土曜日の11時ごろに真一さんから携帯に連絡が入った。
「真一ですが、お願いを聞いてもらえますか?」
「何ですか? お役に立てることがありますか?」
「うちの店の工場の経理関係の帳簿を見てほしい。不審なところがないかチェックしてもらえないか?」
「競争相手の店の経理に大事な帳簿を見せてもいいんですか?」
「専務取締役の俺の判断だけど、社長にすべて任せると言われている。いつなら都合がいいですか?」
「今日は土曜日で午後は休みですから午後からならいいです」
「こちらも午後なら休みで事務所には誰もいなくなるから、2時ごろにうちの事務所へ来てもらえないか?」
「分かりました。2時に伺います」
2時に『澤野』の本店の事務所に着いた。もう社員は帰った後で、幸い誰にも見られなかった。
すぐに工場の経理の帳簿を見せてもらって、チェックを始めた。真一さんがざっと目を通したけれど、特段、不審な箇所は見当たらなかったと言っていた。
私も帳簿に目を通していった。一見何も矛盾はないが、気になることが見つかった。原料の仕入れ値が私の店よりもかなり高かった。最近は原料が値上がりしているけれども、これほどは高くはなっていない。
仕入れ先を調べてみると大村商事となっている。住所と電話番号が分かったので、電話してみると電話には出るが話の要領を得ない。会社のある住所へ二人ですぐに行ってみたが、普通の民家だった。
私は、真一さんに「これは大村商事が納入価格を高くして不当に利益を得ている可能性がある」と教えてあげた。実際に大村商事が原料を搬入しているか、真一さんは工場の秋山主任に電話して聞いてみた。原料は今までどおり横山商事が搬入しているとのことだった。
月曜日に私は店に休暇を申請して、二人で横山商事に行って工場に直接原料を搬入している訳を聞いたが、大村商事から直接搬入するように依頼されているとのことだった。
2年前から節税対策のために、取引に大村商事を介したいと太田工場長から直接依頼があったそうだ。因みに大村商事への納入価格を聞いたが、私の店と同じ価格だった。
そうなら帳簿を操作していると考えられる。工場長と工場の経理が係わっていることは間違いない。私が試算した差額は年間1千万円近くだった。これなら収支が悪化することは明らかだ。
すぐに真一さんは調査結果を社長に報告した。社長は「そうか」と言っただけで、溜息をついて「俺の目が届かなかった。すべて俺の責任だ。専務はどうしようと考えているのか」と聞いたそうだ。
社長は工場長がいなくなると製品が製造できなくなるのではと心配していたようだ。真一さんはそれが大丈夫なことを確認して、不正を正す決心をした。そして、私は手伝ってほしいと頼まれた。
私は喜んで協力することにして、店の仕事が終わってから、社員の帰った『澤野』の事務所へ行って、夜遅くまで資料を作るのを手伝った。帰りは真一さんが家まで車で送ってくれた。
真一さんはできるだけほかの社員に知られないように気を使っていた。これが知れると社員が動揺するし、店の信用にもかかわって来る。
まず、真一さんは金曜日の午後に工場経理担当の鈴木さんを本店に呼び出して社長室で経理の不正について問い正した。社長と専務の真一さん、専務の臨時秘書ということで私も立ち会った。
この時、お父さまは見合い相手の私、白石結衣に初めて会った。丁寧なお礼を言われたが、あの時会った石野絵里香とは全く気づく様子もなかった。
経理担当の鈴木さんは入店5年目ということだった。帳簿を見せて、大村商事を通じて高い価格で原料を購入して不当に差額を得ていたことを示すとあっさりとそれを認めた。
鈴木さんは、工場長に言うことを聞かないと辞めさせると脅されて2年前からやむなく従ったと言っていた。そして差額の10%を貰っていたとも話した。もらったお金は使わずに貯めてあり、すべて返すから許してほしいと懇願していた。
真一さんはすべての会話を録音していた。そして本人には明日土曜日は休んで家にいるように言っていた。工場長に連絡したら警察沙汰にするから絶対にするなと念を押していた。鈴木さんは一礼をすると黙って部屋を出て行った。
次に、真一さんは相談があるからと言って、仕事に差しつかえのないように土曜日の午後2時に本店の社長室へ来るように太田工場長に連絡した。
丁度2時に太田工場長が社長室へ現われた。社長と専務がそろって座っているので緊張するのが分かった。私も紹介してもらった。
「これからの会話はすべて録音させていただきます。こちらは私の臨時秘書をしてもらっている白石結衣さんです。経理が専門で工場の帳簿類をチェックしてもらいました。疑問点があったので、工場長に来ていただきました。白石さん疑問点の説明をお願いします」
