──俺はいつもそうだ。
大事な時に何も言えない。
そして、後になっていつも後悔をする。
──あの時こうしていれば。
そんな事を終わってからいつも後悔する。
過去に戻れたら……何てことを思って過去に戻れても、結局は何も変わらない。
だから俺は今日も、作った笑顔を浮かべながら心の中で後悔する。
オフィス内で職場の皆が手を叩く。
パチパチと、それに合わせて俺も手を叩く。
「おめでとうございます!」
「幸せになってくださいね、先輩!」
皆が幸せを喜んでいる。
それに合わせるように、俺も作った笑顔を浮かべながら、おめでとうございます、と誰にも聞こえない声量で伝える。
大学を卒業し、この会社に入社してから四年。
新人の頃に教育係りを勤めてくれた先輩が今日、寿退社を発表した。
主任から渡された花束を抱える先輩の左手の薬指には、真新しい婚約指輪が付けられている。
そして花束を手にする先輩は、幸せそうに、それでいて恥ずかしそうに頬を赤く染めて、皆にありがとうと口にする。
そんな先輩に俺は、ずっと恋をしていた。
最初は面倒見のいい先輩。だけど優しく仕事を教えてもらって、いつからか恋をした。
ただその気持ちを伝える日は来なかった。
──いや、伝えられなかった。
それは臆病な自分が悪い。それにこの先輩と後輩という関係に、どこか満足してしまっていたんだ。
だけど、やっぱり違う。
この結末を迎えて、気持ちを伝えていればと思う。
もし駄目だとしても、言葉にしていればここまで後悔しなかっただろう。
先輩は俺に気付くと、幸せそうな笑顔を浮かべる。
「おめでとうございます、先輩……」
「ありがとうね、安住君。それと相談に乗ってくれてありがとうね」
先輩が結婚する前から、俺は先輩に恋愛について相談されていた。
そのときは苦しかったけど、力になれることが嬉しかった。
──こんなに幸せな先輩を目の前にして、後悔するとは思わなかったんだ。
♦
俺の名前は安住祐一。
平凡なサラリーマンをしている。
趣味はない。特技もない。ほんと今まで何を楽しみに生きてきたのかすらよくわからない。
朝早く起きて仕事へ、そして夜になると自宅へ帰る。
何の面白みのない人生だったが、先輩と出会ってから少しは楽しいと思えていた。
だけどその楽しみも今日、無くなってしまった。
俺は自宅のアパートへ帰る途中、コンビニで缶ビールを買った。
いつもは人と一緒じゃないと酒なんて呑まないのに、今日はなぜか一人で呑みたい気分だった。
「あー、周りが幸せそうに見えるな……」
今までは何も感じなかったのに、急に周りの人達が幸せそうに見える。
仲間だと思えるのは、疲れた表情をしてるサラリーマンの中年男性ぐらいか。急激に親近感が生まれる。同志よ、そう言って肩を叩いて一緒に酒を浴びるほど呑みたい気分だ。
「つっても、明日も仕事だしな」
酒を呑んですぐに寝よう。
明日も仕事だ。失恋した次の日に休んだら、変な噂が立ちそうだし。
そんな事を考えながらアパートの階段を上る。
鍵を開け、真っ暗な部屋に明かりを灯すようにスイッチに手を触れる。
だが、
「……ん?」
玄関から扉を隔て、その先にあるリビングから何か音がした。バタバタという、素足で何かが走る音。
動物じゃない、これは人だ。
だけど一人暮らし。誰かがいるなんて有り得ない。
実家の両親が来てるのか?
いや、鍵は渡してないからそれは有り得ないだろう。
と、すれば、
「こんな日に泥棒かよ……」
俺は疲れてるんだ。
「泥棒だとしたら、何をするかわからないぜ?」
酒が入ってるからなのか。
少し笑って、俺は置いてあった傘を手に、意気揚々とリビングへ向かう。
ペタ、ペタ。
バタバタ!
俺が歩くと、向こうはなぜか走る。
隠れるという考えはない馬鹿な泥棒のようだ。
そして俺は、リビングへと続く廊下を抜け、その扉を開けてスイッチを叩く。
「誰だ!?」
「ヒィ!?」
泥棒らしからぬ可愛らしい声が狭いリビングに響く。
そしてソファーの後ろから、目を大きく見開いた幼い少女がこちらを見ていた。
「誰だ、お前……」
クリーム色の髪の上に三角形の耳を付けた幼女は、ゆっくりとソファーの背から顔を出す。
白い肌。年齢はおそらく十才満たないぐらいだろう。まだ小学生の低学年ぐらいに見える。
そして白いワンピースを着た彼女は、背中から伸びてるっぽい大きな尻尾をぶんぶんと左右に振って、大きく目を見開く。
「メ、メアリー、だよ……?」
「……メアリー?」
誰だ、それ?
