所に旅立つ事を考えていた。

 美香は確かに、僕の側に居るし、感じることもできるが、話すことができない。

 僕は、美香と一緒に居て、もっといろんな事を話したい。
 学校の事、友達の事、そして二人の将来の事・・・。

 だから、僕は、旅立つ決意をしていた。

 美香は黙って僕の話を聞いて、うなずいてくれた。

 美香は、僕と一緒に居たいと思ってくれている。でも、僕には、来てほしくないようだ。美香は、美久の事も大切に思っているのは知っている。
 僕に、美久と一緒に居て欲しいようだ。

 でも、僕は、美香と話せない現状をこれ以上受け入れる事ができない。僕は、美香だけ居ればいい。美香の代わりなんて欲しくないし、必要としていない。

 いろんな方法がある事が解っているが、僕は、僕に相応しい方法を選ぶことにした。
 美香の肉体が見つかった場所で眠るようにしよう・・・っと。

 明日が、ちょうどいいのだろう。
 8月16日。9時31分。僕の魂は、美香の待つ場所に旅立つことが出来た。

---
 ”おねーちゃんいい加減にして、おねーちゃんはガス爆発で死んだの、幸宏君の気持ちをかいほうして、そして、私の中から出ていって!”

 毎晩繰り返される悪夢に、美久は脅えていた。毎晩の様に繰り返される悪夢。

 美香が幸宏に告白されて、受け入れる”夢”を、そんな夢を見ている、自分と同じ顔を持つ姉の死の瞬間までを・・・・。

 いろんな場面が夢で繰り返される。
 幸宏を目で追っていると、姉である美香と目があう事を・・・。幸宏が、姉を好きだという事を・・・。

 前を歩く二人の背中を見つめている自分を・・・。繋がれた手を・・・。

 その繋がれた手が、姉が、幸宏が・・・爆風で飛ばされる瞬間を・・・。

 右手が無い姉が、幸宏を探している事がわかる。
 でも最後には必ず。

「美久助けて」

 怨嗟の様なこのセリフが、美久の中から消えない。
 私が、二人の仲を嫉妬したから?
 私が、美香の願いを邪魔したから?
 私が、幸宏を望んだから?

 美久は、美香に幸宏が繋ぎ止められているのだと・・・理解した。
 そして、幸宏を美香から解放する事で、美香と幸宏を助けようと考えた。
 しかし、それは最悪な結果を生んでしまった。

 幸宏の自殺と言う形で・・・。
 そして、美久も幸宏と美香に誘われるように、同じ道を歩む。

 同じDNAを持つ姉を求めるように、そして、自分自身を開放するために・・・。


















--- 現実

 事故から、3ヶ月が過ぎていた。
 幸昭はまだ、目を開けなかった。

「幸昭。幸昭。目を開けて、貴方だけでも・・・貴方だけでも、目を開けて・・・」
 母親の必死の呼びかけも、病室にこだまするだけだ。

 地下街ガス爆発事故。死者15名。負傷者223名。大惨事だ。
 看護師の増田も、当時の事はよく覚えている。病院がパニックになっていた。消防士の大木が、なん往復もしていたのをはっきりと覚えている。

 8月16日。
 美香と美久が、見に行きたいと話していた映画を、見に行く約束をしていた。
 兄である。幸宏が、美香の思いを受け入れたのだ。兄が、美香を選ぶのはわかっていた。
 美久も悲しそうな顔をしていたが、そうなる事はわかっていたようだ。

 最初の爆発で、爆発現場の上を歩いていた4人は、崩壊した、地下街に落下した。その上に、瓦礫が落ちてきて、下敷きになった。
 少し後ろを歩いていた幸昭は、地下街に落ちる事にはなったが、瓦礫の下敷きにはならずにすんだ。

 幸昭だけは、右手切断するという大怪我をおったが、命は助かった。
 しかし、目を覚まさない。まるで、夢の中を彷徨っているかのように・・・。

 そして、二年近くの時間が流れた。

 本来なら、今年が卒業で、今頃4人で進路を話していただろう。

「幸昭。もう二年が経ったよ。幸宏も美香ちゃんも、美久ちゃんも、見つかっているよ」
「幸昭くん。美香も、美久も、君には生きて欲しいと思っているはずだ。早く目を覚まして、私たちの最後の希望なのだから」

 両家の両親が来て、話しをしていく。

 最初の頃は見舞いに来ていた高校の友達も、受験や就職で忙しくなっている。田舎の夏休みは、高校3年生は、車の免許を取り始める。徐々に来る頻度が少なくなって、最近では誰も来なくなった。
 それを薄情と呼ぶには、少し可愛そうな気がしていた。

 8月16日。9時31分。

 増田は、ナースコールが押された部屋に向っていた。
 二年近く、意識を取り戻さなかった高校生の病室だ。本来なら、個室に入る必要がない患者だったが、諸事情があり個室に入っている。ご両親の負担ではない。

 面会時間ではないが、ご両親に連絡をした。
 30分くらいで駆けつけると言っていた。

 増田は、すぐに大木にも連絡をした。ついでに、旦那にも連絡をして、今日は帰れない事を告げた。

 幸昭は、何事もなかったかのように、本当に、少し寝坊した高校生が、ばつが悪そうに起き出した様だ。
 立ち上がろうとするのを、増田が抑えた。すぐに立ち上がれるわけがないと思ったからだ。

 幸昭は、駆けつけた大木から説明を聞く必要がないと言った。
 全部わかっているから・・・と。

 幸昭の両親と、美香と美久の両親が駆けつけた。
 4人の顔を見て、悪さがバレた子供の様な顔をした。

 しばらく、誰も口を開かない。
 幸昭は、大きく息を吸い込んで
「おふくろ。おやじ。おばさん。おじさん。俺、兄貴と美香ちゃん。美久が、いる所に行くよ。ごめん」

 本当に、それだけ言って目を閉じた。4人は、まだ混乱しているのだろうと思っていた。
 そして、幸昭が眠りに入ったのを確認した。今までと違う事に、安堵も覚えていた。

 しかし、幸昭は二度と目を開けなかった。

 そして、唯一生き残った、幸昭も"同じDNA"を、持つ幸宏を追うように、一切の説明を聞かなくても、すべてを理解しているかの様な微笑みを残して、兄と、愛する美久と、兄の愛した美香が、待つ場所に旅だっていった。

fin
 俺は、消防士をしている。
 よくある話だが、この職業をしていると、”バカ”に遭遇する事が多い。

 今日も、高校生の”ガキ”が、公園で花火をしていると連絡が入った。”警察に言えよ”とも思うが、公園の遊具が燃えていると言われたら、緊急出動しなければならない。

 俺は、大木の様にはなれないだろう。
 やつは、中学生の時に、学校で自殺騒ぎがあり、それが後に事故だと言われて、最終的には、いじめの延長で殺されたと知った。その殺人がきっかけで、同窓会で数名が殺されるという事件があった。やつは、それがきっかけで、今でも収監されている犯人の所に、月イチで通っている。そして、独居老人が増えている田舎町で、独居老人をボランティアで休みの時に訪ね歩いている。
 本人は、罪滅ぼしだと言っている。やつの同級生も何人か紹介されたが、心に傷を持つのか、少し考え方が”普通”じゃなかった。

 今日、警察に引き渡した、”ガキ”も普通ではなかった。3人だったが、3人とも有名市立で、親や親族が、地元ならではの有名人だ。

「所長!」
「おぉおつかれ。引き渡しは終わったか?」
「えぇいつもどおりですよ。警察も受け取りを拒否していますからね」
「まぁそうだろうな。それで?」
「いつもどおりですよ」
「わかった。こちらの義務は果たしたのだから問題ない」
「お願いしますよ」

 どうせ所長の所にも金が流れてきているのだろう。所長もクズだが、それを良しとしている時点で俺も同類なんだろうな。

「佐伯!」

 消防署を出た所で、呼び止められた。
 振り向いた所に居たのは、幼馴染と言っていいだろう。近藤だった

「なんだ。近藤。迎えに来てくれたのか?」
「あぁ高橋に連絡したら、少し遅れると言っていたからな。お前を拾ってから、高橋を拾えばいいだろうからな」

 高橋も、同級生だ。3人でよくつるんでいろんな事をやった。
 だが、俺たちも今年で30になる。この前集まった時に、誰がいい出したかわからないが、”あの場所”に、行ってみようという事になった。

「わかった。それで足は?俺が出すか?」
「お前の乗れるか?」
「乗れるとは思うけど、近藤が車で来ているのなら、そっちがいいよな?俺なら、消防署に停めておいても大丈夫だからな」

 地方都市の消防署だけあって、職員は全員車で出勤してきている。ただ、夜勤明けで車の運転が怪しい場合は、消防署に車を置いたまま帰宅する事がよくある。土地だけは余っているので、職員なら駐車は無料だ。

「そうするか?」
「どこに停めている?」
「その先のコンビニ」
「了解。少し何か買ってから、高橋の所に行くか?」
「そうだな」

 高橋が勤めている会社は、市内にある。車で15分くらいだ。国道を通るか、バイバスを通るか、地元の連中が使う。北街道(きたかいどう)を通るかだが、近藤はバイバスを通らないで、北街道を行くようだ。時間的に、丁度いいのだろう。
 コンビニで買った、サンドイッチをつまみながら、近況報告をお互いに行う。

 それほど頻繁に会っているわけではないが、社会人になってから、1年くらい会わなくても報告しあう近況報告は少なくなる。
 ネットもある。そのために、自然と話は昔話になっていく。

 俺と高橋は同じ中学で、近藤が隣の中学。高校が、俺と近藤が同じで、高橋が違う高校。小学校が同じとかではなく、小学校の時の塾の合宿に参加したときに仲良くなった。
 3泊4日で、目的地の寂れた港町にある、山?にある”野外センター”で勉強をするというものだった。そこで、出会って意気投合した。

 小学生らしく、かわいい悪戯(いたずら)も沢山やった。
 そんな昔話しに花を咲かせていた。

 それは、高橋を拾ってからも変わらない。
 高橋は、約束の時間に間に合いそうに無いと言って、奴が働いている会社の入っているビルの地下にある。カフェで待っていて欲しいと言われた。
 30分程度待っていると、高橋が現れた。小腹も空いていたので、3人で軽く食事を摂ってから、目的地に向かう事にした。

 今から向かいのは、寂れた港町。
 俺たちも、なんで向っているのか、正直わからない。俺たちが、小学生や中学生の時の、話に花を咲かせているのには、理由がある。
 高校の時にも、学校は違ったが、よくつるんでいた。3人とも何か部活をやっていたわけではない。バイト先を同じにして、待ち合わせをして遊びに行ったりしていた。

 高校3年生。夏の終わり。

---
「佐伯。進路どうする?」
「俺は、消防士になるよ。子供の時からの夢だから」
「へぇそんな事言っていたな」

 子供の時からの夢と言っているが実際には違う。
 爺さんから言われ続けて、爺さんが死んでしまった事で、他に選ぶ事ができなくなってしまった”呪い”の様な物だ。

「それにしても、佐伯が消防士とは笑えるな」
「なんだよ。そういうお前はどうする?」

 近藤は、家業を継ぐのだろう。長男だったはずだし、妹だけだったはずだ。

「俺か?多分、高校卒業したら、水産加工会社に就職して、しばらくしたら、修行に出るだろうな」

 おでん屋をやっている近藤としては、それが決められた道なのだろう。
 それに反発する気持ちも有ったのだろう、俺たちと一緒にいる時間が多くなっている。

「そういや、高橋はどうする?」
「俺か?多分、学校の求人に適当に応募すると思うぞ」
「へぇそうなのか?」
「あぁ工業だからな。求人は多いし、殆どが就職だぞ。お前たちみたいなエリート様とは違うからな」

 そんな事を言っているが、俺たちの高校よりも、高橋の入った”科”のほうが偏差値が高い。工業は、”科”ごとの偏差値の開きが大きい。

「あ!そう言えば、佐伯も高橋も、免許取ったよな?」

 俺も、高橋も、5月産まれ。12月生まれの近藤と違って、夏休み中に免許が取得できる。
 就職組として免許の取得が学校から認められるのだ。

「おぉ」「あぁ」
「!!それなら、遊びに行かないか?」
「いいけど、どこへ?」
「どこでもいい。車で出かけようぜ!」
「はぁ車?持ってないのだけど?」
「あぁ大丈夫。俺が免許取ったとき様に、爺さんが乗っていた車もらってある。おやじが言うには、保険も入っている・・・らしい」

 近藤の爺さんの車は、Kカーだ。俺たちは、初めてのドライブで気分が高揚していた。
 目的地はなく、なんとなく車を走らせている。今までは、親父やお袋の車に乗らないと行けない場所にも、行ってみた。

 いつの間にか、辺りは暗くなってきていた。
 時間には、21時近くになっていた。3人とも普段から遊び歩いているので、親たちは何も言わなくなっている。

「そうだ!」
「なんだ、近藤!」
「あぁワリぃワリぃ。クラスの女子共が話していた事を思い出した」
「誰だよ?」
「誰でもいいだろう」「どうせ、飯塚さんだろう?」「っ違う。確かに、飯塚さんの友達らしいけど・・・な」

「そんな事じゃなくて、ほら、飯塚さんたちの町」
「あぁバイバスを行った所にある港町だろう?」
「そうそう、その町の話って聞いたこと無いか?」

 あの町には、いろいろな話しがある。
 野外センターの仏舎利塔に出る火の玉。誰も使っていないのに、水浸しになるトイレ。港の儀式で死んだ男が海に現れる話。元武家屋敷だった場所で夜中に聞こえるうめき声。夜中にプールに佇む子供。中学校の男子更衣室の老婆。いじめを苦に自殺した女子生徒が現れる沢。一度入ったら出られない消波ブロック。

 それぞれに逸話があり、心霊スポットになっている。
 新しくここに、廃業した焼却炉が、夜中に使われている。と、言うものだ。市内なら浮浪者でも居るのだろうという結論になるが、その焼却炉がある場所が、山の中でトンネルを抜けた先にあり、車がなければいけない場所にある。そして、トンネルが車一台が通れるくらいで、もちろん灯りなどない。人が住める場所もない上に、焼却炉も壊れて居るし、事務所だった建物も、土砂崩れで埋まってしまっている。
 その焼却炉で”何か”を燃やしているらしい。煙を目撃した人も居る。その上、土砂で事務所が埋まったときに死んでしまった。夫妻を見たという証言もある。この山を流れる沢が、いじめに苦しんだ女子生が自殺した沢の上流で、女子生徒とその両親では無いかとも言われている。

 そんな話を、車の中で近藤がした。

「それじゃ俺たちでその心霊スポットの真贋を鑑定してやろう」
「はぁバカじゃないのか?」

 しかし、高橋が運転する車は、バイバスに入っている。港町に向かう進路を取っているのだ。
 バイパスに入ってしまうと、あの町まで一直線だ。20分くらいはかかるだろうが。近藤が、愛しの飯塚さんたちが話していた内容を披露した。

 目的地はなかなか見つからなかったが、港町だが、すぐに山がある。狭い町だ。
 話では、港から煙が見える山となっている。この町には、港は二箇所あり、一箇所は小さな港で、地元の人間も殆ど行かないらしい。もうひとつは、灯台があり船も係留してある。バイバスから側道に入る。上り坂になっている側道を上がって、左に曲がる。そして、すぐに右に曲がる。駅方面に向かう。駅で一休みする事にした。地図を広げて確認すると、目的地がわかった。
 焼却炉は書かれていなかったが、港から近くて、山道があり、道幅が狭く、トンネルがある。その先が行き止まりになっている。途中に、プールがあり、さらに奥に行くと、お墓がある場所は、そこだけのようだ。

 車を走らせる。

 トンネルを抜ける。”何も”なかった。
「ほら、何も無い。学校が始まったら、飯塚さんたちに言ってやろう!」

 近藤がこんな話を大声でしだす。普段よりも、大きな声は、何か意図があるのだろう。実際、俺たちの話し声は、普段よりも大きくなっている。怖いわけではない。何も無いのはわかっている。

「なんだデマか?」
「焼却炉なんて無いぞ!」

 ゆっくり走っている車の中から周りを見るが、焼却炉は見当たらない。
 5分くらい車を走らせたら、少し広場の様になっている所が見つかった。

 一旦車を止めて、皆外に出る。

「Uターンして帰るか?」
「そうだな」

 皆同じ気分なのだろう。
 なんとなく気持ち悪い。怖いわけではない。気持ち悪いのだ。車のラジオもさっきから入らない。ライトを付けているのに薄暗く感じるのだ。この町で、霧が出るとはあまり聞かない。

 3人が車に乗り込んで、一気にUターンしようとして、アクセルを踏み込む。
 レーサがやるように、アクセルターンをしようとしたのだろ

「おぃ高橋。車がぁぁぁ」

 横滑りを起こしている。

「わかっている!」

”ドン!”