私は順を追って淡々と疑問点を説明していく。原料の価格が高いことは自分が菓子店の経理をしているから分かったと話した。大村商店がダミー会社であることも調べて分かったとも話した。見る見るうちに工場長の顔が引きつってくるのが分かった。
「すでに経理担当の鈴木君が不正を認めています。正直にお認めになってはいかがですか? お認めにならないのでしたら、警察沙汰になりますが、こちらはそれも覚悟しています」
「私が悪かった。お金はすべて返しますから、どうか警察沙汰にはしないでください。子供も孫もいますから」
「お認めになるのですね」
「申し訳なかった。家の建て替えでつい金がほしくなってしてしまったことです」
「それではダミー会社にプールしてある残ったお金を返して下さい。それからすぐに会社から身を引いて下さい。そうしてくれれば、社長は工場長には長い間世話になったので、警察沙汰にはしないと言っています。いかがですか?」
太田工場長は顔を上げて社長の顔を見た。社長はゆっくり頷いた。それから工場長に今日付けで取締役の辞任届を書いてもらった。また、不正に得たお金の返金の念書を書いてもらった。工場長は深く一礼して社長室を出て行った。
「辛いな、苦楽を共にした仲間を辞めさせるのは」と社長がしんみりいった。優しい方だなと思った。
翌週の月曜日、真一さんは工場へ行って、朝一番に従業員全員に集まってもらって、工場長が一身上の都合で取締役工場長を辞任したことを知らせたという。
工場長は専務の自分が兼任すること、それから秋山主任を副工場長に昇任させることを発表した。それから経理の鈴木さんを営業に異動させることも知らせた。また、本店の事務部門を工場へ移す予定も発表したそうだ。
鈴木さんの扱いについて、真一さんはお父さまに似て、優しいところがあると思った。そしてきっと良い経営者になるとも思った。
真一さんはその日の午後一番で本店の事務所員全員を集めて、同じ内容を知らせた。社長が立ち合った。それから1週間後に取締役会と株主総会を開いた。
真一さんのお父さまが社長を退任して会長に、真一さんが専務取締役から社長になった。副社長はお母さまが留任、経理担当取締役に不正を見抜いてくれた経理部長の山下さんがなった。営業部長は留任、取締役工場長は社長の扱いとして空席としたと聞いた。本店事務部門の工場敷地内移転も決めたという。
これからが真一さんの新社長としての手腕の見せ所だ。
社長の真一さんは店を良くしようと店の機構改革にとりかかった。前の会社では企画部それも一目置かれたエリートだったから、そんなに難しいことではないと思う。
「基本は働きやすくて働き甲斐のある職場にすることだ。そのためには、意思疎通をよくすること、待遇を改善すること、無駄を省くことなども必要だ」と言っていた。
そして、店にはパートの社員も多いので、私に派遣社員の経験からアドバイスをしてくれるように頼まれた。私はパートさんでも能力のある人には重要な仕事を任せて時給をあげてあげることなどを提言した。また、経理の不正が起きないような仕組みも提案した。
真一さんは店の機構改革案にそれを取り入れてくれた。そして出来上がった機構改革案を一番先に私に見せてくれた。
以下はその方策で、真一さんらしさが見えて、よくできていると思った。
(1)今の本店にある事務部門を、本店の販売部門を残して、郊外の工場に移転して、工場の事務部門と統合する。これで本店と工場の意思疎通が改善されるうえ、人件費などの経費削減も図れる。
(2)工場に統合した事務部門は大きな1室にフラットに配置し、社員の意思疎通を図る。社長室は設けないで、事務所の中央に社長席を配置して、いつも社員が社長と話ができるようにする。これで社員との意思疎通と不正防止も図れる。
(3)製品の見直しをすると共に新製品を開発する。新製品開発に当たっては工場に任せきりにしないで、開発チームを作り、各部門の意見を取り入れて行う。チームリーダーは副工場長とした。
(4)待遇の改善を図る。経営にゆとりができたら待遇を改善することはもちろんであるが、年功序列も考慮しつつ、能力のある社員、パートには重要なポストを任せる。給料を抑えすぎると不正が起きやすい。
この機構改革案を見ているといつか前の会社でコピー室に忘れたマル秘書類を真一さんに届けたことを思い出した。それを話すと「あのとき書類を忘れなかったら、同居の話もなかったし、今もなかった」としみじみ言っていた。
それから、お父さまに東京のマンションを手放して負債の返済に充てるように進言したとも言っていた。
