デビルズケーキの誘惑

 店の外に出ると、時計の針は十五時を過ぎたところを差していた。当初の目的は達成したため、どうしようかと考えていると、リツがデパートに行きたいと言い出した。

「何が見たいの?」
「新しいキッチングッズ!!」
「主夫か!!」
「えーいいじゃん。食器とかさ、一緒に見て回るの楽しそうじゃね?」

 確かにキッチングッズを見ていると、なんだか家事をやる気になる。見ているだけで楽しい、それだけでいいのかもしれない。

「いいよ。それじゃあ……」
「あれ、笹平ちゃん?」

 ふと後ろから声をかけられる。振り返ると、同じ専門学校に通う友達が四人くらい集まっていた。同じクラスとはいえ、あまり話しかけたことはない人達だ。その中で一人、見覚えのある顔の女の子が駆け寄ってきた。

「あ……」
「やっぱり! 見たことある子だなーって思っていたんだ!」

 私だとわかって飛びついてきたのは、隣の席の美鶴さんだった。自ら進んで行動する、クラスのリーダー的な存在だ。同い年だってわかっているけれど、大人っぽい。ギューッと音が聞こえるくらい、力一杯抱きしめられると、ふんわりとシトラスの香りが漂う。よく見れば後ろからゆっくりきた三人は、美鶴さんがいつも一緒にいる子達だった。

「美鶴、そんな子とつるんでいたっけ?」
「今、隣の席なんだよ! だからよく話すの! ……って、あれ?」

 ふと視線が私から隣にいるリツに移る。そしてやってしまった、という顔をしてすぐ私から離れた。

「ごめん! もしかしてデート中だった!?」
「で、デート!?」

 今朝、リツと会う前に考えていたことが頭に浮かぶ。
 そうだ、男の子と二人きりでお出かけしていれば、周りの人からしたらデートと思われやすい。それが本当かどうかは、本人達に確認しなければわからないことであって、美鶴さんがデートと思ってしまっても仕方がないのだ。
 私がどう答えればいいか、思考がぐるぐると回っている中、美鶴さんはリツに挨拶を始める。

「お邪魔しちゃってごめんなさい! 私、笹平ちゃんと同じクラスの美鶴です!」
「いえいえ、ご丁寧にどうも」

 そう言って、ニッコリと笑みを浮かべて返すリツ。待って、否定してよ!

「そうか、ゆなはいい友達がいるんだな」
「え、えっと……」
「ゆな? ニックネームですか?」

 ぐんぐん突っ込んでくる美鶴さん。彼女のその目はとても輝いていた。リツが悪魔なんて言えない。必死に言い訳を考えているから待って――

「俺が、昔コイツの名前を間違えて呼んだのがきっかけなんです」

 ――違う。
 リツが懐かしそうに笑って言った。でも私の中でモヤモヤとした何かが膨らんでいく。私の名前を初めてゆなと呼んだのは、リツじゃない。これは演技、演技なんだって自分に訴える。それでもリツは続けた。

「それからすぐ俺が引っ越してしまって、疎遠になっていたんですが、おばさんからこっちに来るって聞いて久々に会ったんですよ。だから俺は彼氏でもなんでもありません。しいて言うなら……コイツの兄的な? 放っておけないんだよね」
「あ、それわかる気がします! まだ会って半年もたってないけど、笹平ちゃんっておどおどしているっていうか……」
「美鶴、そろそろ行かないと」
「あ、うん! それじゃあここで失礼します。笹平ちゃん、また学校でね」

 美鶴さんはそう言って、少し離れたところで待っている友達の方へ戻っていく。彼女達の姿が見えなくなると、リツがこっちを向いた。

「大丈夫か? しっかしお前の友達、派手だな」
「リツ……なんで」
「ん?」
「……何でもない! デパート行くんだっけ? 早く行こうよ」

 ――なんで、「タダシ君」の事知っているの?

 聞きたくても聞けなかった。問いかけた言葉を飲み込んで、私は笑って彼の前を歩いた。
 ――少しだけ、昔話をしよう。
 あれはまだ私が小学生の頃、田舎の実家に家族で暮らしていた小さいときの話。
 車がないとどこにも行けない田舎で、唯一の遊び場だった公園がある。私は近所の友達と、学校帰りによくその公園で遊んでいた。
 その中に一人、私の名前を最初に間違えた【タダシ君】も一緒だった。お節介で生真面目。私が何かしでかすと、心配して怒ってくれた人。公園で暗くなるまで遊んで帰ると、案の定鬼の角を生やして待ち構えていた母に「僕が一緒に遊ぼうって言って引き留めたんです。ゆなちゃんは悪くないんです」と言って一緒に怒られたこともあった。
 年は一つ上だった気がする。田舎の小学校は年が違っても合同で授業することが多いから、年齢なんて関係なかった。それでも一緒にいられる時間は楽しくて、いつも放課後を楽しみにしていた私がいた。

