偽装同棲始めました―どうして地味子の私を好きになってくれないの?

昼休みに亜紀からメールが入った。

[今週の金曜日、合コンのメンバーが1名足りないので来てくれない?]

すぐに電話する。

「亜紀、無理よ、まだそんな気になれないから」

「そんなこと言って引っ込んでいないで、気分転換に出てきたら、いつまでも過去を引きずっていたらだめよ」

「そうは言っても、着ていく服もないし」

「服は私が貸してあげるから、結衣に似合いそうな服があるから」

「でも」

「以前の結衣に早く戻ってほしいと思っているの。明日会える? 服を渡すから」

「分かった。とりあえず明日会いましょう。例の場所で6時半に」

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約束のファーストフードで待っていると、包みを持った亜紀が現れた。

「ごめん、少し遅れて」

「気にしないで、でもやっぱり行かない」

「せっかく似合う服まで持ってきたのに、どうしても1名足りないの、だからお願い。座っているだけでいいから、私の顔を立てて」

「分かった。それなら亜紀のために行くから」

「それで、来るときは以前のように可愛い結衣できてほしいの。メガネを取って、お化粧もしっかりして、お願い!」

「はいはい、お世話になっている亜紀のために、できるだけ可愛く変身して行きます。場所と時間を教えて」

「その気になってくれてよかった」

「ところで、先方はどんな人たちなの?」

「先方の幹事さんは有名私立大学の同窓会の幹事をしていると言っていた。私は友人の都合が悪くなって幹事を頼まれただけなの。身元は確かな人たちだと聞いているから」

「まあ、どんな人たちでもいいわ、亜紀の顔を立てるだけだから」

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合コンの日、集合は7時だったけど、15分前に会場に到着した。亜紀と先方の幹事が相談をしていた。その先方の幹事が誰だか遠目でもすぐに分かった。

なんと篠原さんの親友の山本隆一さんだった。こともあろうに同じ会社の人でそれもあの立会人になってくれた山本さんが幹事とは困ったことになった。

亜紀は丁度こちらを見たので、離れたところから、口に人差し指を当てて黙ってと合図して、手招きした。亜紀は私の意図が分かったようで、すぐにこちらへ来てくれた。

「亜紀、大変、あの幹事さん、私の会社の山本さんなの。それも今のマンションの契約をするときの立会人だった人。こんな姿を見られたくない」

「大丈夫、今の結衣なら、あなたの会社の人でも絶対に気が付かないと思う。まず、あの山本さんで試してみる?」

「きっと分かる」

「大丈夫だから」

「分かった。試してみるわ。でも絶対に白石結衣と本名で呼ばないで、私の名前を知っているから」

「じゃあ、何と呼べば良い?」

「ううーん、そうね、絵里香、石野《いしの》絵里香《えりか》と呼んで」

「分かった、絵里香ね、石野絵里香」

「じゃ、試してみましょうか? 石野絵里香さん」

亜紀が私を山本さんのところへ連れて行く。

「山本さん、ご紹介します。こちら石野絵里香さんです」

「はじめまして、幹事の山本隆一です」

「なかなか素敵な方ですね。今日来られる人があなたのような方ばかりだと楽しいですね」

「私は合コンにはあまり出たことがないので」

「座っているだけでいいですから」

「そう言っていただけると気が楽です」

私は幹事の亜紀の隣の席に坐った。そうこうしていると、一人、二人と参加者が集まりだした。両方の幹事が座る席を案内している。来た順に席を詰めて座って行く。亜紀が席に着いたので、小声で話しかける。

「亜紀の言ったとおり、気が付かなかったので、ほっとしたわ」

「言ったとおりでしょう。それにここは少し暗いから余計に分からないと思うわ。自信をもって」

「分かった。それで自己紹介とかはあるの?」

「乾杯が終わったら一人一人簡単にすることになっているけど」

「どうしよう」

「どうせ偽名を使うんでしょう、会社なんかも適当に某商社とか某IT企業とか言っておけばいいでしょ」

「分かった」

7時を過ぎたころには、ほぼ人数が集まった。幹事の山本さんが立って挨拶を始めた。

「本日はお忙しいところありがとうございます。申し訳ありませんが当方の男子1名がまだ到着していませんが、お腹も空いていることですし、すぐに乾杯をして始めたいと思います。喉を潤したところで、簡単な自己紹介をしていただく予定です。それから9時ごろから2次会を予定しています。では乾杯」

乾杯が終わると、皆お腹が空いているので食べ始める。私も目の前にある料理を少し食べた。ここはイタリアンパブなのでピザなどが並んでいる。

しばらくして皆のお腹が落ち着てくると、幹事の山本さんから順に自己紹介が始まる。長くしゃべる人、簡単に済ませる人、ひとそれぞれだけど、聞いていると人柄が出ている。

私の番になったので、名前は石野絵里香、勤務先は某商社と言うことにした。合コンは久しぶりで人数合わせに急遽頼まれてきたことを素直に話した。

ひととおり自己紹介が終わると前の人や横の人など関心のある人と話し始めている。私は亜紀が山本さんと話をするのを黙って聞いていた。正面の人が私に話しかけるが、ほどほどの返事しかしないので、すぐにあきらめた。人の話を聞いている方が面白くてためになる。

8時近くなって男子が1名会場に来た。すぐに幹事の山本さんが話をしに行く。よく見るとその人は篠原さんだった。まずい! 小声で亜紀に話しかける。

「亜紀、大変、篠原さんが来た。どうしよう」

「私は前に一度会っているね、私を覚えているかしら?」

「分からない。あのとき亜紀はすぐに帰ったから。でも亜紀も今日は化粧をしっかりしているし、どうかな」

「私のことが分からなったら、結衣は絶対に分からないから心配しなくてもいいわ。石野絵里香をしっかり演じていればいいから」

「分かった」

山本さんが遅れてきた篠原さんを皆に紹介する。

「こちらが俺の親友の篠原真一君だ。歳は32歳、決まった相手はいないと聞いているから、今日来てもらった」

「篠原真一です。隆一と同じ会社に勤めています。どうぞよろしく」

皆、立ち上がって、乾杯をした。篠原さんは一番遠くの端の席に座った。まずは一安心。会場はもう前の賑わいに戻っている。

時々、篠原さんの様子を伺う。前の席の女子と話をしながら食べている。このまま離れていれば大丈夫だと思う。

篠原さんが席を立った。トイレかなと思っていると、私の斜め前に座っていた男子がトイレに立った篠原さんの席に移った。困ったなと思っていたらトイレから帰ってきた篠原さんが空いていた斜め目前の席に座った。

