ベアトリスはパトリックの出方を待っていたが、パトリックは一言も発しない。感情を一切出さずに黙ってベアトリスを見つめるだけだった。
 付けっぱなしのテレビから聞こえる音は、沈黙の二人に気を遣うことなく好き勝手に流れていた。
 ベアトリスは、パトリックの反応が得られないことに痺れを切らして、再び話し出した。
「ずっとその人のことが、好きだったの。最初は憧れてるだけだった。好きなのにその気持ちを抑えてて、とやかく言うこともなかったんだけど、やっぱり心は嘘はつけないって、本当に大好きなんだなって、ある日気がついた。そしたら、もう自分の気持ちが抑えられなくなって、叶わない恋だけど、でも彼を、この先も思い続けたいの。それが正直な気持ち」
 ベアトリスが様子を見ながら、途切れ途切れになって話しているのに対し、パトリックは余裕にも微笑んでいる。
「本当は知ってたんだ、君に好きな人がいるってこと。七年も離れていたんだ、この間に僕が知らないことがあっても仕方がない」
「パトリック…… それじゃ」
 ベアトリスの言葉をかき消すように、強くパトリックは主張する。
「僕は決して諦めないよ! だってベアトリスは僕を好きになるっていっただろ。それにそいつ、君に連絡して来たのかい?」
「そ、それは、ちょっと複雑な事情があってその」
「ほうら、相手は君のこと何も考えてないじゃないか」
「違うの! 今は自分でもうまく説明できないけど、彼に何か事情があって、私、その、なんていうか、真実が知りたいの」
「真実?」
 パトリックは少し訝しげになった。
「うん。気がかりなことがあるの。それを確かめて……」
 ベアトリスはその後の言葉に詰まる。
「確かめてどうするんだい」
「わかんない。事実を突き止めて自分がどうしたいか、考えてもみなかった」
「なんだよ、それ。それじゃただの片思いなだけじゃないか。恋に恋して自分にいいように考えてるだけの恋愛ごっこじゃないか」
「でも、好きになるってそういうことじゃないの。あれこれ考えて、自分の中で膨れていく。結局は先の事も考えられず、思いだけが先走ってしまう。それが恋だと思うの」
「僕もベアトリスに恋をしてるよ。その気持ちは痛いほど分かる。だけど僕がいいたいのは、相手が君の事を考えていたら、僕と同じ行動をしてるということだよ。そいつは君の事なんとも思っていないんじゃないかってこと。それにもし真実を知ったとき、君は、その相手を変わらず好きでいられるのかい?」
 パトリックはつくづく自分が意地悪だと自覚していた。ヴィンセントが自分と同じ行動をしているのは知っている。
 自分と同じ思いを抱いてることも知っている。
 そしてその真実が何かも知っている。
 それを全て分かっている上で、ベアトリスを試すように悪役になっていた。
「今はうまく言葉に表せないの。まともに相手とも話せないし、ただその真実を知らなくてはいけないって、自分の使命を感じるの。それがすごく大切なことのように思える。だからいつまでも私の心の中には彼がいるの!」
 ベアトリスは感情が高ぶり自分の想いを噴出した。これで自分の正直な心情が心置きなく吐き出せたと思った。言い切った清々しさを一瞬感じ、胸のつかえが取れた気分だった。
 だがパトリックは首を斜めに少し掲げて冷静に対応する。
「それで?」
「えっ?」
 パトリックの落ち着いた笑顔が予想外だった。まるでこの状況を喜んでいるようにしか見えなかった。