酔っておかしくなったかと思い、俺は頭を抱えてため息をつくが、メアリーと名乗る幼女は、少しだけ脅えていた。
「それで、どうして俺の家にいるんだ? というより、どうやって家に入った?」
ソファーに座り頬杖を付きながらため息をつく。
少し離れてちょこんと横に座るメアリーと名乗る狐幼女は、膝に手を置いて、ずっと下を向いていた。
「わ、わからないの。ここに居てって……アリシスが」
「アリシス?」
「ひゃい!」
俺が視線を向けると、メアリーはビクッと肩を強ばらせ、うるうるした瞳を俺に向けてくる。
見知らぬ大人と二人っきりで怖いのかもしれないな。だけど俺も、帰ってきたら知らない幼女が部屋にいて怖いんだよ。
家出少女。冤罪の誘拐。逮捕。ロリ誘拐。
これが世間にバレたら、俺はいったいどうなってしまうんだろうか。
「んー」
というよりも、彼女の頭に付いてる耳と背中から伸びる尻尾は本物か? どうも偽物には見えない。
そう思い手を伸ばすと、透き通るような水色の瞳は更にウルウルさせ、彼女は俺と距離を取る。
「すまん……」
なぜ不法侵入者に謝ってるのかわからないけど、怖がらせたのは確かだ。だから小さく謝って、缶ビールを一気に飲む。
「はあ。それで、なんで俺の家にいるんだ? 親は?」
「……パパとママは、いないの」
「そ、そうか。すまない」
「えっと、パパとママは、生まれたときに殺されたって、アリシスが言ってたの」
え、殺された? めちゃくちゃ物騒なこと言うな。
気になるが、そこに触れていいのだろうか。もしかしたら病気で死んだ事を殺されたって……いや、それはないか。ただ、あまり触れない方がいいよな。
「じゃあ、そのアリシスっての誰なんだ? 仮の親とかか?」
「アリシスは、メアリーをずっと面倒見てくれるの」
「保護者かなんかか。んで、そのアリシスはどこだよ? 一緒に忍び込んでるのか?」
俺が借りてる狭いアパートには、他には誰もいない。
ここには俺とメアリーだけ。
するとメアリーは、悲しそうに俯きながら答える。
「アリシスが、ここに居てって。メアリーが危ないから、この世界で少しだけ居てって言ったの」
「危ない? この世界?」
酒が入った頭で少し考える。
彼女の耳と尻尾はまぎれもなく本物だ。だけどそれは有り得ない。ここは現実世界。だけど本物ということは、信じられないけど彼女は別の世界から来たというのが最もらしい感じか。
漫画とかアニメでよくある、ファンタジー世界から。
俺はため息をついて、缶ビールをテーブルに置く。
「……まあ、わかった。わかんないけど、納得するしかないか。……それで、他に帰る場所はあるのか?」
そう聞くと、メアリーは首を左右に振る。
「アリシスは、ここに居てって。パパから離れないでって、言ってたの」
「……パパ? 誰が?」
「……パパ」
ジッと、メアリーは俺を見つめる。
そして小さくて白い指先は、俺を捉える。
その表情はまるで、目の前にいる俺がパパだと言わんばかりの、幼い可愛らしさのある眼差しだ。
「いや……いやいや、俺がパパ? 君の? 違うよ、俺は君のパパじゃない」
「だけど、アリシスがパパだって……」
「その人が嘘を付いてるんだよ。ほら、君のパパは殺──」
俺は言葉を詰まらせる。
パパが殺されたというのが本当だとするなら、彼女は深い傷を負って、俺をパパだと思い込もうとしてるのかもしれない。
だけど違うと疑問に思ってほしい。さっき言ったことから考えて、自分の言ってることがおかしいって。
だけどそれは難しいのかもしれない。
俺は彼女じゃない。子供でもない。だから彼女の考えがわからない。
言い方を、変えてみよう。
「そのアリシスって人の居場所は、わからないんだな?」
「うん。アリシスはここで待っててって言って、どっか行ったの。たぶん、元の世界に帰ったの」
「元の世界に……随分と無責任な保護者だな」
こんな幼い子を、理由も教えないで置いてくなんて。まるで捨て子だ。彼女が耳と尻尾が無ければ、ただの捨てられた子供と何も変わらない。
苛立つ気持ちを抑えて、俺はソファーの背もたれに全身を委ねる。
「いつ迎えに来るか、わからないんだよな?」
「……うん。だけどアリシスが『全部解決したら迎えに来る』って言ってたの」
「全部解決……わかんねえな」
押し付けられたってことか?
よくわからない狐の幼女を?
何の罰ゲームだよ。こっちは失恋したばっかだってのに。
俺は左手に付けた腕時計を確認する。
──4/1 22:30
もう子供は寝る時間。この時間まで一人ってことは、今日はそのアリシスって奴は来ないだろう。
「とりあえず、今日は寝るか……」
色々あって疲れてるから、今日は早く寝たい。
するとメアリーはそわそわと、辺りを見渡していた。
「帰る場所、無いんだろ? ベッド使っていいから、また明日、詳しい話を聞かせてくれよ?」
彼女が悪い奴ではないのは、なんとなくわかった。それにこんな可愛い子が悪い奴なら、世界中の奴が悪い奴だ。
そして立ち上がると、メアリーは立ち上がり首を傾げる。
「ベッド、いいの?」
ベッドを指差した彼女。
俺は頷き、ネクタイを緩める。
「ああ、使っていいよ。俺はソファーで寝るから」
「ほ、ほんとに? ほんとにほんとに?」