私は彼と目を合わせないように隣の女子の話を聞いて相槌を打っている。ひょっとすると見られている? 視線を感じるがそっちを見ないようにする。幸い話しかけてはこない。

すると一番端の席が空いたのが見えた。なにげなく席を立ってその空いた席に移った。これで一安心。でもどうも視線を感じる。

私の前の席が空いた。きっとここへくる。どうしよう。やっぱり、篠原さんがすぐにきた。そして今度は話しかけて来た。

「ほかの人の話を聞くのが好きなんだね」

「はい、私は話すのが苦手なので」

目を伏せて、顔を見ないように、彼を避けるようなしぐさをする。これで諦めてくれれば良いと思っていた。でも諦めてくれなかった。

「折角だから話をしないか?」

「今日は頼まれて人数合わせでここへ来ただけです。ですから」

「俺も幹事の隆一に人数合わせで呼ばれたから来ただけだから」

「そうなんですか」

「じゃあ、同じ助っ人ということで話そう」

「本当に話し下手なので、お話を聞くことは好きですから、何か話してください。身のまわりのことだとか、自己紹介でもいいです」

「そう言われてもなあ、自分のことはあまり話したくないな、自慢するみたいで」

「それならどうして来られたのですか? 彼女を見つけるためではないのですか?」

「話をしたら彼女になってくれるのか?」

「それは」

「君もここへ来たというのは頼まれたからだけじゃないだろう。その気があったからだろう。いい男がいないかと」

「私はどうしてもと頼まれたからです。この服も貸してもらいました」

「そうなのか、道理で会社帰りには見えなかった」

「家で着替えてきました」

「名前はなんというの?」

「名前ですか?」

「教えてくれてもいいじゃないか?」

「石野、石野絵里香です」

「絵里香か、いい名前だ。歳は大体想像がつく」

「確か、幹事さんが篠原さんと紹介していましたね」

「そうだ。彼とは同じ会社の同期で親友だ」

「良い会社にお勤めなんですね」

「それほどでもない。いいかげん辞めるかもしれない」

「そうなんですか?」

「先のことは分からないからね」

そこで、幹事が「この場はこれでお開きにして2次会に移りたい、会場は隣のビルのカラオケを予約してある」と言っている。助かった。これで帰ろう。

亜紀のところへ行って帰る挨拶をする。

「私はここで帰ります」

「カラオケも付き合って、全員行くから、お願い」

「でも」

「篠原さんは気が付かなかったでしょ、大丈夫だから、お願い」

「分かった」

しぶしぶ付き合うことになった。篠原さんとはできるだけ離れた席に坐ろう。

カラオケ会場は1次会のイタリアンパブのすぐ隣のビルだった。10人は入れる大きめの部屋に全員が収まった。ここで11時くらいまで交代で歌うのだという。私は一番端に席を取った。でも篠原さんが私の隣に席をとった。

歌が始まった。ここはステージがあるので歌い手はステージへ行って歌う。私は横を見ないようにして、歌い手の方を見るようにしていた。篠原さんは話しかけてこない。でも視線は感じている。

私に歌の順番が回ってきた。亜紀が歌ってと向こうから促していた。カラオケは練習してきたこともあるので思い切って歌ってみることにした。曲は『レモン』にした。

歌い出しは上手く曲に入れた。淡々と情感を込めて歌う。歌っていても良い曲だと思う。長い曲だけどほとんど音程を外すことなく歌えたと思った。皆、すごく拍手してくれた。ほっとして席に戻ってきた。

「とても上手だね」

「相当練習をしましたから。もともと歌を聴くのは好きですが、歌うのは苦手です」

「ほかに好きな曲はないの?」

「もうひとつありますが、それも練習中です」

「そのうち、聞かせてくれないか」

「うまくなったら歌ってみます」

「是非、聞かせてほしい」

今度は篠原さんの番だ。曲をセットしてステージへ行った。歌い始めたが、初めて聞く曲だった。曲名は『さよならをするために』という曲だと分かった。あのときの『レモン』も上手だったけど、この曲もとても良かった。歌は上手いみたい。

「良い曲ですね。センスがいいです」

「そういわれると悪い気がしない。ほめ上手だね」

「選曲で人となりが分かります。結構、センチなんですね。そうは見えませんが」

「確かにそうかもしれない。でも初めてそう言われた」

「私も今の曲、好きになりそうです」

「同じセンスなのかもしれないね」

「どうでしょうか?」

それから私はできるだけ歌を聞くようにして篠原さんとはお話をしないようにした。彼は私のことを只見ているだけになった。そっけなくしたからあきらめた?

私に2巡目が回る直前に時間になった。席を立とうとすると彼から携帯の番号を聞かれた。ごめんなさいと丁寧に断った。携帯は1台しか持っていないのに、携帯の番号なんて教えられる訳がない。

すぐに亜紀のところへ行って、これで帰ると挨拶をすると、急いでその場所を離れた。ここからマンションへは歩ける距離だ。急いで小走りに帰る。篠原さんよりも早くマンションにたどり着いていなければならない。息が切れた。後ろを振り返るけど、誰もいない。

エレベーターに乗って、部屋の入口まで来てほっとした。

まさか先に帰っていることはないだろう。静かに玄関ドアを開けると、篠原さんの靴が脱いであった。先に帰っていた。まずい! 静かに玄関ドアを閉めたつもりだけど、音が響いた。

急いで、靴を仕舞って、部屋に走って入る。後ろの方から「おかえり、おやすみ」と声をかけられた。びっくりした。私の姿を見られた? 大丈夫だと思う。篠原さんの部屋のドアは閉まっていたから。

部屋のうち鍵をかけて、ほっとした。先に帰っているとは思わなかった。すぐにお風呂に入って化粧を落とした。疲れた! でもお風呂は気持ちいい。心地よい疲労。お風呂で眠りそうになる。

それにしても思いがけないことばかりの一日だった。まさか、篠原さんと合コンで鉢合せするなんて想像もしなかった。幹事が山本さんであったので悪い予感はしていた。

でも篠原さんは間違いなく私に関心を持った。地味ないつもの私に持つ関心とは別の女性としての関心だと思う。見た目でこうも接し方を違えるものなのか? 

今日の私は地味なスタイルになる前の着飾った私だった。コンタクトをして、髪形を変えたし、お化粧も工夫していたので、結構可愛かったと思う。でも今の私にとって、絵里香は仮の姿でしかない。

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翌朝は目が覚めるともうお昼に近かった。疲れていたこともあってぐっすり眠れた。合コンは疲れたけれども結構ストレスの解消になったと思う。

篠原さんもお昼頃まで寝ていた。彼が起きたところで私は掃除と洗濯を始めた。

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月曜日の昼休みに亜紀から携帯に電話が入った。

「結衣どうだった? 彼より早く帰れた?」

「急いで帰ったけどもう帰って来ていた。でも、そっと部屋に入ったからバレなかった」

「ごめんね、無理に参加してもらって、山本さんがあなたの会社の人とは知らなかったの。大学の友人の紹介だったから」

「でも結構スリルがあってストレス解消にもなったわ、ありがとう」
その週の水曜日、昼休みに亜紀から携帯に電話が入った。

「結衣、相談があるんだけど、この前の合コンの幹事の山本さんから連絡があって、あの篠原さんが絵里香を気に入ったみたいで、もう一度会いたがっているから、都合を聞いてもらえないかと頼まれた。どうする?」

「どうするって言われても」

「もう一度会う? それとも結衣から篠原さんに絵里香は私だって話す?」

「どちらもいやだなあ」

「結衣は篠原さんから女としては見られていないんでしょう?」

「そうです。全くの対象外」

「それなら、絵里香になり切って、篠原さんを翻弄して、見返してやったらどうなの? それが一番のリハビリになると思うけど」

「あまり気が進まないけど」

「山本さんも篠原さんも絵里香が白石結衣だとは夢にも思っていないから、とりあえずもう一度会ってみたら?」

「うん、でも1対1では会いたくないわ。また合コンでもあれば行っても良いけど」

「じゃあ、そう伝えるね。それから絵里香さんは今、男性不信だからお付き合いはしたくないみたいだ、とも言っておくから」

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その日、夜遅く、亜紀から電話が入った。

「山本さんに1対1では会いたくないから、合コンでもあったらまた参加すると言っていると伝えたら、亜紀と私、山本さんと篠原さんの2対2ならどうか? といわれた。それならいい?」

「亜紀が一緒に来てくれるならまあいいけど」

「分かった。それならそう連絡するね」

すぐに亜紀から電話が入った。

「今週の金曜日8時からどうかといってきたけど都合は?」

「大丈夫、いつも夜は空いているから。でも長くても2時間くらいの方が良いわ。カラオケなら2時間くらいでも間が持つから良いと思う」

「じゃあ、8時からカラオケでどうかと言ってみる」

「亜紀に任せるわ」

「私も山本さんは悪くないと思っていたから丁度よかった」

結局、今週の金曜日8時集合、2対2でこの前の2次会の会場でカラオケをすることになった。

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約束の金曜日が近づいて来た。相変わらず篠原さんは私を女として見ていない。せいぜい、年配のおばさんくらいにしか思っていない。次第に絵里香になって見返してやろうという気になってきた。

絵里香に変装するのは良いとして、そのまま帰ってきて、この前のように篠原さんが先に帰ってリビングダイニングにいたら鉢合わせしてばれてしまう。

行きは、篠原さんは会社から直接行くだろうから、私は一度帰ってきてここで着替えていけばよい。でも、帰りはどこかで着替えて地味な結衣に戻って帰って来た方が良さそうに思う。

