その週の水曜日、昼休みに亜紀から携帯に電話が入った。
「結衣、相談があるんだけど、この前の合コンの幹事の山本さんから連絡があって、あの篠原さんが絵里香を気に入ったみたいで、もう一度会いたがっているから、都合を聞いてもらえないかと頼まれた。どうする?」
「どうするって言われても」
「もう一度会う? それとも結衣から篠原さんに絵里香は私だって話す?」
「どちらもいやだなあ」
「結衣は篠原さんから女としては見られていないんでしょう?」
「そうです。全くの対象外」
「それなら、絵里香になり切って、篠原さんを翻弄して、見返してやったらどうなの? それが一番のリハビリになると思うけど」
「あまり気が進まないけど」
「山本さんも篠原さんも絵里香が白石結衣だとは夢にも思っていないから、とりあえずもう一度会ってみたら?」
「うん、でも1対1では会いたくないわ。また合コンでもあれば行っても良いけど」
「じゃあ、そう伝えるね。それから絵里香さんは今、男性不信だからお付き合いはしたくないみたいだ、とも言っておくから」
************************************
その日、夜遅く、亜紀から電話が入った。
「山本さんに1対1では会いたくないから、合コンでもあったらまた参加すると言っていると伝えたら、亜紀と私、山本さんと篠原さんの2対2ならどうか? といわれた。それならいい?」
「亜紀が一緒に来てくれるならまあいいけど」
「分かった。それならそう連絡するね」
すぐに亜紀から電話が入った。
「今週の金曜日8時からどうかといってきたけど都合は?」
「大丈夫、いつも夜は空いているから。でも長くても2時間くらいの方が良いわ。カラオケなら2時間くらいでも間が持つから良いと思う」
「じゃあ、8時からカラオケでどうかと言ってみる」
「亜紀に任せるわ」
「私も山本さんは悪くないと思っていたから丁度よかった」
結局、今週の金曜日8時集合、2対2でこの前の2次会の会場でカラオケをすることになった。
************************************
約束の金曜日が近づいて来た。相変わらず篠原さんは私を女として見ていない。せいぜい、年配のおばさんくらいにしか思っていない。次第に絵里香になって見返してやろうという気になってきた。
絵里香に変装するのは良いとして、そのまま帰ってきて、この前のように篠原さんが先に帰ってリビングダイニングにいたら鉢合わせしてばれてしまう。
行きは、篠原さんは会社から直接行くだろうから、私は一度帰ってきてここで着替えていけばよい。でも、帰りはどこかで着替えて地味な結衣に戻って帰って来た方が良さそうに思う。
マンションのロビーの女子トイレで着替えて化粧を落とすという方法もある。そうしよう。それが無難だ。
明日、着ていく服を探す。亜紀からこれ以上借りる訳にもいかない。派手な服は処分したので、おとなしいシックな服は残してあった。まあ、これでいいか? 服を合わせてワクワクしている自分に気が付いた。いやいや行くのにどうしてか分からなかった。
************************************
金曜日、仕事は定時に終えることができた。用事を頼まれないうちに退社する。急いでマンションに帰って、シャワーを浴びてから、着替えて、お化粧をする。夜だから少し濃い目にする。
亜紀と7時に会って夕食を一緒に食べることにしている。まあ、事前の作戦会議みたいなもの。カラオケのあるビルはそこから歩いて4~5分の距離にある。
その近くの割安のレストランに行く。時間には間に合った。先に亜紀がいて席を取ってくれていた。
「亜紀付き合ってくれてありがとう」
「結衣のことが心配だから。付き合ってみようと思えば、地味な結衣だとばらせばいいだけのこと。気楽にいけば」
「そうでもないの。何か納得のいかないところがあって」
「納得って」
「私の意地かな。地味な私には見向きもしないで、可愛いだけの絵里香に惹かれるなんて。だから、男は信用ができない」
「そうむきにならないで冷静に彼を観察したらどうなの? 違う一面が見えるかもしれないから」
「裏の顔はよく見ていると思うけど、どれが本当か分からない」
「どちらも本当の彼よ」
「まあ、じっくりと見極めてみます」
「気の済むようにしたらいいわ」
8時少し前になったので、店を出た。集合場所はここから目と鼻の先だ。遠目で待っている二人が見えた。近づくと篠原さんは亜紀のことをじっと見ている。あの時、会っているから思い出さないといいけど。
挨拶を交わすと山本さんが私たちをエスコートしてカラオケ店へ入る。その後から篠原さんが続いた。約束どおり時間は2時間にした。
案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れてよかった。私たちは奥側の席に座った。飲み物を注文した。山本さんたちはハイボールを頼んだけど、私たちはノンアルコールでウーロン茶とジンジャエールにした。
最初は話がしにくい雰囲気なので、山本さんが「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。幹事を頼まれるだけはある。気を使ってくれている。山本さんが歌っている間、私はずっと歌うのを見ていた。
篠原さんが私をずっと見ているのは分かっていたが、目を合わせないようにした。終わると拍手をする。続いて、亜紀が1曲歌う。私は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。
「彼女、名前は何と言ったっけ?」
「山内さんです」
「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がするけど」
「この間の合コンでしょう」
「そうかな、まあいいか。それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」
「はい、お願いします」
篠原さんが歌い始めた。この前の『さよならをするために』を歌う。この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。私の方を見て歌うので見ていないとしょうがない。歌い終わると拍手をする。篠原さんは嬉しそうだ。
次は私の番になった。あれから何回か練習したので少しは上手くなったと思う。終わると皆、拍手をしてくれた。
「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」
