「結局これって何のためにやるんですかね?」

 神崎が切込んだ角度はシンプルにして鋭かった。
 原点に立ち戻ることは、混迷した会議のイロハのイである。

「我が街の振興のため、かな」
「それはわかってますよ。でもなんていうか、手段が目的化してしまってますよね…」

 言いたいことはよくわかる。
 今の寺岡の回答の場合、次に議論されるべきは振興のための最適な施策は何か、になる。でも既に施策は決まっている。そこに理由はない。いや、正確には、我々に納得のいく理由が説明されていない。

「じゃあ『部長に言われたからやる』とでも言うか。さすがにやる気が削がれるだろ」

 自分で言って、自分でゲンナリしてくる。上から言われたからやりましょう、は最低の動機だ。そんなこと言いたくないし、言われたくもない。
 
 不幸にもゲンナリ気分は神崎にも伝播したようで、沈黙の再来。
 第一幕と同じ流れになってしまった…

 現状を分析すると「変化がない」ことがこの会議の最大の毒素になっている気がする。ともあれホワイトボードに文字を書いてみることが大事では、と思い始めた。

目的:我が町の振興
 
 先ほどの議論を踏まえてはいないが、ぶれることのない不変の理から構成していくのは悪くないだろう。

「どうしたんですか、突然」
「書いてみることが気付きになると思ってな」

 そう言って、寺岡はホワイトボードの文字を凝視する。神崎も同じようにホワイトボードの文字を凝視し始めた。

「うーん、振興となるとやっぱり名物の宣伝とか交えたほうが良いですかね」
「名物、あるいは名所とかかな…」
「キャベツ、あるいは神社…」

 キャベツも神社も嫌いではないが、キラーコンテンツとするにはあまりに頼りなかった。キャベツのシンポジウムというと、なんだか新興宗教っぽい怖さをはらんでいる。神社をメインコンテンツにするなら、神社で行うイベントに切り替えた方が良いだろう。シンポジウムにはならないが、それはそれで逃げ道としてはありうるかもしれない。
 ともあれ、アイデア出しミーティングにおいてダメ出しはご法度なので、

「方向性は悪くないね」

 と陽気にホワイトボードに書き込んでみる。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)

 議論が進んでいるのか、迷っているのか、寺岡自身もよくわからなくなっていた。そこで、少し観点を変えて、話を進めてみることにした。

「イベントの中身で勝負するか、ゲストで勝負するか。そのどっちを目指すのか、から考えてみるのもありではないかな?」

 そう言って、とりあえず追記していく。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:中身 or ゲスト

「イベントの中身ってシンポジウムは確定ですよね」

 うなずいて肯定の意を示す。

「シンポジウムのテーマってことですか?」
「そうだな。あと細かいけど、講演だけなのかパネルディスカッションも入れるか、とかかな」

 いや、それは違うか。

「さすがにそれは集客に大きな影響はないか。論点はテーマに絞ろう」
「だとしても、ですよ。例えば、女性の社会進出とか、自動運転とか、いかにも流行りのテーマを打ち出したところで、それだけで人は集まりますかね」

 なるほど、確かに神崎の言う通りかもしれない。特に流行りのテーマの場合、「誰が」主催しているかが重要なファクタとなりうる。国のイベントならともかく、弱小地方自治体がいくら耳触りの良いテーマを並べても世間はさほど注目しない。

「人が来るイメージ湧かないな」
「ですよね」

 話は完結した。
 結論は残念ではあるが、方向性は絞られてきた。

「つまり結局は魅力的な講演者が用意できるかどうか…」
「単純ですけどそうなりますね」

 ホワイトボードも少しずつ白みを失っていく。
 「中身」を消し、「ゲスト」の横に追記した。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:ゲスト(客寄せパンダ)

「客寄せパンダって、有名人ってことですよね?」

 視野を広げれば色々選択肢はありそうではあるが、有名人を呼ぶのが最もわかりやすいだろう。

「いますかね。ただ同然で来てくれる有名人なんて」

 悩ましい命題だった。とりあえずGoogle先生にお伺いを立ててみる。「講演 無料」っと。

「無料で講演を引き受けてくれる人は、いるにはいるみたいだが…」

 この方々に集客力があるかどうかは、一つずつ精査しないといけない。

「こんな片田舎の自治体イベントに来てくれる有名人は…多分有名人じゃないです」

 禅問答のような真理を神崎は言い放つ。
 有名な人は客を呼び込める。客を呼び込めるというのはお金を生みだせる。お金を生みだせるならビジネスが発生する。当たり前の話だ。
 そんなお金を生めるポテンシャルのある人が、我が街にただ同然で協力する理由はない。議論の行き詰まりを感じながらも、ホワイトボードに追記していく。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:ゲスト(客寄せパンダ)
 → 協力的な有名人

