最初の企画会議の日から数えると、もう十か月が経過していた。
 間もなくシンポジウム開始の時間になろうとしている。
 シンポジウムのテーマは「地元愛」。多くの聴講者、マスコミに囲まれる中で、O市の良いところ、伸ばしていくべきところをしっかりと情報発信していこう、という趣旨だった。

 客寄せパンダであるフクロウは、意図的に最初と最後に出番が来るようなプログラムとなった。講演順番は一番目。最後のパネルディスカッションにも出番がある。

 講演者控え席が講演会場の最前列に用意されているが、お願いして舞台袖で待たせてもらっていた。舞台袖からでも聴講者の熱量を十分に感じ取れる。それほどまでに、会場の期待感とボルテージが高まっていた。

 自分は今、嘘で塗り固めてこの場にいる。
 企画会議の時、「犯罪歴のある人を壇上に」という議論をしていたことを思い出す。嘘で塗り固められた自分は、ある意味そういうことなのかもしれない。

 今日の演者は、中小企業庁で地方創生を担当している課長補佐、地元の名産品キャベツを主力作物としている農業法人の代表取締役、地元の名所となっている神社の宮司、という構成だった。我々のアイデアの集大成ともいえるラインナップではあるが、並べてみるとまとまりの欠片もない。こんな面子でディスカッションなどできるのだろうか。

 そうこうしているうちに、開会時間を迎えた。司会者が壇上にあがる。
 O市長による開会挨拶は、可も不可もない無印象のままに終わり、いよいよ本題に突入。

「それではフクロウさん、よろしくお願いします」

 司会者からの呼び込みを受け、舞台へと足を向けた。
 正直悩んでいた。
 中学の同級生である神崎から、「担当作家を紹介してほしい」と依頼があってから、かれこれ二時間ほど、どうしたものかと自問自答を繰り返している。神崎には、返事をするのに数日の猶予をもらった。
 担当作家であるフクロウこと寺岡に繋ぐだけであれば簡単なお仕事である。だが、話はそこまで単純ではなかった。

 フクロウは人前に出ることは完全NGの覆面作家だった。つまり本件を引き受けることはおろか、単に紹介するだけでもNGの可能性が高い。
 いや、この際そのことは特に問題ではない。高坂にとっては、神崎の依頼に応えられないことは、上司のインスタグラムが炎上するのと同じぐらい些末なことであった。

 問題は、本件を伝達することで、もれなく寺岡に怒られることにある。
 何故外部のものがフクロウの地元を知っているのか、何故高坂の知り合いがそれを知っているのか。
 問い詰められたときにごまかせるほど体裁の良い言い訳を準備できていないし、自身に女優適正は備わっていないし、寺岡もボンクラではない。

 不可避の叱責。
 気分が重くなる。

 売れっ子覆面作家の担当をしており、その正体を知っている。
 恰好の酒の肴であり、ひけらかしたくなるのはヒトのサガというものだろう。元凶は昨日地元で催された中学時代の同窓会的な飲み会にあった。

 自分は悪くない。自分の身が可愛い。怒られるのは嫌だ。
 情緒は加速度的に不安定さを増してきた。

 高坂は寺岡のデビュー時からの担当編集者だった。初めて持ち込まれた原稿を読んだのも高坂だった。大して長く編集者をやっていた訳ではなかったが、読んだ瞬間「売れる」と確信できてしまうほど才能が傑出していたことを思い出す。
 高坂は寺岡の担当になると同時にファンになっていた。

 順調にデビューの段取りが固まった際、寺岡がどうしてもこだわりたいと主張したのは「覆面作家になること」だった。覆面を希望する作家が珍しい訳ではないし、覆面のミステリアス感が良い効果を生むときもある。寺岡の意思を尊重することに異論はなかった。

 ただ、寺岡は世間に対してだけでなく、出版社側に対しても、必要以上に自分語りをしないタイプだった。
 高坂は寺岡が覆面を希望する理由を知らない。普段何をしているのかも知らない。
 住んでいる街はかろうじて引き出した数少ないパーソナルデータだった。それが偶然にも自身と出身地でもあったため、地元話で大いに盛り上がった。寺岡の言葉の端々に地元愛が満ち溢れていたのを覚えている。

