ちょっとだけ切ない短編集


「おばあちゃん!なんかTV局の人が来ているけど?」

「なにごとだい?」

「わからない!でも、なんか・・・。アメリカの人と一緒に来て『”ようすけ”からの手紙を届けに来た』と言っているよ?」

「よ・・・う・・・すけ?」

「え?・・・。あっ・・・。う・・・ん?通していい?」

「離れで待っていてもらってくれ。婆もすぐに行く」

 洋介さん。貴方からの手紙なの?

 もう私は97歳にもなってしまったのよ?
 いつまで待っていればいいの?

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 おばあちゃんがTVで紹介された。

 でも、そのおばあちゃんは放送を見ること無く息を引き取った。安らかに、本当に眠るように死んでいった。二通の手紙を握りしめていた、最後まで手紙を読んでいたのだろう。
 お医者さんが言うには一切苦しんでいないという事だ。死因も”老衰”と言われた。

 TV局からもお悔やみの言葉が来た。放送を自粛しますか?と言われたが、私が絶対に放送して欲しいと、パパとママを説得した。TV局の人も、おばあちゃんがすでに亡くなってしまった事も紹介すると約束してくれた。葬儀の様子も撮影したいと言ってきた。パパとママは、何度かTV局の人と打ち合わせをして最終的には全部は駄目だが部分的に撮影の許可を出していた。
 番組の冒頭で、おばあちゃんへのお悔やみもテロップで流してくれた。
 丁度1周忌法要の日がTVの放送日だった。

 おばあちゃんは、私が物心つく頃からおばあちゃんだった。
 家の母屋ではなく離れで寝起きしていた。毎朝決まった時間に起きて、家業の浅漬けを作る。そして、朝ごはんを食べてから、店に出るか散歩に出かける。

 子供の頃、おばあちゃんが怖かった。よく怒られたからでもあるがそれ以上におばあちゃんは私を叩いたりしないが甘やかしてくれるだけの存在ではなかった。ママと喧嘩した時におばあちゃんが優しくも厳しく話をしてくれたからだ。ママだけじゃなく家業の店に来ている人を怒鳴っていた。でも、おばあちゃんはすごく優しかった。今なら、おばあちゃんの厳しさは優しさだったこともわかる。
 おばあちゃんは一人でママを育てた。おじいちゃんは戦争に行って帰ってこないと教えられた。おばあちゃんが泣きながら私を殴ったのは戦争の話をおばあちゃんに聞いたときだけだった。

「おじいちゃんはどこで死んじゃったの?」

 この言葉をおばあちゃんに言った時に怒られた。ううん。違う。悲しませてしまった。おばあちゃんはすごく悲しそうな顔をした。

「爺は死んでいないよ。まだ帰ってきていないだけ。だから、婆はまだ死ねない。爺が待っていて欲しいと言って戦争に行ったから婆は待っている。婆以外にも、帰ってくると信じている者は多い。絶対に死んでなんていない。いいかい。それだけは覚えておくのだよ」

 優しく私の胸を叩きながら、おばあちゃんは泣きながら教えてくれた。
 だから、私の家には”おじいちゃんの遺影も無ければ仏壇もない”違う。なかった。今は、誇らしげに笑うおばあちゃんと若い頃のおじいちゃんの写真が並んで家族に笑いかけてくれている。

 おばあちゃんの写真はTV局の人から貰えた。
 すごく可愛くお化粧して、誇らしげに話をしてから悲しいことのはずなのに笑ったおばあちゃん・・・。私には、なんで笑えたのか解らない。おばあちゃんの話を聞いたTV局の人が作ったドラマを見ても、同じ家族なのに・・・。知らなかった事だけではなく知っていた事が混じっている。家族なのに、子供の頃から知っているおばあちゃんの話なのに涙が出てきてしまう。

 そんな話なのに、おばあちゃんは涙どころか辛そうな顔を見せないで笑っている。痛々しい笑顔ではない。心の底から嬉しくてしょうがないという笑顔なのだ。

 おばあちゃんの葬儀は、近親者だけで行う事になった。

 TV局の人がどうしても手紙の朗読をして欲しいと言ってきた。パパもママも反対しなかった。弟が最初は2つの手紙を読み上げる予定だったのだが、ママから私も読んだ方が、おばあちゃんが喜ぶと言われて、私も読み上げる事になった。私が最初におばあちゃんが持っていた手紙を読み上げて、アメリカの人が持ってきてくれた手紙を弟が読み上げる事になった。
 おばあちゃんが持っていた手紙は2通だ。赤い手紙と、和紙に書かれたくしゃくしゃになってしまっている手紙。

 私が初めておばあちゃんの手紙を知ったのはいつだった思い出せない。おばあちゃんはそのくらい手紙をいつも読んでいた。
 そして、赤い手紙が”帝国陸軍からの召集令状”だ。歴史の授業で習って初めて知った”赤紙”だ。実物をおばあちゃんが持っていた。大切に大切に保管していたのだ。もう一通がおじいちゃんからおばあちゃんに宛てた手紙だ。

 私には読めなかった。学校の先生にお願いして教えてもらった。読みやすい文章にしてもらった。その時に、私が国語のことが苦手だとばれてしまって笑われながら先生にいろいろ教えてもらった。

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みさとへ

私は明日戦地に向かう。
君を守るためだ。今、この国は狂っている。漁師や農家から道具を取り上げて人を殺すための道具を作っている。そんな国に未来があるとは思えない。
でも、私は戦地に向かう。
君を守るためだ。

私は死なない。国の為に命を散らすなんてまっぴらだ。私は、みさと、君のために戦う。君が平穏に笑って過ごせる場所を作ることだけを考えている。私は生きて必ず君の所に戻る。

本当に勝手な話だが待っていてくれないだろうか?
家なんて捨てていい。私の父も母も君には辛く当たらないだろう。でも、辛かったら逃げ出してくれ。
私は君が笑って過ごしてくれる事だけを考えている。

みさとと出会えてよかった。
1ヶ月だけだったがみさとと過ごせてよかった。

・・・・・・・
---

 私がおじいちゃんからの手紙を読み上げると参列者からすすり泣く声が聞こえた。私には何が正しいのかわからない。先生にも”すごく綺麗な字で素敵な手紙”だと言われた。会ったことがないおじいちゃんのことなのにすごくすごく誇らしかった。

 私が読み終わると弟がアメリカのマークと名乗った人が持ってきた手紙を読み上げる。

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みさとへ

約束を果たせそうにない。
私が乗った船が攻撃された。もうすぐ沈むだろう。

みさと。
今度は私が待つことにする。だが、急いでこないでくれ、この戦争はもうすぐ終わるだろう。平和な世の中になるだろう。

みさと。
日本国がどう変わったのか私に教えてくれ、だから急がなくていい。
私は、みさとが来るまで閻魔様に逆らってでも待っている。

みさと。
愛している。
もう私を待たなくていい。
約束が守れなくて悪かった。

洋介
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 マークさんはおばあちゃんを見て最初に日本語で”遅くなってごめんなさい”と謝ってくれた。
 おばあちゃんはそんなマークさんの謝罪を聞いて、”いえ・・・。持ってきてくれて、ありがとうございます”とだけ答えた。

 TV局の人は、おばあちゃんとマークさんだけで話をする事を望んでいたようだが、おばあちゃんとマークさんが孫である私と弟には話を聞かせたいと言ってくれて、TVには映らない位置で二人の話を聞くことになった。

 おじいちゃんが乗った船を攻撃したのは”味方のはずの日本”の船だった。マークさんが話してくれた事なので本当の事はわからない。
 おばあちゃんはマークさんからの話を黙って聞いていた。島を攻撃されたおじいちゃんたちはアメリカに投降しようとしていたらしい。絶対に生きて帰ってくるという考えだったのだろう。その場所に居た半数以上の日本兵と沢山の民間人を船に乗せてアメリカに白旗を振りながら投降しようとした。おじいちゃんたちの行いが許せない人たちがいて背中から撃たれた格好になった。
 戦争の事なんか手紙には何も書かれていなかった。全部マークさんが教えてくれた。マークさんは私と弟を見て”自分はアメリカ人で当時戦争していた者だ、自分の話は自分が感じた事だからそのまま信じないでください”と言われた。おばあちゃんは黙ってうなずいていた。

 船が沈みそうになっているのに気がついたアメリカ軍が救助してくれた。沈みかけていた船の中で裏切り者が居て救助のために乗り込んできたアメリカ兵に銃を向けた者が居た。
 標的になったマークさんを助けたのがおじいちゃんだった。民間人を助けてくれたアメリカに対する義理だと片言の英語で言ったようだ。
 裏切り者はその場で日本兵に殺された。殺した日本兵も自害してしまったらしい。おじいちゃんも撃たれて瀕死の状態だった・・と、教えてくれた。

 マークさんは死んでいくおじいちゃんに手紙を渡された。日本語が読めなかったマークさんは手紙を受け取ったがどうしていいのかわからなくて、届けるのが遅くなってしまったということだった。
 戦争が終わって本国に帰ったマークさんは手紙の事を思い出しておじいちゃんたちが命がけで助けた民間人を探しておじいちゃんの手紙を渡してもらおうかと思ったのだが、徴用された者ばかりでおじいちゃんの事を知る者は居なかった。自分たちの事で必死になる民間人よりは自分が・・・。託された自分が探すべきだと思ってマークさんは日本語を勉強して手紙を届けてくれたのだ。

 TVの放送を見て、時代背景や当時の様子なんかもわかった。歴史の授業では教えられなかったこともいろいろ知ることができた。

 マークさんは帰るときに、私を見て名前を聞いてくれた。

「アナタの名前を教えてくれますか?」

「私はサクラと言います」

 名前を素直に答えた。少しだけ片言になったのは緊張していたからだ。
 マークさんは少しだけ驚いた顔をした。

「そうですか・・・。私の孫娘も”サクラ”と言います」

「え?」

「私が日本のことばかりを話すので、息子もすっかり日本のことが好きになってしまって、娘に日本の代表的な花の名前を付けたのですよ。おかげで孫娘は、日本人だと勘違いされていますよ」

「ハハハ」

 笑うしかなかった。

「よかったら孫娘と友達になってください」

「え?」

「孫娘は日本の大学に入ると言って今勉強しているのですよ」

「そうなのですか?・・・・。そうだ、私のメールアドレスを教えますので、よかったらメールしてください!英語は苦手ですががんばります!」

「大丈夫ですよ。孫娘は私以上に日本のことが好きで日本のアニメやドラマも日本語で見ますからね」

「それなら良かった・・・。でも、私も英語を勉強したいな・・・。苦手だから・・・」

「ハハハ。それなら、孫娘には時々英語で話すように言っておきますよ」

「お願いします!」

 差し出されたマークさんの手を握った。
 ゴツゴツしていたけど優しい手だった。もし、おじいちゃんが生きていたらこんな手だったのかもしれないと考えたら涙が溢れてきた。

 少しだけ慌てたマークさんの顔が忘れられなかった。

 サクラとのメール交換はすぐに始まった。本当に、日本人と話しているような感じだった。好きなアニメも同じだったし年齢も同じだった。すぐに友達になった。私の英語の成績が上がったのをサクラに話したら笑われた。

 おじいちゃんが残した手紙はおばあちゃんの生きるための理由だったのだろう。
 マークさんが持ってきてくれた手紙はおばあちゃんのすべてだったのだろう。

 そして今私はおじいちゃんが繋いでくれた縁からサクラとメールのやり取りをしている。
 これも手紙なのだろうか?