「いいって」
そう伝えると、メアリーは嬉しそうにしながらベッドへと向かう。
ペタペタと、裸足が床を踏む音が響き、そのままベッドにダイブする。
「やわらかいー」
ベッドは初めてなのか? そう思わせるほどの嬉しそうな表情に、少しだけ、俺は頬を緩める。
「いやいや、そんな趣味はねえっての」
幼女を見てニヤニヤする趣味はない。
俺はため息をつきながら、そのままソファーに横になる。
失恋したその日。
早く寝て、明日は心機一転頑張ろうと思ったのに、なぜ幼女と部屋を共にしなければいけないのか。
まあ、明日には消えてるだろ。
酔って頭がおかしくなっただけ。そう、これは夢なんだ。
俺はそう思いながら目を閉じる。
♦
──4/2
目覚めると、いつもよりどんよりした朝だった。
久しぶりの酒ですんなり寝れたけど、上半身を起こして、なぜかため息が漏れる。
「──グウゥゥゥ、カアァァ! グウゥ、カアァ!」
朝早くから、カアーカアー鳴いてるカラスよりも騒がしい何かが、いつも寝るベッドの上で鳴いてる。
「可愛い見た目が台無しだな……」
口を大きく開けたり閉じたり、自分の尻尾を抱き枕にして──おっさんのようないびきをかくメアリー。
メアリーが眠る姿は誰もが微笑ましくなる。だけどその可愛らしい姿を台無しにする残念ないびきに、俺はため息をつき、昨日の出来事は夢ではないと思う。
「ほんと、なんなんだよ」
訳が分からず黒髪を掻き乱す。
俺の憂鬱なんて気にせず、メアリーは起きる気配がない。
そして俺は携帯を持って部屋を出る。
こんな状況で出社するのは難しい。メアリーを置いて出社できるわけもない。
だから朝早くに上司へ連絡して、今日は休むことを決めた。
上司は心配していた。
先輩の結婚を知って傷心してる、なんてのは思ってないと思うけど、今まで皆勤してた俺が急に風邪で休むとなれば心配するのは当然か。
「──すみません。はい、はい、よろしくお願いします。はい、失礼します」
せっかく皆勤だったのに。
そんなことを考えながらため息をつく。
昨日からずっとため息をついてるな。ため息の数だけ幸せは逃げるか。まあ、今の俺には幸せなんてのはないか。
そして家へ戻ろうとすると、
「──安住祐一さん」
「え?」
ふと声をかけられた。
振り返ると、そこにはふんわりとしたクリーム色の髪の女性が、こちらをジッと見てる。
早朝ということもあって周囲には人がいない。
だから俺を呼んだのが彼女だとわかる。それに彼女は俺を見てる。名前を知ってる。けれど俺は彼女を知らない。
それに、
「耳と、尻尾……?」
彼女もまた、メアリーと同じく三角形の耳と大きな蝋燭の灯りのような形の尻尾を付けてる。
そしてこちらへと近付いてくると、彼女は笑顔をこちらへと向けた。
「あんたは……?」
「わたくしはアリシス・フィルティアと申します」
アリシス。
その名前を聞いて、やはりかと思った。
「じゃあ、あんたがあの子の保護者か」
「保護者、とは違いますね。メアリーはわたくしたちの王女ですから」
「王女?」
「ええ、わたくしたち狐人族《コレット》が暮らす国の王女です」
狐人族というのはよくわからないが、それはきっと、俺達とは違う種族ってことだろう。
姿は人間だが、半分だけ狐の血が混じった……そんな感じ。
おかしな話だが、意味不明なことが多々あると、理解するのに時間がかからない。
俺はため息をつき、目の前のアリシスに伝える。
「その国の王女が俺の家でいびきをかいて寝てるぞ? 早く連れて行ってくれないか?」
「……残念ですが、それはできません」
「なんでだよ?」
「元々、彼女が危険になると思い、わたくしたちはメアリーをこの世界へ避難させました。なので、しばらくは元の世界へ連れて帰ることはできないのです」
「あの娘に危険?」
「ええ、少し元の世界について説明します。メアリーをこの世界へ避難させた理由、それに、あなたに預けた理由を──」
そう言って、アリシスは淡々と説明を始めた。
──メアリーがいた世界は、本当にファンタジーな世界だった。
人間がいて、動物に似た種族がいて、魔法がある。
それらの種族は以前まで仲良くやっていたそうだが、突如として、その平和な世界は失われた。
そして現在。メアリーとアリシスのような狐に似た姿をした狐人族は、他種族から狙われているのだとか。
異世界事情なんてのはどうでもいいし、よくわからない。ただ他の種族と戦争中──というよりは、一方的に攻撃を仕掛けられているということだけはわかった。
だけど防戦一方というわけではなく、狐人族は反撃をしてるという。
狐人族は魔法を使えるそうだから、かなり劣勢というわけではないのだとか。
ただメアリーは別らしい。
まだ幼いメアリーは魔法を使うことができず、反撃するすべを知らない。だけど彼女は王女。メアリーの身を案じてる者は多く、自分の身を危険にしても、大勢いる配下はメアリーを守る。
それが原因で、均衡していた戦況は崩れていったそうだ。
──これ以上、メアリーを守りながら戦っていたら狐人族は全滅する。
そう思ったアリシスを含めた配下連中は、メアリーをこの戦争が終わるまで、危険の無い、平和な世界へ転移させようと考え、この世界に、俺の家に、転移させたという。