「ただ、くれぐれも内密にお願いします」

 今となっては気分を落とす意味合いにしかならない寺岡の言葉もよく覚えている。
 この罪悪感にどのようにして逃げ場を与えれば良いのだろうか。

 寺岡にとって地元情報がどれほどの意味を持っているかはわからない。
 でも情報を漏らされた側にしてみれば、一つのリークはあらゆる疑いへと変容する。これまで築いた信頼関係が崩壊することも懸念された。
 そしてきっと怒られるだろう。

 部屋をぐるぐると回り、ため息をつき、また部屋をぐるぐると回る。

 冷静に状況を確認してみよう。
 神崎の目的はフクロウをイベントに出演させること。
 でもフクロウは覆面作家。フクロウこと寺岡がこのオファーを受ける確率は皆無といっても良い。
 神崎の願いは叶わない。それは約束された未来。
 つまり自分が寺岡に確認しようとしまいと、導かれる結果は同じ。
 確認した場合は、怒られ損になる。

 結論は明確だった。
 この件は、自分のところで潰してしまうことにした。

 よくよく考えると、寺岡に伝達するための時間だってお互い無駄に消費する時間になる。まして、多少なりとも寺岡が依頼を受けるか悩む可能性だってある。これは担当作家の時間を奪う行為に他ならない。万が一、本件をきっかけに寺岡が高坂に対して疑心暗鬼になってしまった場合は、寺岡に余計な心労をかけてしまう。
 誰も得しない。
 これほどまでに合理性を欠く行為は他にあるまい。
 フクロウに確認したかどうかを神崎は知る由がないので、「フクロウには断られました」と淡々と回答することとしよう。

 もちろん良心は痛む。だが、神崎にはこの言葉を贈ろう。

 世の中の平和は、合理性と少しの罪悪感でできている。

 やるべきことは決まったが、早々に神崎に返答するのは具合が悪い。きちんと確認を取った、というリアリティを醸し出す必要がある。時間を空けての回答…例えば二日後ぐらいの回答が良いだろう。

 結論が固まったことで大分気が楽になった。しばしの緊張と熟考により疲れ切っていた高坂は、シャワーでさっぱりすることにした。
 神崎から依頼を受けてから二日後。断りの連絡をしても良い頃合いになった。
 回答方法については、色々考えた結果、「電話」を選択した。ねつ造を交える場合、やり取りが残るメール連絡は避けるに越したことがない。

 意を決して電話を手に取った瞬間、逆にこちらの電話が着信した。
 後に悔やむこととなるが、焦りのためか、条件反射的に通話ボタンを押下した。
 
「寺岡です。お疲れ様です。今、大丈夫でしょうか?」

 よりにもよって、という相手からの電話だった。寺岡は必要最低限にしか連絡を取りたがらないタイプであり、電話での打ち合わせも高坂側からかけることしかない。寺岡側から電話をかけてくるのは極めて珍しいことだった。

「…大丈夫ですよ。どうしました?」
「ちょっと確認したいことがあってお電話しました」

 このタイミングで確認したいこと…嫌な予感しかしない。

「自分の地元をですね、知っている人に会ったんですよ。自分というかフクロウの地元ですね」

 いくら何でも拡散が早すぎる。
 いや、同じ街の住人という最もこの情報に興味を持つ層に伝えた情報だ。今にして思えば、なるべくしてなったということかもしれない。

「住所とか地元は公表していないはずなんです。そもそも何一つ個人情報は開示していないはずなんです」

 存じ上げております。

「となるとですね、漏れるとしたら出版社経由以外、考えにくいんですよね。というか、情報提供者曰く、フクロウの担当編集からの情報と言っている訳ですよ」

 完全にネタがあげられてしまっていた。どこにも逃げ場がなかった。

「心当たりありますよね?」

 寺岡の口調は、責めてはいるがあくまで穏やかだった。
 被害ゼロにはできないことが確定しているので、ダメージコントロールに切り替えることにした。

「すみません、実は中学の同窓会みたいなものがあってですね…ほら、私、寺岡さんと同郷って話をしたじゃないですか。つまり中学の同級生も寺岡さんと同郷なんです。それで地元の知られざるスターがいるぞ、という話を思わずしてしまいまして…」

