幸せは憂鬱な時間に

 勇也はなんでも朱美に話していた。
 勇也にとって、朱美は居心地のいい親友だ。だが、時々厄介なことに、朱美は美少女の皮を被ったお節介なオバサンになるのだ。
 昔の勇也は極端に物怖じする性格だった。
 けれど、朱美は勇也の性格などお構いなしに手を差し伸べてきた。
 勇也がその手を無視すると、朱美は勝手に握ってきた。
 朱美はそういう女性なのだ。
(朱美ちゃんが相手なら、さすがのアイツも根負けするかも)
 康平の話をするたび、朱美が興味を持っているのを感じていた。朱美は保護欲をそそる動物に弱いのだ。
 そうして、まだ友達でもない康平に朱美を紹介した。
 そして気づいた
(康平って、朱美ちゃんの好みにピッタリ嵌るんじゃ……)
 勇也の感は的中した。
 そうして、高校一年の夏休み中、企み通りに康平を勇也だけの被写体にすることに成功し、親友にまでなった。無理やり勇也が親友宣言をし、康平が根負けしたのが正しいのだが……。
 康平は出会った時と比べ、丸い性格になった。
 朱美は康平の面倒を見ながら、勇也と康平の関係も大切にしてくれた。
 康平と朱美の関係は、未だに恋人未満のお友達だ。
 けれど、心は繋がっている。……と、勇也は勝手に思っている。
 勇也には一つの野望があった。
 プロの写真家になることだ。
 コンテストにもたくさん挑戦し、小さくてもいいから個展を開き、観た人を幸せな気持ちにさせること。
 両親がいない勇也は祖父母に育てられた。
 父は写真家で、母はその助手だった。撮影先の海外で事故に遭い、亡くなったのだという。
 命は突然消えるものだ。
 命が尽きる日を知ることは不可能だ。
 そうした当たり前のことを無視して、育ての親である祖父母は死んだ二人を勇也の前で平然と罵った。
 職業を罵り、親よりも早く死んだことを罵り、平凡な相手と結婚しなかったことを罵った。そして、子供よりも仕事を愛したのだと罵った。
 小学二年生くらいまで、勇也は育ての祖父母の影響でカメラが嫌いだった。
 両親が自分よりも愛した職業が憎かった。
 自分よりも愛するものがあるならば、なぜ自分を生んだのかと呪った。
 一方で、自分よりも愛された職業が気になった。
 だから、勇也はカメラを手にした。
 育ての親ではない祖父母にねだり、買ってもらった。
 育ての祖父母は「血は争えない」と自分のことを棚に上げ、勇也を罵った。
 けれど、勇也は構わなかった。
 撮り溜めた写真は、いつしか勇也の宝物になった。好きなものを撮っているのだから当然だ。
 そうしたある日。勇也は父の作品を見て気づいた。今、自分は時間を超えて両親と同じ景色を見ているのだと。そして、感動を共有しているのだと。
 両親が自分を愛していたかどうかはわからない。けれど、これほど綺麗な景色なら撮りたくなる。しかもそれは、自分以外の誰かの心を揺さぶることが可能なのだ。
 そして、勇也はプロの写真家になることを夢見るようになった。
 元々、勇也には大切な者がいなかった。そこから今の勇也になるまで、長い時間を必要とした。
 だからわかる。
 康平と自分は似ているのだ。
 大きな違いは、生き方や価値観を変える出会いが、早いか遅いかだけだ。
 自分はカメラと出会い変わっていった。
 康平は朱美と出会い、変わっていった。そこに、少しは自分も加わっていると勝手に思っている。

 康平のマンションに到着すると、勇也は鉛のように思い腕を上げ、感覚のない指でインターフォンのボタンを押した。
 さほど待たされることがなく、ドアが開いた。
「早かったな」
 無数の缶が入ったゴミ袋を片手に、康平が目を見張った。
「なんだよ、お前。びしょ濡れじゃんか! ちょっと待ってろ」