マンションのロビーの女子トイレで着替えて化粧を落とすという方法もある。そうしよう。それが無難だ。

明日、着ていく服を探す。亜紀からこれ以上借りる訳にもいかない。派手な服は処分したので、おとなしいシックな服は残してあった。まあ、これでいいか? 服を合わせてワクワクしている自分に気が付いた。いやいや行くのにどうしてか分からなかった。

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金曜日、仕事は定時に終えることができた。用事を頼まれないうちに退社する。急いでマンションに帰って、シャワーを浴びてから、着替えて、お化粧をする。夜だから少し濃い目にする。

亜紀と7時に会って夕食を一緒に食べることにしている。まあ、事前の作戦会議みたいなもの。カラオケのあるビルはそこから歩いて4~5分の距離にある。

その近くの割安のレストランに行く。時間には間に合った。先に亜紀がいて席を取ってくれていた。

「亜紀付き合ってくれてありがとう」

「結衣のことが心配だから。付き合ってみようと思えば、地味な結衣だとばらせばいいだけのこと。気楽にいけば」

「そうでもないの。何か納得のいかないところがあって」

「納得って」

「私の意地かな。地味な私には見向きもしないで、可愛いだけの絵里香に惹かれるなんて。だから、男は信用ができない」

「そうむきにならないで冷静に彼を観察したらどうなの? 違う一面が見えるかもしれないから」

「裏の顔はよく見ていると思うけど、どれが本当か分からない」

「どちらも本当の彼よ」

「まあ、じっくりと見極めてみます」

「気の済むようにしたらいいわ」

8時少し前になったので、店を出た。集合場所はここから目と鼻の先だ。遠目で待っている二人が見えた。近づくと篠原さんは亜紀のことをじっと見ている。あの時、会っているから思い出さないといいけど。

挨拶を交わすと山本さんが私たちをエスコートしてカラオケ店へ入る。その後から篠原さんが続いた。約束どおり時間は2時間にした。

案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れてよかった。私たちは奥側の席に座った。飲み物を注文した。山本さんたちはハイボールを頼んだけど、私たちはノンアルコールでウーロン茶とジンジャエールにした。

最初は話がしにくい雰囲気なので、山本さんが「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。幹事を頼まれるだけはある。気を使ってくれている。山本さんが歌っている間、私はずっと歌うのを見ていた。

篠原さんが私をずっと見ているのは分かっていたが、目を合わせないようにした。終わると拍手をする。続いて、亜紀が1曲歌う。私は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。

「彼女、名前は何と言ったっけ?」

「山内さんです」

「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がするけど」

「この間の合コンでしょう」

「そうかな、まあいいか。それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」

「はい、お願いします」

篠原さんが歌い始めた。この前の『さよならをするために』を歌う。この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。私の方を見て歌うので見ていないとしょうがない。歌い終わると拍手をする。篠原さんは嬉しそうだ。

次は私の番になった。あれから何回か練習したので少しは上手くなったと思う。終わると皆、拍手をしてくれた。

「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」

「あれから練習しましたから」

「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」

「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」

「じゃあ、その気がないこともない訳だ」

「今はお付き合いなんかしたくありません」

「少しリハビリをした方がよいと思うけど」

「リハビリしても元に戻らないこともあります」

「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」

「話したくありません」

「彼女には聞いてもらったんだろう。男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」

「まあ言われてみれば、全く無関係の人だから、差し障りはないかもしれませんね」

「話す気になってきた?」

「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」

「してもらえなかった?」

「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」

「難しいところだね」

「それで山内さんに相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」

「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」

「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことにして分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」

「俺だったらそんなことはしない。君を守ったと思う」

「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」

「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」

「どうしてですか」

「いずれ辞めようかとも思っているからだ」

「それならそういう発言もできると思います」

「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」

「ううーん、そうだね」

「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」

「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」

さすが山本さん、私たちが感情的になりそうなのを聞きつけて仲裁に入ってくれたみたい。気遣いのできる人だ。これ以上この話はしたくない。

今歌っている曲は私の知らない曲だ。それに篠原さんは考え事をしているのか情感が入っていないのが分かる。終わったので拍手をする。

「次は君の番だ、新曲を頼みます」

「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」

「それも俺の好きな曲だ」

人前でこの歌を歌うのは初めてだから緊張する。でも情感を込めて歌えた。上手く歌えたと思う。最近ではこの曲が一番好きで、つい感情移入してしまう。

「これが今の君の心境なのか?」

「どうお思いになるかはあなたの自由です」

「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出せない。申し訳ない」

「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」

「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」

亜紀が山本さんと話している。二人は気が合うみたい。時々二人でこちらを見るのは私たちのことが気になっているのか、私たちを話題にしているのかどちらかだ。そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。

「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ。幹事同士で気が合うみたいだな」

「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」

「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」

「分かりません?」

「携帯の番号を教えてくれないか?」

「ダメです」

「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」

「じゃあ、メルアドだけなら」

携帯の番号はもう篠原さんには教えてある。ここで同じ番号を教える訳にはいかない。メルアドはいくつかあるから、グーグルのメルアドを教えた。アドレスには名前が分かるような綴りは入っていない。

メルアドを教えてあげたら、篠原さんは安心したみたいで落ち着いて来た。それで二人で亜紀と山本さんが歌うデュエット曲をずっと聞いていた。それから私たちも一曲デュエットした。

約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、私と亜紀、篠原さんと山本さん。彼らは飲み直すと言っていた。私たちは少し行ったところで分かれた。

急いでマンションに戻ってきた。この時間にはもうコンシェルジェはいない。まだ、篠原さんは帰っていないと思うけど、念のため、ロビーの化粧室でメイクを落として、持ってきていた黒のスーツに着替えた。

メガネをかけて髪を後ろに束ねて、地味な結衣に戻った。部屋の玄関を入ると、篠原さんはやはり戻っていなかった。

私が帰ってから丁度1時間後に篠原さんが帰ってきた。丁度お風呂から上がって一息ついたところだった。「ただいま」というので「おかえり」と返しておいた。機嫌のいい声だった。

ベッドで横になっていると、メールが入った。篠原さんからだった。[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と書かれていた。

すぐに返信した。[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]
篠原さんにメルアドを教えたら、あれから毎晩メールが送られてくるようになった。まあ、できるだけ返事はしてあげるようにしている。

一度、篠原さんがリビングダイニングでスマホをいじっていると思ったら、私のスマホにメールの着信音が鳴った。驚いてスマホを見ると篠原さんからだった。

篠原さんには私のスマホの着信音が聞こえたと思うけど、私にメールを送っているとは全く気が付かなかった。さすがにその時はその場で返信するとまずいと思ったので、部屋に戻って寝る前に返信した。

まあ、メールをもらったら儀礼的な内容を返信する。それに私からはメールをしなかった。

そのうち、二人だけで会いたいと言う内容のメールが増えた。食事を一緒にしたいとか、また、絵里香の歌を聞きたいとか、でも何がしかの理由をつけては断っていた。「食事ならいつも朝食を一緒に食べています」と言いたかった。

いつまでこういう実りの無いメールを送って来るのだろう。逃げるとなおさら追いかけたくなるのだろうか。困ったものだ。

とうとうどういう条件なら会ってくれるのかと聞いてきた。これには困った。「会う必要はありません。もう毎日会っています」が本音だけど、これを言う訳にもいかない。

しかたがないので条件を出した。周りに人がいる場所であること、高級なところでないこと、割り勘にすること、週末の8時以降、1時間くらいということにした。

すぐに返信が来た。シティホテルの最上階のラウンジを提案してきた。なるほどそこなら周りに人もいるし、雰囲気もいい。テーブル席をとればゆっくり話ができる。値段もまあそこそこだ。さすが篠原さん、こういうことには慣れている。

私はその提案を受け入れた。そして来週の金曜日の8時に会う約束をした。ここまで言われたので、会う約束をしてしまった。まんざら悪い気はしなかった。

いつもの私には目もくれない篠原さんがこうまで言ってくるのがおかしくもあった。男の人は見た目だけでこうも違う扱いをするの?