「・・・」「え?」「・・・」

 車が止まった。
”バン!バン!”
”ギャァァァァァ!!”

「なに?」「え?」

 皆、あわてて車から飛び出た。

「何も無いよな?」

 高橋が震える声で聞いてくる。
 車の周りを見るが、砂利の上に、車が横滑りした後が残されているだけだ。

 夜の街灯がない場所。周りを照らすのは、車のヘッドライトと室内灯だけだ。暗い。上を見上げると、星や月が出ているが、光が差し込んでいないかのように、辺りは真っ暗。漆黒の闇だ。

「確かに、人の声だったよな?」
「違う!そんな事はない!どこに、人なんていない!」

 車の後部座席の窓に、”人の手”の跡がある。徐々に赤くなっている。

「高橋。近藤!後ろ!」

 二人が後ろを振り向く。俺には、そこに”誰か”が居たように感じた。

「脅かすなよ」
「まったく、何も居ないよな・・・佐伯・・・どうした?」

 俺は、左腕に激痛を感じる。何かに握られて居るようだ。すごい力で、上腕を掴まれている。
 掴まれているところを、触るが何も無い。上腕が間違いなく締め上げられている。

 引っ張られる。俺だけじゃなく、皆も、同じ上腕を抑えている。車からどんどん離れていく。
 引きずられている。崖なのか、暗闇の方に、そこになにがあるのかわからないが引きずられる。

「やめろ!!!!」

 ふっと上腕を握る力が弱まる。
 高橋と近藤の腕を掴んで、車に戻る。

 運転席に座って、エンジンをかける。

 アクセルを踏み込むが車が前に進んでいる感覚が無い。

 フロントガラスや窓ガラスに、手形が浮かび上がる。赤く、赤い手形が無数に出ている。

「どけぇぇぇ!!!」

 前輪が空転していたのが、急激に地面をとらえて、車が急発進する。

 どこを走ったのかわからないが、トンネルを抜ける。周りの音が戻ってくる感覚になる。
 そうだ、トンネルを抜けてから、音が、虫の鳴き声が、エンジン音が、何も聞こえなかった。
 音が聞こえるようになると、ガラスを覆っていた手形が綺麗に消えている。何もなかったかのように・・・。

 山道をゆっくりと走りながら旧国道に戻る。街灯の下に車を止めた。

 何もいわないで、車から出て、確認する。傷どころか、車には、なんの跡も残っていなかった。
 高橋も近藤も、不思議そうに、気持ち悪そうに、車を確認している。

 そうだ、上腕は?

 掴まれていた場所を確認すると、4本の線が入っている。ただそれだけだ。太めの鉛筆で引いたような線だ。長さは、5cmくらいだろうか。高橋と今度にも、同じ跡が残されていた。左上腕に、4本の線ができている。どこかで、できた線なのだろう。そう考えるしかなかった。

 それから、どうやって帰ったのか覚えていないが、てっぺん近い時間になってしまったが、お互いの家の前で別れた。

---

 あれから12年。
 運転は、近藤から高橋に変わった。

 この辺りは、12年くらいじゃさほど変わらないのだろう。コンビニができたり、パチンコが潰れたり、その程度の変化はあるが、山道に入ってしまうと、何も変わっていないように思える。

「そういやぁ高橋。焼却炉ってあるのだろう?」
「あぁ調べた」

 あれから、俺もしばらく新聞を読むようになった。2日が経過して、4日が経過して、1週間が経過したくらいでやっと落ち着いた。

 高橋も気になって調べたようだ。焼却炉だけではなく、トンネル事やいろいろだ。

 焼却炉が有ったのは事実だったらしいが、事務所とかはなく、近くの農家がゴミをまとめて燃やす場所になっていたようで、実際に、12年前にはすでに使うのを禁止されていたようだ。あの広場は、ゴム集積所になっていて、月に数回。あそこまで、ゴミ集積車が上がっていって、回収する事になっているらしい。焼却炉は、広場の下に有ったらしい。
 そして、あの山のトンネルの先は、東京の物好きが購入しているらしい。トンネルの先は、私有地となって立ち入りが禁止されている。

 そんな話をしていると、トンネルが見えてきた。
 街灯が切れている状態では暗くて確認できないが、確かに、記憶にあるのと同じトンネルが目の前に見えてきている。

 トンネルの中に入る。高橋がハイビームにする。そのまま、車が暗闇を照らしながら進んでいく。狭いトンネルを抜ける。記憶している場所はもっと上のハズだ。

「どうする?」
「せっかくここまで来たから歩くか?」
「そうだな」

 車を、柵の前で止め、懐中電灯を手に持って外に出た。
 こんなに、空が近かったか?
 虫の鳴き声や、草木が揺れる音がしている。星や月明かりで十分明るい。柵を超えて、悪くなってしまっている道路を進む。

 10分くらい進んだのだろうか?
 広場になっている所が見えてきた。目的地だ。

 広場の真ん中まで歩を進める。やっぱりなにもない。

「佐伯!!」
「あぁ?」

 痛い。左上腕がすごく痛む。
 なんだ?どうした?

 横を歩いていたはずの近藤を見る。()()は居た。近藤も左上腕を抑えている。

「近藤!?高橋は?」

 高橋は、俺の左隣に居たはずだ。
 懐中電灯で、地面を照らすが、足跡もなにもない。もともと、そこに存在していなかったかの様だ。

「近藤!高橋は、ど・・こ?え?こ・・・ん・・・ど・・・う??」

 さっきまで近藤は居た、腕を抑えて、うずくまりそうになっていた。確かに居た、近藤も高橋もいなくなっている。

 左上腕に激痛が走る。
『ボクハオマエダケハユルサナイ!』

 誰だ!
『ボクヲワスレタヨウダネ。オモイダスマデタノシンデアゲルヨ』

 指が!俺の指が!
『ユビゴトキデ!!ボクハオマエニハネトバサレタ!!』

 はぁ誰でだよ。
 俺の指・・・ぎゃぁぁぁ今度はなんだ!近藤!高橋!助けろよ!
『フタリハコナイヨ。セイカクニハコラレナイヨ。モウシンデイルヨ』

 嘘だ!そんな・・・いてぇぇぇ何する。お前、出てこい!
『ホラショウコダヨ』

 近藤と高橋。おまえた・・・ち?
 えぇぇ??タぁもぉしちのいみにみちエぇピぃかいにすな??
『アァァコワレチャッタ。ナオセナイカナ?』

---

「大木。悪いな」
「いえ、大丈夫です。佐伯が無断欠勤ならしょうがないですよ」
「わるい。そのかわり、佐伯が見つかったら、休み交代させるからな」
「いえ、いいですよ。どこかで、抜けさせてもらえれば十分ですよ」
「そう言われてもな・・・そうか、そろそろ命日か・・・」
「え?あっその日だけは申し訳ないです」
「大丈夫わかっている。それに、昨日も、ムショに行ってきたのだろう?」
「え?あっはい。変わりないことだけ確認してきました」
「そうか・・・それにしても、お前の同級生ってよりも、同郷でクラスも同じなのだろう?」
「えぇそうですね」
「キャラクター豊かだよな」
「そうですね」
「刑事と、殺人犯と協力者?に、弁護士、お前も、普通なら濃い方なのだろう消防士なんてな。ITで有名になった奴も居るのだろう?医者と看護師や自衛官も居るよな?」
「えぇそうですね。あと、料理人と学校の先生ですかね」
「すごいって言葉が悪いけど、すごいな」
「えぇそうですね」
「それらが全員集まるのだろう?」
「いえ、二人はまだ来られませんからね。あと15年くらいですかね」
「そうだったな。お前たちは、許しているのか?」
「わかりません。少なくても、俺は桜と朝日の味方ですよ。もちろん、桜が許しているのなら、安城も飯塚も、やった事は最低だけど・・・」
「そうか・・・」

 消防署の電話がなった。
 出動要請ではなく、事務所の電話だ。

 所長が電話に出る。小さい消防署だからそうなってしまうのだろう。

「大木。お前にだ!森下桜と名乗っている」
「桜?珍しいな」

 大木は、やっていた書類作成を一旦止めて、電話に出る。

「桜?珍しいなどうした?」
『悪いな。靖。仕事中に・・・お前の家にかけたけど出なかったからな』
「いや。別にいいけどなんだ?」
『正式には、うちの上から連絡が行くと思うけど、佐伯が死体で見つかった。それも、少しだけまずい状況だ』
「え?どういう事だ?」
『さっきのは所長か?』
「あぁ」
『10分後くらいに少し出られるか?』
「大丈夫だ」
『ありがたい。美和も呼んでいる。あと、克己と沙菜もだ』
「そんな事なのか?」
『わからん・・・だから、お前たちの意見を聞きたい』
「わかった。それでどこにいけばいい?」
『10分後に、克己と沙菜が迎えに行く』
「わかった。都合を付けておく」
『たのむ』

 大木は、電話を切った。

「所長。少し出てきていいですか?桜がなにか、個人的に相談したいって事ですので、連絡はつくようにしておきます」
「あぁいいぞ。本当なら、今日お前は休みだからな」
「ありがとうございます」

 着替えた所で、克己が運転する車が、消防署の敷地内に入ってきた。

「悪いな。克己。沙菜も久しぶり」

 3人は、簡単に挨拶を交わした。
 実際には、沙菜と大木は、3年ぶりくらいの再開だが、そんな感じはしない。

 車は、5分くらい走って、国道沿いにある漫画喫茶に入った。
 克己が手続きをして、カラオケルームに通された。克己や桜がよく使う方法だ。内緒の話をするのに丁度良いのだと言っていた。

 すでに全員揃っていた。
「それで桜どういう事だ?佐伯が死んだ事は、まぁ良くはないが、正直どうでもいい。少しだけまずいってどういう事だ」

 桜は、全員を見回すようにしてから
「大木以外には、ちらっと言ったが、佐伯消防士が見つかった場所が、あの場所で、真一に頼んで買ってもらった土地だ」
「桜?大丈夫なのか?」
「あぁ真一には連絡した。そっちに警察が行くかもしれないってな」
「そうか、でも奴なら大丈夫だろう?どうせ、デスマ中だろ?克己!」
「真一の奴は、桜の連絡をいい事に、俺に仕事を振ってきやがった」
「受けるのか?」
「あぁ」

「すまん。桜。それで?」
「”まずい”のはこれからだ、あの場所では無いが、あの場所から下がった場所の広場があるだろう?」

 皆がうなずく
「あそこで、死体が4つ。一つは白骨化していた。見つかった」
「その中の一人が、佐伯って事だな。あぁそして、残りの二人は、克己と真一の知り合いだ」

 皆が沈黙する。
「白骨化した死体は、12年前に行方不明になった、克己と真一の学校の者だ」
「桜。12年前って、行方不明事件か?」

 話は皆知っている。克己と美和に関しては、警察に何度も尋ねられている。
 今回死体で発見された、佐伯/近藤/高橋からいじめられていた。一人の生徒が夏休み明けに居なくなったのだ。佐伯たちが何か知っていると思っていたが、3人は知らないと言っていた。確たる証拠がないまま、行方不明で処理されてしまっていた。

 彼らが大切にしている。昔、寺が有った場所の近くを、流れている沢までは、距離があるために、今回はそこまで警察の手が入ったり、マスコミが入る事は無いだろうが、どこからか嗅ぎつける者が居ないとも限らない。
 それに、彼らとあの山の関係を知られたら、興味本位で取材と称した暴力行為を受けるかもしれない。

「桜。それほどなのか?」
「そうだな。早ければ、今日の夕方のニュースで取り上げられるだろうな」

 死んだ二人は、左腕が切り落とされていた。致命傷は、首を深く切られた事らしい。

 そして白骨は、一部、高橋の車の荷台から発見された。掘り起こされた場所も特定している。そこには、車で轢かれた跡が残る衣服も見つかっている。佐伯は、自分の腹に切断に使ったと思われるボロボロの包丁を指していた。近くには、のこぎりも見つかっている。土の着いたスコップも一緒に見つかっている。

 警察は、佐伯が高橋と近藤を殺した後で、自殺したと見ている。
 12年前の行方不明事案に関係した3人が、それを確認しようとして、仲間割れをしたのではないか?
 奇妙だが、それで説明ができる。

 奇妙と言えば、3人の左上腕の同じ位置に、一つの黒い線が残されていた。

fin
 確かに、僕は、彼女の・・・君の重さを感じていた。ほんの数秒前に、君は僕の腕の中に居た。

 彼女は僕の前に現れた。僕は、一目見て君を愛する道を選んだ。そして、彼女もそれを受け入れてくれた。僕の心には、彼女がいて、彼女が側にいる日常が当然の事の様に思っていた。
 僕は、彼女の夢を聞いて、彼女は僕の夢を聞いてくれた。そう、二人を別つ事が来ることを考えていなかった。

 僕は、彼女と初めて身体を合せた公園に来ている。あの時は、確かに彼女を身体で感じる事が出来た。
 そして、彼女も僕の重みを感じてくれていた。二人は、これが永久に続くことを、信じて疑っていなかった。”疑っていない事”さえも、考える必要はなかった。
 僕は、今感じなくなってしまった重みをかみしめながら、彼女の後を追うことにした。

 やる事を果たしてから・・・。

 あれは、一年前の同じ日。彼女が、僕の重さを感じる事ができなくなった日。
 何が合ったのかは思い出したくもない。あの日、初めて僕たちはお互いを感じる事ができ、その時、僕は左腕と左目を失った。そして、失ってはならない彼女を失ってしまった。彼女との思い出だけを、心の中にとどめ、全てに決着をつける事だけを考えた。恩には恩で、彼女を屠ってくれた心優しき人。
 彼女は確かに僕の中で生きているし、僕は彼女の甘い誘う匂いや腰の柔らかさ、そして確かに感じる事が出来た彼女を、身体全体で覚えている。失ってしまった左腕で彼女を支え、抱き寄せた。その感触までも残っている。そして、触れた唇、触ってくれた事、彼女の中で果てた事。

 全てが昨日の事の様に、思い出す事が出来る。

 そう、ここで確かに彼女と結ばれて・・・そうして、永遠の別れをしたのだ。もうすぐ”やつら”がやってくる。もうすぐ彼女の所に行ける。それだけを、それだけを、それだけを夢見て僕が今日まで死なないで居た。

 もうすぐだ、もうすぐだ、もうすぐだ・・・・。

---
「そういやぁ林の奴事故ったって聞いたけど、何やったんだ?」
「あぁいつもの事だよ。」
「なんだ、そうか、それじゃぁ心配する事じゃないな」
「いやそうでもないみたいだぞ、昨日警察から連絡があってな、林の車に細工された形跡が見つかったけど、何か心当たりは無いか?って聞かれたよ」
「え!?そう・・・なのか?」
「え、奥、何か知っているのか?」
「細工か知らないけど、この前林に合ったときに、”車のバンパーに付いた赤色の染みが、どうやっても消えない”とはなしていたからな。”いたずらされているみたいだ”と話していたぞ」
「あぁその話なら俺も聞いたよ。塗り直しても翌日になるとまた同じ場所が赤くなるってな」
「事故起こすような細工には見えなかったからな」
「でも、もう退院するんだよな?」
「来週だって言っていたな、俺が迎えに行くことにしているんだよ。ほら、あいつあれだろ?」
「あぁまだ彼女の事で両親と揉めているのか?」
「そうみたいだよ。そりゃぁ両親としては...なぁ他の男の子供を産んだって言っている女を嫁には出来ないだろうからな」
「うん。林も解るけど、彼女に隠し通すつもりなんだろう?それでいいのか?」
「でも、ほれあいつ高校の時にも...な」
「それもわかるけどな」
「まぁ奥も一緒に向かいに行こうや、1年前見たいに、海見に行こう。男三人でって言うのはつまらないけどね。」
「そうだなぁ林の退院祝いに久しぶりに行くか...」
「よし、決まりだな。俺は、林を迎えに病院に行って、ここまで来るから、奥は、ここで待っていてくれ。」
「あぁ解ったよ。時間は?」
「林に聞いておくよ。退院時間の関係もあるからな、解ったら連絡するよ。」
「頼むよ。それじゃぁ今日は、俺バイトがあるからな」
「なんだ、まだ辞めてなかったのか?」
「そりゃぁなぁ生活が苦しいからな」