 おじいちゃんの手紙の原本はおばあちゃんに天国に持っていってもらった。
 なんとかという大学の先生が家に来て歴史的に価値があるとか言ってきて大学に展示したいと申し出てきたが、パパもママももちろん私も展示なんてさせるつもりはない。おばあちゃんが大事にしていた手紙はおばあちゃんだけの物だ。天国に持っていってもらうことに決めていた。内容の写しや複写は私が持っているが家族以外には内緒にしている。
 おばあちゃんには、おばあちゃんが書き溜めた沢山の手紙も持っていってもらった。本当なら、おじいちゃんが読むはずだった手紙だ。内容は、おばあちゃんしか知らない、家族の誰も中身を開けて居ない。おばあちゃんとおじいちゃんだけが読めればいい。

 おばあちゃん・・・。天国に迷わずに行けたかな?おじいちゃんと会えたかな?
 パパやママの事も私の事も弟の事もおじいちゃんに話してくれたかな?それとも、手紙に書いてくれておじいちゃんが読んでくれたのかな?

 天国に手紙を送る事ができたらおじいちゃんにもいろいろ聞いてみたいな。
 私が知っているおばあちゃんの事も教えるから、代わりに若い頃のおばあちゃんの事や歴史の事を教えてほしいな。
 そうしたら、私の日本史の成績も上がるかな?

 空になったコップをテーブルの上に置いて旧友に愚痴を言う。

「ヨウコ!聞いてよ」

 学生時代からの親友であるヨウコに話を聞いてもらう。

「はい。はい。今日はどうしたの?また、いつもの人?」

「そうなの聞いて!うるう年って有るでしょ?」

「うん」

「計算方法って知っている?」

「マキ。私のこと馬鹿にしているの?文系でもそのくらい知っているわよ。4で割り切れる年でしょ?」

「でしょ!でしょ!それでいいよね!」

 私は、注文していたモスコミュールを一気に煽る。
 ヨウコの顔が”今日も長くなるのか”と言っているようだが気にしない。

「マキ。そんなに一気に飲まなくても。それにしても、モスコミュールなんて飲むようになったのね。今まで、甘いカクテルか果実酒だったのに、大人になったね」

 ”ケラケラ”と、笑っているヨウコに指摘された。いつからだろう?モスコミュールが好きになったのは?
 ヨウコのように日本酒を嗜むわけでもなく、梅酒や杏酒しか飲めなかった。

「それでね!」

「え?まだ続くの?」

 当然!全然話せていない。大学を出て入った会社はIT関連の会社だ。

「ヨウコもうるう年の計算が間違っているって言われるよ!」

「そう?でも、いいよ。私は、SEじゃないから」

「違う!プログラマ!」

「はい。はい。それで?」

 パンの耳で作られている名物のガーリックトーストを口に放り込みながら私の話を聞いてくれる。

「うん。それじゃダメって言ってやり直しさせられたの」

「いつもの人?」

 私は、肩書はSEだが1人でシステムを構築できるわけではない。クラスの一部を担当させてもらっている。仕様書をもらってコードに落とすのが仕事だ。昨日は部内で行われるコードレビューの日だった。

--

「飯塚さん。一応、OKは出せますが、うるう年は4年に一度でありません。しっかりと調査してコードに落としてください」

「え?」

「何度も言っていると思いますが、仕様書を読み解いて作ってくださいとお願いしていますよね?」

 上司である井上さんの小言が始まった。
 私が作ったコードではお気に召さなかったようだ。仕様書では、”1901年から2099年までの日付と時間をもらって指定されたクラスを生成して返す”となっている。クラスは、存在する日時なのか?うるう年なのか?和暦表現。祝日なのか?曜日。等々カレンダーに関係する情報を返すのだ。

 どうやら、私が作ったうるう年の計算が間違っていると言っている。

「井上さん。テストでは、うまくいきました。1901年から2099年までの全部の年で確認しました!仕様は満たしていると思います!」

 今までは、私が間違っていたが今回は間違っていない。
 毎回、井上さんのコードレビューで注意されたから、今回は全件チェックを行った。実際のカレンダーを見て確認したから間違っていない。

「飯塚さん。この部分でうるう年を判定していますよね?」

「そうですが!」

 しっかりとテストしたから強気で出られる!

「確かに、飯塚さんが担当するクラスの仕様では、1901年から2099年ですね。このシステムの概要設計を読みましたか?」

「え?」

 自分の担当以外は会議で出た場所以外は読んでいない。そもそも、読む理由があるとは思っていない。
 え?周りの人を見ると読んでいるのが当然という雰囲気だ。
 読んだほうがいいとは言われたが、読む必要はないと思っていた。

「全部を熟読する必要はありませんが、概要設計くらいは読んでください。今回は時間も差し迫っていますので、改善点を告げますが、次からは注意してください」

「・・・」

「飯塚さん。納得してくれとは言いませんが、自分のミスなのです。認めてください」

「私・・・。ミスして・・・。いません」

「いいえ、貴女のミスです。概要設計には、このシステムは、2200年まで動かすことが前提となっています」

「え?」

「そして、貴女が作ったファンクションでは、2100年と2200年をうるう年の判定してしまいますが、この2つの年はうるう年ではありません」

「・・・」

「いいですか。うるう年は、たしかに4で割り切れる年ですが、条件はまだあります。100で割り切れない年がうるう年です」

 え?それなら・・・。

「そうです。2000年は100で割り切れてしまいますが、うるう年です」

「それじゃ!」

「400で割り切れる年はうるう年なのです」

 頭が混乱する。
 400で割り切れたら、うるう年。
 4で割り切れて、100で割り切れない年がうるう年。

「え?でも、仕様では・・・」

「そうです。でも、概要設計では2200年まで使うことを想定するとなっています。確かに、飯塚さんの担当部分では1901年から2099年です。それなら、”4で割り切れる”だけでも問題はありません」

「なら!」

「ダメです。”うるう年”の判定なのですよ?飯塚さんならわかりますよね?」

 井上さんが私の目をじっと見つめてきます。
 怖いけど、温かい眼差しです。途中からわかっています。私が間違っていたのです。渡された仕様は、協力会社のSEさんから渡された物です。仕様書が間違っていると指摘しなければならない立場の私が仕様書を鵜呑みにして楽な方に逃げたのです。
 概要設計を読んでいれば・・・。うるう年をもっと真剣に調べていれば・・・。もっと、私に知識と経験があれば・・・。
 井上さんは、”いつも”言っていました。経験がなければ、経験がある人に聞け。または調べる。些細なことでも疑問に思え。きっと、井上さんも、以前に作ったシステムでうるう年を調べたのでしょう。私は、経験がないのに自分の知っている事実だけで作って・・・。無駄なテストに時間を使ってしまったのだ。
 悔しくて、うつむいてしまった。

「いいですか?飯塚さんが作っているファンクションは一部ですが、日付や日時のチェックはいろいろな場面で役立ちますし使われます」

「はい」

 そんなことは言われなくても・・・。

「それなら修正をお願いします。いつまでに出来ますか?」

「明日には終わらせます!」

「飯塚さん。いいですか・・・」

 また小言が始まってしまった。早ければいいと言うものではない。
 わかっています。私がこれで明日までに出せなかった、明日から始める予定になっている部分のリスケが必要になる。話を切り上げたくて、ギリギリの日付を口にしてしまった。井上さんは、ギリギリなのがわかっているのか注意してくれているのです。
 わかっています。でも、私はこの人に認められたい。”よくやった”と言われたい。

 だから。

--

「なんだ!マキが悪いってことなのね」

「そうだけど・・・。でも!でも!言い方って有るでしょ!」

「マキ?あんた。泣いているの?」

「違う!泣いてなんか居ない!」

 涙じゃない。目から汗が出ただけ!

「はい。はい。それで?」

「違うからね!」

 ヨウコに会議での話を説明する。
 おかわりのモスコミュールを一気に飲み干す。強いアルコールが心を揺さぶる。
 なんで私はこんなにも井上さんに認められたいのだろう?プログラムのこと以外ではだめな人で、客先に行くのに服装を気にしない、寝癖がついたままのときだってある。酒豪で、いくら飲んでも顔色人使えない。ウォッカやテキーラが好きで、ウォッカベースのカクテルをいろいろ教えてくれた。
 そうだ。客先でミスを犯して落ち込んでいる私をバーに誘ってくれたのも井上さんで、そのときにモスコミュールを飲ませてくれた。井上さんにも文句を沢山言ったけど笑って許してくれた。

「マキ。マキ!」

「ん?何?」

 酔ってきたかも。

「あんたのスマホがさっきから鳴っているけどいいの?」

「え?」

 スマホを取り出して確認する会社からだ。こんな時間に会社から電話がなるなんて問題でも発生したのか?
 アルコールが入っているから今から行っても。

「切れた?」

「かけなおしたら?」

 ひとまず確認してみると、3回ほど会社から着信がある伝言は残されていない。会社からの電話の前に知らない番号からの電話が入っていた。

「そ・・。そうする」

 かけようと思ったときに、会社から4回目の連絡が入った。

「はい。飯塚です」

 え?言っている意味が理解出来ない。
 なんで?嘘?