そうしたらお父さまは「俺は東京へ出て仕事をするのが夢だった。家業のためにそれをあきらめた。そういうあこがれがあったから、東京のマンションを購入することにした。これは母さんと相談して決めたことだ。母さんは俺のことを分かってくれていて購入を認めてくれた。購入は二人の貯金で賄った。だが、経営が苦しくなって、社長の給料を減らすことになったので、賄えなくなった。だからおまえに維持費の負担を頼んだ。いずれ、おまえが東京で所帯を持ったら譲ろうと思っていた。もう母さんと二人で十分に元は取ったと思っている。おまえの好きにするがいい」と言ってくれたそうだ。
真一さんは私に「東京のあのマンションで結衣さんと暮らして思い出が一杯だけど、その結果、俺は故郷へ帰って店を継ぐことになり、結衣さんとも再会できた。もうここで新しい生活を始めたので不用だから処分したい」と言った。
私もあのマンションには不思議なご縁を感じていたけれども「今は店の再建が最も大切だからそうした方が良い」と賛成した。
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お店の経営改革は順調に進んでいた。古参の役員であった石原経理部長と太田工場長がいなくなったことで、自由な雰囲気が生まれ、若手やパートさんがのびのびして頑張ってくれたと言っていた。
新製品を開発したと言って、試作品を3品食べさせてもらった。そして意見を聞かれた。どれも良くできた製品だった。真一さんは社長の責任で選ぶと言って、その中のひとつを選んだ。
心配しながら見ていたけど、新製品の販売は順調に伸びていると聞いてほっとした。そして真一さんは社長としての自信がようやくついたと言って喜んでいた。
あの工場の経理から異動させた鈴木さんが頑張って売り上げが伸びていると嬉しそうに言っていた。あの時、辞めさせないで良かったとも言っていた。
そしてお父さまが経理の石原さんや工場長の太田さんに温情をかけた意味が身をもって分かったと言っていた。それを聞いて真一さんは立派な社長になると確信できた。
真一さんは、店の経営にも見通しがついてきたので、経理を見てもらったお礼に夕食をご馳走したいと誘ってくれた。
久しぶりで二人でゆっくり食事ができるのでそれに甘えることにした。場所はお見合いをした料亭だった。あそこなら人目にもつきにくい。
ここの料亭へは伯父に一度連れて来てもらったことがあり、料理がとても美味しいと知っていた。部屋で真一さんが待っていてくれた。
私が座るとすぐに料理が運ばれてくる。お互いにビールを注いで乾杯をする。でも真一さんはどこか落ち着かなくてぎこちない。
出て来る料理を次々と平らげている。美味しいお料理なのによく味わっているのかしらと思うほど早く食べている。私はゆっくりと食べて味わっている。
「ここのお料理は本当に美味しいですね」
「そういってもらうと招待した甲斐がある。ゆっくり食べて」
「真一さんもゆっくり味わって食べてください」
「ああ」
「お店が順調になって良かったですね」
「ありがとう、結衣さんのお陰だ。本当にありがとう。助かった」
食べながらたわいのない話をする。でも真一さんは何かほかのことを考えているみたいで気もそぞろだ。
お腹が一杯になったころに、デザートが出てきた。今日は私も少しビールを飲んだ。真一さんと一緒だから安心している。気持ちがいい。最高の気分。
すると真一さんがもぞもぞして坐り直した。そして真剣な顔になって言ってくれた。
「結衣さん、俺と結婚してほしい。どうか俺のお嫁さんになってほしい。お願いします」
深々と頭を下げた。私はすぐに「お受けします。ありがとうございます。とっても嬉しいです」と応えた。
真一さんがこちらへ寄ってきてポケットからケースを取りだして、婚約指輪を私の薬指にはめてくれた。指輪はぴったりだった。そして抱き締められた。私がうっとりしているとキスしてくれた。いい感じ! 私たちは婚約した!
その時「お料理お済ですか?」と仲居さんが襖を開けた。真一さんは驚いて私から離れたが、口には私の口紅が付いていた。しっかり仲居さんに見られたと思う。私たちの様子に気が付いて「失礼しました」と慌てて襖を締めて行った。
良いところだったのに残念だった。私は真一さんの口についた口紅をハンカチでそっとぬぐってあげた。
「帰ろうか、送って行くから」
「はい」
店を出てタクシーに乗る時に、あの仲居さんが「申し訳ありませんでした」と謝っていた。真一さんは「口外しないでくれればいいから気にしないで」と言っていた。でもきっと噂になるだろう。あのカッコいい御曹司が地味な社長の姪といちゃいちゃしていたと!