 そういって、奥と俺は別れた。一週間後の再開を約束して、俺はそのままバイト先であるレンタルビデオ店に向かった。
 最近、俺のバイト先ではちょっと変わった事が起きている、バイトの更衣室に、古い映画の金田一シリーズのなんだかと同じ様に印が付いているらしい、俺はその古い映画を見ていないから解らないが、映画好きの店長が言っているから間違い無いだろう。
 まぁ誰かのいたずらだろうけど、俺には被害はないし、直接関係ないだろうから気にしないことにしている。バイトだし危害がありそうなら辞めてしまえばいいと思っている。学校を卒業するまでの生活費稼ぎだし、別にここでなくてもいいと思っている。

「き!キャァァァ!!」

 今日のシフトで入っている女の子の悲鳴だ。

「どうした?」
 俺は、近くに居た別のバイトに声を掛けた。

「・・・」
 ふるえて声にならない。俺は、そのバイトを押しのけて、悲鳴がした方に目を向けた。そこには信じられない光景が広がっていた、”ぬいぐるみが、血を吹き出している”のだ!
 それも、二体のぬいぐるみが....ひとつは完全に潰れて原型を残さない様な状態になっていて、もう一つは左腕を切断さて、そして、左目だと思われ場所から大量の血が流れている。
 俺は、今までいろんな事をしてきたし人を傷つける事も沢山してきた。

 でもこんな薄気味の悪いぬいぐるみを見たことない。
 そして、ぬいぐるみは、どこから出しているのかわからない血が、今でも吹き出している。
 ぬいぐるみが俺を見たような感覚になる。そして、流れ出た血が、血が意志でも有るかのように、俺に近づいてくる。

「どうした!」
 そう店長の声で、意識が戻ってきたのが自分でも解った。

「店長。警察に届けますか?」
 俺は店長にそう聞いた。

「必要ないだろう。いたずらに警察を呼べるか?」

「店長...でも、俺の友達に林って交通かの警察官が居ます。そいつに相談してみましょうか?」
「いいよ。たんなるいたずらだろう。相手にすればつけあがるからな、何も無かったかのように振る舞えばいい」

「そうだ、木村お前片付けをしておけ」
「え?!解りました」
 店長は、俺にそういって店に戻っていった。女の子はまだ錯乱していて、話を聞けなかったが、とりあえず落ち着かせる意味もあるので、別室に連れて行った。
 店もこの時間は混むから早めに片付けて、店に戻らないとまた店長に文句を言われる。
 そう思って、ぬいぐるみに目をやると、当然の事だが、血が止まっていた。
 その変わり目線は俺を捉えている、まるで、俺を捜しに来たかのように思えるくらいだ。
 血を吹こうっと流しに向かうときに、何か解らない物に後ろに引っ張られる感覚にとらわれて、後ろを振り向いた。

「え?!」「・・・・」「・・・・・」「・・・・・・・」「なんで?え?」
 俺は自分の目を疑った、その状況に、現実を受け入れる事を脳が拒否しているかのように、状況の確認が出来ないで居た。

「ぉ木村。仕事早いなもうぬいぐるみ片付けたのか?床は明日掃除はいるから滑らないようにしておけばいいからな」

 そう、ぬいぐるみが”いなく”なっているのだ。
 俺は片付けていないし、一瞬後ろを振り向いただけで、俺は”何も”していない。
 でも確かに、そこに存在していたであろう物が存在していないのだ。

---
 木村の奴大丈夫かなぁあいつ彼女の事をまだ気にしているからな。
 自分が一緒に居ればあんな事にならなかったと・・・。
 彼女の両親にまで頭下げに言ったって話だからな。本人達は、木村が無事だった事を喜んでいるし、彼女も事故だったと思う事にしているんだし、蒸し返さなければ良いんだろうけど、自分が許せないんだろうな。

 まぁ俺が間に入れば問題ないだろうな。
 俺は、そんな事を考えながら、木村を見送った。
 来週か、仕事の納期も過ぎているし、一日休むのは問題ないだろう。

 それに久しぶりに男だけで遊ぶのも悪くない、林の彼女の事や木村のこともあって、三人で遊ぶ事も無かったからな。林には悪いけど、これがきっかけになればいいと思う。
 そんな事を思いながら、自分の会社に戻った。納期を終えたばかりで、皆帰っているが、残務作業が残っているし、来週休みを貰う為にも、やれる事は、全部やっておこうと思う。
 それに...部屋に帰っても、あいつが居ない事の方が辛い。
 木村の事も、林の彼女の事も、そして今の俺の現状も・・・。
 受け入れがたい事だが、やっぱり俺の軽率な行動が、今の結果を生んでいるとしか思えない。

 首筋をひんやりした感触の物が通った。何かに見られている。

 最近、何かから”見られている”と、感じる事が多い。それも何か解らない恐怖も感じる。

 今もその感じが首筋にある。安心を得る為に、首筋に手をやった.何も触る事がない。いつものように勘違いだと思うことにした。

「あぁやっぱりな勘違いだな」
 俺は安心を確信する為に声に出して確認した。
 その瞬間、指に何か触る感触がある。そう、雨でも指に当たったのかと思う様な感触がである。

しかし、指先から手の甲にその雨粒が徐々に移動している、手に付いた雨粒は少し粘着がある。
 .雨だと思い早くその場を離れる。

 そう頭が足に命令しても、足はその場に根でもはっているかのように、一歩を踏み出す事ができない。
 自分でもわからないが、雨に濡れた手を直視するのを拒んでいる。
 指は動く、目も動く、しかし、足も腕も動かない。

 そう左腕だけが動かない。右側に伸ばした左腕が動かないのだ、自分でも理解できない。
 右腕には雨粒を感じない、もちろん頭にも感じる事が出来ないが、左腕だけは雨粒を確認している。

 雨が降っているのだと、心が頭に言い聞かせて、理解させようとしている。

 雨で無いことは、もう頭では理解している。認めたくないのだ。

 右腕で、左腕を手の甲を触ったが濡れている感触がない。
 俺は、そのまま右腕で左腕を確認するように、手を這わせた。
 左腕に、触られていると言う感覚がない。

 そう腕が無くなっているように感じる。
 でも、右手には確かに左腕が存在している感触がある。

 やがて、右手が、有るはずの左肩に来た。肩に触れる右手には違和感がある。右手は確かに左腕が触っている。

 しかし、左肩には左腕が付いていた。そこには、あるはずの左腕の感触がない。
「ぅぅぅぅうぉきゅぅぎゃぁぉぅぇ」
 そう、腕が無くなっている。
 左目の視野も無くなっている。右手には、流れ出る雨の感触だけが伝わってくる...。「そうこれは夢なのだ」「そう俺は今夢を見て居るんだ」

「奥村。奥村。奥村。」
「....ん」
「奥村。あぁよかったぁ連絡が来たときにはびっくりしたぞ」
「ん。木村どうした?」
「どうしたじゃぁないだろう、お前がマンションの前で倒れて病院に運ばれたって聞いたから、俺バイト抜け出してきたんじゃないか?」
「俺、倒れたのか?」
「なんだ覚えてないのか?」
「あぁなんか、左腕が無くなる夢を見て居たのは覚えているけど、夢だからな」

「・・・・」
「木村。悪い冗談は辞めろよ。ほら、有るじゃないか」
 そういって、奥村は左腕を前に出した。

「・・・・」
「・・・木村、これ何だ?」
「奥、その事で刑事さんがお前に聞きたい事があるんだと、それで俺もその刑事に呼び出されたんだ」
「・・・俺は知らないぞ、何も知らないし、何もしていない。俺じゃない」
「解っている。解っている。俺はお前がそんな事出来ない事は知っている」
「でもなんだ、でも、なんだ木村、言いたい事が有るならはっきり言え!」
「・・・・」
 二人の男が入ってきた。

「奥村さん少し落ち着いてください。」
「・・・誰です」
「あぁ失礼、南署の高橋です」「小和瀬です」
 そう言って二人の男は名乗った。

「ちょっとその左手に握られている物についてお聞かせ願えればと思いましてね」
 そう、奥村の左手には刃渡り15cmほどのナイフが握られていた、握られていただけではなく、左腕の肩から手に掛けて真っ赤な血が付着していた。

「見たところ、自分の左腕には傷や怪我がありませんよね。先ほど医師立ち会いで確認させていただきました。そうなると、その血は誰の物でどこで付けられたのかが凄く気になります。お友達の・・・」
「木村です」
「そうそう、木村さんにも来ていただいて、あぁ奥村さんの携帯の発着履歴で、木村さんの名前がありまして、お電話差し上げたら、近くでバイトしていて、さっきまで奥村さんに合っていたって事でしたので、お忙しいとは思いましたが来ていただいて先ほどまで事情を聞いていました」
「・・・」「・・・」

「さて、奥村さん。木村さんのお話ですし、お二人で林と言う友人、あぁ林は南署の”交通課だった”林の事らしいですね。林の事を話していて、西口公園で別れたって事ですが、間違いないですか?」
「えぇ間違いないです。そこから、家に向かって」
「そうですね。奥村さんのお部屋は倒れられていた場所とはかなり離れていますけど、どちらにお行きになる予定だったのでしょうか?」
「え?蒲田にある自分の部屋ですよ」
「えぇそうですね。でも奥村さんが倒れられていた場所は、一年前に転落死があった公園近くのマンションの前ですよ」
「え?俺・・・僕は、確かに部屋に向かう為に、え!?」
「そうです。奥村さん貴方が倒れられていたのは、一年前に当時貴方の恋人だった小沢桂子さんが発見された場所です」
「・・・・。」「・・・・。奥、お前..なんで?」
「知らない。俺は行っていない、桂子の事は、忘れたい・・・俺じゃ・・・」
「しかしですね。事実貴方は、小沢さんが見つかったマンションの前で倒れていたのですよ、左手にそのナイフを握りしめてね」
「・・・・」
「何か思い出されましたか?」
「・・・」
「それに、そのナイフ、どこで買われたのですか?」
「・・・・」「・・・・」

「おや、お二人とも何か見覚えがある見たいですね。今日は、遅いですし、奥村さんも木村さんも混乱している様ですので、明日ゆっくりお話を伺います」
「・・・」
「あの?」
「何ですか、木村さん」
「いや、なんでも無いです」
「何か思い当たる事があるなら、早めに行っていただけるとこちらも調べる手間が省けて助かります」
「いや、本当になんでもないです」
「そうですか、わかりました。何か思い出されたら早めに言ってくださると助かります。調べれば解ることですからね。あぁそうそう、お二人には、明日お持ちの靴を調べさせていただくかも知れません。小沢桂子さんの転落死があった現場に、不明の靴後がいくつか見つかっていますし、それから屋上の手すりにナイフの様な物で付けられた傷もありますからね。その辺りの事を含めてお話が聞ければと思っています」
「・・・」「・・・」

「あ、それから、お友達の林ですが、本日付で退官しています。理由は一身上の都合と聞いています。多分明日は、林さんを交えてお話を聞かなければならないですね。三つの足跡についても聞かなければならないでしょうね」

 それだけ言い残して、高橋と小和瀬と名乗った二人の刑事は部屋を出て行った。
 そして、夜の廊下を歩く音が木霊の様に聞こえてきた。こつこつと遠ざかる足音が何かを遠ざけたがっている二人の気持ちを代弁する様に・・・。


 そして、そこには沈黙だけが残った。医者も看護師も次の患者を迎え入れる為に準備を始めていた、二人は一枚の戸を隔てた待合室の椅子に座っている。ナイフを握りしめていた腕は鈍く重くなっている。それ以上に二人の間には重く苦しい空気が流れている。
「奥、そのナイフ....捨てなかったのか?」
「捨てたよ、公園で捨てたのをお前も見ているだろう?」
「あぁ見ていたよ」
 二人は一変に入ってきた情報で混乱している。

「足跡って言っていたよな?」
「あぁ言っていたな」
「”水を巻いて”消したよな」
「あぁ」
「埃の上に付いた足跡だから、水で流せば全部消えるって言っていたよな?」
「あぁ確かに消えていたし、それ以外の痕跡も全部消したし、ここ一年何もなかったよな?」
「・・・・」「・・・・」
「・・・あれは事故だ!」
「奥村。奥村。解っている、解っている。だから何も言うな」
「ナイフも石も全部捨てたんだから...それに、石は煮沸して...血を洗い流したはずだし...解らないようにもした!」
 きぃ~ドアが開く音がした。そこには先ほどの刑事が二人立っていた。

「おかしいなぁ。何度出口に向かっても、ドアを開けるとまたここの扉の前に戻ってきてしまうんですよね。まぁそのおかげで面白いお話を聞けました。もう少し詳しくお聞きしたいので、署までご同行いただけないでしょうか?」
「・・・・」「・・・・」
 二人はうなずくしか無かった。

 一週間後、二人の元に凶報が届いた。
 林が死んだと言う知らせが届いたのだ。
 林は、夜病院から、見張りをしていた警官二人を振り切って逃亡した。
 病院の中庭に行き、近くにあった石で自分の顔を何度も何度も殴りつけて居たようだ。

 直接の死因は、大きな石が上から落ちてきて林の頭を潰した事だ。

 二人の警官が駆けつけた時には、既に林は死亡していた。

 三人とも自分達のした事を認め話している。
 三人は、奥村の当時の彼女であった、小沢桂子を自殺に見せかけてビルの屋上から突き落としたのだ、原因はいくつかあるようだが、大きいのは、小沢桂子が妊娠し、子供を産むといい出したことにあるようだ。

 そして、奥村が中絶を迫ってた。二人は言い争いから、奥村が、近くにあった石で小沢桂子の頭を殴ってしまった。
 そして、死なせてしまったのだ。それを隠蔽する為に、林に連絡をした。林は、林で奥村からの申し出を断る事が出来なかった。林は結婚を決めている女性を二度犯しているのだ、それも自分だと言わないまま。
 その事を、奥村も木村も知っている。高校の時に、当時の彼女を犯したのは木村と林、そうして二年前に犯したのは林なのだ、その事を知っているのは、三人だけの秘密になっている。林の彼女が産んだ子供は犯された時に出来た子供だが、その子供は事実林の子供だと言う事になる。
 その事実を、今回の奥村の事で白日の下に晒された。

 それが解っているかのように、病院に入院した日に、林は辞職願を提出している。

 そして、残された二人は全てを話て、罪を認めた。

 ただ解らない事がある。
 確かに、あのナイフは捨てたし、ビルの屋上には足跡が残っていない事も確認した。
 血の付いた石が現場に有るはずがないし、石は解らないように工作して捨てたのも確かな事だし、今回の林の自殺も遺書も無ければ何も無い。不可解な事ばかりが残る。そして一番の謎は、血まみれになっていた奥村の腕に付着していた血が人間の物では無かった。

---
 そして、三日後。奥村が、自分で左腕をドアに何度も何度も挟んで、左腕の組織がめちゃくちゃになるまで挟んだようで、その状態で死亡しているのが見つかった。
 残された、木村は何かを悟ったように・・・つぶやいた。

「そうかぁお前が全部やったんだな。ゴメンな。ゴメンな。許されない事だと解っているけど・・・もう許してくれ、お前達の事を忘れていたよ。本当にゴメン」

 そういって、刑事が持っていたボールペンを奪って、自分の左目に突き刺した。
「俺がやったのはこれだったよな。これで許してくれとは言わないけど・・・もう勘弁してくれないか?罪を償ったら、お前達への罪を償いに行くからな。本当にゴメンよ」
 慌てた刑事が、ボールペンを取り上げたがその時には、既に木村の左目は二度と光を見ることが出来ないであろう状態になっていた。

「ゴメンよ」
 そう木村は、呟くと気を失ってしまった。

























「みーちゃん。みーちゃん。どこにいるの?」
「あっママ」
「どうしたの?お手々泥だらけになって!!」
「うん。にゃんにゃんがね。冷たくなっていたの?」
「え?にゃんにゃんが?」
「うん。ほら、いつもみーとママの方を見ていた、三本足のにゃんにゃんだよ」
「あ!それで、みーちゃんはどうしたの?」
「そのにゃんにゃんと約束していた事があったから、その約束を守ってきたの!」
「え?にゃんにゃんと何を約束したの?」
「う~ん。もう大丈夫かなぁ??」
「うん。怒らないから教えてね」
「うん。あのね。ママが、一年くらい前にこの近くの公園で冷たくなっていたにゃんにゃんを埋めてお墓作ってくれたでしょ。あそこの隣に埋めて欲しいって言われていたの」
「・・・え。だって、みーちゃん知らないでしょ...そんな事?」
「うん。でも、そのにゃんにゃんが言っていたよ。ママは優しい人で、他の人が見ぬふりしていたにゃんにゃんをしっかり弔ってくれたんだって。そして、時々お祈りをしてくれていたんだよってね」
「・・・。それ誰に聞いたの?」
「だから、三本足のにゃんにゃんだよ」
 ・・・・・。もしかして、この子の病気が奇跡的に治ったのは...そうなの?