 最大限に曇りのない反省の声色を絞り出す。電話なので関係はないが、神妙な顔つきを作ることも忘れない。

「本当に申し訳ありませんでした」

 シンプルな謝罪。謝罪に意外性は必要ない。
 電話越しでもきちんと頭を下げる。

「いや、ホント困るんで、今後注意してくださいね」

 寺岡の穏やかな口調は変わることがなかった。
 もしかして乗り切れたかな、と心の中で少しだけほくそ笑む。

 ここまで来たら神崎への義理立ても済ませるが吉であろう。「作家の時間を奪う行為」云々のくだりは建前というメッキを綺麗に剥がされていた。

「あの、頂いた電話で恐縮なのですが、実は私の方も寺岡さんに確認したいことがあってですね…」

 そう切り出すと、神崎から話が来たA県O市の市役所からのイベント出演依頼について、概略を説明した。

「でも大丈夫ですよ。期待値コントロールはしていますので、断ることは簡単です」

 コントロールをしていたのは期待値の方ではなく、ダメージの方ではあるが。

「お話はわかりました。もう地元を隠すことは諦めましたので、せめて地元貢献に協力的でありたいと思い始めたところでした」

 そういえば、寺岡は地元愛に溢れた人間であることを思い出す。

「ただ、覆面作家のラインは崩したくないんです。前向きに検討しますので、正式なお返事は少し待ってもらえないでしょうか」

 イベントには出席する。でも覆面作家は維持する。
 にわかには状況を理解できなかったので、失礼ながら「この人は何を言っているんだろう」と思わなくもなかったが、こちらがアレコレ言う立場にないことも事実だ。

「わかりました。依頼元には少し時間が欲しい旨を伝えておきますね」
「よろしくお願いします。あと、そのイベントについて現時点で分かっていることがあったらメールで送っておいてください」

 寺岡の依頼に快諾し、この日の電話は終了した。
 その二日後、寺岡から直接会えないかという打診があった。
 土曜日だったが、高坂は出社して雑務をこなしていた。働き方改革という都市伝説はあいにく我が社とは違う世界線のお話らしい。
 今日は寺岡と会う約束をした日だった。寺岡はA県在住であるが、わざわざ出版社のある東京まで出てくるという。こちらの仕事の都合もあって、打ち合わせ開始は午後七時となった。
 土曜日出社は憂鬱ではあるものの、基本的に仕事は増えることなく、やればやるほど減るのがありがたかった。「土曜日出社は癖になる」という先輩の格言が心に響く。不本意にも快適に雑務をこなしていると、約束の時間を迎えた。
 受付に到着した、という寺岡からの連絡は、約束の時間ピッタリだった。

 来客者用の会議室に案内し、早速打ち合わせを開始する。

「それで…どうしましょうか?」

 寺岡自身が何かしらの考えを持って来ているに違いないので、発言を促すことに徹することにした。

「笑わないで聞いてくださいね」

 寺岡は淡々とした表情で、淡々と語り始めた。

「シンポジウムに出ようと思います。出ようとは思うんですけど…、一つ条件を出したいと思っています」
「条件と仰いますと…」
「覆面をかぶりたいんです」

 覆面作家が覆面?思わず聞き返した。

「覆面って言いました?」
「そう、覆面」
「あの…ギャングとかがかぶっている目出し帽のようなやつですか?」
「そうですね、まだ細かいところまで考えてはいませんが」

 高坂は直感的に「良くない」と思った。
 フクロウの作風であり、ウリは、作品全体に漂う温かい雰囲気にある。意外な展開を織り込んでグイグイと読み進めさせる推進力も魅力ではあるが、結局は溢れんばかりの温かみとか上品さが読者を惹きつけていることは間違いなかった。
 ネットの反応を見ていると、読者が思い描いているフクロウ像は、人格者、常識人、博愛主義あたりが主流だ。
 そんなイメージの作家が、公の場でギャングのような格好で初登場。ファン心理と衝突を起こすことが確実であり、フクロウという作家のブランディングにはマイナスしかない。

「私は断固反対します」
「いや、高坂さんの許可を求めているわけではなくてですね」
「反対です。ふざけすぎと炎上するかもしれません」

 普段は作家の意思が最優先だが、大事な看板作家の暴走を見過ごすわけにはいかない。ここは折れるわけにはいかなかった。

「顔は絶対に隠したいんです」
「でもギャング姿はフクロウのイメージとギャップがありすぎます」
「ギャングの覆面をかぶりたいとは一言も言ってません。顔が隠れれば何でもいいんです」
「じゃあ…せめてサングラスとマスクでどうですか?」

