手が止まり、思考が止まり、時計の秒針音が場を支配していた。
 会議室中央のホワイトボードは、名前負けしない驚きの白さを保っている。

 A県O市。市役所の地域振興部。
 人口七万人程度の小さな街の市役所業務は、その大半が現状を維持するための業務で占められている中、地域振興部は数少ない前向きな仕事が多い部署で、異動希望者も多いことでも知られていた。
 とはいえこんな片田舎で打てる地域振興施策は、お世辞にも立派なものにはなりえない。予算はもちろん、人的リソースも十分とは言えず、できることに限界があるのは自明の理であった。
 寺岡はそんな地域振興部での仕事に満足していた。前向きな仕事は単純に楽しいし、そもそもこの仕事を選んだのは地元を盛り上げたいという強い気持ちがあったからだ。限られているリソースも、やりくりを考える楽しさに繋がっているし、ともすると揶揄されがちなクオリティも、手作り感があって味がある、とさえ思っている。
 社会人歴八年目。この部署に来て三年目。通例であれば今年度が最後の地域振興部と予想している。二年間で得た経験を糧として、今年度に集大成というべき仕事を成し遂げようと、例年以上に気合を入れて新年度を迎えていた。

 そんな寺岡の気合の出鼻を挫いたのが、この四月に中央省庁からの出向でやってきた新部長だった。地域振興部の部長職は、出向者ポストとなることが最近の人事のトレンドであった。
 出向部長の任期は二~三年と相場が決まっている。そして、その二~三年の立ち振る舞いは、大きく分けると二つのパターンに収束する。
 一つは、平和な地方生活を満喫するパターン。益もなければ害もない。新たな働き甲斐を与えられることはないが、余計な仕事は増えない。
 もう一つが、爪痕を残すことに執着するパターン。残念なことに、爪痕は悪い方向に刻まれることが多い。
 今回の部長は後者のパターンだった。

「地域活性化を目的としたシンポジウムを行いたいと思っています。五百人ぐらいの規模で、マスコミも集めてやりましょう。大切なのは街の名前を知ってもらうことです。どうか皆さん、盛り上げていきましょう」

 新部長は就任挨拶で高らかに宣言した。
 マスコミにも来てもらえるような五百人規模のイベント開催というものが、地方都市にとっていかに高いハードルであるか。それを理解した上での発言か、それとも全く理解していないか。いずれにしても就任挨拶で軽率にそのような宣言をする新部長に対し、周囲の評価は概ね冷ややかだった。

 だが、まだ慌てるような時間ではない。
 年度初日は管理職が集まって、今年度の実施施策を擦り合わせる会議を行うのが通例だった。手練れの課長陣が新部長の肩をほぐし、現実的なラインに業務を落とし込むに違いない。部長挨拶の途中、課長たちが目配せをしあっているのを寺岡は見逃さなかった。

 翌日、事態は悪い方向に傾いた。
 シンポジウム話が軌道修正されていないどころか、その担当として寺岡が指名されてしまったのである。副担当は二年後輩の神崎。社会人歴六年目で、元気だけが取り柄のような男だった。

 後で聞いた話だが、新部長はA県知事と懇意の間柄であった。
 そのため部長就任直前、新部長は知事への挨拶に赴いた。そのこと自体は非難されるものではなく、社会人によくある光景の一つだ。
 問題はこれが単なる挨拶では終わらなかったことにある。知事はO市長にも声をかけ、三者で一席を設けることとなった。そんなご機嫌な時間が世間話だけで終わるはずもなく、アレがやりたい、コレをやるべきだ、アソコには負けられない、エトセトラ、エトセトラ。結局、新部長は就任期間中の目標をまんまと約束させられることとなった。大規模なシンポジウム開催はその約束事の一つだった。
 市役所にとっての市長は、言うなれば社長。
 知事は、指示命令系統にいないといえばそうなのだが、グループ会社を統括する親会社の社長的存在とも言えるので、無碍にはできない。
 その二人との約束となると、手練れの課長陣でも手を出せない聖域となる。
 
 そんな細かい話の一切が割愛され、「とにかくやってくれ」の一点張りで担当にさせられた寺岡は、釈然としない想いを抱えつつも、とりあえず何かしら動くことにした。開催の考え直しを提言するとしても、実行可能性の追求は必要な儀式だ。
 副担当の神崎に声をかけ、記念すべき第一回目の企画会議を早速開催することとなった。

 そして成果は、秒針が響く重苦しい空気と、ピカピカのホワイトボード。
 素案を作らずに会議を始めたことは軽率だったか、と若干の後悔を覚えつつあった。

「寺岡さん、ちょっとブレイクしませんか?」

 一時間にも及ぶ硬直した時を経て、神崎が休憩を提案した。

「そうだな。じゃあ再開は十分後で」

 返事を聞くやいなや、神崎は会議室を飛び出した。おそらく煙草を吸いに行ったのだろう。寺岡は会議室を出る元気もなかったので、ため息交じりに現状に思いを馳せた。
 状況は実に思わしくない。

 最大の頭痛の種は予算面にあった。
 イベント開催に充てる費用は「広報費」に区分される。広報費に限ったことではないが、予算配分は前年度のうちに決定される。
 つまり四月に開催が突如決まったシンポジウムのために追加で広報費が配分されることはない。厳密に言えば、市役所としてバッファー予算が無い訳ではないが、それこそ災害などの緊急対策用であり基本は使わない。
 割り振られた広報費から、このイベントのために捻出できる予算が大きいはずがなかった。寺岡は会議の前に部の予算担当に確認してみたが、残念ながらなのか、当然ながらなのか、会場代だけでほぼなくなる程度の予算しか用意されないだろう、という血も涙もない回答をもらったところだった。

 そして五百人というイベント規模。政令指定都市レベルでも五百人規模のシンポジウムは異例であるが、ましてこの片田舎。予算が潤沢でも厳しい規模である。真っ当に勝負しても負け戦が確定的だった。
 マスコミを呼べるかどうかも不安の一つではあるが、これは最悪地元紙に圧力をかければ…いや、今はそこまで考えるのはよそう。

神崎が会議室に戻ってきた。出口の見えない会議、第二幕の始まりだ。