「──そして、わたくしたちは安住祐一さん、あなたに一時的にメアリーを預かっていただきたいのです」
アリシスは全ての説明を終える。
異世界事情はやっぱりよくわからないが、狐人族とかいう連中はメアリーを大切に思って、メアリーを安全な場所に避難させようとしたんだろう。
ただ、
「どうして俺の家なんだ?」
そこだけが不思議だ。
もっと金持ちの家に避難させてやればいいだろ。
だがアリシスはゆっくりと首を左右に振って否定する。
「いいえ。安住祐一さんの元が最も安全だと思っております」
「なんでだよ? というより、俺の気持ちとかは無視かよ?」
「残念ですが、こちらとしてはお願いしたいというよりも、既に決定事項でございまして」
「はあ? 決定事項って、俺が頷いてもないのにかよ?」
そう伝えると、アリシスは「はい」と短く返事する。
俺は腕を組み、そっぽを向く。
「だったら、俺があの子に何しても文句は言わねえよな?」
魔法とかいう力があるなら、ただの平凡なサラリーマンなんて一瞬で消されるかもしれない。それでも、こんな一方的な押し付けをすんなり受け入れることはできない。
少しぐらい困れ、そう思ったが、アリシスはクスッと笑った。
「あなたは、そんなことする方ではないですよね?」
「は?」
「わたくしたちだって誰でも良いわけではありませんし、人の資質を見抜く魔法があり、それを元にちゃんと見定めて決めましたから」
「人の資質……?」
「その者が良い人か悪い人かです。その結果、安住祐一さん、あなたがメアリーの保護者に適任だと思いました」
「勝手なことを……」
どうやって見定めたんだ? そう問いただしても、おそらく意味不明なことを言われそうだ。
だから俺は最後に、
「あの子を捨てるかもしれないが、本当にいいんだな?」
そう伝えた。
別に本心ではない。というより、かわいいメアリーにそんなことはできない。ただちょっと。ほんの少しだけ。勝手な物言いに苛立っただけだ。
だけどそんな俺の心の中を見透かすように、アリシスは優しい聖母のような笑みを浮かべる。
「そんなこと、しないですよね?」
ああ、そうですか。
じゃあもういいです。ほんとに捨てます。
──なんて、できるわけないよな。
俺はため息をつく。
「んで、いつ迎えに来るんだよ?」
「そうですね。おそらく、一年は迎えに来れないかと思います」
「一年!? じゃあなにか、一年もメアリーはこの世界で暮らすってのか?」
「そうなりますね。それが彼女を守る為ですから」
「……じゃあ、俺がメアリーを捨てたら、あいつは一人でこの世界を生きていかないと駄目ってことか……?」
そう言うと、アリシスは「そうなってしまいますね」と答えた。
そんなこと言われたら、なおさら捨てられるわけないだろ。
「どうなっても知らないからな。外を連れまわすかもしれないぞ?」
「きっと、メアリーにはそっちの方が嬉しいと思います」
「なに?」
「元の世界でも、ずっと守られて育てられてきましたから。メアリーはお城の外に出たことがありません」
「マジかよ……」
箱入り娘じゃあるまいし、そんなことあんのかよ。
髪をクシャクシャと掻きながら、俺はアパートへと歩き出す。
「本当に、どうなっても知らねえかんな」
「すみませんが、よろしくお願いします。それとまた時間がありましたら、祐一さんに会いに行きますね」
「は? 俺に? メアリーにじゃねえのかよ」
階段を上がりながら聞くと、アリシスは初めて寂しそうな表情をする。
「わたくしたち大人の勝手な考えで、あの子には不自由で辛い生活を強いてきましたから。それに、これからも。だから会いに行っても、何を話せばいいのかわからないのです」
ただ邪魔になったから捨てる、ってわけではないのはわかる。俺が知らないだけで、異世界とやらには異世界の考えがある、とかかもしれない。
どっちにしろ、押し付けられた方にとっては迷惑な話だが。
そう思いながら俺はアパートへと戻っていく。
そして扉を開けると、部屋の中からは騒々しいいびきが消えていた。
「起きたのか」
そう思ってリビングへと通じる扉を開けると、ベッドの上から外をジッと見つめるメアリーがいた。
俺とアリシスが話してた場所とは逆側だから見えていないだろう。それでも、飼い主を待つペットのような寂しそうな表情をしているように見えた。
「どうした?」
「は、はい!? えっと」
声をかけると慌てた様子のメアリー。
そしてベッドから下りて立ち上がると、また外を眺めた。
「ここから見る景色は、とても穏やかなのだなと思ったの」
「穏やか、か」
俺はそんなことを考えたことなかったが、メアリーが見てきた世界よりも、ここは平和なんだろう。
「メシでも食うか?」
「メシ?」
「ご飯だよ。お腹空いてんだろ?」
「え、あの……いいの? メアリー、ご飯もらっていいの?」
「いらないのか?」
遠慮してるのか、少し困った表情をする。
だがそう聞くと、メアリーはぶんぶんと首を振って、
「食べたいの。お腹空いてるの」
とお腹を撫でた。
その反応が少し可愛くて、やっぱり捨てるという発想はないなと思った。
朝か、昼か。
それはもうわからない時刻。
俺はメアリーに手料理を振る舞うことにした。
