偽装同棲始めました―どうして地味子の私を好きになってくれないの?

篠原さんは結構帰りが遅くなる日が多い。独身者は気ままな生活を送っている。週末は必ず何かプライベートな予定を入れている。

ただ、夕食を食べて寄り道をしないで帰ると7時半ごろには帰ってくることが分かってきた。今日は10時以降となるとメールが入っていた。

夕食を終えて一息ついたところで、まだ7時だ。今日は何をしようか? カラオケの練習は十分にしたし、すこし飽きてきた。そうだ、思い出した。AVを見てみよう。あの時、驚いたけど、見ても良いと言ってくれた。

ビデオデッキの下段と言っていたけど、見ると表からはみえないところにケースがたくさん見つかった。20巻はある。ケースの写真は見るに堪えられない恥ずかしいものばかり。

一度亜紀が見せてくれたことがある。20巻もあると随分過激なものもある。これ本当に篠原さんの趣味? と思うようなものまである。こういうものまで私に見てもいいなんてよく言えたものだ。刺激が強すぎる。無神経過ぎる。

でも見てみたい。篠原さんの帰りが遅い時に少しずつ見せてもらうことにしよう。もちろん、分かると恥ずかしいから内緒で。見たことが分からないように気を付けよう。

今日のところは、入れたままにしてあったものにした。私もあんなふうだったかなと思い出してしまった。思い出したくもない辛い思い出になった。

亜紀が見せてくれたものと似たような内容だった。でも見終わるとすっかり疲れた。今日はここまでにしよう。不意に篠原さんが帰ってこないとも限らない。

ひと眠りしたら、玄関ドアの音で目が覚めた。篠原さんが帰ってきたらしい。時計を見ると11時を過ぎている。いつものように部屋のドアの音がしない。

いつもとは違うようなので部屋をでると篠原さんがトイレのドアのところで座り込んでいた。トイレの入り口にはゲロが吐かれていた。大変だ!

「どうしたんですか?」

「気持ちが悪い。また、吐きそうだ」

篠原さんが起上ろうとするので手を貸した。男性の身体は随分重い、ようやく立たせてトイレの中へ。篠原さんが吐いている。背中をさすってあげる。時間がかかったけど、2度吐いていた。

「ありがとう、もう全部吐いたから」

「大丈夫ですか? 洗面台でうがいをして、手を洗ったほうがいいですよ。着替えもして」

篠原さんに付き添って部屋まで行って、ウォークインクローゼットの中に入って、タオルと下着とパジャマを出して、それをベッドに置いて部屋を出てきた。

それからトイレの入り口の床のゲロの片づけをした。それからトイレの掃除をしていると篠原さんが部屋から出てきた。

「すまないな、俺の不注意だった。明日の朝、俺が掃除するから」

「気にしないでください。トイレ掃除は私の仕事ですから、それより大丈夫ですか?」

「ああ、全部吐いたら楽になった」

「こんなことは初めてですが、遅い時はいつもこうなんですか?」

「こんなに吐いたことはめったにない。会社勤めをしてから3回目くらいかな」

「何か面白くないことでもあったのですか?」

「いや、仕事の話に夢中になっていたので、喉が渇いて、飲み過ぎた」

「クールな篠原さんには似つかわしくないですね」

「俺がクール?」

「いつも冷静であまり感情的にならないですから」

「そうみえる?」

「はい」

「どちらかというと、気が短い性格でね。それを自覚しているから、できるだけ冷静になるようにいつも努めているだけだ。今日は仕事の打ち上げだったので、それもあって油断した。飲んで議論を始めるとつい夢中になってしまう」

「良い仕事仲間がたくさんおられて羨ましいです」

「白石さんにはそんな仕事仲間はいないのか?」

「いないこともありませんが、以前の会社の同僚くらいです」

話している間に掃除が終わった。これできれいになった。匂いも残っていない。

「申し訳なかったね。こんな時間にそれもゲロの後始末をしてもらって」

「トイレの掃除は契約のうちですから、お礼は必要ありません」

「これは想定外のことだろう」

「関係ありません」

「今度何か別にお礼をするよ」

「それより、もうこんなことが無いように飲み過ぎには注意してください。身体にもよくありませんから」

「分かった。気を付けるよ。コーヒーを入れるから飲まないか?」

「今、コーヒーを飲むのは胃には良くないと思います。吐いたばかりでしょう。白湯の方がいいんじゃないですか?」

「そうか、じゃあ、そうするか」

「明日は土曜日でお休みですから、ゆっくり眠って今日の疲れをとって下さい。篠原さんが起きてからゆっくり掃除を始めます。おやすみなさい」

私はそういうと部屋に戻ってきた。時計を見ると12時を過ぎていた。トイレ掃除はちっと余分だった。篠原さんはゲロを吐いて恐縮しているのか、弱気になっているのか、私のいうことを素直に聞いてくれた。まあ、ここで貸しを作っておくのも悪くはないと思う。
今日は朝の内に篠原さんから同窓会があるから帰りは10時以降と聞いていた。仕事が忙しかったので夕食が済むとベッドで休んでいると眠ってしまったみたい。携帯の音で目が覚めた。まだ8時半だった。篠原さんだ。

「これからマンションで2次会をすることになった。俺も含めて10人くらいだ。30分ぐらいで着くと思う。それで突然で申し訳ないが、以前言っていたように、給仕を手伝ってほしい」

「分かりました。それで服装はどうしますか?」

「そうだな、地味な方がいいから黒のスーツにエプロンというのはどうかな」

「分かりました。そうします。何か準備しておくことはありますか?」

「お酒は買い置きがある。途中のコンビニでつまみ、飲み物、ミネラルウオーターや氷を買っていくから、着いたらすぐにつまみを皿に盛りつけてほしい。それからグラスを人数分準備しておいてくれればいい。リビングダイニングの食器棚に入っている」

「分かりました」

すぐに着替えて、2次会の準備を始める。食器棚からグラスを10個出して洗っておいた。それから大きなお皿を3枚出してこれも洗っておいた。

もう来る頃かなと待っていると、玄関ドアが開いて、がやがやと大勢の人が入って来た。女性も3人いる。皆さん一様にリビングダイニングを歩き回っている。外を見ている人もいる。今の時間は夜景が美しい。

篠原さんから手渡された2個のレジ袋から品物を出して準備をする。

「ここが2次会の会場です。皆さん、遠慮しないで寛いでください。ここは11時でお開きにします。それまで2時間くらいありますので、カラオケでも歌ってください。カラオケには最新の曲も仕入れてあります」

「すごいところに住んでいるね。学生の時とは雲泥の差だな」

「親父のマンションだ。維持費は自分持ちなので、金がかかって困っている」

「ここに住めるならその位はいいじゃないの」

「彼女を紹介してくれないのか?」

「そうか、皆さん、手伝ってくれているのは俺の従妹で結衣といいます。ここに一緒に住んでいます。ただし、手出し無用でお願いします」

私を紹介してくれた。手出し無用か、もう少し言い方があると思う。小さくお辞儀して、準備を続ける。

「そういえば顔が似ているかな」

「まあ、そういうことにしておいてやろう」

誰かがそう言っているうちに、カラオケが始まった。それで皆の関心はカラオケに移った。

私はウイスキーの水割りを作って各人の席の前に置いて回る。3皿に盛ったつまみを座卓とダイニングテーブルに置いて回る。私の給仕を3人の女子が席で手伝ってくれた。

皆さんが交代で歌を歌っている。こうしてみると立派なパーティー会場になっている。篠原さんもこの様子を見て満足そうだ。始めは大勢のお客さんでどうなるのかと思っていたけど、なんとかなった。ダイニングテーブルの隅に立っているとお客さんから話しかけられた。

「夜遅くお手伝い大変だね。いつも今頃は何しているの?」

手出し無用と言ってくれたのに、話しかけられた。少し酔っているみたい。酔っぱらいとはあまりお話はしたくない。何と答えていいものか?

