会議終了後、寺岡は職場内に申し訳程度に設置されている休憩スペースに足を運んだ。
 一人でしばらく落ち着きたい。かつてないほど「落ち着きたい」という願望に押しつぶされそうになっていた。
 覆面作家フクロウ。
 まさかこの職場で接点が生まれることがあるとは思わなかった。

 覆面作家と一口に言っても様々なタイプがいる。

・生年月日や趣味などの一部は公表する人。
・公表はするがその大部分が偽情報の人。
・公式に公表せずとも実質バレバレの人。
・その一切を公表しない人。

 フクロウは最後のタイプの覆面作家だった。
 そして寺岡のもう一つの顔だった。

 まさか担当編集が、よりにもよって自分の同僚に情報をリークしているとは…

 本は昔から大好きだった。作文も得意としていた。
 学生時代、作家になることを夢見たことはあった。ただ、それを職業にしようだなんて非現実的すぎて、真面目に考えるには至らなかった。そして現実的な夢である「地元を盛り上げたい」という想いを実現するべく、地元の公務員なった。

 公務員の仕事は性に合っていた。ほどほどに忙しく、ほどほどに落ち着いており、何より地元のために働けるのが何よりのモチベーションだった。
 そんな順調な公務員生活に変化が訪れたのは、市民向けに発行している市民便りに寄稿する機会をもらったときだった。自分の書いた記事に対し、予想外に大きな反響があり、その気持ち良さを知ってしまった。忘れかけていた夢に、少しだけ輪郭が宿ってしまった。

 就業後と週末にコツコツと執筆。
 腕試しに投稿してみた新人賞。
 まさかの入選。
 作家デビューへの打診。
 トントン拍子の展開と立ちはだかる副業禁止規定。

 作家として食べていける自信は微塵もないし、地元に貢献できる公務員という仕事にもやりがいを感じている。
 寺岡の選択は、「全てを公表しない覆面作家」という道だった。

 別にシンポジウム出演を断ることは容易い。
 一方で、このシンポジウムを成功に導かないといけない、という立場もある。自分で言うのも恥ずかしいが、フクロウ登場は魅力的なアイデアだった。

 だが、たかだかこんなイベントに全てを公開するだけの価値があるのだろうか…
 リスクとメリットの天秤がグラグラと大きく揺れ動いていた。

 作家寺岡は、誰にもバレることなくフクロウとしてシンポジウムに出演し、公務員寺岡は、シンポジウム主担当としての職務も全うする。
 こんな奇跡のような二律背反を満たす一手はあるのだろうか?