************************************
約束の時間にラウンジに着くと、もう篠原さんは来ていた。そして私の来たことに気が付くと手を振って合図してくれた。

窓際の席に近づくと、私の姿をじっと見ているのが分かった。今日は私が昔着ていた服にした。毎回、亜紀から借りる訳にもいかない。

元々学生時代からぎりぎりの生活をしていたから就職して自由に服が買えるようになっても、できるだけ長く着られる流行に左右されないデザインの服を選んでいた。夜だから派手にすることもないと思ったので今日のコーディネイトは直ぐに決まった。

「また会えてうれしい。よく来てくれたね、飲み物は何にする?」

「ジンジャエールでお願いします」

篠原さんはすぐにジンジャエールとジョニ黒の水割りとつまみを何品か注文してくれた。注文した飲み物が来るまで間が持たないので、私が先に口を開いた

「私と会いたいとおっしゃって言いますが、何が目的ですか?」

「目的?」

「どういうことを考えているんですか?」

「独身の男女が会うのに理由がいるのか?」

「それを聞きたいのです」

「俺は君に会ってどことなく惹かれた、いや頭の中から君が消えないんだ」

「私のどこに惹かれたんですか?」

「はっきりとは言えないんだが、君は綺麗でとても可愛い。それに時々見せる悲しそうな何かに惹かれる」

「それで私と会ってどうしたいんですか?」

「君のことをもっと知りたいと思って、それじゃだめなのか?」

「もう十分に分かっていらっしゃるじゃないですか?」

「何も分かっていない。だから付き合いたいんだ。自分から付き合いたいと思ったのは君が初めてだ。そして、付き合いたいと言ったのもこれが初めてだ。いままでこんな気持ちになることはなかった」

「綺麗で可愛いとおっしゃいましたが、綺麗で可愛くなかったら、どうなんですか?」

「どうって?」

「もし私があまり可愛くなかったらどうなんですか?」

「うーん、そうだな、どうか分からない」

「じゃあ、外見が好きなだけじゃないですか」

「だから、付き合って君のことが知りたいと言っているんだけど、普通はそうじゃないのか」

「そうかも知れませんが、私はそういうのはいやなんです」

「君の言っていることがなかなか理解できない」

「あなたには理解できないと思います。だから、お付き合いを躊躇するんです。本当の私を見てくれそうに思えません」

「恋人に守ってもらえず裏切られたと聞いたけど、そのことが何か関係しているのか? 俺は恋人を裏切ったりは絶対にしない」

「どうしてそう言い切れるのですか? ご自分の将来がかかっていたとしたらどうですか?」

「仮定の話には答えられないな」

「そうでしょう。確信がないでしょう」

「私を守ると誓えますか」

「今の段階では付き合ってもいないから何とも言いようがない」

「私があなたの恋人になったとしたら、裏切らないと誓えますか、守ってくれますか?」

「その時は約束する」

「人を見かけから好きになる人は本質を見ることができないのではと思っています。私は本当のあなたを見たいと思います」

「それなら付き合ってくれるのか?」

「はい、お望みならば、お付き合いします」

「よかった。ありがとう」

「もう一緒に暮らしているのですよ、いまさら、ありがとうですか?」と言いたかった。

後は何を話していたか、覚えていない。元彼を思い出して随分と愚痴や不満を言っていたような気がする。

篠原さんはお付き合いすると言われたことで舞い上がってしまったようで、私の話をずっと聞いてくれた。思いのほか優しかった。

1時間の約束だったので、9時に私は帰って来た。一緒に帰ろう、送ろうかとも言われたが寄るところがあるからと言って一人でラウンジを後にした。篠原さんはもうしばらくここにいると言っていた。

篠原さんとお付き合いをする約束をしてしまった。強引と言うか一途な申し出を断れなかった。まあ、嬉しかったのかもしれない。

元彼にもあんなに強引に付き合ってくれとは言われなかった。どちらかというと私の方が積極的だったような気がする。好きな人より好きになってくれる人がよいのかもしれない。

少し浮き浮きした気持ちで帰ってきた。マンションにはもうコンシェルジェはいない時間だった。ロビーの女子トイレで地味な結衣に戻った。マンションの部屋には篠原さんは戻ってきていなかった。

私の部屋で一息ついていると30分ほどして篠原さんが戻ってきた。「ただいま」の声が聞こえたので「おかえりなさい」と返した。

すぐに篠原さんからメールが入った。[今日はありがとう。付き合ってくれると聞いて嬉しかった。おやすみ]

すぐに返信した。[今日はお話ができてよかったです。少しだけあなたのことが分かりました。おやすみなさい]
今日は帰りが遅くなった。4半期の決算が近づいているので何かと忙しい。7時に着いて夕食の支度をした。いつもならそろそろ篠原さんが帰ってくるころだ。

夕食を食べていると、篠原さんの部屋のドアが突然開いて、パジャマ姿の彼が出てきた。

「帰れられていたんですか? 気が付きませんでした」

「体調が悪いので早退して、部屋でずっと寝ていた」

「大丈夫ですか?」

「風邪か、インフルエンザかもしれない。熱がある」

「お医者さんに診てもらいましたか?」

「いや、たいしたことはないだろうと思って様子を見ることにした」

「お薬は飲んだのですか?」

「頭も痛いので解熱鎮痛剤を飲んで寝たら汗をかいた。今着替えをしたところだ。俺に近づかない方がいい。移るといけないから。それに手をよく洗ってうがいをしておいた方がいい」

「私に何かできることはありますか?」

「特にないけど、何かあればお願いする。その時は携帯に電話するから」

「そうしてください」

篠原さんは冷蔵庫から、買ってきたというサンドイッチとケーキとポカリを取り出してすぐに部屋に戻っていった。そういえば冷蔵庫に買ったはずのないものが入っていた。

私に移さないように部屋でひとり食べるつもりだ。ひどくならなければいいけど。

夜中に物音がするのに気づいた。もう4時を回っていた。ドアを開けて顔を出すと篠原さんがいた。

「大丈夫ですか?」

「喉が渇いたから、飲み物を取りに来た」

「電話してくれれば、持って行ってあげたのに」

「折角眠っているのに起こすのも悪いと思って」

「こんな時は遠慮しないで下さい。それより本当に大丈夫ですか?」

「寒気がして熱が出た。解熱剤を飲んだら、また汗をかいて、下着やパジャマを取り換えた」

「下着やパジャマはまだ新しいのはあるのですか」

「もう一組くらいはあるから大丈夫だ」

「熱は?」

「今は37℃。これより下がらない」

「明日、医者にかかった方がいいです。必ず行って下さい」

「様子をみてからでいいだろう」

「必ず行って下さい。約束してください」

「分かったよ。それほどまでいうなら行くよ」

「朝になったら、朝食を準備して、洗濯をしますから、それまでゆっくり休んで下さい」

篠原さんは部屋に戻った。熱があるのか、辛そうだった。

************************************
7時に篠原さんの部屋のドアをノックする。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。今、熱を測る」

「どうですか?」

「38℃ある。今日も休むから」

「下着とパジャマを着替えて、とりあえず、朝食を食べませんか? 食欲はありますか?」

「お腹は空いている。すぐ行く」

篠原さんがリビングダイニングへ出てきた。私は朝からマスクをつけている。

「私はもう済ませましたので、ゆっくり食べてください。その間にシーツと枕カバーを取り換えて洗濯します」

私は部屋に入って、ベッドのシーツや枕カバーを新しいものに交換した。それから着替えをした衣類も洗濯機に入れて洗濯を始めた。そこへ朝食を終えた篠原さんが入って来た。

「洗濯機はこのままにしておいてください。お昼に来て乾いた洗濯物を片付けますから」

「自分でするから、いいよ」

「言うとおりにしてください。身体を大切にしてください。それから必ずお医者さんへ行ってください。約束してください」

「必ず行くから」

「それより白石さんに移らないか心配している」

「心配ご無用です。インフルエンザの予防注射は毎年必ずしています。今までインフルエンザにかかったことはありません」

「でも油断しないで」

「大丈夫です。今も気を付けています」

篠原さんがベッドに横になるのを見届けると部屋から出て来た。洗濯機は勝手に回って乾燥もしてくれるから、これで大丈夫。

念のため、出社する前に、部屋へ行って念を押す。

「いいですか、お医者さんへ行ってくるのですよ。それからお昼に見に来ますからね」

大丈夫だろう。子供じゃないのだから。でもやっぱり元気がなかった。ちょっと心配だ。

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昼休みに急いでマンションに戻ってきた。1時までに戻らなくてはならないので時間は余りない。部屋をノックして顔を出す。