「おい、おい、俺の従妹にちょっかいをかけるのはやめてくれよ。せっかく機嫌をとって手伝ってもらっているんだから」

「そう言う訳ではないんだけどね、話してみたくなっただけだ、そう、目くじらをたてるなよ」

よかった。席に戻って行った。篠原さんは結構私に気を遣ってくれているのが分かった。私にテーブルの席に座っているように目で合図した。それからゆっくりと私に近づいて来た。

「すまないな、夜遅く、突然に」

「契約どおりですから、大丈夫です」

「11時にはお開きにするから」

「その方がいいです」

「君も一曲歌ってみる?」

「遠慮しておきます」

「君も友達をつれてきてパーティーをしたらいい。事前に分かれば、俺は遅く帰るなり部屋に閉じ籠るなりするから大丈夫だ」

「そのうちお願いするかもしれません」

「遠慮はいらない。ここで歌うなら費用はかからない」

「そう言ってもらえて嬉しいです」

丁度11時に篠原さんが声をかけて2次会はお開きになった。だらだらと続けないのが篠原さんの良いところだ。参加者全員が私にも挨拶して引き上げて行った。篠原さんは下まで皆さんを送りに行った。

すぐにリビングダイニングのガラス戸をすべて開けて室内に風を通して空気を入れ替える。夜風が気持ちいい。その間にテーブルの片付けを始める。

グラス10個とお皿が3枚だからすぐに片付いた。テーブルと座卓の上を雑巾がけしてお仕舞い。ガラス戸を閉め終えたところへ篠原さんが戻ってきた。

「もう片付けてくれたんだね、ありがとう」

「皆さん、楽しまれているようでよかったですね。誰でもここへ来ると驚くと思います」

「維持費が高いから有効に使わないとね」

「篠原さんは恵まれています。ご両親に感謝しないと」

「白石さんのご両親は健在なの?」

「母一人子一人ですが、母は元気にしています。今は離れて暮らしていますので、親不孝をしています」

「一度ここへ連れて来たら、そして泊ってもらうといい」

「ありがとうございます。でも母は仕事が忙しくて来られないと思います」

「ところで、お礼を支払っておきたいけど、3時間だから3千円でいいか?」

「そうですね、時間的には3時間にはなっていませんが、それでよろしければいただきます」

「ありがとう助かった。コンビニの買い物を含めても安上がりだった。次の機会も頼めるかな?」

「はい、喜んで。人の歌う歌を聞いているのも楽しいですね。選曲で人柄が分かります」

「もう遅いから、休もう、おやすみ」

「おやすみなさい」

なかなか素敵なパーティーだったと思う。せっかくこんなよいところに住んでいるのだから私も友達を招いてパーティーをしてみたい。
昼休みに亜紀からメールが入った。

[今週の金曜日、合コンのメンバーが1名足りないので来てくれない?]

すぐに電話する。

「亜紀、無理よ、まだそんな気になれないから」

「そんなこと言って引っ込んでいないで、気分転換に出てきたら、いつまでも過去を引きずっていたらだめよ」

「そうは言っても、着ていく服もないし」

「服は私が貸してあげるから、結衣に似合いそうな服があるから」

「でも」

「以前の結衣に早く戻ってほしいと思っているの。明日会える? 服を渡すから」

「分かった。とりあえず明日会いましょう。例の場所で6時半に」

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約束のファーストフードで待っていると、包みを持った亜紀が現れた。

「ごめん、少し遅れて」

「気にしないで、でもやっぱり行かない」

「せっかく似合う服まで持ってきたのに、どうしても1名足りないの、だからお願い。座っているだけでいいから、私の顔を立てて」

「分かった。それなら亜紀のために行くから」

「それで、来るときは以前のように可愛い結衣できてほしいの。メガネを取って、お化粧もしっかりして、お願い!」

「はいはい、お世話になっている亜紀のために、できるだけ可愛く変身して行きます。場所と時間を教えて」

「その気になってくれてよかった」

「ところで、先方はどんな人たちなの?」

「先方の幹事さんは有名私立大学の同窓会の幹事をしていると言っていた。私は友人の都合が悪くなって幹事を頼まれただけなの。身元は確かな人たちだと聞いているから」

「まあ、どんな人たちでもいいわ、亜紀の顔を立てるだけだから」

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合コンの日、集合は7時だったけど、15分前に会場に到着した。亜紀と先方の幹事が相談をしていた。その先方の幹事が誰だか遠目でもすぐに分かった。

なんと篠原さんの親友の山本隆一さんだった。こともあろうに同じ会社の人でそれもあの立会人になってくれた山本さんが幹事とは困ったことになった。

亜紀は丁度こちらを見たので、離れたところから、口に人差し指を当てて黙ってと合図して、手招きした。亜紀は私の意図が分かったようで、すぐにこちらへ来てくれた。

「亜紀、大変、あの幹事さん、私の会社の山本さんなの。それも今のマンションの契約をするときの立会人だった人。こんな姿を見られたくない」

「大丈夫、今の結衣なら、あなたの会社の人でも絶対に気が付かないと思う。まず、あの山本さんで試してみる?」

「きっと分かる」

「大丈夫だから」

「分かった。試してみるわ。でも絶対に白石結衣と本名で呼ばないで、私の名前を知っているから」

「じゃあ、何と呼べば良い?」

「ううーん、そうね、絵里香、石野《いしの》絵里香《えりか》と呼んで」

「分かった、絵里香ね、石野絵里香」

「じゃ、試してみましょうか? 石野絵里香さん」

亜紀が私を山本さんのところへ連れて行く。

「山本さん、ご紹介します。こちら石野絵里香さんです」

「はじめまして、幹事の山本隆一です」

「なかなか素敵な方ですね。今日来られる人があなたのような方ばかりだと楽しいですね」

「私は合コンにはあまり出たことがないので」

「座っているだけでいいですから」

「そう言っていただけると気が楽です」

私は幹事の亜紀の隣の席に坐った。そうこうしていると、一人、二人と参加者が集まりだした。両方の幹事が座る席を案内している。来た順に席を詰めて座って行く。亜紀が席に着いたので、小声で話しかける。

「亜紀の言ったとおり、気が付かなかったので、ほっとしたわ」

「言ったとおりでしょう。それにここは少し暗いから余計に分からないと思うわ。自信をもって」

「分かった。それで自己紹介とかはあるの?」

「乾杯が終わったら一人一人簡単にすることになっているけど」

「どうしよう」

「どうせ偽名を使うんでしょう、会社なんかも適当に某商社とか某IT企業とか言っておけばいいでしょ」

「分かった」

7時を過ぎたころには、ほぼ人数が集まった。幹事の山本さんが立って挨拶を始めた。

「本日はお忙しいところありがとうございます。申し訳ありませんが当方の男子1名がまだ到着していませんが、お腹も空いていることですし、すぐに乾杯をして始めたいと思います。喉を潤したところで、簡単な自己紹介をしていただく予定です。それから9時ごろから2次会を予定しています。では乾杯」

乾杯が終わると、皆お腹が空いているので食べ始める。私も目の前にある料理を少し食べた。ここはイタリアンパブなのでピザなどが並んでいる。

しばらくして皆のお腹が落ち着てくると、幹事の山本さんから順に自己紹介が始まる。長くしゃべる人、簡単に済ませる人、ひとそれぞれだけど、聞いていると人柄が出ている。

私の番になったので、名前は石野絵里香、勤務先は某商社と言うことにした。合コンは久しぶりで人数合わせに急遽頼まれてきたことを素直に話した。

ひととおり自己紹介が終わると前の人や横の人など関心のある人と話し始めている。私は亜紀が山本さんと話をするのを黙って聞いていた。正面の人が私に話しかけるが、ほどほどの返事しかしないので、すぐにあきらめた。人の話を聞いている方が面白くてためになる。