「ねぇみーちゃん。ママと一緒にそのにゃんにゃんを埋めた所に連れて行って」
「いいよ。きっとにゃんにゃんも喜ぶと思うよ!」
 そう確かに”ここ”は、一年前に私が、頭を潰されて死んでいた猫を埋めた公園の花壇だ。
 そして、思い出したときに手を合わせたり、花壇に花を埋めたりしていたが、3ヶ月前まで病院のベッドにいた娘が知るはずもない事だ。

「ここなのね?みーちゃん。二人で、にゃんにゃんに名前付けてあげましょう。二匹が天国でも一緒に入られるようにね。みーちゃんが名前付けてあげて、そして呼んであげようね」
「うん。じゃぁ『ハナ』と『ケン』」
「そう。それじゃ、みーちゃん。二人で名前を呼んであげようね」

「うん。いっせいの」
『ハナ』『ケン』
「(ありがとう。娘を救ってくれて...)」

「(にゃ~)」「(にゃ~)」

「(お礼を言うのは私の方だよ。本当に、ありがとう。安らかに眠ってね!)(名前気に入ってくれた?娘をありがとう。お礼が遅くなってごめんなさい)」

 もう、ハナもケンも答えなかった。

fin
 彼は、僕にこんな感じで話を切り出した。

「彼女は僕を好きでいてくれるし、僕も彼女を愛している」

 彼には家庭がある。
 その事実を、彼女には告げているという。裏切りが成立してからの恋。

 これほど残酷な結末を二人以外に強いる関係ははない。僕は、不倫を否定するつもりはない。僕には出来ない、ただそれだけだ。

 僕の持っている”物”で、約束できることは、

 ”裏切らないこと”

 話すことに”嘘”を、入れないこと。聞かれていない事や聞かれたくないことは、そう答える。それが唯一、僕が、恋人や、好きな人たちに言っていて実行していること。だから、僕には不倫は出来ないと思っている。

 彼は、奥さんとの仲が悪いという。だから、自分に好意を寄せてくれる女性に引かれた。それが好意に変わったのだと言う。もう、彼女なしでは居られないし、凄く大切に思っている。

 僕は、彼に問いただす。
「奥さんと別れないの?」

 彼は言う
「別れようとは思っている。でも、それは今じゃぁない。もう少したってからだ」
「なんで?もう、奥さんに気持ちがないんでしょ?それに、リスクを考えている?」
「リスク?」
「そう、奥さんから見たら浮気だよ。お互いに気持ちが無いのなら、弱みは君に有ることになるんだよ」
「わかっているよ。だから、時期を見て、別れようと思っている」
「ふ~ん。それは”別れない”と言っているように聞こえるよ」

「なんで? 別れようとも思っているし、彼女の事は真剣に愛して居るんだよ」
「奥さんと結婚した時も同じ気持ちだったんでしょ?」
「そうだけど、気持ちは変わる物だからね」

 ”気持ちは変わる”この言葉は、彼が口にしてはいけない台詞

「君が、今言った台詞を、彼女に言える?」
「言えるよ」
「言えるのなら、さっさと離婚の話をして、奥さんを傷つけないようにしないと、本当にリスクを追う事になるよ」
「だから、何がリスクなんだ?」
「彼女に、リスクが覆い被さるって事だよ。いいかい。君と奥さんは、既に心が冷め切っていて、”夫婦生活が成り立っていない”と、言っているけど、そんな事は、浮気の理由にはならない。奥さんが、浮気の実態を知った時に、どっちにしろ離婚する事になる。君は流されてラッキーくらいに思っているのかもしれない。それに、奥さんが、彼女を相手取って慰謝料の請求をする可能性もある。実際、過去に事例もあるし、この場合不倫だと解って付き合っていた、彼女側に不利益な判断が下される。全部解っているのか?」
「あぁそうだ。でも、妻は裁判なんて起こさないし、彼女に無茶な事を言ってこない」

「本当にそう思うかい?君が今やっていることを、奥さんがやっていたとしたらどう思う?君は、気持ちが冷め切っているから、すんなりと別れるかい?相手の男には文句の1つも言わないのだね。でも、奥さんには慰謝料の請求はするよね?君がしている事は、そう言う裏切り行為なんだよ。だから、2重に裏切っているって言って居るんだ」
「妻には悪い事をしているって認識は持っている」

「まぁ話を聞け。君の不倫。違うな、恋愛をとやかく言うつもりはまったくない。ただ、不幸になる女性が居るのが許せないだけなんだ。いいかい。奥さんが、離婚に踏み切るとして、慰謝料の支払いが間違いなく発生する。それも、浮気を行った君が全面的に悪い。例え、夫婦仲が冷め切っていたとしても、奥さんが裁判をおこして”自分は夫を愛していました”と、涙ながらに語ったら、どう思うだろうね。完全に非は君にある。この事実だけでも、奥さんが不幸になる」

「まぁそうだろう。その位の覚悟はしている」
「覚悟をしていると言うのなら、奥さんが気がつく前に、彼女の存在がはっきりとする前に、何故離婚しない。それは、彼女を裏切っている事にもなる」
「あぁ解っているよ。だから、離婚は考えている」
「”考えている”するかどうかは解らないって事だよね?」
「違う。違う」
「何が違うんだい?いいかい。本当に彼女の事を思っているのなら、彼女に我慢させるな。彼女が我慢しているのは、君の傲慢さから来ている。お互い我慢しているなんて思うな。この恋愛が成就した時には、彼女は足かせを持った状態からのスタートなんだからな」
「解っているよ。だから、彼女がしたいと思っている事。やりたいと思っている事。全部叶えるつもりでいる」
「違うよ。彼女が求めているのは、そう言うことじゃぁない。些細な幸せなんだよ」

 僕と彼との話は平行線になる事は解っている。価値観が違うのだろう。
 僕には、守るべき物が、自分が言った台詞だけで、それが嘘にならなければいい。そして、自分を必要と言ってくれている人たちを裏切らないで居ればいい。でも、彼には守るべき地位と守るべき気持ちが沢山ある。

 多分、世間的には、彼の方が大人に見えるだろう。僕は、企業体に就職したがそこの水が合わなくて、企業体を転々と移っている。社会不適合舎なのだ。
 彼は違う。大手とは言えないが、そこそこ大きな会社に勤めて、着実に地位を上げて大きなプロジェクトも任せられる位になっているし、小さいとはいえ郊外にマンションも買っている。成功者ではないが、いい人生を歩んでいる。

 僕が許せないのは、彼女との結婚や旅行を口にするのなら、自分の足下をしっかり固めて欲しい。
 僕は、彼女の事は彼を通してしか知らない。彼から話を聞いて作り上げた彼女の像がまったく間違っているのかもしれない。その事を考えても、確実に言えることがある。お互い愛し合っているのだと思う。でも、それは足かせがあった状態での愛情で、何もなくなってしまった時に、実は何も残っていなかったって事にならない事を祈るばかりだ。
 そして、多分彼女が望んで居るであろう。些細な幸せが実現出来る事を祈っている。
 その些細な幸せを得ることが難しくて、いろんな恋愛の話が産まれているのだと言う事に、彼はまだ気がついていない。不倫カップルが難しいのは、お互いの努力だけではどうにもならない壁が存在していて、それが些細な幸せを奪うのだ。
 だから、幸せの形を手に入れた後に、どちらかが我慢したり、どちらかが抑圧されていると、壁が目の前に広がったときに、乗り越えることができなくなってしまう。

 そんなカップルを沢山見てきた。
 僕は、そんな経験から、裏切りだけはしないように・・・それがどんな形だとしても・・・。必然と偶然の長い狭間の間の出来事だとしても、もう誰も裏切りたくない。

///
 彼女は、僕にこう切り出した。
「優しいの。私の方を愛していると言ってくれるの」

 彼女は、この言葉を、何度も何度も、自分に言い聞かせるように僕につげる。
 僕が聞きたいのは、彼女が感じている真実ではなくて、具体的な事実だけなのだ、この日、僕を入れて、彼と彼女と、3人で逢う約束になっていた。僕が、贔屓にしている、雰囲気がいい居酒屋で話をする事にしていた。この店は、オープン当時から使っているので、多少の無理も聞いて貰える。この店は、半個室な状態になっていて、普段は一番奥は開けておくのだが、少し無理を言って奥を使わせて貰うことにした。ここは、3人掛けになっていて話をするのに都合がいいとおもったからだ。
 僕は、少し早めに店に着いた。彼から、遅れると言う連絡が入った。僕は、彼女の事を知らないので、ナビも出来ないし来ても判断が出来ない。彼に言って、僕の連絡先を彼女に伝えて貰って、先に来て貰う事にした。程なくして、彼女から新宿に着いたと言う連絡が入った。最寄り駅につたようなので、迎えに行くことにした。
 彼女と出会い、簡単な自己紹介を行った。
 彼女を伴って、エレベータに乗った。簡単に世間はなしをして、彼を待つことにした。

 席について、オーダーを行った。飲み物が来て、軽く飲んでから、彼とのなれそめを聞いていた。
「それで、彼とは、どうやって知り合ったの?」
「聞いていないのですか?」
「別に敬語じゃぁなくていいよ」
「あっはい」
「それで、出会いは?」
「ネットです。出会い系じゃぁ無いのですけど、チャットで知り合ったのです」
「そうなんだぁ」
「それで?彼が、結婚している事ははじめから知っていたの?」
「ううん。最初は知らなかった」
「そうなんだぁ」
「何回かデートした後に気になって聞いたら、教えてくれたんです。でも、奥さんとの関係は冷え切っていて、もう関係ないから、気にしないでって言われた」
「そうなんだぁ」
 もし、本当に気にしなくて良いのなら、電話もメールも自由に出来ると思うんだけどね。事実と真実が違っている。

「うん。凄く優しいし、エッチも上手いし、奥さんにはない魅力を感じているって言ってくれるし、私の方を愛してくれるって言ってくれるんです」
「そうみたいだね。君は彼の事が好きなんだよね」
「当たり前です」
「うんうん」
「それに、今は無理だけど、数年後には結婚しようねっと言ってくれるんですよ。私の事が好きじゃなきゃそんな事言ってくれないと思うんですよ」

 彼から聞いている話と殆ど同じだ。彼女の中では、彼女が感じている真実だけが重くて、そこから導き出される事実には目を向けていない。彼女が、彼のことを好きな事はよくわかる。よくわかるだけに、事実に目を向けるのが怖くなっている。

 僕は、凄く悩んでいた。真実だけを考えて、事実を見ようとしていない人に、事実を認識させるのは簡単な事ではない。彼の考えが許せないのであって、彼女にはなんの罪はない。彼女には、幸せになって欲しい。純粋にそう思える。

 でも僕はあえて、彼女にも事実を突きつける。
 お互いに、事実を認めた上で、答えを見つける事が出来ると思ったからだ。

 彼女に聞いてみた
「ねぇ彼の職業は知っているよね?」
「うん。詳しくは知らないけど、IT関連の技術者なんでしょ」
「そうだね。不規則な時間の中で仕事をしているんだよね」
「そうなんですよね。彼もよく今日みたいに、急に仕事で遅れるって連絡が入るんですよね。それに、泊まりは無理だから、どんどん逢える時間が短くなっちゃうんですよ」

 こんな話をしている時に、彼から連絡が入って、今ビルの下に居る。今からあがる・・・とのこと。
 彼も合流して、注文を行う。乾杯を行って、本格的に話をする事にした。彼を真ん中にする形で、私と彼女が向き合う様に座った。

「ねぇ遅れた理由は、嘘でしょ? 仕事じゃぁなかったんでしょ?」

 僕は、彼に告げる。

「いきなり何を根拠にそんな事を言うんだ」
「だって早すぎるよ。15分の遅刻だよ?彼女さん。いつも遅刻は1時間とかじゃぁないの?」
「えっそうですよ」
「・・・・」

 やはりな。彼は嘘を付いている。

「そうだね。実際の所は違うかも知れないけど、誰かと電話していて、違うな電話がかかってきて、時間に間に合いそうになったのでしょ?もし本当に、会議が長引いていたのなら、会議中に連絡は出来ないだろう。僕の連絡先を彼女に教える事も出来なかっただろう。もし逆に会議が終わってからの彼女に連作先を教えたのなら、彼女を待たせておいて、一緒に来ればいいだけだからね」
「・・・・」

「ねぇそうなの?」
「そんな事ないよ」
「まぁいいかぁ話を本筋に持って行こう」
「・・・・」

「えぇ奥さんとは、もう冷め切って居るんだよね?私の方が好きなんだよね?結婚してくれるんだよね?」
「答えてあげたら」
「そうだよ。奴とはもう冷え切っているし、君の方が好きに決まっている。時期が来れば結婚したいと思っている」
「だよね。私も、貴方の事が好きなの?好きで好きで毎日でも逢いたいし、毎日声も聞きたいし、メールもしたい」
「俺もだよ」

「じゃぁなんでそうしないで、彼女に我慢を強いるの?君は、奥さんとは冷え切って居るんだよね?」
「あぁそうだよ」
「じゃぁ家で電話しても問題無いだろうし、彼女から急な電話やメールも問題ないんだよな?」
「・・・・」

「・・・・。それは、奥さんに気がつかれると大変だから・・・・」
「何が大変なの?冷え切って居るんだし、彼も彼女さんと逢いたいっておもっているんだし、声も聞きたいし、メールもやりたい。何か障害があるの?」
「だって、不倫だ・・・よ」
「彼女さん。それは違う。君にとっては、純粋な恋愛だ。君が我慢する事がおかしい」
「・・・・」

「君に聞いて居るんだよ。彼女に我慢を強いて、君は彼女に何を与えているの?」
「・・・・」

「彼は、優しいし、私の方を愛していると言ってくれる」
「おまえに何が解る!!」

 彼は、立ち上がって、手に持っていた、コップを僕に投げつけてきた。
 壁にコップがあたって、割れる音が店中に響く。彼女の顔が青くなる。僕の、頬に赤い一筋の水分が流れ出る。

 店員が、慌てて、こちらに駆け寄ってくるのがわかる。
 手で、制してから

「解らんよ。相手に、不安と我慢を強いる関係なんて、僕には出来ないからね。前にも言ったけど、君は裏切りから恋愛にはいっている事が解っているの?」
「裏切り?」
「そうだよ。事実から目を背けない。彼は奥さんを裏切って居るんだよ」

「・・・・そうだけど、もう冷め切って居るんだから、裏切りにはならないと思う」
「彼女さんは優しいね。でも、僕は、君に聞いて居るんだよ。答えてよ」
「しょうがないだろう・・・おまえも解るだろう」

「解らんよ。本当に、彼女さんの事が大切で、守るべき存在だと思っているのなら、態度で示せよ」
「示しているよ」
「そうですよ。私が逢いたいって我が儘を言えば、時間作ってくれるし、優しくしてくれる」

「違うよ。そんな事は、当たり前の事なんだよ。時間作る?はぁ大切な思いがあれば当たり前だろう?」
「お前に、お前なんかに、時間を作る難しさが解らないんだよ。家にも帰る必要があるんだからな」
「はぁお前今自分が言っている意味がわかっているのか?」
「・・・・」

 話は平行線をたどり始める。

「彼女さんが思っている真実と、君が言っている真実が同じことはわかった。でも、事実は違うよ。本当に、冷め切っているのならささっと結論を出すべきだろうし、なぜそうしない?」