「お医者さんへ行ってきましたか?」

「ああ、行ってきた。お薬ももらってきた」

「なんと言われましたか?」

「インフルエンザA型、2~3日安静にしているように言われた」

「じゃあ、おとなしくしていてください」

「そうするしかないだろう」

部屋に入って、洗濯機から乾燥した衣類などを出して畳んで、クローゼットにしまった。

「お昼はどうします」

「コンビニでパンを買ってきたから後で食べる」

「今は、その位がいいですね。夕食はいつも作っていますから、それを食べてください。お腹にやさしいもの考えますから」

「食べに行けないのでお願いできるかな、助かる」

「じゃあ、おとなしく待っていてください」

そう言って、私は部屋を出て、会社へ急いで戻った。いつもの篠原さんはどこかへ行って弱気になっている。可愛いところがある。

夕食は何を作って上げようか? 母親がいつも風邪を引くとうどんを作ってくれた。それにしよう、簡単だ。
今日は少し早く帰れた。早く帰りたい日に限って仕事が忙しい。仕事はままならない。お給料をもらっているのだから、そんなものだと思っている。

部屋のドアをノックして顔を出す。ベッドで起き上がってテレビを見ていた。

「どうでした?」

「よく眠れた。でもまた寝汗をかいたので、下着を交換した。洗ってもらったので助かった。ありがとう」

「それはよかったです。待っていてください。夕食を作ります」

すぐに夕食のうどんと卵焼きを作る。すぐに出来上がり。病気の時はこれくらいでいい。

「簡単ですが、夕飯ができましたから、食べに来てください」

「ありがとう。ご馳走になります」

部屋から出てきたが、やはり元気がない。

「お腹にやさしいようにうどんにしました。あと卵焼です。簡単ですが消化の良さそうなものにしました」

「ありがとう」

「うどんはお代わりがありますから、たくさん食べて下さい」

すぐに食べてお代わりをしてくれた。食欲はあるみたいで安心した。卵焼きも残さずに食べてくれた。お腹が空いていたのかすぐに食べ終わった。私は食べるのが遅い。ようやく食べ終わった。

「ごちそうさま、おいしかった、ありがとう。身体も温まった」

「病気の時はこのくらいがいいと思います。もう少し良くなったら肉料理にします」

「治るまでお願いできるかな」

「いいですよ。ひとり分も二人分も手数が同じですから。いつも多めに作って冷凍保存していますから、大丈夫です」

「白石さんがいてくれてよかった。でもインフルエンザが移らないように気を付けてくれ」

「早く休んでください。また、熱がでますよ」

そういうと、部屋に戻っていった。夜中は起きて出てこなかったみたい。気が付かなかった。

************************************
朝、顔を出すと昨日よりも元気に見えた。少しは良くなったみたいでよかった。

「どうですか?」

「熱は下がったので、出勤しようかと思っている」

「絶対に今日は休んで下さい。無理しないで下さい」

「もう大丈夫だから」

「私の父はそれがもとで亡くなりました。だから行かないで休んでください」

「知らなかった。お父さんはこれがもとで」

「朝食を召し上がって下さい。準備ができています」

テーブルにいつものトーストとミックスジュースを用意しておいた。

「お腹にやさしくて水分が取れるものを考えました。ジュースには牛乳、ヨーグルト、バナナ、リンゴ、ニンジン、キャベツが入っています。たくさん飲んで下さい」

美味しいと言って3杯も飲んでくれた。

「本当に今日も1日休んでください。お昼に見に来ますから、その時昼食になにか買ってきます。いいですか安静にしていてください。約束ですよ」

篠原さんは部屋に戻っていった。朝食の後片付けをして、着替えた下着などを洗濯機にかけてから私はいつもどおり出勤した。

12時過ぎに私はまた戻ってきた。昼食におにぎりをいくつかとインスタントの味噌汁を買ってきた。篠原さんは「ありがとう」といって黙って食べていた。乾燥した衣類を片付けて私は会社へ戻った。職住接近はこんな時に便利だ。

6時半過ぎにマンションへ戻って来た。ドアから顔を出して様子を見る。もうかなり元気になっていることが表情から分かる。

「ごめんなさい、遅くなって、仕事が立て込んでいて、すぐに夕食の準備をします。体調はどうですか?」

「もうすっきりした。身体のだるさもなくなった。熱は平熱に戻った」

「そうですか、では、お肉料理でも作ります。待っていてください」

今日は生姜焼き定食に決めた。生姜の残りがあったのと、冷凍保存した豚肉があった。あとは野菜のお味噌汁と昨日漬けておいた一夜漬け。準備ができたので呼びに行く。

「生姜焼き定食になります。私の肉料理はこんなものですが、召し上って下さい」

「味付けが良くて美味しい。味噌汁は今作ったの? 漬物が美味しいけどどこで買った?」

「味噌汁はあり合わせで作りました。漬物も余ったお野菜の一夜漬けです」

「料理が上手だね」

「母が教えてくれました」

「今朝、言っていたけど、お父さんはインフルエンザがもとで亡くなったのか?」

「そうです、無理をして、肺炎になって、私が高校1年の時に、あっという間に亡くなりました。だから油断してはいけません」

「お母さんはどうしている? 父が亡くなってから実家の仕事の手伝いをしています」

「大変だったんだ」

「母は苦労をしました。私はそれに甘えていただけで、ありがたく思っています。そんなことより、食べ終わったら早く休んでください。明日の朝の調子で出勤するか判断したらいいと思います。でも私は大事をとってもう1日休養されることをお勧めします」

「分かった。明日の朝の状況で判断する。ありがとう」

************************************
翌朝、篠原さんは大事を取ってもう一日休むことにすると言った。久しぶりに身体を休めたいとも言っていた。

今日も6時半過ぎに帰ってきた。部屋のドアをノックして様子を見る。もうすっかり回復していつもと変わりがない。よかった、治ったみたい。

「夕食はシチュウにしました。少し時間がかかります」

「お腹が空いた。楽しみにしているから」

やはりシチュウは時間がかかった。7時過ぎになってようやく出来上がった。ほかに野菜サラダを作った。できたと声をかけるととんできた。

よっぽどお腹が空いていると見えて、黙って食べて、お代わりを2回もしてくれた。シチュウは上手くできたみたい。

「夕食ありがとう。今日はゆっくり英気を養えた。明日から出勤する」

「すっかり回復したみたいですね。よかったです」

「それで、お礼をしたいのだけど」

「そう、おっしゃると思っていました。篠原さんは私の好意を受けるのがおいやなのですね」

「そういう訳でもないけど、お世話になったのでお礼はしておきたい」

「借りをつくりたくないのは分かります。それで、お世話した時間を計算しておきました。それと昼食と夕食の費用を計算しておきました。内訳は洗濯の時間と食事の準備ですが、食事の準備時間は私の食事の準備ための時間でもありますので、半分にしました」

明細は3日間で4.5時間の4500円、昼食と夕食の材料費など1350円の合計5850円を請求した。

「こんなに少なくていいのか」

「実費はそれだけでから、多く貰っても気が引けますから、それだけいただければ十分です」

「分かった。ありがとう。もう元気になったから、コーヒーでも入れてあげよう」

「それじゃあ、ご馳走になります」

篠原さんは手を丁寧に洗ってから、コーヒーを淹れてくれた。篠原さんは私がコーヒーを飲むのを見て嬉しそうだった。料金は請求したけど、結構してあげた方だと思う。

私が病気になったら、これだけしてくれるのだろうか? 幸い私にインフルエンザは感染しなかった。
次の日、元のように篠原さんは出勤した。また、日常が始まる。

夕食を終えて部屋で休んでいると、7時過ぎに絵里香宛てにメールが入った。そういえば、インフルエンザに罹っている間にメールは入っていなかった。とてもそんな余裕はなかったのだと思う。

[しばらく連絡できなかったけど元気にしている?]