「わかりました。すぐに。はい。いえ、大丈夫です。はい」

「マキ?」

 電話を切る。まだ電話の内容が理解できない。違う。認めたくないのだ。

 今日。2月29日は私の誕生日。4年に一度の記念日。会社を定時で出た。井上さんが”今日は帰っていい”と言ってくれた。ヨウコとの約束が有ったが、仕事が遅れそうだったので、約束をキャンセルしようとしたら、井上さんが”4年に1度の誕生日だろう?6才児は帰っていいぞ。テストだけだろう?代わりに消化しておく、来週の土曜日の結合に参加してくれればいい。休日出勤だけどな”そう言いながら笑いながら・・・。

「マキ?大丈夫?何だったの?顔が真っ白だよ?本当に大丈夫?」

「あっうん。大丈夫。ヨウコ。ごめん。会社に戻らなきゃ。違う。病院に・・・」

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 4年前の2月29日。井上は、事故にあって帰らぬ人となった。
 マキは、約束の時間よりも少しだけ早く約束の場所に来た。

「ずるいですよ。人の誕生日に、告白して返事を聞かないで・・・。気持ちに気がついたときには相手が居ないなんて。私の誕生日だったのですよ?4年に一度だけの告白なんて洒落たまね。馬鹿ですね。これから4年に1度。貴方のことを思い出します。それ以外は、綺麗サッパリ忘れますからね。それじゃダメですね。100で割り切れる年は思い出しません。でも、400で割り切れたら思い出すことにします。私が生きていればですけどね。あのクラス、そのままリリースしちゃいましたよ!」

 墓石に井上が好きだったウォッカを置いた。

「献杯!」

 マキはモスコミュールを飲み干した。モスコミュールの酒言葉は「その日のうちに仲直り」。

「飯塚」

 時間通りに社員が集まってきた。今日は、4年に一度の墓参りなのだ。

「そっちに逃げたぞ!」

「大丈夫だ。アキが待っている」

「また、アキのところかよ?!」

「アキの奴、何人目だよ。俺が連れてきたメスもアキが壊していたぞ?」

「しょうがないだろう?そういうルールなのだからな。ほら、次の祭りに行くぞ!それとも、アキの後で壊れてなければやるか?」

「そうだな。昨日は、一匹にしか出してないからな。アキの後で犯すことにする」

「殺すなよ?」

「そんなヘマはしないよ。薬漬けにして売るのだろう?」

「あぁアナルも犯しておけよ。薬漬けの後に好きものが買い取ってくれるからな」

「わかった。わかった。また、汚えケツの穴に入れるのか?」

「お前、好きだろう?」

「そういうお前だって、穴ならなんだって良いのだろう?」

「違うぞ!お前と違って、ガキは相手にしないからな」

「そうだな。俺はお前と違って、オスには手を出さないからな」

 そこに、髪の毛を引っ張りながら1人の女性を引きずった男が現れた。

「アキ!もう壊したのか?」

「あ?」

 アキと呼ばれた男は、浴衣姿で服装が乱れて局部が顕になっている女性の腹を蹴る。女性は反応すらしなくなっている。

「殺してないよな?」

「大丈夫だ。生きている。初物じゃなかったけど、締りはよかったぞ?後ろは初めてだったようだから鉄の棒を刺したらいい声で泣いたぞ、うるさかったから殴ったら右耳がちぎれたけどいいよな?後ろは使えないけど、他の穴は使えるぞ?」

「死んでなきゃいいよ。残念だったな。ムロ。使えないな」

「いいよ。次に期待だ」

「祭りのときなら攫っても平気だ」

「薬は?」

「いつもの場所に置いてある。攫ったオスにも薬をキメろよ」

「わかっている」

 ムロと呼ばれた男は、廃墟の奥の部屋にぐったりとしている女性を引きずっていく。
 その部屋には全裸になっている男女が10名程度放置された状態になっている。

「これで、『若者の乱れた性』現場の出来上がりだな。あとは、売人が勝手に連れていくのだろう」

 ムロは、食パンを無造作に投げる。
 男女は群がってパンを貪るように食べる。排泄もその場でして男は女を犯して女も受け入れる。女は男の上にまたがって腰を動かす。

「俺たちも良いことをしているよな!メスは満足して腰を振るようなるし、オスは好きにできるし、俺たちには金が入る。メスは仕事がもらえる!誰も困らない!」

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 娘は2年前の夏祭りに彼氏と出かけてから帰って来ていない。
 彼氏の湯沢くんも一緒に消えたことから駆け落ちでも下のかと言われたが、結婚に反対していなかったことや湯沢家からも歓迎されていた。二人が駆け落ちする必要は一切なかった。

 元気だった妻も体調を崩して冬には肺炎を患って帰らぬ人となった。湯沢家も執拗なマスゴミの取材という名前の狂気にさらされて、最初は奥さんが続いてお兄さんが最後には旦那さんが自殺した。
 娘たちが居なくなった夏祭りの1週間後に隣町の廃墟で薬を使った乱交パーティーが行われていて数名の男女が逮捕された。娘と湯沢くんもここに居たのではないかと言われた。湯沢くんの空の財布が近くに落ちていたからだ。

 夏祭りに出かけた二人。
 娘からの最後の連絡は「プロポーズされた!最高のお祭り!」だ。

 娘が最高だと言った祭り。
 今年も1人で迎えるのかと思っていた。

 警察から2年前に行方不明になった娘が見つかったと連絡が入った。

 警察についてすぐに病院に行くように言われた。
 地下で眠る娘と再会した。物言わぬ娘の亡骸はやせ細っていた。健康だった肌は土色になっている。変わってしまったが娘で間違いない。首には、なにか締められたような痕がある。顔も殴られたのだろう・・・。

 怖かっただろう。痛かっただろう。

 警官は2課を名乗った。そして、娘の死は事故死だと言われた。

 殴られた痕があり、首を絞められた痕があり、なによりも全裸だ。そんな状態で事故死のわけがない!

 無情にも告げられた事実を理解することは出来なかった。

 娘は、複数の薬物の常習者で薬物中毒による死亡だと言われた。
 被疑者死亡で起訴されることが決まったと告げられた。

 どうやって家に帰ったか覚えていない。
 マスゴミが来る前に逃げ出す。娘と湯沢くんが管理して住むはずだった場所に逃げる。嫁が死んでから経営していた会社は信頼できる人に譲った。私一人だけなら困ることはない。

『どうしました?』

 昔から世話になっている弁護士に連絡をする。事情を説明したら、すぐに会いに来てくれた。気のいい男だ。

 彼は事情を聞いてすぐに行動を起こしてくれた。
 私は持っていた資産を売却した。活動資金が必要になるからだ。湯沢さんが持っていた山の名義を変更した。

 彼から紹介された探偵を雇った。探偵の親しい警官を巻き込んで事情を調べてくれた。
 探偵の努力もあって大まかな事情がわかった。

 主犯格は3名の男だ。有名企業や政治家の子息だ。大手病院の子息も居た。
 他にも関わった者たちが居る。探偵を使って調べ上げた。総勢49名。全員の素性が割れた。弁護士の彼には事情を説明しないで縁切りをした。私の祭りに彼を巻き込まないことに決めた。探偵は、私の祭りに参加すると言い出した。彼の身内も奴らの犠牲になっていたのだ。
 彼の紹介で反社の人たちとも知り合った。彼らも奴らを認識して潰そうと思っていたようだ。金を渡して手を引いてもらった。私の祭りにはふさわしくない。しかし、祭りにはテキ屋が必要だ。彼らから仕事(誘拐)を頼める人を紹介してもらった。

 資産を売却した金銭を使って祭りの会場設営を行った。金さえ払えば物品を用意してくれる人たちは居る。
 最後の物品の導入を持って祭りの準備は終わった。

「49名の招待を行いましょう。まずは、主要の3名ですね」

「その前に、死体を2つお願いします」

「そうでした。私と貴方が死んだことにしないと面倒ですからね。でも、よろしいのですか?」

「問題ないですよ。貴方こそよろしいのですか?今なら戻れますよ?」

「戻る?面白いことを言いますね。こんな最高のお祭りに参加させないなんてひどいですよ」

「そうでした。もうしわけない」

 3日後に、死体が手元に届いた。
 遺書を残して私の代わりになってもらう。警察関係者の中に居る協力者がうまくやってくれるだろう。

 ははは。なんていう天恵!
 娘の誕生日に祭りが始められる。最高のお祭りになるのは間違いない!

