その説明が終わらないうちに、男の先生が「入るよー」と声をかけて、中へ入ってくる。
「どうだ、気分は?」
「あ、大丈夫です。すみません」
「暑かったからなー、熱中症を心配したが、大丈夫そうで安心したよ。頭を打ったわけでもないし、寝ているだけのようだったから寝かせてたけど、軽い貧血か寝不足といったところかな」
先生は軽く笑ったあと、私に聴診器を当てて軽く診察をしてくれる。
「しんどいなら、お家の人に連絡して迎えに来てもらうこともできるが、どうする?」
でも、せっかく来たのに……。
去年も来た場所なら、何かを思い出せるかもしれないのに……。
勝手かもしれないけれど、ここでおしまいにするのは嫌だった。
「大丈夫です。合宿を続けます」
「花穂、無理しないで。しんどいなら一緒に帰ろう?」
リョウちゃんの眉が寄る。それだけ私のことを心配してくれているのだろう。
「大丈夫だよ。ちょっと朝早かったから、疲れが出ただけだと思う。ゆっくり寝たし、もう元気だから」
「でも……」
「夜は天体観測があるんでしょう? 私、星が見たいな」
それに、あくまでこれは天文学部の合宿だ。
メインは、これから夜間にかけて行われる高原での天体観測だ。
それなのに、私のせいでリョウちゃんが天体観測に行けなくなるなんてことになれば、迷惑もいいところだ。
そうはなりたくたい。
しばらくリョウちゃんは眉を寄せて私のことを見ていたけど、やがて視線を落として小さく息を吐き出した。
「……わかったよ。もし、また調子が悪くなりそうなら言ってね」
天体観測が行われる場所は、お昼のバーベキューをしたところにある芝生の広場らしい。
先生にお礼を言ったあと、すぐにでも合宿に戻りたかった。
だけど、心配だからと言うリョウちゃんに付き添われて、結局オレンジ色の西陽が差し込むまで、私はこのベッドの上で休ませてもらうことになったのだった。
夕刻になり、芝生の広場に出る。すると、すでに望遠鏡が三体設置されて、部員がレンズを覗いては調整をしているようだった。
「柏木くん、彼女、大丈夫だったの?」
調整が終わった望遠鏡のそばにいた部員の一人が、私に気づいて目を丸くする。
「ええ。とりあえず大丈夫みたいです」
リョウちゃんとともに、声をかけてくれた部員さんのそばに寄ると、「覗いてみる?」と声をかけられる。
「いいんですか?」
「いいよ。あそこに見える金色の星あるでしょ? 金星なんだけど、今それに合わせてるから」
促されるがままに、私は望遠鏡を覗いた。
「わ……っ!」
遠くに見えた黄色い惑星が、当たり前なのだけどすぐ目の前に見える。思わず驚いて一歩あとずさってしまった。
そんな私を見てなのだろう。リョウちゃんや他の部員の人に笑われてしまい、恥ずかしくなる。
「梶原さん、そんなにビックリした? あっちのも見てみて。月のクレーターが見えるよ」
今度は園田くんに声をかけられて、彼のそばの望遠鏡を覗かせてもらう。すると、今度は何だかデコボコしたものが見えた。
「……本当」
これが、さっきまでただの黄色い丸に見えていた月だなんて、頭ではわかっていても何だかちょっと信じられない。
いつもは遠すぎて見えていない、本当の姿なんだ。
「もうすぐ満月だから見えにくいかもしれないけど、今日明日はちょうどペルセウス流星群が観測しやすい日になるから、流れ星が見られるかもしれないよ」
私が望遠鏡から顔を離すと、園田くんはそう言って夜空を仰ぐ。
流れ星か……。見られるといいな。
「まあ、星のことなら涼太に聞き? 詳しいから」
「花穂、あっちで見ようか」
園田くんが笑みを浮かべて視線をリョウちゃんの方へ移す。するとリョウちゃんは慌てたように私の手を引いて、広い芝生の真ん中へと引っ張っていった。
星の高原という名前の通り、頭上はまるでプラネタリウムのように星であふれている。
二人で空を見上げるけれど、なかなか空を流れる星は見えない。
少ししてリョウちゃんが「……あっ!」と頭上を指した。
「あれが、夏の代表的な星座のさそり座だ」
「さそり座。星座占いに出てくるよね。私のお母さん、さそり座生まれだよ」
「おばさん、さそり座だったんだ。僕もなんだ」
「え……?」
リョウちゃんが、さそり座?