8時近くなって男子が1名会場に来た。すぐに幹事の山本さんが話をしに行く。よく見るとその人は篠原さんだった。まずい! 小声で亜紀に話しかける。

「亜紀、大変、篠原さんが来た。どうしよう」

「私は前に一度会っているね、私を覚えているかしら?」

「分からない。あのとき亜紀はすぐに帰ったから。でも亜紀も今日は化粧をしっかりしているし、どうかな」

「私のことが分からなったら、結衣は絶対に分からないから心配しなくてもいいわ。石野絵里香をしっかり演じていればいいから」

「分かった」

山本さんが遅れてきた篠原さんを皆に紹介する。

「こちらが俺の親友の篠原真一君だ。歳は32歳、決まった相手はいないと聞いているから、今日来てもらった」

「篠原真一です。隆一と同じ会社に勤めています。どうぞよろしく」

皆、立ち上がって、乾杯をした。篠原さんは一番遠くの端の席に座った。まずは一安心。会場はもう前の賑わいに戻っている。

時々、篠原さんの様子を伺う。前の席の女子と話をしながら食べている。このまま離れていれば大丈夫だと思う。

篠原さんが席を立った。トイレかなと思っていると、私の斜め前に座っていた男子がトイレに立った篠原さんの席に移った。困ったなと思っていたらトイレから帰ってきた篠原さんが空いていた斜め目前の席に座った。

私は彼と目を合わせないように隣の女子の話を聞いて相槌を打っている。ひょっとすると見られている? 視線を感じるがそっちを見ないようにする。幸い話しかけてはこない。

すると一番端の席が空いたのが見えた。なにげなく席を立ってその空いた席に移った。これで一安心。でもどうも視線を感じる。

私の前の席が空いた。きっとここへくる。どうしよう。やっぱり、篠原さんがすぐにきた。そして今度は話しかけて来た。

「ほかの人の話を聞くのが好きなんだね」

「はい、私は話すのが苦手なので」

目を伏せて、顔を見ないように、彼を避けるようなしぐさをする。これで諦めてくれれば良いと思っていた。でも諦めてくれなかった。

「折角だから話をしないか?」

「今日は頼まれて人数合わせでここへ来ただけです。ですから」

「俺も幹事の隆一に人数合わせで呼ばれたから来ただけだから」

「そうなんですか」

「じゃあ、同じ助っ人ということで話そう」

「本当に話し下手なので、お話を聞くことは好きですから、何か話してください。身のまわりのことだとか、自己紹介でもいいです」

「そう言われてもなあ、自分のことはあまり話したくないな、自慢するみたいで」

「それならどうして来られたのですか? 彼女を見つけるためではないのですか?」

「話をしたら彼女になってくれるのか?」

「それは」

「君もここへ来たというのは頼まれたからだけじゃないだろう。その気があったからだろう。いい男がいないかと」

「私はどうしてもと頼まれたからです。この服も貸してもらいました」

「そうなのか、道理で会社帰りには見えなかった」

「家で着替えてきました」

「名前はなんというの?」

「名前ですか?」

「教えてくれてもいいじゃないか?」

「石野、石野絵里香です」

「絵里香か、いい名前だ。歳は大体想像がつく」

「確か、幹事さんが篠原さんと紹介していましたね」

「そうだ。彼とは同じ会社の同期で親友だ」

「良い会社にお勤めなんですね」

「それほどでもない。いいかげん辞めるかもしれない」

「そうなんですか?」

「先のことは分からないからね」

そこで、幹事が「この場はこれでお開きにして2次会に移りたい、会場は隣のビルのカラオケを予約してある」と言っている。助かった。これで帰ろう。

亜紀のところへ行って帰る挨拶をする。

「私はここで帰ります」

「カラオケも付き合って、全員行くから、お願い」

「でも」

「篠原さんは気が付かなかったでしょ、大丈夫だから、お願い」

「分かった」

しぶしぶ付き合うことになった。篠原さんとはできるだけ離れた席に坐ろう。

カラオケ会場は1次会のイタリアンパブのすぐ隣のビルだった。10人は入れる大きめの部屋に全員が収まった。ここで11時くらいまで交代で歌うのだという。私は一番端に席を取った。でも篠原さんが私の隣に席をとった。

歌が始まった。ここはステージがあるので歌い手はステージへ行って歌う。私は横を見ないようにして、歌い手の方を見るようにしていた。篠原さんは話しかけてこない。でも視線は感じている。

私に歌の順番が回ってきた。亜紀が歌ってと向こうから促していた。カラオケは練習してきたこともあるので思い切って歌ってみることにした。曲は『レモン』にした。

歌い出しは上手く曲に入れた。淡々と情感を込めて歌う。歌っていても良い曲だと思う。長い曲だけどほとんど音程を外すことなく歌えたと思った。皆、すごく拍手してくれた。ほっとして席に戻ってきた。

「とても上手だね」

「相当練習をしましたから。もともと歌を聴くのは好きですが、歌うのは苦手です」

「ほかに好きな曲はないの?」

「もうひとつありますが、それも練習中です」

「そのうち、聞かせてくれないか」

「うまくなったら歌ってみます」

「是非、聞かせてほしい」

今度は篠原さんの番だ。曲をセットしてステージへ行った。歌い始めたが、初めて聞く曲だった。曲名は『さよならをするために』という曲だと分かった。あのときの『レモン』も上手だったけど、この曲もとても良かった。歌は上手いみたい。

「良い曲ですね。センスがいいです」

「そういわれると悪い気がしない。ほめ上手だね」

「選曲で人となりが分かります。結構、センチなんですね。そうは見えませんが」

「確かにそうかもしれない。でも初めてそう言われた」

「私も今の曲、好きになりそうです」

「同じセンスなのかもしれないね」

「どうでしょうか?」

それから私はできるだけ歌を聞くようにして篠原さんとはお話をしないようにした。彼は私のことを只見ているだけになった。そっけなくしたからあきらめた?

私に2巡目が回る直前に時間になった。席を立とうとすると彼から携帯の番号を聞かれた。ごめんなさいと丁寧に断った。携帯は1台しか持っていないのに、携帯の番号なんて教えられる訳がない。

すぐに亜紀のところへ行って、これで帰ると挨拶をすると、急いでその場所を離れた。ここからマンションへは歩ける距離だ。急いで小走りに帰る。篠原さんよりも早くマンションにたどり着いていなければならない。息が切れた。後ろを振り返るけど、誰もいない。

エレベーターに乗って、部屋の入口まで来てほっとした。

まさか先に帰っていることはないだろう。静かに玄関ドアを開けると、篠原さんの靴が脱いであった。先に帰っていた。まずい! 静かに玄関ドアを閉めたつもりだけど、音が響いた。

急いで、靴を仕舞って、部屋に走って入る。後ろの方から「おかえり、おやすみ」と声をかけられた。びっくりした。私の姿を見られた? 大丈夫だと思う。篠原さんの部屋のドアは閉まっていたから。

部屋のうち鍵をかけて、ほっとした。先に帰っているとは思わなかった。すぐにお風呂に入って化粧を落とした。疲れた! でもお風呂は気持ちいい。心地よい疲労。お風呂で眠りそうになる。

それにしても思いがけないことばかりの一日だった。まさか、篠原さんと合コンで鉢合せするなんて想像もしなかった。幹事が山本さんであったので悪い予感はしていた。

でも篠原さんは間違いなく私に関心を持った。地味ないつもの私に持つ関心とは別の女性としての関心だと思う。見た目でこうも接し方を違えるものなのか? 