「また明日も遊ぼうね!」
「……そうだね」

 ある日の放課後もそう言って、公園の前で別れた。
 翌日、タダシ君は学校にも公園にも来ることはなかった。家に行ってみると「空家」と書かれた看板が家の前に立てかけられていた。――彼は、私に何も言わずにどこかへ引っ越してしまったのだ。
 それが当時の私にはショックが大きくて、一時期不登校にもなっていた。公園にも行けず、中学生になる頃には公園は潰され、新しい住宅街を作る計画が始まっていた。
 思い出の彼も場所も何も無くなった私には、居場所が無くなった気がした。


 ――時は戻り、リツとのお出かけを楽しんだ休日はあっという間に終わってしまった。
翌日教室に向かうと、隣の席の美鶴さんが食い気味に聞いてきた。

「昨日はごめんね、大丈夫だった?」
「大丈夫って?」
「だから、デートしてたじゃん!?」

 誰とでも気軽に話せる美鶴さんは今日も元気だ。遠慮というものを知らない。あまりにも唐突な質問に、私はリツが話した内容に合わせることにした。

「えっと……本当に彼氏とかじゃなくて、幼馴染だよ。小学校の時の腐れ縁っていうか……お母さん達が仲良かったから」
「そうなの? でもあの距離感は……」
「い、田舎だと家族同然だから!」

 確かに昨日のリツとの距離は近かった気がする。だからといってデートと決めつけられては私も彼も困る。

「そっか……じゃあ、笹平ちゃんは好きなの?」
「うぇい!?」

 美鶴さんの唐突な問いかけに、言葉にならない声を出してしまった。
 私が、リツを?

「……お兄さん、って感じかな」

 面倒見のいいお兄ちゃん。家では弟の世話が多くて、家族に甘えられる時が少なかった。そんな時、いつも隣には――。

「……違うよ、あれはリツじゃない」
「え?」
「ううん! なんでもないよ」

 ふと思っていたことを口に出してしまった。不思議そうな顔をする美鶴さんにごめんね、というと彼女は笑って見逃してくれた。
 タダシ君はリツじゃない。分かっていることだ。それなのになぜ今、彼の顔が浮かぶのか。

「…………まさかね」

 そもそも、タダシ君が今どこにいるのか、何をしているのか、私は何も知らない。お母さんなら知っているだろうか。
 スマホを開いて母にメールする。この時間は会社に出勤しているころだから、きっと夕方くらいに連絡が来るだろう。メールの返信は本日最後の授業を終えた頃に届いた。

『ただしくんのお母さん、確かアンタの学校の近くにあるケーキ屋で働いているよ。確か、フルールっていうケーキ屋さん』

 検索をかけてみると、学校からすぐ近くにあるらしい。何年も会っていないから覚えているかわからないけど、行ってみる価値はあるはず。私は学校を出て、地図アプリと睨めっこしながらフルールというケーキ屋へ向かった。
 学校から歩いて五分。『パティスリー フルール』と掲げられた看板は、ビルの二階にあった。一階には古着屋が入っており、隣の細い階段しか道はなさそうだ。
 看板にはオープンと書かれていたから、営業はしているはず。ドキドキする心臓を抑えながら、細い階段を登り、一番上まで行くと小さな扉があった。ドアノブには店の名前が入っている。慎重にドアを開けると、ベルの音が鳴り響いた。店内は狭く、ショーケースがすぐ目の前にある。パッとみた感じ、五畳くらいの広さだ。奥にはキッチンにつながっている扉が見える。ドアを閉めてショーケースの前に行くと、奥から一人の女性がマスクを外しながらやってきた。

「いらっしゃいませ! ……あら? もしかして……結菜ちゃん?」
「お、お久しぶりです!」

 ショーケースの向こう側に立った女性――この人こそ、タダシ君のお母さんだ。昔との面影は今も変わらない。ニッコリと浮かべた笑みは、私の記憶の中のタダシ君にそっくりだ。

「久し振り! 綾子《りょうこ》ちゃんから結菜ちゃんがこっちに来ているっていうのは聞いていたのよー! 随分大きくなったわねぇ」

 『綾子《りょうこ》』は私の母の名前だ。親子そろって、よく名前の読み方を間違えられる。ちなみに、タダシ君のお母さんの名前は『彩子《あやこ》』で、よく母と一緒になって混ざることが多いらしい。

「実は、この近くの専門学校に進学しまして……母から、ここで彩子さんが働いているって聞いたので」
「そうだったのね、なんだー……来ることをもっと早く知っていればお菓子用意していたのに」
「あ、買っていきます! それで、あの……」

 私は少し、小さく深呼吸をして、本題を聞いた。

「タダシ君は、元気ですか?」
「え…………そ、そうね」

 彩子さんは視線をそらし、言いづらそうに口を開いた。

「実は――」

 ――病院で寝たきりなの。

 彩子さんの仕事が終わるまで待たせてもらい、タダシ君が入院している病院に一緒に向かった。
 病室に着くと、私は目を疑った。規則的に聞こえてくる機械音、息をするたびに曇る呼吸器のマスク、ベッドに横たわって眠っている彼を見て愕然とした。
 小学生の頃の記憶でしかないが、ちょっと跳ねた黒髪やあどけない寝顔はあの頃と変わっていない。しいて言うなら身長が伸びて、私を見下ろすくらい大きくなったということだろうか。点滴とつながっている左腕は布団の外に出ており、彩子さんがそっと叩いて彼に呼びかける。