「さて、なにを作るか」
いざキッチンの前に立つも、そこから前へ進めない。今思えば高校を卒業してからずっと一人暮らし。朝はトーストをかじり。昼と夜はコンビニのお弁当ばかり。だから料理なんて作ってなかったし、そもそも、食材なんて買ってない。
冷蔵庫の中にあるのは牛乳と卵。それと食パンのみ。
んー、と考えていると、
「メアリーも、手伝うの」
と言ってメアリーが俺を見上げてくる。
子供ができたらこんな感じなのだろうか。めちゃくちゃ可愛い、そう思ってしまう。
「ありがとう。だけど美味い料理は作れなさそうだな」
「大丈夫! なんでも食べるの!」
なんていい子だ。
俺はありがとうと伝え料理を始める。
だけど、ただトーストを焼いて食べるのでは味気ない。それならメアリーが食べたことのないのを食べさせてあげたい。
「メアリー、フレンチトーストって知ってるか?」
そう聞くと、メアリーは首を傾げる。それに合わせて、蝋燭の炎のような形をした髪と同色の尻尾が左右に揺れる。
「フレンチトースト? わからないの」
「そうか。じゃあそれを作ってやるよ」
「ほんと? 作って作って!」
ああ、と短く返事をして、俺はすぐさまスマホを手に取る。
異世界とやらにはスマホはなかっただろうが、ここにはある。どんな情報でも載ってる便利道具が。
コンビニ弁当ばかり食べる俺がフレンチトーストの作り方を知ってるわけがない。というよりも、食パンに卵を浸して焼くぐらいしかわからない。
俺はスマホを見ながら料理を始める。
そんな姿を、メアリーは不思議そうに見てる。
「パパ。それなーに?」
「これか? これはな」
と普通に返事してるが、俺はパパじゃない。
そう思ったが、そこで否定するのも疲れる。どうせ否定したとこで、これからもパパと呼ばれるだろうしな。
スマホの説明を軽くしながら、フレンチトーストの作り方を検索する。
そしてなんとか、不器用ながらも二人分のフレンチトーストを完成させた。
「よし」
「わー」
皿に乗せたフレンチトーストをテーブルに置くと、メアリーは口を大きく開けて、嬉しそうな声を漏らす。
我ながら下手くそな料理だ。
それでも嬉しそうに、早く食べたいと言わんばかりの表情を俺に向けてくるのは、見てて嬉しく思う。
それに尻尾の揺れが一段と速くなる。ぶんぶんと、音を鳴らす。
「じゃあ、食べるか」
「うん、食べるっ!」
床に直座り。
そしてピッタリ横にメアリーは座る。
少しもっさりとしたクリーム色の髪の上に付いてる三角形の耳は、感情を表してるのか、ピクピクと反応していた。
そしてフォークを握るメアリー。小さい手をグーにして、彼女は四角形のフレンチトーストにフォークを突き刺す。
ナイフもあった方がいいだろうか。そう思ったけど、そんな物は買っていない。
「食べにくいか?」
そう聞くと、どうやって食べればいいのかわからないでいたメアリーは、ぶんぶんと顔を横に振って、勢いよくかぶりついた。
牛乳や卵で浸して焼いたフレンチトースト。それにかぶりついたメアリーの顔面は、ベタベタに濡れている。
「やっぱり大きかったか……」
ティッシュを持ってきてメアリーの顔を拭こうとした。だが、モグモグと頬を膨らませてフレンチトーストを頬張る彼女は、キラキラと水色の瞳を輝かせながら、
「おいしいー! おいしいよ、パパっ!」
顔面がベタベタになるのもお構いなしといった感じで、メアリーはフレンチトーストを頬張り続ける。
おいしい、おいしい、おいしい!
一口食べるごとにそう言われ、俺は彼女の食べっぷりを少しの間だけ見守っていた。
だけどフレンチトーストをすぐに食べ終えた彼女。満足は、していないように感じた。
「良かったら俺のも食べるか?」
まだお腹一杯になってないのだろう。
皿を押し出してそう伝えると、メアリーは首を左右に振る。
「う、ううん、それはパパのだから、いいっ!」
「でも、食べたいんだろ?」
「だ、だけど……ううん、駄目なのっ!」
俺を見て、フレンチトーストを見て、俺を見て、首を振る。
遠慮してるのだろう。だからメアリーのフォークを持って、フレンチトーストを半分に切っていく。
「ほら、それじゃあ半分っこだな」
フォークを渡すと、メアリーは嬉しそうに明るい表情をする。
そしてフォークでまたぶっ刺し、半分になったフレンチトーストを俺の口元へ差し出す。
「パパ、まだ食べてないの。はい、食べてっ!」
「あ、ああ、ありがとう」
なぜか照れる。
あーん、なんて初めてされたかもしれない。
ただ半分に切った横側を向けられてるから、食べにくい。
「食べない、の?」
うるうるした瞳で見つめないでくれ。
それにメアリーの顔面がベタベタしてて、口元とか頬が少し光沢を帯びてる。
このまま食べたら俺も……。そう思ったが、断ることはできない。
俺は口を大きく開いて、差し出されたフレンチトーストにかぶりつく。
我ながら美味しい。
それに頬がベタベタする。
だがメアリーは、俺が食べてるのを見て満足そうにしていた。
「ふふっ、良かったの」
そして、フレンチトーストをガブガブ食べていく。
「美味しいか?」
「うん!」
俺はメアリーを見ながら、自分のを食べていく。
誰かに料理を作り食べてもらい、喜んでもらう。