今日の私は地味なスタイルになる前の着飾った私だった。コンタクトをして、髪形を変えたし、お化粧も工夫していたので、結構可愛かったと思う。でも今の私にとって、絵里香は仮の姿でしかない。

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翌朝は目が覚めるともうお昼に近かった。疲れていたこともあってぐっすり眠れた。合コンは疲れたけれども結構ストレスの解消になったと思う。

篠原さんもお昼頃まで寝ていた。彼が起きたところで私は掃除と洗濯を始めた。

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月曜日の昼休みに亜紀から携帯に電話が入った。

「結衣どうだった? 彼より早く帰れた?」

「急いで帰ったけどもう帰って来ていた。でも、そっと部屋に入ったからバレなかった」

「ごめんね、無理に参加してもらって、山本さんがあなたの会社の人とは知らなかったの。大学の友人の紹介だったから」

「でも結構スリルがあってストレス解消にもなったわ、ありがとう」
その週の水曜日、昼休みに亜紀から携帯に電話が入った。

「結衣、相談があるんだけど、この前の合コンの幹事の山本さんから連絡があって、あの篠原さんが絵里香を気に入ったみたいで、もう一度会いたがっているから、都合を聞いてもらえないかと頼まれた。どうする?」

「どうするって言われても」

「もう一度会う? それとも結衣から篠原さんに絵里香は私だって話す?」

「どちらもいやだなあ」

「結衣は篠原さんから女としては見られていないんでしょう?」

「そうです。全くの対象外」

「それなら、絵里香になり切って、篠原さんを翻弄して、見返してやったらどうなの? それが一番のリハビリになると思うけど」

「あまり気が進まないけど」

「山本さんも篠原さんも絵里香が白石結衣だとは夢にも思っていないから、とりあえずもう一度会ってみたら?」

「うん、でも1対1では会いたくないわ。また合コンでもあれば行っても良いけど」

「じゃあ、そう伝えるね。それから絵里香さんは今、男性不信だからお付き合いはしたくないみたいだ、とも言っておくから」

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その日、夜遅く、亜紀から電話が入った。

「山本さんに1対1では会いたくないから、合コンでもあったらまた参加すると言っていると伝えたら、亜紀と私、山本さんと篠原さんの2対2ならどうか? といわれた。それならいい?」

「亜紀が一緒に来てくれるならまあいいけど」

「分かった。それならそう連絡するね」

すぐに亜紀から電話が入った。

「今週の金曜日8時からどうかといってきたけど都合は?」

「大丈夫、いつも夜は空いているから。でも長くても2時間くらいの方が良いわ。カラオケなら2時間くらいでも間が持つから良いと思う」

「じゃあ、8時からカラオケでどうかと言ってみる」

「亜紀に任せるわ」

「私も山本さんは悪くないと思っていたから丁度よかった」

結局、今週の金曜日8時集合、2対2でこの前の2次会の会場でカラオケをすることになった。

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約束の金曜日が近づいて来た。相変わらず篠原さんは私を女として見ていない。せいぜい、年配のおばさんくらいにしか思っていない。次第に絵里香になって見返してやろうという気になってきた。

絵里香に変装するのは良いとして、そのまま帰ってきて、この前のように篠原さんが先に帰ってリビングダイニングにいたら鉢合わせしてばれてしまう。

行きは、篠原さんは会社から直接行くだろうから、私は一度帰ってきてここで着替えていけばよい。でも、帰りはどこかで着替えて地味な結衣に戻って帰って来た方が良さそうに思う。

マンションのロビーの女子トイレで着替えて化粧を落とすという方法もある。そうしよう。それが無難だ。

明日、着ていく服を探す。亜紀からこれ以上借りる訳にもいかない。派手な服は処分したので、おとなしいシックな服は残してあった。まあ、これでいいか? 服を合わせてワクワクしている自分に気が付いた。いやいや行くのにどうしてか分からなかった。

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金曜日、仕事は定時に終えることができた。用事を頼まれないうちに退社する。急いでマンションに帰って、シャワーを浴びてから、着替えて、お化粧をする。夜だから少し濃い目にする。

亜紀と7時に会って夕食を一緒に食べることにしている。まあ、事前の作戦会議みたいなもの。カラオケのあるビルはそこから歩いて4~5分の距離にある。

その近くの割安のレストランに行く。時間には間に合った。先に亜紀がいて席を取ってくれていた。

「亜紀付き合ってくれてありがとう」

「結衣のことが心配だから。付き合ってみようと思えば、地味な結衣だとばらせばいいだけのこと。気楽にいけば」

「そうでもないの。何か納得のいかないところがあって」

「納得って」

「私の意地かな。地味な私には見向きもしないで、可愛いだけの絵里香に惹かれるなんて。だから、男は信用ができない」

「そうむきにならないで冷静に彼を観察したらどうなの? 違う一面が見えるかもしれないから」

「裏の顔はよく見ていると思うけど、どれが本当か分からない」

「どちらも本当の彼よ」

「まあ、じっくりと見極めてみます」

「気の済むようにしたらいいわ」

8時少し前になったので、店を出た。集合場所はここから目と鼻の先だ。遠目で待っている二人が見えた。近づくと篠原さんは亜紀のことをじっと見ている。あの時、会っているから思い出さないといいけど。

挨拶を交わすと山本さんが私たちをエスコートしてカラオケ店へ入る。その後から篠原さんが続いた。約束どおり時間は2時間にした。

案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れてよかった。私たちは奥側の席に座った。飲み物を注文した。山本さんたちはハイボールを頼んだけど、私たちはノンアルコールでウーロン茶とジンジャエールにした。

最初は話がしにくい雰囲気なので、山本さんが「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。幹事を頼まれるだけはある。気を使ってくれている。山本さんが歌っている間、私はずっと歌うのを見ていた。

篠原さんが私をずっと見ているのは分かっていたが、目を合わせないようにした。終わると拍手をする。続いて、亜紀が1曲歌う。私は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。

「彼女、名前は何と言ったっけ?」

「山内さんです」

「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がするけど」

「この間の合コンでしょう」

「そうかな、まあいいか。それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」

「はい、お願いします」

篠原さんが歌い始めた。この前の『さよならをするために』を歌う。この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。私の方を見て歌うので見ていないとしょうがない。歌い終わると拍手をする。篠原さんは嬉しそうだ。

次は私の番になった。あれから何回か練習したので少しは上手くなったと思う。終わると皆、拍手をしてくれた。

「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」

「あれから練習しましたから」

「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」

「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」

「じゃあ、その気がないこともない訳だ」

「今はお付き合いなんかしたくありません」

「少しリハビリをした方がよいと思うけど」

「リハビリしても元に戻らないこともあります」

「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」

「話したくありません」

「彼女には聞いてもらったんだろう。男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」

「まあ言われてみれば、全く無関係の人だから、差し障りはないかもしれませんね」

「話す気になってきた?」

「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」

「してもらえなかった?」

「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」

「難しいところだね」

「それで山内さんに相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」

「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」

「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことにして分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」

「俺だったらそんなことはしない。君を守ったと思う」

「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」

「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」

「どうしてですか」

「いずれ辞めようかとも思っているからだ」

「それならそういう発言もできると思います」

「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」

「ううーん、そうだね」

「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」

「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」

さすが山本さん、私たちが感情的になりそうなのを聞きつけて仲裁に入ってくれたみたい。気遣いのできる人だ。これ以上この話はしたくない。

今歌っている曲は私の知らない曲だ。それに篠原さんは考え事をしているのか情感が入っていないのが分かる。終わったので拍手をする。

「次は君の番だ、新曲を頼みます」

「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」

「それも俺の好きな曲だ」

人前でこの歌を歌うのは初めてだから緊張する。でも情感を込めて歌えた。上手く歌えたと思う。最近ではこの曲が一番好きで、つい感情移入してしまう。

「これが今の君の心境なのか?」

「どうお思いになるかはあなたの自由です」

「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出せない。申し訳ない」

「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」

「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」

亜紀が山本さんと話している。二人は気が合うみたい。時々二人でこちらを見るのは私たちのことが気になっているのか、私たちを話題にしているのかどちらかだ。そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。

「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ。幹事同士で気が合うみたいだな」

「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」

「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」

「分かりません?」

「携帯の番号を教えてくれないか?」

「ダメです」

「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」

「じゃあ、メルアドだけなら」

携帯の番号はもう篠原さんには教えてある。ここで同じ番号を教える訳にはいかない。メルアドはいくつかあるから、グーグルのメルアドを教えた。アドレスには名前が分かるような綴りは入っていない。

メルアドを教えてあげたら、篠原さんは安心したみたいで落ち着いて来た。それで二人で亜紀と山本さんが歌うデュエット曲をずっと聞いていた。それから私たちも一曲デュエットした。