「それはどういう意味だ?」
「彼女さんの方が大切で、本当に好きなのが、彼女さんだって言うのなら、なぜ彼女さんに我慢させる」
「関係が冷え切っている奥さんに気を遣って、彼女さんに我慢を強いるのは何故だって聞いて居るんだ?こんな簡単な事を今更言わせるなよ」
「・・・・」

「何かいいたそうだね」
「我慢なんてしてないよ。彼も、凄く我慢してくれていて、私に逢いたいって言ってくれるし、帰りたくないけど・・・帰らなきゃならない・・・、彼も凄く凄く我慢してくれるし、私の我が儘を聞いてくれるんだよ」

 それだけ言うと、彼女は下を向いて涙を落とし始めた。それ以上言っても何もならないのは解っている。

 店員を呼んで、割れた破片を片付けてもらう。店長にチップを渡す。
 消毒液が有ったようで貰って、簡単に消毒してから、絆創膏を貼る。破片は、それほど散らばっていない。そういうコップなのだろう。

 彼だけに聞こえるように、ちょっと来てっと言って席を立った。
「ちょっとトイレ。君も付き合って」

 彼女は、その声を聞いて慌てて涙をぬぐいながら、顔を上げて笑おうとした。僕は、それに気がつかないフリをして、彼の腕を掴んで、席を立った。カウンターに居た顔見知りの女性店員に目配せして、僕たちのボックスに行ってもらった。

「解っているな? 彼女さんには、これから僕が話を聞いて、知恵をつけるぞ」
「・・・・」

「それは、承諾の意思表示と取るからな」
「本当に、彼女を愛して居るんだ。邪魔しないで欲しい」
「邪魔なんてしないよ。彼女さんに、”事実”と”真実”の違うを教えるだけだ」

「今まで君が言ってきた真実が、事実と違っているのなら、早めに訂正でも謝罪でもするんだな」
「・・・・」

「彼女さんが、自分の真実と自分の幸せを考えて動けるようになって貰う。だから、邪魔もしなければ応援もしない。僕は、彼女さんの味方になる」
「・・・・」

///
 彼は結論から逃げている。
 縛りのある関係の方が長続きすると彼は言う。それは確かに正しいだろう、僕もそれは認める。好きと言う感情だけじゃぁどうにもならない現実が目の前に存在することもある。
 どこまで『愛していると話を切り出しても』『好きだ大切にしている』と口にして、身体を合わせて、将来の事を語ったとしても、空虚でしかない事実が存在する。不倫と言う名前のカップルには、将来を語る時に現実・結論から目を背ける行為にしかならない。

 男女の関係だから、実際にそれだけでは語れない物がある事は解っている。
 傷ついた者でしか解らない現実や乗り越えてきた現実が解る人間でしか味わえないリスクへの恐怖。

 彼女は、僕に頻繁に連絡してくるようになった。
 知り合ったばかりの僕に、何故?

 答えは簡単だった
「寂しいの」
「寂しい?」
「そう。彼と逢っている時には、彼からの愛情を感じるし、私も彼の事を愛している。でも、彼と別れた後に、彼は帰るべき場所へと帰っていく、信じているけど、信じられるけど、寂しい」
「そうなんだぁそれで、どうしたいの?」
「解らない。今のまま・・・じゃぁ寂しいけど、しょうがないんだよね」
「しょうがない?何で?」
「だって、メールも電話もあんまりしちゃぁダメだからね」
「彼からは、夫婦の間は冷め切っていて、彼女さんしか居ないって言っているよね?」
「うん。それは感じる事が出来る」
「それなら、それでいいんじゃぁないの?信じて居るんでしょ?」
「勿論信じているよ。お互いに愛し合っている。それに、私の気持ちも彼にぶつけたらしっかり答えてくれた」
「そうなんだぁでも、彼は離婚するとは言っていないんだよね?」
「・・・・うん。でもね。でもね。私と逢う時間も増やしてくれるし、メールも返してくれるんだよ」
「それじゃぁそれでいいんじゃぁないの?」
「うん。でも、不安なの?」
「何が不安なの?彼の事は信じて居るんでしょ?」
「信じているよ...でも・・・怖いの」
「それ以上を望んじゃって居るんだね」
「うん」

 そうなんだ、愛し合っている。信じている。私の事を愛してくれる。そう言っても、不倫関係に違いはない。冷め切っていると言っていても、最後には彼は帰っていくのである。それが寂しい。その事実は紛れもない事実なのである。

 彼女は多くの心配を持っている。
 まだ彼女自身が時間に自由が効く立場にだ。これから時間と共に、自分にも世界が広がってくるし、やりたいと思っている仕事を任される事が有るだろう。その時に、彼との時間が取れなくなる。それは彼女自身の我が儘なのかもしれない。彼は、その時には、私を見つけたのと同じように、別の女の人を探すかもしれない。そんな不安を抱いてしまう。自分の気持ちは変わらない。でも、彼が将来の話をする時の、実現姓を考えてしまっている自分が居る事に気がついた。

 最後には、彼からの言葉”愛している”」その言葉だけを信じているから大丈夫だと言い聞かせている

 そんな話をした後に、彼から連絡が来た。
「少し聞きたい事がある」
「何か合ったの?」
「お前彼女に何か言ったのか?」
「少し話を聞いて上げただけだよ」
「そうかぁ」
「順序立てて説明しろよ」
「いや。お前が何も言っていないのならいいや」
「おい!そりゃぁないだろう」
「いいって言って居るんだ」
「そうか、そうか、それなら俺に連絡して来た事が解らんよ」
「・・・・・」
「だから、何があったんだ」
「・・・」
「だから、何かあったんだね」
「あぁ彼女が自殺を図った」
「はぁ何でそれを先に言わないんだ。彼女は大丈夫なんだろうな!」
「あぁ大丈夫だと・・・思う」
「お前・・・見舞いにも行っていないのか?」
「俺だって行きたいよ。でも、どの面下げて行けばいいんだよ!」
「お前、彼女を愛して居るんだろう?信じさせて居るんだろう?」
「あぁ」
「ここに来て、はっきりとさせないんだ!?」
「俺に何を言わせたい?」
「お前は簡単に言うよ。そうして、俺達の関係を否定するよな」
「否定していない。ただ、立場をはっきりさせろって言っていたんだ」
「はぁお前には解らないだろうなぁ俺だって苦しいんだ」

「あぁ解らないよ。好きだった子が自分が原因で自殺したり、目の前で友人が飛び降り自殺をしたり、信頼していた人に裏切られて多額借金を背負わされたり、ストーカー野郎に不倫だと勘違いされて刺されたりした程度の経験しかないからな!解るか?だから、リスクを考えろって言っていたんだ」

「・・・・」
「確かに、結婚している時には、幸福な時間を過ごせたよ。離婚したとはいえ元嫁とは、いい関係を保っているよ」
「・・・・」「・・・・」

「お前とは違うよ。俺は彼女を大切に思っているし、結婚してもいいと思っている」
「思っている。思っている。そうだな。お前は、思っていれば、なんでも叶えてくれるなにかを持っているか?思っているだけでなにもしていないからこうなったんだろう?」
「・・・・」
「お前は、結局彼女に将来の事は話すけど、将来への道を現実的な道を示せなかったんだ」
「・・・・」

「いいか、お前はどうしたいんだ?」
「まさか、10年後に結婚しようなんて考えていないだろうなぁ」

「・・・・」
「それは立派な事だと思うよ。俺には言えない台詞だからな」
「嫌みを言うなよ。何が言いたいんだ」

「解らないなら言ってやるよ。お前は、約束手形で彼女を縛って居るんだ。”愛している”だとか、”お前しか居ない”だとか、”自分たちには自分たちの関係がある”とか言っていないで、結論を出せよ」
「・・・・」
「お前、結婚を餌にしていないか?」
「そんな事はない。彼女の事は真剣に考えている」
「それなら、お前!」
「解っている。解っているけど・・・」
「なんだ、解っているのなら行動に移せばいいじゃぁいか」

「・・・・」
「あぁそうか怖いんだな」
「・・・・」
「彼女は、天秤に命を乗せたんだぞ。お前は、反対側に何を乗せるんだ。生半可な物じゃぁ釣り合わないぞ」
「・・・・」

---------------

 それから、数日後、彼は離婚届と結婚届の両方をもらいに行って、両方に自分の名前を書き込んで判を押した。まだ提出はしていないようだが....これからの道のりは長いが、一歩目を踏み出した事には違いない。
 彼は結論から逃げなかった。逃げる事は出来たのかもしれない。でも最後の一線で踏みとどまった。

 僕の出現がこの結果を産んだ。彼女は傷つき。彼は僕を軽蔑したのかもしれない。そうして、彼の妻は知らなくていい事実を知ってしまった。
 その罪を感じながら・・・僕を恨む人間が増えただけかもしれない。それはそれでいいのかもしれない。僕のエゴだと言う事も解っている。僕が感じた苦痛と苦渋をあじあう寸前で、落としどころが決まったのかもしれない。

 まだ結論が出たわけでもない。

 そして、数年・数十年後に、僕が行った事への罰が下るのかもしれない。

fin
 僕が彼女を意識し始めたのは、何時だっただろうか?

 彼女が、僕に向かって
「ちょっと家まで遠いけど送ってくれる?」
 送った時に話した事がきっかけだったのだろうか?

 彼女は、1つ年下の19歳になる大学生。話を聞いて初めて知ったのだが、僕と同じ大学の2つ下の学年になる。

 僕と彼女の出会いは、バイト先が同じになったことがきっかけになる。
 バイト先も同じだし、同じ大学に籍を置いている、話そうと思えば話せる関係にあるし、メールアドレス・電話番号も知っている。

 同じ時間を共有する機会は多く存在している。

 しかし、僕と彼女の距離は大きく離れている。離れている50kmが、短く感じてしまう位遠い場所に彼女は居る。

 僕のこの気持ちを彼女に伝えることが出来ないでいる。この想いを気持ちを、僕の中に閉じ込めておくべきなのかもしれない。

 僕は、彼女を近くに感じる、日々を過ごしていた。しかし、そんな日々に僕は満足していたのかもしれない。
 想いを伝えることで彼女と時間を共有する権利を失うくらいなら・・・。

 バイト先で、イベントが催されることになった。バイト先の関連会社が、新たにキャンプ場をオープンする。新装オープンを記念して、常連さんを交えてバーベキュー大会をやろうって事になった。勿論、店員やバイトに、全員参加が言い渡された。

 大学でもそうだが、僕は貧乏くじを引いてしまう癖があるようだ。車を持っていて、1番の下っ端の僕が、買い出しを行って、設営の準備をやることになってしまった。

 悪いことばかりではなかった。

 彼女の迎えを、僕がやることになったのだ。彼女は一人だけ、遠いところに住んでいて、朝早くからの準備はキツいが、バイトの人数も少ないので、彼女自身も”朝から参加する”とのことだ。そこで、車を持っていて、朝から準備をする事になっている、僕が迎えに行くことになった。

 これは嬉しい誤算だ。

 大学から帰って来て、すぐに洗車場に行った。普段なら、簡単に洗うだけだったが、昨日は、お金をかけて、プロに中まで綺麗に清掃してもらった。彼女を乗せるのだ、当然のことだ。タバコを吸わないので、匂いは大丈夫だと思ったが、消臭効果が高い物を購入した。エアコンを使う季節ではないが、エアコンのフィルターの洗浄もお願いした。ガソリンは満タンにしてある。

 陽が昇る前に、僕は、はやる気持ちを押さえてエンジンに火を入れた。

 一秒でも早く彼女の下に行きたい。普段なら使わない高速を使って彼女が住んでいる街に急いだ。
 予定の時間よりも大分早く着いてしまった。このまま訪問しては、彼女はまだ寝ているかもしれない。そして、どういう顔をして訪問したらいいのか解らない。誰も僕の想いを知らない。

 不自然な態度よりも自然に接した方がいい事は解っているが、できるだろうか?

 ここまで来て迎えに行かないわけには行かない。そんな事を車の中で考えている内に、約束の時間が近づいてきた。まずは、彼女に近くまで来ている事をメールで伝える。

【10分位で着きます】

 それだけのメールを打つだけで、僕の心臓は信じられない位の速度で動いている。そして、8分30秒が過ぎた。

 僕は、勇気を振り絞って彼女の住んでいる部屋に歩を進めた。

 彼女の部屋は、2階だ。階段を上がって、彼女の部屋の前に着いた。彼女の部屋は前に、一度送っているので知っている。しかし、前と状況が違う。彼女は起きているのか?早い時間なのに、迷惑じゃないのか?着替えをしている最中だったら・・・。余計な事ばかり考えてしまう。

 そして、僕の心臓が信じられない音を立てている。心臓の音がドアを通り越して、彼女に聞こえてしまわないか心配になるくらいだ。

 僕は、彼女の部屋のベルを鳴らした。
(ピンポーン)

 インターホンから、彼女の声が聞こえてきた。
「江端さん?」
「おはよう。江端です。約束より早いけど」

 カメラがあるから、僕だってわかるはずだ。
 僕はそう言ったつもりで答えたが、彼女に聞こえたかどうか不安になった。声が震えていたかもしれない。心臓の音が聞こえたかもしれない。それが彼女が気がついたかもしれない。

 しかし彼女からの返事はあっけない物だ。
「うん。すぐ行くから、待っててね」

 僕は安堵と共に、少し残念な気持ちになった。

「うん。下に車止めているから、車で待っているよ」

 5分位して、助手席を叩く音がして、そちらを見たら彼女が笑って手を振っている。僕は、急いで助手席のドアを開けた。彼女が助手席に乗り込んで来た。

「お待たせ」

 彼女は明るい笑顔で、僕にそう言ってくれた。凄く幸せな気持ちになることができた。

「じゃぁ行こうか」

 彼女は、僕を促した。
 会場に向かう道を、僕は海沿いの道を選んだ、この時間帯なら空いている。それが理由だが、早く行くのなら、高速を使えばいい。でも、僕はあえて、この道を選んだ。彼女とこの道をドライブしたかった。

 彼女は、車の窓を開けながら・・・呟いた。
「気持ちいいね」

 僕には確かにそう聞こえた、それが僕に言ったセリフなのか解らなかった、僕は返事ができないでいた。

 彼女は、海を見ながらまた呟いた。

「朝日が照らされて綺麗だね」

 僕は心の中で、(朝日も素敵だよ)そう思ったが、口に出す勇気は無かった。

 楽しいドライブも終焉に近づいてきた。
 左車線に入るために、ドアミラーを見ようと思った、後方を確認しようと思った時だった、意識しないつもりで居たが、彼女の姿が視界に入ってしまって、僕の視線は彼女に固定されてしまった。そのせいで、車が安定を失い左右に動いてしまった。

「大丈夫?どうしたの?」

 彼女は不安そうに、僕に話しかけてきた。

「うん。ごめん、大丈夫だよ」

 (君の姿が視界に入って、確認が出来なかった)
 そんな事を言うことができない。
 他愛も無い会話でさえも貴重に思える僕がいる。そして、その貴重な時間を今共有できていることに喜びを感じている。

 もうすぐ待ち合わせ場所に着いてしまう。買い出しの時間はあるが、それは二人だけではない。
 彼女と一緒に居る時間は、刻一刻と終焉と向かっている。

 彼女はすぐ隣にいる。助手席までの距離 50cm 手を伸ばせば届く距離に居る。でも、50cm の物理的な距離よりも遠く感じる。彼女が、助手席に座っている。届く距離ではあるが、届く距離ではない。何もかもが遠く感じる。僕には、この距離を埋めることが出来ない。このままなら、何も変わらないことは解っている。

 今の僕には、何も出来ない。このまま彼女の居ない平凡な日々を過ごすことは考えられない。しかし、僕には 50cm を埋める事が出来ない。
50cm などすぐに埋まる距離だ。

 指示された場所に付いた。そこは、キャンプ場には見えなかった。それに、まだ誰も居なかった。
 少し早かったのだろう。店長に電話してみたがつながらない。

「ごめん。早く着きすぎたみたい」
「いいよ。待っていよう」

 助手席に座ったまま笑いかけてくれた。

 彼女の携帯が鳴った。画面を確認している。僕からは見えない。見てはいけない。

「ちょっとごめん」

 そう言って、彼女は車から降りて、少し離れた所で、電話に出るようだ。誰だろう?こんな時間に?彼氏?
 彼女は、すごく”モテる”わけではないが、”モテない”わけではない。大学でも、可愛い方から数えても上位に来るのは間違いない。でも、彼氏が居るという話は聞いた事がなかった。