「協力的ってのは攻めどころになりますかね?」
「どういう意味だ?」
「つまりその、何と言いますか、ボランティア活動的なことをしたいと思っている人とか。積極的に禊をしたい人とか」

 積極的に禊…なかなかのパワーワードが飛び出した。

「例えばですよ、不倫とかのスキャンダルで干されたタレントさんのイメージアップにつなげてもらいつつ、お客さんも呼ぶと」

 面白い発想だった。
 公務員のような手堅さを第一とする人種にはいささか不向きな戦略ではあったが、弱みに付け込むという発想は素晴らしい。

「同じような発想だと、犯罪歴ありのタレントという線もあるかもな」

 更生の場の第一歩。我々のような弱小自治体のイベントはあまりに小さな一歩かもしれないが、小さい街への貢献だからこそ、逆に好感度は反比例的に上昇するかもしれない。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:ゲスト(客寄せパンダ)
 → 協力的な有名人
   ・訳アリの人

 方向性の正しさに疑問を覚えて唸っていると、ここで会議室のドアをノックする音が響いた。次の会議室利用者からの「早く終われ」のサインだった。
 この調子で進めて良いのだろうか。不安に満ちてはいたが、本日の会議はここで終了。次回は三日後。それぞれにコンテンツアイデアを三つ以上捻出するという宿題を課して、会議をお開きにした。
 別に公務員に限った話ではなく、多くの社会人はマルチタスクとなるだろう。
 寺岡たちのような事務系の労働者は、仕事時間の大部分がメール処理に充てられる。残りの大部分は書類作成や起案決裁などのルーチンワークに充てられ、さらに残りの搾りかすの時間で、部横断的な雑務をこなしている。寺岡の今年度の係は、図書係と安全係だった。

 シンポジウムのようなイベント業務の大変なところは、季節労働と言っても良いほどに業務負荷に偏りがありながら、いつもの仕事が全く軽減されない点にある。

 確かに年度途中でコロコロとルーチン業務の担当を変えるのは効率が悪い。でもだからといって、マネジメントの放棄が当たり前になりすぎている現状には一言、二言モノ申したい。
 今回の件がさらに悪いのは、年度明けの追加業務であった点にある。定例のイベント業務以上に、業務負荷に歪を発生させてしまっていた。
 長々と何が言いたかったかというと、三日間あったとて、新たなアイデアを考えるためにとれる時間はあまりなかったという話…

 会議の第三幕が始まった。
 ノルマ三つとしていたが、自分のアイデアは一つだけだった。会議の冒頭、まずは神崎にお詫びを告げた。

「いや、問題ないですよ。俺も一つだけなので」

 …
 …
 今の自分が何を言っても説得力皆無状態だったので、会議を進めることとした。
 前回の会議終了時のホワイトボードを再現した後に、今回の追加アイデアを記入した。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:ゲスト(客寄せパンダ)
 → 協力的な有名人
   ・訳アリの人)
   ・公務員

「公務員の場合、謝金・交通費を受け取らないのが原則だろ。お金のかからない講演者として一人は入れても良いかなと思う。部長に交渉させて、霞が関の有名な公務員を連れてくれば良い」

 この案はパンチ力に欠けているという自覚はある。ただ、ラインとしては無難だし、部長に多少は苦労をさせたいという邪な想いがあったりもした。

「なるほどですね。メインディッシュとしては弱いと思いますが、場を締めるという意味合いでの付け合わせ的には良いかもしれませんね」

 案外好意的に受け止められた。ずいぶんな言われ方に、霞が関の役人は怒り狂うかもしれないが。

「講演者のあてはあったりするんですか?」
「いや、全くない。理想を言えば局長級を呼びたいところだけど、あまり偉い人を呼びすぎるとこちらのフォローコストが甚大になってしまうからな。地方自治体との相性で考えると中小企業庁の誰かしらを呼べれば万々歳ではないか」

 議論が落ち着いたところで、寺岡はホワイトボード用のペンをそっと神崎に手渡した。

「次は俺ですね。任せてください」

 神崎は力強く書き込み始めた。

目的:我が町の振興
名物(キャベツ)、名所(神社)の宣伝(?)
ポイント:ゲスト(客寄せパンダ)
 → 協力的な有名人
   ・訳アリの人
   ・公務員
   ・地元の有名人