「あれから練習しましたから」
「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」
「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」
「じゃあ、その気がないこともない訳だ」
「今はお付き合いなんかしたくありません」
「少しリハビリをした方がよいと思うけど」
「リハビリしても元に戻らないこともあります」
「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」
「話したくありません」
「彼女には聞いてもらったんだろう。男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」
「まあ言われてみれば、全く無関係の人だから、差し障りはないかもしれませんね」
「話す気になってきた?」
「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」
「してもらえなかった?」
「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」
「難しいところだね」
「それで山内さんに相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」
「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」
「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことにして分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」
「俺だったらそんなことはしない。君を守ったと思う」
「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」
「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」
「どうしてですか」
「いずれ辞めようかとも思っているからだ」
「それならそういう発言もできると思います」
「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」
「ううーん、そうだね」
「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」
「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」
さすが山本さん、私たちが感情的になりそうなのを聞きつけて仲裁に入ってくれたみたい。気遣いのできる人だ。これ以上この話はしたくない。
今歌っている曲は私の知らない曲だ。それに篠原さんは考え事をしているのか情感が入っていないのが分かる。終わったので拍手をする。
「次は君の番だ、新曲を頼みます」
「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」
「それも俺の好きな曲だ」
人前でこの歌を歌うのは初めてだから緊張する。でも情感を込めて歌えた。上手く歌えたと思う。最近ではこの曲が一番好きで、つい感情移入してしまう。
「これが今の君の心境なのか?」
「どうお思いになるかはあなたの自由です」
「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出せない。申し訳ない」
「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」
「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」
亜紀が山本さんと話している。二人は気が合うみたい。時々二人でこちらを見るのは私たちのことが気になっているのか、私たちを話題にしているのかどちらかだ。そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。
「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ。幹事同士で気が合うみたいだな」
「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」
「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」
「分かりません?」
「携帯の番号を教えてくれないか?」
「ダメです」
「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」
「じゃあ、メルアドだけなら」
携帯の番号はもう篠原さんには教えてある。ここで同じ番号を教える訳にはいかない。メルアドはいくつかあるから、グーグルのメルアドを教えた。アドレスには名前が分かるような綴りは入っていない。
メルアドを教えてあげたら、篠原さんは安心したみたいで落ち着いて来た。それで二人で亜紀と山本さんが歌うデュエット曲をずっと聞いていた。それから私たちも一曲デュエットした。
約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、私と亜紀、篠原さんと山本さん。彼らは飲み直すと言っていた。私たちは少し行ったところで分かれた。
急いでマンションに戻ってきた。この時間にはもうコンシェルジェはいない。まだ、篠原さんは帰っていないと思うけど、念のため、ロビーの化粧室でメイクを落として、持ってきていた黒のスーツに着替えた。
メガネをかけて髪を後ろに束ねて、地味な結衣に戻った。部屋の玄関を入ると、篠原さんはやはり戻っていなかった。
私が帰ってから丁度1時間後に篠原さんが帰ってきた。丁度お風呂から上がって一息ついたところだった。「ただいま」というので「おかえり」と返しておいた。機嫌のいい声だった。
ベッドで横になっていると、メールが入った。篠原さんからだった。[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と書かれていた。
すぐに返信した。[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]