 最大限の譲歩だった。

「それはそれで非常識な感じはしますが…」
「それは、ほら、日光に弱いとか、花粉症だとか、いくらでも逃げ道はあるもの。でも覆面には必然性の説明がつきません」
「ただ、マスクとサングラスではなんとなく顔がわかってしまうじゃないですか。それすら避けたいんです」

 寺岡がここまでこだわるのだから、説得は厳しいかもしれないと思い始めた。

「わかりました。じゃあギャング覆面は止めませんか?」
「先ほども申し上げた通り、覆面の種類にこだわりはありません」
「もうちょっとかわいいのにしましょう。ほら、動物とかの」

 手元にあるスマホで画像検索を行い、寺岡にそれを見せる。

「ほら、こんな感じのやつです」
「馬のやつとかはテレビでもよく見ますね。でもふざけている感じになったりしませんかね…」

 確かに動物の覆面はバラエティ番組で用いられることも多いため、ふざけて見えてしまうリスクはあった。となると、

「フクロウでいいじゃないですか?」
「何の話をしてます?」
「覆面ですよ。フクロウの覆面」
「フクロウがフクロウの覆面?」
「ちょうどいいじゃないですか。そのまんまだから納得感も生みやすいし、ブランディング的にもまあギリギリです」
「フクロウの覆面なんて見たことないのですが、売ってますかね…?」
「なければ特注ですね」
「特注って、作ってくれるということですか?」
「いや、流石に経費で落とすのは難しいので、ご自身で調達頂くことになりますが。あるいは依頼元に頼むとかですかね?」

 市役所にそんなこと頼めないと寺岡はつぶやきながら、しばらく悩む様子であったが、腹を決めたのか、どこかすがすがしい顔に変わり始めた。

「わかりました。フクロウの覆面ということで結構なので、このラインで問題ないか、先方と調整をお願いします」
「覆面の用意はどうします?」
「それはこちらで検討しておきます」

 不安は残るが、最悪の展開を回避できたことにほっとしていた。ただ、そもそも覆面をかぶること自体、市役所側が難色を示す可能性もある。
 神崎はなんて言うだろうか。調整の腕の見せ所だった。
 舞台袖から一歩一歩講演台に向かう。
 大量にたかれるカメラのフラッシュ。マスコミ以外の聴講者も、講演中以外は撮影可能というレギュレーションにしていた。聴講者たちからは、声援のようなものもあがっているが、どちらかと言えば戸惑いと思われるざわつきの方が大半を占めているように感じた。
 覆面をかぶっての登場となるので、それが真っ当な反応というものだろう。

 出演する条件は覆面をかぶること。公的機関のイベントでこれが許されたのは画期的なことだった。何を最優先すべきか、という点で組織の想いが一致したことは大きいと思う。

 ふと聴講者に目を向けると、編集者の高坂の姿が目に入った。本件のキープレーヤーの一人である。高坂のリークから全てが始まった。
 聴講者の中でフクロウの本来の姿を知っているのは高坂ぐらいのものである。彼女はこのシンポジウムで何を思うだろうか。彼女にだけは終了後にもう少し事情を伝えた方が良いかもしれない。
 そういえば、高坂からの連絡をなかなかもらえなくて、やきもきしたこともあった。今となってはそんな日も良い思い出になっている。

 講演台にたどり着き、マイクを手に取る。
 大丈夫、練習したとおりに行うだけだ。
 講演原稿というお守りをポケットに忍ばせながら、講演を開始した。
 企画立案の最初の会議から、十か月が経過し、本番三日前。
 シンポジウムの準備は佳境を迎えていた。

 よくぞここまで来たものだ。
 絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。一縷の望みであった「フクロウ出演」が決まった時点で、このシンポジウムの勝利が確定したと言っても良いだろう。
 フクロウ出演を提案し、交渉したのは他ならぬ神崎自身。この事実が、仕事に対する自信とモチベーションに繋がり、自覚できるレベルで仕事の質が向上しているのだから不思議なものである。

