ちょっとだけ切ない短編集


 私は、雪が嫌い。私から、母さんを奪った雪が嫌い。同じくらいに、父さんが嫌い。

 本当は解っている。母さんを殺したのは、私だ・・・。雪ではない。

 私が、初めて無断外泊をした日。母さんは、死んだ。

 私が住む地方では珍しく、その日は雪が振っていた。当たり一面を白く染め上げるくらいの雪だ。私は、地面に降り積もる雪に、自分の足あとが残るのが嬉しくてテンションが上がっていた。友達に誘われて、遊びに行った。スマホも携帯もそれほど普及していない時だ。家には連絡をしなかった。小さな・・・。小さな・・・。そして、大きな反抗だ。私は、夜に帰ればいいと思っていた。しかし、降り積もった雪で交通機関は麻痺して、朝まで帰ることが出来なかった。
 帰りは、迎えに来た友達のお父さんに車で近くまで送ってもらった。

 汚れた雪が道路に轍を作っていた。
 父さんに怒られるだろう。母さんに心配をかけただろう。

 家の門扉が見えてきた。門扉の前は、汚れた雪が踏み固められている。門は簡単に押すことが出来た。門から、家の玄関までの5メートルが遠かった。
 下を向いて、歩いた。所々雪が残っている。踏み固められた雪だ。

「美月!」

「・・・」

 玄関を開けると、父さんが座っていた。
 私の顔を見て、いきなり手を振り上げた。びっくりして、よろめいてしまった。尻もちを付いた私を父さんは上から見下ろしている。

「付いてこい」

「え?」

「付いてこい」

 父さんは、慣れない雪道に悪戦苦闘している。どこに向かうのかも教えられないまま、1時間が経過した。
 普段なら、10分程度で到着する病院が目的地だ。

 何も喋らない父さんの態度が気に入らなかった。

 父さんは、緊急搬送の窓口の近くに乱暴に車を停めた。邪魔にならないように、花壇に突っ込む様な停め方だ。

「降りろ」

 普段から、ぶっきらぼうの父さんが怖かった。
 怒っているわけではない。でも、父さんの態度が、言葉が、雰囲気が、そして考えたくない予想が、怖かった。

 父さんは、窓口に居る看護師に名前を告げる。そして、車の鍵を渡している。

「行くぞ」

 私の方を見ないで、父さんはどんどん先に行ってしまう。
 私と父の距離が開いていくのがわかる。急ぎたいけど、行きたくない。父さんは、地下に降りた。

「ここだ」

 また、父さんは私を見ない。私は、父さんの背中と汚れた靴が付けた足あとだけを見ている。

(あぁぁぁぁぁぁ・・・・)

 母さん・・・。

「母さんは、駅まで行こうとして、大通りでスリップした車に跳ねられた」

「・・・」

「綺麗だろう。雪が振っていなければ、骨折だけで済んだかもしれない」

「・・・。母さん・・・」

「雪が、雪が悪い。雪が・・・」

 父さん。なんで、こっちを見てくれないの?
 私が悪いの?朝帰りなんかしたから・・・。駅までって母さんは・・・。なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

 気がついたら、私は、ベッドで横になっていた。
---


 母さんの死から、私たちは家族ではなくなった。ただの同居人になった。

 母さんの三回忌。
 私は、けじめとして父さんに1人の男性を紹介した。

 父さんは、びっくりした顔をした。

 その後で呟くような声で、彼に言葉を紡いだ。
「美月を頼む。本当に・・・。よかった」

 彼は、父さんと私のために、ホテルのディナーを予約してくれた。その日は、ホテルに宿泊する予定になっていた。父さんには、照れくさかったのもあるが招待状を送った。
 時間になっても父さんが現れなかった。そこまで父さんに嫌われているのかと落ち込んでしまった。

「美月。お父さん、雪で来られなかったのかしれない」

「それなら、連絡の一つでも入れてくれれば・・・。雪も、待ち合わせの時間には・・・」

「しょうがないよ。明日、ご実家に行こう。僕も、お父さんに文句を言うよ」

「ううん。私が嫌われているだけ・・・。貴方まで嫌われなくていい・・・」

「違うよ。美月。僕が、お父さんの真意を知りたいだけ・・・。だから、僕とお父さんで話をさせて欲しい。駄目かな?」

「・・・。わかった」

 ホテルの窓から見える町並みは、雪化粧がされている。汚い心を隠してくれる。

「(雪は嫌い。私から、奪っていく・・・)」

「え?なに?」

「なんでも無い。シャンパンがもったいないから飲もう」

 彼の腕に捕まりながら、綺麗に雪化粧された町並みを見ている。。

 翌日、ホテルの前は綺麗に雪がどかされている。
 子供が付けたのだろうか、雪の山には小さな足あとが付けられている。

 彼が運転する車で、実家に向かった。
 父さんに文句を言うためだ。

 しかし・・・。家に、入ることが出来なかった。
 彼の運転する車で、私は母さんと再会した病院に向かった。出迎えてくれたのは、若い警官だった。森下と名乗った警官は、事情を説明してくれた。

 父さんは、5年前から脳に病気を抱えていた。
 だから、3年前のあの日・・・。父さんではなく、母さんが駅まで行って事故にあった。
 言ってくれなかった父さんに腹がたった。父さんの病気を教えてくれなかった母さんにも文句が言いたくなった。父さんは、病状が悪くなっていくのに病院には行っていなかった。いつお迎えが来てもいいと思っていたようだ。そして、私が結婚すると告げて、肩の荷が下りたのだろう・・・。母さんが眠る寺の住職が教えてくれた。
 住職は、倒れた父さんを病院に搬送してくれた。父さんは、お寺から家に帰って着替えをして、ホテルに向かおうとしてくれた。でも、玄関を出て、数歩歩いた所で倒れた。倒れた所を訪ねてきた住職に発見された。

 住職に父さんのことを教えられた。
 父さんは、毎日、それこそ、雨の日も雪の日も母さんの墓参りをしていた。

 墓は、父さんの一存で奥の人気がない場所に作られていた。母さんが眠る場所は、春になると桜が咲く綺麗な場所だ。墓が汚れるために、不人気だと住職が笑っていた。
 昨日の昼過ぎから振り始めた雪は、今日の朝には止んでいる。父さんは、住職に挨拶をしてから母さんの墓に向った。雪の降り始めに父さんはお寺に来ていた。住職に嬉しそうに私の結婚が決まったと話していた。そして、これで、母さんの所に行けると喜んでいた。
 重い足取りのまま、住職に教えられて、母さんの眠る場所に向った。

「美月!?」

「なに?」

 彼が、地面を指差す。
 そこには、片方を引きずったようになっている足あとが残されていた。雪の上に一つだけ残された足あと・・・。それが、母さんの墓まで続いていた。

 母さんの墓石の雪は綺麗に落とされていた。
 墓石の前には母さんが好きだった花と私が好きな花が並べて置かれていた。小さなひまわりの花。この季節の花ではない。
 父さんが立っていたのだろう、一部だけ地面が露出している場所がある。父さんは、雪の中で何時間も母さんと話をしていたのかもしれない。

「美月。これを・・・」

 彼が、線香を持ってきてくれた。
 彼から、火が付いた線香を受け取って母さんに捧げる。燃え尽きた、父さんが置いた線香の上に・・・。

 母さん。父さんは、迷わずに母さんの所に向った?
 まだ3年だから、母さんの足あとは残っているよね?