「彼らの様子は?」

「悪態をついていますが、出された食事やアルコールは警戒していないですよ」

「そうですか、女性に持っていってもらっているのがよいようですね」

「それで?」

「すでに犯していますよ」

「ハハハ。楽しいですね」

 配膳の女性は、祭りに招待した49名の中に居た人だ。関係者の中に夫や恋人が居る。もちろん、動画を撮影して招待した人たちに見てもらっている。46名のうち女性は5名で残りの41名は個室を用意した。椅子に座ってもらっていますが、暴れられても祭りがつまらなくなってしまうので拘束した。
 女性には首輪をしてもらった。外したら電流が流れるようになっている。彼らが娘と湯沢くんにしたように薬漬けになってもらう。薬のためなら夫や彼氏以外も求めるようになった。

 椅子に拘束している参加者の中で心が弱かった者が死んでしまった。残念だ。祭りはまだ中盤にも差し掛かっていないのに・・・。

 しかし、死者が出てしまったので、中盤に予定していたイベントを行うことにした。
 参加者もきっと喜んでくれるでしょう。

「3人の様子はどうですか?心が壊れるような逃げ方をされたら祭りが白けてしまいますからね」

「わかっています。女性に相手をしてもらっていますし、精神安定剤を混ぜた食事を美味しそうに食べています」

「それは良かった」

 さて女性の中で二人を選びます。元探偵が選んでくれました。元探偵の身内を嵌めた女性です。

「えへ。なんでもします。ちんぽを咥えたら薬をくれる?沢山、沢山、欲しいの!」

「汚いですね。必要ないですよ。それよりも、二人に頼みたい仕事があります」

「「はぁーい。なんでもします」」

 良い返事です。
 のこぎりとナイフと包丁と金槌を渡します。途中退場した人を材料に料理を作ってもらいます。椅子に固定している人たちの食事は今日から彼女たちが作る人肉が材料です。残っている人たちは、彼ら3人の世話をしている者を除くと30名になってしまいました。

「半分に減ったら次の段階に移行しましょう。彼らは?」

「騒いでいますが、大丈夫です。他愛もないことです。状況判断が出来ないのか、父親の権力に縋っています」

「それはいいですね。それでは、最高のお祭りの終わりを始めましょう」

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 ネットに流れた動画は、数ヶ月前から行方不明になっていた3人の男性だ。
 椅子に固定されて、首輪をして全裸の状態だ。モザイクもなく配信されている。覆面だけをした全裸の女性が現れて男性器を咥えてから挿入する。その後、満足したのか抜いてから眠らせてから指を切り落としたり爪を剥いだりする。削除されても、削除されても動画が復活してくる。
 最初は女性が挿入までしていたが、勃起しなくなってからは薬で強制的に勃起させてから、死体と思われる女性を抱かせる。何度も何度も繰り返す。死体の女性が使えなくなったら、今度は死んでいると思われる男性を抱かせる。躊躇しないで薬を使わせる。勃起させるだけではなく、精神安定剤も大量に投与される。

 自分が行ったことを告白すれば3人のうち1人は助けると機械音声が流れると、3人は自分たちの罪を告白した。
 しかし、父親たちが失脚するには十分なインパクトを世間に与えた。

 椅子に拘束された状態で死んでいる15名と薬漬けで意識がはっきりとしない女性3人と身体を引き裂かれた女性2人と複数の男女と思われる死体を警察が発見したのは動画が流れてから1週間後だった。

 警察が踏み込んだときには、独白した3人は姿かたちもなかった。

 そして、壁には血文字で「最高のお祭り」と書かれていた。

「オーナー。どうしましょうか?」

「お前は、何度言えばわかる。俺のことは”まさ”と呼べと言っているだろう!?」

「だって、オーナーはオーナーじゃないですか?」

「いいから、まさと呼べ!次は無いからな」

 いつもの朝の風景だ。

 俺は、新宿・・・。と、言っても有名な歌舞伎町ではなく曙橋という場所で生まれ育った。
 新宿で過ごして大学も新宿にある2流の大学に入った。何も考えずに入れたIT企業に入社した。ブラック企業一歩手前の会社だった。働いて身体と心を壊した。地元に居るのが怖くなった。TV番組で取り上げられていた田舎暮らしに憧れを持って、比較的近くて田舎暮らしができそうな港町に引っ越しを決意した。結婚もした。結婚相手も東京で生まれ育った人だ。嫁もブラック職場で身体と心を壊して田舎暮らしに憧れを持っていた。

 嫁との田舎での暮しは、楽しく問題はなかった。
 田舎暮しが新鮮に感じていた。見るもの、感じるもの、すべてが輝いて見えた。東京・新宿という街が色あせて見えていた。

 それが幻想だったと気がついたのは子供が産まれて幼稚園を探しているときだった。

 幼稚園に子供を預けるという当たり前だと思っていたことで批判されたのだ。
 周りとの歯車が合わなくなってしまった。

 俺たちの行動が監視されているように感じてしまった。
 実際には監視ではなく、俺と嫁は10年近く住んでも”よそ者”でしかなかったのだ。

 俺の職業も良くなかった。ブラック企業だったが、そこで培った技術は本物だ。その技能を使ってWebプログラマやサーバ運営を行っていた。地方の会社にはまだサイトに毎月5-10万も払っている場合もある。人から紹介されて、そのサイトを月額1万未満(1,000円を切る場合もある)で預かっていた。
 クラウドを使うまでもなく、自宅に置いたサーバで運営できる規模の会社がほとんどだった。港町らしく魚を扱ったり、釣り船のサイトだったり、小さいサイトが多くあった。しかし大手ショッピングサイトの営業に騙されて出店していた。出店料の割に売上が出ていなかった。俺には時間が有ったのでそれらの会社に足繁く通ってパソコンを教えたりサイトの作り方を教えたり、都会からやってくるIT営業の相手(追い出し)をしたりして信用と信頼を得ていった。

 田舎では旦那が家にいて、嫁が外に働きに出るのは”おかしな家”と認定されるようだ。
 子供(娘)を幼稚園に迎えに行くのが旦那だと”おかしい”と言われるのだ。また、俺も嫁も実家とは仲違いをしたわけではないのだが、子供が産まれてから1回しか両親が来ていないのも田舎からしたら”おかしい”と見えるようだ。

 娘が通う小学校を選ぶときに、私立に行くという選択肢も有ったのだが、嫁も俺も学歴を重要視していない。娘にどうしたいのかを聞けばいいと思っていた。
 これも田舎の人にとっては”おかしい”と見えたようだ。私立に行けるのなら行かせるのが当然。学歴がよいほうがいいに決まっている。子供の進路は親が決める。そんなことを嫁は職場で捲し立てられたようだ。

 徐々に嫁の精神がおかしくなってきた。

 ”とどめ”は娘の言葉だった。

”小学校に行かなきゃダメ?”だ。
 娘の話を聞いた。俺と嫁が”おかしい”から娘と遊んじゃダメと友達に言われたと泣きながら教えてくれた。

 小学校入学を来年に控えた時期だった。決断するには時間が少ない。

 だが確実に田舎にとっては普通のことだが、俺と嫁には違和感しかない状況が頻発した。
 娘の数少ない友達が、娘が居ないのに勝手に家に上がりこんで俺の仕事部屋に有ったパソコンで遊んでいた。親に抗議しても”子供のしたことだから”で終わらせようとする。訴訟すると言い出す。都会に住んでいた人は怖いとか、何でも裁判にすればいいと思っているのかとか、俺が悪いとでも言いたい様子だ。

 嫁も職場で孤立し始めた。
 看護師をしている嫁は、患者には良くしてもらって居る。話も面白い知識も豊富、東京の話とかもできる。嫁は患者からは慕われていた。それがやっかみを産む土壌になってしまっていた。”いじめ”や”ハラスメント”のような行為にはなっていないのが、嫁もいつまでも居ても”よそ者”でしか無いと認識してしまう状況になっていった。

 娘が祭りに誘われなかったと泣いて帰ってきた。
 もう限界だった。憧れていた田舎での生活はブラック企業から逃げ出したいがために見えていた幻想だったのだ。ブラック田舎という言葉はないが俺たちはブラックな田舎に掴まってしまったのだ。

 俺のところに旧友から連絡が入った。
 その夜、嫁に話しをした。

「なあ。Uターンするか?」

「ん?Uターンって田舎に帰る事だよね?」

「そうだな。俺とお前なら、東京に帰ることを指すと思うけど?」

「そうね。確かにUターンだね」

 嫁は真剣な表情ながら笑ってくれた。俺の表現が面白かったようだ。

「昔の知り合いが新宿で店をやっていたけど、身体を壊して田舎暮らしをしたいと言って俺に相談してきた」

「え?それで、どうしたの?」

「俺が感じたことを全部、正直に話した」

「それじゃ、田舎には来ないのね」

「できれば、田舎で生活したいと言い出した」

「え?どういうこと?なんで?」

「そいつは独り身だし、親の遺産が入ったと言っていた。この家と新宿に奴が持っていた家と店舗を交換したいと言い出した」

「騙されてない?」

「俺を騙すメリットが無いからな。家の権利書と店舗の権利書を先に渡してもいいと言っている」

「乗り気なのね?」

「うーん。6:4かな?お前が反対したら辞めるつもりだ。疑問点を全部潰してそれでも信じられないと思ったら辞めればいい。先方にもそう伝えるつもりだ。それで、先方がダメと言ったら辞めればいい」

「そうね。それなら、前向きに考えましょう」

 俺と嫁は、Uターンを前向きに考えることにした。
 その上で、娘のためという甘えは出さないと決めた。最終的に俺たちの選択に娘が巻き込まれるのはわかっているのだが、タイムリミットだけを決めて娘には引っ越すかも知れないとだけ伝えた。

 俺の仕事の都合で引っ越しをするかも知れないと娘には伝えた。

「パパ!私のためならいい、引っ越ししなくていいよ?私が我慢すれば・・・」

「違うよ。パパが違う仕事をしたくなったから、東京に行こうと考えているだけだよ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「わかった。パパ。無理しないでね」

 涙が出そうになった。

 それから、奴が来ると言ったので会いに行った。陽気で変わらない奴の笑顔に救われた気持ちになった。奴からは新宿の匂いがした。

 奴が持っていた家はマンションではなく一軒家だった。親から受け継いだ古い家だと言っていた。場所は新宿5丁目。俺のテリトリーだ。古い家だから解体して立て直したほうが良いだろうと言っていた。更地にするところまでやってくれると言い出した。
 俺の方は、今の家と離れだ。離れはサーバが置いてあるのだが、現状維持が決まった。なにか有ったときのメンテナンスと維持費は今の契約の7割を奴に渡す。全額でもいいと言ったのだが、会社を作るつもりも無いし税制上の問題もあるから、顧客との契約はそのままで、奴が俺の会社に雇われる形になった。保険やら税金やらのために3割を会社に残す。顧客が減って契約がなくなっても、契約の7割は変わらないという覚書をいれた。

