く。それは紙とペンと片手に納まる程度の小さな布袋だった。
ユストはその袋の口を緩め、彼女はその袋の中を覗き込む。
「キレイ……。あの、これは?」
「見ての通りのさざれ石です」
テーブルの上に置いた袋にはたくさんの小さな石が入っていた。それは細かな宝石のようで、天井の隙間から差し込む光を受けてキラキラと紅や蒼に輝いていた。
「我々、ルエズス教徒が神の御言葉を知るときに使用するものです」
そう言うとユストは彼女にこの石の使い方を説明し始める。
と言ってもやり方は簡単だ。ただ、袋の中から指で石をつまんで取り出すだけである。
「ではまずひとつ取り出してください」
「わ、わかりました」
戸惑いながらも彼女はユストの言葉に従い袋から親指と中指で石をひとつ取り出す。椅子に座り直したユストは、その取り出した石を見て紙に『3』と記した。
「では次に親指と人差し指と薬指でいくつかつまんでテーブルの上に置いてください」
彼女は言われたとおりに指で石をつまみ出しテーブルの上におくという動作を三回行う。ユストは彼女が取り出した石の色と数を見て、それに対応した文字を紙に記していく。
「出来ました」
ユストは彼女に文字の書かれた紙を見せる。
「あの、私、字が」
「ああ、すいません。では、ついでに」
そう言うとユストは彼女に椅子から立つように言うと自分は立ち上がった彼女の足元に膝をつき胸に手を当てた。
「神の与えし御名を、この者に新たな名を」
ユストはそう言うと名を告げる。
「レリナ。この者に神の祝福を」
ユストは彼女にそう告げた。すると、彼女はなぜか驚いた表情で口に手を当て目を見開いていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの……。大丈夫、です」
そう言うと彼女は何度も首を横に振ってから、ユストに告げられた名前を自らの口でつぶやく。
レリナ。それが彼女の名前である。
「神はあなたをいつでも見守ってくださる。そして、あなたの行いが神の正義にかなう時には、必ず力を与えてくださいます」
そう言うとユストは膝をついたままレリナに手を差し伸べ、レリナはユストの手に手を重ねる。それからユストは重ねられたレリナの手を握るとその手の甲に口づけをし、それから手を離して今度はレリナの足の甲に口づけをした。
「あ、あの」
「ああ、驚かせて申し訳ありません。これはルエズス教の洗礼の儀式です。まあ、簡単なものですが」
ユストは驚いているレリナにそう説明すると立ち上がり、もう一度レリナの手を両手で握りしめた。
「これであなたも私と同じ、ルエズス教徒の一人です」
「でも」
「大丈夫。ルエズス教についてや神についてはこれから学んでいけばよいのです」
ユストは困惑するレリナを安心させるように優しく微笑む。
「では、これはもう必要ありませんね」
そう言うとユストはレリナの首に手を添える。そして、彼女の首にはめられている首輪に触れる。
その首輪には奴隷を縛り付けるために強い魔法が込められている。それを無理
やり外そうとすれば首輪は締まり、奴隷を絞め殺す。
だがしかし、その首輪をユストは片手で軽々と外して見せた。ユストが右手で首輪に触れると、触れた部分からバチっと火花が上がり首輪は千切れた。
ユストは千切れて外れた首輪をレリナに渡す。
「あなたは自由です。自由ですよ」
「じ、ゆう……?」
突然のことにレリナは驚き、言葉もなく呆然としたまま首輪を眺めている。
「あなたは神から自由を与えられた。そして、神はその正義に反しない者には自由を与え続ける」
突然のことでレリナは笑っていいのか泣いていいのか喜んでいいのかわからなくなっていた。彼女はただ呆然と首輪を見つめ、そんなレリナをユストは優しく見守っていた。
【1-4 崩壊の足音】
ユストはスーツケースの中からヒモで縛った羊皮紙を取り出すとヒモをほどいてテーブルの上に開く。それは離れた場所にいる相手と情報をやりとりすることのできる魔法が施された『メッセージスクロール』だ。
時刻はすでに夜。ゆらゆらと揺れる魔法の明かりがテーブルに広げたメッセージスクロールとスウェンの顔を照らしている。レリナはその部屋の奥の方で横になっている。だいぶ疲れていたようで、なにも敷いていない硬い床の上だというのに構わず寝息を立てている。