「美月」

「あっうん。ありがとう」

 彼が、住職と話をして葬儀を取りまとめてくれる。
 父さんの仕事関係者が挨拶に来てくれた。

 彼は、子供のときに両親を事故で亡くしている。彼は、父親と母親を知らない。彼にとっては初めての父親になるはずだった父さん。

 葬儀が終わって、初七日が過ぎて、婚姻届を提出した。
 彼は父さんに名前を書いて欲しかったと言っていた。彼の上司と住職が名前を書いてくれた。

 そして、彼と私は家主が居なくなった私の生家に戻ってきて生活を始めた。
 彼は、父さんの足跡(そくせき)を辿るように、父さんが使っていた仕事部屋を使って、父さんと同じ仕事を行うようになった。彼の上司が父さんの知り合いだったことも影響していた。

 母さんの十三回忌が終わった。
 私たちは子供には恵まれなかった。
---

 明日は、父さんの十三回忌だ。代替わりした住職にお願いしている。
 彼との間には子供には恵まれなかった。彼は気にしていたが、私はそれでもいいと思っていた。

『美月。大丈夫なのか?』

 今日は、仕事の関係で外に出ていた。あの日のように、雪が振ってきた。13年ぶりの雪だ。朝に振っていた雨が昼過ぎに雪に変わった。

「うん。タクシーで帰るから大丈夫。あっスマホの充電を忘れちゃったから・・・。連絡が出来なかった。ごめん。先に寝ていて・・・」

『解った。でも、無理するなよ。遅くなるようなら、近くのホテルに泊まって、明日の朝にでも帰ってこい』

「うん。ありがとう。仕事に戻るね」

 雪が周りを白く染めていく、客先から見える道路は白くなり、通行人の足あとだけが残されていく。

 13年ぶりに積もった雪は交通機関を麻痺させるだけの威力があった。スマホの電池はすでに無くなっている。彼に連絡をしようにも出来ない状況になってしまった。タクシーを待つ長い行列。

 終電を過ぎた時間になって、やっとタクシーに乗ることが出来た。車で20分程度の距離が今日は遠かった。
 タクシーに乗った。タクシーの運転手にお願いしてスマホを少しだけ充電させてもらった。彼にメールで、タクシーに乗ったことを告げた。寝ている可能性もあるので、電話はしなかった。スマホの電源を落として、目を瞑った。

「お客さん。お客さん」

 タクシーが止まっている。
 どうなら、これ以上は奥には入っていけないようだ。途中で車が立ち往生しているようだ。反対側は渋滞がひどくて、回り道をしたら、数時間かかってしまいそうだと教えられた。5分も歩けば着けるだろう。タクシーに料金を支払って降りた。

 雪はすでに止んでいる。
 道には、家路に向かう足あとだけが残っている。立ち往生している車も諦めたのか、運転手はすでにいない。レッカーを頼んだが、忙しくて、まだ来てくれないようだ。説明と連絡先が書かれたメモが残されていた。

 車を避けて、歩くと白い道は何も汚されていない。足あとさえも付いていない。後ろを振り向くと、私の足あとだけが残されている。

 門扉が見えてきた。
 雪は3センチ程度積もっている。道は、雪で白く化粧されている。朝出したゴミがまだ残されている。

 家には明かりが灯っていない。
 彼は寝てしまったのだろう。そう思って、門をゆっくりと音がしないようにゆっくりと押し開けた。

 あっ・・・。
 彼かな?家から、門扉までに足あとが、沢山・・・・。

 彼の足あと。
 雪を踏み固めた、ただの足あと、玄関から門扉までは、歩幅が広い足あと。門扉から玄関までは・・・。

「美月!」

「え・・・・。あっ・・・」

「おかえり、心配した。寒くない。大丈夫だったか?」

「うん。大丈夫。近くまでタクシーで・・・。あぁ・・・。そうか・・・・。(父さん)」

 雪と泥で汚れた靴を見て思い出した。
 母さんの所に向かう父さんの靴も同じように汚れていた。病院に、足あとが残るくらいに・・・。そして、玄関から門扉まで続いた踏み固められた足あと・・・。
 玄関で座って待っていてくれた。雪が溶けて水たまりのようになっている足あと。彼と同じようにタオルを用意して、心配して待っていてくれた父さん。母さんの所にすぐに向かいたかったと思うのに・・・。私の帰りを・・・。心配して待っていてくれた・・・。
 私は、父さんの愛情に気がついていなかった。

 雪の上に残された愛情(足あと)を・・・。

「ねぇ明日・・・」

「ん?」

「なんでもない。父さんに謝らないと・・・。そして、母さんと父さんに”ありがとう”を伝える」

「そうだね。美月。寒いから、家に入ろう。お湯は冷めてしまったかもしれないけど、お風呂を入れよう」

「うん。ありがとう。それから、父さんが好きだった、お酒・・・。あるよね?少しだけでいいから付き合ってよ。貴方に聞いて欲しい話がある」

「わかった。いつまでも付き合うよ」

「あのね。父親の愛情に気がつかなかった愚かな娘の話・・・」

 父さん。今頃になって・・・。ごめんね。
 でも、ありがとう。大好き。

「あき!先に帰るね」

「うん。お疲れ様」

「うん。あきも無理しないでね」

「解っているよ。インターフェース部分のエラーが無くなったら帰るよ。週末は、頼むね」

「わかっているよ。あき。お疲れ様」

 泉が、私が座っている場所以外の電気を消す。
 タイムカードを押す音が響いて、扉が開く音がする。

 エレベータが到着する音が響いた。

 これで、このフロアに居るのは、私だけだ。
 明日から、来週の月曜日まで、会社を休む申請を行っている。

 ふぅ・・・。
 煮詰まってしまったコーヒーを流し込む。舌と喉が刺激されて、眠かった感情が強制的に覚醒される。

 そういえば、このインターフェースの編集を行うのは・・・。

 時計を見る。
 終電には余裕がある。明日は、昼に起きれば間に合う。それに、このインターフェースの修正をしておかなければ、チーム全体に遅延が生じてしまう。部長も、今日になって変更を言わないで欲しかった。
 ラッパーで対応するしかない。プロパティの追加は却下された。そうなると、引数を調整できる方法で対応するしかない。
 配列を受け付けるように変更して・・・。
 これだけじゃだめだ。返り値の調整も必要になる。書き出した感じだと、4つのラッパーが必要になりそうだ。

 週明けまでの4日間。作業が止まらなければいい。
 APIの中身は、後回しにする許可は貰っている。テスト開始まで、まだまだ余裕がある。連結までに、中身を完成させればいい。

 私のデスクだけが照らされた会社で、作業をしている。
 窓に映し出される私は、あの頃と何も変わっていない。

 変わったのが、作業をしている場所でも、作業の内容でも、私の容姿でもない。
 正面に座って、私を見てくれる視線が無くなった。残業の時に、照らされるデスクが私だけになった。

 配属が決まった時に、同期や先輩から、”ご愁傷様”と暖かい激励の言葉を貰った。

 言葉に嘘偽りは無かった。

 上司を一言で、表すと、”変人”だ。変人だった。
 ただの変人ではなく、頭に”天才だけど”がついてしまう。詳しくは知らないが、変人が作ったモジュールが会社の業績を一気に押し上げた。関連の仕事が舞い込むようになって、赤字寸前のIT会社がセキュリティのしっかりとしたビルの2フロアを占有できるまでに成長した。

 会社は完全フレックス制で、13時から14時のコアタイムに出社していればよかった。変人は、13時に出社して、深夜まで作業をして始発で帰るような生活をしていた。一応、私には気を使って、終電で帰るように言ってくれていた。