 俺と嫁の疑問点はすべて解決した。
 奴も善意だけではない。何もしないで生活できる環境にあこがれていたのだ。独り者だから俺たちのように田舎のコミュニティに関わる必要はなく無視して生活していけばいいと考えていた。事実、生活の拠点は家だが、旅行に出かけたり、釣りに出かけたり、独り者なので買い物も近くの大手スーパーでまとめ買いしたり、それこそ外食で済ませたりして過ごすようだ。
 都会になれた者は、よほどじゃない限り田舎のコミュニティに入っていけない。唯我独尊を突き通せば田舎での生活は過ごしやすいのかも知れない。俺には出来なかった。

 俺は、奴との交換でUターンすることが出来た。
 ただ田舎にあこがれていたときと違って今は田舎を活用していこうと思っている。

 田舎には資源が大量に埋まっていた。仕事を与えれば喜んで実行してくれる誠実な人が多い。
 ただ、田舎のコミュニティに縛られて呪縛のようになってしまっているのだ。

 俺は、奴が持っていた店舗(飲食店)も引き継いだ。店長は奴の幼馴染で優秀な奴だ。奴にそのまま運営を任せても良かったのだが、俺の考えを店長に伝えた。もちろん、断っても問題ないし、店舗を買い取りたいということなら相談に乗るという条件を提示した。

 店長は俺の話しに乗ってくれた。
 もともと、コンセプトが乏しくて赤字にはならないが儲けも少なかった。奴の知り合いが誰を気にすることなく飲める場所として作ったのが始まりだったようだ。奴が田舎に引っ込んでしまうことから常連が来なくなる可能性を危惧していたのだ。赤字になるようなら店舗を締める考えを持っていたようだ。

 俺の提案はよくある物だ。
 田舎から安価に仕入れて都会で売る。

 俺や嫁が都会に疲れてしまったのは、情報が多いのに情緒を感じることが出来なかったことだ。田舎に住んでみてわかったのは情報の伝達が早いのに情報が多くない。物の価値を自分たち目線でしか測ることが出来ない。

 釣り船屋や漁師と契約して市場に出しても値段がつかない魚介類を安く譲ってもらう。
 運搬は、田舎で燻っていた者たちに声をかけて中古の冷凍車やトラックを手配した野菜なども田舎のほうが安い場合がある。市場に入られる移動八百屋と提携することで野菜の確保も行った。馴染みにしている場所からの購入も行う。腐っても東京だ。食材は大量に集まる。田舎では入手が難しい食材も”そこそこ”の値段で手に入る。

 娘も英語を話せるようになりたいとインターナショナルスクールに通っている。

 こうして、俺と嫁のUターンはひとまず成功した。

 綺麗だな。
 あちらこちらで僕が撒いた種が増えている。拡散され続けている。こんなに嬉しいものだったのだ。

 街の中にも青い紫陽花が増えている。

 街だけじゃなく国中を覆うように種を拡散しなければならない。

 僕の望みは、この国の隅々まで青い紫陽花を咲かせることだ。

 見届ける必要はない。
 種は拡散し始めた。僕の手を離れたのだ。もう止まらない。止める手段が存在しないのだ。
 伸び切ってしまった手足を切り落として小さいベッドで眠らない。受領した快適を手放せる者がどれほど居るのだろう。種の拡散を止める方法は存在しない。

 だから、僕は結末を見届けないで、君が待つ場所に行く。
 待っていてくれているよね。僕が行ったことを褒めてくれなくてもいい。前みたいに叱ってくれよ。僕は、君と一緒に居られればそれで満足なのだ。

 おやすみ。
 彼女を傷つけ僕を生み出した人たち。

 おやすみ。
 最後まで善意の塊だった人たち。

 おやすみ。
 興味本位で僕と彼女を晒した人たち。

 おやすみ。
 多くの関心を持たなかった人たち。

 あなたたちには、きっと(悪意)が安らかな眠りと一緒に訪れてくれるでしょう。
 おやすみ。いい夢を・・・。
 悪夢の方がましだと思える楽しい夢を見てください。

---

「アオイ!!」

 アオイは僕の目の前で凍りついた笑顔のままビルの屋上から飛び降りた。

「アオイ!アオイ!アオイ!アオイ!!」

 なぜ!なぜ!
 僕を押さえつける!アオイの所に行かせろ!

 僕を押さえつけている奴らも、下でアオイを見ていた奴らも、全部、全部、全部、全部、全部、殺してやる!

 アオイが僕の前から居なくなってから、アオイを見つけるまで1週間かかった。
 奴らがアオイを殺した。マスゴミとかいうクズが知りたくもない情報を教えてくれる。

 アオイは、いじめを苦に自殺したと報道した。知りもしないアオイの心情を話すコメンテータとかいう雌豚が居た。

 いじめ?最後には、服を脱がされて写真を撮られるのが”いじめ”。準強姦であり脅迫だ。
 アオイが持っていった料理が冷えていたからと殴った。殴ったのが同級生だったから”いじめ”なのか?暴行だ。

 アオイ。僕は、君が死を選ぶまでの1週間。側に居られなかったのが悲しい。僕を一緒に連れて行ってくれなかった?
 僕は、アオイと一緒に行きたかった。

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 アオイが居なくなって何日が過ぎたのだろう?

 アオイが居なくても腹は減るし眠くもなる。僕はなんで生きている?

 アオイが最後に見せた凍りついた笑顔。アオイの笑顔ではない。アオイの笑顔で無いのなら、アオイではないのか?アオイはまだ生きている?

 アオイが僕を連れて行かない理由はない。一緒にいると言ってくれた。

 前に聞いた、アオイのお母さんが眠る場所に行ってみよう。アオイが居るかも知れない。僕を待っている。

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 マスゴミのクズが騒いでいる。丁寧に僕に説明してくれた。アオイをイジメていた奴らは罪に問われなかった。主犯格の1人は所在さえわからないらしい。
 どうでもいい。奴らが死ぬのは確定した未来だ。僕が決めた。イジメじゃない。準強姦と脅迫と暴行だ。誹謗中傷もしている。16歳のアオイの下着姿を撮影して拡散したのだが児童ポルノにも該当するはずだ。いじめではない。いじめという言葉で誤魔化すまねをするマスゴミにも手伝ってもらう。

 アオイのお母さんが眠る墓所の近くに立派な紫陽花が咲いている。
 赤色の紫陽花に混じって一部だけ青い花をつけている。アオイが好きだった青い紫陽花だ。

 人の悪意は拡散する。悪意から死に繋げればいい。肉体的な死だけが、死ではない。社会的な抹殺も死と変わらない。心の死は周りの人たちの肉体と心の疲弊に繋がる。

 僕は、拡散する(悪意)を仕込む。アオイが好きだった花の別名を使う。

 (悪意)をばらまくウィルスは”手毬花”。仕込んでから開花するまでに3-4年は必要だ。まだまだ、(悪意)は有る。拾い集めて拡散させる準備をしなければならない。

 (悪意)を拡散するのは、(悪意)を持たない傍観者だ。
 傍観者も(悪意)を拡散することで、傍観者から加害者になる。加害者であり被害者だ。苦しめばいい。自分の大切な人が自分を大切に思ってくれる人が、自分の行為で(悪意)に染まるのだ。

 僕のウィルスは、ただ(悪意)を拡散するだけだ。
 秘密の暴露ではない。デマ情報の拡散だ。消えない傷となって拡散され続ければいい。ただ(悪意)を拡散するだけのウィルスだ。

 (悪意)は仕込んだ。
 読み方で、受け取り方で、感じ方が変わる。読んだ人たちの心に悪意が満ちていくだろう。誰にも止められない(悪意)の拡散。

 (悪意)が芽吹くとき、青い紫陽花が咲き誇るだろう。

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 それは本当に小さな出来事だった。あとから考えてもきっかけというには小さすぎる。よくあるニュースだった。
 いじめを原因とする自殺。中学校でのいじめだった。女子が自殺した。珍しくもない事案でニュースにもならなかった。

 実際に、俺が勤めていたTV局では、取材にもいかないで警察発表を取り上げただけで終わりになった。他に取り上げるべきニュースが大量にあった。

 ニュースはこれで終わりになるはずだった。

 しかしこのニュースはきっかけで終わらなかった。
 いじめの加害者の名前がSNSで拡散されたのだ。拡散されたのは、キー局の報道局長の息子が関わっていると情報だ。住んでいる地域も違えば年代も違う。知る人が見ればすぐにデマだと気がつく情報だ。いつもなら、デマだと情報が出たら拡散も下火になって擁護される。

 しかし、この事案は違った。
 キー局が昼のニュースで取り上げたのだ。デマ情報であり、デマを拡散するのは犯罪行為だと拡散を止めるのに躍起になった。新聞や雑誌も、デマである根拠を述べて本人のインタビュー記事まで掲載した。火消しに躍起になった。
 火消しが何よりの証拠だという情報がSNSで拡散された。新聞や雑誌の記事を書いた人たちの過去の犯罪だとする情報も拡散された。

 この状況はおかしいと思い始めている。
 皆がおかしいと思いながらも拡散は止まらない。皆が善意や正義感から拡散している。情報を調べもせずに拡散する。

 完全にデマだと分かる情報もあるが、デマではない情報も含まれる。
 マスコミをあざ笑うように、マスコミが報道できなかった情報が悪意を持った内容で拡散している。真実が含まれる拡散が存在する。マスコミも一部のものしか知らないような情報も入っている。

 芸能人のスマホから情報が流出することもある。流出情報が拡散される。同じように作られた悪意を持った情報となり拡散される。

 誰もが被害者で、誰もが加害者になってしまっている。
 笑えない情報まで拡散された。国の予算案が事前に投稿され拡散されるに至って政府は徹底的な操作を検察に依頼した。

 予算案がよく作られたデマだとわかってからは、デマを流した者が誰だったのかを特定する動きが加速した。
 マスコミも調べたがデマの発信元にたどり着くことが出来なかった。ことになっている。実際にはたどり着いた。情報の発信者は霞が関にある一部の省庁の端末からだった。コンピュータウィルスが疑われたがウィルスには侵されていなかった。

