東出雲町の黄泉喫茶へようこそ

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 午前八時半、私は歩きで十分かけて那岐さんと黄泉比良坂にやってきた。あのしめ縄も柱も年季が入った木製の門の前にふたりで立つ。

 相変わらず向こう側は透けて道が続いており、誰がこの門の先に喫茶店があるだなんて思うだろうか。

 経験したというのに半信半疑なまま立ち尽くしていると、那岐さんが訝しむように私を振り返る。


「早くしろ、行くぞ」

「あ、はい」


 先に歩き出した彼の背に続いて門を潜ると、最初からそこにあったかのようにオーク材の調度品で飾られた重厚感ある空間が広がる。

 蓄音機から流れるクラシック音楽に迎えられて足を進めると、水月くんが羽交い絞めにするようにして陽太くんの頬を引っ張り持ち上げていた。


「なにこれ、どういう状況?」


 隣にいる那岐さんを見上げれば、呆れ顔でため息をついている。


「知らん、俺が聞きたいくらいだ」


 彼らの珍行動を前にふたりで固まっていると、水月くんが待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべる。


「今日から灯ちゃんがうちで働くって言うから、陽太と笑顔で迎えようなって話をしてたんだよ。ほら、人付き合いの基本だろ?」


 水月くん、それだと陽太くんが余計に人間不信になる気がするよ。

 口角を半ば強制的に上げられている陽太くんの目は、まるで死んだ魚のようだ。

 お気の毒に……。

 苦笑いしていると、スカートの裾を引っ張られる。視線を落とせば、浅葱色の袴を着たオオちゃんがつぶらな瞳で私を見上げていた。


「灯、これに着替えるといいぞ」


 渡されたのは黒の膝下ワンピースとフリルがついた白の腰巻エプロン。首元には赤いリボンがついていて、ウエイトレスのような制服一式だった。 


「わあ、可愛いね」


 前職では白衣が基本だったので、こういうお洒落な制服の仕事に憧れていた時期もあった。

――いや、現在進行形で着てみたいという願望がある。


「本当だ、灯ちゃんに絶対似合うよ。那岐もそう思うよね?」


 私の手元にある制服を覗き込んでいた水月くんが、いちばん聞いてはいけない人に同意を求める。

 だって、彼が賛辞を口にするところなんて想像できないし、『馬子にも衣裳』『豚に真珠』と言われるのが関の山だ。

 そう思っていたのだが、那岐さんは「知らん、俺に聞くな」と言って、さっさとカウンターの方へ歩いて行ってしまった。


「素直じゃないな」


 ボソリとこぼしたのは陽太くんだった。

 どういう意味かはさて置き、私を貶さなかったことに驚きだ。彼は口を開けば言葉の凶器が無限と飛び出る、生きた武器庫だから。 

 那岐さんのらしくない態度にすっきりしない気持ちになりながら、私はバックヤードに回って制服に着替える。

 支度を終えて店内に出るのと同時に、喫茶店の扉が開いた。


「おや、噂は本当だったんだねえ」


 物珍しそうに店内を見渡して、目をパチクリさせながら私たちを凝視しているのは八十代後半くらいの年配の女性だ。

短い白髪に優しげに垂れた目尻が印象的なその人は、腰が曲がり前傾姿勢になる身体を杖で支えている。

 私は駆け寄って、その背を支えるように手を添えた。


「席に案内しますね」

「ああ、ありがとう。鳥居を潜ったらすぐここについたから、うっかり腰が抜けそうになったんだよ」


 ほほほと笑うおばあさんだが、尻餅なんてついたら骨が折れてしまいそうなので、笑い事ではない。


「そのうっかりが起きなくてよかったです。まあ、お気持ちはお察しします」


 今日で二回目の来訪になる私も、この状況に慣れていないから。

 曖昧に笑って、おばあさんをテーブル席に案内すると、私は杖を預かって椅子の後ろにかけてあげる。

 そこへ水月くんがメニューを脇に挟みつつ、お冷をお盆に載せて持ってきた。


「ここに来たってことは説明するまでもないと思うけど、会いたい人は決まってる? おばあさんの心づもりができたなら、メニューを持ってその人との思い出の料理を思い浮かべてくださいね」