私の驚く顔に、リョウちゃんも同じように驚いたように目と口を開く。
「い、意外だったかな?」
「あ、ううん。ごめんね、何となくリョウちゃんって、春生まれな気がしてたから」
「さそり座は十月下旬から十一月中旬生まれだもんね」
そっかそっか、とリョウちゃんはウンウンと納得するようにうなずいて、再び夜空を仰ぐ。
「あの赤い星が、さそり座の心臓と言われている一等星のアンタレスだよ」
「ああ、あの赤い星だね」
リョウちゃんが手を頭上にあげて指し示してくれる。
その腕に寄り添うようにして夜空を見つめると、確かに赤く光って目立つ星があった。
アンタレスがさそり座で有名な星だということは、知識として知っていた。けれど、こうして実物をまじまじと見るのは、初めてかもしれない。
「うん。あれがさそり座の心臓といわれていて、線で繋ぐと、さそり座になるんだよ」
そう説明しながら、リョウちゃんは腕を動かす。
「冬にオリオン座って見えるんだけどね?」
「ああ、真ん中に星が三つ並んでる……」
私をうかがい見るリョウちゃんに、ウンウン知ってると相づちをうつ。すると、リョウちゃんは少し安心したような表情を浮かべた。
きっとリョウちゃんとしては何気なく話してしまったけど、私がこんなだから、オリオン座のことを覚えてるかどうかわからなかったのだろう。
不思議なことに、何も思い出せないくせに、こういった知識は抜けてないんだよね。
「そうそう、オリオン座とさそり座には有名なギリシャ神話があって、オリオン座はさそり座から逃げるように動いてるんだ」
「そうなんだ。どんな話だっけ」
去年来たときも、私はリョウちゃんにこんな風に星の説明やギリシャ神話について聞いたのかな?
何だか、不思議と前にもこんなことがあったような気がするんだ。
思い出そうとしても、記憶に深いモヤがかかったようになって思い出せないけれど。
「ギリシャ神話では、オリオン座のオリオンは名高い狩人で、自分よりも強いものはいないと豪語して神々をけなしてたんだ。それに怒ったヘラ女神が、オリオンのもとに大サソリを放って、オリオンはその大サソリに刺されて死んじゃったんだって」
「そっかぁ。それでオリオン座はさそり座が怖くて逃げてるんだね……」
「他の説もあってね、オリオンから求愛された女神アルテミスが困った揚げ句、サソリを刺客としてオリオンへ送り、尻尾の毒針でオリオンは刺されて死んでしまうっていう話もあるんだ」
「どっちにしても、オリオンは死んじゃうんだね……」
神話とはいえ、何だか切ない。
オリオンに非があったのはわかるけど、死んじゃうなんて、あまりに悲しい結末だ。
「死んじゃったら、もう二度と会えないのに……」
夜空が滲む。何だか自分でもおかしいくらいに死という言葉に過剰反応して、涙が止められなかった。
リョウちゃんはそれに気づいて、焦ったように私の肩を抱いてくれる。
「ごめん、暗い話だったよね。あ、でもね、こういう説もあるんだよ! さそり座に接するへび使い座の医神アスクレピオスから毒消しをもらって、一命をとりとめたオリオンは日頃の行いを反省したとも言われてるんだ」
「……うん」
へび使い座……。聞いたことがあるような気もするけれど、あまりピンと来ない。
「だから、オリオンが助かってる説もあるんだよ」
私を支えるリョウちゃんの手が、私に泣かないでと言っているようだった。
だけど、そのリョウちゃんの手さえあっけなく消えてしまう幻のように思えて、怖くなった。
何をこんなに異常に怖がってるのか、自分でもわからない。