 そして、マスコミや警察が調べていることが公になると、デマを流したのは政府与党の関係者だというデマ情報が拡散した。
 拡散の連鎖を止めることが出来ない。

 ついに政府は特措法を制定するが、特措法を制定してまで拡散を止めたい理由は政府与党が隠したい不都合な情報があるのだと拡散された。マスコミや野党の反対にあって政府与党は廃案にした。

 最初のいじめを行っていた奴らの首謀者が自殺した。
 政府与党に恥をかかせたのは、自殺に追い込んだいじめを実行していた奴らだという悪意ある記事が投稿されまたたく間に拡散した。マスコミも、政府与党への忖度もあり”デマ記事”として拡散されている情報だと報道した。
 自殺に追いやったとマスコミが批判に晒される悪意が拡散される。悪循環になっているのは誰が考えてもわかることだ。
 この悪意の厄介な所は、やらなければやらないで”拡散されている情報が正しい”を思われてしまう。反論すれば、別の悪意ある拡散が始まる。拡散している人たちは、善意の人たちだ。新しく広がる情報の精査をしている間に次の悪意が拡散される。

 マスコミと警察が認識しているだけで、”悪意の拡散”に寄る自殺者はついに1,000人を越えた。認識していた自殺者も居るのだろう。

 誰もが被害者で誰もが加害者だ。
 ついには、物品の過不足まで拡散され始めた。

 最初は、地方銀や都市銀の各銀行の資本比率の情報が金融庁から出たのがきっかけだった。資本比率は銀行の体力を示す。確かに情報としては正しい。資本比率が低い銀行は合併するリスクがあると情報が拡散された。株価が下がると資本比率が低い銀行から倒産するリスクが高まるという情報(悪意)だ。
 銀行へ取り付け騒ぎ(とりつけさわぎ)に発展した、いくつかの地方銀と一つの都市銀が倒産した。バタバタバタと連鎖倒産が発生した。地方銀に頼っていた企業も大量に倒産した。政府は支援策を出すが、銀行ばかり優遇するのか?大企業ばかりが優遇するのか?悪意が拡散された。

 誹謗中傷に近い情報も流れる。
 皆が情報に翻弄される。地方の都市の一つが拡散された悪意で壊滅的なダメージを受けた。

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 人口1億人を越えていた状態から、拡散された(悪意)が芽吹いたときには1億人を割り込んだ。
 死因の第一位が自殺になり。情報に踊らされた人々の狂気は殺人を許容するようになるまで4年の歳月しか必要としなかった。

 武器を持った警察隊や自衛隊がデマを拡散した者たちをテロと同じ行為だと断罪するというデマが拡散されて、人々は自分を守るために武装した。

 そして、国中に咲き誇る情報花の紫陽花は青く美しく咲き誇って居る。
 人口は今月末には5,000万人を切るだろう。まだまだ悪意は止まらない。

 風で飛ばされた新聞には、8年前に起きたイジメの加害者たちの首が被害者の墓前に置かれていたと告げるニュースが書かれていた。

「どうする?」

「どうするも、提案書は出したのだろう?」

「提出した」

 俺は、システム屋のプログラマをしている。
 社長にはしっかりと説明して、俺の肩書はプログラマになっている。人が少ない零細企業なので、プログラマでも仕様書も書けば、客先に提案を持っていく、それだけではなくメンテナンスからハードウェアの修理まで何でもこなす。

 今日は、以前から話が社長の所に話が来ていた、大規模システムのプレゼンを行う日だ。

「行くしか無いか」

「すまん。無駄な時間だな」

 俺のボヤキに社長は謝罪の言葉を口にする。

「いいですよ。俺しかわかる人間が居なかったのですから」

「負担ばかり増えてしまっているよな?」

「大丈夫です。これも仕事です」

「そうか」

「それよりも、社長。この仕事が取れたらどうします?馬鹿みたいな規模ですよ?」

「ハハハ。それこそ無理だろう。大手が持っていくだろう?おこぼれで十分だ」

「そうですね。でも、確かにこのメンツに入れただけでも大金星ですよ。どこを貰いましょう?」

「谷。それで、何人月の見積もりだ?」

「社長・・・。見てないのですか?」

「俺が見てわかると思うか?」

「そうですね。680人月です」

「は?」

「だから、680人月です。単価は、120で出してあります」

「ちょっと待て!谷。数字がおかしくないか?」

「いえ、おかしくないですよ」

「予備見積もりの時には、300人月だったよな?」

「えぇそうです。先方からの要望を入れた結果です。よくプレゼンに呼ばれましたよ。絶対に呼ばれないつもりで作った見積もりなのですけどね。これに、ハードウェアとソフトウェアのライセンスとサーバとメンテナンスを別枠で書いてありますが、概算です。保守も要望プラスアルファで積み上げてあります。保守は先方常駐で1割。待機で1割。予備で1割です」

「谷。金額ベースだといくらだ?」

「え?知りたいですか?」

「是非教えてくれ」

「81,600万です。概算部分は29,511万としています。数字合わせですけど、合計111,111万です。保守はハードウェアとソフトウェアとサーバを除いて、初年度は24,480万です」

「はぁ?お前。馬鹿だろう?どう考えても無理な金額だろう?」

「えぇそう思いますよ。受けたくなかったから出した見積もりだったのですけどね??なんでプレゼンに呼ばれたのでしょう?」

 巨大プロジェクト。
 従業員10名程度の会社が受けられる規模ではない。そんなこと、自分たちでわかっている。
 300人月の仕事だとしても、全員で取り掛かっても、30月かかる約3年だ。その間に他の仕事が出来ない。支払い条件に寄っては手弁当で3年間過ごさなければならない。社長には悪いが仕事が採れた瞬間に会社が潰れる未来しか見えてこない。だから、絶対に通りそうもない規模の見積もりを作成した。

 金額を裏付ける資料はしっかりと作った。
 プレゼンは真剣に行う。俺たちは、顧客に対するプレゼンではない。同じ土俵に上がった大手SIerに対するプレゼンなのだ。どこでもいいので、SIerが受注した後で値段交渉が行われるのだろう。そのときに、俺たちが出した高めの見積もりが意味を持つはずだ。
 SIer は1円でも高く受注した。顧客は1円でも安く発注した。その鬩ぎ合いが行われる。俺たちの出した見積もりをSIerは盾にも鉾にもするはずだ。そして、一部でも俺たちに仕事を回してくれる。このときに単価が生きてくる。120と出している。俺たちの規模の会社の単価ではない。直請けでも100か110が妥当だ。2次受けなら80でも高いと言われる可能性がある。120で出しているので、SIerは俺たちに出す仕事は顧客に見える場所では、120か130だと定義するはずだ。そして、俺たちに適正価格である80で出してくる。少しだけ粘れば90くらいにはなるだろう。それでも、SIerは30が何もしないで懐に入る計算になる。出す仕事の規模に寄るが、3人/月で2年間仕事を行えば2,160万の利益が見込める。バッファーを作ることができるのだ。
 俺たちの狙いは受注するSIerに技術力を示して、仕事を流してもらおうとする行為だ。

 プレゼンを行う会社に到着した。
 受付で社名を告げると、何度かやり取りをした主幹会社の責任者が現れた。

 大規模なシステム開発ではよく行われる話なのだが、顧客が自社内にシステム部門を持っていても、システム屋やSIerと全面的なやり取りができるわけではない。そのために、懇意にしているシステム屋に声をかける。
 声をかけられた会社は、顧客側に立って話を進めるのだ。アドバイザー的な役割を行う。メンテナンスや保守管理は、システム完成後に引き渡して主幹会社が業務と美味しいところを持っていくのが一般的だ。しかし、この主幹会社はすでに顧客とのコンサル契約を結んでいるために、保守やメンテナンスも全部含めたプレゼンを行う話になっている。

「谷さん。本日はよろしくお願いいたします。弊社も、御社に期待しているのですよ」

「すみません。緊張して早く来すぎましたか?」

「そうですね。時間まで30分ほどあります。準備をしていただいても構いませんが、谷さんの所はトリになっています」

「最後なのですか?」

「えぇそうですが?」

「事前連絡では、3番目となっていたので、少しびっくりしてしまいました」

「そうですね。今回は、顧客からの要望と他社さんの都合で順番が変わってしまいました」

「いえ、構いませんよ。今日は何社ですか?」

「5社です。お伝えした通り、プレゼンは60分程度でお願いします」

「承知しております」

「部屋は使えますので移動しましょう」

「わかりました。お願いします」

 会議室は思った以上に広かった。
 100名位は入られるだろう。前面にあるスクリーンと手元にあるタブレットが連動しているのだろう。

「そこを、お使いください」

 示された席には、俺の名前と社長の名前が書かれた札が置かれている。周りも同じように名札が置かれている。

 やられた!
 これは、出来レースだ。

 担当者が席を外した。広い会議室には、俺を社長だけになった。パソコンのセットアップをするフリをして周りを見る。カメラは存在しているが手元を撮影していない。これなら大丈夫だ。WIFIは使っても大丈夫だと言われたが、自前のテザリング回線を使う。

『社長。途中で帰ってください。それから、俺からのメッセだと知られないようにしてください』

『どうした?』

『出来レースです』

『そうなのか?』

『はい。名札を見てください。1つ以外は中小です。プレゼンと入札を行ったというアリバイを作りたいのかも知れません』

『それなら俺が居ても問題ないよな?』

『いえ、最後に大手は必ず全部の会社を巻き込もうとします。そのときに社長が居ると回答を求められます。俺たちの番になる前に会社から電話をさせて抜けてください』

『巻き込まれるのなら予定通りではないのか?』

『事情が違います。単価60や50で出している会社が居ると』

『そうか、工数でやり取りして、単価を安くして』

『規模の割に納期がキツめだった理由が分かりました。火付け案件です』

『どうする?』

『全力でプレゼンを行います。合流を求められたら”社長が居ないので即答できない”と返事します』

『わかった。できることはあるか?』

『社長にこの話を持ってきた人に連絡してください。できればすぐに俺に連絡するように言ってください』

『わかった。話を持ってきたのは、宮腰先生だぞ?お前も知っているよな?』

『はい。存じております。俺から連絡して問題ないですか?』

『ちょっと待て、まだ余裕はあるよな?』

『はい。大丈夫です』

『連絡する』

 社長は軽く肩を叩いて会議室から出た。
 思った通り担当は表で待機していた。社長は喫煙所の場所を聞いて移動した。先生に連絡をしてくれるのだろう。

 5分後に俺のスマホがなった。宮腰先生からだ。すぐに折り返すと伝えて、主幹会社の外に出た。プレゼン開始まで20分ある。事情を確認するには十分な時間だ。

「先生。谷です。お忙しい時間にもうしわけありません」

『いいよ。それで?松田君が怒っていたけど何があったの?』

 現状と俺の推測の上での考えを伝えた。先生は黙って俺の話を聞いてくれた。プレゼンなんかよりも緊張した。
 話が終わったときに、先生から5分だけ待つように言われて、電話が切れた。