「どうですか?」

 神崎が得意げな表情で目を合わせてくる。

「うちが地元の有名人。これしかないと思いませんか。きっと格安で協力してくれると思います」

 論理は明確だった。ただ…

「そんな都合の良い有名人が地元にいないだろ」
「シッ!」

 神崎は鼻の頭に人差し指を立てて、黙ってほしいときにお馴染みのポーズを取った。今、沸き上がった感情をなんて表現するんだっけな。
 そうそう、鼻につくだ。
 
「作家のフクロウって知ってますか?」

 神崎の言葉に、寺岡は背筋がざわつくのを感じた。

「ベストセラー作家ですよ。しかも覆面作家。そんなに作品は出していませんが、旬な作家の一人です。寺岡さん、知ってますよね?」
「もちろん知ってるよ…でも地元がうちだなんて聞いたことない」

 神崎は鼻につく表情を一切崩すことなく、話を続ける。

「出版社に就職した友人がいるんです。そいつと昨日飲んでいた時に聞いたんです」
「聞いたって何を?」
「だから、フクロウの出身地ですよ」

 冗談を言っているようには見えない。

「出版社の友人といっても…信憑性はあるのか?」
「高坂…友人の名前なんですけど、高坂はフクロウの担当編集者なんです。信憑性は高いと思いますよ」

 嘘を言っているようには見えない。
 確かに、人気の覆面作家が地元のシンポジウムで初顔出し、となったら、企画としては魅力的だ。

「連絡は取れるのか…?」
「何を言ってるんですか?俺の友人がフクロウの担当編集ですよ。アプローチは簡単です」
「覆面作家が表舞台に出てくれるとは思えないが…」
「だからこそですよ。来てくれたら集客に繋がりますよ。もちろん協力してくれるかはわかりませんが、打診する価値はあると思いませんか?」

 反論する理由は思いつかなかった。

「フクロウが呼べれば、あとはそれを軸にテーマを決めて、その他は適当に…公務員とか呼んで周りを固めればオーケーです。講演とパネルディスカッションで三~四時間のイベントの完成ですね」

 神崎は舞い上がった様子で自己完結していた。
 アプローチは良い。確かに面白い。だが、寺岡が顔を曇らせている理由に神崎が気付いたら何と言うだろうか。いや、気付かせる訳にはいかない。
 ともあれ議論は尽きたというか、結論めいたものが導かれたので、予定時間より早かったが会議はここで終了した。
 フクロウ出演の感触を神崎が確かめる。次回の会議までの宿題はその一点のみとなった。
 会議終了後、寺岡は職場内に申し訳程度に設置されている休憩スペースに足を運んだ。
 一人でしばらく落ち着きたい。かつてないほど「落ち着きたい」という願望に押しつぶされそうになっていた。
 覆面作家フクロウ。
 まさかこの職場で接点が生まれることがあるとは思わなかった。

 覆面作家と一口に言っても様々なタイプがいる。

・生年月日や趣味などの一部は公表する人。
・公表はするがその大部分が偽情報の人。
・公式に公表せずとも実質バレバレの人。
・その一切を公表しない人。

 フクロウは最後のタイプの覆面作家だった。
 そして寺岡のもう一つの顔だった。

 まさか担当編集が、よりにもよって自分の同僚に情報をリークしているとは…

 本は昔から大好きだった。作文も得意としていた。
 学生時代、作家になることを夢見たことはあった。ただ、それを職業にしようだなんて非現実的すぎて、真面目に考えるには至らなかった。そして現実的な夢である「地元を盛り上げたい」という想いを実現するべく、地元の公務員なった。

 公務員の仕事は性に合っていた。ほどほどに忙しく、ほどほどに落ち着いており、何より地元のために働けるのが何よりのモチベーションだった。
 そんな順調な公務員生活に変化が訪れたのは、市民向けに発行している市民便りに寄稿する機会をもらったときだった。自分の書いた記事に対し、予想外に大きな反響があり、その気持ち良さを知ってしまった。忘れかけていた夢に、少しだけ輪郭が宿ってしまった。

 就業後と週末にコツコツと執筆。
 腕試しに投稿してみた新人賞。
 まさかの入選。
 作家デビューへの打診。
 トントン拍子の展開と立ちはだかる副業禁止規定。

 作家として食べていける自信は微塵もないし、地元に貢献できる公務員という仕事にもやりがいを感じている。
 寺岡の選択は、「全てを公表しない覆面作家」という道だった。

 別にシンポジウム出演を断ることは容易い。
 一方で、このシンポジウムを成功に導かないといけない、という立場もある。自分で言うのも恥ずかしいが、フクロウ登場は魅力的なアイデアだった。