 ゴミ袋を放置して、康平が部屋の奥へと駆けていく。
 すぐに戻ってきた康平は、脇に挟んでいたバスタオルを勇也に渡すと、何枚ものタオルを床に落とした。
「鞄は俺に任せて、お前は自分を拭いてろ」
 手を差しだす康平に勇也は噴きだした。
「なんだかんだって、朱美ちゃんの面倒見の良さが移っちゃってるね、康平」
「お前が自分よりもカメラを大切にするからだろ! ほら貸せって。そっちは俺が拭いてやるから」
 早く渡せとばかりに手を出し続ける康平に、勇也が笑いを堪えた。
「ないよ」
「え?」
 驚く康平に、勇也は再び噴きだした。
「だから、カメラは持ってきてない。荷物はこれだけ」
 勇也はコンビニの袋を康平の手に置くと、乱暴にカッパを脱いだ。
「このカッパ、一〇〇円ショップのだし、ゴミでいいや。雨に濡れすぎて手が震えちゃってさぁ」
「バカかお前!」
 落としたタオルを素早く手に取り、康平が怒鳴った。
 出会った頃は当たり前のように聞いていた康平の怒鳴り声だが、今では珍しい。
「笑う暇があるなら早く自分を拭け! 風邪引く前に服を脱げ!」
「凄い、康平が叱ってる」
 感動する勇也に、
「あのなあ」
 康平がイライラするように片手で髪を掻き乱した。
「心配されたくなきゃ、二度とずぶ濡れになんな」
「いやいや、ありがたいよ。すっごく嬉しい。康平に本気で心配されるなんて、すべての運を使い果たした感じだ」
 勇也はウキウキと靴を脱いだ。体が重くなければ、飛び跳ねただろう。
「靴下脱いで足拭いたら即行で脱衣室行け。脱いだ服は洗濯機に放り込んでシャワー浴びてこい。着替えは貸してやる」
「ありがと。でも、洗濯はいいや。これは捨てる服だからビニール袋に入れてく。着替えと一緒にいらないビニール袋も置いといて。うおっ、寒っ。もう限界だ」
 靴下を脱いだ勇也は、タオルの上で二度足踏みすると、脱衣場へ走った。

「今出せる味つきの飲みもんだ」
 シャワーを浴び終えた勇也の前に、マグカップが置かれた。
 コーヒーだ。康平が入れられるコーヒーはインスタントしかない。
 ウエスト以外のサイズが大きい康平のスウェットに身を包んだ勇也は、カップを両手で包むと、ソファに背中を預けた。
「まだ朱美ちゃん来てなかったんだ」
「そんなに早く来られてたまるか」
 康平が勇也の隣に腰を下ろした。
 部屋の片隅には、中身が詰まったゴミ袋がいくつか置かれていた。
「そうだね。最低でも、康平にはそこら中に散乱していただろうゴミを拾い集める時間が必要だもんね」
「お前にも手伝わせるつもりだったのに、お前が風呂入ってる間に終わったよ」
「昔だったら、絶対間に合わなかったよね。一人で済むほど汚さなくなったって凄い進歩じゃん」
 しみじみとする勇也を、康平が恨めし気に睨んだ。
「お前、俺をバカにしてるだろ」
「ダメな子の成長を喜んだだけだよ」
「俺の家なのにお前らがうるさいく言うからだろ。なんで俺が肩身の狭い思いをしなきゃいけねぇんだよ。おかしいだろ」
「全然」
 勇也は一言で片付けると、コーヒーに息を吹きかけた。
 康平の生活水準は、勇也と朱美にかかっていた。妥協した途端、この部屋は人ではなくゴキブリの棲家になるだろう。
 康平が文句を垂れながら、勇也の持ってきたポテトチップの袋を開けた。
 食べやすいように袋を広げる康平を見ながら、勇也はクスリと笑った。
(こういう相手のことを考えた行動だって、康平ができるようになったのは最近だもんな)
 一人で生きていける。誰の手も借りないと、康平は言動で主張していた。
 今までずっとそうして生きてきたのだろう。康平は、人付き合いが極端に下手だった。
 康平との付き合いには根気が必要だった。