「だから君が何を言いたいかだよ。君の気持ちはわかったと言っておこう。だけど、僕の気持ちは変わらない。君はただ迷ってるだけだろ。想い人がいる、でもそんなときに僕が現れた。僕が側にいることで気持ちに変化が現れて、それを自分で筋道立てようと僕に話をした。心揺れ動くのが自分でも認められなくて罪悪感を感じたってところかな。今の言葉は自分で自分のために言い聞かせたってことだ。僕のために言った言葉じゃない」
「なっ、何をいうの」
「いいっていいって、慌てるところが、図星ってことさ。それが心というものだよ。僕が側にいることが心苦しくなったんだろ。ベアトリスの考えていることくらいわかるさ。君は純粋なんだよ。自分の気持ちの変化ですら罪深いと考えてしまう。でも僕は却って嬉しいよ。だってそれって、僕にもチャンスがあるってことだから。僕は君のこと諦めない」
 パトリックの穏やかで静かに見つめる瞳は、ベアトリスに心の中を見せているようだった。何があっても心はゆるぎなくベアトリスしか見ていないことを瞳に映している。
 ──この瞳。この瞳が私を惑わせるの。悔しいけどパトリックの言う通りかもしれない。私……
「ねえ、一つ聞いていい? どうしてそこまで私のことを想えるの。あんなに年月をおいても、子供のときからの気持ちをずっと持ち続けられるの。私、パトリックのこと忘れてたんだよ。今だって、昔と違って別人のようになってるのに、それなのにどうして」
「人を好きになるってなぜだと思う?」
 ベアトリスは逆に質問され、言葉に詰まり答えられないでいた。
「ほら、それが答えなんだよ。君は何もいえない。すなわち、明確な答えがないってわかってるんだよ。誰にも説明できない。自分でもわからない、なのに心は知ってるんだ。 僕の心に君が入り込んでから、僕は自分では説明できないのに、心は君を想い続ける。理由なんてないんだ」
「でも、私はそのあなたの気持ちに甘えたくないの。他の人を想いながら、パトリックの気持ちを受け入れるなんて私にはできない」
「やっぱり原因はそこか。いいんだよそれで。僕は少なからず君の心に少し入り込んだってことだね。嬉しいよ。そうやって気持ちをぶつけてくれて」
「パトリック、あなたに何を言ってもいつも前向きな答えしか返ってこない。だけど私……」
「じゃあこうしようっか。ちょっと待ってて」
 パトリックはソファーから立ち上がると、自分の部屋に行って何かを持ってきた。それをベアトリスの目の前に差し出した。
「それは、婚約証明書。これをどうするの」
 パトリックは突然それを二つに切り裂いた。ビリッという紙の音が耳の鼓膜に衝撃を与え震わした。突然のパトリックの行動にベアトリスは面食らって息を飲んだ。
「どうだい、すっきりした? 僕もこれで君に恋するただの片思いの男。こんなものがなくったって僕はいつだって本気だよ。さてと、僕も疲れちゃったからこれ片付けてもう寝ちゃっていいかな」
 パトリックは、コーヒーテーブルの上の食べ残しのピザや紙皿を片付け、台所に入った。ベアトリスは言葉をなくし、ただ呆然とソファに座っていた。
 パトリックが再び顔を出し「お休み」と笑顔であいさつする。
「おや……すみ」
 ベアトリスも返事を返したが、パトリックの予期せぬ行動に驚きすぎて放心状態になっていた。婚約証明書が破棄されて嬉しいはずなのに、そんなものに頼らずに自分の思いを真剣にぶつけてくるパトリックの本気に押されていた。
 ──パトリック、やっぱりあなたって人は予測不可能。それって私はこの先も振り回されるってことなの?