「結衣、相談があるんだけど、この前の合コンの幹事の山本さんから連絡があって、あの篠原さんが絵里香を気に入ったみたいで、もう一度会いたがっているから、都合を聞いてもらえないかと頼まれた。どうする?」
「どうするって言われても」
「もう一度会う? それとも結衣から篠原さんに絵里香は私だって話す?」
「どちらもいやだなあ」
「結衣は篠原さんから女としては見られていないんでしょう?」
「そうです。全くの対象外」
「それなら、絵里香になり切って、篠原さんを翻弄して、見返してやったらどうなの? それが一番のリハビリになると思うけど」
「あまり気が進まないけど」
「山本さんも篠原さんも絵里香が白石結衣だとは夢にも思っていないから、とりあえずもう一度会ってみたら?」
「うん、でも1対1では会いたくないわ。また合コンでもあれば行っても良いけど」
「じゃあ、そう伝えるね。それから絵里香さんは今、男性不信だからお付き合いはしたくないみたいだ、とも言っておくから」
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その日、夜遅く、亜紀から電話が入った。
「山本さんに1対1では会いたくないから、合コンでもあったらまた参加すると言っていると伝えたら、亜紀と私、山本さんと篠原さんの2対2ならどうか? といわれた。それならいい?」
「亜紀が一緒に来てくれるならまあいいけど」
「分かった。それならそう連絡するね」
すぐに亜紀から電話が入った。
「今週の金曜日8時からどうかといってきたけど都合は?」
「大丈夫、いつも夜は空いているから。でも長くても2時間くらいの方が良いわ。カラオケなら2時間くらいでも間が持つから良いと思う」
「じゃあ、8時からカラオケでどうかと言ってみる」
「亜紀に任せるわ」
「私も山本さんは悪くないと思っていたから丁度よかった」
結局、今週の金曜日8時集合、2対2でこの前の2次会の会場でカラオケをすることになった。
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約束の金曜日が近づいて来た。相変わらず篠原さんは私を女として見ていない。せいぜい、年配のおばさんくらいにしか思っていない。次第に絵里香になって見返してやろうという気になってきた。
絵里香に変装するのは良いとして、そのまま帰ってきて、この前のように篠原さんが先に帰ってリビングダイニングにいたら鉢合わせしてばれてしまう。
行きは、篠原さんは会社から直接行くだろうから、私は一度帰ってきてここで着替えていけばよい。でも、帰りはどこかで着替えて地味な結衣に戻って帰って来た方が良さそうに思う。
マンションのロビーの女子トイレで着替えて化粧を落とすという方法もある。そうしよう。それが無難だ。
明日、着ていく服を探す。亜紀からこれ以上借りる訳にもいかない。派手な服は処分したので、おとなしいシックな服は残してあった。まあ、これでいいか? 服を合わせてワクワクしている自分に気が付いた。いやいや行くのにどうしてか分からなかった。
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金曜日、仕事は定時に終えることができた。用事を頼まれないうちに退社する。急いでマンションに帰って、シャワーを浴びてから、着替えて、お化粧をする。夜だから少し濃い目にする。
亜紀と7時に会って夕食を一緒に食べることにしている。まあ、事前の作戦会議みたいなもの。カラオケのあるビルはそこから歩いて4~5分の距離にある。
その近くの割安のレストランに行く。時間には間に合った。先に亜紀がいて席を取ってくれていた。
「亜紀付き合ってくれてありがとう」
「結衣のことが心配だから。付き合ってみようと思えば、地味な結衣だとばらせばいいだけのこと。気楽にいけば」
「そうでもないの。何か納得のいかないところがあって」
「納得って」
「私の意地かな。地味な私には見向きもしないで、可愛いだけの絵里香に惹かれるなんて。だから、男は信用ができない」
「そうむきにならないで冷静に彼を観察したらどうなの? 違う一面が見えるかもしれないから」
「裏の顔はよく見ていると思うけど、どれが本当か分からない」
「どちらも本当の彼よ」
「まあ、じっくりと見極めてみます」
「気の済むようにしたらいいわ」
8時少し前になったので、店を出た。集合場所はここから目と鼻の先だ。遠目で待っている二人が見えた。近づくと篠原さんは亜紀のことをじっと見ている。あの時、会っているから思い出さないといいけど。
挨拶を交わすと山本さんが私たちをエスコートしてカラオケ店へ入る。その後から篠原さんが続いた。約束どおり時間は2時間にした。
案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れてよかった。私たちは奥側の席に座った。飲み物を注文した。山本さんたちはハイボールを頼んだけど、私たちはノンアルコールでウーロン茶とジンジャエールにした。
最初は話がしにくい雰囲気なので、山本さんが「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。幹事を頼まれるだけはある。気を使ってくれている。山本さんが歌っている間、私はずっと歌うのを見ていた。
篠原さんが私をずっと見ているのは分かっていたが、目を合わせないようにした。終わると拍手をする。続いて、亜紀が1曲歌う。私は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。
「彼女、名前は何と言ったっけ?」
「山内さんです」
「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がするけど」
「この間の合コンでしょう」
「そうかな、まあいいか。それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」
「はい、お願いします」
篠原さんが歌い始めた。この前の『さよならをするために』を歌う。この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。私の方を見て歌うので見ていないとしょうがない。歌い終わると拍手をする。篠原さんは嬉しそうだ。
次は私の番になった。あれから何回か練習したので少しは上手くなったと思う。終わると皆、拍手をしてくれた。
「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」