 4分後、知らない番号から電話が入った。
 先生関係者なのは間違い無いだろう。電話に出て驚いた。

 すべての事情がわかった。
 最悪の予測が当たってしまった。

 本来なら、1年後に完成予定だったのだ。それを1年伸ばして、システム会社を飛ばして新しい技術を使って納期の短縮を行うと説明されていたようだ。
 主幹会社と大手SIerからの提案のようだ。今日のプレゼンでは、金額面は”受けるのなら”という前提がついていると説明されていたようだ。技術力を持っている会社を集めてシステムのプレゼンを行うと言われていたようだ。

 今更テーブルをひっくり返せない。
 説明を聞いて、こちらが聞いている情報を伝えた。プレゼンの開始を2時間遅くしても問題ないかと聞かれたので、問題ないと答えた。

 一旦電話が切られた。社長が走り寄ってきた。

「谷!」

「大事になりそうです」

「だな」

 プレゼン開始の10分前になってテーブルがひっくり返った。

 俺は、ハイヤーで到着した先生と一緒に顧客が待っている喫茶店に向かった。
 大どんでん返しだ。俺が顧客側の立場になってシステム全部の面倒を見なければならなくなった。いわゆる、主幹となった。当初からプロジェクトに関わっていた、SIerと大手システム屋は切られた。主幹会社も全部のシステムから手を引くことになった。

 そして2年後・・・。システムは無事に動き出した。
 しかし、俺はベッドの上だ。首を切られた主幹会社の担当者に刺されて入院している。

 覚えている。
 キミが居なくなってから、10年が経ったよ。

 僕が、キミが居ない10年を過ごしてきた。もうすぐ、キミの所に行ける。
 10年前のセリフの返事をするよ。

 あの時には返事が出来なかったからね。

”僕は、キミが今でも好きだ”

 ねぇキミ達は、なんで僕から彼女を奪ったの?
 ねぇこの10年。キミ達は幸せだった?

 ねぇ僕はこの10年。充実していたよ。キミ達を探していたからね。

 ねぇ何で黙っているの?キミたちが彼女を僕から奪ったのだよ?

 キミたちを探すのは簡単だったよ。
 僕は彼女と電話していたからね。

 彼女は、10年前に僕に聞いたよ。

”ねぇ今でも私のことが好き?”

 僕はね。彼女の問いに答えられなかった。キミたちが邪魔したからだよ。彼女の悲鳴が、僕の返事をかき消した。

 ねぇなんとか言ってよ。黙っていたらわからないよ?
 腕の一本くらい気にならないでしょ?だって、僕は10年間苦しんだよ。彼女を助けられなかった。お義母さんを助けられなかった。お義姉さんを助けられなかった。すぐに、キミたちを殺したかったよ。でも、出来なかった。僕では力が足りなかった。
 10年もかかってしまったよ。体力を付けた。

 ほら、キミの腕くらいなら簡単に折れるよ。いい音だね。そんな叫ばないでよ。彼女やお義母さんが止めてと言って止めた?止めてないよね。
 なんで、キミたちがしなかったことを、僕がしてあげる必要があるの?
 キミたちを助けても僕の10年は戻ってこないよ?彼女を返してくれるの?お義母さんを返してくれるの?お義姉さんを返してくれるの?

 ほらここをよく見てよ。キミの汚い鼻血で、10年前に彼女に貰ったズボンが汚れちゃったよ。どうしてくれるの?

 後9時間。
 まだまだ楽しめそうだね。

 キミたちに、僕が苦しんだ10年間を味わって貰うよ。

 そのための準備もしてきたよ。10年は長かったけど、短いね。
 キミたちが楽しめる(苦しむ)ように、遊び(拷問)の方法を考えるのは楽しかったよ。

 え?ただ、腹を思いっきり蹴っただけで泣きそうなの?
 キミはお義母さんに何をしたの?彼女を逃がそうとしただけで、刺したのだよね?
 キミはお義姉さんを犯したのだよね?

 彼女が、自殺したのを誤魔化すために火を付けたのだよね?
 大丈夫。最後は、彼女とお義母さんとお義姉さんと同じようにしてあげる。ゆっくり、煙が出ないように焼き殺してあげる。

 ハハハ。
 10年だよ。僕は、やっと彼女の所に行ける。
 やっとだよ。

”ねぇ今でも私の事が好き?”

”好きだよ。僕は、何でもキミを好きになる”

 今年で、10年が経った。
 いつまでも引きずっていてはダメだと周りからは言われる。俺も、それは解っている。今年で、26だ。結婚した友達も出始めている。

 俺は、まだキミを探してしまっている。
 10年前。俺とキミは、約束した。幼い感情からだったかも知れない。でも、キミも喜んでくれた。バイトして貯めた指輪も受け取ってくれた。
 二人で過ごした夜。そして、朝になり、キミは家に帰る途中で、俺の手が届かない場所に旅立った。

 キミと過ごした最後の日が、俺の誕生日になるとは思っていなかった。

 俺は、眠るように横になっているキミを10年前に見ている。火葬されるキミを見送った。お義父さんとお義母さんに混じって、最後にキミを持ったのも俺だ。
 しかし、俺は、この10年。キミを忘れられない。

 お義父さんとお義母さんからは、キミを忘れても恨まないと、三回忌が終わってから言われた。
 涙を流しながら、俺に謝ってきた。

 七回忌では、お義父さんに怒られた。
”娘に依存するな”

 俺は、キミに依存しているのか?
 キミが居ない現状が10年経っても、夢なのだと思えてしまう。

 キミが起きない10年間で、俺は3649回も起き上がっている。起きて、キミが居ない現実を知って絶望する。キミがお腹が空かないのに、俺は空いてしまう。キミのしたかった仕事を俺はしている。

 このまま寝て、朝に起きなくて、迎えに来てくれていると嬉しい。
 俺は、10年間の思い出を10年かけてキミに語るよ。キミの見ていた10年を教えてよ。

”おやすみ”

 そうか、明日は俺の誕生日か・・・。キミに祝ってもらった10年前に戻りたいよ。

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”ぴっぴぴっぴっぴぴっぴっぴぴ”

 え?メール?なんで?
 キミからのメール?ほら、やっぱり、キミが居なくなったのが夢だった。これが現実だ。俺を起こすためのメールだろう?唯一変えなかったキミの連絡先だけが登録されている携帯電話。電池も使えなくなり、常に充電状態でなければ駄目だ。

 俺は、キミからのメールを確認する。

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私の愛する人へ
10年経ったね。貴方の隣に私は居ますか?
私は、10年後も貴方を愛します。愛しています。
10年後の私は、貴方が好きだと言った私ですか?文句はないですか?
私が、隣に居たら、このメールを見せてください。きっと恥ずかしがるでしょう。
子供は居ますか?27歳の私は、しっかり仕事をしていますか?

貴方との約束を守っていますか?
守れていなかったら、ゴメンなさい。10年前の私が代わりに謝ります。

私が貴方の隣に居なかったら、私を忘れてください。でも、私が貴方の隣に居たら抱きしめてください。

 私は、雪が嫌い。私から、母さんを奪った雪が嫌い。同じくらいに、父さんが嫌い。

 本当は解っている。母さんを殺したのは、私だ・・・。雪ではない。

 私が、初めて無断外泊をした日。母さんは、死んだ。

 私が住む地方では珍しく、その日は雪が振っていた。当たり一面を白く染め上げるくらいの雪だ。私は、地面に降り積もる雪に、自分の足あとが残るのが嬉しくてテンションが上がっていた。友達に誘われて、遊びに行った。スマホも携帯もそれほど普及していない時だ。家には連絡をしなかった。小さな・・・。小さな・・・。そして、大きな反抗だ。私は、夜に帰ればいいと思っていた。しかし、降り積もった雪で交通機関は麻痺して、朝まで帰ることが出来なかった。
 帰りは、迎えに来た友達のお父さんに車で近くまで送ってもらった。

 汚れた雪が道路に轍を作っていた。
 父さんに怒られるだろう。母さんに心配をかけただろう。

 家の門扉が見えてきた。門扉の前は、汚れた雪が踏み固められている。門は簡単に押すことが出来た。門から、家の玄関までの5メートルが遠かった。
 下を向いて、歩いた。所々雪が残っている。踏み固められた雪だ。

「美月!」

「・・・」

 玄関を開けると、父さんが座っていた。
 私の顔を見て、いきなり手を振り上げた。びっくりして、よろめいてしまった。尻もちを付いた私を父さんは上から見下ろしている。

「付いてこい」

「え?」

「付いてこい」

 父さんは、慣れない雪道に悪戦苦闘している。どこに向かうのかも教えられないまま、1時間が経過した。
 普段なら、10分程度で到着する病院が目的地だ。

 何も喋らない父さんの態度が気に入らなかった。

 父さんは、緊急搬送の窓口の近くに乱暴に車を停めた。邪魔にならないように、花壇に突っ込む様な停め方だ。

「降りろ」

 普段から、ぶっきらぼうの父さんが怖かった。
 怒っているわけではない。でも、父さんの態度が、言葉が、雰囲気が、そして考えたくない予想が、怖かった。

 父さんは、窓口に居る看護師に名前を告げる。そして、車の鍵を渡している。

「行くぞ」

 私の方を見ないで、父さんはどんどん先に行ってしまう。
 私と父の距離が開いていくのがわかる。急ぎたいけど、行きたくない。父さんは、地下に降りた。

「ここだ」

 また、父さんは私を見ない。私は、父さんの背中と汚れた靴が付けた足あとだけを見ている。

(あぁぁぁぁぁぁ・・・・)