 時計を確認すると、5分くらい経っただろうか。僕には、1時間にも2時間にも感じられた時間が過ぎて、彼女が戻ってきた。
 何やら嬉しそうな雰囲気がある。やっぱり、彼氏だったのだろうか?彼女は、そのまま助手席に座った。

 彼女が戻ってきて、何を話そうかと思っていたら、僕の携帯が鳴った。フロアマネージャーだ。

「おぉ江端。悪いな。少し遅れそうだ。貴子。居るだろう?」
「えぇもちろん迎えに行きましたからね」
「そうだったな。それじゃ悪いけど、二人で、荷物の受け取り頼むわ。お前の車ハッチバックだよな?」
「荷物?」
「貴子の指示に従ってくれ。なんか、常連さんが告白したいらしくてな。協力する事になってな。そのための物の受け取りを頼む」
「え?僕、そんな話し聞いていませんよ?」
「そうだったか?ワリぃ伝えたつもりで居たワ。買い出しとかは、俺がしておくから、頼むな」
「え?あっわかりました。朝日さん」

 フロアマネージャーは、言いたいことを言って、電話を切った。かけ直しても、呼び出し音がなるだけで出てくれない。

「誰から?」
「あっフロアマネージャーから、それで、荷物の受け取りを頼まれたのだけど、朝日さんの指示に従えって言われたけど?」
「うん。大丈夫。それじゃ行きましょう」
「わかった」

 僕は、彼女の指示通りに、車を走らせる。この辺りに住んでいないのに、土地勘が有るかのようなナビで、目的地には迷わずに付けたようだ。

「ここでいいの?」
「うん。ちょっと行ってくるから待っててね」
「うん」

 そこは、有名な洋菓子屋だ。ここのケーキが好きでよく食べている。バイト先にも、何度か持っていったことがある。彼女は、中で店員となにか話している。時折、店員がこっちをみて笑っているように思える。彼女は、その都度うつむいて何かを言っているようだ。少し大きめの箱を彼女が持ってきた。

「うしろ。大丈夫?」

 トランクルームも綺麗にしてよかった。
 学校で使った物とか全部部屋に放り込んである。

 甘い匂いがする?ケーキだろうか?滑り止めのシートをしておく。ずれないように、ネットで固定しておけばいいだろう。あとは、安全運転すればいい。

「疲れちゃった」

 彼女は、手をプラプラしていた。
 確かに、ケーキとはいえ、20cmを越えるような物だったから、重たかったかも知れない。それ以上に気を使ったのだろう。僕は、助手席の方に廻って、ドアを空けた。彼女は、嬉しそうにしてくれた。映画とかでよくあるシーンだ。彼女の荷物を一度僕が預かって、片手を出す。彼女は、解ってくれたようで、手を握ってくれた。手に心臓ができたかと思うくらいにドキドキして、彼女の熱が伝わって、手が熱くなる。

 彼女に握られた手がまだ熱い。

「あっもう1ヶ所いい?」
「ん?いいよ?どこ?」
「バイトとか関係無いんだけど、知り合いの部屋なの?ダメかな?」
「いいよ。時間も余裕が有るだろうし、問題ないよ」
「ありがとう!」

 誰だろう?知り合い?大学の?それとも、彼氏?
 彼女のナビに従って、車を移動させた。少し大きめのマンションの前に付いた。彼女は、少し待っていて欲しいと言って、マンションの中に消えていった。どの部屋だろう?見ていてもわからない。やっぱり、彼氏なのかな?

 僕的感覚で、3時間ほど経ってから彼女が戻ってきた。
 大きいバッグを持ってきていた。荷物からは、男物の香水の匂いがする。やっぱり彼氏なのだろう・・・。

「もう。大丈夫だよ。行こう」
「ん」
「どうしたの?なにかあった?」
「ううん。なんでもないよ」

 そういうのが精一杯だ。
 彼女を乗せたまま、車を走らせる。

「そう言えば、江端さん。猫好きだったよね?」
「え?そうだけど?なんで?」
「ん。小耳に挟んだ」
「・・・フロアマネージャーが言っていたの?」
「そんな感じ」
「ふぅ~ん」
「どんな猫が好きなの?」
「うーん。どんなって聞かれると困るけど・・・暫く。猫は・・・」
「どうして?」
「うん。実家に住んでいた時に、狩っていたけど、今の所に引っ越してから、ペット禁止だからね」
「そうなの?」
「それに、僕・・・2年前に・・・」
「ん?」
「ううん。なんでもないよ。ペット禁止だし・・・ね。それに」
「それに?」

 信号で車が止まった。
 彼女の表情を見たくて、助手席の方を見て

「それに、好きだから、無責任な事はしたくない」
「え?あぁ猫の事だよね」

 何を、そんなにびっくりするのだろう?彼女から振ってきた話なのに?
 待ち合わせ場所に着いたが、誰も居ない。

 彼女がなにか携帯を操作している。彼氏に連絡でもしているのだろうか?

 僕の携帯が鳴った。また、フロアマネージャーだ。
「ごめん。フロアマネージャーから」
「うん。いいよ」

 今度は、彼女に断ってから電話に出た。
 彼女は、僕が電話に出た事を確認して、携帯を持って、車から降りた。彼氏に電話でもするのだろうか?彼女の事が気になって仕方がない。やはり、電話をしだした。彼氏と話しているのだろう。何か、慌てているし、手振り身振りをし始めた。正直、すごく可愛い。

「おい。江端!聞いているのか?」
「え?あっすみません。聞こえていませんでした」
「ウソつけ、貴子を見ていたのだろう?」
「え?え?」
「お前が、貴子に好意を寄せているのは、常連含めて全員知っているぞ?」
「は?」
「今日、お前以外には、待ち合わせ時間は2時間遅い時間になっている」
「えぇぇぇ??」
「貴子だけだろう?告白しろよ!」
「いやいや。なんで?はぁ?」
「いいな。フロアマネージャー命令な!貴子に、告白しろ!」
「いや、だって、彼女、彼氏が居るでしょ?」
「ハハハ。わからんぞ、江端。お前は、お前が思っている以上にいい男だぞ!根性出せよ!それじゃぁな。あぁ待ち合わせ場所も違うからな。本当の場所は・・・今は、内緒だな」

 それで、電話が切れた。
 え?常連さんへのサプライズのためのケーキを持っているから、待ち合わせ場所には行かなきゃならない。
 え?は?なんで?
 驚いて、車を降りてしまった。それから、何度電話しても、フロアマネージャーどころか、バイト仲間、連絡先を知っている常連さん。誰も出ない。まるで、僕と彼女だけしか居ないように思えてくる。

「ねぇどうしたの?」

 彼女がいつの間にか、電話を終えて、僕の側に来ていた。
 首をかしげて、途方に暮れる僕の顔を下からのぞき見ている。

「フロアマネージャーは、なんだって?」

 言えるわけがない。

「ねぇ?」

 くそぉ本当に可愛いな。

「もう、あれだけヒント出したのに?」
「え?」
「フロアマネージャーに何を言われたの?」

 そういえばさっきの電話で、”()()()()()()()()()()()()”や”()()()()()()”と、言っていた。

「うん。1分。いや、30秒・・・いや、10秒待って」
「わかった。後ろ向いているから、気持ちができたら、肩叩いてね」

 彼女は、僕に背中を向けて、数を数え始めた。

 彼女のカウントが3になった所で、僕は、彼女の肩を叩いた。初めて、自分から彼女に触った。

「うん。それで、なに?」
「うん。僕は、キミ。朝日貴子さんの事が好きです。彼氏が居るのも解っている。でも、好きな事だけでも伝えたい。迷惑かも知れないけど・・・僕と付き合ってください」

 全部言えた。考えていた事とは違うけど、迷惑にしかならないだろうけど、やっと言えた。

「やっと、言ってくれたね」
「え?」
「克己さん。私、貴方の事を、2年前から知っていました」
「え?だって、バイトで・・・」
「うん。そうですね。克己さんが、バイト始めたのは、1年前ですよね。私がバイトに入ったのは、その少し後・・・だから、知り合って1年経っていない。ううん。正確には、今日で1年ですよ」
「え?」
「2年前の雨の日、克己さん。捨てられた子猫」
「あっ!」
「思い出してくれました?雨の日に、保健所に連れて行かれそうになっていた2匹の子猫を、保健所職員から奪って、自分がなんとかしますと言ったのを、動物病院に連れて行って、病気やノミのチェックを頼んで、有り金全部置いて、足りない分は、また持ってきますと言った事を、必死に里親を探したのを、見つかったのは、4日後ですよね?」
「え?なんで?」
「あれ、お兄ちゃん。あっ従兄弟なんですよ。さっき寄ってもらった部屋なのですけどね」
「え?」
「あぁちなみに、朝日健吾って名前です。聞き覚えは?」
「・・・・あっフロアマネージャー!」
「だから、さっきの荷物は、彼氏の物じゃ無いですよ」

 そう言って、彼女はクスクスと笑った。

「え?なんで?どうして?」
「ねぇ克己さん。私の事好きなんですよね?」
「好きだよ」
「私の事、彼女にしてくれるのですよね?」
「うん」
「私の事、大事にしてくれますか?」
「もちろん」
「大好きな猫よりも?」
「もちろん・・・です」

「なんか怪しいなぁでも、嬉しい。私も、2年前から貴方の事が好きだった!」

 彼女は、僕に抱きついてきた、僕も彼女を抱きしめた、あの時あった50cmの距離がなくなった瞬間だ。
 そして、彼女のくちびるに触れるようなキスをした。

 彼女の電話が鳴った。彼女が笑いながら、僕に携帯を渡してきた。
 店長の声が聞こえてくる。
「おぉ江端。やっと言ったな!次のシフト覚悟しておけよ!」
「え?今日は?」
「はぁお前は・・・まぁだからなのだろうな。朝日さんの部屋に行け。バイトは今日は休みだ。朝日さんを幸せにしろよ。店長命令だ!」

「店長はなんて?」
「ねぇもしかして、全部、僕・・・はめられた?」
「イヤ?」
「ううん。すごく嬉しい!」
「それなら良かった。サプライズ成功だね。それから、さっきのケーキ。猫も食べられるケーキ何だよ。4人で食べようね!それから、私の部屋二部屋あって、一部屋空いていて、家賃高くて困っているのだけど、誰か、安心できる人で、私を一生大事にしてくれて、猫好きな人って知らない?」
「え?だって、親御さん」
「大丈夫。私のパパ。ママとは離婚しちゃっているけど、店長だよ。それで、店長命令は何だって?」
「ちょっとまって」

 店長に電話する

「なんだ。江端!まだなにかあるのか?」
「朝日さんを一生大切にします。絶対に幸せにします」

 それだけ言って電話を切った。
 彼女が持ってきた、荷物は、ペットシートや餌や猫砂だった。

 それから、僕は、大学から離れた場所から通っている。二人で!
 そして、二人の荷物で重なっていらない物を捨てた。

 可愛い猫二匹と、可愛い彼女と、新しい生活を始めるために・・・僕は、彼女への気持ちを隠す気持ちを捨てた。

「ねぇなんで、私よりも、コウとハタに先にキスするの?」

 彼女を抱きしめて、深いキスをする。
 そして、今日、お互いのベッドを捨てた。広い大きなベッドが届くからだ。

fin
 僕は、雨が嫌いだ。

 この表現は、間違っていないが、合っているわけではない。
 正確に言うのなら、雨が降っているときに、差して一人で歩くのが嫌いだ。傘を差さないで移動することは、別に嫌いでもない。むしろ好きだと言える。雨に濡れながら歩くことで、思い出も、過去も、積み重なった想いも、全て流してくれる・・・そんな感じがする。

 雨の日は、僕の心の中にある、蓋さえも溶かしてしまう。
 思い出したくもない。でも、忘れたくない。そんな、蓋をしてしまい込んだ思い出を・・・。

 そう、あれは、僕が初めて人を好きになった瞬間でもある。今から、何年前かも思い出せない。古い話のようで、つい昨日のようにさえも思えてしまう。覚えているのは、強烈に刷り込まれたイメージだけだ。

 雨の中、小さな赤い傘をさして、僕を見て微笑む少女の顔を・・・。

 そこは、寂れた港町。港といっても、漁船が停泊しているだけの港で、これといった名産があるわけでもなく、寂れた港町で、港を出ればすぐに山という特殊な地形に囲まれている場所である。そんな地域に、私は住んでいた。

 僕の子供の頃の遊び場は、もっぱら、この寂れた港になっていくのは自然の流れである。
 雨の日には、雨の日の遊びを、晴れの日には晴れの日の遊びを、そして風の日には、風の日の遊びを、作り出しては、”友”と日々遊び過ごしていた。そこは、男の世界で、女の入る隙間さえも無いように思っていた。

 それが、錯覚だったとしても・・・。

 小学校6年生の夏休み前の雨の日。いつものように友人たちと、雨の日の遊びを楽しんでいた。そこに、同級生の女の子が何気なく現れた。そのあまりにも自然な登場と、普段学校では見ない姿に、そして、傘を差して歩いてくる姿に、そして、僕をみて一瞬微笑んだ”女性の顔'”に、一瞬にして目と心を奪われてしまった。

 その瞬間が、僕の初恋の瞬間だった・・・。

 今ならはっきりと言える。それからは、僕は、目で彼女を追うのが日課になっていった。彼女とは同じクラスだ。席も近く自然と話せる間柄だったのです。今までと違うのは、僕が彼女を、その他大勢の同級生の女の子ではなく、1人の女性として認識してしまった事だ。

 その気持ちは、自分の奥底に隠して、誰にもさとられないようにしまい込んでいた。

 僕が通っていた小学校は、夏休みに1つの課外授業がある。
 課外授業は、自主参加となっているが、小さな港町で、ほぼ全員が顔見知りのような場所なのだ、旅行に行くなどの予定が無い限り、皆参加する事になる。
 夏休み前には、参加の申請を行う。
 そして、クラスごとに、班が決められる。男女3人ずつの班だ。くじ引きで決めると言っていたが、先生が、全員参加なので、今の班のままで参加するようにしましょうといい出した。
 僕と、彼女は同じ班だ。2泊3日。彼女と一緒にいられる。僕の心臓は、今までにないくらいに早くなっていた。

 課外授業は、学校近くの700m程度の山の頂上付近にあるキャンプ場で過ごす。
 テントを張って、その中で寝泊まりする。男女ごろ寝だ。今では、考えられないことが平気で行われていた。

 私は、一番出口から遠い所を選んだ。
 そして、他の男子は奥に陣取った。自然と、女子が隣になる。私の隣には、彼女が寝る事になった。

 彼女が、二日連続で夜に起き出すハプニングがあった。彼女が起き出して、外に出ていく、必然と私も起こされた。キャンプ場で、外は月明かりがあるとはいえ、小学生女子が1人で歩くには怖い環境だ。そして、私たちがテントを張った場所は、同じ班に居た、私の親友がくじ引きで引いてきた、一番端だった。
 何が有ったのかは、覚えているが、思い出してはダメな事だ。この日を堺に彼女と私の距離が一気に縮まったのは間違いない。

 中学校に上がる頃には、僕と彼女は深まっていた。

 そして、”今更なこと”を彼女に告げた。

 ”好き”

 その言葉を絞り出すように告げた。
 今ならはっきりと分かる。告げてはダメな気持ちと言うのが存在する事を・・・。

 彼女は、私の気持ちを受け入れてくれた。これが、間違いの始まりだ。

 小さな町で、私たちの事はすぐに同級生だけではなく、近所の人も知ることになる。

 そして、中学校に通うようになる。僕と彼女の仲は変わらない。一緒に昼ごはんを食べて、お互いの家に遊びに行ったりしていた。

 僕は、彼女以外いらない。彼女も僕以外いらないはずだった。
 一年生の時には、違うクラスになった。二年生で同じクラスになった。

 そして、受験の足音が聞こえ始めた三年生になる前の春休みに1つの事件が発生した。

 違う。これは間違っている。
 事件は既に発生していた。僕が、それを見ようとしていなかったからだ。彼女は、部活で、先輩や同級生・・・そしてコーチからいじめをうけていた。辛いのならやめればと何度か言った。でも、彼女は笑って大丈夫と返してくれた。
 この頃には、僕の彼女はお互いの身体を何度も重ねていた。