「パトリック・マコーミック…… 」
 ベアトリスは小さくその名前を呟いていた。

 パトリックは部屋に入り、ふぅーと息をつく。先ほど破った婚約証明書はまだ手元に残っていた。だがゴミ箱には捨てられず、破られたまま机の引き 出しに突っ込んだ。
 ベッドにごろんと横になり、頭の下で手を組む。
 天井を見つめながら、この日のことを振り返っていた。七年振りのベアトリスとの再会で得たものは喜びだけじゃなかった。ずっとこの日を待ち望みハッピーエンドを想像していただけに、幾つもの試練と苦しさの幕開けにかなり参ってしまった。
「でも僕は負けないよ。負けるわけにはいかないんだ。ダークライトにも、そしてヴィンセントにも」
 パトリックは心を奮い立たせようと机に飾っていた子供の頃の写真に目をやった。
「今度は僕がベアトリスを助けるんだ。そして幸せにするんだ。あの時の事故が意味するもの、それを理解して守ってあげられるのは僕しかいない。だけど今日は疲れた」
 視界がぼやけ瞼はあっさりと閉じて、パトリックはそのままいとも簡単に眠りについてしまった。

 ベアトリスはソファーに一人残され、テレビのリモコンをいじって、観たい番組があるわけでもないのに、チャンネルをため息混じりに次々変えていた。
 チャンネルを変えるのと同じように、心も一定のものを映し出す安定感がなかった。
 ミステリー番組が映し出されると、そのとき手元が止まった。
 説明がつかない超常現象が、人々の体験を通じて再現されている番組だった。ある程度誇張されているが、それが嘘だと決め付けられない。
 本来なら誰にも信じてもらえない話。だけどこの時、ベアトリスはミステリー番組が自分のドキュメンタリーに見えてしまった。
 暗闇の中で人間じゃない何かに追いかけられて襲われるシーン。それがあの時の事と重なる。
「私はあの時、襲われそうになった。それをあの野獣が助けてくれた。あれがもしヴィンセントだとしたら、私はその事実を確かめたときどうしたいのだろう」
 独り言を呟けば、パトリックの質問が頭でこだまする。
『もし真実を知ったとき君はその相手を変わらず好きでいられるのかい?』
 ベアトリスは目を瞑り、ヴィンセントの顔を思い描いていた。
 笑顔、クールな瞳、ドキッとさせられたウィンク、真剣な面持ち。
 色々と彼の表情が浮かぶ。そして突然浮かんだヴィンセントの恐ろしい表情──。
 物置部屋で二人で過ごしたときにヴィンセントが見せたあの獲物を捕らえるような何かにとり憑いた目を思い出すと、ベアトリスの胸は突然スイッチを入れられたようにざわめいた。
「あの時、ヴィンセントが別人に見えたんだ。だけど……」
 はっとすると同時に、ヴィンセントが突然我を忘れてベアトリスに近づいたあの瞬間、慌てることもなく、怖がることもなく、ベアトリスの心はどうすべきかもうすでに答えを知っていたと気がついた。
「私、あの時逃げないって、ヴィンセントはいつだって私の知ってるヴィンセントなんだって、自ら飛び込んだんだ。あのとき心がそうさせた。自分でも不思議なくらい落ち着いた感情が押し寄せて、胸がとても熱くなって、そして私はヴィンセントの全てを受け入れた。なぜだか説明はできない。でも心はどうすべきかすでに判っていた」
 ベアトリスは胸に手を当てる。
 頭で考えなくとも、その時真実が目の前に現れれば、自分の心は答えを出す。
 だからその真実を必ず見つけなければならない。ヴィンセントは正体を隠さなければならない何かを抱えていると思うと共に、救えるのは自分しかいないという感情がどこからか無意識に芽生えていた。
 その気持ちが芽生えると同時に、ベアトリスは難問に答えて正解を得たような表情になっていた。
 テレビのリモコンの電源を切る指に力が入る。テレビの画面が消えたとき心の迷いも一緒に吹き飛んでいた。
「言葉では説明できない。だけど心は知っている。そう、私の心はどうすべきか判っている」
 その思いはどうすべきか導きを示すように、ベアトリスの表情を明るくした。弾むようにソファーから立ち上がり、更なるリフレッシュ を求めてベアトリスはお風呂に入ろうとバスルームに向かった。
 夜は更けて行く。
 静かな闇の中、全てのものが眠りにつこうとしているとき、風が急に吹きだした。この日はまだこれで終わりではないと何者かの登場を待ち構えていた。