約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、私と亜紀、篠原さんと山本さん。彼らは飲み直すと言っていた。私たちは少し行ったところで分かれた。

急いでマンションに戻ってきた。この時間にはもうコンシェルジェはいない。まだ、篠原さんは帰っていないと思うけど、念のため、ロビーの化粧室でメイクを落として、持ってきていた黒のスーツに着替えた。

メガネをかけて髪を後ろに束ねて、地味な結衣に戻った。部屋の玄関を入ると、篠原さんはやはり戻っていなかった。

私が帰ってから丁度1時間後に篠原さんが帰ってきた。丁度お風呂から上がって一息ついたところだった。「ただいま」というので「おかえり」と返しておいた。機嫌のいい声だった。

ベッドで横になっていると、メールが入った。篠原さんからだった。[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と書かれていた。

すぐに返信した。[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]
篠原さんにメルアドを教えたら、あれから毎晩メールが送られてくるようになった。まあ、できるだけ返事はしてあげるようにしている。

一度、篠原さんがリビングダイニングでスマホをいじっていると思ったら、私のスマホにメールの着信音が鳴った。驚いてスマホを見ると篠原さんからだった。

篠原さんには私のスマホの着信音が聞こえたと思うけど、私にメールを送っているとは全く気が付かなかった。さすがにその時はその場で返信するとまずいと思ったので、部屋に戻って寝る前に返信した。

まあ、メールをもらったら儀礼的な内容を返信する。それに私からはメールをしなかった。

そのうち、二人だけで会いたいと言う内容のメールが増えた。食事を一緒にしたいとか、また、絵里香の歌を聞きたいとか、でも何がしかの理由をつけては断っていた。「食事ならいつも朝食を一緒に食べています」と言いたかった。

いつまでこういう実りの無いメールを送って来るのだろう。逃げるとなおさら追いかけたくなるのだろうか。困ったものだ。

とうとうどういう条件なら会ってくれるのかと聞いてきた。これには困った。「会う必要はありません。もう毎日会っています」が本音だけど、これを言う訳にもいかない。

しかたがないので条件を出した。周りに人がいる場所であること、高級なところでないこと、割り勘にすること、週末の8時以降、1時間くらいということにした。

すぐに返信が来た。シティホテルの最上階のラウンジを提案してきた。なるほどそこなら周りに人もいるし、雰囲気もいい。テーブル席をとればゆっくり話ができる。値段もまあそこそこだ。さすが篠原さん、こういうことには慣れている。

私はその提案を受け入れた。そして来週の金曜日の8時に会う約束をした。ここまで言われたので、会う約束をしてしまった。まんざら悪い気はしなかった。

いつもの私には目もくれない篠原さんがこうまで言ってくるのがおかしくもあった。男の人は見た目だけでこうも違う扱いをするの?

************************************
約束の時間にラウンジに着くと、もう篠原さんは来ていた。そして私の来たことに気が付くと手を振って合図してくれた。

窓際の席に近づくと、私の姿をじっと見ているのが分かった。今日は私が昔着ていた服にした。毎回、亜紀から借りる訳にもいかない。

元々学生時代からぎりぎりの生活をしていたから就職して自由に服が買えるようになっても、できるだけ長く着られる流行に左右されないデザインの服を選んでいた。夜だから派手にすることもないと思ったので今日のコーディネイトは直ぐに決まった。

「また会えてうれしい。よく来てくれたね、飲み物は何にする?」

「ジンジャエールでお願いします」

篠原さんはすぐにジンジャエールとジョニ黒の水割りとつまみを何品か注文してくれた。注文した飲み物が来るまで間が持たないので、私が先に口を開いた

「私と会いたいとおっしゃって言いますが、何が目的ですか?」

「目的?」

「どういうことを考えているんですか?」

「独身の男女が会うのに理由がいるのか?」

「それを聞きたいのです」

「俺は君に会ってどことなく惹かれた、いや頭の中から君が消えないんだ」

「私のどこに惹かれたんですか?」

「はっきりとは言えないんだが、君は綺麗でとても可愛い。それに時々見せる悲しそうな何かに惹かれる」

「それで私と会ってどうしたいんですか?」

「君のことをもっと知りたいと思って、それじゃだめなのか?」

「もう十分に分かっていらっしゃるじゃないですか?」

「何も分かっていない。だから付き合いたいんだ。自分から付き合いたいと思ったのは君が初めてだ。そして、付き合いたいと言ったのもこれが初めてだ。いままでこんな気持ちになることはなかった」

「綺麗で可愛いとおっしゃいましたが、綺麗で可愛くなかったら、どうなんですか?」

「どうって?」

「もし私があまり可愛くなかったらどうなんですか?」

「うーん、そうだな、どうか分からない」

「じゃあ、外見が好きなだけじゃないですか」

「だから、付き合って君のことが知りたいと言っているんだけど、普通はそうじゃないのか」

「そうかも知れませんが、私はそういうのはいやなんです」

「君の言っていることがなかなか理解できない」

「あなたには理解できないと思います。だから、お付き合いを躊躇するんです。本当の私を見てくれそうに思えません」

「恋人に守ってもらえず裏切られたと聞いたけど、そのことが何か関係しているのか? 俺は恋人を裏切ったりは絶対にしない」

「どうしてそう言い切れるのですか? ご自分の将来がかかっていたとしたらどうですか?」

「仮定の話には答えられないな」

「そうでしょう。確信がないでしょう」

「私を守ると誓えますか」

「今の段階では付き合ってもいないから何とも言いようがない」

「私があなたの恋人になったとしたら、裏切らないと誓えますか、守ってくれますか?」

「その時は約束する」

「人を見かけから好きになる人は本質を見ることができないのではと思っています。私は本当のあなたを見たいと思います」

「それなら付き合ってくれるのか?」

「はい、お望みならば、お付き合いします」

「よかった。ありがとう」

「もう一緒に暮らしているのですよ、いまさら、ありがとうですか?」と言いたかった。

後は何を話していたか、覚えていない。元彼を思い出して随分と愚痴や不満を言っていたような気がする。

篠原さんはお付き合いすると言われたことで舞い上がってしまったようで、私の話をずっと聞いてくれた。思いのほか優しかった。

1時間の約束だったので、9時に私は帰って来た。一緒に帰ろう、送ろうかとも言われたが寄るところがあるからと言って一人でラウンジを後にした。篠原さんはもうしばらくここにいると言っていた。

篠原さんとお付き合いをする約束をしてしまった。強引と言うか一途な申し出を断れなかった。まあ、嬉しかったのかもしれない。

元彼にもあんなに強引に付き合ってくれとは言われなかった。どちらかというと私の方が積極的だったような気がする。好きな人より好きになってくれる人がよいのかもしれない。

少し浮き浮きした気持ちで帰ってきた。マンションにはもうコンシェルジェはいない時間だった。ロビーの女子トイレで地味な結衣に戻った。マンションの部屋には篠原さんは戻ってきていなかった。

私の部屋で一息ついていると30分ほどして篠原さんが戻ってきた。「ただいま」の声が聞こえたので「おかえりなさい」と返した。

すぐに篠原さんからメールが入った。[今日はありがとう。付き合ってくれると聞いて嬉しかった。おやすみ]

すぐに返信した。[今日はお話ができてよかったです。少しだけあなたのことが分かりました。おやすみなさい]
今日は帰りが遅くなった。4半期の決算が近づいているので何かと忙しい。7時に着いて夕食の支度をした。いつもならそろそろ篠原さんが帰ってくるころだ。

夕食を食べていると、篠原さんの部屋のドアが突然開いて、パジャマ姿の彼が出てきた。

「帰れられていたんですか? 気が付きませんでした」

「体調が悪いので早退して、部屋でずっと寝ていた」

「大丈夫ですか?」

「風邪か、インフルエンザかもしれない。熱がある」

「お医者さんに診てもらいましたか?」

「いや、たいしたことはないだろうと思って様子を見ることにした」

「お薬は飲んだのですか?」

「頭も痛いので解熱鎮痛剤を飲んで寝たら汗をかいた。今着替えをしたところだ。俺に近づかない方がいい。移るといけないから。それに手をよく洗ってうがいをしておいた方がいい」