そんな初めての感覚は、嬉しい、だった。
♦
食事を終えてから、メアリーはスマホに夢中だった。
「パパ、この小さい箱の中に人間がいる!」
「ああ、いるな。ほら、こうやったら少し大きくなるぞ」
「わわっ、本当だ! 不思議なの!」
両手でスマホを握り、縦向きから横向きにして画面を広くさせて驚くのは、この世界でも、メアリーだけだろう。
俺とメアリーはベッドに横になりながら、お笑いの動画なんかを見ていた。
どこか出掛けようかとも思ったけど、さすがにメアリーの耳と尻尾を出しながら街中は歩けない。
そして夜になると、俺はスマホを置いて立ち上がる。
「風呂でも沸かすか」
ずっとシャワーだったが、たまには風呂もいいだろう。
そう思って浴室へ。その後ろをメアリーが付いてくる。
メアリーは俺に随分と打ち解けてくれた。まだ出会って一日しか経ってないんだが。
それを言ったら俺もなんだが、メアリーといるとなぜか落ち着く。それはきっと、何をしても驚いてくれたり笑ってくれたりするからだろう。
色々な反応を見せられて飽きないといった感じか。
「わー、水が勝手に出てる! パパは、魔法を使えるの!?」
「魔法じゃなくて蛇口だよ」
「じゃぐち?」
蛇口をひねって浴槽にお湯を貯める。
そんなことでも驚いてくれる。ということは、元の世界にはこういった機械はないのだろう。
「メアリー、魔法っていうのはどんな感じなんだ?」
ふと、疑問に思った。
だけどこの質問が失敗かもしれない。
「魔法は、凄いの……みんな使えて、凄い力なの」
浴槽の中を覗き込んでいたメアリーの表情が暗くなったのに気付いた。
メアリーはまだ魔法を使えない。アリシスはそう言っていた。それはきっと、メアリーの年齢の問題なのだろう。
「魔法を使いたいのか?」
そう聞くと、コクリと彼女は頷いた。
「うん。もしメアリーが魔法を使えたら、みんなの力になれたの。みんなに迷惑かけなかったの。だから魔法、使いたいの……」
「そうか。でも、いつか使えるんだろ。だったらそれまで待てばいいんじゃないか?」
「そう、だけど」
シュンとなるメアリー。
まだ子供だけど、薄々は気付いていたのかもしれないな。メアリーの身が危ないと思って、アリシスらがこの世界へ避難させたことも、自分のことを周りの連中が守ろうとしてくれてたことも。
それで彼女は魔法を使えたら力になれる。そう思ってるのかもしれない。
「ほら、風呂が沸くまで戻って動画でも見てよう」
「は、はいなの!」
浴室から部屋へ戻ると、狐幼女のメアリーがトタトタと追いかけてくる。
こういう生活も、少しだけ悪くないと思ってしまった。
「ふん、ふん、ふふーん」
風呂場から上機嫌な鼻歌が響く。
「暑くないか?」
「はいなの! すっごく気持ちいいの!」
風呂に入るのは初めてなのか? と思ってしまうほどの幸せそうな声。
俺は洗面所を出て、一人の部屋へ戻る。
いつもの休みならボケーッとして終わっていたのに、今日は騒がしかった。
笑って、笑って、笑う。
だけど一人になって、ふと思い出す。
「失恋したんだったか、昨日」
メアリーがいなかったら、きっと今もふて寝してるだろう。だけど一人でベッドに腰掛けるまで、そのことを忘れていた。
思い出せないほど忙しくて楽しかったからかもしれない。
これは、メアリーに感謝だな。
「明日は休みか……」
今日は風邪を引いたと会社を休んだが、明日は正真正銘の休みだ。
今日と同じくメアリーと動画とか見て過ごすか……とも思ったけど、それよりも、少ししてみたいことがある。
「メアリー、外に出たことないんだったか」
アリシスが言っていた。メアリーは城から出たことがないと。どんな城なのか、それはわからない。だねど想像の範囲なら大きなお城だろう。長い廊下があって、部屋が幾つもあって。だけど外に出たことがないっていうなら、メアリーには外に出て、今まで見たことない日常を見せてやりたい、そう思った。
きっと色々な表情を見せてくれるだろう。笑ったり、驚いたり、外に出たらもっと反応してくれるはずだ。
そう思ったら、俺は立ち上がって財布を後ろポケットに突っ込んでいた。
「メアリー、ちょっと出掛けてくるな」
「え、あ、はいなの!」
一人にするのは心配だが、彼女が外に出るには尻尾と耳を隠す服が必要だ。
だから俺は外へ出る。
軽自動車に乗り込み、車を走らせる。
空は暗くなり、街灯が辺りを照らす。
東京の街並みは夜になって一層、騒がしく映る。
そして街中まで車を走らせると、俺はショッピングモールの駐車場に車を停める。
「どうするか……」
女性用の、それも子供服なんてどんなのがいいのかわからない。それも尻尾と耳を隠せるような服。
お店をあちこち見て周る。
そんなとき、俺は見知った人達を見つけて慌てて隠れた。
「仕事終わりか……」
偶然だろうが、同僚がこちらへ歩いてるのを見てしまった。
さすがに風邪を引いて休んだ俺が、こんなとこで、ましてや子供服を買ってるとこなんて見せられない。
なんとかこのまま隠れてやり過ごそう。
そう思ったとき、ふと、同僚の会話が聞こえた。
「──安住先輩、失恋のショックで来れないんですかね?」
「だろうな。まあ、先輩のこと好きだったから仕方ないかもな」
え? なんで?
