あの合コンから1週間後くらいに社員食堂で隆一が隣に座った。そして俺に小声で伝えた。
「例のおまえの気になっていた女子のことだけど、この前の先方の幹事とお礼方々話をした」
「なんて言ったんだ?」
「俺の親友の篠原真一君が石野絵里香さんを気に入ったみたいで、どうしてももう一度会いたいと言っていると伝えた」
「それで」
「絵里香って、どの子というので、カラオケで『レモン』を歌っていた娘と言うと分かったみたいで、彼女に聞いてみるからと言ってくれた。それで昨晩、俺に連絡があった」
「どうだった?」
「その絵里香に真一ともう一度会う気があるか聞いてみたところ、1対1ではダメと言われたそうだ。それで、その娘に説得を頼んで、俺と真一とその幹事の山内さんと、2対2で会う約束を取り付けた」
「ありがたい、手数をかけたな」
「それでいつに設定する?」
「早いに越したことがないから、今週の金曜日、間違いない時間で、8時集合ではどうか、先方と調整してくれ。費用はすべて俺が持つ」
「悪いな」
「こっちこそ、すまん。俺のために」
「気にするな」
絵里香にもう一度会えそうだ。隆一は本当に頼りになる。
*******************
次の日の5時過ぎに隆一から内線入る。話があるから休憩コーナーへ来てほしいという。
「話って何?」
「例の彼女の件だ」
「それで、金曜日はOKか?」
「ああ、条件付きだ、2対2でカラオケならいいそうだ」
「それで十分だ」
「それとその幹事から彼女のことを聞いた」
「聞かせてくれ」
「それで彼女のことなんだが、あることが原因で男性不信になって、しばらくは、お付き合いはしたくないそうだ」
「その原因を聞いたんだが、はっきりとは言わなかったが、前に付き合っていた同じ会社の男性に裏切られたのがショックだったようだと言っていた」
「裏切られたって?」
「上司からセクハラを受けて相談したのに無視された上にかばってくれなかったということらしい。聞いたのはここまでだ」
「少し陰があったような気がしたのはそのせいかもしれないな」
「それでも会ってみたいのか」
「ああ、気になっているので、もう一度会ってみたい。だから設営を頼む」
*******************
金曜日の7時過ぎに、隆一とレストランで落ち合って、軽く食事をする。
「おまえらしくないな。そっけなくされた女子を追いかけるなんて」
「逃げると追いかけたくなる」
「おまえのプライドが許さないのか?」
「いや、彼女の雰囲気というか、何かに惹かれるんだ。理由は分からない」
「まあ、余り深入りしない方が良いかもしれないな」
「そうかな」
「今回の真一は今までとは少し違うからな」
「そうか、大丈夫だ」
予約したカラオケ店のビルの前で待っていると二人が現れた。二人とも派手ではないが大人びた服で来た。
絵里香と一緒に来た女性はこの前も見ていたせいかどこかで会ったような気がした。
隆一が二人をエスコートしてカラオケ店に入る。俺は後から続いて入る。時間は2時間ということになった。
案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れる。二人は向こう側に坐った。
飲み物を注文した。俺たちはハイボールを頼んだが、彼女らはウーロン茶とジンジャエールだった。
酔わせてどうこうしようなんて思ってはいないが、これじゃあ盛り上がらない。まあ、しらふで話をするのも悪くない。
最初から話がしにくい雰囲気なので、隆一が「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。
気を使ってくれている。隆一が歌っている間、俺は絵里香を見ていた。
絵里香はそれが分かっているのか、ずっと隆一の方を見ている。終わると拍手をする。俺と目を合わせようとしない。
続いて、絵里香の相方の女性が1曲歌う。絵里香は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。
「彼女、名前は何と言ったっけ」
「山内さんです」
「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がする」
「この間の合コンでしょう」
「そうかな、まあいいか、それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」
「はい、お願いします」
さすがに俺が歌う時は俺の方を向いてくれた。俺は絵里香を見つめて歌った。この前の「さよならをするために」を歌う。
この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。この場に合わない歌ではない。歌い終わると絵里香は拍手してくれた。
次は絵里香の番だ。歌い始めるが、この前よりも数段うまくなっているように思った。この歌は女性が歌うと情感があってとてもいい。終わると拍手する。
「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」
「あれから練習しましたから」
「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」
「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」
「じゃあ、その気がないこともない訳だ」
「今はお付き合いなんかしたくありません」
「少しリハビリをした方がよいと思うけど」
「リハビリしても元に戻らないこともあります」
「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」
「話したくありません」
「彼女には聞いてもらったんだろ、男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」
「まあ言われてみれば全く無関係の人だから差し障りないのかもしれませんね」
「話す気になってきた?」
「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」
「してもらえなかった?」