 春休みに入ってすぐに、珍しく寒い夜。
 彼女から、僕に電話が入った。僕には、弟が居て、弟のサッカークラブの合否判定が来る夜で、話ができない。

 僕は、厚着をして、近くの公衆電話に急いだ。
 そこから、彼女の家に電話した。すぐに彼女が電話に出てくれた。

 でも、彼女は一言だけ僕に聞いた

「ねぇ私の事好き?」
「当たり前だろう」

 即座に返事を返す。僕に取っては、言わなくても解っている気持ちだと思っていた。

「違うの・・・ううん。違わないけど、違うの?」

 そして、しばしの沈黙が流れる。
 10円が消費されていく音が聞こえる。

「ねぇ・・・私の事、いつまでも好きで居てくれる?」
「もちろんだよ。僕は、君の事が好きだ。愛しているよ」
「嬉しい・・・ありがとう。でも・・・ううん。なんでもない。おやすみ。私も、大好きで、愛している。さようなら」

「うん。おやすみ。またね」
「・・・ごめん」

 そう掠れる声で一言だけ言って、彼女との短い電話は終わった。

 春休みが終わって、新中学3年生になった僕は、張り出されたクラス分けの紙を見て唖然とした、彼女の名前が無かった。
 先生に詰め寄っても、曖昧な答えしか帰ってこない。

 最後には、あとで話があるから職員室に来い。僕と、幼馴染が二人呼ばれた、周りの同級生はまた何かやったのだな程度に思っているのだろう。僕も幼馴染も、何度か二人揃って職員室に呼び出されている。
 しかし、今日は心当たりがない。

 先生は、そう言い残して、逃げるように、僕の前から居なくなっていた。他の先生も1人も居なくなっていた。

 そして、一通りの儀式を終えて、皆が帰り支度をして帰り始めてから、僕と幼なじみは、一緒に呼び出された職員室に向かった。

 そして、職員室について直ぐに先生に話しかけた。
 ここで無くて、校長室に一緒に来てくれ。そういって、深刻な顔をした先生は、ほかに何も言わずに、校長室に歩き出した。校長室には、何人か見たこともない人たちが深刻な顔でそこに居て、なにかを話している。

 僕が理解できたのは、彼女にもう二度と会うことができないことだけだ。
 そこから後、そこで何を言われたのかまったく覚えていない。覚えているのは、涙が止まらなかったこと、春休みの寒い夜彼女からかかってきた一本の電話の内容と、その時に聞いた”ごめん”の言葉。

 その言葉から悟ればよかった、彼女の家まで走ればよかった。彼女を、連れ出せばよかった。

 彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、彼女を、僕はなにができた?僕が悪い。僕が、彼女を、彼女を、彼女を・・・

 幼かった自分への罪悪感と後悔の想いだけが残った。

 それから、暫くして彼女の実家も空き家となり、家が解体され、人手に渡って、私の心に風穴を開けた以外は、何事無かったように時だけが過ぎていって、誰も、そこに彼女の家族が住んでいた事。そして、僕と彼女が最後に話した電話。

 僕は、町を出た。居たくなかった。同級生は、僕の事を、哀れみで見る。幼馴染以外は・・・。僕は、町を捨てた・・・。僕が町に捨てられたのかも知れない。どちらでもいい。僕は、市の学校に進学した。学校なんてどこでも良かった。早く独立したくて、工業高校を選んだ。部活なんてやりたくなかった。でも寮がある部活があった。僕は、寮に入る選択をする。忙しく部活や勉強をしていれば、忘れられると思った。

 高校卒業を控えた時に、久しぶりに幼馴染から連絡が入った。
 電車で30分の距離が遠く感じる帰省だ。僕は、幼馴染と逢って話す事ができた。

 彼は、僕に隠していた事があると告白した。
 彼は、彼女に相談されていたとのこと、”いじめ”に合っていると・・・。僕も、話は聞いている。でも、聞いている話と、彼が話す話があまりにも違いすぎる。

 彼女は、僕にだけは言わないでほしいと懇願してきたと、彼は話した。

 原因が、僕にあるためだ。

 彼も詳しい話は知らない。と、前置きをして話し始めた。

 僕は、原因まで知らない。僕が知らない事を彼が知っている。その一点で、嫉妬心が芽生えなかったと言えば嘘になる。

 彼は、僕の気持ちが解るのか、ゆっくりと語りだす。
 
 彼は誰の事を話している?僕と彼女の事?

 彼は、彼が信じる真実を、僕に話してくれている。僕は、それを聞いている。僕の知らなかった彼女がそこに確かに存在している。彼女は、僕が、彼に話していると思って、僕と身体を重ねた事も話していたようだ。彼は、笑いながら、彼女に”奴から聞いたのは、キスした事までだ、それもファーストキスの場所は意地でも言わなかったぞ”と教えたら、彼女は真っ赤になって、忘れてと言ったそうだ。
 彼女は、彼に散々のろけたそうだ。彼もそれを黙って聞いてくれていただろう。

 いつしか、それが相談になっていったらしい。

 彼は、僕に聞いてきた。
「なぁ彼女を”いじめ”ていたグループのトップに心当たりはないか?」
「え?知らない。部活って話だから、部活の奴らを捕まえて問いただしても、”ごめん”としか言われなかった」
「そうか、部活・・・だと思っていたのか・・・」
「?」

 疑問符しか出てこない。
 彼は、どうしてそんな事を聞くのか?

 彼はゆっくりと、息を吐いてから、

 僕に、信じられない名前を告げます。彼が、人を貶めるような事をしないのは、僕が一番解っている。その彼が告げた名前が、僕には信じられなかった。

 その名前は、一学年上の先輩で、子供の頃”女性”とは知らずに、一緒に遊んでいた人物の名前でした。
 勿論、彼も先輩の事は知っていますし、幼馴染の1人で間違いない。よく遊んでいた”仲間”なのです。

 そんな人の名前を冗談でも出すような、彼ではない。

 僕には思い当たる理由が一つだけある。
 それを口にすることはできない。彼に告げて、声に出す事で、全てが崩れ去る。

 彼が、彼女の事を、先輩の事を好きだと知っている。

 彼は私の目を見たまま何も語らない。
 非難しているのでは無い。

 僕がこれから語る残酷な事実を受け入れると言っているように思える。

 彼の目を見ながら、時間だけが過ぎていく感覚がある。1分なのかも知れない。30分なのかもしれない。それを知る必要が無いことは、僕も彼も解っている。このまま、話を終わらせる事ができないことも解っている。

 僕は彼に向かって、答えを提示します。
「彼女。僕に好きだと言ってきた。その時に、僕は彼女が好き。そう答えたのが、原因なのか?」

 彼は、黙って頭を下げた。
 その瞬間、私の中で何かが弾けた。それから、彼にマシンガンの様に問いかけたのは覚えているが、何を問いと居かけたのを覚えていない。

 もう既に、その時の事を彼に問い返すことも、共有する事もできなくなってしまった。
 彼もまた、彼女の所に旅立ってしまった。

 彼と話をしてから1ヶ月1ヶ月。
 前日からふり続いている大雨で、何のかもが嫌になってしまった。

 そんな朝、寮に届いた新聞に、認識できない事実が載っていた。
「高校生が運転するバイクが、中央分離帯に激突。運転する高校生死亡」

 僕が、それを見ることを待っていたかのように、寮の電話がなり、近くに居た僕が電話に出た。

 電話は、彼のお兄さんからだ。
「昨日の夜、バイクで事故って、病院に運ばれる途中で息をひきとったんだ。それで、急で悪いんだけど、告別式をやるから来てくれないか?」

 そう冷静な声で言われて、なんの冗談かと現実の話か判断できないでいた。
 僕に、お兄さんは言葉を続けた。

「それで、もう一つお願いがあるんだ、救急車で運ばれていく最中・・・弟が、”君に余計な事を言った”とすごく気にしていて、謝りたいから、直ぐに呼んでくれって言っていたらしいんだ。それは、叶わなかったからせめて弟に君から言葉をかけてやってほしい。いいかな?

 受話器を持つのが精一杯の僕にお兄さんは言葉を続けた
「返事は、来てくれた時で構わないから。最後にひと目だけもで、君に逢いたいだろうと思うから、来てくれると嬉しいよ」

 そういって、僕の返事を待たずに、お兄さんは電話を切った。

 僕は、逃げるようにその場を離れ、雨のなか何も持たずに、地元へ向かう電車に飛び乗った。

 電車を降りた所で、警察を名乗る人物に話しかけられた。
 彼の乗るバイクのブレーキに細工された痕跡が見つかった。何か心当たりは無いかと聞かれた。

 心当たりも何も、彼がバイクに乗っている事も知らなかった事を告げた。
 警官は、なにか考えてから、なにか思い出したら、一報下さいと、電話番号が入った名刺を僕に渡してきた。

 僕は、雨降るなら、僕の事を、置いていってしまった、彼女と彼との思い出だけが残っている 寂れた港に向かっていた。なぜ、そこに足を運んだのかわからない。でも、港に近づくと、港から、彼の声が聞こえるのではないかと思っていた。彼女と初めてキスをした場所は、彼女が雨の日に僕に微笑んでくれた場所だ。その場所も、あの頃と変わらないで残っている。

 死のうとは思っていなかった、死んでいってしまった者たちを恨む気持ちは無い。
 ただ、ただ、独りになってしまった事への寂しさだけが込み上げてくる。こみ上げてきては、雨に流されて、波に飲まれていく。そして、新たな思い出がこみ上げてきて、雨に流されていく、想いや思い出が昇華されるかのように、繰り返される。それでも、彼女への想いは消える事がない。彼との思い出がなくなる事はない。

 僕は、雨に打たれながら・・・・。

 そして、雨に流されながら・・・・。

 そして、1人の女性が傘を持ち、僕に微笑みかけてくれた・・・。

 違う。彼女ではない。彼女をいじめという最低な方法で追い詰めて、自殺という最悪な結末まで持っていった女だ。
 右手で、彼女と同じ赤い傘を持ち、左手にナイフを握って、僕を見ている。彼女と同じ様に、微笑んでいる。ナイフは、鈍く光っている。まるで、工業オイルの管を切った時のように、ナイフが汚れているのだろう。

 女は、僕の方に歩いてくる。
 僕は、雨に打たれながら、女が側に来るのを待った。

 女は僕の近くに来ると、ナイフを振りかざした。
「君が悪いんだよ。あんな女。私から、君を奪った、あの女が全て!!!」
「すべて、君が悪いんだよ。彼が死んだのも、君が私の町から出ていったのも、彼がいじめたからでしょう?大丈夫。もう排除したから、だから、安心して帰って来て、どこにもいかないように、縛り付けて、私だけを感じさせてあげる。いつもしているように、沢山気持ちよくしてあげるよ。あんな女の事なんか忘れさせてあげるよ。だから、だからぁぁ、もうぅぅぅぅどこにぃぃぃxも、いかないってぇぇぇやくそくぅぅしなぁぁぁさい!!!」

 女の左手が僕の身体を狙っている。
 すごくスローモーションだ。

”ゴン!”

 なにが起こった?
 女が持っていた、彼女が好きだった傘と同じ赤い傘が、海に浮かんで波にもてあそばれている。女は、その場で倒れ込んでいる。

 手に持っていたナイフは、海とは反対方向に投げ出されていた。

 雨が僕に味方してくれた?
 わからない。わからないが、目の前では、警官が彼女を拘束して連れていく・・・。

 これで終わったの?
 彼にそう報告していいの?

 そうだ、警察なら、彼女のご両親の事を知っているかもしれない。引越し先がわからなかった。でも、彼女を追い詰めた奴が解った事を教えてあげないと・・・余計なお世話かも知れないけど・・・。

 僕は、雨に打たれながら、雨が涙を流しているのを感じながら・・・。赤い傘が、波にもてあそばれて、沈んでいくのを眺めていた。

fin

 そこは終末医療専門の病院だ。
 誰も訪ねてくる事もなく、ただ死を待つだけの人たちが、最後の時を心安らか過ごす場所だ。冥界に旅立つその時まで、サポートを行う病院なのだ。

 1人の女性が運び込まれた。
 身寄りのない女性。女性というには幼い。少女と言ってもいい年齢だ。

「先生」
「もって1ヶ月と言われている」
「でも、なんでここに?」

 看護師が不思議に思うのも当然だ。
 ここは救いのない病院。少女が最後を迎えるのに相応しいとは思えない。

「彼女の希望だ」
「え?」
「彼女は、とある事件の被害者の家族で、唯一の生き残りで、マスコミがまだ追っている」
「それで・・・」
「それに、彼女は残された遺産を全部この病院と隣接する孤児院に寄付すると言っている」
「孤児院の事も知っているのですか?」
「そうだ。なぜ知っているのかは教えてくれなかったけどな」
「そうなのですね。不思議ですね」

 医師と看護師が不思議がるのも当然なのだ。
 終末医療を行っている病院と孤児院をつなげて考える人は少ないだろう。管理母体が違うので当然なのだが、孤児院の49%の株は医師が持っている。そして、若くして(30代や40代)でこの病院に来てしまった場合に残された子供の事を安心させるために、孤児院を運営しているのだ。

「それであの部屋なのですね」
「彼女が希望したからな」

 その部屋は、暗い深い森に面しているが、近くにある山の影響で、麓にある孤児院からの声が聞こえてくる。
 患者にとってはあまり気持ちがいい部屋ではない。暗い深い森は、”死”を連想させる。それを見ながら、将来ある子供たちの声を感じるのだ。子どもたちの声だけなら、思い出に浸る事ができる。しかし、”死”を感じながら未来を、将来を考える事などできない。

 防音された個室に入る事もできた。しかし、彼女は自らその部屋を望んだ。

---

「先生!」

 今日、5回目のナースコールが鳴り響く。
 どこかの部屋の患者が冥界に旅立ったのだろう。

 私は、この病院に務めるようになって希望を持つ事を辞めた。
 先生は立派な人だ。私は、まだ患者さんに向き合う事ができないでいる。患者さんの名前を覚えない。これが、この病院でやっていくための鉄則なのだ。看護師の先輩たちの中には薬に手を出した人も多くいる。それだけ精神に負担がかかるのだ。

 これは、私の罪滅ぼし。
 娘を救えなかった私に課せられた罰なのだ。

「先生。森の女性が、お薬が欲しいと言っています。どうしますか?」
「痛み止めを処方する」
「わかりました」

 森の女性。余命1ヶ月と宣告された少女。いつも、森を眺めて、子どもたちの声を聞いている少女を、私たちは”森の女性”と呼んでいる。
 その少女が痛みに耐えられなくなって、薬を求めるようになったのは昨日のことだ。

 処方された薬で、ゆっくりと寝られるようだ。

 今日も、薬を入れた事で、寝てくれた。

 肩が冷えないように、布団をかける。
 彼女の希望で、窓は空けておく、夜の風が、朝の風が、森の匂いが、森からの音を聞いていたいのだと言っていた。

 彼女から寝息が聞こえてきたので、私は部屋を出た。

---

 僕は、あと何回・・・朝を迎えられるのだろうか?
 1回?2回?

 気にしてもしょうがない。僕は、早く父と母と弟が待つ場所に行きたい。でも、自分で旅立つのはダメだ。父に言われている。自ら命を断ってしまうと、父と母と弟が待つ場所に行く事はできない。でも、もうすぐ旅立てる。

 僕が、この部屋を選んだのは、森からの使者が訪れるのを期待しているからだ。
 この森には・・・彼の使者が住んでいた。僕に、この病院と孤児院の事を教えてくれた、男の子・・・。僕の初恋で、僕の初めての人。彼は僕に、自分が孤児院で育った事を教えてくれた。山の麓にある孤児院。彼は、病院の事も知っていた。

 でも、僕は、彼に僕の身体の事を告げていない。別れも告げていない。全身の痛みに耐えながら、彼と初めてのキスをした日に僕は彼の前から姿を消した。

 僕は、最初で最後のキスをした彼の事を思いながら、迎えが来てくれるのを待っている。

”ほぉーほぉーほぉー”

 フクロウ?
 痛み止めが効いたのか寝てしまっていた。看護師さんからは『虫が入ってくるから閉めましょう』と言われたけど、風を感じたいと・・・。無理を言って開けてもらっている。

 身体を起こして外を見ると、真っ白いフクロウが、僕の髪の毛と同じ色のフクロウがこっちを見ている。

「君が迎えなの?」

 もちろん、フクロウは何も答えてくれない。

 黙って、窓に止まって僕を見ている。
 僕を見つめるフクロウの目が、彼を思い出させられてしまう。真っ直ぐな視線で彼と同じ様に僕を見つめている。

 彼は今何をしているのだろう?
 僕の事を少しでも覚えていてくれたら嬉しい。僕はずるい。彼に忘れられたくなくて、彼に何も言わずに彼の前から消える事にした。

 彼は、僕の事を覚えていてくれるだろうか?僕の事を探してくれるのだろうか?