 とはいえ不安要素は残されている。
 出演の承諾にあたり、「覆面をかぶって良いなら」という条件が附されている。この条件は飲むしかなかった。結局、フクロウ以外にシンポジウムを盛り上げるネタを思いつきそうになかったので、どんな形でもフクロウに頼らざるをえなかった。
 そうなると次の論点は、フクロウが覆面をかぶって登場することを事前に聴講者に伝えるかどうか。準備期間中、最も時間をかけて議論したのがこの点だった。
 そして結論は、「事前案内なし」。
 兎にも角にも人を集めることが重要なので、変に混乱を与える情報を発信することは避けることにした。いずれにしても「人気覆面作家が公の場に初登場」というだけでも十分なニュース性であると信じている。

 市のホームページには、このシンポジウムの専用ページまで用意した。聴講者の参加登録は、募集を開始してから定員になるまで一日とかからない盛況っぷり。
 記者クラブへの投げ込みも行い、マスコミ方面のケアもやれる範囲で行っている。
 大丈夫、きっとうまくいく。
 自分の中の期待感も日に日に高まっていくのがわかる。
 フクロウが覆面をかぶって出演することにより、炎上リスクが消しきれないことはわかっている。だが、多少の炎上はむしろ知名度向上に貢献するはずと割り切りの想いすら芽生え始めていた。

 悩みをあげるとするならば、フクロウ出演の決定以降、部長が調子に乗りすぎてしまったことぐらいだろう。
 外回りのたびに、相手先にシンポジウムの宣伝をしているため、企業の重役クラスの来場が続々と決まってしまっていた。無論、部長の役割を果たしているともいえるが、重役の聴講者はこちらとしてもある程度コストをかけてケアする必要があるため、仕事が増える一方である。
 そんな現場の苦労を露ほども理解していない風の、部長から発せられる「自分は良いことをしている感」は、もはや憎悪の対象にすらなりつつあった。
 加えて、本件の経緯からしても、知事、市長もゲスト聴講者として招くことは既定路線となっており、そのケアにかかるコストも相当なものになっていた。
 O市始まって以来の、市役所総動員体制の一大イベントだ。

 神崎は、午後一からシンポジウムに携わる職員を集めて、当日の流れを確認する会議を仕切っていた。その会議もつつがなく終了し、たばこ休憩から自席に戻ったのは午後三時過ぎ。ここからはルーチンの雑務を裁く時間となる。
 息を吸うようにメールの確認をしていると、気になる宛先からのメールが届いていることに気付いた。
 フクロウからのメールだった。

 フクロウとは、高坂に繋いでもらったあと、直接メールをする関係になった。とはいえ、そこでのやり取りは、シンポジウムの開始時間や会場アクセスなど、事務的連絡を一方的に行い、フクロウからは簡素なお礼メールが来る、という程度だった。
 特に脈絡なく、フクロウからメールが来たのははじめてのことだった。
 メールの件名を見ると、「申し訳ありません」。

 恐る恐るメールを開封してみる。

「申し訳ありません。昨日からインフルエンザを発症してしまい、本番までに回復の見込みがありません。今の状態で人前に出る訳にはいかず、今回は残念ながら欠席させて頂けないでしょうか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご容赦のほどよろしくお願いいたします」

 メールの内容にしばらく呆然とし、動くことができなかった。
 何かの間違いではないか、と何度も送受信ボタンを連打してみるが、画面に変化は起きない。
 このメールがフクロウから放たれたことはどうやら事実らしい。

 しかしちょっと待って欲しい。
 もう引き返せないところまで話は大きくなってしまっており、フクロウの出演はその中核中の中核である。絶対に看過できない事態の急変だった。

 電話をしよう!
 気持ちばかりが先走り、何度か番号の押し間違いをしてしまった後に、ようやく正しい電話番号をプッシュした、
 高坂から連絡先は聞いていたが、実際に電話をするのはこれが初めてだった。

 プルル、プルル。
 - 留守番電話サービスにお繋ぎします -

 三回ほど掛けなおしてみたが、無機質な留守電サービスにしか繋がらなかった。絶望的な感覚が身体を侵食し、吐き気がしてきた。
 初めから何もかもが幻だったのではないか、とすら思い始めた。