 お冷を受け取ったおばあさんは、水月くんの言葉に頷いてみせる。


「会いたい人も思い出の味も、ちゃんと決まってるよ」


 メニューを大事そうに胸に抱えて目を閉じるおばあさんは、今頃思い出の料理を頭に思い浮かべているのだろう。

 すぐにメニューが淡い黄金の光を放ち、静かに収まる。それを見計らって「灯ちゃん」と水月くんが目配せしてきた。

 私はおばあさんからメニューを受け取って、カウンターへ歩いていくと那岐さんに渡す。

 それを開いた彼は指先で文字をなぞりながら、口を開く。


「『ハヤシライス』か……灯、手伝え」


 あ、名前呼ばれたの初めてかも――。

 出会った当初から『おい』とか『お前』だったので、衝撃のあまり反応が鈍る私に、那岐さんの目が据わる。


「聞いてるのか?」

「あ……はい! すぐに準備します」


 私は慌てて流しで手を洗うと、那岐さんの隣に並ぶ。彼はまな板を取り出して、牛の薄切り肉を三五〇グラム、ドンッと載せる。


「一センチくらいに切って、塩コショウを振っておけ」


 包丁を手渡してきた那岐さんに「はい」と返事をして、私は牛肉を切ると下味をつけた。

それから玉ねぎ二個を縦に幅一センチ間隔で、マッシュルームは一パック丸ごと石づきを取って幅六ミリ幅に切る。


「灯、マッシュルームはレモン汁をかけろよ」

「え? どうしてですか?」

「切り口の変色を防げるからだ」


 そうなんだ、知らなかったな。

 うちの食堂は和食が中心だったので、作れないわけではないけれど洋食にはそこまで詳しくない。

 勉強になるな、とワクワクしながらニンニクを薄切りにする。続いてフライパンに用意したバターを半分敷くと、牛肉に小麦粉をまぶして入れる。

 小麦粉をまぶしておくと、肉汁が出ないから旨味を封じ込めておけるんだよね。ああ、これ……お母さんに教わったな。

 料理をしてると、いろんな記憶が蘇ってくる。

 料理って、こんなに楽しかったっけ……。

最近まで看護師の仕事に忙しくて、お昼ご飯はおいしさとか健康よりも手身近に済むおにぎりだけなんてことがよくあった。

 気づいたら料理をする機会も減って、朝は食べずに夜は週に二、三回ほどカップラーメンで済ましてたな。

 食堂で働いてるときは、注文された料理を多めに作って夕食に回してたから、手料理でも手間がかからなかった。


「仕事に忙殺されちゃってたんだな、いろいろ」


 小声で呟きつつ、子供の頃にお母さんの食堂を手伝っていたときのことを思い出す。

 常連さんの『灯ちゃんの作ったご飯を食べると、仕事も頑張れるよ』って言葉がうれしくて、料理ひとつでこんなにも人を元気にできるんだって、子どもながらに感動してたな。

 感慨深い気持ちで牛肉を焼いている私の隣では、那岐さんがハヤシライスの煮汁を作っていた。

 鍋に残り半分のバターを敷いて、私が切ったニンニクと玉ねぎを炒めている。

そのふたつがしなって飴色になってきたところで、鍋にマッシュルームを加えた彼がこちらを横目に見た。


「牛肉、こっちに入れるから貸せ」

「あ、はい」


 那岐さんの方にフライパンの取っ手を向ける。彼はフライパンから鍋に牛肉を移し、赤ワインと水を二分の一カップ注いで強火にかけた。


「煮立ったらアクを取れよ」


 そう言って、お玉を渡してくる那岐さんは調味料を用意しながら淡々とした指示を続けていく。


「トマトケチャップ大さじ四杯に、ウスターソース大さじ一杯。ローリエ一枚、塩を小さじ一杯にコショウ少し入れて蓋をしろ」

「まるで、お経のようですね……」


 調味料の名称だけが羅列された那岐さんの言葉に、目が回りそうになる。

 ハヤシライスって、こんなに隠し味が入ってるんだな。


「えーっと、トマトケチャップにウスターソース……」


 あとはローリエ。確かこれって、ゲッケイジュの葉を乾燥させた香辛料だよね。

 ハヤシライスって、つい出来上がってるデミグラス缶を使ってしまいがちだけど、手間がかかるからこそ、コクのあるおいしいルーができるんだろうな。

 記憶を手繰り寄せて先ほど言われた調味料を鍋に入れていると、那岐さんが冷凍庫から凍ったグリンピースを取り出して目の前に差し出してくる。


「十分煮たら、グリーンピースを入れてさらに五分。味は俺が塩コショウで調整する」

「りょ、了解しました」


 軽く敬礼をすると「変なやつ」とさりげなくひどいひと言を浴びせられた。

 いちいちイラついたりしない、大人だからね。
 軽く那岐さんの悪態を流した私は、黙々と作業に集中する。

 おばあさんが、会いたい人と後悔のない最後を迎えられますように。

 最後にそう心を込めれば、おばあさんの思い出のハヤシライスは出来上がった。


「俺が運ぶね」


 水月くんが絶妙なタイミングで現れてくれたので、私はお皿にライスを盛って、ルーポットにルーを注ぐとお盆に乗せる。


「待て、薬味を忘れてる」