ユストはメッセージスクロールに視線を落とす。テーブルの上にそれを開いたとき、そこにはなにも書かれていなかった。しかし、開いてからしばらくすると文字が浮かび上がってくる。
「交渉は決裂。次の会談の予定は無し。まあ、予想通り、予定通りですね」
浮かび上がった文字の列は聖都から派遣された使節団と王国との交渉がどうなったのかが記されている。
交渉は失敗。意見は終始平行線。互いの意見をぶつけ合うだけでなんの成果も得られず、ということらしい。
と言うことは、いつも通りと言うことだ。今回のような聖都と王国の交渉は何度か行われてきた。そして、毎回今回と同じ結果が繰り返されてきた。
だが、今回は違う。
「予定通り。ええ、予定通りです」
これまで何度も聖都と王国は交渉を重ねて来た。だが、王国は何度言っても聞き入れなかった。亜人たちを解放しようとはしなかった。
そして、それも今回で終わりだ。これ以上の交渉は無意味だ。
「さて、明日に備えて寝ましょうか」
ルエズス教は亜人の人権を認めている。彼らも神の恩寵を請ける権利を有していると説いている。その主張をポルス王国は受け入れようとしない。
なぜか。理由は簡単だ。
得がないからだ。少なくもポルス王国は亜人を人と認め彼らを奴隷階級から解放するメリットがないと考えているのだ。
それとは逆にルエズス教は亜人たちの人としての権利を認め、彼らを守ることを自分たちにとって得になることだと考えている。
そう、得なのだ。亜人を人と認めて受け入れることの方がルエズス教にとっては得なのである。
亜人がこの世界に現れて約二百年。その間に彼らは当初とは比べ物にならないくらいに数を増やした。無視できないほどにまでその数は増している。
数は力である。信仰の力というのは数の力でもある。ルエズス教、特にその本拠地である聖都はそのことをよく理解している。人と亜人、両方を引き入れ、ルエズス教の教えに従わせ、彼らを信者にした方が得であるからルエズス教は亜人を人として認め、彼らを守る動きを見せている。
ルエズス教は巨大である。ユセリア大陸西側のほとんどの国がルエズス教を信仰しており、その国を治める王や皇帝さえ、ルエズス教の教皇を恐れている。
信じる者が多ければ多いほど力は増す。その数の力を権力者たちは恐れている。
と同時にもう一つ恐れている物がある。
それは『神器《じんき》』と呼ばれる物である。
神器はその名の通り神の力を宿した器だ。ただ、本当に神の力が宿っているかは定かではないが、神の力が宿っていると人々に思わせるほどの強い力を宿しているのは確かである。神器をひとつ手にした者は三つの国を束ね、神器をふたつ手にした者は十の国を支配できる。とさえ言われるほどだ。
そう、ひとつ、ふたつ、というように神器は複数存在する。そして、その神器をルエズス教の本拠地である聖都は三つ所持している。
神器の総数は十三器。実際に確認されている物もあれば、今のところ伝承でしか確認されていない物もある。大陸の国々を治める権力者たちは数の力と、この神器という『圧倒的暴力』も恐れていた。それを恐れるからこそ彼らはルエズス教を受け入れ、聖都に従っているのである。
では、ポルス王国はどうしてそんな強大なルエズス教とその本拠地である聖都や教皇に逆らうことができるのか。
それは簡単である。
持っているのだ。ポルス王国も神器のひとつを。
「……お客様ですか」
椅子に座ったまま目を閉じ眠りにつこうとしていたユストは、ゆっくりと目を開け立ち上がる。
隙間だらけの廃屋の窓は壊れて常に開け放たれている。ユストはその窓から外に目を向け、その向こうの闇の中にいる者たちを確かめる。
見えない。しかし、気配はある。
立ち上がったユストはまず部屋の隅で寝ているレリナのところへ行った。そして、彼女に身を守るための防御魔法を施し、それから家の外へ出た。
「さあ! 出てきてください! ゆっくりお話ししましょう!!」
家を出たユストは声を張り上げた。
「ああ! いえ! ゆっくりはしていられませんね!」
身を晒し、声を上げ、自分の位置を相手に知らせる。相手がどこにいるのかわからない中で、そんなことをすれば自殺行為だ。
だが、これでいい。相手が動きを見せたならばそれで十分である。
周りには隠れられる場所がいくらでもある。瓦礫やゴミ、同じような空き家などなど、相手がどこに潜んでいるかわからない。
だが、相手が動けば違ってくる。