 初めの頃。康平は世話を焼こうとする朱美と勇也を激しく拒絶していた。もしかすると、康平は人に優しくされるのが恐かったのかもしれない。
 あの頃の康平は、無関心か拒絶のどちらかしか見せなかった。
 それが今、勇也の好み通りにコーヒーを入れ、みんなで食べやすいように菓子の袋を広げるまでになった。
 勇也のコーヒーの好みは、ブラックにスプーン半分ほどの砂糖を入れるというものだ。起き抜けなら、砂糖はたっぷりがいい。
 今飲んでいるコーヒーからは微かに甘味がする。まさに勇也の好みだ。
「なあ康平。もしかしたらお前、かなり腹減ってんじゃない?」
「食料なくて、朝昼兼用に食パン一枚食っただけだしな」
「そりゃ減るわ」
「いつもは結構これでもつんだけど、お前や朱美が来ると言い合いとかして体力勝負になるじゃん。だから急激に減るんだよ」
「お前が人並みに生きられるよう、一生懸命教えてきただけだ」
「度を越した世話焼きジジィとババァなだけだろ?」
 シレッとした康平に、勇也は頭を掻いた。
「世話焼きジジィ上等。ついでに恋愛の斡旋もしてやる。お前が人並みに生きるには、絶対人の手が必要だ。そんで、お前みたいなヤツのお守りを好き好んで四六時中してくれる人間なんて、一人しか思いつかない」
 勇也はコーヒーを飲み干すと、勢いよくカップをローテーブルに置いた。
 勇也は迫るように康平と向き合うと、その両肩をガッシリと掴んだ。
「お前には容姿という武器がある。運動もできる。勉強もやればできる」
 熱弁を始めた勇也に、康平はたじろいだ。
「どうした勇也。それ酒じゃないぞ。コーヒーだぞ」
「わかってる。けど、そんなことはどうでもいい。いいか? すっごく大切なことだから、心して聞け」
「ああ」
「お前、とっとと朱美ちゃんに告白して、高校卒業と同時に同棲しろ」
「はぁ~っ?」
 康平は素っ頓狂な声を上げて身を引いた。
 逃がすかと、勇也は腕を引いた。
 息がかかるほど二人の顔が近づいた。
「いいか。ここからの話は朱美ちゃんに内緒だぞ」
「あぁ」
「朱美ちゃんは趣味が悪い。メチャクチャ悪い。僕を友達に選ぶくらいだから相当悪い。その朱美ちゃんが、他の男には目もくれずメチャクチャお前だけに尽くしてる。それって脈しかないだろ」
「お前にも結構脈あるんじゃないか?」
 康平がゆっくりと勇也の手を解いた。
 勇也は崩れるとソファに懐いた。
「僕をライバル視してどうする。僕と朱美ちゃんの関係は永遠の茶飲み友達だ。僕にその気の欠片でもあったら、朱美ちゃんにお前を紹介するか!」
 勇也はマグカップを掴むと康平に押しつけた。
「コーヒーおかわり。今の康平の一言でどっと疲れたから、もうちょい甘めな」

「ほらどうぞ」
 戻ってきた康平が、マグカップを勇也に差しだした。
「サンキュッ」
 マグカップを受け取ると、勇也は何度も息を吹きかけてから啜った。
「ウマッ。やっぱ確実に腕を上げてるな」
「インスタントにウマイもマズイもあるかよ」
「あるに決まってんじゃん」
「そうですか。で、どうしたんだよお前」
 康平は一人分空けてソファに座った。
「えっ」
 勇也は目を大きく開いた。
「いつものことだけど……。いや、いつも以上に恥ずかしいことを言いだしたりしてさ」
 照れ臭いのか、康平はそっぽを向いた。
「色々あってさ。まさか電話が通じると思わなくて、ここにいるのも驚きで……」
 勇也は感慨深げにうつむいた。
「なんだよそれ。俺、お前みたいにケータイ忘れたりしないからさ。大概いつでも繋がるって」
 康平は少し困ったように笑った。
「どうしよう。今の『いつでも繋がるって』で、恋する乙女くらいキュンときた」
 勇也は片手を頬に当てると、態と体をくねらせた。