私を送って別れ際に真一さんは「すぐに伯父さんにご挨拶に行くから」と言っていた。
次の日に真一さんは朝一番で『吉野』の本店に社長を訪ねてきた。そして私と婚約したことを伝えてくれた。伯父は「地味な姪が結婚しないので心配していた。真一さんと結婚することになってこんなにめでたいことはない」と喜んでくれたことをあとから聞いた。
真一さんがお見合いして地味な私と交際していることはもう社員の誰もが知っていた。社長の真一さんは、私と婚約したことを月1回全員で行っている朝の月例ミーティングで報告したという。
パートの年配女子社員から「ご婚約おめでとうございます。社長が見初められたお方だから、よっぽどよい方なんでしょうね」と言われたが「その言い方には全くいやみがなかったし、感じられなかった。結衣さんが褒められているように思えて嬉しかった」と教えてくれた。
私はそれを聞いて、真一さんのお店の社員の方は見る目があっていい方ばかりだと、とても嬉しかった。でもうちの店の社員はあんな噂話をしてと、思い出して悔しさでいっぱいになった。
「私のことはともかく真一さんのことを悪く言われたのが悔しい」と真一さんにいうと、「いつも冷静な結衣さんらしくないね、その恨みは二人の結婚式で果たしてやればいいじゃないか」と言ってなだめてくれた。
結婚式の会場と日程を決めたので、結婚式の司会を頼みに山本隆一さんのところへ二人で会いに行った。
真一さんは電話では二人で行くと言っただけで、あえて婚約者はあの白石結衣さんだとは言わなかったという。
『山城』本店の応接室で待っていると、あの山本隆一さんが現れた。もう老舗『山城』の立派な社長さんだ。
「どうしたんだ! 婚約相手というのは白石結衣さんか? 行方知れずになったと言って大騒ぎしていたのにいったいどうなっているんだ」
真一さんは山本さんに偶然にお見合いで私と再会してからこれまでのことを話した。
「俺も真一が菓子店の社長の地味な姪子さんとお見合いをしたと言う話は噂で聞いていたが、まさかその地味な姪子さんが白石さんだったとは思いもつかなかった」
「やはり、同業では真一さんが社長の地味な姪とお見合いをして付き合っていると言う噂が広がっていたんですね。それもお金目当てだとか言って」
私はその噂をムキになって確認した。山本さんはその噂を否定はしなかった。私はそれでますます感情的になってしまった。
「結婚式では前の絵里香よりもずっとずっと素敵な女性に変身して、その噂話を打ち砕いてやります。誰よりも大切な真一さんが侮辱されました。絶対に見返してやります!」
「まあ、まあ、そう興奮するなよ、そんな結衣さんを初めてみた。俺のためと言ってくれるのが嬉しい」
「おいおい、二人でのろけ合っていないで、俺に頼みってなんだ」
「結婚式の司会を頼みたいんだが、引き受けてくれないか?」
「喜んで引き受けるが条件がある。俺に友人代表の挨拶もさせろ! それが条件だ。おまえも俺の結婚式では友人代表で挨拶しただろう。だから俺にもさせろ!」
「分かった。司会と友人代表の挨拶をお願いしたい」
「承知した」
それから3人でこれまでのことを思い出しながら話をした。山本さんは真一さんの店のことを心配してくれていて、ときどき電話をくれて、経営の相談も聞いてくれていたそうだ。
持つべきものは親友だ。真一さんは良い友達を持っている。山本さんは私たち二人の婚約を心から喜んでくれた。
二人の新居は駅裏の新築のマンションを購入することにした。真一さんの前の会社の退職金を頭金にしてローンを組んだ。ここにいれば、駅の土産物売り場の売れ具合と他店の状況が毎日手に取るように分かるといっていた。さすがに社長らしい。私も賛成した。
結婚式の当日、私はウエディング衣装に着替えて、すっかり綺麗になっていた。今日は皆を見返してやらなくちゃと一生懸命にメイクもした。
母と新郎の控室に挨拶に行った。新郎の控室では着替えを済ませた真一さんが司会の山本さんと打ち合わせをしていた。真一さんもなかなかカッコいい。入って行くと真一さんが私をじっと見てくれた。すごく嬉しそうにしているのが分かった。
山本さんも久しぶりの私の絵里香の姿をじっと見つめていた。「結衣さん、とっても綺麗だね」と言ってくれた。
私はご両親にご挨拶をした。お父さまは綺麗になった私をじっと見て、そしてとうとう思い出した。
「結衣さんは、あのとき真一が私たちに紹介したお嬢さんじゃないのか?」
「そうです。お気が付かれましたか?」
「親父、やっぱり気が付いたか、あの東京のマンションで紹介した石野絵里香さんがこの白石結衣さんです」
「真一、なんであのときチャンと話さなかったんだ?」