「ただいま、今日は結菜ちゃんが来てくれたわよ。今、こっちの専門学校に通っているんだって」

 優しい声色で問いかけても、病室に聞こえてくるのは機械音だけ。
 彩子さんの話によれば二か月前、大学の講義を終えた帰宅途中に、車道に飛び出した子供を庇って車と衝突した。子供は怪我一つなく無事だったけど、彼は昏睡状態に陥ってしまった。外部の怪我は治り、あとは彼が目を覚ますだけ。普通にごはんも食べられるようになれば、すぐ退院もできるらしい。――目を覚ませば、の話だけど。

「アンタ、ちゃんと起きなきゃだめよ……? 結菜ちゃんに、ちゃんと言いたいことあるんでしょう?」

 かすれた声が病室に響く。彩子さんの肩は小さく震えていた。
 私は一歩、彼が眠っているベッドに近づいて顔をよく見つめた。そして、ベッドの柵に吊るされた患者の名前が書かれたプレートをみて、嫌な予感が的中してしまった。

「早く起きて……律《ただし》」

 【桐山律《きりやま ただし》】――それが彼の名前だ。
 病院の帰り、彩子さんと別れて電車に乗り、最寄り駅で降りても真っ直ぐに家に帰れなかった。
 帰れば、リツが待っている。いつものように、「お帰り、住居者サン」と言って、笑顔で出迎えてくれるだろう。それが今、とても苦しい。

 病室で眠っていた律《ただし》君は、間違いなくリツだった。初めて出かけたときの大人っぽい顔つきやごつごつした大きな手がよく似ている。
 もし、最初からリツが私の事を知っていたとしたら――?
 もし、リツが律君本人で、昔の事を全部知っていて近づいていたとしたら――?
 どうして今更、なんでこのタイミングで……と、考え出したらきりがない。彼に問い詰めたらリツは私の前から消えてしまうのだろうか。リツが消えてしまったら、眠っている律君はこの世からいなくなってしまうのだろうか。

 ふらふらと歩きながら考えていると、いつの間にか駅の近くにある小さな公園にたどり着いた。錆びかけたブランコや滑り台、もう誰も遊んでいない砂場には小さなスコップとバケツが散乱していた。
 歩いていても仕方がない。気持ちが落ち着くまでここで休もう。私は寂れたブランコに腰かけ、ふと空を見上げた。
 夕暮れのオレンジ色から、濃い紺色の空へ移っていく。雲の流れが速く、次第に灰色の雲が増えてきた。これから雨でも降るのだろうか。

「……前にも、似たようなことがあったような」


 あれはそう、あの時も小学生の頃だ。学校に行く前、お母さんと口喧嘩をして家を出て行ったことがあった。その日は謝らないといけない、でもまた怒られるんだろうな、怖いなって思いながら一人で考え込んで家に帰らず一人であの公園にいた。
 雲行きが怪しくて、そろそろ帰らなきゃと思っていても、ブランコに座った体は動かなかった。
 帰りたくない、怒られたくない。そう思っていると、雨が降り出した。ぽつぽつと、聴こえてきた雨音は次第に大きくなり、大降りになってきた。私は慌てて、滑り台の下に隠れて雨宿りをする。と言っても筒抜けであるため、髪も服もカバンもびしょ濡れだった。辺り一帯が白い霧がかかり、風も吹いてきた。次第に体が寒さで震えてくる。このまま帰れなかったらどうしよう。最悪な想像が浮かんで、心細くなる。こんなことになるなら、お母さんに素直に謝ればよかったなんて思って、じわりと目元に涙が浮かんだ。――そんな時だった。
 靄の向こうから、バシャバシャと水たまりをはじく音が聞こえる。誰か来てくれたのかな。
 ――いや待って、本当に人?
 山が近いから、もしかしたら山から下りてきた動物かもしれない。この間、大きなさつま芋みたいなイノシシが猛スピードで突進して学校のフェンスに激突したって先生が言っていた。
 ありえないことがすぐそこに、そんな考えがパッと浮かぶのはきっと怖いから。しかし、水たまりをはじく音が次第に大きくなるにつれ視界ははっきりしてきた。そしてはっきりと見えた青い傘を持った律君に、私は目を丸くして驚いた。

『ゆなちゃん! よかった、ここにいた……』
『ただし君……? どうして……』
『綾子おばさんから電話があったんだ。ゆなちゃんが家に帰ってきていない、そっちにいるかって。その時はもう雨が降っていたから、ウチで雨宿りしていると思ったらしくて。おばさんとうちの家族総出で探していたんだ。……急に降り出して、霧まで出てきたら流石に動けないよね……』

 律君はそう言って、私を傘の中に入れると、濡れた髪を優しく撫でてくれた。

『遅くなってごめん。一人で心細かったね。よく頑張った。もう大丈夫だよ』

 そう言って微笑んだ彼を見て、私の涙腺はもう崩壊してしまった。彼に飛びつき、わんわんと泣いた。大きな音を立てて降る雨が、子供みたいなわめき声をかき消してくれる。お母さんがびしょ濡れになって駆け付けるまで、律君は優しく背中をさすってくれた。


