死んだ僕の愛する人へ。

まずこれは、僕の独り言だ。ただ僕が、何者でもない僕がつぶやく、独り言だ。これを見つけたのなら、君に届く前に破り捨ててほしい。

僕は暗い子供だった。太陽のような兄の影で、おばけのようにひっそり生きてきた。誰も僕を気にもとめなかった。僕も、それでよかった。

唯一好きだったのは国語の授業だった。自分のこころに眠る感情に名前があると知ったときは、興奮した。夜通し辞書を読みながら当てはめていって、自分を構成するそのひとつひとつの語彙を愛でた。

それをいつしか別の言葉で飾りつけて、ひとつの空想上の世界へ吐き出すようになっていた。

母親は下品な娼婦にして、存在感のない父親は間抜けな詐欺師にして、僕をいじめる同級生はカタルシスを演出するためわざとむごく殺す。そうやって、僕は僕のこころを落ち着けていた。

それはやがて、10冊ほどの本が出せる分量になっていた。僕は自分で書いた小説のようななにかを、塾に行くふりをしてホテルの廃墟で眺めているのが好きだった。

そんなある日、君に出会った。僕の落とした生徒手帳を拾ってくれた。それから、毎日のようにあの廃墟で出会った。会ったけれどそこに会話はない。彼女が帰る頃、僕が行く。まるで昼と夜のような関係だった。交わることはないけれど、お互いの存在を認識している、そんな関係だった。

そんな関係は、君がハンカチを貸してくれたことで終わった。僕が塾をさぼっていたことが母親に知られ、食器を投げつけられたときにできた傷を、君は目ざとく見つけた。誰も知らない僕の名前を、呼んでくれた。僕も知らなかった血を、ハンカチで拭ってくれた。

汚れたハンカチを君に返すわけにはいかず、百貨店で店員に言われるまま新しいハンカチを買った。はじめての体験で胃の内容物をひっくり返すほどに緊張した。店員という生き物は、思ったよりも怖くないものだと知った。

翌日それを渡すと、君はとても喜んでくれた。生きててよかった、初めてそう思った。

それから昼と夜の関係はおわり、僕は早くから君をホテルの廃墟で待った。昼の世界に僕が混じったのだ。大きな光の中で小さな闇というのはかき消されてしまうらしい。僕にも笑顔ができるのだと、筋肉痛になった表情筋を撫でながら驚愕した。おかしな話だ。君との時間はいつもあっという間だった。

僕が小動物を殺していると噂がたったときも、君だけは疑わなかった。だから僕は君に自分をさらけ出すことができた。

僕が初めて君に小説を見せたとき、君は素直に言った。「こんなのこわくて読めない」と。正直がっかりした。だけど続けて言った。「でも、こわくても引き込まれる。ねえ、これをコンテストに出してみない?」と。

僕はそのコンテストで1番の賞をとった。そして小説家になった。

話はとんとん拍子に進んで、作品はどんどん売れた。書き溜めていたものを編集者に言われるがまま校正して出版すれば、すべてヒットした。君も一緒になってよろこんでくれたけど、結局僕の本はいつも「やっぱりこわくて読めない」と途中でやめていた。

そのころには僕らは付き合っていた。君から告白してきたんだ。夢みたいだった。僕も君が好きだったけれど、勇気がなかった。告白する勇気じゃない。君を幸せにする勇気だった。君にはすでに仲の良い男友達がいたし、僕のそばにいたら君まで陰気になるんじゃないかと不安だった。

だけど君はまっすぐで、そんな君を見れば大丈夫な気がした。君と一緒なら。

それからは、本当に幸せだった。幸せすぎて、夢じゃないのかと腕をつねるばかりだった。痛みが喜びになるなんて初めて知った。

小説のほうはさっぱりだった。あの毒を持っていたころの僕を真似て話を書いてみても、ナイフの柄しかないみたいに、切れ味のない話ばかりだった。

ファンも減り、才能の枯渇だとか、ゴーストライターが死んだとか、散々な言われようだった。担当編集者からも見放されかけていた。

そんなときでも、君は僕の味方だった。「あなたはやさしいんだから、やさしい話を書いてみたら?」、「絵本はどうかな? いつかこの子に読み聞かせてあげたい」。膨らんだお腹をおさえた君が、本当に愛おしかった。

きっと君は、僕の本質を知ってくれていた。僕の書いた話はこころの掃き溜めだったと理解し、僕がこころから楽しんで書ける話を望んでいた。

僕についていた過激なファンも、僕の方向転換を見て離れていってくれるだろうと期待していた。電話番号を変えて、引っ越しをして、心機一転頑張ろうとふたりで決意した。

すべては僕の不注意のせいだった。その日はたまたま仕事の打ち合わせが長引いて、雪のせいで電車が遅れ、やっとの思いで家に帰ったら、君はもう、動かなくなっていた。僕のファンに、殺されていた。

死の現場をこれまで話に書いて来たものの、本物を目にすると自分はあまりに無力だった。泣き叫ぶことしかできなかった。



それから僕は、生と死の境目に存在していた。髪やひげは伸びっぱなしで、服はそのへんのものを着て、ただひたすらに、過去へ戻る方法を探していた。

数年かけて有力な情報を得た。莫大な金額を払えばタイムマシンを借りることができるらしい。僕は藁にもすがる思いで全財産を投げうった。

タイムマシンは一度限りで、使えば自分の体に負荷がかかり下手すれば死んでしまうかもしれないこと、過去を変えると自分が帰るところは元いた世界とは異なっていることなど、注意事項を聞いた。とにかく戻れるなら、なんでもよかった。

戻りたい日を設定するとき、君との幸せな時間を求めたけれどそれはやめた。一度しか使えないタイムマシンだから、自分の願いとは何か熟考した。