 だが、たかだかこんなイベントに全てを公開するだけの価値があるのだろうか…
 リスクとメリットの天秤がグラグラと大きく揺れ動いていた。

 作家寺岡は、誰にもバレることなくフクロウとしてシンポジウムに出演し、公務員寺岡は、シンポジウム主担当としての職務も全うする。
 こんな奇跡のような二律背反を満たす一手はあるのだろうか?
 最初の企画会議の日から数えると、もう十か月が経過していた。
 間もなくシンポジウム開始の時間になろうとしている。
 シンポジウムのテーマは「地元愛」。多くの聴講者、マスコミに囲まれる中で、O市の良いところ、伸ばしていくべきところをしっかりと情報発信していこう、という趣旨だった。

 客寄せパンダであるフクロウは、意図的に最初と最後に出番が来るようなプログラムとなった。講演順番は一番目。最後のパネルディスカッションにも出番がある。

 講演者控え席が講演会場の最前列に用意されているが、お願いして舞台袖で待たせてもらっていた。舞台袖からでも聴講者の熱量を十分に感じ取れる。それほどまでに、会場の期待感とボルテージが高まっていた。

 自分は今、嘘で塗り固めてこの場にいる。
 企画会議の時、「犯罪歴のある人を壇上に」という議論をしていたことを思い出す。嘘で塗り固められた自分は、ある意味そういうことなのかもしれない。

 今日の演者は、中小企業庁で地方創生を担当している課長補佐、地元の名産品キャベツを主力作物としている農業法人の代表取締役、地元の名所となっている神社の宮司、という構成だった。我々のアイデアの集大成ともいえるラインナップではあるが、並べてみるとまとまりの欠片もない。こんな面子でディスカッションなどできるのだろうか。

 そうこうしているうちに、開会時間を迎えた。司会者が壇上にあがる。
 O市長による開会挨拶は、可も不可もない無印象のままに終わり、いよいよ本題に突入。

「それではフクロウさん、よろしくお願いします」

 司会者からの呼び込みを受け、舞台へと足を向けた。
 正直悩んでいた。
 中学の同級生である神崎から、「担当作家を紹介してほしい」と依頼があってから、かれこれ二時間ほど、どうしたものかと自問自答を繰り返している。神崎には、返事をするのに数日の猶予をもらった。
 担当作家であるフクロウこと寺岡に繋ぐだけであれば簡単なお仕事である。だが、話はそこまで単純ではなかった。

 フクロウは人前に出ることは完全NGの覆面作家だった。つまり本件を引き受けることはおろか、単に紹介するだけでもNGの可能性が高い。
 いや、この際そのことは特に問題ではない。高坂にとっては、神崎の依頼に応えられないことは、上司のインスタグラムが炎上するのと同じぐらい些末なことであった。

 問題は、本件を伝達することで、もれなく寺岡に怒られることにある。
 何故外部のものがフクロウの地元を知っているのか、何故高坂の知り合いがそれを知っているのか。
 問い詰められたときにごまかせるほど体裁の良い言い訳を準備できていないし、自身に女優適正は備わっていないし、寺岡もボンクラではない。

 不可避の叱責。
 気分が重くなる。

 売れっ子覆面作家の担当をしており、その正体を知っている。
 恰好の酒の肴であり、ひけらかしたくなるのはヒトのサガというものだろう。元凶は昨日地元で催された中学時代の同窓会的な飲み会にあった。

 自分は悪くない。自分の身が可愛い。怒られるのは嫌だ。
 情緒は加速度的に不安定さを増してきた。

 高坂は寺岡のデビュー時からの担当編集者だった。初めて持ち込まれた原稿を読んだのも高坂だった。大して長く編集者をやっていた訳ではなかったが、読んだ瞬間「売れる」と確信できてしまうほど才能が傑出していたことを思い出す。
 高坂は寺岡の担当になると同時にファンになっていた。

 順調にデビューの段取りが固まった際、寺岡がどうしてもこだわりたいと主張したのは「覆面作家になること」だった。覆面を希望する作家が珍しい訳ではないし、覆面のミステリアス感が良い効果を生むときもある。寺岡の意思を尊重することに異論はなかった。

 ただ、寺岡は世間に対してだけでなく、出版社側に対しても、必要以上に自分語りをしないタイプだった。
 高坂は寺岡が覆面を希望する理由を知らない。普段何をしているのかも知らない。
 住んでいる街はかろうじて引き出した数少ないパーソナルデータだった。それが偶然にも自身と出身地でもあったため、地元話で大いに盛り上がった。寺岡の言葉の端々に地元愛が満ち溢れていたのを覚えている。