 ―――そんなこともあったな。
 今はもう、雨は怖くないし、折りたたみ傘を常備している。泣いたところで律君もお母さんもすぐ駆け寄ってきてくれるわけではない。
 一人でも怖くない。社会に出れば常に一人だ。
 この公園で一人空を眺めていても、誰かが隣に来るわけではないのだ。

 「…………懐かしい」

 目を閉じれば、小学生の律君の笑顔がはっきりと思い浮かぶ。考えてみれば、私にとって彼は白馬に乗った王子様のような遠い存在ではなく、本当に兄のような存在で――。

 多分、好きだった。

「――――ゆな」

 名前を呼ばれ、振り返る。そこには乱れた息をしながらこっちに近づいて来るリツがいた。

「よかったぁ……」
「……捜しに来たの?」
「まぁ……せっかく作った夕飯、食べて欲しかったし。連絡手段ないから、そこら辺走り回ったんだぜ?」

 部屋にいるときの、いつもの黒ジャージ姿。黒い羽根、尻尾。いつものリツだった。

「これから一気に天気が悪くなるらしい。人間の天気を予言する力はすごいよな」
「……そう、だね」

 駄目だ。今、リツの顔が見られない。脳裏に浮かぶ病室の律君が、本当にリツなのか。確信もないのに不安になる。
視線を地面に落としていると、いつの間にかリツは私の前に立っていた。そして両手で私の頬を挟み、顔を上げさせた。曇り空が広がって冷たい風が吹き始めると、時間が止まった気がした。

「何かあった?」
「…………別に」
「そんな顔して……家出してきた不良かよ。また変な奴に捕まるぞ?」
「……じゃあ」

――また、リツが助けてくれればいいじゃん。
 小さく呟いた言葉。挟まれた頬が熱い。私が言ったことが聞こえたのか、リツの耳が若干赤く染まる。そして頬から手を離すと、少し照れながら私に言う。

「お、俺が毎回助けられるわけないだろ。この間は人間の姿だったからすぐ助けられたけど、今の姿じゃ普通の人間は視ることができないんだから。バカか、お前は!」
「ま、またバカって! 私そんなに単細胞じゃ……」
「でもお前がピンチの時は!」

 急に声を荒げたかと思えば、リツはしっかりと私の目を見て、満面の笑みを浮かべた。

「俺がちゃんと駆けつけて、助けてやるから。それまで待ってろ」

 空に浮かぶ白い月。黒い羽根を広げた彼のシルエットにとても映えて見える。私が彼の言葉に笑って頷くと、彼も楽しそうに笑ってくれた。
 ああ、神様。もし彼が病室で眠っている人間でも、本当に悪魔でも。

 ――私は、この人が好きです。
 例えばいつものように作ってくれたごはんを食べるとして、彼がニコニコと笑いながら私の事を見ていると、彼が好きだと自覚してしまった今、より恥ずかしく思える。隣に来ただけで、手が触れそうになるだけでびっくりしてしまう。それはどれだけ動じない人間でも同じことで、ポーカーフェイスを保てるのは時間の問題なのだ。

「ゆな……もしかして具合悪い?」
「な、ななんでもないけど!?」

 学校に行く前の朝ごはん。カリッと焼けたトーストに、スクランブルエッグとソーセージ。ミニサラダにはオリーブオイルと塩コショウしかかかっていない。これがまた美味しい。いつもと変わらない朝ごはんの中でも、隣にいるリツが心配そうに顔を覗き込んで来る。
 自覚してしまった気持ちを隠そうとしても、どうやら私は顔に出てしまうようで、鏡を見たわけでもないのに顔が熱いのがわかる。

「だって顔、真っ赤だぜ? 熱でもあるんじゃ……」
「ないって!」
「そうか? じゃあ……」

 そう言って、リツは私の前髪をかき上げ、自分の顔を近づけた。――その瞬間、私は反射的に彼の頬を叩いた。勢いが強かったのか、バチンッと部屋に良い音が響くと同時に、リツは後ろの壁に吹き飛んだ。私は慌てて彼の元に寄る。

「リ、リツ!? 大丈夫!?」
「……いってぇ……」

 強打したであろう後頭部をさすりながら、リツはゆっくり起き上がる。そして涙目で私を軽く睨むと、そっぽを向いた。

「……人が心配してるっつうのにお前は……」
「ごめん! あんなに強く叩いたつもりじゃなかったの!」
「まあ、お前から触れることはできねぇから、反発してもしょうがねえか」

 『人間は悪魔に触れられない』――悪魔は囁いて唆すだけの存在だと、ずっと前にリツが言っていた。難しいことは教えてくれなかったのは、リツ本人もあまり理解していないのだと思う。人間の時のリツは触れられるのに。

「……でも悪魔から人間に一方的に触れられるのはちょっとズルいかも」
「どういう意味だよ?」
「だって、人間に気付かれないように悪さができるでしょ? そしたら悪戯し放題じゃない?」
「……本気でそんなこと思ってんの?」
「え……?」