「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」
「難しいところだね」
「それで彼女に相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」
「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」
「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことに、分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」
「俺だったらそんなことはしない。守ったと思う」
「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」
「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」
「どうしてですか」
「いずれ辞めようかとも思っているからだ」
「それならそういう発言もできると思います」
「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」
「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」
「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」
答えに窮したところで隆一が助け船を出してくれた。そばにいて聞こえたみたいだ。
彼女も感情的になっていた。これ以上話すとせっかくの関係が壊れる。そこまではしたくない。
歌っているが、彼女の言葉が耳に残っている。何と答えようか? 考えながら歌い終わった。
「次は君の番だ、新曲を頼みます」
「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」
「それも俺の好きな曲だ」
絵里香は歌った。これもとても上手だった。情感が籠っている気がした。席に戻ってくる。
「これが今の君の心境なのか?」
「どうお思いになるかはあなたの自由です」
「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出ない。申し訳ない」
「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」
「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」
隆一も相方の彼女と話している。時々こちらを見るのは俺たちのことが気になっているのか、俺たちを話題にしているのかどちらかだ。
そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。
「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ」
「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」
「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」
「分かりません?」
「携帯の番号を教えてくれないか?」
「ダメです」
「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」
「じゃあ、メルアドだけなら」
とうとう絵里香はメルアドを教えてくれた。これで繋がりはできた。今日のところはこれでよしとしよう。
俺たちはのっている彼ら二人のデュエット曲をずっと聞くことになった。
約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、俺と隆一、絵里香と山内さんの2組だ。
俺たちは飲み直そうと隆一の知り合いのバーへ行った。少し歩いて振り向くと2人の姿はもう見えなかった。
「隆一は山内さんと何を話していた?」
「おまえたちのことだ。ひょっとすると似合いだと言っていた」
「どこが似合いだ?」
「真一はあんな陰のある感じの女子を好きになるみたいだからだ。昔からそうだった。でも周りにくる娘は明るい子ばかりだったからな」
「そうかもしれない。あまり明るい娘は裏があるみたいでどうも気が許せない」
「陰がある娘は陰が気になるだろう。それに裏がないとも言えないだろう」
「そうだな」
「でも、山内さんの話では彼女いい娘みたいだよ。元彼にすごく尽くしていたそうだ。だからなおさら捨てられて可哀そうだったと言っていた」
「おまえなら癒してやれるかもしれないな」
「どうかな、難しそうな娘だ」
「でも気になるんだろう」
「そうだ」
「今回会ったことでますます気になってきた」
「真一らしくないな」
「こういうのを恋するというのかもしれないな。初めての感情だ。自分でも気持ちを冷静にコントロールできない」
「まあ、頑張ってみることだな、悔いのないように」
「分かっている」
小一時間飲んでマンションに帰ってきた。地味子はすでに帰っていた。
昼頃メールが入って、今日は10時過ぎになると連絡があった。俺は11時過ぎと返信しておいた。
「ただいま」と部屋に声をかけると「おかえり」と言ってくれた。
シャワーを浴びてベッドで横になる。心地よい疲労が眠気を誘う。絵里香に会えてよかった。
メルアドをもらったことを思い出してメールを入れる。グーグルのアドレスだけど繋がるだろう。
[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と送った。思いのほか早く、すぐに返信が来た。
[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]とだけ書かれていた。
返事をくれたことから、嫌われてはいないと思った。これで安心してぐっすり眠れる。
あれから毎晩絵里香にメールを送っている。
すぐに返事がある時もあるが、夜遅くなってからのこともある。