「ただ、くれぐれも内密にお願いします」

 今となっては気分を落とす意味合いにしかならない寺岡の言葉もよく覚えている。
 この罪悪感にどのようにして逃げ場を与えれば良いのだろうか。

 寺岡にとって地元情報がどれほどの意味を持っているかはわからない。
 でも情報を漏らされた側にしてみれば、一つのリークはあらゆる疑いへと変容する。これまで築いた信頼関係が崩壊することも懸念された。
 そしてきっと怒られるだろう。

 部屋をぐるぐると回り、ため息をつき、また部屋をぐるぐると回る。

 冷静に状況を確認してみよう。
 神崎の目的はフクロウをイベントに出演させること。
 でもフクロウは覆面作家。フクロウこと寺岡がこのオファーを受ける確率は皆無といっても良い。
 神崎の願いは叶わない。それは約束された未来。
 つまり自分が寺岡に確認しようとしまいと、導かれる結果は同じ。
 確認した場合は、怒られ損になる。

 結論は明確だった。
 この件は、自分のところで潰してしまうことにした。

 よくよく考えると、寺岡に伝達するための時間だってお互い無駄に消費する時間になる。まして、多少なりとも寺岡が依頼を受けるか悩む可能性だってある。これは担当作家の時間を奪う行為に他ならない。万が一、本件をきっかけに寺岡が高坂に対して疑心暗鬼になってしまった場合は、寺岡に余計な心労をかけてしまう。
 誰も得しない。
 これほどまでに合理性を欠く行為は他にあるまい。
 フクロウに確認したかどうかを神崎は知る由がないので、「フクロウには断られました」と淡々と回答することとしよう。

 もちろん良心は痛む。だが、神崎にはこの言葉を贈ろう。

 世の中の平和は、合理性と少しの罪悪感でできている。

 やるべきことは決まったが、早々に神崎に返答するのは具合が悪い。きちんと確認を取った、というリアリティを醸し出す必要がある。時間を空けての回答…例えば二日後ぐらいの回答が良いだろう。

 結論が固まったことで大分気が楽になった。しばしの緊張と熟考により疲れ切っていた高坂は、シャワーでさっぱりすることにした。
 神崎から依頼を受けてから二日後。断りの連絡をしても良い頃合いになった。
 回答方法については、色々考えた結果、「電話」を選択した。ねつ造を交える場合、やり取りが残るメール連絡は避けるに越したことがない。

 意を決して電話を手に取った瞬間、逆にこちらの電話が着信した。
 後に悔やむこととなるが、焦りのためか、条件反射的に通話ボタンを押下した。
 
「寺岡です。お疲れ様です。今、大丈夫でしょうか?」

 よりにもよって、という相手からの電話だった。寺岡は必要最低限にしか連絡を取りたがらないタイプであり、電話での打ち合わせも高坂側からかけることしかない。寺岡側から電話をかけてくるのは極めて珍しいことだった。

「…大丈夫ですよ。どうしました?」
「ちょっと確認したいことがあってお電話しました」

 このタイミングで確認したいこと…嫌な予感しかしない。

「自分の地元をですね、知っている人に会ったんですよ。自分というかフクロウの地元ですね」

 いくら何でも拡散が早すぎる。
 いや、同じ街の住人という最もこの情報に興味を持つ層に伝えた情報だ。今にして思えば、なるべくしてなったということかもしれない。

「住所とか地元は公表していないはずなんです。そもそも何一つ個人情報は開示していないはずなんです」

 存じ上げております。

「となるとですね、漏れるとしたら出版社経由以外、考えにくいんですよね。というか、情報提供者曰く、フクロウの担当編集からの情報と言っている訳ですよ」

 完全にネタがあげられてしまっていた。どこにも逃げ場がなかった。

「心当たりありますよね?」

 寺岡の口調は、責めてはいるがあくまで穏やかだった。
 被害ゼロにはできないことが確定しているので、ダメージコントロールに切り替えることにした。

「すみません、実は中学の同窓会みたいなものがあってですね…ほら、私、寺岡さんと同郷って話をしたじゃないですか。つまり中学の同級生も寺岡さんと同郷なんです。それで地元の知られざるスターがいるぞ、という話を思わずしてしまいまして…」