背中を向けてると、同僚の会話は俺についてのことだった。それも俺が失恋したと。同僚は知らないのに、どうしてそんなことを。
「このまま辞めるって、ありますかね?」
「さあな。ただ、来たくないってのはあんじゃねえか? まあ、俺たちは知らない程《てい》で接してやるしかないよな」
「ですね。みんな知ってたことですけど、そこは知らん顔してた方がいいっすよね」
ああ、そうか。
みんな知ってたのか、俺が先輩に片思いしてたのを。
知ってて、気付かないフリをしてくれてたのか。
俺は同僚が過ぎ去るのを待って、二人の背中を見る。
「会社に、行きにくくなったな……」
失恋したから休んだ。そう思われてるのだろう。
だけど休んだのは、別に失恋のショックとかではない。
ただメアリーを一人にできないと思ってだ──けれど、そんなことは誰にも言えない。
異世界から狐幼女が来て休みました。
そんなことを言って信じる者はいない。むしろ、ショックで頭がおかしくなったかと余計に心配させてしまう。
「とりあえず、服を買って帰ろ」
憂鬱な気分だが、このままここで突っ立ってるわけにもいかない。
そう思い、俺は周囲の視線を気にしながらお店を巡る。
ただ尻尾を隠せる服は見当たらない。
そんなとき、ふと気になるチラシが目に止まった。
「コスプレか……」
それは都内で行われてるマンガやアニメなどを販売したり紹介してる、大規模なイベントのチラシだった。
それも明日。ナイスタイミングだ。そこにはコスプレイベントなんかもあると記載されていた。
「コスプレなら、メアリーが尻尾を出していても気にされないかもしれないな」
とすれば、耳と尻尾を出していても普通に外へ出れる。
俺はメアリーに似合う服を買っていく。
白いYシャツに、花柄の短いスカート。尻尾を出せる部分もあるから、これで問題なさそうだ。
あとは日用品なんかも買っていく。
そして帰り道。
俺は仔狐のぬいぐるみを買った。
なぜこれを買ったのかはわからない。ただなんとなく、目に止まったから買った。
また車を走らせる。
一時間ぐらいか、買い物をして。
メアリーは一人で寂しがってないだろうか。そんなことを車の中で考えていた。
「──ただいま」
「あっ! おかえりっ!」
普段は言わない、ただいま。
普段は返ってこない、おかえり。
そんな些細なことで俺の気持ちは、少しだけど晴れた気がする。
だけどリビングへ向かうと、両手に持つ荷物を床へ落としてため息をつく。
「メアリー、どうして服を着てないんだ……?」
「ん? だって、体濡れてるんだもん!」
瑞々しい白肌に、濡れた髪と尻尾。そして幼女の生まれたままの姿。幼女に興味なんてないが、それでも、目のやり場に困って顔を背ける。
それに対してニコニコと、あたかも当然と言わんばかりの笑顔を浮かべるメアリー。
まあ、バスタオルで体を拭いて、服を着て待ってろって言わなかったけど。
これが異世界から来た者との考え方の違いか。
俺はバスタオルを持って、メアリーに渡す。
「ほら、早く体を拭いて」
「え、うん……パパ、怒ってる?」
「怒ってないよ。ただ、そうだな……風邪でも引いたら大変だろ?」
そう言うと、メアリーは嬉しそうに「良かった」と口にして体を拭いていく。
彼女が歩いたであろう箇所には足跡が残ってる。これは後で拭いておこう。
すると、自分で尻尾は拭けないのか、なにやら苦戦していた。
「ほら、尻尾は俺が拭いてあげるから。クルッてして」
「うん!」
飛び跳ねてクルッと反転する。
お尻の上から出る尻尾は本物だ。
バスタオルを当てると微かに揺れる尻尾と、「んー!」と反応するメアリー。
「どうした?」
「えっと、尻尾、触られたら変な感じなの」
「そ、そうか」
変なことを言わないでくれ。
俺は目を閉じながら尻尾を拭いていく。
そしてここへ来たときに着ていたワンピースを着ると、メアリーは俺の買ってきた荷物をジーッと見つめる。
「パパ、これなーに?」
指差したのは仔狐のぬいぐるみ。
そして紙袋から取り出すと、メアリーは口を大きく開いて瞳を輝かせる。
「うわー、かわいいっ!」
「メアリーに買ってきたんだ」
「メアリーに? これ、メアリーに?」
「ああ、そうだよ」
そしてぬいぐるみを渡すと、メアリーは嬉しそうにそれを抱きしめる。
まるで自分の子供のように、ギュッと。
そして仔狐の頭を撫でながら、俺を見上げる。
「ありがとう、パパ!」
その言葉に嬉しく思う。
俺はメアリーの頭を撫で立ち上がる。
「俺も風呂に入るから、メアリーはぬいぐるみと遊んでてくれ」
「うん、わかったの!」
ぬいぐるみを抱きしめながらベッドへダイブするメアリー。
その姿は子供だ。初めてオモチャを買ってもらった子供だ。その姿が微笑ましく見つめてから、俺は風呂場へ向かう。
服を脱ぎ、浴室へ。
やっぱりメアリーといると、どうしてか悲しいことが忘れられる。
「子供が好きなのかもな」
そんなことを思う。
明日はメアリーと外へ出る。
楽しい外出になると思い、俺は少しにやけていた。
──4/2 8時
次の日の朝。
イベントへ出掛けるということもあって、朝から俺は忙しかった。
朝食を食べて、洗面所へ。
「んー、んんー」
「ほら、ちゃんと歯を磨いて」
イー、とするメアリーの歯を磨いていく。
腰をくねくねと落ち着きのないメアリー。元の世界には歯ブラシがなかったらしく、俺が磨くことになった。
元の世界では、どうやって歯を磨いてたのか……。
そんな疑問を持ったが、今はそんなことどうでもいい。
「よし終わった。ほら、口をゆすいで」
「んっ!」
小さな体を持ち上げ、メアリーは水をすくってうがいをする。
ペシッ、ペシッ、と尻尾が横揺れする度に顔が叩かれる。なぜ朝から叩かれなければいけない。というよりこれではまるで、本当の親子だ。
子供ができたら、毎日こんな忙しい生活をするのか。
そう思ってると、鏡越しにメアリーと目が合った。
「イーっ!」
前歯を見せてくる。
少し重たい体。なのになぜか、この反応に癒される。
「わかったわかった。ほら、早く着替えて行くぞ」
「あ、うん、お出掛け行くっ!」
昨日の夜からメアリーは落ち着きがない。
初めての外出だからだろう。見てすぐにわかる。
ただ喜び半分、不安が半分といった感じで、嬉しそうにしたり、不安な表情をしたりする。
だけど大丈夫だよ、と頭を撫でると、メアリーは目蓋を閉じてにっこりとした笑顔を浮かべる。
きっと怖いのだろう。
それでも外に出ればメアリーの中で何か変わるはずだ。そして俺も、俺の中で何かが変わると思った。
「よし、行くか」
「うん!」
Yシャツのボタンを閉めていき、スカートを履かせて準備完了。
尻尾も出てるが、今日は大丈夫だろう。
そう思い、メアリーと外へ出る。
「うわー、眩しいよ!」
階段を下りて。
メアリーは太陽を見上げながら、口を大きく開く。
「ほら、早く行くぞ」
「あ、うん!」
まだまだ外の世界を楽しむのはこれから。
春の匂い。木や花の匂い。そして車が走る音や、風が吹き抜ける音。
それら全てが初めてというのなら、これからもっと楽しいことがあるだろう。
だからもっと味わってほしいと思い、手を差し伸べる。
「外は危ないから」
そう言うと、メアリーは「うん!」と言って俺の手を握って隣を歩く。
ちょこちょこと歩幅の違う彼女に合わせ、アパートを下りていく。
温かい手のひらから伝わる体温。そしてそわそわと周囲を眺めるメアリー。
初めての事に戸惑う彼女を俺は、車へと案内する。
「さっ、乗って」
「う、うん」
歩いて行こうかとも思ったけど、ここから会場まで長い距離がある。
それに電車に乗っていかないといけないため、あまり注目を浴びるのはよくない。
助手席に座るメアリーのシートベルトを閉め、車のエンジンをかける。
ブルルルッ!
