記憶のカケラを求めて、今日もきみに嘘をつく

 * 


「ごめん。余計なことした……」

 保健室のベッドに横たわる花穂を見て、園田先輩が頭を垂れる。


「いえ。あれはきっと兄ちゃんが花穂に見てほしかったものだったと思うから。VLについて調べていただいて、本当にありがとうございます」


 VL企画とは、まだ表立って企画が運営されていたわけではないが、放送部が水面下で練っていた全校生徒向けの企画だったらしい。

 今の時代、面と向かって伝えづらい内容は、つい携帯による文面でのやりとりに頼りがちになってしまう。だけど、そうじゃなくて自分の声や言葉で伝えられるようにという試みらしい。


 放送部の部長と今年初めて同じクラスになった兄ちゃんは、企画を本格的に運営するのに先駆けて、VL企画を実際に体験した上での宣伝に協力するように頼まれていたんだとか。

 それを聞いて、兄ちゃんの人望の厚さや、快く引き受ける懐の広さを改めて感じる。


「梶原さん、大丈夫かな……」

「多分、また眠っているだけだと思うけど」

 恐らく花穂は、いつもと同じように、自分の限界を越えたために眠っているだけなのだと思われる。

 花穂の精神的なものからきているみたいだから、身体自体には問題はないのだろう。

 だけど、やっぱり目の前でこう突然意識を手放されるのは、心配する。

 そのとき、僕は荷物を視聴覚室に忘れてきてしまっていることに気づいた。


「あ、僕、視聴覚室に置いたままになっている荷物を取ってきます。ちょっと花穂のこと見ててもらってもいいですか?」

「ああ。それなら俺が取ってくるよ。将太が梶原さんのそばにいてあげた方がいいだろ」

「そうかもしれないけど、植田先輩にも挨拶しとかないと……」

「そんなのいいって。俺から言っておくから。今、梶原さんのそばにいるべきなのは、俺じゃなくて将太。アンダースタンド?」


 最後にものすごい片仮名英語で園田先輩は僕に言うと、園田先輩は僕の代わりに荷物を取りに行ってくれた。


 改めて花穂の寝顔を見る。

 悲しげで、それを裏付けるように目尻には涙の跡があって、思わず目をそらしたくなるくらいに切なくなった。

 花穂は、目を覚ましたらまた僕のことを忘れているのだろうか。それとも──。

 僕はなんとも言えない気持ちで、ただ時間が過ぎるのを待った。

 目を覚ましたとき、私は知らない場所にいた。


 ここは……?

 一面、白い霧に覆われていて何も見えない。


 私……、一体どうしてたんだっけ?

 何も思い出せないけれど、何だかとても悲しい夢を見ていたような気がする。


 そういえば、リョウちゃんは?

 そのとき、不意に大好きな彼の居場所が気になって白い空間を見回す。


 私以外、誰もいない。

 遠くまで鮮明に見えているわけではないが、何故だかそれがわかった。

 それが悲しくてもの寂しくて、不安な気持ちに拍車をかける。

 そのときだった。


「花穂」

 私が聞きたくて聞きたくて堪らなかった、愛しい低い声がどこからともなく聞こえてくる。


「リョウ、ちゃん……? いるの……?」

 さっきまで誰もいないように感じていたけれど、気のせいだったのかな?