 最大限に曇りのない反省の声色を絞り出す。電話なので関係はないが、神妙な顔つきを作ることも忘れない。

「本当に申し訳ありませんでした」

 シンプルな謝罪。謝罪に意外性は必要ない。
 電話越しでもきちんと頭を下げる。

「いや、ホント困るんで、今後注意してくださいね」

 寺岡の穏やかな口調は変わることがなかった。
 もしかして乗り切れたかな、と心の中で少しだけほくそ笑む。

 ここまで来たら神崎への義理立ても済ませるが吉であろう。「作家の時間を奪う行為」云々のくだりは建前というメッキを綺麗に剥がされていた。

「あの、頂いた電話で恐縮なのですが、実は私の方も寺岡さんに確認したいことがあってですね…」

 そう切り出すと、神崎から話が来たA県O市の市役所からのイベント出演依頼について、概略を説明した。

「でも大丈夫ですよ。期待値コントロールはしていますので、断ることは簡単です」

 コントロールをしていたのは期待値の方ではなく、ダメージの方ではあるが。

「お話はわかりました。もう地元を隠すことは諦めましたので、せめて地元貢献に協力的でありたいと思い始めたところでした」

 そういえば、寺岡は地元愛に溢れた人間であることを思い出す。

「ただ、覆面作家のラインは崩したくないんです。前向きに検討しますので、正式なお返事は少し待ってもらえないでしょうか」

 イベントには出席する。でも覆面作家は維持する。
 にわかには状況を理解できなかったので、失礼ながら「この人は何を言っているんだろう」と思わなくもなかったが、こちらがアレコレ言う立場にないことも事実だ。

「わかりました。依頼元には少し時間が欲しい旨を伝えておきますね」
「よろしくお願いします。あと、そのイベントについて現時点で分かっていることがあったらメールで送っておいてください」

 寺岡の依頼に快諾し、この日の電話は終了した。
 その二日後、寺岡から直接会えないかという打診があった。
 土曜日だったが、高坂は出社して雑務をこなしていた。働き方改革という都市伝説はあいにく我が社とは違う世界線のお話らしい。
 今日は寺岡と会う約束をした日だった。寺岡はA県在住であるが、わざわざ出版社のある東京まで出てくるという。こちらの仕事の都合もあって、打ち合わせ開始は午後七時となった。
 土曜日出社は憂鬱ではあるものの、基本的に仕事は増えることなく、やればやるほど減るのがありがたかった。「土曜日出社は癖になる」という先輩の格言が心に響く。不本意にも快適に雑務をこなしていると、約束の時間を迎えた。
 受付に到着した、という寺岡からの連絡は、約束の時間ピッタリだった。

 来客者用の会議室に案内し、早速打ち合わせを開始する。

「それで…どうしましょうか?」

 寺岡自身が何かしらの考えを持って来ているに違いないので、発言を促すことに徹することにした。

「笑わないで聞いてくださいね」

 寺岡は淡々とした表情で、淡々と語り始めた。

「シンポジウムに出ようと思います。出ようとは思うんですけど…、一つ条件を出したいと思っています」
「条件と仰いますと…」
「覆面をかぶりたいんです」

 覆面作家が覆面?思わず聞き返した。

「覆面って言いました?」
「そう、覆面」
「あの…ギャングとかがかぶっている目出し帽のようなやつですか?」
「そうですね、まだ細かいところまで考えてはいませんが」

 高坂は直感的に「良くない」と思った。
 フクロウの作風であり、ウリは、作品全体に漂う温かい雰囲気にある。意外な展開を織り込んでグイグイと読み進めさせる推進力も魅力ではあるが、結局は溢れんばかりの温かみとか上品さが読者を惹きつけていることは間違いなかった。
 ネットの反応を見ていると、読者が思い描いているフクロウ像は、人格者、常識人、博愛主義あたりが主流だ。
 そんなイメージの作家が、公の場でギャングのような格好で初登場。ファン心理と衝突を起こすことが確実であり、フクロウという作家のブランディングにはマイナスしかない。

「私は断固反対します」
「いや、高坂さんの許可を求めているわけではなくてですね」
「反対です。ふざけすぎと炎上するかもしれません」

 普段は作家の意思が最優先だが、大事な看板作家の暴走を見過ごすわけにはいかない。ここは折れるわけにはいかなかった。

「顔は絶対に隠したいんです」
「でもギャング姿はフクロウのイメージとギャップがありすぎます」
「ギャングの覆面をかぶりたいとは一言も言ってません。顔が隠れれば何でもいいんです」
「じゃあ…せめてサングラスとマスクでどうですか?」

 最大限の譲歩だった。

「それはそれで非常識な感じはしますが…」
「それは、ほら、日光に弱いとか、花粉症だとか、いくらでも逃げ道はあるもの。でも覆面には必然性の説明がつきません」
「ただ、マスクとサングラスではなんとなく顔がわかってしまうじゃないですか。それすら避けたいんです」

 寺岡がここまでこだわるのだから、説得は厳しいかもしれないと思い始めた。

「わかりました。じゃあギャング覆面は止めませんか?」
「先ほども申し上げた通り、覆面の種類にこだわりはありません」
「もうちょっとかわいいのにしましょう。ほら、動物とかの」