軽い愚痴のつもりだった。ふと彼を見ると、眉間にしわを寄せて怒りを露わにしているのはわかる。初めて見る、彼の怒った顔。

「例え話だったとしても笑えねぇぞ。人間に悪さを唆したとして、そいつが死んじまったら意味ねぇだろ」
「あ……ご、ごめん」
「お前がそんなヤツだとは思わなかった。……まあ、そろそろ潮時か」

 リツはそう寂しそうに呟いてカレンダーを見る。彼と出会ってもうすぐ半年だ。

「契約は半年。今日を含めあと二週間だ。それが終わればお前はやっと、『普通の日常』に戻れる。……それまでよろしくな、『住居者サン』」

 彼はそう言って、窓から外へ出て行ってしまった。今まで見たことがない、泣きそうな横顔をしていた気がする。私は先程見ていたカレンダーに目を向ける。
 あと二週間――慣れてしまったリツのいる日常が『非日常』だと彼は言っているようで、どこか寂しく思えた。もう家を出ないと授業に間に合わないのに、食べかけの朝食が喉を通らない。

「……もっと一緒にいたいよ」

 小さく呟いた私の願いは、誰にも聞こえなかった。


 それから一週間、私はリツに避けられていた。
 朝起きた時、家から帰って来た時には出来立ての料理がテーブルに並んでいるのに、リツの姿はどこにも見当たらない。近くを散歩したり、少しだけ夜遅くに帰ってきたりしても彼が一向に姿を見せない。嫌われてしまったのだろうか。
 
 ある日の休日。用意してくれた朝ごはんを食べて皿を洗った後、私はテーブルの上に授業で使っているノートとレシピ集を広げた。リツと出かけた日に、「一緒に料理を作りたい」と言ってくれた言葉を思い出して、かき集めてきた。こうしていれば、後ろから彼が覗いてくるかもなんて小さな期待を持ちながら、一ページずつ捲っていく。
 一枚、一枚。じっくり目を通していると、後ろから視線を感じた。そっと横目で見てみると、カーテン越しにこちらを覗いてみているリツの姿があった。

「リツ」
「っ!」

 私が名前を呼ぶと、彼はカーテンの裏に隠れてしまう。

「リツ、こっちおいで。一緒にレシピ見ようよ。それで今日の夕飯、一緒に作ろう」
「…………」

 いくら声をかけても、リツは出てきてくれない。今まで沢山話してきて心を許せた人、尚且つ好きな人に無視されて最初はもうどん底に堕ちるくらい気が滅入っていた。それでももう、ちゃんと話さなきゃ。私は立ちあがり、彼の前に行く。

「一緒に作れる機会、もうないかもしれないんだよ?」
「…………」
「……じゃあ分かった!」 

 何言っても聞いてくれない。こうなったら強行手段だ。

「リツ! 今日の夕ご飯は私が作るよ!」
「……はっ!?」

 一週間ぶりの彼の声は、とてもとぼけていた。あまりに驚いたのか、カーテンの裏から身を乗り出して見ている。

「丁度授業の実技テストの練習しようと思っていたんだよね。包丁も学校から持ち帰ってきたのがあるし……」
「……お、おい」
「リツが思ってるより、私はちゃんとしてるよ」
「……そう言って、最初の頃に盛大に指を切ったのは誰だ」

 「最初の頃」――懐かしいことを引っ張り出して来た。覚えていてくれたことが少し嬉しくて、私は彼に向かって笑って言う。

「そうだね。だからリツは私が指を切らないように隣にいてくれる?」
「……反則だろ」

 ――そんなこと言われたら、拗ねていられねぇじゃん。

 リツはのそのそとカーテンの裏から出てくると、私が座っていた座椅子の隣にしゃがみこみ、レシピを見始めた。変わらない仏頂面を久々に見たこの直後、キャベツの千切りで私が指を切ったのは内緒の話だ。
 最後の日まで、あと一週間。
 リツとの契約が切れる最後の日。
 その日、私は電車を飛び降りて病院へ向かった。幼い頃にお世話になった律君のお母さん――彩子さんから一本の電話がきっかけだった。

 ――律の容態が悪化したの。医者が、覚悟した方がいいって
 
 電話越しの彩子さんの声は、とても震えていた。私は彼女に大丈夫です、すぐ行きますとだけ言って、家を出た。
 病院に向かう途中、私はふと家を出るときに違和感があったことを思い出した。いつもなら聞こえる「行ってらっしゃい」がなかったのだ。そういえば夕飯を一緒に作ってから、リツの姿を見ることが減った気がする。とてつもなく嫌な予感がした。「律君の容態が悪化した」それはつまり――「リツが消える」のではないかと。

「……そんなの、嫌だ!」

 そう呟きながら病院に向かう。一度だけ行った病室への行き方はなぜか鮮明に覚えていた。病室につくと、ベッドで呼吸器をつけて眠っている律君を見つめている彩子さんと男の人がいた。私が入ってきたことに気付くと、彩子さんは私を見て少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「結菜ちゃん……」
「……律君は?」
「私、仕事中に病院から、連絡をもらって……っ」
「彩子、大丈夫だよ。律君はきっと大丈夫だ」