 本当に変人だ。他にも、事例を上げたらキリがない。

 変人が使っていた開発用のパソコン。
 もう動かなくなってしまっている。専門家に見せても、動かなくなってしまった理由は解らない。すべてのパーツを単体で試せば、動作してしまう。しかし、すべての合わせると動かない。HDDは、マザーボードに付与されているキーで暗号化されている。変人が使っていたパソコンは、私物だ。
 変人が使っていた席もパソコンも、年度末で片づけることが決定している。

 終電の時間に間に合わなかった。

「全部、貴方のせいですよ。私が、一人で残業しているのも、慣れないインターフェースの修正を担当しているのも、全部、全部、貴方の責任です。本当に、勝手な人。こんなに、好きにさせておいて、勝手にいなくなるなんて、ねぇほら、はやく生き返りなさい。今なら、変人だからで許してもらえるわよ」

 変人の使っていた、動かなくなったパソコンの電源を入れる。
 ファンが回りだすが、それだけだ。電通は確認している。マザーボードにも問題はなかった。でも、動かない。

 本当に、変人が使っていたパソコンだ。壊れ方も異常だ。

 あっこれは、いつもの夢だ。

 会社で仕事をしていると、変人が話しかける。

「美穂さん」

 ほら、そこで変人は私の作成した所の修正箇所を告げて来る。
 変人が居なくなってから繰り返される夢。

 夢だと解っていても、変人を目で追ってしまう。
 ほら、今回も同じ。

 注意される箇所も同じ。
 私の返事も同じ。

 そして・・・。翌日になって、修正したモジュールを提出しようとするが、変人は会社に来ない。

 解っている。
 時計を見る。目覚めたい。ここで、目が覚めれば、同じ苦しみを感じることはない。

 でも、無常にも15時37分。
 会社の電話と、同時に私のスマホにも着信がある。知らない番号だが、覚えてしまった番号だ。

 出たくない。
 でも、夢では出てしまう。

 そして、変人が通り魔に刺されたこと、病院に運ばれたことを知る。

 会社の電話も同じだ。
 私は、部長からすぐに病院に行くように言われる。覚えていない。走ったことだけは覚えている。夢だ。これは、夢だ。でも、夢じゃない。

 私が病院に到着した時には、変人には会えない状況だ。
 会社に電話を入れる。自分が、何を言ったのか覚えていない。思い出せない。夢でも、部長の言葉だけだ、耳に残る。

「一緒に・・・」

 部長が何を言ったのか解らない。解らない。でも、”一緒に”だけは耳に残っている。

 そして、深夜になる。

 警察病院に移動する。
 地下に誘導されて、白い布を掛けられた変人と対面する。

 胸に縋りついて、思いっきり叩いた。怒って起きだすと思った。何度も、何度も、名前を呼び、胸を叩いた。警官が止めるまで、叩き続けた。手から血が滲んできても叩き続けた。起きてきてくれると信じていた。

 でも・・・。
 そこで、目を覚ます。

 自分の涙で、枕が濡れている。
 悲しいのに、哀しいのに、夢以外では涙が出ない。

 変人が言っていた。
 苦しい時ほど”笑え”。客先で、プレゼンに失敗した時に、頭を撫でられながら言われた言葉だ。ほぼ確実だと言われた、プレゼンで失敗した。仕事が競合に取られそうになっているのに、笑えない。
 私のせいで・・・。変人は、それでも”笑え”と言った。ミスは、ミスだ。すまなそうな表情をしても、ミスは取り返せない。そんなくだらないことをするくらいなら、考えろ。”考えて、考えて、それでもダメなら、笑え!”そういって、変人は笑った。
 その日は、客先から私は部屋に帰った。変人が、会社に寄る用事があるからと・・・。嘘だった。変人は、会社に戻ってすぐに、プレゼンの失敗を取り戻す方法を考えて実行していた。週明けに出社した私は変人と一緒に部長に呼ばれた。叱責されるものと思っていたが、褒められた。
 失敗したプレゼンだったが、先方から仕事を頼みたいと連絡が来たそうだ。

 変人が嬉しそうに告げる。
「よかったな。見ている人はいる。でも、慢心しないで、頑張ろうな」

 ”はい”と答えるのが限界だった。
 解っている。私のミスは、絶望的だ。でも、仕事に繋がったのは、変人が何かをしたのだろう。プレゼンのミスを帳消しにするくらいの何かを・・・。

 部長の前から、席に戻る途中で、涙が溢れ出そうになる。私は、笑えたかな?涙を堪えて、笑えたかな?

 結局、変人のデスクで寝てしまった。
 始発の1時間前に起きられたのは僥倖だ。作成した部分をコミットして、ポータルに結果と注意事項を書いておく、休むと言っても、咎められないのは解っている。荷物を受け取りに行くだけだ。でも、部長からは休めと言われた。

「笹原さん。貴方が生きていたら、私がこんなに苦労をしなかったのですよ?」

 文句を言いたいのは、変人も同じだろう。理不尽に、無慈悲に殺された。通り魔は、翌日に捕まった。ただ、受験に失敗したという理由で勝手に絶望して、自殺が怖いという理由で、”死刑”になるために、人を殺した。誰でもよかった。殺せそうな人間を狙った。
 彼が証言した内容だ。裁判も傍聴した。結局、彼からは謝罪の言葉は聞けなかった。彼に殺されたのは、変人だけだ。変人が、刺されながらも、彼を殴り飛ばした。そして、彼が持っていたナイフを刺されながらも離さなかった。そのために、彼は逃げ出した。変人が、他の人の命を救った。

 変人が、あの日にあの場所を歩いていた理由は解らなかった。変人には似合わない。場所だ。変人は、始業時間の前に、銀座に行っていたのか?結局、この謎だけは解っていない。銀座に行かなければ、通り魔にも会わなかった。

 約束していた時間に、到着した。

 言われた通りに、受付で事情を説明した。
 10分ほど待たされたが、あの日に私を案内してくれた警官が姿を表す。

「田村美穂さん」

「お久しぶりです」

「そうですね。遺品の受け渡しですが、すぐに受け取りになりますか?」

「はい。お願いします」

「わかりました、ついてきてください」

 地下ではなく、3階に連れていかれる。
 遺品は、証拠品として調べられた。その過程で、変人には家族がいない事がわかって、警察から会社に連絡があり、仕事の資料もあったことから、受け取りを頼まれたのだ。どうやら、変人の荷物の中に私宛の便箋があったことが、警察から連絡があった理由だ。

「便箋は、封がされていませんでした。失礼とは思いましたが、中身を確認させていただきました」

「はい。仕事の話だと思いますので・・・。サインは、これで大丈夫ですか?」

 遺品の受け取りの説明を聞いて、書類にサインをする。
 警察が補完していた証拠品を一つ一つ確認していく、変人が当日に何を持っていたのか解らない。解らないけど、いつもの荷物と同じだ。違うのは、便箋があることだけだ。
 便箋の中身は、手紙とUSBメモリーが一つだ。

「あの・・・。USBメモリーですが、故障していると書かれていますが・・・」

「それは、複製の作成も不可能でした。中身の確認もできませんでした。なんらかの仕組みが組み込まれているとは思いますが、事件性はないと判断しました」

「そうなのですか・・・」

「落とされた時に壊れたのかもしれません」

「わかりました。ありがとうございます」

 変人が最後に着ていた服も証拠品となっていた。ナイフで刺された場所や、犯人を殴った時に着いた血痕がある。この血痕のDNAが逮捕した犯人のDNAと一致して逮捕の決め手となった。