「私に何かできることはありますか?」

「特にないけど、何かあればお願いする。その時は携帯に電話するから」

「そうしてください」

篠原さんは冷蔵庫から、買ってきたというサンドイッチとケーキとポカリを取り出してすぐに部屋に戻っていった。そういえば冷蔵庫に買ったはずのないものが入っていた。

私に移さないように部屋でひとり食べるつもりだ。ひどくならなければいいけど。

夜中に物音がするのに気づいた。もう4時を回っていた。ドアを開けて顔を出すと篠原さんがいた。

「大丈夫ですか?」

「喉が渇いたから、飲み物を取りに来た」

「電話してくれれば、持って行ってあげたのに」

「折角眠っているのに起こすのも悪いと思って」

「こんな時は遠慮しないで下さい。それより本当に大丈夫ですか?」

「寒気がして熱が出た。解熱剤を飲んだら、また汗をかいて、下着やパジャマを取り換えた」

「下着やパジャマはまだ新しいのはあるのですか」

「もう一組くらいはあるから大丈夫だ」

「熱は?」

「今は37℃。これより下がらない」

「明日、医者にかかった方がいいです。必ず行って下さい」

「様子をみてからでいいだろう」

「必ず行って下さい。約束してください」

「分かったよ。それほどまでいうなら行くよ」

「朝になったら、朝食を準備して、洗濯をしますから、それまでゆっくり休んで下さい」

篠原さんは部屋に戻った。熱があるのか、辛そうだった。

************************************
7時に篠原さんの部屋のドアをノックする。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。今、熱を測る」

「どうですか?」

「38℃ある。今日も休むから」

「下着とパジャマを着替えて、とりあえず、朝食を食べませんか? 食欲はありますか?」

「お腹は空いている。すぐ行く」

篠原さんがリビングダイニングへ出てきた。私は朝からマスクをつけている。

「私はもう済ませましたので、ゆっくり食べてください。その間にシーツと枕カバーを取り換えて洗濯します」

私は部屋に入って、ベッドのシーツや枕カバーを新しいものに交換した。それから着替えをした衣類も洗濯機に入れて洗濯を始めた。そこへ朝食を終えた篠原さんが入って来た。

「洗濯機はこのままにしておいてください。お昼に来て乾いた洗濯物を片付けますから」

「自分でするから、いいよ」

「言うとおりにしてください。身体を大切にしてください。それから必ずお医者さんへ行ってください。約束してください」

「必ず行くから」

「それより白石さんに移らないか心配している」

「心配ご無用です。インフルエンザの予防注射は毎年必ずしています。今までインフルエンザにかかったことはありません」

「でも油断しないで」

「大丈夫です。今も気を付けています」

篠原さんがベッドに横になるのを見届けると部屋から出て来た。洗濯機は勝手に回って乾燥もしてくれるから、これで大丈夫。

念のため、出社する前に、部屋へ行って念を押す。

「いいですか、お医者さんへ行ってくるのですよ。それからお昼に見に来ますからね」

大丈夫だろう。子供じゃないのだから。でもやっぱり元気がなかった。ちょっと心配だ。

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昼休みに急いでマンションに戻ってきた。1時までに戻らなくてはならないので時間は余りない。部屋をノックして顔を出す。

「お医者さんへ行ってきましたか?」

「ああ、行ってきた。お薬ももらってきた」

「なんと言われましたか?」

「インフルエンザA型、2~3日安静にしているように言われた」

「じゃあ、おとなしくしていてください」

「そうするしかないだろう」

部屋に入って、洗濯機から乾燥した衣類などを出して畳んで、クローゼットにしまった。

「お昼はどうします」

「コンビニでパンを買ってきたから後で食べる」

「今は、その位がいいですね。夕食はいつも作っていますから、それを食べてください。お腹にやさしいもの考えますから」

「食べに行けないのでお願いできるかな、助かる」

「じゃあ、おとなしく待っていてください」

そう言って、私は部屋を出て、会社へ急いで戻った。いつもの篠原さんはどこかへ行って弱気になっている。可愛いところがある。

夕食は何を作って上げようか? 母親がいつも風邪を引くとうどんを作ってくれた。それにしよう、簡単だ。
今日は少し早く帰れた。早く帰りたい日に限って仕事が忙しい。仕事はままならない。お給料をもらっているのだから、そんなものだと思っている。

部屋のドアをノックして顔を出す。ベッドで起き上がってテレビを見ていた。

「どうでした?」

「よく眠れた。でもまた寝汗をかいたので、下着を交換した。洗ってもらったので助かった。ありがとう」

「それはよかったです。待っていてください。夕食を作ります」

すぐに夕食のうどんと卵焼きを作る。すぐに出来上がり。病気の時はこれくらいでいい。

「簡単ですが、夕飯ができましたから、食べに来てください」

「ありがとう。ご馳走になります」

部屋から出てきたが、やはり元気がない。

「お腹にやさしいようにうどんにしました。あと卵焼です。簡単ですが消化の良さそうなものにしました」

「ありがとう」

「うどんはお代わりがありますから、たくさん食べて下さい」

すぐに食べてお代わりをしてくれた。食欲はあるみたいで安心した。卵焼きも残さずに食べてくれた。お腹が空いていたのかすぐに食べ終わった。私は食べるのが遅い。ようやく食べ終わった。

「ごちそうさま、おいしかった、ありがとう。身体も温まった」

「病気の時はこのくらいがいいと思います。もう少し良くなったら肉料理にします」

「治るまでお願いできるかな」

「いいですよ。ひとり分も二人分も手数が同じですから。いつも多めに作って冷凍保存していますから、大丈夫です」

「白石さんがいてくれてよかった。でもインフルエンザが移らないように気を付けてくれ」

「早く休んでください。また、熱がでますよ」

そういうと、部屋に戻っていった。夜中は起きて出てこなかったみたい。気が付かなかった。

************************************
朝、顔を出すと昨日よりも元気に見えた。少しは良くなったみたいでよかった。

「どうですか?」

「熱は下がったので、出勤しようかと思っている」

「絶対に今日は休んで下さい。無理しないで下さい」

「もう大丈夫だから」

「私の父はそれがもとで亡くなりました。だから行かないで休んでください」

「知らなかった。お父さんはこれがもとで」

「朝食を召し上がって下さい。準備ができています」

テーブルにいつものトーストとミックスジュースを用意しておいた。

「お腹にやさしくて水分が取れるものを考えました。ジュースには牛乳、ヨーグルト、バナナ、リンゴ、ニンジン、キャベツが入っています。たくさん飲んで下さい」

美味しいと言って3杯も飲んでくれた。

「本当に今日も1日休んでください。お昼に見に来ますから、その時昼食になにか買ってきます。いいですか安静にしていてください。約束ですよ」

篠原さんは部屋に戻っていった。朝食の後片付けをして、着替えた下着などを洗濯機にかけてから私はいつもどおり出勤した。

12時過ぎに私はまた戻ってきた。昼食におにぎりをいくつかとインスタントの味噌汁を買ってきた。篠原さんは「ありがとう」といって黙って食べていた。乾燥した衣類を片付けて私は会社へ戻った。職住接近はこんな時に便利だ。