 泣き崩れそうになる彩子さんの肩にそっと手を添える男の人の声は震えていた。そういえば律君が転校した理由は、夫婦の離婚だった。二人とも左手の薬指に指輪をはめているから、きっと再婚したのだろう。

「結菜ちゃん、だったかな。話は彼女から聞いています。西川です」
「は、初めまして。律君の、容態は……?」
「……最近、調子が良かったから目が覚めるのも近いだろうと、医者からは言われていたんだ。でも今日になって急に……」

 そう言って西川さんは言葉をつまらせた。初めて来たときに「あと目を覚ますだけ」と聞いていたから、順調に回復していたんだろう。
 もし、ここにくる前に考えていた仮説が本当なら、それが真実なら、嘘であってほしいと願う。
 私は彩子さんに荷物を預け、病院の屋上に向かった。あまり人が立ち入らない屋上に本当は来ていけないことはわかっていた。

「リツ、いるなら返事して!」

 屋上に出て荒げた声で彼を呼ぶと、フェンスの上に黒い翼を広げたリツが座っていた。駆け寄ると、リツは気怠そうに私を横目で見た。

「……どうした、住居者サン」
「どうしよう……律君が……」
「ああ、アイツか。ずっと寝てる奴がどうした?」
「そう、この病院に入院していて、ついさっき容態が悪化して……え?」

 混乱しながらも彼の言った言葉に違和感を覚える。
 私はリツに律君の話をしたことは勿論、彼の目の前で話したことはない。どうして彼が眠っていることを知っているんだろう。私は思いきって、彼に聞いた。

「なんで、律君のこと……」
「……さあ? 自分のことだからじゃねえ?」

 ――は?

 私の問いに、彼は小さく微笑んで答えた。

「死の間際にお前なら何がしたい? 『悪魔は囁いて唆すだけ』の存在だ。だから俺は悪魔になってまでお前の目の前に現れた」
「どういう、意味……?」
「わからなくていい。わかったところで、きっとお前との半年の出来事は覚えていない。……今までありがとうな、『結菜』」

 ――待って!
 呼びかけて手を伸ばした途端、彼はフッと消えてしまった。
 嫌な予感がしてポケットに入れていたスマートフォンを開き、カメラのフォルダを見る。
 初めてリツと出かけた時にこっそり撮ったケーキ越しの彼の写真は、彼だけが消えていた。画面下方に残されたデビルズフードケーキだけが輝いていて、あとは殺風景で味気ない空間が違和感を漂わせながら残っていた。
 リツはここにはいないんだと、頬を叩きつけられた気分だった。
 こんな終わり方、嫌だった。
 リツが私の前からいなくなって一ヶ月が経った。
 さよならもありがとうも言えずに別れたあの日から、あんなに楽しかった部屋が寂しく思えた。
 あの後律君は一命を取り止めた。急変した理由は未だわからず仕舞いで、彼はまだ眠っている。
 リツは消える前に私に言った。

――「死の間際にお前なら何がしたい? 『悪魔は囁いて唆すだけ』の存在だ。だから俺は悪魔になってまでお前の目の前に現れた」

 本当にリツは律君だったのだろうか。彼はどうして私の前に現れたんだろう。今はそれを考えることすら辛い。鼻がツンと痛くなって、気が付けば涙を流している。そんな日々が続いていた。
 あの部屋にいるのも苦痛になるから、母と相談して律君のいる病院に近い場所のアパートに引っ越した。前より広さは変わらないが、少し広めのキッチンが気に入っている。それから、彩子さんが働いているお店が人手不足だと聞いて、アルバイトをすることになった。学校との両立は大変だけど、リツのことを考えている時間が短ければ短いほど、心は軽くなっていった。時々律君のお見舞いに行くけど、眠っている彼からは何も返ってくることはない。

「結菜ちゃん、いつもありがとうね」

 学校帰りに病院に寄ると、彩子さんが到着したばかりだったらしく、自分の荷物を下ろそうとしているところだった。

「ちょっと担当の先生に呼ばれているの。律のこと、頼んでも良いかしら?」
「わかりました!」

 彩子さんはそう言って病室を出ていくと、私は鞄を置いて律君が眠るベッドの横にある椅子に座った。
 気持ち良さそうに眠る彼の横顔は、ついこの間一緒にキッチンに立ったときのリツの横顔にそっくりだ。

「……律君、そろそろ起きないかなぁ」

 最近、家で料理をすることが多くなった。最初はコンビニ三昧だったのに、今では授業で作ったものを復習しながら、実技テストの練習をしている。指を切ることも少なくなった。だから前みたいに、リツに心配させながら料理なんてしない。今度こそ一緒に料理が作ろうって、言える私になれた。

 ――今日は結構自信作! 味わって食べろよ。
 ――なんだよー。そういうことなら早く言えって。今度何か一緒に作ろうぜ! 大丈夫。ゆなと一緒に作ったものが不味いワケねーよ!
 ――俺がちゃんと駆けつけて、助けてやるから。それまで待ってろ。
 ――新しい環境に慣れない最初の頃に比べたら、増えたよ。本当に嬉しいときにしかしない、ゆなの笑った顔はさ。

