企画立案の最初の会議から、十か月が経過し、本番三日前。
 シンポジウムの準備は佳境を迎えていた。

 よくぞここまで来たものだ。
 絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。一縷の望みであった「フクロウ出演」が決まった時点で、このシンポジウムの勝利が確定したと言っても良いだろう。
 フクロウ出演を提案し、交渉したのは他ならぬ神崎自身。この事実が、仕事に対する自信とモチベーションに繋がり、自覚できるレベルで仕事の質が向上しているのだから不思議なものである。

 とはいえ不安要素は残されている。
 出演の承諾にあたり、「覆面をかぶって良いなら」という条件が附されている。この条件は飲むしかなかった。結局、フクロウ以外にシンポジウムを盛り上げるネタを思いつきそうになかったので、どんな形でもフクロウに頼らざるをえなかった。
 そうなると次の論点は、フクロウが覆面をかぶって登場することを事前に聴講者に伝えるかどうか。準備期間中、最も時間をかけて議論したのがこの点だった。
 そして結論は、「事前案内なし」。
 兎にも角にも人を集めることが重要なので、変に混乱を与える情報を発信することは避けることにした。いずれにしても「人気覆面作家が公の場に初登場」というだけでも十分なニュース性であると信じている。

 市のホームページには、このシンポジウムの専用ページまで用意した。聴講者の参加登録は、募集を開始してから定員になるまで一日とかからない盛況っぷり。
 記者クラブへの投げ込みも行い、マスコミ方面のケアもやれる範囲で行っている。
 大丈夫、きっとうまくいく。
 自分の中の期待感も日に日に高まっていくのがわかる。
 フクロウが覆面をかぶって出演することにより、炎上リスクが消しきれないことはわかっている。だが、多少の炎上はむしろ知名度向上に貢献するはずと割り切りの想いすら芽生え始めていた。

 悩みをあげるとするならば、フクロウ出演の決定以降、部長が調子に乗りすぎてしまったことぐらいだろう。
 外回りのたびに、相手先にシンポジウムの宣伝をしているため、企業の重役クラスの来場が続々と決まってしまっていた。無論、部長の役割を果たしているともいえるが、重役の聴講者はこちらとしてもある程度コストをかけてケアする必要があるため、仕事が増える一方である。
 そんな現場の苦労を露ほども理解していない風の、部長から発せられる「自分は良いことをしている感」は、もはや憎悪の対象にすらなりつつあった。
 加えて、本件の経緯からしても、知事、市長もゲスト聴講者として招くことは既定路線となっており、そのケアにかかるコストも相当なものになっていた。
 O市始まって以来の、市役所総動員体制の一大イベントだ。

 神崎は、午後一からシンポジウムに携わる職員を集めて、当日の流れを確認する会議を仕切っていた。その会議もつつがなく終了し、たばこ休憩から自席に戻ったのは午後三時過ぎ。ここからはルーチンの雑務を裁く時間となる。
 息を吸うようにメールの確認をしていると、気になる宛先からのメールが届いていることに気付いた。
 フクロウからのメールだった。

 フクロウとは、高坂に繋いでもらったあと、直接メールをする関係になった。とはいえ、そこでのやり取りは、シンポジウムの開始時間や会場アクセスなど、事務的連絡を一方的に行い、フクロウからは簡素なお礼メールが来る、という程度だった。
 特に脈絡なく、フクロウからメールが来たのははじめてのことだった。
 メールの件名を見ると、「申し訳ありません」。

 恐る恐るメールを開封してみる。

「申し訳ありません。昨日からインフルエンザを発症してしまい、本番までに回復の見込みがありません。今の状態で人前に出る訳にはいかず、今回は残念ながら欠席させて頂けないでしょうか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご容赦のほどよろしくお願いいたします」

 メールの内容にしばらく呆然とし、動くことができなかった。
 何かの間違いではないか、と何度も送受信ボタンを連打してみるが、画面に変化は起きない。
 このメールがフクロウから放たれたことはどうやら事実らしい。

 しかしちょっと待って欲しい。
 もう引き返せないところまで話は大きくなってしまっており、フクロウの出演はその中核中の中核である。絶対に看過できない事態の急変だった。

 電話をしよう!
 気持ちばかりが先走り、何度か番号の押し間違いをしてしまった後に、ようやく正しい電話番号をプッシュした、
 高坂から連絡先は聞いていたが、実際に電話をするのはこれが初めてだった。

 プルル、プルル。
 - 留守番電話サービスにお繋ぎします -

 三回ほど掛けなおしてみたが、無機質な留守電サービスにしか繋がらなかった。絶望的な感覚が身体を侵食し、吐き気がしてきた。
 初めから何もかもが幻だったのではないか、とすら思い始めた。

 元々仕事に対する野心などなかった。いや、今でも野心の有無を問われれば、「無い」と自信を持って答えられる。
 ただ、いかんせん本件は周りも自分自身も盛り上げすぎてしまった。このシンポジウムの仕事を通じて、仕事へのモチベーションがあがり、職場での自身の評価があがり、引き返すことが不可能なレベルで、希望に満ちた将来像を自分の中で確たるものとして形成してしまった。これらは全て、フクロウを呼ぶことができた、という一本足打法がアキレス腱になっていた。
 自分だけの問題であれば、まだ良いかもしれない。フクロウ登場に期待して集められた聴衆やマスコミ。知事、市長をはじめとしたVIPの方々。彼らはどんな理由を並べられようと、フクロウ不在に納得することはないだろう。暴動が起きる、とまでは思わないが、ネットの世界でとんでもない展開になることは十分に考えられる。
 血の気が引いた。
 足が震え、膝から崩れ落ちそうになっている。

 これ以上絶望を一人で抱え込む訳にもいかず、真向いの机でカタカタとパソコンを叩いている寺岡に声をかけた。

「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」

 メールを転送するような悠長なことは言っていられなかったので、寺岡を自席に呼びつけ、パソコンのメール画面を見せた。
 寺岡はパソコンを覗き込むと、しばらく動きを止めたのちにつぶやいた。

「…まずいことになったな」
「どうしましょう。電話もしてみたんですけど繋がらなくて」
「こうなってくると我々だけで判断する問題ではない。課長…は海外に出張中か。とりあえず部長にすぐあげよう」

 重苦しい空気を身にまといつつ、部長のデスクに向かった。