 証拠品を受け取って、警官が荷物を入れた段ボールをもってくれる。
 タクシーを呼んでくれることになった。このまま持っていくには、さすがに量が多い。

「田村さん。笹原さんは、会社ではどんな人だったのですか?」

 タクシーを待つ間の雑談だった。
 でも、警官は、変人の私が知らない変人の生活を教えてくれた。

 タクシーが来て、荷物を載せてくれる。

 扉がしまって、窓を開けて最後のお礼を伝えようとした。

「田村さん。余計なお世話かもしれませんが、笹原さんのお財布の中を確認してみてくださいね。慰めにはならないとは・・・。でも、笹原さんが銀座で何をしていたのかわかると思いますよ」

「え?」

 タクシーが走り出して、警官に言葉の真意を聞けなかった。

 部屋に帰って、変人の荷物を入れた段ボールを開ける。

 変人と会話している雰囲気を思い出す。私の部屋に来た事はもちろんない。私の住所をしっていた可能性すらない。
 でも、テーブルの向こう側に、変人がいつものように片足だけを椅子に載せて、座っている様子が見える。

 そうやって、なんでも解っているような顔で、私を見ている。
 そして、実際に私のミスを何度も助けてくれた。その都度、私を慰めてくれる。ミスした箇所ではなく、些細なことを褒めてくれる。ミスはしょうがない。ミスをした時の対応方法を教えてくれる。バグが消えない時には、方法を教えてくれる。そして、自分の仕事が終わっているのに、私がバグを修正するまで、何も言わずに見守ってくれていた。

 変人の癖のある字だ。私も解読ができるようになるまで時間がかかった。本人は、自分で読めれば問題はないと言っていた。指示を出す文章では、しっかりとした字になるのに、メモはまるで暗号だ。それでも、字を読むだけで嬉しくなってしまう。

 あれだけデジタルな人間の癖に、メモ用のノートを持ち歩いている。
 アイディアが浮かんだら、すぐにメモを取るにはノートの方がいいと言っていた。だから、変人のスマホには必要最低限のアプリしか入っていない。カメラも使っていないと言っていた。

 スマホの認証は、以前に聞いていたので知っていた。
 ロックを解除する。電話帳の先頭は、会社だ。そして、私の名前が書かれていた。嬉しい。たった、それだけの事が嬉しい。そして、スマホには一枚の画像が保存されていた。私が、カメラを使わないのはもったいないと言って、無理矢理・・・。二人が映っている。変人が照れくさそうに笑っている。写真は、私が没収しておきます。いつか、この写真を見て・・・。本当の意味で笑える日が来るまで・・・。見守ってもらうために・・・。

 そうだ。警官が言っていた、財布の中。

 え?
 これ・・・。引き換え?今日だ!
 なんで?

 これって、有名な・・・。変人が?

 急いで、外出できる恰好になって、銀座に向かった。
 一応、荷物の中にあった免許と、私の身分を証明する物と、警察から貰った証拠品の受取証を持っていく。

 なんで?なんで?なんで?
 変人が、ネックレスを買っている?受け取りは、今日になっている。そして、詳細が書かれている。そこには、プレゼント用になっている。誕生日プレゼントだと・・・。そして、その日付が明日。私の誕生日。イニシャルが彫られている。私のイニシャルと誕生日。

 お店には、警察から連絡が入っていた。
 受け取りも・・・。個室に通してくれた・・・。なんで・・・。なんで・・・。なんで・・・。涙が溢れそうになる。でも、ダメ。笑え。笑え。笑え。笑え。私は、笑えている?大丈夫。ネックレスを受け取る。

 部屋に帰ってきて、便箋を開ける。
 警官が言っていた通り、USBメモリーが入っている。

 便箋の宛名は私だ。
 え?うそ・・・。

”美穂。誕生日おめでとう。上司である俺が言うと問題がある。だが、言わないで後悔したくない。俺は、美穂が好きだ。付き合ってくれとは言わない。ただ、美穂の為にネックレスを買った。貰ってほしい。あと、俺が居ない時に、会社のパソコンにUSBを刺した状態で起動してみてくれ。笹原保”

 居ても立っても居られない。
 会社に電話をする。部長が残っていた。荷物を受け取ってきたことを伝えた。会社に関連する資料を持っていくと伝えた。もう帰る所だったようだ。タクシーを使えば30分で到着する。警備員に伝言を頼んだ。

 タクシーを捕まえて、会社に急ぐ。

 警備員は私を見ると、鍵を出してくれる。警備を切ってくれた。
 お礼を伝えて、途中で買った飲み物を渡す。

 会社は暗い。
 誰も居ない。私と変人の机の上にある電灯を付ける。二人のデスクだけが、息を吹き返した。

 徹夜をしている時に、電気を消して寝ている時があった。私が電気を付けると、眩しそうにして起きだす。今は、誰も寝ていない。座ってもいない。

 パソコンに持ってきたUSBメモリーを刺す。場所も指定してあった。全面のソケットだ。

 震える手でパソコンの電源を入れる。壊れて動かないと判断されたパソコンだ。BIOSの画面さえも出なかった。

 ファンの音がする。いつもは、ここで止まってしまう。

 USBメモリーが光る。何かを読み込んでいる?
 BIOSが起動する。なんで?

 パソコンが復活する。息を吹き返す。変人の変わったパソコンが、復活した。
 なんで?私に、USBメモリーを渡す?なんの意味があるの?

 BIOSが読み込まれた。
 OSのローダーが起動する。OSの画面が表示・・・。されない。ローダーの最後に、私の名前が・・・。震える手で、自分の名前を選択する。

 あぁ・・・・。

「美穂。面と向かって言える自信がない」

 それから、パソコンの中に復活した変人は、私の名前を呼んで、告白をしてくれた。恥ずかしかった。嬉しかった。哀しかった。悔しかった。涙が流れてきた。

 私のセリフは決まっている。パソコンの中に復活した変人に笑いかける。

「はい!保さん。私も、貴方の事が好きです」

 保さん。私。笑えていますか?

 おめでとう。
 僕が、君に伝えるのは「おめでとう」の言葉だ。

 君が僕の所に来て、まだ5年だけど、君が来てからの僕の日常は、一気に色めき立ったよ。

 あの頃の僕は生きていくのが辛かった。”消えてなくなりたい”と、本気で思っていた。
 両親を亡くし、妹を失った。僕は、ただ一人、死ぬ場所を求めて、彷徨っていた。

”にゃぁ?”

 側溝で泣いている君を見つけた時に、僕は自分自身を君に重ねてしまった。側溝でずぶ濡れになって”可哀そう”な君に・・・。
 僕は、周りから”可哀そう”だと思われるのに精神が疲れ切ってしまっていた。だから、自分以上に”可哀そう”な者を求めていたのかもしれない。

 君は、側溝でも必死に生きようとしていた。
 僕は、可哀そうな君ではなく、生きようと必死になっている君を助けたくなった。

 なぜ、側溝に居たのか、僕を待っていたのか、なぜ鳴いていたのか、君には聞きたいことが沢山ある。
 でも、君は答えてくれない。当たり前のことだけど、少しだけ寂しい。

”ふ?”

 君は、いつだって僕を和ませてくれる。
 でもいいよ。今は、君には、やらなければ、そう、君を待っている者たちが居るだろう?