「それは・・・・・」
「あの時も驚いたが、今はもっと驚いたぞ。結衣さん、どうか真一のことよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
「母さんは驚いていないけど気が付いていた?」
「ええ、私はすべてを知っていました。ねえ結衣さん」
そう言われて、私は微笑んで頷いた。お母さまは真一さんにこれまでのことを話してあげている。真一さんはそれを聞いているうちに、あまりの驚きに椅子に座り込んでしまった。
「真一、あなたのことを思ってしたことです。あなたの好きなこんな素敵な結衣さんと結婚できて嬉しくないの?」
「嬉しいさ、ただ、驚いているだけだ。腰が抜けた。しばらくはこの衝撃から立ち直れそうにないよ」
「そんなこと言ってないで、二人であの噂をぶち壊すんじゃないの、頑張って」
そう言われて、二人は結婚式場に向かった。真一さんは未だにショックから立ち直れていないみたい。
でも式が進むにしたがって元の真一さんに戻ってきた。キスのためにベールをあげるときにはもうしっかりしていて、優しくキスしてくれた。
披露宴には同業関係者が多く招かれていた。まあ、私たちの結婚式の披露宴は同業者への挨拶を兼ねている。新郎側の主賓は菓子店組合の理事長、新婦側の主賓は私の伯父でもある菓子店『吉野』の社長だ。
二人が入場していくと、驚きの声が上がる。皆が想像していた以上に新婦の私が綺麗だったからだろう。私はこんなに可愛くて綺麗なんです。皆さん見てください! 私は心の中でそう叫んでいた。
真一さんもきっとそう思っていたのだろう。二人は顔を見合わせると思わず笑いがこみあげる。中央の席についても、どよめきがなかなか収まらない。
司会の山本さんの開宴挨拶でようやく静かになってきた。媒酌人の吉本さんの新郎新婦の紹介の後、主賓の挨拶、乾杯、ウエディングケーキ入刀など型通りの披露宴が進んでいく。山本さんの司会はそつがない。
山本さんが自分で友人代表の挨拶をすることを紹介して挨拶を始めた。真一さんは2日前の事前打合で余計なことを話すなと釘をさしておいたと言っていたけど、何を話すのか心配そうだった。
「私しか知らないお二人の馴れ初めのお話をしたいと思います。皆様は当地でお見合いをされて、めでたくご成婚に至ったとお聞きでしょうが、実は違うのです。こうして結婚されましたが、実に運命的な出会いがあったのです。
新郎が東京で働いている時にお父様のマンションに引っ越しをされましたが、維持費が高くつくというので同居人を探していました。たまたま新郎の置き忘れた会社のマル秘資料を届けたのがきっかけで、当時契約社員であった地味な新婦と賃貸雇用契約をして同居を始めました。こともあろうか、私がその契約の立会人でした。
二人の名誉のために申しておきますが、同居している間、二人にはいわゆる男女の関係は全くありませんでした。ただ、二人で生活したことでお互いの気持ちがどんどん近づいて行きました。ご両親がお見えになった時に、新郎はこのように可愛く変身させた新婦を紹介しました。
ところがお父さまに猛反対されて、その後新婦は行方をくらましてしまいました。失意の新郎はお父様が病気に倒れられたので家業を継ぐことを決意してここへ戻ってきたのは皆さま、ご存知のとおりです。
そしてすぐにお見合いの話があって、その相手が何と行方知れずの新婦だったのです。二人とも同郷であることを知りませんでした。何と運命的な再会だったでしょう。
それからは皆さまの知ってのとおりです。どうか皆様、このお二人の運命的なご結婚を祝福していただきたく、親友として心よりお願いする次第です。これで挨拶を終わります」
会場から、どよめきと拍手が続いた。さすが山本さん、とても心の籠った挨拶だった。話を聞きながら、その当時のことを思い出していた。隣の真一さんも同じだと思う。
披露宴は順調に進み、新郎新婦のお色直しもした。お色直しをした私も綺麗だったと思う。再入場すると前よりもどよめきが大きかった。キャンドルサービスをして歩く間、真一さんはとても誇らしげだった。私はその様子を見てとても嬉しかった。
披露宴の終わりに私は感極まって泣きながら真一さんのお母さまに花束を渡した。私はお母さまの心遣いがとても嬉しかった。そして滞りなく披露宴は終わった。
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2次会は社員の皆さんが工場の会議室でしてくれることになっていた。5時に二人はタクシーで会場に到着した。
入口で参加者が拍手で迎えてくれた。花嫁の私を見ると皆、歓声を上げた。皆「おめでとうございます」と言ってくれる。