 手元にあるスマホで画像検索を行い、寺岡にそれを見せる。

「ほら、こんな感じのやつです」
「馬のやつとかはテレビでもよく見ますね。でもふざけている感じになったりしませんかね…」

 確かに動物の覆面はバラエティ番組で用いられることも多いため、ふざけて見えてしまうリスクはあった。となると、

「フクロウでいいじゃないですか?」
「何の話をしてます?」
「覆面ですよ。フクロウの覆面」
「フクロウがフクロウの覆面?」
「ちょうどいいじゃないですか。そのまんまだから納得感も生みやすいし、ブランディング的にもまあギリギリです」
「フクロウの覆面なんて見たことないのですが、売ってますかね…?」
「なければ特注ですね」
「特注って、作ってくれるということですか?」
「いや、流石に経費で落とすのは難しいので、ご自身で調達頂くことになりますが。あるいは依頼元に頼むとかですかね?」

 市役所にそんなこと頼めないと寺岡はつぶやきながら、しばらく悩む様子であったが、腹を決めたのか、どこかすがすがしい顔に変わり始めた。

「わかりました。フクロウの覆面ということで結構なので、このラインで問題ないか、先方と調整をお願いします」
「覆面の用意はどうします?」
「それはこちらで検討しておきます」

 不安は残るが、最悪の展開を回避できたことにほっとしていた。ただ、そもそも覆面をかぶること自体、市役所側が難色を示す可能性もある。
 神崎はなんて言うだろうか。調整の腕の見せ所だった。
 舞台袖から一歩一歩講演台に向かう。
 大量にたかれるカメラのフラッシュ。マスコミ以外の聴講者も、講演中以外は撮影可能というレギュレーションにしていた。聴講者たちからは、声援のようなものもあがっているが、どちらかと言えば戸惑いと思われるざわつきの方が大半を占めているように感じた。
 覆面をかぶっての登場となるので、それが真っ当な反応というものだろう。

 出演する条件は覆面をかぶること。公的機関のイベントでこれが許されたのは画期的なことだった。何を最優先すべきか、という点で組織の想いが一致したことは大きいと思う。

 ふと聴講者に目を向けると、編集者の高坂の姿が目に入った。本件のキープレーヤーの一人である。高坂のリークから全てが始まった。
 聴講者の中でフクロウの本来の姿を知っているのは高坂ぐらいのものである。彼女はこのシンポジウムで何を思うだろうか。彼女にだけは終了後にもう少し事情を伝えた方が良いかもしれない。
 そういえば、高坂からの連絡をなかなかもらえなくて、やきもきしたこともあった。今となってはそんな日も良い思い出になっている。

 講演台にたどり着き、マイクを手に取る。
 大丈夫、練習したとおりに行うだけだ。
 講演原稿というお守りをポケットに忍ばせながら、講演を開始した。
 企画立案の最初の会議から、十か月が経過し、本番三日前。
 シンポジウムの準備は佳境を迎えていた。

 よくぞここまで来たものだ。
 絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。一縷の望みであった「フクロウ出演」が決まった時点で、このシンポジウムの勝利が確定したと言っても良いだろう。
 フクロウ出演を提案し、交渉したのは他ならぬ神崎自身。この事実が、仕事に対する自信とモチベーションに繋がり、自覚できるレベルで仕事の質が向上しているのだから不思議なものである。

 とはいえ不安要素は残されている。
 出演の承諾にあたり、「覆面をかぶって良いなら」という条件が附されている。この条件は飲むしかなかった。結局、フクロウ以外にシンポジウムを盛り上げるネタを思いつきそうになかったので、どんな形でもフクロウに頼らざるをえなかった。
 そうなると次の論点は、フクロウが覆面をかぶって登場することを事前に聴講者に伝えるかどうか。準備期間中、最も時間をかけて議論したのがこの点だった。
 そして結論は、「事前案内なし」。
 兎にも角にも人を集めることが重要なので、変に混乱を与える情報を発信することは避けることにした。いずれにしても「人気覆面作家が公の場に初登場」というだけでも十分なニュース性であると信じている。

 市のホームページには、このシンポジウムの専用ページまで用意した。聴講者の参加登録は、募集を開始してから定員になるまで一日とかからない盛況っぷり。
 記者クラブへの投げ込みも行い、マスコミ方面のケアもやれる範囲で行っている。
 大丈夫、きっとうまくいく。
 自分の中の期待感も日に日に高まっていくのがわかる。
 フクロウが覆面をかぶって出演することにより、炎上リスクが消しきれないことはわかっている。だが、多少の炎上はむしろ知名度向上に貢献するはずと割り切りの想いすら芽生え始めていた。