 聞きたい声が嫌なくらい聞こえてくる。忘れたいのに忘れられない。たった半年の記憶にリツが言ってくれた言葉が、いつの間にか私の支えになっていた。

「……彩子さんが前より痩せているの、気付いてる? 律君の分まで頑張って働いているんだって」
「律君の新しいお父さん、まだちゃんと話したことがないんだって? まだ入籍してないって言ってたよ。早くお母さんを幸せにしてあげて」
「皆、心配してるよ」

 聞こえているなら答えて。

「……寂しいよ、リツ……!」

 ボロボロと涙が溢れる。止めたくても止まらない、寂しさの涙。
 家に帰っても聞こえない、美味しそうな香りもしない、リツがいない毎日はもう限界だった。

「帰ってきて、一緒に料理作ろうよ……ねえ、起きてよ……!」

 涙が頬を伝ってベッドにこぼれ落ちる。泣いても拭ってくれる人なんていない。でも彩子さんが来る前に泣き止まないと。すると、誰かの指が私の頬に触れた。少しだけ震える指は微かに涙を弾いた。

「ゆ……な」
「……っ!?」
「泣くなよ……起きるから」

 眠っていた彼はそう言って、私の頬を優しく撫でた。
 専門学校に入学して一年が経った。
 私――笹平結菜は放課後のアルバイトを終えると、真っ直ぐアパートへ向かう。電車に乗っていると、スマホにとある人からメッセージが送られてきた。

『今日はオムライス。帰ってくる時に牛乳買ってきて』

 久しぶりにふわふわでトロトロのオムレツが食べられると思うと、電車の中でお腹が鳴りそう。最寄り駅を降りて、近くのコンビニで牛乳を手に取る。近くに置いてあったプリンアラモードが買ってと訴えてくるが、軽く無視をした。一年前の私だったら、きっと迷わず手に取っただろう。牛乳だけ買ってアパートへ向かう。階段を上がっていくと、ケチャップの良い香りが漂ってきた。鞄から鍵を取り出してドアを開ける。

「ただいま!」
「お帰り、ゆな」

 ドアを開けると、チキンライスを作りながら声をかけてくれる律君の姿があった。

 ――半年前、律君は数ヵ月振りに目を覚ました。事故に遭ったことは微かに覚えていたけど、ずっと眠っていたことに驚いていた。小学生以来連絡を取っていなかった私がなぜここにいるのか、それさえも不思議で最初は質問攻めだった。
 私は専門学校に進学したこと、彩子さんのお店でアルバイトをしていることを伝えると、律君は嬉しそうに笑ってくれた。
「俺も大学では一人暮らししていたんだよ。自炊もしてたし、退院したら一緒になんか作ろうぜ」
「何作るの?」
「んー……ホットケーキとか?」
 少しはにかみながら言う律君と、半年前に私の前に現れた悪魔の笑顔と重なった。
「な、なんでホットケーキ?」
「……なんとなく?」
 律君は意味深な笑みを浮かべて言うけど、本当になんとなく口にしたようだった。

 やはり、私が出会った悪魔とは関係がなかったのかもしれない。最後に悪魔が残したあの言葉が今でも引っ掛かっているけれど、私の記憶としてそのままに残しておくべきだと思う。彼はもういないのだから、答え合わせなんてできやしないのだ。

 律君は目覚めてからすぐリハビリを始め、三ヶ月程で退院した。休学していた大学も少しずつ通い始め、暫くは実家で彩子さん達と暮らしていたけど、今年から一人暮らししていたアパートに戻った。「迷惑かけたものあるけど、二人の邪魔をしたくない」んだって。名字も「西川」の姓を名乗るようになり、新しいお父さんとの仲は良好で、休みの日はドライブに出掛けたりするらしく、彩子さんの方が妬いているみたい。

「でもまさか、律君の住んでいたアパートに引っ越していたとは思わなかったなぁ」

 入院中にした、「退院したら料理を一緒に作る」という約束は継続的に行っていて、今では自分の家に行き来する程だ。お互いの合鍵を持っているのも考えると、まるで恋人のようなやり取りだが、付き合ってはいない。どちらかに恋人ができたら終わるだろうけど、私にはそういった人はどこかに消えてしまった。律君はきっと、大学や会社で素敵な人と出会うんだろうな。

「なんかでっかい独り言が聞こえたけど、なんかあった?」
「う、ううん! なんでもない!」

 テーブルの上を拭いていると、律君が出来立てのオムライスを持ってやって来た。半熟の卵のとろとろ感とケチャップ甘酸っぱい香りが、早く食べてと訴えてくる。

「お待たせ。今スプーンとか持ってくる。飲み物は麦茶でいいか?」
「あ、私やる! 律君は座って!」
「わかった。麦茶、冷蔵庫から出してコンロ横にあるから」
「はーい」

 私はそう言って、台拭きを持ってキッチンに向かう。
 コップを二つ用意して、麦茶を注いでいると、コンロの近くにボロボロのノートが置いてあることに気づいた。
 麦茶を置いて、ノートを手に取る。パラパラと捲ると、乱雑な字で様々なレシピが書かれていた。律君のレシピノートだ。私はノートと、麦茶とスプーンを持って律君のもとへ戻った。