 母さん・・・。

「母さんは、駅まで行こうとして、大通りでスリップした車に跳ねられた」

「・・・」

「綺麗だろう。雪が振っていなければ、骨折だけで済んだかもしれない」

「・・・。母さん・・・」

「雪が、雪が悪い。雪が・・・」

 父さん。なんで、こっちを見てくれないの?
 私が悪いの?朝帰りなんかしたから・・・。駅までって母さんは・・・。なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

 気がついたら、私は、ベッドで横になっていた。
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 母さんの死から、私たちは家族ではなくなった。ただの同居人になった。

 母さんの三回忌。
 私は、けじめとして父さんに1人の男性を紹介した。

 父さんは、びっくりした顔をした。

 その後で呟くような声で、彼に言葉を紡いだ。
「美月を頼む。本当に・・・。よかった」

 彼は、父さんと私のために、ホテルのディナーを予約してくれた。その日は、ホテルに宿泊する予定になっていた。父さんには、照れくさかったのもあるが招待状を送った。
 時間になっても父さんが現れなかった。そこまで父さんに嫌われているのかと落ち込んでしまった。

「美月。お父さん、雪で来られなかったのかしれない」

「それなら、連絡の一つでも入れてくれれば・・・。雪も、待ち合わせの時間には・・・」

「しょうがないよ。明日、ご実家に行こう。僕も、お父さんに文句を言うよ」

「ううん。私が嫌われているだけ・・・。貴方まで嫌われなくていい・・・」

「違うよ。美月。僕が、お父さんの真意を知りたいだけ・・・。だから、僕とお父さんで話をさせて欲しい。駄目かな?」

「・・・。わかった」

 ホテルの窓から見える町並みは、雪化粧がされている。汚い心を隠してくれる。

「(雪は嫌い。私から、奪っていく・・・)」

「え?なに?」

「なんでも無い。シャンパンがもったいないから飲もう」

 彼の腕に捕まりながら、綺麗に雪化粧された町並みを見ている。。

 翌日、ホテルの前は綺麗に雪がどかされている。
 子供が付けたのだろうか、雪の山には小さな足あとが付けられている。

 彼が運転する車で、実家に向かった。
 父さんに文句を言うためだ。

 しかし・・・。家に、入ることが出来なかった。
 彼の運転する車で、私は母さんと再会した病院に向かった。出迎えてくれたのは、若い警官だった。森下と名乗った警官は、事情を説明してくれた。

 父さんは、5年前から脳に病気を抱えていた。
 だから、3年前のあの日・・・。父さんではなく、母さんが駅まで行って事故にあった。
 言ってくれなかった父さんに腹がたった。父さんの病気を教えてくれなかった母さんにも文句が言いたくなった。父さんは、病状が悪くなっていくのに病院には行っていなかった。いつお迎えが来てもいいと思っていたようだ。そして、私が結婚すると告げて、肩の荷が下りたのだろう・・・。母さんが眠る寺の住職が教えてくれた。
 住職は、倒れた父さんを病院に搬送してくれた。父さんは、お寺から家に帰って着替えをして、ホテルに向かおうとしてくれた。でも、玄関を出て、数歩歩いた所で倒れた。倒れた所を訪ねてきた住職に発見された。

 住職に父さんのことを教えられた。
 父さんは、毎日、それこそ、雨の日も雪の日も母さんの墓参りをしていた。

 墓は、父さんの一存で奥の人気がない場所に作られていた。母さんが眠る場所は、春になると桜が咲く綺麗な場所だ。墓が汚れるために、不人気だと住職が笑っていた。
 昨日の昼過ぎから振り始めた雪は、今日の朝には止んでいる。父さんは、住職に挨拶をしてから母さんの墓に向った。雪の降り始めに父さんはお寺に来ていた。住職に嬉しそうに私の結婚が決まったと話していた。そして、これで、母さんの所に行けると喜んでいた。
 重い足取りのまま、住職に教えられて、母さんの眠る場所に向った。

「美月!?」

「なに?」

 彼が、地面を指差す。
 そこには、片方を引きずったようになっている足あとが残されていた。雪の上に一つだけ残された足あと・・・。それが、母さんの墓まで続いていた。

 母さんの墓石の雪は綺麗に落とされていた。
 墓石の前には母さんが好きだった花と私が好きな花が並べて置かれていた。小さなひまわりの花。この季節の花ではない。
 父さんが立っていたのだろう、一部だけ地面が露出している場所がある。父さんは、雪の中で何時間も母さんと話をしていたのかもしれない。

「美月。これを・・・」

 彼が、線香を持ってきてくれた。
 彼から、火が付いた線香を受け取って母さんに捧げる。燃え尽きた、父さんが置いた線香の上に・・・。

 母さん。父さんは、迷わずに母さんの所に向った?
 まだ3年だから、母さんの足あとは残っているよね?

「美月」

「あっうん。ありがとう」

 彼が、住職と話をして葬儀を取りまとめてくれる。
 父さんの仕事関係者が挨拶に来てくれた。

 彼は、子供のときに両親を事故で亡くしている。彼は、父親と母親を知らない。彼にとっては初めての父親になるはずだった父さん。

 葬儀が終わって、初七日が過ぎて、婚姻届を提出した。
 彼は父さんに名前を書いて欲しかったと言っていた。彼の上司と住職が名前を書いてくれた。

 そして、彼と私は家主が居なくなった私の生家に戻ってきて生活を始めた。
 彼は、父さんの足跡(そくせき)を辿るように、父さんが使っていた仕事部屋を使って、父さんと同じ仕事を行うようになった。彼の上司が父さんの知り合いだったことも影響していた。

 母さんの十三回忌が終わった。
 私たちは子供には恵まれなかった。
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 明日は、父さんの十三回忌だ。代替わりした住職にお願いしている。
 彼との間には子供には恵まれなかった。彼は気にしていたが、私はそれでもいいと思っていた。

『美月。大丈夫なのか?』

 今日は、仕事の関係で外に出ていた。あの日のように、雪が振ってきた。13年ぶりの雪だ。朝に振っていた雨が昼過ぎに雪に変わった。

「うん。タクシーで帰るから大丈夫。あっスマホの充電を忘れちゃったから・・・。連絡が出来なかった。ごめん。先に寝ていて・・・」

『解った。でも、無理するなよ。遅くなるようなら、近くのホテルに泊まって、明日の朝にでも帰ってこい』

「うん。ありがとう。仕事に戻るね」

 雪が周りを白く染めていく、客先から見える道路は白くなり、通行人の足あとだけが残されていく。

 13年ぶりに積もった雪は交通機関を麻痺させるだけの威力があった。スマホの電池はすでに無くなっている。彼に連絡をしようにも出来ない状況になってしまった。タクシーを待つ長い行列。

 終電を過ぎた時間になって、やっとタクシーに乗ることが出来た。車で20分程度の距離が今日は遠かった。
 タクシーに乗った。タクシーの運転手にお願いしてスマホを少しだけ充電させてもらった。彼にメールで、タクシーに乗ったことを告げた。寝ている可能性もあるので、電話はしなかった。スマホの電源を落として、目を瞑った。

「お客さん。お客さん」

 タクシーが止まっている。
 どうなら、これ以上は奥には入っていけないようだ。途中で車が立ち往生しているようだ。反対側は渋滞がひどくて、回り道をしたら、数時間かかってしまいそうだと教えられた。5分も歩けば着けるだろう。タクシーに料金を支払って降りた。

 雪はすでに止んでいる。
 道には、家路に向かう足あとだけが残っている。立ち往生している車も諦めたのか、運転手はすでにいない。レッカーを頼んだが、忙しくて、まだ来てくれないようだ。説明と連絡先が書かれたメモが残されていた。

 車を避けて、歩くと白い道は何も汚されていない。足あとさえも付いていない。後ろを振り向くと、私の足あとだけが残されている。

 門扉が見えてきた。
 雪は3センチ程度積もっている。道は、雪で白く化粧されている。朝出したゴミがまだ残されている。

 家には明かりが灯っていない。
 彼は寝てしまったのだろう。そう思って、門をゆっくりと音がしないようにゆっくりと押し開けた。

 あっ・・・。
 彼かな?家から、門扉までに足あとが、沢山・・・・。

 彼の足あと。
 雪を踏み固めた、ただの足あと、玄関から門扉までは、歩幅が広い足あと。門扉から玄関までは・・・。

「美月!」

「え・・・・。あっ・・・」

「おかえり、心配した。寒くない。大丈夫だったか?」

「うん。大丈夫。近くまでタクシーで・・・。あぁ・・・。そうか・・・・。(父さん)」

 雪と泥で汚れた靴を見て思い出した。
 母さんの所に向かう父さんの靴も同じように汚れていた。病院に、足あとが残るくらいに・・・。そして、玄関から門扉まで続いた踏み固められた足あと・・・。
 玄関で座って待っていてくれた。雪が溶けて水たまりのようになっている足あと。彼と同じようにタオルを用意して、心配して待っていてくれた父さん。母さんの所にすぐに向かいたかったと思うのに・・・。私の帰りを・・・。心配して待っていてくれた・・・。
 私は、父さんの愛情に気がついていなかった。

 雪の上に残された愛情(足あと)を・・・。

「ねぇ明日・・・」

「ん?」

「なんでもない。父さんに謝らないと・・・。そして、母さんと父さんに”ありがとう”を伝える」

「そうだね。美月。寒いから、家に入ろう。お湯は冷めてしまったかもしれないけど、お風呂を入れよう」

「うん。ありがとう。それから、父さんが好きだった、お酒・・・。あるよね?少しだけでいいから付き合ってよ。貴方に聞いて欲しい話がある」

「わかった。いつまでも付き合うよ」

「あのね。父親の愛情に気がつかなかった愚かな娘の話・・・」

 父さん。今頃になって・・・。ごめんね。
 でも、ありがとう。大好き。