 元々仕事に対する野心などなかった。いや、今でも野心の有無を問われれば、「無い」と自信を持って答えられる。
 ただ、いかんせん本件は周りも自分自身も盛り上げすぎてしまった。このシンポジウムの仕事を通じて、仕事へのモチベーションがあがり、職場での自身の評価があがり、引き返すことが不可能なレベルで、希望に満ちた将来像を自分の中で確たるものとして形成してしまった。これらは全て、フクロウを呼ぶことができた、という一本足打法がアキレス腱になっていた。
 自分だけの問題であれば、まだ良いかもしれない。フクロウ登場に期待して集められた聴衆やマスコミ。知事、市長をはじめとしたVIPの方々。彼らはどんな理由を並べられようと、フクロウ不在に納得することはないだろう。暴動が起きる、とまでは思わないが、ネットの世界でとんでもない展開になることは十分に考えられる。
 血の気が引いた。
 足が震え、膝から崩れ落ちそうになっている。

 これ以上絶望を一人で抱え込む訳にもいかず、真向いの机でカタカタとパソコンを叩いている寺岡に声をかけた。

「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」

 メールを転送するような悠長なことは言っていられなかったので、寺岡を自席に呼びつけ、パソコンのメール画面を見せた。
 寺岡はパソコンを覗き込むと、しばらく動きを止めたのちにつぶやいた。

「…まずいことになったな」
「どうしましょう。電話もしてみたんですけど繋がらなくて」
「こうなってくると我々だけで判断する問題ではない。課長…は海外に出張中か。とりあえず部長にすぐあげよう」

 重苦しい空気を身にまといつつ、部長のデスクに向かった。
 デスクで概要を伝えると、部長指示で、部長卓の横にある小会議室に移ることになった。この会議室は、要すれば、部長がコソコソ話をするための部屋だった。
 部長、寺岡は早々に席につき、神崎も二人に続く。
 わざとらしいほど大きなため息をつきながら、部長が口火を切った。

「…その、事態は把握したが、なんとかならんもんなのかね。もう知事も市長も予定は抑えている。マスコミへの投げ込みも行った。今更フクロウなしはありえないだろう」

 部長は苛立ちを隠そうともしなかった。大きめの貧乏揺すりは苛立ちの空気に加速度をつける。

「インフルエンザを感染拡大させるのが最悪です。フクロウを呼ぶことは諦めるべきです」

 寺岡の見切りは驚くほど早かった。
 冷たさすら感じるが、正論は正論だ。
 神崎はまだそこまで割り切れていなかったが、他にアイデアがあるわけではない。静観するしかなかった。

「生出演は無理でも…中継とかビデオメッセージとか、その辺はできないかね。いや、でも…、しかし…」

 部長が示した選択肢は最低限の挽回策としてはありうるかもしれない。ただ、あくまで最低限。それでは煽りすぎた聴衆の期待に全く届いていないだろう。部長も同じ肌感覚なのか、語尾が弱気だった。
 そもそも中継やメッセージだって、病人に強要できるものでもない。

 寺岡はうつむきながら右手の親指を眉間に押し付ける独特のポーズを取っていた。寺岡が考えごとをするときの癖だった。
 今は、中継やメッセージの妥当性を検討する時間なのか、他のアイデアを検討する時間なのか、誰も説明せず、誰も仕切らない。
 久々に味わう秒針音に支配される時間に突入した。

 沈黙を破ったのは寺岡だった。

「中継やビデオメッセージは最低限のレベルだと思います。ただ、いずれにしても本人への確認が必要です。どうせ本人に確認するなら、もう一つ選択肢をあげてはどうかと思うのですが」

「もう一つとは何かね?」

 部長は感情が声色に出やすいタイプだった。寺岡のもったいぶった言い方に明らかに苛立っていた。

「フクロウは覆面での出演を希望していました。そしてそれを我々は認めた」
「それがどうした」
「覆面での出演であれば誰が出ても同じですよね。例えば『我々が』代理で出たとしても」

 寺岡の選択肢は斜め上すぎた。

「そんな…いや、でも、代わりに話すことなどできないだろう」
「講演資料は既にもらっています。本人への確認が必要な個所もあるでしょうが、講演原稿さえ作ってしまえば何とかなると思います。いや、フクロウが講演原稿を既に作っていたとしたら、それをもらって代読するだけです」
「パネルディスカッションは?」
「進行役にあまりフクロウに振らないようにネゴしておけば、ボロが出ないうちに終えることは可能かと」