「……リョウちゃんは、死なないよね?」
「……え?」
私の言葉に、リョウちゃんの顔が強ばるのがわかった。
目と口を開いて、困ったように眉を寄せている。
だけど、止められなかった。
「私のそばから、いなくならないで」
一人にしないで、お願いだから。
そんな意味を込めて、私を支えてくれるリョウちゃんの方へ向き直り、私はリョウちゃんの身体にしがみついた。
リョウちゃんが、消えてしまわないように。
いなくならないように。
そばにいて……。
リョウちゃんが、優しく抱きしめ返してくれる。
何となくリョウちゃんの手が震えているように感じたのは、私がそれだけ泣いてたってことなのかな。
「……ごめん」
一瞬、不安になった。どうして謝られたのか、わからなかったから。
「ごめんね、花穂……。でも、僕ならずっと花穂のそばにいるから。花穂が僕を拒まない限りは、ずっと」
「約束、だよ……」
良かった……。
リョウちゃんがずっとそばにいてくれるって言ってくれて。
そのことにものすごく安堵して、このときの私は、リョウちゃんが謝った理由も、その言葉の意味も特別深く考えてなんていなかったんだ。
天文学部の合宿は、二日目に入っていた。
僕たちは、朝からこの高原から少し下ったところにあるオリエンテーリングエリアの山道で、天文学部のメンバーとスタンプラリーを行っている。
グループのメンバーは、昨日のバーベキューのときと同じだ。
このオリエンテーリングエリアは、公共の施設のもので、僕たちの他にもオリエンテーリングに来ている家族連れや学生の姿が見える。
「リョウちゃん。あったよ、二個目のスタンプ」
そんな中、頭上から太陽の光に照らされながらも元気に僕の方へ嬉々と笑顔を浮かべる花穂の姿があった。
「本当だ。じゃあ、さっそく押そうか」
そう、昨日から僕の頭を悩ませている張本人だ。
当の本人はそんなことを知る由もなく、純粋にオリエンテーリングを楽しんでいるようだった。
花穂に返事をした僕は、思いっきり左腕を小突かれた。
「二人でオリエンテーリングやってるわけじゃないんだから、いちゃつくなって」
園田先輩だ。
「すみません、そういうつもりじゃなかったんで……ぶふっ」
思わず頭を下げる僕に、今度はチョップが降ってくる。
「何、改まってるの。最近の涼太、何か気持ち悪いんだけど」
わざとらしくそう言って、園田先輩は僕に耳打ちしてくる。
「お前、いい加減慣れろ。梶原さんにバレるぞ」
「すみま……、ごめん」
花穂に対しては元々タメ口で話していたし、いつも兄ちゃんが花穂に接しているところを間近で見ていたから、ちょっと恥ずかしかったくらいで、それほど抵抗はなかった。
たけど、園田先輩となると話は別だ。
話をしていると、園田先輩はチャラそうな見た目に反して、真面目で心から星が好きな人なんだということがわかる。
それは別として、園田先輩の外見には、いわゆる後輩が先輩に対して目をつけられたらヤバそうと直感的に感じてしまうような威圧感があった。だから顔を合わせているときは、かなり気をつけて話さないと、つい敬語が口から飛び出してきてしまう。
さっきみたいに、とっさに話しかけられたときは特に、だ。
「いいって。お前、まじでおもしれー」
まぁ、園田先輩は僕のそんなところに気づいて、狙ってそういう話しかけ方をしてくるからタチが悪い。
僕はおもちゃじゃないぞ!
そんなことは、口が割けても言えないが。
「そんなことよりさ、梶原さん、どうよ」
「どうって……」
思い起こすのは、昨日のバーベキューのときのことだ。