 できればそうであってほしいという思いを込めて、辺りを見回す。


「ここだよ」

 すると、どこからともなく私の斜め前方にリョウちゃんが現れた。


「リョウちゃん! 良かった、会えて」

「僕もだよ」

 私が駆け寄ると、リョウちゃんは優しく微笑んでくれる。

 ホッとして涙腺まで緩んでしまって、涙までこぼれてくるから厄介だ。


「泣いてるの?」

「だって……」

 小さい頃から毎日のように顔を合わせていたのに、とても久しぶりに会うような気がするのはどうしてだろう。

 もう二度と会えないような不安に駆られていたのはどうしてだろう。


「いいよ、悲しいときは泣いたらいい。花穂はいつも頑張りすぎなんだよ」

 ほら、とリョウちゃんは私の顔の前で合わせた両手を広げる。

 するとそこには、私の好きなレモン味の飴が乗っていた。


「……いつの間に」

 思わず私の頬が緩むのを見て、リョウちゃんも少し安心したように笑う。


「……いつも、この飴に元気づけられてたね、私……」


 お母さんと喧嘩したときも、上手く友達の輪に入れなかったときも、リョウちゃんと同じ高校を受けたはいいものの結果を見るのが不安でたまらなかったときもそうだった。

 私がどんなにマイナスな気持ちを隠そうと笑っていても、リョウちゃんはめざとく私が弱っていることに気づいて、この飴をくれてたんだ。


 私はいつもリョウちゃんに、このレモン味の飴をもらっていた。

 いつからだったかは覚えてない。

 そして、このことは何となく恥ずかしくて、私とリョウちゃんの二人だけの秘密にしてもらっていた。


「そうだね。いつも花穂のために持ち歩いてたから」

「知ってる。だって、いつも持ち歩いてるのに、リョウちゃんがこの飴を食べてるところは、見たことがなかったもん」

 だけどそのとき、自分の中で何かがおかしいと思う。


「あ、でも、最近はこの飴、もらってなかった気がする……」


 あんなにいつも魔法のように出してくれていた飴を、最近は全く見なかった。

 リョウちゃんはそんな私を見て、少し困ったように眉を下げる。


「花穂、聞いて」

「何?」

「花穂のために持ってた飴、今ので最後だったんだ」

「そうだったんだ。いつも本当にありがとう」

 リョウちゃんが何でそんなことを改まって話すのか、私にはわからなかった。


「飴もいつも用意してもらってばかりだし、たまには私が用意しなきゃだよね」

「違うんだ、花穂。もう、僕は花穂に飴を出してあげられないんだよ」

「……どういう意味?」


 リョウちゃんの醸し出す雰囲気に、嫌な予感だけが先走る。

 この先を聞かないといけないけれど、聞きたくないような。

 受け入れないといけないけれど、受け入れたくないような。


「……もう、一緒にいられないんだ、僕ら」

「何で! どうしてそんなこと……!」

「……本当に、覚えてない?」

「……え?」


 私に問いかけるリョウちゃんの瞳は、酷く悲しそうだった。

 私……、何か忘れてる?

 どうして自分がこの場所にいるのか、この場所に来る前はどうしていたのか。

 それさえわからない私は、すでに忘れていることばかりなのだろう。

 だけど、リョウちゃんの揺れる瞳を見ているうちに、まるで走馬灯のように私の脳裏にある夜の出来事が駆け巡る。


 暑い、夏の夜のことだった。

 その日は、リョウちゃんとお祭りに行ったんだ。

 本当は今までのように私とリョウちゃんとショウちゃんと三人で行こうと思ってた。だけど、ショウちゃんには行かないと断られたんだ。

 ショウちゃんに断られたことは残念だった。けど、二人きりで行くことになって、思いがけずにお祭りデートをすることになったように感じて、ドキドキしたのを覚えている。


 同い年なのに頼りになるお兄さんみたいな存在だったリョウちゃんと、弟のように可愛がってきたひとつ年下のショウちゃん。

 二人とも大切な幼なじみだったけど、私はいつからかリョウちゃんに恋をして、高校に入学したときにリョウちゃんから告白されて、付き合うことになった。

 とはいえ、それからも三人で過ごすことは多かったから、せっかくだからとその日は夏祭りデートを楽しむことにしたんだ。


 私が綿菓子を食べたいと言って屋台に並んでいたときに、悲劇は起こった。

 坂道の途中にある公園ということから、私たちの目線より少し上に位置するフェンス越しに住宅街の道路が見えている。

 あと数人で自分の番だと言うとき、少し高い位置のそこから耳をつんざくようなブレーキ音が聞こえてきた。

 陽が落ちて、辺りが暗くなった中で響くブレーキ音は不気味で、恐怖さえあおった。

 思わず顔を上げて音の聞こえた方を見る。

 すると、言葉では言い表せないような鈍い音とともに、こちらに黒い乗用車が宙を舞うようにして飛んでくるのが見えた。


 こっちに来る……っ!