秋山副工場長の挨拶と乾杯の音頭で立食のパーティーは始まった。皆それぞれ二人のところへ挨拶に来てくれる。披露宴の様子はYouTubeで中継されていた。会場の準備をしながら皆で見ていたと知った。
山本さんの挨拶も皆さん聞いていたようで「運命的な出会いだったのですね、とても素敵ですね」と何人にも言われた。真一さんが一言挨拶をしてほしいと言われて話すことになった。
「今日は社員の皆さんに結婚のお祝いをしてもらってありがとう。友人の挨拶を聞いて知っていると思いますが、私たち二人の出会いは今から考えると運命的なものでした。こうして社長になったのも定めだと思っています。これからも非力な私に皆さんの力を貸していただきたい。どうかよろしくお願いいたします。妻が一言お話したいと言っていますので代ります」
「皆さん、今日はこんなに素敵なお祝いの会をしていただいてありがとうございます。また、祝福のお言葉をいっぱいかけていただいてとても嬉しいです。真一さんと婚約した時に、ここの方から、社長が見初められたお方だから、よっぽどよい方なのでしょうねと言われたと聞きました。それを聞いてとても嬉しかったのを覚えています。私は真一さんを支えてお店のお役に立ちたいと思っています。どうか皆様も社長の真一さんを支えていただけますよう、よろしくお願いいたします」
皆、拍手をしてくれた。真一さんも嬉しそうだった。それから私はパートの女子社員さんたちに囲まれて話をしていた。真一さんは時々心配そうに私を見ていた。
会場を離れる時に真一さんは秋山副工場長に「飲酒運転をしないように皆に言っておいてくれ」と言っていた。真一さんは気遣いのできる人だ。でも社長業もなかなか大変そうだ。
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7時過ぎにタクシーで二人はホテルに帰ってきた。本当は早く二人きりになりたかった。でも部屋につくと疲れがどっと出て座り込んでしまった。
真一さんも疲れているのが分かる。椅子に腰かけたままだ。二人とも披露宴や2次会の立食パーティーではほとんど食べていなかったのでお腹も空いている。真一さんはルームサービスにサンドイッチとコーヒーを至急届けてくれるように頼んでくれた。
何か食べて元気をつけたいと思っていたら、サンドイッチとコーヒーが間もなく届いた。
「結衣さん、サンドイッチとコーヒーが届いた。一緒に食べないか?」
「真一さん、妻になったのですから、もう結衣さんと呼ばないで、結衣と呼び捨てにしてください。お願いします」
私が抱きついたので、抱き締めてキスをしてくれた。一日分まとめて抱き締めてキスをしてくれた。ようやく私は気持ちが満ち足りた。
「結衣、食べて元気だそう」
「はい」
二人ともお腹が空いていたので、すぐに食べ終わった。少し元気が出たような気がした。私は「先にシャワーを浴びます」といって浴室に入った。すぐに真一さんが入ってきた。相変わらずせっかちだ。いつかのように私は「すぐに終わります」といってシャワーを浴びていた。
そして、バスタオルを身体に巻いて出てきた。その後バスタオルを腰に巻いた真一さんが出て来た。私はベッドに入って待っていた。すぐにベッドの私を抱き締める。
「避妊はしなくていいのか?」
「もう結婚したのですから、それに赤ちゃんは天からの授かりものですから」
「分かった」
真一さんは私を力一杯抱き締めてくれた。どれほどこの時を待っていただろう。真一さんの身体の感触を身体全体で感じている。私は抱きついたまま動かない。すごくいい感じだ。でも二人とも疲れていた。そのまま眠ってしまったみたいだった。なんとおめでたい夫婦だ!
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明け方、目が覚めた。ぐっすり眠れた。抱きかかえられて眠っていて、とても温かかった。昨夜はあのまま眠ってしまったみたいだった。目を開けると、真一さんが私の顔を覗き込んでいた。目が合った。
「何もしないで眠ったんですね」
「二人とも余程疲れていたみたいだ。結衣はもう元気になった?」
「はい、真一さんは?」
「もうだいぶ前に目が覚めて結衣の寝顔を見ていた」
「どうして起こしてくれなかったんですか? すぐに可愛がってください。お願いします」
すぐに私たちは愛し合った。真一さんにしがみついて頭の中が空っぽになっていく。あとはよく覚えていない。
愛し合うことに疲れ果てて、二人はまた眠ったようだった。揺り起こされて目が覚めた。私が真一さんを見つめていると、キスしてくれた。おはよう!