すぐに返信した。[はい、元気にしています。お元気でしたか?]

すぐに返事が入る。[インフルエンザに罹ったけど、ようやく治った。週末に会えないか?]

[この前と同じ場所、時間でよろしければ]

[了解、待っている]

元気になるとすぐに女の子を誘う。篠原さんらしい行動だ。でもあのインフルエンザの時は、神妙に私の言うことを聞いていた。可愛げがある。

本当に分かりやすい人だ。意外と単純な良い人かもしれない。せっかくだからとことんつき合ってみても良いかなと思うようになった。

************************************
金曜日の午後8時、前回のラウンジに行った。今日はシックな落ち着いたダークグレーのワンピースに可愛いベストにしてみた。毎回違うものを着るのはエチケットでもあり、私の見栄でもある。篠原さんの視線が気になる。じっと見られた。

「また会ってくれてありがとう」

「私も誰かと少しお話がしたくて」

「相談事があるのなら、相談にのるけど」

「そんなものはありません。ただ、誰かとおしゃべりがしたかっただけです」

「リハビリの一環かな」

「そうかもしれません」

「私は元カレと別れてから私のどこが気に入ってもらえたのか考えていました」

「それでどうだったの、どこを気に入ってもらっていたのか分かったの?」

「きっと私の見た目が気に入っていただけだったんです。私の内面というか私自身を気に入っていたのではなかったように思いました。いろいろありましたが、表面的にしか私を見てもらえていなかったから、心から好いてもらえていなかったのだと思いました」

「どのくらい付き合っていたの?」

「1年位でしょうか?」

「私はすべてを見てもらっていたつもりでしたが、彼は表面的にしか私をみてくれていなかったのだと思います」

「彼の責任と言いたいのか」

「私の見せ方が悪かったのかもしれません。彼に見る目がなかったのかもしれません。分かりません」

「それで俺に何を聞きたい?」

「あなたには私を見る目があるのでしょうか?」

「俺に見る目があるかどうかは分からない。それに君とそれほど付き合っている訳ではないからね。それで君はどうなんだ。男を見る目があるのか? 自分ではどう思っているんだ」

「私も分かりません」

「まあいい、今日はこれからカラオケにでもいかないか?」

「そうですね。歌を歌って憂さ晴らしもいいかもしれません」

「それなら、俺のマンションに来ないか?」

「あなたのマンションにですか?」

「カラオケがある」

「本当ですか?」

「それに俺の住んでいるところも見てもらいたい。連れ込んで君をどうかしようとか思っている訳ではない。俺を知ってもらいたいだけなんだ」

「カラオケだけと約束していただけるのなら、行ってもいいです」

「そうか、ありがとう」

「じゃあ、ちょっと電話させてくれ。同居人がいるから都合を聞いてみる」

篠原さんは席を立って私に電話を入れるつもりだ。そういうこともあろうかと、携帯の電源は落としてあった。私はここへ来る前に「今日の帰宅は10時以降になります」と篠原さんにメールを入れておいた。

すぐに篠原さんは席に戻ってきた。

「電話に出ないけど、まだ帰っていないみたいだ。大丈夫だから行こう」

「同居している人がいるんですか」

「俺の従妹だから心配ない」

「それならなおのこと安心です」

私がすんなりマンションへ行くのに同意したので、拍子抜けだったのかもしれない。機嫌よく私を案内してくれた。ホテルの前からタクシーでマンションに向かった。ほんの5分で到着した。

私はいつもタクシー代がもったいないので遅くなっても歩いて帰っていた。途中は夜遅くとも危険は感じない。この前、私より早く帰っていたのはタクシーで帰ったからだと思う。酔っていると確かにその方がよい。

受付にはコンシェルジェがまだいた。出かける時にはできるだけ見られないように顔を合わせないようにして出てきた。前を通る時は顔を伏せて目を合わせないようにした。そうすると彼もあえて見ようとしない。

まあ、篠原さんは結構違う女子を連れ込んでいたから、彼もあえて見ないようにしているのだと思う。

エレベーターに乗ったので一安心。

「すごいマンションですね」

「親父の所有で、俺が維持費を負担して住んでいる。従妹を同居させてその代わりに掃除、洗濯をしてもらっている」

「維持費って結構かかるんですか?」

「前に住んでいた1LDKのマンションよりも随分かかる」

「こんな豪華なマンションに住めていいですね」

すぐに32階に着いた。玄関ドアを開けて中に招き入れてくれる。同居している従妹が帰っていないかと言って、私の部屋をノックして声をかけていた。いる訳ない。笑いをこらえるのに苦労した。

「左の部屋が俺の部屋で、右の部屋が従妹の部屋だ。ここがリビングダイニングでカラオケはここに置いてある」

「広いですね」

「ソファーに坐っていてくれないか。コーヒーを入れるから。砂糖とミルクはどうする?」

「ブラックでお願いします」

コーヒーメーカーにセットしてソファーに戻って、カラオケの準備をしてくれる。

「歌いたい曲を決めておいて」

そう言うとキッチンにコーヒーを取りに行った。

「決まった?」

「『レモン』をお願いします」

「俺もそのあと歌わせてくれ」

「いいですよ。初めて聞かせてもらえますね」

私はコーヒーを一口飲んで歌を歌い始める。いつもこのカラオケで練習しているので歌いやすく余裕を持って歌うことができた。情感を込めて歌えたと思う。

次に篠原さんが歌った。前に聞いた時よりもうまくなっていた。いつ練習したのかしら?

「上手ですね。情感が籠っていて、いいですね」

「ほめ上手だね。他に歌ってみたい曲はないの?」

「それじゃあ、『君を許せたら』をお願いします。このまえより上手くなっていると思いますので、聞いてもらえますか?」

「この前もすごくよかった。聞かせてほしい」

私は、今度は篠原さんを見つめて歌った。彼はジッと私を見ていてくれた。

「いいね、2曲ともいい曲だ。こんな歌が好きなんだね」

「悲しい曲が合っているように思います。歌っていると歌の中にいるような気持になって」

「歌に酔っている?」

「そういうんじゃなくて、身につまされるというか、悲しくなります」

「ロマンチストなんだ」

「自分が悲劇の主人公のように思えるのかもしれません」

「じゃあ、俺が悲劇のヒロインを助ける王子様になってあげる」

「私はお姫様ではありません。ただの失恋したOLです」

篠原さんが私の方へ近づこうとするので、私は立ち上がって窓際へ行って外を見た。今頃のここからの夜景はとても綺麗で部屋からいつも見ていた。
「夜景がきれいだろう」

「いいですね。遠くまで見えますね。こちらは海の方向ですか?」

「天気の良い昼間だと東京湾がみえる」

「しばらく見ていていいですか」

「ああ、好きなだけ見ていていいよ」

篠原さんが立ち上がってこちらへ来る。緊張する。後ろから両肩を掴んだと思ったら突然抱き締められた。

「だめです。放してください。約束が違います」

「好きなんだ。気持ちがおかしくなるくらいに好きなんだ。こんな気持ちは初めてだ」

「私のどこが好きなのですか?」

「分からない。本能的にと言った方がよいかもしれない。理由なんか後から考えればいい」

「ほかの人にもそうおっしゃっているのでしょう」

「本当に好きなんだ、今日は泊っていってくれないか?」

「何をおっしゃっているんですか?」

「真面目に言っている。そうでないとおかしくなりそうなんだ」

「従妹さんが帰ってくるのでしょう」

「大丈夫だ。気にしないと思う。こっちへきて」

私の手を掴んで篠原さんの部屋の方へ引っ張って行く。抵抗しているが止めてくれない。とうとう部屋の中まで引き入れられた。そしてまた抱き締められた。どうしようと思った時にキスされた。もう頭の中が真っ白になっていた。