 君は、今日から、三つ子の母親だ。何度でもいうよ「おめでとう」本当によかった。僕は、君が母親になったのが嬉しい。

 君が慣れない舌使いで、三つ子の毛づくろいを、行っているのを見ると、初めて病院に連れて行った日を思い出すよ。
 君は、今もだけど、左目が見えないよね。僕は、医者から告げられた言葉が信じられなかった。
 左目が潰れている。だから、捨てられたのだと・・・。でも、君は、それでも必死に生きようとした。生きようと必死になっていた。

 僕は、君を連れて帰ると医者に宣言した。幸いな事に、僕は一軒家に一人暮らしだ。君が同居しても困らない。
 最初は渋っていた保険会社も、裁判で結果が出ると、両親と妹を失った結果を認めた。多額の保険金を、僕に支払ってくれた。相手からも示談金が支払われた。それを、嗅ぎ付けた会ったことも、名前を聞いたことも、全く存在すらも認識したことがない。親戚が大量に湧いた。僕は、警察に相談した。警察は、何もしてくれなかった。だけど、一人の弁護士を紹介してくれた。弁護士は、保険金と示談金を整理してくれて、湧いて出た親戚たちの窓口になってくれた。今でも感謝している。殆ど、儲けなんて出ない金額で、親戚たちを追い返してくれた。

 僕は、君のおかげで、死ぬのを辞めた。
 君と一緒に生活していこうと思った。

 君は、家では僕の部屋にいるよりも、妹の部屋にいる事が多かった。
 確かに、僕の部屋よりも、妹の部屋は日当たりがいい。冬でも日差しがある日はすごく暖かい。妹が居た部屋を、君が気に入ってくれたのが嬉しい。

 君は、妹の部屋にいるけど、寝るときには僕の布団に入ってくるよね?
 寒い時だけじゃなくて、暑い日にも僕の布団に来るよね?

 君の暖かさが僕の心に溜まった澱みを溶かしてくれたよ。

 僕は、君を縛り付けるつもりはなかった。
 君は、自由に庭に出て、近くの山林を駆け巡ったね。

 最初に驚いたのは、君がイモリを咥えて戻ってきたときだ。
 医者に聞いたら、僕に対するお礼だったのだね。まだ生きていたイモリを、逃がそうとすると君が捕まえようとしたから、僕は水槽でイモリを飼いだした。同じように、君は山で生き物を捕まえてきたよね。

”ほーほー”

 ほら、君に捕まえられて、家に住みついた者も多いよ。知っている?
 イモリだけじゃなくて、フクロウもいる。届け出がいるような者まで捕まえてきたよね。

 君は、すっかりこの辺りのボスになってしまったよね。
 僕が寂しくないように?多分、違うとは思うけど、君は生きたままで捕まえて来ては、僕に見せてくれた。そして、僕は、その都度、医者やお店に赴いて、食べ物や必要な物を準備した。
 この準備をしている時は、いろいろな事を覚えられた。そして、いろいろと忘れる事ができた。親戚を名乗る他人は、数は減ったが、時折現れる。その都度、僕は、両親や妹との別れを思い出してしまう。
 窓口になってくれている弁護士の先生では話にならないと殴りこんでくる親戚を名乗る他人も多かった。そんな他人が来るたびに、君は僕を守るように他人を威嚇してくれたよね。なんでだろう。君が側にいるだけで、僕は怖くなかった。
 君は僕を守ってくれた。心を守ってくれた。

 君にも恋愛の季節が来て、妊娠したよね。

 そして、今日・・・。
 可愛い、可愛い、君にそっくりな三つ子を産んだ。

 三つ子の父親は知らないけど、三つ子は君にそっくりだ。

 何度でもいうよ。

「おめでとう」

 この三つ子もしっかりと育てよう。

 僕は、君が居れば・・・。
 君と一緒に居られれば・・・。

「おめでとう」

 しっかりと産まれているよ。

「おめでとう」

 君の産んだ子だ。

「おめでとう」

 君の子は、君に生かされた僕が取り上げることができた。
 君と一緒に生きることを決めた。僕は、君を連れてきた他の者たちや、君を看るために、医者になった。

 君が、生きる意味を・・・。
 僕が生きている意味を与えてくれた。

 これからも、君と一緒に僕は生きていく・・・。
 だから、君にかける言葉は「おめでとう」だ。

 初めて、君を意識したのは、いつだろう?
 覚えているのは、学校の行事(キャンプ)で、星空を眺めたときだろうか?

 星空から降り注がれる光が、君の髪に降り積もり、僕の気持ちを揺さぶった。星々の光が、君の髪を光らせ、僕の心に降り積もった。

 その日から、君を目で追う日々が続いた。君が、水泳が得意だと言えば、僕も水泳を頑張った。君の近くに行きたい一心だ。

 翌年のキャンプでは、また君と一緒に居られることを喜んだ。
 僕は、君を誘った。今年は、一緒に星空を見たかったからだ。君は、笑いながら僕の誘いを受けてくれた。時間を決めて、テントから抜け出す。僕の差し出した手を君は握ってくれた。

 君と並んで見た星空は忘れられない。僕の気持ちは、降り注ぐ星空からの光と同じように、僕の心に降り積もっていく。

 幼かった僕は、君のことを考えられなかった。
 僕は、僕の気持ちを満足させるだけで精一杯だった。

 君を好きな人が他にいたことを、僕を好きだと言ってくれていた人がいたことも、関係がないと無視してしまっていた。

 僕の過ちは、すでに始まっていた。

 僕の知らないところで、病巣は大きくなっていた。人の嫉妬・憎悪を僕は知らなかった。
 静かに、そして、降り積もった嫉妬の感情は、すでに臨界点まで達していた。

 僕たちの卒業を明日に控えた冬の日。
 僕たちの町には、珍しく雪が降っていた。前日から降り始めた雪は、昼過ぎには降り積もった。

 僕は、卒業式が終わってから、君に告げたいことがあった。

 でも、君は卒業式に現れなかった。
 翌日、小さな町は、君が死んだというニュースで揺れた。自殺ではない。殺されたのだと・・・。

 君を殺した人たちはすぐに捕まった。
 でも、僕が望んだ答えは得られなかった。警察の発表は、事故死。そんな決定を受け入れられるわけがない。僕は、君を殺した者たちを殺して、君が死んだ場所で、自殺した。

 はずだった。
 僕は、生き返った?違う。戻った。

 日付を確認する。今日は、卒業式の二日前。君が殺される前日だ。

 君の家に電話をかける。ここまでは、前と同じだ。君に告げるのは、”前日に会いたい”というセリフだ。これで、君を守ることができる。
 僕が君を殺す者たちを、先に殺してしまえばいい。簡単なことだ。

 僕は、僕の思いを実行した。

 僕は、君との待ち合わせ場所に急いだ。僕は、このまま居なくなるつもりでいた。

 僕は、僕が犯した間違いを知った。
 校庭の端にある。二人でよく会話をしたベンチに、君は傘も刺さずに座っていた。僕は、急いで近づいた。君に声をかける。君は、傘に降り積もった雪を払う事もしないで、ただ座っていた。

 そして、僕が君に触れると、君は黙って、降り積もった雪の上に倒れ込んだ。

 君に降り積もった悪意は、当事者たちを殺す程度では、無かったことにはならなかった。

 僕の手を温めるはずだった君の手は、降り積もった雪で冷たくなってしまっている。僕は、何を間違えた?僕は、何を見て居た?何も見えていなかったのか?