 あっ・・・。
 フクロウは何も言わないで窓から飛び立ってしまった。

 あれから毎晩、フクロウは僕のところにやってくる。
 寝ている僕を起こすかのように鳴いて、僕の他愛もない話を聞いてから、帰っていく、まるで彼に僕の事を告げに行くかのように・・・。

 僕を連れに来た使者ではないのか?
 夜中の訪問者が来てから、痛み止めを入れなくても、寝られるようになった。身体の調子がいいわけではない。徐々に悪くなっているのも自分でもわかる。昨日できた事ができなくなっている。

 僕は、もう長くないだろう。
 僕の事は僕が一番わかっている。

 僕が旅立ったら、フクロウはあの部屋に来るのだろうか?

 夜目が効くフクロウだから、僕のところに来てくれたのだろうか?

 フクロウは、アテナの使者。僕をアテナのところに連れて行ってくれるのだろうか?

 戦いの女神の使者が僕のところに来るはずがない。僕は、負け戦を戦っているのだ。

 違う!!僕は、負けるわけではない。僕は、負けない。僕は、自ら命を断つ戦いに勝っている。苦しい状況でも、彼の事を考えて、待っている家族の事を考えて、僕はひたすら戦っている。
 戦いの女神の使者であるフクロウが見ている、見に来ているところで無様な戦いはできない。

”ほぉーほぉーほぉー”

 今日も、フクロウは僕の戦いを確認しに来てくれた。
 僕は、負けない。父に母に弟にあう為に、僕は自ら命を絶たない。

 アテナの使者に僕は告げる。

「僕は、負けない!冥界に旅立つその時まで、僕は僕だ。僕のまま死んでいく!!」

「彼に・・・会いたい。僕の唯一の・・・彼に・・・」

”ほぉーほぉー”

 僕は何を・・・願った?彼に・・・?

---

「先生」
「もう長くないだろう」

 少女に処方する痛み止めの量が日増しに増えている。
 寝て過ごす日々が続いている。窓も締め切って、一定の温度になるように空調を入れている。

 少女は、天涯孤独で、引き取り手も連絡をする相手も居ない。

「そう言えば、彼女の部屋の窓を開けていないよな?」
「はい。以前は開けていましたが、ここ1週間は開けていません」
「そうか・・・」
「どうかされましたか?」
「いや、昨日も今日も枕元に鳥の羽が落ちていたからな」
「え?本当ですか?」
「白い・・・。真っ白な大きな羽が落ちていたから不思議に感じていて、なにか知らないかと思ったのだけどな」
「掃除したときには気が付きませんでしたが?」
「そうか・・・患者の誰かが持ってきたのかも知れないな」
「そうですね」

---

 深夜にナースコールが鳴り響いた。

「先生。森の女性です」
「わかった。急げ!」
「はい!」

 多分、痛みで起きたのだろう。
 痛みの間隔が短くなってきてしまっているのか、苦しんでいるのを何度も見かけた。

 今日が・・・。

 心を閉ざす。少女の事を、考えてはダメ。感情に自分が引きずられる。

「先生!」

「あぁぁぁぁぁ来てくれた!!!!!ありがとう!」

 少女が、窓の外を見てつぶやいている。
 誰かが居るわけではない。この病院ではよくある事だ。最後が迫ってきているのは間違いない。

「あのね。僕、頑張ったよ。今日まで、貴方が来てくれるまで、頑張って死なないでいたよ!」

 ()()()()()()()

 少女の言葉が胸をえぐっていく。少女は自分の死期を悟って、悟った上でなにか(貴方)を待っていた。

 少女の目は、窓の外をはっきりと捕らえて動かない。

「先生!」
「・・・・」

 先生は、首を横にふるだけだ。
 私もわかっている。彼女に、医者が、看護師ができることなど何もない・・・。

 痛みも感じなくなったであろう身体を優しく支える事しかできない。

「あぁぁぁぁぁ。嬉しい。僕の事を覚えていてくれたのだね」

「もちろんだよ。僕も、貴方の事だけを考えていた」

「でも、お別れだね。僕には、時間がない・・・。みたいだから・・・。もっと、もっと、いろいろ・・・。話したいけど・・・。いざ、目の前に、貴方がいると・・・。言葉が出てこない」

「ほんとう?同じだね。ごめんなさい。僕の事・・・。忘れてほしくなくて」

「ゆるして・・・くれるの?」

「でも・・・もう・・・だめ・・・。こんど・・・でも・・・すぐじゃなくて・・・いいよ・・・ぼく・・・まって・・・い・・・る・・・から・・・ね」

 少女は最後の力を振り絞るかの様に窓に手をのばす。何もない虚空を掴んでから力尽きた

”ほぉーほぉーほぉー”

 え?嘘?どこに居たの?
 少女が見つめていた窓の外を、大きな大きな大きなフクロウが1羽・・・。大きな翼をはためかせて、なにかを掴んで空に登っていく・・・。
 もしかして、彼女を迎えに来たの?

---

「大和!」
「大和なら、ほら・・・例の・・・」
「そうか、フクロウが死んだとか言っていたな」
「そっちじゃなくて・・・。そっちもだけど」
「??」
「探していた彼女が見つかったらしくて、病院に行ったらしいぞ?」
「そうなのか?」
「フクロウが、知らせてくれたとは言っていたぞ」
「そうか、不思議な真っ白なフクロウだったからな」
「そうだな。彼女と同じ色だとか言っていたな」

fin

 俺には長男だけど二番目の子供だ。

 当然の事だと思う。
 俺は少しだけ複雑な子供だ。

 俺の父はバツ1なのだ。
 父の再婚相手が、俺の産みの母で、産みの母の最初の配偶者が本当の父なのだ。

 ようするに、俺が今『父』『母』と呼んでいる両親とは血が繋がっていない。

 本当の両親が、どうなったのかは知らない・・・ことになっている。

 一度酔った父が話してくれた。

 俺の本当の父は、父の友人だった人物ですでに死去している。産みの母も、父と再婚して2年後に死去した。
 自殺だと言っていた。父は、本当の母の死を自分たちの責任だと悔やんでいる。

 父は友人に産みの母を頼まれたようだ。
 死ぬ間際に頼まれたのだと言っていた。理由は話してくれなかった。

 どういう経緯で母と結婚したのかはわからないが、母も産みの母を知っているようだ。
 全員が、幼馴染と言ってもいい関係だったようなのだ。

 そんな不思議な環境の中で、俺は二番目として生活してきた。
 父の事も、母の事も、感謝しているし、尊敬もしている。弟の事も大事だ。しかし俺は、この家では2番目の存在でしか無いのだ。小さいときには、弟に嫉妬した事もある。でも、酔った父に真相を聞かされた時に、納得してしまった。

 グレるという選択肢は俺にはなかった。本当の両親と、育ててくれた両親。どちらも俺にとっては両親なのだ。今の両親が二番目の両親などと考えていない。

 明日、卒業式が終わったら、俺は家を出て一人暮らしを始める。
 街に出て働くことになっている。就職先の寮に入る事が決まっている。

「父さん?なに?」

 家を出る前に、父に呼ばれている。
 部屋のリビングで、父さんの対面の椅子に座る。

「・・・」

 なんかいいにくそうにしている。
 もしかしたら、本当の両親の事を教えてくれようとしているのか?

(さとし)。明日の準備は終わっているのか?」

 笑いそうになってしまう。
 荷物をまとめて寮に運んである。父さんに運んでもらった。
 そんな事も考えられないほど動揺しているのか?

「大丈夫。もう寮に運んだから、明日は着替えを少し持っていくだけだよ」
「あっそうだったな。・・・それでな」
「なに?」

 話しにくそうにしているけど、チラチラとリビングからキッチンの方を見ている。
 母がそっちで聞き耳を立てているのがわかる。

「あのな。慧」
「うん」

 長い沈黙だ。

 パタパタとキッチンから母が出てきたのがわかる。

「アナタ。慧が困惑しているでしょ」
「そう言っても・・・」
「もう。いいわね。私が」
「ダメだ!これは、俺の役目だ!」

 びっくりした。
 温和な父が母を怒鳴るなんて・・・。それほど、大事に思っていてくれたのか?

 もしかして、二番目なんて思っていたのは、俺の勘違いだったのか?

「そ、そうね。アナタの役目ね。ごめんなさい。慧。少し、パパとママの話を聞いてくれる?」

 母は、父の隣に座って、お茶を俺の前と自分と父の前に置く。

「もちろん。俺に関係する事?この目に関係する?」

 両親が話しやすいように、目の話をする。
 俺の目は、茶色と濃い青だ。父と母は、びっくりするくらいの黒色だ。この両親から、俺の様な目を持つ子供が産まれるわけがない。

 両親は身体を少しだけ強張らせる。
 大丈夫。俺は知っている、知っていて、父と母を、父さん。母さんと呼ぶ。呼んでいたいと思っている。

「慧。お前は、俺と母さんの本当の子供じゃない」
「うん。知っていたよ。だって、目が違いすぎるし、髪の毛の色も俺だけ違うからね」

 わかっていた事だが、父にはっきりと言われるとやはり心に・・・来る。

「慧!でも、お前は、俺の子供だ。血が繋がっていなくても、俺と母さんの子供だ!」
「うん。ありがとう」

 ダメだ。
 泣くな!泣いちゃダメだ。涙を見せるな。哀しいわけじゃない。教えてもらえて嬉しいと思え!

「サトちゃん。あのね。私とパパの」「母さん!」

 父が、母のセリフを止める。これも珍しい。

「そうね。私が言ってはダメね。ごめんなさい」

 なにか事情があるのだろう。

「慧。お前の父親は、俺の同級生だった男だ」

 父から、本当の父の学生時代の事を聞く。これは、ある意味・・・拷問に違いない。
 なぜ顔も知らなければ、有ったこともない、父親の話を育ててくれた父から聞かなければならない。
 学生時代の出来事なんて話の筋として関係ないだろう?

「アナタ」
「おっすまん。奴は、憎たらしいが、そんな男だった」
「そうだったのですね」
「他人事だな?」
「え?だって、俺の父さんは目の前に座っている人だけですからね。あった事もない人の事を父とは思えないですよ?」
「・・・。それで、お前の生みの・・・、本当の母親なのだが・・・」

 ちらっと母を見る。
 母が気にすると思っているのだろうか?それなら、杞憂だと先に話したほうがいいかも知れない

「そうね。加奈子の事は、私から話したほうがいいね」
「加奈子?」
「そうよ。慧の生みの親だけど・・・心が弱かったのね」
「??」
「加奈子は、慧を産んで、次の子を身ごもった時に、あの人が事件で死んでしまって・・・」
「え?」
「それはいいのだけど・・・」

 事件?
 死んだとは知っていたけど、なにかに巻き込まれて死んだのか?

「うん」
「優しいのね。そういうところは、加奈子にそっくりね。加奈子は、慧の妹になる女の子を産むはずだったのに・・・」
「死産だったの?」
「そうね。死産・・・かな。よほど、ショックだったのだろうね」
「でも、それだと・・・」
「そう、パパは、あの人に頼まれて、心が壊れた加奈子と結婚したのよ」
「え?」
「私との結婚が決まっていたけど、アナタを実子として向かい入れる為に、私との結婚を先延ばしにしたの」
「え?母さんはそれで」
「良くないけど、しょうがなかったのよ。加奈子には、パパも私も返しきれない恩があるのよ」
「え?それじゃ俺の事は・・・恩を返す・・・ため・・・なのか?」

 自分で言っていて悲しくなってくる。
 違うと否定して欲しい。でも、今の言い方じゃ・・・。

「サトちゃん。違うわよ!貴方は、私とパパの子供!これは間違いない!あの人や加奈子が生き返っても渡さない。私の、パパの宝物!」

 俺もしっかり愛されていた・・・のだ・・・。二番目でもいい。俺の両親は、この二人だ。

「慧。すまんな。混乱させてしまって、こんな話は、しないほうが良かった・・・」
「父さん。母さん。俺、二人の子供で良かった」
「慧」「サトちゃん」

「知らない両親の事なんかどうでもいい。二人の馴れ初めとかのほうが気になるよ」
「サトちゃん。それは、サトちゃんがお嫁さんを連れてきた時に、お嫁さんにだけ話してあげますよ」

「ハハハ。それじゃ、隠し事ができない嫁さんを見つけないとな。その前に彼女を探してこないとな」
「そうだな」

 少しだけ気になった事を聞いておく。
 父と母が話したくなければ無理に話さなくて良いと先に言ってから聞くことにしよう。

「父さん。母さん。話しにくかったら話さなくてもいい。俺の両親は、父さんと母さんだから・・・。でも、教えて欲しい事がある」

 ここで一息入れる。
 父も母も俺をまっすぐ見てくれている。

「俺の産みの両親だけど、なんで死んだの?」

 聞いてしまった。
 本当なら、聞かないほうが良かったかも知れない。

「そうだな。お前には知る権利があるだろうな」

 そう、父が語り始める。
 学生のときの話だ。本当の母(加奈子母さん)と父と母の3人は幼馴染だったらしい。
 本当の父の家は、裕福だったようだ。

 父と母の家も、加奈子と呼ばれた加奈子母さんの家も貧乏だったようだ。
 不愉快になる話であるが、加奈子母さんは資金援助と引き換えに、本当の父(クズ)のところに嫁入りしたようだ。その資金で、父も母も家族が残した借金を完済したようだ。だから、父も母も親戚の付き合いが殆ど無いのだな。

 本当の父は家に来ていたお手伝いさんに刺された。事情は、結局わからなかったらしい。父の表情から、なにか知っているのはわかるが、わからなかったと言っている父の言葉を信じる事にする。

 暫く生死の境を彷徨ったクズは、父と母を呼んで加奈子母さんを娶ってくれとお願いしたと言っている。
 実際には、お願いではなく、命令なのだろう。この時点で、加奈子母さんは心が壊れてしまっている。クズの実家は、加奈子母さんと俺を家から追い出した。心が壊れて何もわからない状態の加奈子母さんに財産を放棄させている。

 そして、父は加奈子母さんと結婚して、俺を引き取った。
 加奈子母さんを、父と母の二人で面倒を見ていた。そして、俺が3歳になった時に、加奈子母さんは自ら命を断った。理由はわからなかったらしい。

 加奈子母さんは父と母に、クズからの手紙を渡したのだと、俺に向けての手紙ではなく、父に向けての手紙だ。その時に、加奈子母さんの手はやけどしていたらしい。

 封は切られていない。父も母も読みたくないのだろう。
 俺に処分を任せると言って渡してくれた。

 その場で破いて燃やす事もできたが、父と母が知らない事情が書かれているかも知れない。
 好奇心を抑える事ができなかった。
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 親愛なる我が友へ

 俺は、お前に勝ちたかった。お前は、俺が持っていない物を全部持っている。
 俺が好きになった女は、お前の事が好きだった。
 お前にとって二番目の女なのだろう。
 俺が金の力で娶った。
 加奈子は、俺の子供を産んだ後もお前の事を愛していると泣いていた。子供は、お前の子供だと思っているぞ?

 子供を産んだ後にすぐに犯して子供を作った。
 二番目を産んだ後でお前に返すつもりだ。もらってくれるよな?

 加奈子の目の前で、他の女を犯すのも楽しかったぞ。
 お前はいつまでも二番目だと思い知らせてやった。
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 素晴らしくクズな内容が長々と書かれていた。素晴らしくクズな内容で、手紙を燃やす事に戸惑いはなかった。

 父と母にとっては、加奈子母さんの変わりかも知れない。
 二番目の愛情なのかもしれない。
 加奈子母さんからも、父からも母からも愛情を受けている。

 加奈子母さんは本当に心が壊れていたのだろうか?

fin