 寺岡の声色は冷静だった。

「仮に可能だとしても、そんなことフクロウ本人が許さないだろう?」
「もちろんフクロウ本人の了解を取る必要はあります。ただ、普通の社会人であればドタキャンに責任を感じるものでしょう。堂々と覆面代理出席を打診してみれば良いのではないでしょうか。元々詰んでいたのです。確認して、オーケーだったら儲けものという感じで」

 部長は何度もうなり声をあげながら考え込み始めた。
 突飛な選択肢ではあると思ったが、寺岡の話を聞いているとやってやれなくない気もしてくる。ただ、いくら何でもフクロウ側が了承するとは思えなかった。

「とりあえず、全部聞くだけ聞いてみてくれ」

 部長は考えることを放棄したな、と思った。
 ともあれやるべきことが決まったのは、少しだけ心を楽にしてくれた。

 会議室から出て、各々の机へ。
 神崎自身も自分で判断することを完全に放棄し、粛々とフクロウに確認メールを書いた。メール送信後、念のため試みた電話は、やはり繋がることはなかった。
 今、できることは、ただひたすらメールの返事を待つことのみだった。

 十七時の終業の鐘を聞いたところで、一旦たばこを吸いに行くことにした。 インフルエンザだとしたら、メールをしばらく見ない可能性だってある。そんな最悪の想像も膨らませながら席に戻ってみると、フクロウからの返信が届いていた。
 こちらのメール送付から一時間後のこと。案外早い返信だった。

『代理出席のラインで結構です。用意していた講演原稿と覆面はお送りします。よろしくお願いいたします』

 O市にとって前代未聞の大イベントは、覆面をかぶった人が主役のイベントであり、しかも覆面の中身は偽物になることが決まった。
 世界を見渡しても前代未聞とも言えるイベントになりつつあった。
 講演を開始した瞬間、カメラのフラッシュは最高潮に達した。
 講演中の写真撮影は禁止としていたが、マイクを握った画を撮りたがることは予想できたので、講演冒頭だけはうるさく取り締まることはよそう。そんな話し合いをあらかじめ行っていた。

 自分を知る高坂の存在がどうしても気になる。高坂の方は極力見ないようにして、覚えた原稿内容を淡々と声に変えていく。

 聴講者の最前列に、A県知事とO市長の姿が見える。覆面への反応は心配だったが、その隣に座っている部長のにこやかな顔を見ていると、特段悪い印象には繋がっていないようだ。盛り上げることさえできれば、フクロウの本当の顔には興味がないということかもしれない。

 定員五百名の会場は満員御礼となっていた。駆け付けたマスコミは三十社以上。報道のされ方は気になるものの、今回のシンポジウムは成功だと言い切っても差し支えないだろう。
 
 講演は順調に進められている。
 何とか原稿を見ることなく、やりきれそうな感触である。
 スライドを用いた説明も終わり、最後はメッセージで締める。

「私はこのO市に生まれ、O市に育てられました。O市を深く愛しています。今日来てくださっているO市の皆さん、今後も一緒にO市を盛り上げましょう。O市以外の皆さん、また是非O市に遊びに来てください。皆さんがO市に捧げてくれた活動が、私の創作の原動力です」

 何とか言い切ることができた。
 講演を終え、会場前方の講演者控え席に着く。だが、ここにきて大きな問題が発生していた。覆面というものは、長時間装着するのはあまりに苦行であることに気付いたのである。
 早く帰りたい。
 兎にも角にも、このシンポジウムが無事に終わることに思いを馳せた。
 午後一から当日の流れを確認する会議が予定されていたが、寺岡はその会議出席を免除してもらっていた。

「雑務がたまりすぎているので、その処理をさせてほしい」

 あながち嘘でもなかったし、今日の議題であれば神崎だけで十分対応可能という見通しもあった。
 宣言通りに雑務処理をしばらく行ったあと、おもむろに席を立ち、トイレに駆け込んだ。念のため個室に入り、そそくさとスマホを取り出す。出版社のある東京から離れていることから電話会議を行うことも多く、出版社に持たされているスマホがある。
 このスマホから神崎へのメールを作成する。フクロウ名義の「ごめんなさい」メールだ。余計なことは書かず、シンプルに謝罪の意を示した文章を作成し、送信ボタンを押した。
 仕込みは終わった。あとは神崎が自席に戻ってこのメールに気付けば、物事はトントン拍子に進むだろう。その時が来るまで、引き続き雑務処理をこなした。