「律君、忘れていたよ」
「あ、悪い。ありがとう」
「ううん。沢山書いてあるね」
「……まあ、な。早く食べようぜ」

 少し恥ずかしそうに目を逸らして、スプーンを手に取る。私も席について、両手を合わせてからオムライスにスプーンを入れた。チキンライスの甘酸っぱい香りととろとろの卵は、以前食べたあのオムライスに似ていた。

「……ねえ、どうしてレシピノートをつけているの?」

 一人暮らしで自炊するのは不思議なことじゃない。それでも作ったもののレシピをいちいち書き込んで記録していく人は、料理人や主婦を除いて珍しいんじゃないかと思った。
 私の問いに、律君は手を止めて、横に置いたレシピノートに触れた。

「眠っている間にさ、夢を見たんだ。俺が作ったのを嬉しそうに食べてくれる人が目の前にいるっていう、すごく平凡な夢。正直自炊って面倒だからやりたくなかったんだけど、妙に嬉しくてさ。目が覚めてから暇な時に思ったことを紙に書き込んでいったんだ。そしたら、自然にホットケーキだのオムライスだの出てきた。……それから、書くことが日課になってきたんだ」

 「作ったものを嬉しそうに食べてくれる人」――それを聞いて、胸の奥がずん、と重くなった。
 彼が事故に遭う前にそんな人が現れていたのかもしれない。それとも、これから起きる予知夢だったのかもしれない。曖昧な人間像に、きっと私は当てはまらない。

「……ところでさ、まだ腹減ってる?」
「へ?」
「今日はわざと、チキンライスの量を減らしているのもあるんだけど、足りなさすぎた?」

 いつの間にか食べ終わっていた私の皿を見てニヤリと笑う。確かに今日は量が少ないなーとは思っていたけど、こんなに早く食べ終わるとは思ってもいなかった。

「だ、大丈夫だよ!? って、それじゃ私がいつも大食いみたいな……」
「そっか、じゃあカロリー高いけど食べられる?」

 律君は立ち上がり、冷蔵庫から白い箱を取り出して私の空になった皿と交換した。

「……これはなに?」
「開けてみろよ」

 ニヤニヤと笑う彼を横目に、恐る恐る箱を開ける。
 そこにはちょこん、と手のひらサイズのチョコレートがたっぷりかかったケーキが入っていた。

「美味しそう! 買ってきたの?」
「バカ、作ったんだよ。記憶にはあったけどレシピは知らなかったから、手こずったけど……」

 「記憶にはあった」、という言葉を聞いて私はふと、彼のことを思い出した。
 初めて出掛けて、お目当てのケーキを二人で一緒に食べたあの記憶。

「チョコレートにバターに卵たっぷりで結構キツイ、悪魔のような魅惑のケーキ。だから夕飯を減らしておいたんだ。このケーキの名前は――」
「――デビルズフードケーキ」

 ケーキの名前を口にした途端、涙が溢れた。
 たった数時間の思い出でも、私の大切な思い出が目の前にある。半年前の出来事は夢じゃなかった。

「……信じてもらえないかもしれないけど、事故に遭って意識が朦朧としていたとき、真っ先にお前の顔が浮かんだ」

 私の涙をぬぐいながら、彼は話を続けた。

「そしたら悪魔がさ、嗤いながら俺に言ったんだ。『半年で会いたいやつを虜にしてきたら会わせてやる』って。俺はすぐ頷いて、ゆなの前に現れた。お前と一緒に料理を作って、出掛けて。そのときの思い出のケーキが、目を覚ましてから暫くして思い出したんだ」

 律君が何をいっているのかわからない。それでも確実に言えるのは、――『彼』は消えてなんていなかった。

「――リツ?」

 私が訪ねると、彼は変わらない笑みを浮かべて言う。

「ただいま」

 家に帰ると必ず聞こえた「おかえり」の声。彼が消えて半年、忘れなくちゃと急いでいた私はきっと、心のどこかでずっと彼を待っていたんだと思う。
 でも彼は消えてなんていなかった。ずっと傍にいてくれた。

 ――おかえりなさい。

 今度は私が迎える番。
 そしてここからきっと、半年前よりももっと楽しいことが起きる気がする。甘くてほろ苦くて濃厚な、悪魔が作ったケーキに惑わされながら、これからも貴方と一緒に笑えますように。


「デビルズケーキの誘惑」完結
 主人公は地方の田舎から出てきたばかりの少女。
 都会という何もかも新鮮に見える場所での新しい生活は、彼女にとって驚きや感動と共に、社会では常に一人だと言い聞かせても拭いきれない不安をいつの間にか抱えていた。
 そんなある日、唐突に現れた自称悪魔の少年・リツに半ば強引な契約を結ばれてしまう。
 料理上手で優しい彼に心奪われていく結菜。初めて一緒に出かけることになったある日、偶然出会わせた結菜の学校の友人にリツは彼女の昔話をした。その話は彼女の幼馴染しか知らない、懐かしい話だった。
 一体リツは何者なのか、結菜は次第に幼い頃の思い出を懐かしみながら、悪魔との日常が始まった。
 これは寂しい時でも隣にいてくれた、優しい悪魔の話。

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