車が揺れると、メアリーは耳をビクッと反応させ、目を見開いたまま俺を見る。
「パ、パパ! 揺れてるよ!?」
「ああ、そうだね。ほら行くよ」
全てを説明する前に車を走らせる。
天気が良くてよかった。俺はそう思う。
そして前へ動いている車に乗りながら、メアリーは外を見つめる。
「パパ、勝手に動いてるの!」
「これは車って言って、何もしなくても勝手に走ってくれるんだ」
「凄いの! これ魔法!?」
「魔法じゃないよ。機械だよ」
そんなことわからないだろうけど。
それに俺の話よりも、メアリーは車が走るごとに変わる景色に夢中だ。
高々とそびえ立つビルを眺め「これ、お城なの!?」と言い。
散歩するペットを見て「あれは何て種族なの!?」と言う。
一つ一つ。気になることだらけだ。
そんなメアリーに説明していると、一人で運転してる時よりも楽しく感じる。
だけどここは都心部。
辺りにはビルしかなくて、あまり良い景色とは言えない。それでもメアリーは、尻尾をゆらゆらと揺らしながら上機嫌だ。
「パパ、外って凄いね。人がたくさんいて、この車って乗り物に乗ってたら、いろんな景色が見えるの」
「ああ、そうだな。だけどビルばっかでつまらなくないか?」
「ん? ううん。すっごく楽しいの。だって、メアリーはこんなにたくさんの景色、見たことないもん」
「そうか」
「うん。人が笑ったり、動物が走ったり、大きな建物がたっくさん並んだり。メアリーには初めてのことばっかなの。だから、楽しい」
外を眺めるメアリーはそう言って、ずっと外を眺めていた。
車で走って三〇分ほど。その長い間、俺はメアリーと会話をして、彼女は外の景色を嬉しそうに見つめる。
時折、窓を開けてやると、窓から顔を外に出して風を感じる。
やっぱり外へ連れて来て良かった。
そして目的地へと到着すると、メアリーは会場である東京ドームに驚いていた。
「うわー、ねえねえ、パパ。すっごい人がいるよ」
会場には朝早くから人が押し寄せていた。
そして列ができていて、その列に並んで会場へと入るみたいだ。
俺は駐車場に車を止め、メアリーと共にその列へと向かう。
「やっぱり人の視線があるな」
列に並んでいると、周囲から視線を感じる。
その視線の全てが、メアリーへと向けられていて、メアリーは少し脅えるように、俺の手をギュッと握る。
「そんなに脅えなくても大丈夫だぞ?」
「ほ、ほんと? メアリー、食べられたりしない?」
「食べられる? ああ、大丈夫だ」
メアリーに向けられてる視線。そして口々に「かわいい」という声が聞こえてくる。
おそらくコスプレの一種だと思ってくれてるのだろう。
確かに俺も、メアリーのことを何も知らなかったら狐のコスプレをしてると思って、同じことを言っていたはずだ。
三角形の耳。大きな尻尾。それに外国人のような白い肌と水色に輝く瞳。
そんな彼女をコスプレだと思えば、誰しも視線を奪われるのは仕方ない。
「ほら、もう少しで会場に入るから、手を離すなよ?」
「うん、パパの手、メアリー離さないよ」
にっこりとした可愛らしい笑みを浮かべながら、繋いだ手をぶらんぶらんさせる。
並んだ時間は長いけど、メアリーは退屈そうな表情を一切せずに俺との会話に楽しんでくれる。
そしてやっと会場へ入ると、メアリーはまた大きく口を開く。
「わー、すっごい人だね」
「これはたしかに凄いな」
広い東京ドームに何人いるのだろうか。
人、人、人。かなりの人が歩き、お店らしき場所にはまた人の列が生まれていた。
たしか今回のイベントはコミックマーケットとは違うらしいが、それと同様のイベントで、スマホで調べてみたらかなりの人が集まることは知っていた。
だけどこの人数には驚きだ。それにお店だけではなく、ゲームの大会を行ってる会場らしき場所には多くの人集りができてる。
それに美味しそうな匂いもするから、何か食事のできるスペースとかもあるのだろう。
「とりあえず何か見て回るか」
「うん!」
下調べしてきたつもりなんだが、どこに何があって、何から見ればいいのかよくわからない。