「泊まっていってほしい」

私を放してくれた。すぐに逃げ出すこともできたのに私はその場に留まった。足がすくんでいた訳でもなかった。

あんなに強く抱き締められて好きと言われたのは初めてだった。私は混乱していた。そして自分でも信じられない言葉を返してしまった。

「それほどおっしゃるのなら泊ります。シャワーを浴びさせてください」

言ってしまうと返って開き直ってしまったみたい。

「バスルームはそのドアの向こうにある。バスタオルはそこに置いてあるから」

私も意地になった。黙ってバスルームへ入った。服を脱いでゆっくりとシャワーの栓を開いた。お湯が勢いよく噴出してくる。シャワーを浴びるととっても心地よくて、いつも頭が空っぽになる。

彼がバスルームに入ってきた。もうなるようにしかならないと思って驚きもしなかった。

「すぐに替わります。少し待って下さい」

「ああ、ごめん」

私の言葉に気持ちをそがれたのか、私がシャワーを浴びるのを黙ってみていた。すると妙に気持ちが落ち着いて来た。そういえばこんな場面、元彼と昔あったことを思い出した。

バスタオルを身体に巻いてバスルームを出た。そして彼のベッドに腰かけた。いつもシーツと枕カバーを取り換えている見慣れたベッド。でもここで寝るのは初めてだ。

篠原さんはシャワーで身体を洗い終わるとキッチンへ行って冷たい飲み物を2本持ってきた。彼はそういう気づかいができるというか、そういうことに慣れている。

「飲む?」

「いただきます」

私は半分くらい一気に飲んでそのボトルをサイドテーブルに置いた。彼もボトルに口をつけて喉を潤した。それから私に手を伸ばして抱き締めた。私は冷静になって、彼の耳元で囁いた。

「ちゃんと避妊してください」

「ああ、分かっている。心配するな」

そう言われて、私は抱きついた。それからのことはよく覚えていない。私はすべてを忘れてしまいたかった。頭の中を空っぽにしたかった。快感に浸りたかった。

************************************
気が付いて今の状況が分かってきた。私は彼に背中を向けて横になっている。彼は後ろから私を抱きかかえるようにして寝ている。抱えている手を握ってみると握り返してきた。

「悲しかったのか? ずっと泣いているのかと思った」

「いえ、よく覚えていません」

「ありがとう」

「私のことが分かりましたか?」

「いろいろなことが分かった。それでますます好きになった」

「でも私の一部しかまだ見ていません」

「付き合ってもっと見てみたいし見せてほしい」

「見る目がないと見えません。見ようとしないと見えません」

「面白いことを言うね。楽しみにしている」

「私をしっかり抱き締めて寝てください」

「ああ、いいよ」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

************************************
夢を見ていた。何の夢か分からないけど抱き締められていた。力が強くて苦しくて目が覚めた。目覚ましは4時を少し過ぎたところだった。彼が気が付かないうちに自分の部屋に戻ろう。

そっと、ベッドから抜け出して、服や下着集めて、静かに部屋を出た。それから自分の部屋に戻った。内鍵をかけるとホッとした。自分のベッドでもうひと眠り。

携帯の音で目が覚めた。メールが入っていた。篠原さんからだ。今起きたみたい。時計を見ると9時を過ぎていた。

[昨夜は泊ってくれてありがとう。黙って帰ったんだね]

すぐに返事を入れる。

[黙って帰ってごめんなさい。起こすと悪いと思って。始発で帰りました。昨夜はよい思い出になりました。ありがとうございました]

私も起きよう。朝食の用意をしよう。シャワーを浴びて、身繕いをする。リビングダイニングで朝食の支度をしていると篠原さんが出て来た。

「おはようございます」

「おはよう」

「昨夜は誰かお泊りでしたか?」

「ああ」

「そうですか。4時過ぎに玄関ドアの音がしてどなたかが出て行かれたようです」

「そうか、気が付かなかった。始発に合わせて出て行ったのかもしれない」

「白石さんは、昨夜は何時ごろ帰って来たんだ。連れて帰ると連絡しようと思ったけど、携帯がつながらなかった」

「カラオケで気が付かなかったのかも知れません。帰ってきたのは11時を過ぎていたと思います」

「また、女性を泊めたのですか?」

「まあ、そうだ」

「この前の恵理さん?」

「いや、別の娘だ」

「浮気症ですね」

「いや、今度は本気だ」

「そうなら、その人も喜んでいるでしょう」

「それが分からないんだ」

「つかみどころがない、不思議な娘なんだ」

「気になりますか?」

「ああ、仕事が手につかないくらいにね」

「うまくいくといいですね」

「そうだね、ありがとう」

篠原さんは全く気が付いていない。また、私だから本音を話してくれた。昨夜のこともあって、完全に絵里香が気に入っているみたい。本当のことを打ちあけた時の反応が予測できない。その時が怖い。当分は結衣と絵里香を演じ分けているほかはない。
いつまでも地味な結衣と可愛い絵里香を演じ分けていることができなくなる事態になった。大変なことを頼まれてしまった。

「白石さん、お願いがあるんだけど、リビングダイニングに来てくれないか?」

「どうしたんですか?」

呼ばれて出て行くとこのトレーナースタイルをじっと見られた。これが部屋で一番着ていて楽でリラックスできる。

「親父とお袋がこの週末にここに押しかけてくることになった」

「それがどうかしたのですか?」

「故郷へ帰って見合い結婚をして、実家の後を継げとうるさいんだ」

「私とは関係のない話ですが」

「俺がここを出ていくと白石さんもここを出ていかなければならなくなるぞ。それでもいいのか?」

「いつかはそうなるでしょうから、覚悟はできています。でも今すぐと言う話でもないでしょう」

「そのとおり。今、俺はその気がない。好きな娘ができたんだ。だから時間が必要なんだ」

「その人とちゃんと付き合っているんですか?」

「何で俺が君に彼女との関係を説明しなければならないんだ」

「私にお願いってなんですか?」

「彼女の代わりに俺の恋人になって両親に会ってもらいたいんだ」

「本人に頼めばいいじゃないですか」

「頼めるくらいなら君に頼んだりしないだろう」

「ほかに何人も恋人の役を引き受けてくれる人がいるじゃないですか? あの恵理さんに頼んだらどうですか?」

「恵理に頼んで本気になったらどうする。後始末がもっと大変だ」

「私なら、後始末は簡単だとおっしゃるんですか?」

「もともと恋愛関係にはならないと賃貸雇用契約書に書いてある」

「確かに書いてあります」

「衣服や準備にかかる費用は俺がすべて負担する」

「私ならお金で済むと言う訳ですか?」

「契約の範囲内だと思うけど、時給は10倍出してもいいから、どうしても引き受けてくれないか?」

「引き受けた後はもっと難しいことになるかもしれませんが、良いのですか?」

「どういう意味だ? 俺の恋人になりたいのか?」

「いいえ、私よりもあなたの問題です」

「お引き受けする前に聞いておきたいのですが、あなたはその人のことをどう思っているのですか?」

「本当は俺にもよく分からないんだ。でも彼女にとても惹かれるんだ。初めての経験だから何と言って良いか分からない」

「気持ちが固まっている訳ではないんですか?」

「よく分からないんだ。だから時間が欲しい」

「時間稼ぎのためですか?」

「親に恋人と同棲しているところを見せると少なくともお見合いはあきらめるだろう。今はそんな気にはなれない。時間稼ぎと言えばそうかもしれない」

「私はどうすればいいんですか?」

「両親は俺の好みを知っている。俺の好みの服装、髪形などをそれらしくしてほしい。きっと信じる」

「両親はいつここへいらっしゃるんですか?」

「土曜日の3時に来ると言っている。そしてここに泊まりたいと言っている」

「ここに泊まるんですか?」

「そうだ」

「私との同居を言っていないのですか?」

「言う訳ないだろう」

「じゃあ、私はどうすればいいのですか?」

「両親は俺の部屋に泊める。ダブルベッドだから二人でも寝られるし、俺が来る前はそうしていたらしい」

「あなたはどうするんですか」

「ソファーでもいいが、それはまずい、恋人と一緒に住んでいるということにしたいから、君の部屋に泊めてくれ」

「困ります」

「頼むよ、誓って何もしないから」

「少し考えさせてください」

私は自分の部屋に戻ってきた。篠原さんはこの私に絵里香の代役をしてほしいと言っている。引き受けるのは簡単だけど、そのあとはどうなるだろう。

まず、この地味な私があの絵里香と分かって動転することは間違いない。それから両親になんと言って紹介するのだろう。恋人の白石結衣と言うのか、それとも石野絵里香と紹介するのだろうか?