「あれから練習しましたから」
「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」
「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」
「じゃあ、その気がないこともない訳だ」
「今はお付き合いなんかしたくありません」
「少しリハビリをした方がよいと思うけど」
「リハビリしても元に戻らないこともあります」
「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」
「話したくありません」
「彼女には聞いてもらったんだろう。男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」
「まあ言われてみれば、全く無関係の人だから、差し障りはないかもしれませんね」
「話す気になってきた?」
「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」
「してもらえなかった?」
「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」
「難しいところだね」
「それで山内さんに相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」
「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」
「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことにして分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」
「俺だったらそんなことはしない。君を守ったと思う」
「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」
「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」
「どうしてですか」
「いずれ辞めようかとも思っているからだ」
「それならそういう発言もできると思います」
「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」
「ううーん、そうだね」
「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」
「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」
さすが山本さん、私たちが感情的になりそうなのを聞きつけて仲裁に入ってくれたみたい。気遣いのできる人だ。これ以上この話はしたくない。
今歌っている曲は私の知らない曲だ。それに篠原さんは考え事をしているのか情感が入っていないのが分かる。終わったので拍手をする。
「次は君の番だ、新曲を頼みます」
「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」
「それも俺の好きな曲だ」
人前でこの歌を歌うのは初めてだから緊張する。でも情感を込めて歌えた。上手く歌えたと思う。最近ではこの曲が一番好きで、つい感情移入してしまう。
「これが今の君の心境なのか?」
「どうお思いになるかはあなたの自由です」
「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出せない。申し訳ない」
「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」
「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」
亜紀が山本さんと話している。二人は気が合うみたい。時々二人でこちらを見るのは私たちのことが気になっているのか、私たちを話題にしているのかどちらかだ。そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。
「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ。幹事同士で気が合うみたいだな」
「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」
「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」
「分かりません?」
「携帯の番号を教えてくれないか?」
「ダメです」
「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」
「じゃあ、メルアドだけなら」
携帯の番号はもう篠原さんには教えてある。ここで同じ番号を教える訳にはいかない。メルアドはいくつかあるから、グーグルのメルアドを教えた。アドレスには名前が分かるような綴りは入っていない。
メルアドを教えてあげたら、篠原さんは安心したみたいで落ち着いて来た。それで二人で亜紀と山本さんが歌うデュエット曲をずっと聞いていた。それから私たちも一曲デュエットした。
約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、私と亜紀、篠原さんと山本さん。彼らは飲み直すと言っていた。私たちは少し行ったところで分かれた。
急いでマンションに戻ってきた。この時間にはもうコンシェルジェはいない。まだ、篠原さんは帰っていないと思うけど、念のため、ロビーの化粧室でメイクを落として、持ってきていた黒のスーツに着替えた。
メガネをかけて髪を後ろに束ねて、地味な結衣に戻った。部屋の玄関を入ると、篠原さんはやはり戻っていなかった。
私が帰ってから丁度1時間後に篠原さんが帰ってきた。丁度お風呂から上がって一息ついたところだった。「ただいま」というので「おかえり」と返しておいた。機嫌のいい声だった。
ベッドで横になっていると、メールが入った。篠原さんからだった。[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と書かれていた。
すぐに返信した。[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]