 よくぞここまで来たものだ。
 絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。考えもしなかった「フクロウ出演」という選択肢が示されてから、悩みに悩んだ末に立てた計画は、順調に計画通り進行していた。

 シンポジウム開催のきっかけは決して愉快なものではなかったが、担当者に任命された以上、このシンポジウムを成功に導くことが使命と捉えていた。
 良くも悪くも自発的には絶対にやらなかったであろう規模のイベントであり、これをきっかけに街が活性化していくことに期待している自分もいる。

 今回最も悩んだのは、公務員寺岡が作家フクロウと同一人物である旨を、カミングアウトするか否かという点にあった。
 公務員は原則副業禁止。この原則を突破するハードルの高さを正確に見積もることができなかったので、カミングアウトの決断にはどうしても抵抗感が生じた。
 然るべき手続きを取れば、副業自体は不可能ではないようではあったが、当然そこには合理的な理由が求められるだろう。趣味の延長線上の作家業が、合理的理由になりうるとは到底思えなかった。加えて、仮に副業が認められても、職場での見られ方が悪い方向へ変わる恐れもある。ともかく現状の仕事に影響を及ぼすことは避けたかった。

 寺岡=フクロウだと、絶対にバレない方策を立てる必要がある。

 そうなると顔出しでの出演は絶対にNGである。覆面作家らしく、覆面を活用できないか、というのが最初の発想となった。
 ただ、顔を隠したところで、声や立ち振る舞いで職場の人達には勘づかれる可能性の方が高い。また、そもそも自身がシンポジウムの担当なので、悠長に演者側に回ることなど絶対にありえない。つまり、自身が覆面をかぶって出演することは難しい。
 よって次善策として思い立ったのが、覆面をかぶせて代理を立てることだった。要すれば、替え玉講演だ。
 では誰を代理に立てるか。
 代理覆面に求められる条件は思いつく限り三つあった。

 一つ、寺岡が作家であることをカミングアウトしても問題がない人。
 一つ、秘密を守ってくれると思えるだけの信頼関係がある人。
 一つ、寺岡の代わりに受け答えができる人。

 該当者として唯一思いついたのが兄だった。兄貴にならこの件を預けられる可能性がある。だが、どう考えても厳しいのは、三つ目の条件。自分の代わりに受け答えが可能かという点だ。
 講演だけなら原稿さえ用意すれば身代わりは容易であろう。ただ、その後に用意されているパネルディスカッション。これを違和感なくこなせるかどうかは、あまりにギャンブル的であった。
 全く気付かれない可能性もある。でもマスコミが来るということで確実に映像は残るであろう。いや、今の時代、マスコミの有無に関係なく映像を残されるリスクは常に付きまとう。
 そして、優秀なネット民が違和感を抽出することが容易に想像できた。
 自分の正体を熟知している高坂をはじめとした出版社陣が見にくる可能性も高い。ただでさえ口の軽いあの女はリスクでしかなかった。

 よって代理を立てるラインは諦めた。
 結局は、自分自身がこの場に出ることが最善策だった。
 その出発点に立つと、やるべきことは明確だった。

 そうこうしている間に神崎が会議から戻ってきた。
 向かいの席からそれとなく観察していると、パソコン画面を見ながら青ざめている様子や、慌てふためいた顔で何度も電話をかけている様子が目に入る。神崎はこちらが思った通りに動いてくれていた。
 神崎が必死に電話をかけている先は、先ほどメール送付にも用いた出版社に持たされている作家フクロウ用のスマホである。当然、その電話には出ない。
しばらくすると青い顔をした神崎が声をかけてきた。

「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」

 先輩である寺岡を自席に呼びつけるとは何事かと、文句や嫌味の一つでも言ってやろうかとも思ったが、色々趣旨がぶれるのでぐっと抑えて神崎の席に向かう。
 次の部長とのやり取りが、最後の関門となるだろう。