ユストは魔法で暗闇の奥にあるモノを見ていた。
それは温度である。
普通、人間の目には温度は見えない。しかし、魔法により視覚を変化させることでそれを可能にしている。物陰に隠れていたとしても、暗闇の中であっても、相手が動けば温度の変化で位置がわかるのだ。
こちらが動けばあちらも反応を示す。こちらの動きが予想外の物であれば相手も動かざるを得ないだろう。
場所さえわかれば問題はない。
「があっ!?」
どこかで声が上がり、何かが倒れる音がした。それに続いて何者かが走る足音が聞こえ、そしてまた声が上がり、何かが倒れた。
何かが倒れる音が三回聞こえた。
ユストは暗闇の中、音のした方へと歩いていく。
音のしたあたりには一人の黒い服を着た男が倒れていた。もちろん、相手は知り合いではない。
「王国の暗殺者か何かでしょうね。まあ、想定内ですが」
敵がこちらの動きを察知している。というのをユストは最初からわかっていた。だからここに来た。
ここには自分たち以外に誰もいない。ここならば何をしても誰にも見られない。
見ているのは自分だけ。
「しかし、もう手遅れですよ。私をどうこうしようとすべてはもう終わりです」
男が闇の中へ沈んでいく。男が倒れている場所だけが、まるで底なし沼にでもなったかのように沈んでいく。
「それに、もう始まる頃ですしねぇ」
そう言うとユストはあくびをしてレリナの寝ている廃屋へと戻っていく。
廃屋の中に戻るとそこにはレリナがいる。ぐっすりと眠っている。そして、おそらくすべてが終わるまで彼女は眠ったままだろう。
そんな彼女を見てユストは首を傾げる。
「なぜ私はこの人を助けたんでしょうねぇ」
なぜ。自分で助けておいて自分でその理由がわからない。
彼女の境遇に同情したからというわけではないだろう。レリナのような境遇のエルフはこの国に大勢いるし、この国だけではなく大陸のどこかで苦しんでいる亜人はいくらでもいる。
別に彼女の容姿が好みであるというわけでもない。特にルナエルフに思い入れ
があるわけでもない。
ただ、あるとすれば、あれだろう。
目が合った。ただそれだけだ。
「運がいい方だ、あなたは。これも神の意思でしょうかねぇ」
そうつぶやくとユストは先ほどまで座っていた椅子に座って目を閉じる。
「あなたは何も知らず、何もわからないままでいいのかもしれません」
すべては今日終わる。いや、終わりが今日始まる。
もう、すでに始まっている。
翌朝、ユストは遠くから聞こえる人々の声で目覚めた。
それは怒声、叫び声、悲鳴、雄叫びと様々なものが混ざったものだった。と、同時に何かが壊れる音も聞こえて来た。
この国の終わりが始まった。
【1-5 王都炎上】
ポルス王国の貴族の嗜みは奴隷を飼うことである。ポルス王国紳士の楽しみは良い奴隷を自慢することである。見目麗しいエルフの奴隷、逞しいオーガの奴隷。ポルス王国の上流階級の者たちは、亜人の奴隷たちを着飾り、闘わせ、いじめ抜き、犯し、そして殺すことが数ある娯楽のひとつだった。
奴隷たちを着飾り、彫像のように並べて楽しむ者たちもいた。彼らは奴隷たちが身じろぎひとつでもしようものなら容赦なく彼らを鞭打った。
奴隷にまたがりレースに興じる者たちもいた。彼らはレースに勝つと奴隷たちにエサを与え、負けると気を失うまで棒で叩き柔らかい腹を蹴り上げ、使い物にならなくなれば他の奴隷や犬のエサにした。
奴隷たちを死ぬまで闘わせる闘技場はいつも盛況だった。貴族や紳士たちは自分たちが闘う代わりに気軽に奴隷たちに決闘をさせ物事を決めた。
若くて美しい処女のエルフ奴隷を一晩で何人犯したかを自慢し合う者たちもいた。腹立ちまきれに奴隷を殴り殺すことは日常のことだった。
ポルス王国の国民たちは、人間の欲望を満たすために亜人たちは存在していると本気で思っていた。それは彼らにとって当たり前のことであり、当たり前のこと過ぎて深く考えていなかった。
そう、深く考えていなかったのだ。当たり前の当たり前に、いつまでも続くと思っていたのかもしれない。
それは突然訪れた。
「やめろ、やめろやめろやめろぉぉぉぉぉ!!!」
とある貴族が飼っていた奴隷に刺殺された。
「い、やぁぁ、が……」
とあるご婦人が飼っていた奴隷に絞殺された。
「お前ら! こんなことをしてただですむごっ!?」
とある紳士が飼っていた奴隷に撲殺された。
それは突然始まった。日が昇ると同時に始まった。