 降り積もった雪景色だけが僕の心を染めてゆく、僕は君に幸せになって欲しかった。白く綺麗に降り積もった雪が、僕には黒く禍々しい悪意にしか見えなくなっていた。
 僕は、愛した君に幸せになって欲しかっただけだ。

 僕は何を間違えた。
 動かなくなって、冷たくなってしまった君を抱きかかえて、初めて見た星空が見える場所に向かおう。雪が振っているけど、気にしない。僕は君と一緒に居られるのなら、それだけで満足だ。
 二人で星空を見ながら、降り注ぐ星の光を見よう。

 君の髪に、光が雪のように降り注ぐ様子を見ていたい。僕が、愛した君と一緒にここで眠ろう。
 もう二度と起きない。僕は、目を瞑らない。眠くなるまで、君を見ている。君の側で、君だけを見て、君だけを感じている。僕の思いは、降り積もった悪意には勝てなかったのか?それとも、僕は何かを間違えたのか?

 僕は、君と一緒に・・・。死ぬ。

 死んだはずだった。
 まただ。

 今度は・・・。

 僕が君を意識するキャンプの前日だ。
 僕は、今度も君を愛する。何度でも、愛する。でも、間違えない。今度は、君を幸せにする。

 これから、長い長い旅路が始まった。

 降り積もる雪のように、何度も何度も繰り返される。僕の間違い。

 降り積もった雪を溶かすように、僕の思いだけが熱くなる。君との接点を持たないようにしても、ダメだ。君を愛してしまう。そして運命の日に、君が死んでしまう。

 それならば、僕が先に死んでしまえば・・・。ダメだ。やり直されてしまった。君が、どこかで死んでしまったのかもしれない。僕は、君の幸せを確認しない限り、死ねない。

 何度も繰り返される日常。
 そして、何度でも君を愛してしまう僕。降り積もる想いは、高く積まれていく。

 僕は、運命の日を乗り越えた。
 何度目か解らない。君が死なない未来を掴み取った。

 僕は疲れてしまったよ。
 君が笑顔で、卒業式を迎えたのが嬉しかった。僕の側ではない場所でも、君が笑ってくれている。君が、生きていてくれている。

 校門に立って、君を見ていた僕の横を、笑顔の君が走り抜けていく、ご両親が来たのだろう。校門で最後に写真を撮る。そして、君はご両親と共に帰っていく、僕は僕の心に降り積もった君への想いを、降り積もって固まってしまった想いだけを持って、君の前から消えよう。

 僕の役目は終わった。
 できることなら、最後に僕の名前を呼んでほしかった。

 なんだ、何が・・・。

 僕の身体は、すでに走り出している。
 君と君のご両親が写真を撮影している場所に、車が向かっている。昨晩まで降り積もった雪が溶けて氷になっている。車の速度が、徐々にあがる。校門に向かって、君が笑顔で撮影してい場所に向かっている。

 ふざけるな。僕の幸せを壊そうとするな。そんな運命は、僕が変えてやる。

 間に合った。
 凍った路面が幸いした。僕は、君の手を引っ張った。反動で、僕が車の前に出てしまったが、些細なことだ。君が助かるのなら、君の幸せな表情を見た後なら、僕は満足だ。今度こそ、終わらせられる。大丈夫だ。僕は、間違っていない。

 車が僕の身体を跳ね飛ばす。

 最後に、君の顔が見られて、嬉しいよ。
 今度こそ、本当にさよならだ。

(とおる)!なんで!」

---

 私は、キャンプで星空を眺める君が好きになった。
 翌年、キャンプの夜に、星空を見に行こうと誘ってくれて嬉しかった。君が差し出してくれた手。恥ずかしかったけど、君に触れたくて手を伸ばした。私は、君の目が好きだった。
 君が、私の変わりに殺されたと聞かされたのは、中学の卒業式だ。私をいじめていた人たちに、君が話をしに行って殺されてしまった。君がいるはずだった場所で私は自殺した。

 もう何度目なのか解らない。
 私は、君が笑顔で居てくれるだけで嬉しかった。私を見ていなくても、私の側で笑っていなくても、私は幸せだった。

 運命の日を越えられない。
 何度も何度も、君を愛してしまう。私は、降り積もった落ち葉がいずれ腐葉土に変わるように、何度も何度も降り積もり君への想いを踏みつけて、表に出ないようにした。それでも、君を目で追ってしまう。君を見つけてしまう。君を愛してしまう。

 降り積もった君への想いは、私を縛り付ける。

 今度こそ、今度こそ、そう思って、君への想いを踏みつける。隠す。でも・・・。何度、期待を裏切られても、私は君を愛してしまう。

 今度は、大丈夫。君も、私を見ていない。今度こそ、大丈夫。私も、君を見ないように、君を感じないように、君を・・・。

 やっと運命の日。
 私は、君との接点がない。卒業式を笑顔で迎えている君を見て安心する。自然と笑顔がこぼれてしまう。嬉しいはずなのに、涙が流れ落ちる。今までの涙と違う。

 卒業式が終わった。
 両親が、校門の外で写真を撮ろうと言ってくれた。私の手元には、君の写真は一枚もない。でも、それでよかったのかもしれない。私は君の前から消えよう。君が笑っていられる場所に私の居場所はない。君は、私を認識していない。名前を呼んでもらったこともない。それでいい。私は、降り積もった気持ちを、踏み固めて、校門に向かう。

 校門で、こちらを見ている君を見つけて、心臓が跳ね上がる。
 ダメ!期待しちゃダメ!私を見ているわけではない。君は、私を知らない。私は、君の数多くいる同級生の一人でしかない。

 自然に笑えている?
 もし、君が見ていてくれたら、私の事を、頭の片隅にでも覚えていてくれたのなら、私は笑顔を残したい。校門の外で待つ両親の所に走る振りをして、君の横を走り抜ける。君の横を歩いて通ったら、踏みつけた気持ちが溢れ出てしまう。

 君とすれ違う時に、心の中だけで君を呼ぶ。

 最後に、私の名前を呼んでほしかった。最後に、君に触れたかった。
 でも、大丈夫。私は君を愛している。何度でも私は(とおる)を愛する。降り積もって固められた気持ちを持って、君から離れる。

 校門の所で、両親と並んで写真を撮る。
 わざと、校門の全体が入るようにした。君と写す最初で最後の写真だ。最初は、私一人が、次にパパと、次はママと、最後は両親と並んで撮影する。

彩花(あやか)!」

(とおる)!」

 私は、亨に引っ張られる腕に力を入れる。
 亨が反動で、車の方に行かないように踏ん張る。その為に、靴を変えてきた。

 パパとママは、無事だ。
 私は、亨の腕の中。亨は生きている。私も生きている。

---

「よかった。彩花が生きている」

「よかった。亨が生きている」

 二人で迎える初めての卒業。

 二人は言葉を交わした。

 降り積もった雪が二人を祝福しているようにも思えた。

 吾輩は猫である。名前は、”ライ”という。目の前で、我のトイレを掃除している下僕が付けた名前だ。

「ライ!トイレの掃除が終わったぞ!撫でさせろ!」

 うるさい男だ。
 我のトイレを綺麗にして、糧を持ってくればいい。

 まぁたまには、我の毛並みを堪能させるくらいは許そう。だが、今日は気分ではない。

 この男が、”シゴト”とかで使っている”ぱそこん”の上で寝ることにしよう。男が、うるさく机を叩かなければ、この”ぱそこん”とかいうのは、心地が良い振動と温かい風が出てくる。素晴らしい物だ。男が、何やら机に座ってブツブツ言っているときには、煩い音がしたり、暑すぎる風が出てきたり、眩しく光るので、我は好きではない。そのときには、抗議の意味で、男の膝の上に乗って丸くなる。腕を動かすのを止めさせるために、顎を乗せたり、爪で腕を固定したり、男の腕を抱きかかえて動かさないように命令を出す。