恋人と同棲していると言ったら、ご両親はどういう反応をするだろう。すぐには認めないに違いない。だってお見合いの話を持ってくるのだから、そういう人と結婚させたいに決まっている。

その場で言い合いになるのは目に見えている。そして喧嘩別れ。篠原さんの計画どおり時間稼ぎはできる。それからの展開は予想できない。彼が私に対してどういう態度をとるか? 私もどうしてよいか分からない。

いずれにしても、遅かれ早かれいつかは私が絵里香だと篠原さんに言わなければならない。それが今度の土曜日なだけと考えよう。いくら考えてもなるようにしかならない。

そう思って、部屋からリビングダイニングへ出てきた。篠原さんはコーヒーを飲んで待っていた。

「お引き受けします。土曜日の午前中に一緒に出掛けてあなたの気に入った服を買って下さい。帰ってから準備します」

「ありがとう」

「これはあなたの責任ですることです。これだけは承知しておいてください」

彼は引き受けることで安心したようで、この言葉の意味は全く理解していなかった。

************************************
土曜日は、篠原さんの実家から電話が入って、来ることが確認できたら、ショッピングに出かける予定にしていた。9時に電話があって、こちらに着くのは3時頃だと言うので、すぐに出かけることになった。

二人で渋谷まで出かけて服を選んだ。彼は絵里香に似合いそうだと言ってシックなワンピースを選んだ。試着してみても、まあ、センスは悪くない。迷っている時間はない。すぐそれに決めた。彼が支払いを済ませた。

それから絵里香がしていたような髪形を私に説明して同じ髪形にしてくれと頼まれた。それはお安い御用、私は髪をカットして帰るといってその場で分かれた。彼は私に必要額を渡してくれて、一人でマンションに戻った。

カットはすぐに終わった。すこし髪が長くなっていたので丁度良かった。12時過ぎにはマンションに帰ってくることができた。

「お昼は何か召し上がりましたか?」

「いや、余り食欲がない」

「サンドイッチを買って来ました。一緒に食べませんか?」

「ああ、一切れもらうとするか? コーヒーを入れてあげよう」

「ありがとうございます」

篠原さんはサンドイッチを一切れ食べただけで、食欲がないみたい。私は気合を入れておかないといけないので、しっかり食べた。

「それで、これからのことだけど、両親が3時ごろに来るから、これから準備をして、俺が呼ぶまで自分の部屋にいてほしい。両親に事前の説明を終えてから、君を紹介するから、恋人の振りをしてくれていればいい。特段、話もしなくていい。すべて俺が話す。いいね」

「分かりました」

「ああ、それからもちろんメガネは外してね。それにお化粧もしっかりしてね、頼むよ。成否は白石さんにかかっているから」

「分かっています」

私は準備のために部屋に戻ってきた。これから絵里香に変身する。ご期待にお応えして立派に絵里香を演じますとも! でもあとは知らないから!
時間は直ぐに過ぎた。もう3時になった。玄関ドアの閉まる音がした。両親がこられたみたい。呼びに来るのを部屋で待っていればいい。

しばらくして、ドアがノックされる。出番だ!

「出てきて、両親と会ってくれないか? 紹介するから」

私はドアを開けて出て行った。まっすぐ前をみていたが、篠原さんの驚く顔が見えた。出た後、すぐに部屋を覗いているが他に誰もいるはずがない。

「まさか! 君は!」

絵里香の私はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。

私の後ろに立っている彼はまだ動転しているのか声もない。しばらく間があった。深呼吸をしたと思ったら話し出した。

「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」

「初めまして石野絵里香です」

「真一、そんな話は聞いていないぞ!」

「いずれは結婚を考えています」

「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」

「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」

「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」

「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」

「その話は彼女には関係ない」

「関係なくはないわよ。私も大変だったから」

「俺は認めん。帰るぞ!」

「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか?」

「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」

お父さまが席を立ったので、お母さまも付いて行った。

「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」

「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」

やはり喧嘩別れになった。篠原さんが想像していたとおりになった。彼は玄関まで行って話しかけている。私はソファーに坐った。彼は両親を送り出すとすぐに戻ってきた。

「悪かったな、いやな役目を頼んで」

「想像していたとおりでしたから」

「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」

「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」

「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」

「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありましたから」

「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」

「それでいいんですか?」

「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」

「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」

「そうだな」

「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」

「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」

「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」

「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」

「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」

「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」

「どちらでもない君自身とだ」

「考えさせてください」

「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」

「それも考えさせてください」

「分かった」

そう言うと私は部屋に戻って、部屋から出なかった。彼と顔を合わせたくなかったし、これからのことを考えたかった。

************************************
翌朝、私は契約どおりに元の地味な結衣に戻ることにした。朝食の用意をしていると、篠原さんが起きてきた。機嫌は悪くないみたい。

「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」

「始めは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」

「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」

「今の地味な私ではないのですね」

「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」

「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」

「使い分けている?」

「そんな器用なことはできません」

「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」

「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」

「そうですか」

私はそういわれても絵里香になろうとは思わなかった。どうして地味な結衣を好きになってはくれないのか、彼の気持ちが分からなかった。

私の篠原さんへの気持ちも分からなくなった。すごく純粋なところが見えると思うと、女の子とはとっかえひっかえ付き合っている。

彼の気まぐれで、絵里香の私もOne of them のように思われてきて、疑心暗鬼になった。それで、気持ちの整理がつくまでは今までどおりにしていようと思った。

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2日後、篠原さんに九州支社の機構改革のための1週間の出張が入った。篠原さんは「今、ここを離れたくないけど、仕事だからしかたがない。お互いに一人になって二人のこれからをよく考えてみる良い機会かもしれない」といって出かけて行った。

次の日の夜、母から電話が入った。母は53歳になったばかりだったが、定期検診で乳がんが見つかったとのことだった。ステージは2、来週には手術の予定だと言う。

母には苦労をかけっぱなしだった。私を大学までそれも都会の大学にまで出してくれた。それから私の自由にしてよいと東京での就職も認めてくれた。このまま、母が死んでしまうようなことがあれば悔いが残る。すぐに帰ろうと思った。

篠原さんとの関係もこれ以上は進みようもない。ご両親は結婚に反対だし、このまま暮らしていてもお互いに辛いだけだと思った。

一晩寝たら決心は揺るぎないものになっていた。篠原さんもいないし、引き留める人もいない。すぐに派遣会社に電話を入れて退職の希望を伝えた。引越し屋に電話して見積もりを頼んだ。

山内さんにも電話を入れた。彼女には家庭事情で会社を辞めることにしたと伝えた。彼女には篠原さんに私が絵里香だと明かしたと伝えた。そして両親に結婚を反対されたとも伝えた。だから、これを機会に彼と別れて故郷へ帰ることにしたと言った。

そして、篠原さんに私のことを聞かれたら何も聞いていないと言ってほしいと頼んだ。山内さんはすべてを察して承知してくれた。それに彼女は私の出身地は知らないはずだった。

篠原さんが東京へ帰ってくる3日前には仕事の引継ぎもすべて完了した。午前10時に荷物を搬出したが、ほとんど段ボール箱だったので、すぐに終わった。鍵はコンシェルジェに預けた。

素敵なマンションで良い夢を見させてもらった。ありがとう、さようなら! 私は過去との連絡を断った。