 すぐそばで声が聞こえたと思ったら、那岐さんが私の後ろから小皿に入れた福神漬けや紅生姜、らっきょうをお盆に置いた。

 料理を運ぶ水月くんに続いて、私と那岐さんもおばあさんのもとへと歩いていく。


「なんでハヤシライスなの?」


 いつものように店の角席に座っている陽太くんが疑問を口にすると、おばあさんは懐かしむように目を細めた。


「あれは終戦一九四五年から三年後、二十歳のときかしら。初めて純喫茶に行って旦那と……って、そのときはまだ結婚はしてなかったんだけれどね、ハヤシライスを食べたの」

「純喫茶?」


 首を傾げる私におばあさんは口元に手を当てて、ふふふっとからかいを込めた笑みをこぼす。

「昔のカフェはお酒が出てきて、ホステスの接待が受けられる場所のことを言ったのよ」

「え、そうなんですか。キャバクラみたいですね」

「そうね。だから女性にチップを払わない、お酒を扱わない喫茶店を純喫茶って呼んで差別化していたの」


 なるほど、喫茶店の呼び方にそういう意味があったなんて初耳だった。今も純喫茶というふうに名前がついているお店があるけれど、その名残なのかもしれない。


「それで? ハヤシライスを食べてどうしたのだ?」


 話の軸を戻すように、オオちゃんがおばあさんの服を引っ張った。

 彼はちゃっかり、おばあさんの隣で足をぶらぶらさせている。どうやら料理ができるまでの間、おばあさんの話し相手になってくれていたようだ。

 そんなオオちゃんを実の孫に向けるような優しい眼差しで見つめて、おばあさんは「そうだったわねえ」と話を続ける。


「あの人、食べてる途中で告白してくるもんだから、途中から味なんてわからなくなっちゃったの。だから、今度はちゃんと味わいたいなって思ったのよ」

「じゃあ、今日は思う存分、あの日のハヤシライスを心に刻んでってね」


 明るい声でそう言った水月くんが、ゆっくりとおばあさんの前にハヤシライスを置く。そして思い出したかのように、人差し指を立てた。


「死者に出された料理は食べてはダメだからね? あと、料理は一時間以内に食べ終わること。これを破ると、おばあさんも呼び出された黄泉の国の人間も一生このお店から出られなくなっちゃうから」


 もうひとり分のハヤシライスを手に忠告する水月くんは、その禁忌を犯したからこそ言葉の重みをもって念を押す。それをおばあさんも感じ取ったのか、「約束するわ」と返事をして首を縦に振った。

 これから始まるあの世とこの世という境を超えた逢瀬に、オオちゃんも空気を読んだらしい。おばあさんから離れて、私の隣にやってくる。


「後悔のないようにね、おばあさん」


 おばあさんの向かいの席に水月くんがハヤシライスを置く。

カタンッと小さな音が鳴ったのを合図に、前の席にはボールドスタイルの茶色のスーツに身を包んだ男性が現れた。


「ここは……懐かしいな。なあ、千代子(ちよこ)」

「覚えていてくれたんですね、正一(せいいち)さん」


 そう答えたおばあさんの姿を見て、私は驚愕する。

 おばあさんの顔や手からみるみるうちにしわが消えていき、肌や唇にも艶が戻っていくからだ。

 白髪は健康的な黒髪に変わり、装いもウエスト部分から裾が広がっているぺプラムにフレアスカートといった上品なもので、どこかの貴婦人のようにも見える。

 つい数秒前まで八十代のおばあさんだった彼女は、向かいにいる正一さんと同じ、二十代に若返っていた。


「ここは、思いの力を強く反映する」


 魔法みたいだと目を見張っている私に、那岐さんは視線をふたりに注いだまま、小声で説明してくる。


「正一さんから告白されたときのことは、ばあさんの中で色濃く残る思い出なんだろう。見た目は記憶に乗じて変化してるが、中身は老夫婦のままだ」


 私のときとは、少し違うんだな。

 茜はあの日の記憶のままだったけれど、私はこの黄泉喫茶に来た日の私で、一年前の私ではなかった。

過去の私になって、会う必要がなかったからかもしれないけれど。

 でも、おばあさんには過去の姿で会いたい理由があるのかな?

 みんながみんな変われるわけじゃないけれど、この喫茶店では望めば心残りから止まってしまった〝ある時〟の姿で会いたい人に会えるのかもしれない。


「これは夢なんだろうか。また千代子に会えるだなんて」

「正一さん、ここは会いたい人に会える喫茶店なんですよ」

「そうか、不思議な場所だ。なんにせよ、十年ぶりにまた会えてうれしく思う」

 十年ぶりということは千代子さんと同い年だったと仮定して、七十八歳くらいで他界したということだろう。 

「思い出すな、千代子と純喫茶でハヤシライスを食べたときのこと。あなたに告白する機会を今か今かと伺って、無心にスプーンを口に運んでいたから……正直、味もうる覚えだ」

「ええ、本当に。さあ、せっかくだからいただきましょうよ」

「そうだな、いただきます」


 ルーポットを傾けてルーを流し込むと、正一さんはライスと絡めて口に運ぶ。暑いのか、何度か口をほくほくとさせて湯気を吐きながら飲み込んだ。