「痛い。爪を出すな」

 何をする。
 お前が動くのが悪い。我が眠ろうとするのを邪魔するな。

「お前、爪が伸びてきているな」

 男が、我の肉球を触って、爪を出している。
 爪を切ってくれるのか?そうだな。この男の(つがい)は、我が丁度よい壁で爪を砥ごうとすると怒り出す。その後、男が壁の修復をしているのを見たことがある。我の下僕に、作業をやらせるとは、(つがい)は我の後から来たのに偉そうだ。それに、(つがい)からは嫌いな匂いがするときがある。その時には、我は(つがい)には近づかない。
 ただ、(つがい)は時々”とり”の味がする滑らかな物(ちゅ~る)を我に献上する。だから、一緒にいることを許している。男も、以前は我が居るのにも関わらず、寂しそうにするときが有ったが、(つがい)が居るようになってから、その頻度が減った。下僕の為にも、(つがい)が一緒に居るのを許してやっている。

「よし!爪を切るか!」

 男が、我の爪を切るようだ。
 いつものように、我を抱きかかえて、座る。我は、抱きかかえられるのだが好きだ。男は、”ジュウイ”とかいう白衣を来た人物に爪を切る方法を習ってから、格段にうまくなった。だが、残念なことに、(つがい)の方が爪を切るのがうまい。絶妙なバランスで切ってくれる。

「ライ。頑張ったな。ご褒美だ」

 頑張ったのは、我ではないが、”ご褒美”はもらっておく、男には我を撫でさせてやる権利をやろう。
 男は、魚の味がする、フヨフヨする物(カツオブシ)を持ってきた。滑らかな物(ちゅ~る)の次に好きな物だ。量が少ないのが残念だ。硬い丸い糧も好きだが、滑でいろいろな味がする糧も好きだ。男と(つがい)は、いろいろな匂いがする物を餌として食べているが、あんな不味そうな物をよく食べる。たまに、うまそうな匂いをさせているが・・・。我には、専用の糧がある。下僕と分け合う必要はない。

「さて、ひと仕事するか・・・。今日中に終わらせないと、スケジュールが・・・」

 男は、”シゴト”をするようだ。
 我の居場所である、”ぱそこん”を使うのだろう。”フヨフヨする物(カツオブシ)”を、下僕が持ってきた。日差しもあるから、窓際で下僕を監視していよう。本当に、我が居ないとダメな下僕だ。

「お!ベストショット!アップしよう!」

 下僕が何やら持ち出した。
 賢い我は知っている。”すまほ”とかいう道具だ。下僕は、あれを使って、我の糧を取り寄せている。毎日ではないが、(つがい)と何か見ているのを確認している。我には関係がないだろう。
 今日は、日差しが有って暖かい。警備体制を万全にしないとダメだ。

「ライ!今日は、窓から外を見るのか?本当に、器用だな。窓枠を使って立ち上がっているぞ!由美が喜びそうだ」

 男が何か興奮している。
 騒ぐのはいいが、鳥が逃げてしまう。使えない下僕だ。まぁいい。(つがい)が来れば、我の糧は用意されるだろう。わざわざ狩りをする必要もない。

 今日も問題はなさそうだ。

「ライ。ライ。寝たのか?かわいいな。由美が『尊い』と言っていたけどわかる。死にそうになっていた子猫だとは思えない。白い毛並みに、背中に雷のような模様があるから、”ライ”と名付けたけど・・・。大きくなったな。もう5年か・・・。早いな。由美と結婚してから、3年。ライと過ごした時間の方が長いな」

 下僕が、我を見ながら何かブツブツ言っている。我の尊い名前を連呼しているから、我のことを考えているのだろう。男は、前からそうだ。我が男を下僕と認めたときから変わらない。我も、男が我を見つけてくれたことには感謝している。
 我は、親を知らない。我が我だと気がついたときには独り(孤独)だった。冷たい水が天からおちてきて、我を濡らしていた。我は、濡れるのを避ける為に、天が避けていない場所を探した。幼かった我では移動するのにも一苦労だった。濡れた毛並みで不快な気分を、更に不快にしていた。糧を得られない日々が続いた。天からおちてくる水のおかげで、喉の乾きだけはなかった。身体が震えて、目が開かなくなり、歩くのも辛くなってきて、我は目を閉じて横になった。

 暖かい風と、柔らかな草で目を覚ました。
 どこかわからなかった。我は、力の限りを尽くして立ち上がって、その場を逃げようとしたが、大きな腕で我を捉えて離してもらえなかった。我は抵抗した、爪で攻撃もした。でも、男は我を離さないで、”大丈夫”とだけ繰り返した。我は男を信じようと思った。今、思えば男は下僕として我をもてなそうとしていたのだ。
 我の声を聞いた男は、糧を我の前に出した。暫く口にしていなかった糧だ。我は、慌てて男に取られないように、食べようとしたが、男は我が食べるのを見ながら、”大丈夫”を繰り返すだけだった。男は、我の寝床を用意した。この頃には、下僕として我に仕えると決めていたようだ。糧を得た我は、そのまま寝てしまった。
 起きたら、男が安心した表情で我を見ていた。その時に、我の名前が”ライ”と決まった。それから、我は”ライ”と呼ばれることになった。

 男は、我の為に寝床を用意しただけではなく、糧の為に必要な物も用意した。トイレも用意したのには驚いた。それだけではなく、爪を研ぐための場所や、狩りの練習をする道具まで用意した。この場所は、天が避けていない為に、水が落ちてこない。水が溜まっている場所はあるが、我が入る必要がない場所だ。我が喉の乾きをいやすための専用の場所まで用意された。
 我は大事な毛並みを維持するために、毛繕いを忘れない。我の毛は、幼少の頃は、短い状態だったが、下僕を得てからは長くしなやかになっている。そのために、毛繕いが欠かせない。しかし、毛繕いをすると我の毛が身体の中に溜まって不快な気持ちになる。下僕に、なんどか注文を出して、やっと我の好みにあう”草”が用意された。草を得るのは、不快な物を追い出すためだ。そして、男の(つがい)が来てから、10回寝たら”ふろ”と呼ばれる場所で、下僕と(つがい)が我の毛繕いを手伝う。最初は、あまり好きではなかったが、下僕と(つがい)が行う毛繕いは余計な毛が抜ける上にしっかりと身体をほぐすようにする。我の好きな時間の一つとなった。
 だが、我は男を守りながら寝るのが一番好きだ。男は、我が居ないとダメなのだ。

---

 スマホが鳴った。由美からかかってきた。休憩時間なのかもしれないな。

「どうした?」

『今日も、ライは元気ね』

 俺がアップした動画を見てくれたようだ。

「そうだな」

『不思議ね。貴方が、雪が混じる雨の日に、死にかけた子猫が・・・』

「由美は、奇跡だと言っていたな」

『そうよ』

「でも、俺には・・・」

『そうね。貴方は、治療を諦めようとした私に向かって”この子は生きようとしている。諦めないでください。ほら、爪で俺を!だから、お願いします”だものね』

「そんなことを言ったか?」

『言ったわよ。必死に、冷たくなる子猫を抱きかかえて、必死にあたためて、身体を擦って・・・。子猫がミルクを飲んだときには、泣き崩れて喜んだわよ。患畜と一緒に泊まれる部屋まで取って・・・。見ているこっちまで嬉しくなってしまったわよ』