 悩みをあげるとするならば、フクロウ出演の決定以降、部長が調子に乗りすぎてしまったことぐらいだろう。
 外回りのたびに、相手先にシンポジウムの宣伝をしているため、企業の重役クラスの来場が続々と決まってしまっていた。無論、部長の役割を果たしているともいえるが、重役の聴講者はこちらとしてもある程度コストをかけてケアする必要があるため、仕事が増える一方である。
 そんな現場の苦労を露ほども理解していない風の、部長から発せられる「自分は良いことをしている感」は、もはや憎悪の対象にすらなりつつあった。
 加えて、本件の経緯からしても、知事、市長もゲスト聴講者として招くことは既定路線となっており、そのケアにかかるコストも相当なものになっていた。
 O市始まって以来の、市役所総動員体制の一大イベントだ。

 神崎は、午後一からシンポジウムに携わる職員を集めて、当日の流れを確認する会議を仕切っていた。その会議もつつがなく終了し、たばこ休憩から自席に戻ったのは午後三時過ぎ。ここからはルーチンの雑務を裁く時間となる。
 息を吸うようにメールの確認をしていると、気になる宛先からのメールが届いていることに気付いた。
 フクロウからのメールだった。

 フクロウとは、高坂に繋いでもらったあと、直接メールをする関係になった。とはいえ、そこでのやり取りは、シンポジウムの開始時間や会場アクセスなど、事務的連絡を一方的に行い、フクロウからは簡素なお礼メールが来る、という程度だった。
 特に脈絡なく、フクロウからメールが来たのははじめてのことだった。
 メールの件名を見ると、「申し訳ありません」。

 恐る恐るメールを開封してみる。

「申し訳ありません。昨日からインフルエンザを発症してしまい、本番までに回復の見込みがありません。今の状態で人前に出る訳にはいかず、今回は残念ながら欠席させて頂けないでしょうか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご容赦のほどよろしくお願いいたします」

 メールの内容にしばらく呆然とし、動くことができなかった。
 何かの間違いではないか、と何度も送受信ボタンを連打してみるが、画面に変化は起きない。
 このメールがフクロウから放たれたことはどうやら事実らしい。

 しかしちょっと待って欲しい。
 もう引き返せないところまで話は大きくなってしまっており、フクロウの出演はその中核中の中核である。絶対に看過できない事態の急変だった。

 電話をしよう!
 気持ちばかりが先走り、何度か番号の押し間違いをしてしまった後に、ようやく正しい電話番号をプッシュした、
 高坂から連絡先は聞いていたが、実際に電話をするのはこれが初めてだった。

 プルル、プルル。
 - 留守番電話サービスにお繋ぎします -

 三回ほど掛けなおしてみたが、無機質な留守電サービスにしか繋がらなかった。絶望的な感覚が身体を侵食し、吐き気がしてきた。
 初めから何もかもが幻だったのではないか、とすら思い始めた。

 元々仕事に対する野心などなかった。いや、今でも野心の有無を問われれば、「無い」と自信を持って答えられる。
 ただ、いかんせん本件は周りも自分自身も盛り上げすぎてしまった。このシンポジウムの仕事を通じて、仕事へのモチベーションがあがり、職場での自身の評価があがり、引き返すことが不可能なレベルで、希望に満ちた将来像を自分の中で確たるものとして形成してしまった。これらは全て、フクロウを呼ぶことができた、という一本足打法がアキレス腱になっていた。
 自分だけの問題であれば、まだ良いかもしれない。フクロウ登場に期待して集められた聴衆やマスコミ。知事、市長をはじめとしたVIPの方々。彼らはどんな理由を並べられようと、フクロウ不在に納得することはないだろう。暴動が起きる、とまでは思わないが、ネットの世界でとんでもない展開になることは十分に考えられる。
 血の気が引いた。
 足が震え、膝から崩れ落ちそうになっている。

 これ以上絶望を一人で抱え込む訳にもいかず、真向いの机でカタカタとパソコンを叩いている寺岡に声をかけた。

「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」

 メールを転送するような悠長なことは言っていられなかったので、寺岡を自席に呼びつけ、パソコンのメール画面を見せた。
 寺岡はパソコンを覗き込むと、しばらく動きを止めたのちにつぶやいた。

「…まずいことになったな」
「どうしましょう。電話もしてみたんですけど繋がらなくて」
「こうなってくると我々だけで判断する問題ではない。課長…は海外に出張中か。とりあえず部長にすぐあげよう」

 重苦しい空気を身にまといつつ、部長のデスクに向かった。