 どうしよう、なんて思う余裕さえなかった。

 地に足を縫い付けられたように動けなくて、思わずガードするように自分の手を私の顔の前に当てて、顔を背けて目をつむる。

 そんなことで、防げるわけないのに。


「花穂っ!」

 だけどそのとき、私はリョウちゃんにものすごい力で横に突き飛ばされたのだ。


「──きゃっ」


 その反動で身体を土にぶつけたのと同時に、鈍い音と人々の悲鳴が響いた。

 隣にいたはずのリョウちゃんがいた場所には、ボンネットのへこんだ車が降ってきていた。

 そのすぐそばには、変わり果てたリョウちゃんの姿があった。


「おい、大丈夫か? 救急車、あと警察も!」

「しっかりしろ!」

「息してねーぞ。脈もない……」


 そんな、そんなそんなそんな……。

 私のせいだ……。

 私が、こちらに向かってくる乗用車から自分で逃げられなかったから。

 私が、綿菓子を食べたいなんて言ったから。

 私が、お祭りに誘ったから──。


 息が苦しい。心臓がいやな音を立てる。

 リョウちゃんのそばに行かなきゃと思うのに身体は動かなかった。

 次第に頭痛や吐き気が激しくなって、私の意識はそこで途絶えてしまった。

 そして次に意識を取り戻したときには、私は全ての記憶をなくして病院のベッドの上にいたんだ。


「……ごめんなさい。私のせいで、リョウちゃんが……。私、リョウちゃんさえいてくれたら、何も要らないのに……」

「……思い出したんだね。でも、花穂は悪くない」

「でも……っ!」

「聞いて、花穂」


 リョウちゃんは私の言葉をやんわりと遮ると、私の両肩に手を添える。

 私の肩に確かに触れているリョウちゃんの手の感触は、感じられなかった。


「僕は花穂を守りたかったんだ。本当に好きだったから。だけど、そのことで花穂を苦しめてしまったことは本当に悪かったと思ってる」

「そんな……、何でリョウちゃんが謝るの……」


 これじゃあ、私のことを命をかけて守ってくれたリョウちゃんを責めているみたいだ。

 そうじゃないのに……。


「でもね、花穂は僕が花穂を一人置いて死んでしまったと思ってるかもしれない」

「うん。リョウちゃんがいないと、私……」

「それは違うよ、花穂」

「なんで……っ!」

「花穂にはみんながいるだろ? お父さん、お母さん、友達や将太だっている」

「そうだけど、やっぱり寂しいよ」


 リョウちゃんが大好きで、特別で、代わりになるものなんてない。


「花穂、目が覚めてから今日まで寂しかった?」

「……え?」

「僕は花穂のそばにはいられなかった。だけど、そんな花穂が悲しみの渦に落ちてしまわないように、ずっとそばに居てくれた人がいるんじゃない?」


 ショウちゃん……。

 今ならわかる。ずっと私の隣でリョウちゃんの姿で一緒に居てくれたのは、ショウちゃんだったんだって。

 きっとそれは、私がショウちゃんのことを思い出せずに、ショウちゃんのことを見て、リョウちゃんって言っちゃったからだ。

 他の誰も思い出せなかったのに、リョウちゃんの名前だけ私の口から出たのを聞いて、きっとショウちゃんは違うって言えなかったんだよね。

 そこを否定されたら、きっと私は知らない人だらけの孤独の世界にぽつんと取り残されるようになってしまうから。

 きっと、ショウちゃんの優しさだったんだ。


「でもそれは、リョウちゃんだって思い込んでいたからで……」