今日から2泊3日の新婚旅行に出かけることになっている。今は真一さんのお店が大事な時だから長くは休めない。私も短くていいと言ったので、車で近場の温泉に行くことになった。
最初のドライブ以来、二人でいろんなところへ車で出かけたが、真一さんは宿泊したり、ラブホテルに入ったりはしなかった。
真一さんは人のいないところで私を抱き締めてキスをすれば十分だったみたい。きっとこの再会を大切にしたいと思ったからだ。いや、ひょっとすると地味な結衣ではなく、あの絵里香を抱きたかったのかもしれない。
ホテルからはゆっくり出かければよいので、朝食もゆっくり食べに行った。今日は目的の温泉地の回りをひととおり観光して、チェックインの時間になったらすぐにホテルに入って、二人でのんびり過ごすことにしている。
昨日は結婚式、披露宴、2次会と忙しくてとても疲れた。私が着替えをして出発の準備をしていると真一さんが聞いて来た。
「今日は地味な結衣じゃないんだね」
「ええ、これからは仕事をしている時以外は、絵里香の姿でいたいと思っています」
「それがいい」
「やっぱりその方がいいですか?」
「せっかく、こんなに綺麗で可愛いのにもったいない」
「そう言ってくれて嬉しいです。私は絵里香の姿が災いを招いてしまったと思い込んでいました。そして地味になって本当の私を分かってもらえる人を探して彷徨っていました。それが幸いして、真一さんと出会うことができました。
あの時、真一さんは本当の私を分かってくれましたが、私を好きになってはくれませんでした。真一さんが絵里香の姿をした私を望んでいたのは分かっていました。でも私は地味な結衣にこだわっていました。本当の私を好きになってもらいたかったからです。
でもあんな噂を立てられて真一さんにすごく申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。私は自分の気持ちを満たすことばかり思っていて、真一さんの思いをかなえてあげようとしていませんでした。ごめんさない」
「結衣は本当の自分は地味な姿だと思っているようだけど、絵里香の姿が本当の結衣じゃないのか? 地味な結衣は仮の姿ではなかったのか? 昨日の綺麗で可愛い結衣はとても嬉しそうで輝いていた。誰もがそう思った。あれが本当の結衣じゃないのか?」
「おっしゃるとおりかもしれません。昨日の私は何かから解き放されて自由になって、本当に自分らしかったと思います。これからは自信をもって絵里香の姿でいられます。ありがとう」
私は嬉しくなって真一さんに抱きついた。それからチェックアウトをするために二人でロビーへ歩いて行った。すれ違う人が皆、私を見ている。真一さんも誇らしげに私の手を繋いでいる。今日も良い天気でドライブ日和だ。
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チェックインの時間が待ち遠しかった。すぐに部屋に案内された。私が和室の方が落ち着けると言ったのでこの部屋を予約してくれた。ここは露天風呂が付いてスイートルームになっている。
真一さんはすぐに温泉に浸かりたいので大浴場へ行くという。私もゆっくりお湯に浸かりたいので、浴衣を持って大浴場へ行った。
とても広い大浴場だった。良い温泉だ。温まるしリラックスする。浸かっていると眠りそうになるほど気持ちがいい。今朝、真一さんと愛し合ったことを思い出して、うっとりする。昼間の温泉は心地よくて幸せ!