6時半過ぎにマンションへ戻って来た。ドアから顔を出して様子を見る。もうかなり元気になっていることが表情から分かる。

「ごめんなさい、遅くなって、仕事が立て込んでいて、すぐに夕食の準備をします。体調はどうですか?」

「もうすっきりした。身体のだるさもなくなった。熱は平熱に戻った」

「そうですか、では、お肉料理でも作ります。待っていてください」

今日は生姜焼き定食に決めた。生姜の残りがあったのと、冷凍保存した豚肉があった。あとは野菜のお味噌汁と昨日漬けておいた一夜漬け。準備ができたので呼びに行く。

「生姜焼き定食になります。私の肉料理はこんなものですが、召し上って下さい」

「味付けが良くて美味しい。味噌汁は今作ったの? 漬物が美味しいけどどこで買った?」

「味噌汁はあり合わせで作りました。漬物も余ったお野菜の一夜漬けです」

「料理が上手だね」

「母が教えてくれました」

「今朝、言っていたけど、お父さんはインフルエンザがもとで亡くなったのか?」

「そうです、無理をして、肺炎になって、私が高校1年の時に、あっという間に亡くなりました。だから油断してはいけません」

「お母さんはどうしている? 父が亡くなってから実家の仕事の手伝いをしています」

「大変だったんだ」

「母は苦労をしました。私はそれに甘えていただけで、ありがたく思っています。そんなことより、食べ終わったら早く休んでください。明日の朝の調子で出勤するか判断したらいいと思います。でも私は大事をとってもう1日休養されることをお勧めします」

「分かった。明日の朝の状況で判断する。ありがとう」

************************************
翌朝、篠原さんは大事を取ってもう一日休むことにすると言った。久しぶりに身体を休めたいとも言っていた。

今日も6時半過ぎに帰ってきた。部屋のドアをノックして様子を見る。もうすっかり回復していつもと変わりがない。よかった、治ったみたい。

「夕食はシチュウにしました。少し時間がかかります」

「お腹が空いた。楽しみにしているから」

やはりシチュウは時間がかかった。7時過ぎになってようやく出来上がった。ほかに野菜サラダを作った。できたと声をかけるととんできた。

よっぽどお腹が空いていると見えて、黙って食べて、お代わりを2回もしてくれた。シチュウは上手くできたみたい。

「夕食ありがとう。今日はゆっくり英気を養えた。明日から出勤する」

「すっかり回復したみたいですね。よかったです」

「それで、お礼をしたいのだけど」

「そう、おっしゃると思っていました。篠原さんは私の好意を受けるのがおいやなのですね」

「そういう訳でもないけど、お世話になったのでお礼はしておきたい」

「借りをつくりたくないのは分かります。それで、お世話した時間を計算しておきました。それと昼食と夕食の費用を計算しておきました。内訳は洗濯の時間と食事の準備ですが、食事の準備時間は私の食事の準備ための時間でもありますので、半分にしました」

明細は3日間で4.5時間の4500円、昼食と夕食の材料費など1350円の合計5850円を請求した。

「こんなに少なくていいのか」

「実費はそれだけでから、多く貰っても気が引けますから、それだけいただければ十分です」

「分かった。ありがとう。もう元気になったから、コーヒーでも入れてあげよう」

「それじゃあ、ご馳走になります」

篠原さんは手を丁寧に洗ってから、コーヒーを淹れてくれた。篠原さんは私がコーヒーを飲むのを見て嬉しそうだった。料金は請求したけど、結構してあげた方だと思う。

私が病気になったら、これだけしてくれるのだろうか? 幸い私にインフルエンザは感染しなかった。
次の日、元のように篠原さんは出勤した。また、日常が始まる。

夕食を終えて部屋で休んでいると、7時過ぎに絵里香宛てにメールが入った。そういえば、インフルエンザに罹っている間にメールは入っていなかった。とてもそんな余裕はなかったのだと思う。

[しばらく連絡できなかったけど元気にしている?]

すぐに返信した。[はい、元気にしています。お元気でしたか?]

すぐに返事が入る。[インフルエンザに罹ったけど、ようやく治った。週末に会えないか?]

[この前と同じ場所、時間でよろしければ]

[了解、待っている]

元気になるとすぐに女の子を誘う。篠原さんらしい行動だ。でもあのインフルエンザの時は、神妙に私の言うことを聞いていた。可愛げがある。

本当に分かりやすい人だ。意外と単純な良い人かもしれない。せっかくだからとことんつき合ってみても良いかなと思うようになった。

************************************
金曜日の午後8時、前回のラウンジに行った。今日はシックな落ち着いたダークグレーのワンピースに可愛いベストにしてみた。毎回違うものを着るのはエチケットでもあり、私の見栄でもある。篠原さんの視線が気になる。じっと見られた。

「また会ってくれてありがとう」

「私も誰かと少しお話がしたくて」

「相談事があるのなら、相談にのるけど」

「そんなものはありません。ただ、誰かとおしゃべりがしたかっただけです」

「リハビリの一環かな」

「そうかもしれません」

「私は元カレと別れてから私のどこが気に入ってもらえたのか考えていました」

「それでどうだったの、どこを気に入ってもらっていたのか分かったの?」

「きっと私の見た目が気に入っていただけだったんです。私の内面というか私自身を気に入っていたのではなかったように思いました。いろいろありましたが、表面的にしか私を見てもらえていなかったから、心から好いてもらえていなかったのだと思いました」

「どのくらい付き合っていたの?」

「1年位でしょうか?」

「私はすべてを見てもらっていたつもりでしたが、彼は表面的にしか私をみてくれていなかったのだと思います」

「彼の責任と言いたいのか」

「私の見せ方が悪かったのかもしれません。彼に見る目がなかったのかもしれません。分かりません」

「それで俺に何を聞きたい?」

「あなたには私を見る目があるのでしょうか?」

「俺に見る目があるかどうかは分からない。それに君とそれほど付き合っている訳ではないからね。それで君はどうなんだ。男を見る目があるのか? 自分ではどう思っているんだ」

「私も分かりません」

「まあいい、今日はこれからカラオケにでもいかないか?」

「そうですね。歌を歌って憂さ晴らしもいいかもしれません」

「それなら、俺のマンションに来ないか?」

「あなたのマンションにですか?」

「カラオケがある」

「本当ですか?」

「それに俺の住んでいるところも見てもらいたい。連れ込んで君をどうかしようとか思っている訳ではない。俺を知ってもらいたいだけなんだ」

「カラオケだけと約束していただけるのなら、行ってもいいです」

「そうか、ありがとう」

「じゃあ、ちょっと電話させてくれ。同居人がいるから都合を聞いてみる」

篠原さんは席を立って私に電話を入れるつもりだ。そういうこともあろうかと、携帯の電源は落としてあった。私はここへ来る前に「今日の帰宅は10時以降になります」と篠原さんにメールを入れておいた。

すぐに篠原さんは席に戻ってきた。

「電話に出ないけど、まだ帰っていないみたいだ。大丈夫だから行こう」

「同居している人がいるんですか」

「俺の従妹だから心配ない」

「それならなおのこと安心です」

私がすんなりマンションへ行くのに同意したので、拍子抜けだったのかもしれない。機嫌よく私を案内してくれた。ホテルの前からタクシーでマンションに向かった。ほんの5分で到着した。

私はいつもタクシー代がもったいないので遅くなっても歩いて帰っていた。途中は夜遅くとも危険は感じない。この前、私より早く帰っていたのはタクシーで帰ったからだと思う。酔っていると確かにその方がよい。

受付にはコンシェルジェがまだいた。出かける時にはできるだけ見られないように顔を合わせないようにして出てきた。前を通る時は顔を伏せて目を合わせないようにした。そうすると彼もあえて見ようとしない。

まあ、篠原さんは結構違う女子を連れ込んでいたから、彼もあえて見ないようにしているのだと思う。

エレベーターに乗ったので一安心。

「すごいマンションですね」

「親父の所有で、俺が維持費を負担して住んでいる。従妹を同居させてその代わりに掃除、洗濯をしてもらっている」

「維持費って結構かかるんですか?」

「前に住んでいた1LDKのマンションよりも随分かかる」

「こんな豪華なマンションに住めていいですね」

すぐに32階に着いた。玄関ドアを開けて中に招き入れてくれる。同居している従妹が帰っていないかと言って、私の部屋をノックして声をかけていた。いる訳ない。笑いをこらえるのに苦労した。

「左の部屋が俺の部屋で、右の部屋が従妹の部屋だ。ここがリビングダイニングでカラオケはここに置いてある」

「広いですね」

「ソファーに坐っていてくれないか。コーヒーを入れるから。砂糖とミルクはどうする?」

「ブラックでお願いします」

コーヒーメーカーにセットしてソファーに戻って、カラオケの準備をしてくれる。

「歌いたい曲を決めておいて」

そう言うとキッチンにコーヒーを取りに行った。

「決まった?」

「『レモン』をお願いします」

「俺もそのあと歌わせてくれ」

「いいですよ。初めて聞かせてもらえますね」

私はコーヒーを一口飲んで歌を歌い始める。いつもこのカラオケで練習しているので歌いやすく余裕を持って歌うことができた。情感を込めて歌えたと思う。

次に篠原さんが歌った。前に聞いた時よりもうまくなっていた。いつ練習したのかしら?

