校外演習の舞台となるユルグ峡谷は、地面が大きく隆起して断崖絶壁が続く自然の難所である。
 ユルグ峡谷は、学校のある王都レグルスから、飛竜約二時間の距離にある。
 イヴたちは学校に雇われた運輸業の竜に乗って、ユルグ峡谷までやってきた。
 
「すごい眺めだね、イヴ!」
 
 峡谷の天辺からは、砂漠に囲まれたエファランの広大な国土が一望できる。
 赤茶けた大地には背の低い草と、ひょろひょろとした木々しか生えていない。
 木々や山などの遮るものは少なく、地平線が霞んで見えた。
 どこまでも砂漠が広がっているのだが、エファランの周囲のみ例外だ。王都にある湖を中心に人工的な河川が設けられており、人の住む場所を守るように、緑の森が密集している。
 リリーナは景色を見渡して感動しているようだ。
 
「あの丸いの……あれが高天原《インバウンド》かしら?」
 
 遠く砂漠の向こうに蜃気楼のように佇む、透明なドーム。
 お椀を地面に伏せたような巨大な人工物が見える。
 ドームは周囲の景色を反射して輝いているが、うっすら内部の空や雲や緑が透けている。マーブル状の虹をまとったドームは、シャボン玉のようにも見えた。
 
「あれが私たちの祖先が住んでいた高天原《インバウンド》……」
 
 イヴが呟くと、ロンドが補足する。
 
「あのドームは、神々がワームの攻撃を防ぐために張った巨大な結界魔法だ。僕らエファランの民は、遥か昔にあの高天原を出て、困難に満ちたこの蘆原国《アウトバウンド》で生きることを選んだ。今現在、高天原とエファランは限られた範囲でしか交流していないが、高天原にはいくつかの人間の国がある。そのひとつが雪国アオイデだ」
 
 雪国アオイデ。カケルの故郷だという高天原の国だ。
 イヴは、カケルがどんな顔をして故郷を包むシャボン玉を見ているのか気になった。
 
「カケル……って、あなた何してるの?」
「うーん」
 
 しかしカケルは高天原の方向を全く見ていない。
 地面にしゃがんで、雑草を摘んでいた。
 
「さっきニョロっと動いたような?」
「草が動く訳ないでしょ! ああ、何食べてんの?!」
「こら、カケル!」 
 
 雑草のつまみ食いを始めたカケルを、ロンドが慌てて止めている。
 本当にこのメンバーで大丈夫なのかしら。
 イヴは改めて不安になった。
 
「私が道を決めるけど、一応あなたリーダーでしょ。地図を見て頂戴、カケル」
「見た。いいんじゃない」
 
 地図を広げてルートを示すと、カケルはいかにも適当に頷いた。
 言うことを聞かないよりマシだが、何を考えているかさっぱり分からない。
 
「今はこの地点にいるわ。とにかく、崖の下に降りて、キャンプ場を目指すわよ」
「はーい」
 
 カケルのおざなりな返事。
 オルタナはイヴの仕切りに反対していた癖に、結局イヴが先導することに不満は無いのか、無表情で最後尾を歩いている。
 一行は一番体力の無いリリーナに合わせ、のんびり崖を下った。
 
 学生たちがあまり集団にならないように、学校側が意図的に違う道を歩くよう指示していた。イヴたちの他にも数班の学生が同じ道を歩いていたが、途中で滝を見たり岩の迷路に寄ったりで、だんだんバラバラになっていく。
 だが一日の最後には、川に面した大きなキャンプ場で、全員が合流して夕飯を食べる予定だった。
 
「ごめんね。私のせいで遅れちゃって」
 
 途中の休憩で、リリーナが申し訳なさそうに言った。
 確かに息を切らしているのはリリーナだけで、他の面々は平気のようだ。竜族のカケルは当然体力があるし、獣人のオルタナも同様である。竜騎士を目指すイヴとロンドも、普段から運動や武術の修行をしているので、多少の山歩きでへばったりはしない。
 
「リリーナは気にしなくて良いのよ」
 
 イヴは親友をねぎらって、水筒から果実水をカップに注いだ。
 簡単な魔術を使って果実水を冷却している。
 
「ありがとう、イヴ。冷やしてくれたんだね」
 
 リリーナは笑顔でカップを受けとる。
 
「おーい! 助けてくれ!」
 
 その時、非常に慌てた様子で、他の班の同級生が駆け込んできた。
 
「ワームが出たんだ! 襲われて、僕だけ逃げてきた……!」
「何ですって?!」
 
 イヴは水筒を置いて立ち上がる。
 
「どこ?! 私も行くわ」
「イヴ、ちょっと待って」
「リリーナはここにいて!」
 
 同級生を助けに行こうと、イヴは勢い込む。
 
「イヴくん、教師に連絡するのが先だ。それに学生が真っ先に救助に向かうのは二次被害が出る可能性が……」
 
 ロンドが何やら止めに掛かっている。
 しかしイヴは「すぐに行かないと死人が出るかもしれない」と吹っ切り、助けを呼びにきた同級生と一緒に山道を走り始めた。
 
「虫か。ハッ、ちょうどいい憂さ晴らしになりそうだぜ!」
 
 なんとオルタナまでが嬉々として後を追う。
 
「なんてことだ……これじゃ何のためのチームか分からないだろうに」
 
 ロンドは天を仰いで嘆いた。
 
「ロンド兄。先生たちに連絡してよ」
「カケル?」
 
 それまで黙っていたカケルが口を開き、落ち着いた声でロンドに言った。
 
「陸戦科のオルトも一緒に行ったし、イヴなら大丈夫だと思う。俺たちは先生たちと連絡を取り合いながら、ゆっくり後を追おう。班がバラバラになるのはマズイでしょ」
「そうだな……サーフィン」
 
 ロンドは連絡用の魔術を行使した。
 空中に平べったい魚が現れる。魚が泡を吐くと、泡から水色の小魚が生まれ、凄まじい速度で空を泳いで散っていく。
 魚は、魔術の補助をする案内使魔《ナビゲータ》だ。
 魔術師なら一人一匹、必ず案内使魔《ナビゲータ》を持っている。ロンドのそれは、平べったい魚の姿をしており、サーフィンという名前だ。
 
「行こう」
 
 青ざめるリリーナの手を引いて、カケルとロンドもゆっくり移動を開始した。