部屋に戻ると真一さんはもうソファーで缶ビールを飲んでいた。浴衣姿の私をじっと見つめる。
「私も」と言ってサイダー缶を持ってきて、彼の横に座って飲み始める。
「温泉、どうだった? お風呂が好きなんだね」
「ええ、お風呂が大好きなんです。前のマンションのお風呂が気に入っていました。大きくて足を伸ばせて最高でした。いつも長い時間入っていました。お風呂に浸かっていて眠ったこともあります」
「そうか気が付かなかった。お風呂が好きだと初めて知った。今度のマンションのお風呂も広いからよかったね」
「良いところを選んでいただけて感謝しています」
私が身体を寄せると抱き締めてくれた。真一さんはもう我慢ができなくなったみたいで、私を抱きかかえて寝室に運んだ。こんなとき、浴衣はいい。私はなすがままになっている。今朝、愛し合ったばかりなのに、また愛し合う。
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真一さんは私の膝枕で横になって間近に迫る山の景色を見ている。もう紅葉が始まろうとしている。二人だけの気だるい時間がゆっくりと過ぎていく。お腹が空いてきた。もう少しで夕食の準備が始まるみたい。
仲居さんに呼ばれて行くと、豪華な和食が用意されていた。二人きりの食事を始める。こんなゆったりした食事は初めてかもしれない。私はお酌をしてあげる。たわいもない話がとても楽しい。
「食事が済んだらカラオケに行かないか? 確か設備があるとパンフに書いてあった。結衣の歌を久しぶりに聞かせてくれないか?」
「いいですけど、私も真一さんの歌が聞きたいから行きましょう」
食事を終えて一息つくと、私は服に着替えをして化粧もし直した。
「どうしたの?」
「絵里香の歌を聞きたいんでしょう。それならそれにふさわしい服を着たいと思って」
「ありがとう、それなら俺も着替える」
服を着替えて二人はカラオケがあるというラウンジに行った。個室のカラオケ施設もあったが、ラウンジの舞台の方が良いとそこで歌うことにした。幸いまだ早い時間なので他に客はいなかった。
私が「最初は真一さんに歌ってほしい」と言ったので『レモン』を歌ってくれた。次に私も『レモン』を歌った。「あのころを思い出す。あの時の俺の心境だ」と真一さんが言ったので「私も同じです」と言った。
それから私は『君を許せたら』を歌ってあげた。真一さんが好きなもう1曲だ。「私の心境だった。もう思い出の歌になった」と言った。
私は真一さんが好きな『さよならをするために』を歌ってほしいと言った。彼は私を見つめながら歌ってくれた。とても情感がこもっていて上手だった。歌い終わると私は拍手したが、他からも拍手された。もうラウンジには歌を聞きつけて人が集まってきていた。
二人は満足して部屋に戻ってきた。部屋に戻るとすぐに私を抱き締める。
「ありがとう。結衣の歌を聞いて、あの頃を思い出した。あの辛い記憶がよみがえってきて、結衣を抱き締めたくなった。本当に結婚できたんだね。俺たちは」
「私もあの頃を思い出して、今の幸せを噛みしめていました。もっと強く抱き締めて下さい」
二人はどれくらい抱き合っていたのだろう。すぐにでもまた愛し合いたいと思った。
「部屋の露天風呂に一緒に入ろう。身体を洗ってあげよう」
「はい、お願いします」
真一さんが先に入った。私が入って行くとじっと見つめられた。恥ずかしい。真一さんの横に並んで浸かった。
「ここのお湯もなかなかいいですね」
「丁度良い湯加減だ」
温まってきたところで、二人上がって、まず真一さんが私の身体を石鹸で洗ってくれる。背中、お尻を洗って、それから向きをかえさせて、胸からお腹、大事なところ、脚と順に洗っていく。
始めは恥ずかしかったけど、正面を向かせられたらもう観念してなすがままになっていた。洗って貰うと気持ちがいい。うっとりする。
「気持ち良かったから今度は私が洗ってあげる」と真一さんの全身を洗ってあげた。真一さんも気持ちがよさそうだった。
お互いに身体をバスタオルで拭き合って寝室へ向かう。真一さんが冷たい水のボトルを持って来てくれて、二人で同じボトルから半分ずつ飲んだ。
すぐにキスをしてまた愛し合う。今日はもう3回目だけど、何回でも愛し合いたいし、それができる。
私は頭の中が空っぽになって、ただ彼にしがみついているだけだけど、すごく幸せ! こうして二人の絆が深まって行く。
地味な私が偽装同棲した老舗の御曹司を運命の赤い糸で絡め捕ってしまうお話はこれでおしまいです。めでたし、めでたし。
地味な契約社員の白石結衣はコピー室に忘れたマル秘資料を届けたことがきっかけで、エリート社員で老舗の御曹司の篠原真一から彼の父親所有の高級マンションでの同居を提案されます。そして恋愛関係にならないとの賃貸雇用契約をして同居生活を始めます。地味な結衣は親友に頼まれて化粧し着飾って石野絵里香として合コンに参加しますが、そこで御曹司に一目ぼれをされてしまいます。御曹司の両親が見合い結婚を勧めるために上京しますが、御曹司は恋人との同棲を断る口実にするため、結衣に絵里香の代役を頼みます。両親に紹介するときになって、絵里香が変身した結衣だと分かりますが、両親は結婚に反対して、結衣は御曹司に黙って故郷へ帰ってしまいます。2年後、結衣に見合いの話がありその相手が、病に倒れた父親を助けるために故郷へUターンした御曹司でした。二人は交際を始め、結衣は経営危機の会社を立て直す御曹司を助けて、御曹司と結ばれます。