「上手ですね。情感が籠っていて、いいですね」

「ほめ上手だね。他に歌ってみたい曲はないの?」

「それじゃあ、『君を許せたら』をお願いします。このまえより上手くなっていると思いますので、聞いてもらえますか?」

「この前もすごくよかった。聞かせてほしい」

私は、今度は篠原さんを見つめて歌った。彼はジッと私を見ていてくれた。

「いいね、2曲ともいい曲だ。こんな歌が好きなんだね」

「悲しい曲が合っているように思います。歌っていると歌の中にいるような気持になって」

「歌に酔っている?」

「そういうんじゃなくて、身につまされるというか、悲しくなります」

「ロマンチストなんだ」

「自分が悲劇の主人公のように思えるのかもしれません」

「じゃあ、俺が悲劇のヒロインを助ける王子様になってあげる」

「私はお姫様ではありません。ただの失恋したOLです」

篠原さんが私の方へ近づこうとするので、私は立ち上がって窓際へ行って外を見た。今頃のここからの夜景はとても綺麗で部屋からいつも見ていた。
「夜景がきれいだろう」

「いいですね。遠くまで見えますね。こちらは海の方向ですか?」

「天気の良い昼間だと東京湾がみえる」

「しばらく見ていていいですか」

「ああ、好きなだけ見ていていいよ」

篠原さんが立ち上がってこちらへ来る。緊張する。後ろから両肩を掴んだと思ったら突然抱き締められた。

「だめです。放してください。約束が違います」

「好きなんだ。気持ちがおかしくなるくらいに好きなんだ。こんな気持ちは初めてだ」

「私のどこが好きなのですか?」

「分からない。本能的にと言った方がよいかもしれない。理由なんか後から考えればいい」

「ほかの人にもそうおっしゃっているのでしょう」

「本当に好きなんだ、今日は泊っていってくれないか?」

「何をおっしゃっているんですか?」

「真面目に言っている。そうでないとおかしくなりそうなんだ」

「従妹さんが帰ってくるのでしょう」

「大丈夫だ。気にしないと思う。こっちへきて」

私の手を掴んで篠原さんの部屋の方へ引っ張って行く。抵抗しているが止めてくれない。とうとう部屋の中まで引き入れられた。そしてまた抱き締められた。どうしようと思った時にキスされた。もう頭の中が真っ白になっていた。

「泊まっていってほしい」

私を放してくれた。すぐに逃げ出すこともできたのに私はその場に留まった。足がすくんでいた訳でもなかった。

あんなに強く抱き締められて好きと言われたのは初めてだった。私は混乱していた。そして自分でも信じられない言葉を返してしまった。

「それほどおっしゃるのなら泊ります。シャワーを浴びさせてください」

言ってしまうと返って開き直ってしまったみたい。

「バスルームはそのドアの向こうにある。バスタオルはそこに置いてあるから」

私も意地になった。黙ってバスルームへ入った。服を脱いでゆっくりとシャワーの栓を開いた。お湯が勢いよく噴出してくる。シャワーを浴びるととっても心地よくて、いつも頭が空っぽになる。

彼がバスルームに入ってきた。もうなるようにしかならないと思って驚きもしなかった。

「すぐに替わります。少し待って下さい」

「ああ、ごめん」

私の言葉に気持ちをそがれたのか、私がシャワーを浴びるのを黙ってみていた。すると妙に気持ちが落ち着いて来た。そういえばこんな場面、元彼と昔あったことを思い出した。

バスタオルを身体に巻いてバスルームを出た。そして彼のベッドに腰かけた。いつもシーツと枕カバーを取り換えている見慣れたベッド。でもここで寝るのは初めてだ。

篠原さんはシャワーで身体を洗い終わるとキッチンへ行って冷たい飲み物を2本持ってきた。彼はそういう気づかいができるというか、そういうことに慣れている。

「飲む?」

「いただきます」

私は半分くらい一気に飲んでそのボトルをサイドテーブルに置いた。彼もボトルに口をつけて喉を潤した。それから私に手を伸ばして抱き締めた。私は冷静になって、彼の耳元で囁いた。

「ちゃんと避妊してください」

「ああ、分かっている。心配するな」

そう言われて、私は抱きついた。それからのことはよく覚えていない。私はすべてを忘れてしまいたかった。頭の中を空っぽにしたかった。快感に浸りたかった。

************************************
気が付いて今の状況が分かってきた。私は彼に背中を向けて横になっている。彼は後ろから私を抱きかかえるようにして寝ている。抱えている手を握ってみると握り返してきた。

「悲しかったのか? ずっと泣いているのかと思った」

「いえ、よく覚えていません」

「ありがとう」

「私のことが分かりましたか?」

「いろいろなことが分かった。それでますます好きになった」

「でも私の一部しかまだ見ていません」

「付き合ってもっと見てみたいし見せてほしい」

「見る目がないと見えません。見ようとしないと見えません」

「面白いことを言うね。楽しみにしている」

「私をしっかり抱き締めて寝てください」

「ああ、いいよ」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

************************************
夢を見ていた。何の夢か分からないけど抱き締められていた。力が強くて苦しくて目が覚めた。目覚ましは4時を少し過ぎたところだった。彼が気が付かないうちに自分の部屋に戻ろう。

そっと、ベッドから抜け出して、服や下着集めて、静かに部屋を出た。それから自分の部屋に戻った。内鍵をかけるとホッとした。自分のベッドでもうひと眠り。

携帯の音で目が覚めた。メールが入っていた。篠原さんからだ。今起きたみたい。時計を見ると9時を過ぎていた。

[昨夜は泊ってくれてありがとう。黙って帰ったんだね]

すぐに返事を入れる。

[黙って帰ってごめんなさい。起こすと悪いと思って。始発で帰りました。昨夜はよい思い出になりました。ありがとうございました]

私も起きよう。朝食の用意をしよう。シャワーを浴びて、身繕いをする。リビングダイニングで朝食の支度をしていると篠原さんが出て来た。

「おはようございます」

「おはよう」

「昨夜は誰かお泊りでしたか?」

「ああ」

「そうですか。4時過ぎに玄関ドアの音がしてどなたかが出て行かれたようです」

「そうか、気が付かなかった。始発に合わせて出て行ったのかもしれない」

「白石さんは、昨夜は何時ごろ帰って来たんだ。連れて帰ると連絡しようと思ったけど、携帯がつながらなかった」

「カラオケで気が付かなかったのかも知れません。帰ってきたのは11時を過ぎていたと思います」

「また、女性を泊めたのですか?」

「まあ、そうだ」

「この前の恵理さん?」

「いや、別の娘だ」

「浮気症ですね」

「いや、今度は本気だ」

「そうなら、その人も喜んでいるでしょう」

「それが分からないんだ」

「つかみどころがない、不思議な娘なんだ」

「気になりますか?」

「ああ、仕事が手につかないくらいにね」

「うまくいくといいですね」

「そうだね、ありがとう」

篠原さんは全く気が付いていない。また、私だから本音を話してくれた。昨夜のこともあって、完全に絵里香が気に入っているみたい。本当のことを打ちあけた時の反応が予測できない。その時が怖い。当分は結衣と絵里香を演じ分けているほかはない。