「そういうなよ。ライのおかげで、俺は由美に出会えたわけだし、ライはやはり天使で間違いない」

『そうね。私も、ペットをアクセサリーのように連れ歩く親ばかりを見ていて・・・。最後の患畜だと思って、貴方と出会った。良かったと思っているわよ』

「そうか・・・。ライのおかげで、由美とも結婚できたしな」

『びっくりしたわよ。私の恩師が、貴方の顧客だったなんて、それで、私も恩師の病院に戻れたし・・・。本当に、何があるかわからないわね』

「今日は、遅いのか?」

『うーん。ちょっと待って、予定表を確認してみる』

 由美が先生に確認している声がする。
 由美の恩師は、俺がサイトを作っていた動物病院の院長だ。保護猫や保護犬の去勢や保護活動をしている先生だ。正直、儲かっているとは言えないが、時流に乗って動画の配信を始めたところ、それが当たった。保護猫や保護犬を使ったカフェもオープンした。それらのサイトを俺が引き受けている。

『今日は、予防接種の予定が入っているだけだから、緊急の患畜が来ない限り、早く上がれるわよ』

「わかった。今日は、チキン南蛮の日だ。作って待っているよ」

『ありがとう!遅くなるようなら、連絡を入れるね』

「あぁわかった。浮気するなよ!?」

『しないわよ!』

『「ライ(うちの子)が一番、”尊い”!」わよ』

 二人で、笑って電話を切った。
 窓際で、大の字になって寝ているライの写真を撮影して、由美に送った。

 由美からの返事は、『尊い』だけだったが、俺にはそれで十分だ。ライが居て、由美が居る。それで十分満たされている。

「おい!出てこい!」

 俺をイラつかせる声が聞こえる。無視を決め込んで、寝床に潜り込む。

「おい!」

 俺は、”おい”ではない。俺の名前でないことはわかっている。
 騒がしい男だ。騒いでいると、あの女が来て、寝床を強制的に排除してしまう。お前も、怒られるのだから静かに寝ればいい。

「いい加減に出てこい、”おうち時間”か?!いい加減にしろ!」

 何が悪いのかわからない。
 世間では、”おうち時間”とか言って、家に引きこもることが推奨されている。なぜ、俺が引きこもるのは駄目なのだ?本当に、意味がわからない。

 あの女も、この騒がしい男も、以前は朝になると、俺の1日分の食事と飲み物を用意していた。食事の用意をしたあとで、男も女も姿が見えなくなる。”外”に出ていくようだ。今までは7日に1-2回だった騒がしい日々が、最近になって7日で4-5回に増えた。迷惑この上ない。俺が安心して寝られる時間が減ってしまう。

 こいつらのご主人さまである俺の睡眠を妨げるだけではなく、巡回を邪魔してくる。
 俺が居ないと、何も出来ないくせに、俺をイラつかせることしかしない。

「”出てこい”とは言わない。”外に出ろ”とも言わない。だから、まずは顔を見せてくれ」

 騙されない。
 顔を見せたら、そのまま連れ出して、俺の”おうち時間”を終了させるつもりなのだ。だから、断固として拒否する。

 この前もそうだ!甘い言葉で、俺を騙して・・・。泣き始めてしまったので、心配になって出てみれば、そのまま狭い部屋に押し込まれて、外に連れ出されて、白い服を着たおっさんに体中を触られて、最後に針を刺された。恐怖で身体が動かなくなってしまった。いくら抗議しても、”俺のため”だと言って、主張を無視しやがった。

 俺は忘れない。こいつとは長い付き合いだが、強気に出ている時ならいいが、急に優しいことを言い始めたら、俺が嫌がることをするに決まっている。

「ほら、お前が好きな・・・。用意したぞ?だから、顔を見せてくれ」

 くそぉ
 俺が、そのカツオ風味が好きなのを知って・・・。駄目だ!俺は、まだ怒っている。
 この前は、そのカツオ風味の奴を目の前に出されて、我慢ができなくなって、奴の姿が見えなかったので、俺の家から出てみれば、後ろから抱きかかえられた。爪を使って、奴の腕を引っ掻いたが、嬉しそうにするだけだった。カツオ風味の物はうまかったから、引っ掻くのは中断したが、俺は騙されない。

 今回も同じだろう。後ろから抱きついてくるか?

 それとも、捕まえて水たまりに俺を沈めるのか?
 俺も男だ、水は怖くない・・・。とは、言わないが、多少なら平気だ。平気だと思う。男も女も、毎日の様に水浴びをして嬉しそうにしている。信じられない。
 自分たちだけで水浴びをしているのならいいが、俺にも強要してくる。水浴びだけならいいが、なにかわけのわからない物を身体になすりつけられて、俺が安心できる、お前たちの匂いや、俺の匂いを身体から消してしまう。それが、どんなにストレスになっているのか考えたことがあるのか?
 それだけでも許しがたいが、その後で、あの強く熱い風が出てくる物で、俺をいたぶってくる。それも、すごく嬉しそうな表情で・・・。俺は、必死に風が出てくる物から逃げようとするが、普段は喧嘩が多い男と女も、この時だけは協力して俺を押さえつける。
 まぁ風の拷問が終わったあとの毛並みは、俺も好きだから強くは文句が言えない。
 違う。違う。俺を押さえつけて拷問しておいて、その後で、抱きかかえて顔をこすりつけてくる。嬉しそうにしている男と女を見ると、俺もほだされてしまうが、もう騙されない。

「大丈夫だよ。獣医にも行かないし、お風呂でもないよ?」

 何?
 獣医というのは、賢い俺は知っている。白い服を着たおっさんのことだ。俺を舐め回すように見て、体中を触って、最後に痛い針を刺す。次に会ったら、俺の必殺技のパンチを100回食らわせてやる。違う。違う。おっさんの所には行かないのか?いや、騙されない。
 お風呂というのは、水浴びだ。確かに、男だけでは俺を確保出来ない。いや、騙されない。男が、俺をおびき出して、女が後ろから抱きかかえる。この前は、女が俺をおびき出して、男が後ろから抱きかかえた。騙されないぞ。

 でも、少しだけなら・・・。

「お、やっと出てきた。ほら、お前が好きな・・・カツオ風味だ。トイレ掃除をさせてくれ」

 お!優秀な俺だが、トイレ掃除だけは苦手としている。下僕であるこの男の仕事だ。いつも清潔にしていないと、俺の気がすまない。
 しょうがない。部屋から出るか?

「お。やっと顔を出したな。来いよ」

 男は、嬉しそうに俺を見る。男は、俺の手を掴むと、抱きかかえるように優しく部屋から出す。
 誤解していた罪悪感から、俺は男に身体を委ねる。お互いの顔をこすり合わせるような挨拶をする。

 男の嬉しそうな顔を見るのと、俺も嬉しくなってしまう。

 男は、普段の食事よりは、少しだけ量が少ない食事を俺の前に持ってくる。
 最近は、この方式が多くなっている。朝と夕の二回に分けて食事が供される。前の様に、一回でもいいのだが、二回だと男や女と一緒に食事ができる。俺としても、二人を守ることができるので、二回に分けて一緒に食事を摂るほうが嬉しい。

 今日は、女が居ないので、男は俺に食事を出すと、一緒に食事を取る前にトイレ掃除をしてくるようだ。先に、食事をしてからでもいいと思うのだが、男は必ず俺が食事をしている最中に掃除を行う。よく出来た従者だ。

 男も、女も、理解していないだろう。
 俺は、お前たちが居れば、他は何もいらない。お前たちと過ごせる。”おうち時間”が増えるのは、俺はすごく嬉しい。
 わかっていないだろう。
 一緒に過ごせる時間が貴重だとわかっている。俺は、これからも”おうち時間”を楽しむ。お前たちと一緒に・・・。