絵里香がどこに勤めているのか、どういう生活をしているのかは全く情報がない。
ただ、メールをすると必ず返事はくれる。無視されることもないので。こちらに気がないことはないと言える。
でも決して絵里香からメールをもらうことはなかった。
こちらが一方的に送るメールに対して儀礼的な返信をしているだけのようにも思われた。
一度二人だけで会いたいというと、やんわり断られた。
食事を一緒にしたい、ご馳走したいと言うと、ご馳走される理由がないからと断られた。
いままでの娘は大体これでのってきて食事をした。
会って話がしたいというと、何の話という。男女が会って話をするのに何の話はないだろう。
今までならこれで気がないとやめてしまうところだが、今回は気になってムキになっている。俺もどうしてなのか分からない。
どういう条件なら会ってくれるのか、率直に聞いてみた。
絵里香の条件は、周りに人がいる場所であること、高級なところでないこと、割り勘にすること、週末の8時以降、1時間くらいということだった。
条件を出したということは会っても良いということだ。後は条件に合う場所を提案すればいいだけだ。
シティホテルの最上階のラウンジを提案した。
ここなら周りに人もいるし、雰囲気もいい。テーブル席をとればゆっくり話ができる。値段もそこそこだ。
絵里香は提案を受け入れた。来週の金曜日の8時に約束を取り付けた。
*******************
ラウンジには早めについた。窓際のテーブル席を予約しておいた。絵里香はまだ来ていなかった。
8時を少し過ぎたころに絵里香が現れた。来てくれたとほっとした。
手で合図すると席にやってきた。今日の服装は少し控えめだけど可愛さもある不思議な雰囲気だ。
「また会えてうれしい。よく来てくれたね、飲み物は何にする?」
「ジンジャエールでお願いします」
すぐにジンジャエールとジョニ黒の水割りとつまみを何品か注文した。
注文した飲み物が来るまで話しあぐねていると絵里香が先に口を開いた
「私と会いたいとおっしゃって言いますが、何が目的ですか?」
「目的?」
「どういうことを考えているんですか?」
「独身の男女が会うのに理由がいるのか?」
「それを聞きたいのです」
「俺は君に会ってどことなく惹かれた、いや頭の中から君が消えないんだ」
「私のどこに惹かれたんですか?」
「はっきりとは言えないんだが、君は綺麗でとても可愛い。それに時々見せる悲しそうな何かに惹かれる」
「それで私と会ってどうしたいんですか?」
「君のことをもっと知りたいと思って、それじゃだめなのか?」
「もう十分に分かっていらっしゃるじゃないですか?」
「何も分かっていない。だから付き合いたいんだ。自分から付き合いたいと思ったのは君が初めてだ。そして、付き合いたいと言ったのも初めてだ。いままでこんな気持ちになることはなかった」
「綺麗で可愛いとおっしゃいましたが、綺麗で可愛くなかったら、どうなんですか?」
「どうって?」
「もし私があまり可愛くなかったらどうなんですか?」
「うーん、そうだな、どうか分からない」
「じゃあ、外見が好きなだけじゃないですか」
「だから、付き合って君のことが知りたいと言っているんだけど、普通はそうじゃないのか」
「そうかも知れませんが、私はそういうのがいやなんです」
「君の言っていることが理解できない」
「あなたには理解できないと思います。だから、お付き合いを躊躇するんです。本当の私を見てくれそうに思えません」
「恋人に守ってもらえず裏切られたと聞いたが、そのことが関係しているのか? 俺は恋人を裏切ったりは絶対にしない」
「どうしてそう言い切れるのですか? ご自分の将来がかかっていたとしたらどうですか?」
「仮定の話には答えられないな」
「そうでしょう。確信がないでしょう」
「私を守ると誓えますか」
「今の段階では付き合ってもいないから何とも言いようがない」
「私があなたの恋人になったとしたら、裏切らないと誓えますか、守ってくれますか?」
「その時は約束する」
「人を見かけから好きになる人は本質を見ることができないのではと思っています。私はあなたの内面を見たいと思います」
「それなら付き合ってくれるのか?」
「はい、お望みならお付き合いします」
「よかった。ありがとう」
1時間の約束だったので、9時に絵里香は帰っていった。
一緒に帰ろうと誘ったが、寄るところがあるからと言って一人でラウンジを後にした。
俺はそこにしばらく残った。少し考えてみたかった。
絵里香はとうとう付き合うと言ってくれた。
付き合いたいと俺の口から相手にいったのはこれが初めてのような気がする。
いままでは、気に入った娘には暗黙の了解で誘っていたから、あえて付き合ってくれとは言わなかった。
まあ、そういうと責任が生ずると考えていたのかもしれない。付き合ってくれと言ってしまうと、気持ちが離れた時には別れると言わなければならない。
そういうのが、またうっとうしいと思っていた。
いつもフリーでいたい。男の身勝手かもしれない。絵里香はそれを見通しているのか? 分からない娘だ。
マンションに帰ると、地味子はもう帰っていた。部屋に「ただいま」と声をかけると「おかえりなさい」と言ってくれた。
絵里香のあの潤んだような目を思い出した。まあ、よしとしよう。絵里香にメールを入れる。もう自宅かもしれない。
[今日はありがとう。付き合ってくれると聞いて嬉しかった。おやすみ]と送ると、すぐに返事があった。
[今日はお話ができてよかったです。少しだけあなたのことが分かりました。おやすみなさい]
午後の会議中に頭が痛くなった。
企画の説明をしたが上出来だった。質問も想定の範囲内で無難に答えることができた。
緊張したせいかとも思ったがそうではなさそうだ。
ようやく会議が終わった。席に戻っても身体がだるい。仕事の疲れが出た? ひょっとしたら風邪を引いた? いやインフルエンザか?
隣の席の山田さんは二日前から休んでいる。インフルエンザとの連絡が入っていた。
悪い予感がする。仕事に集中できないので早退することにした。幸い今日はこの後の予定はなかった。
部長に午後半休を申請をした。「最近は忙しかったから疲れが出たんだろう、ゆっくり休んでくれ」と言われた。
食欲がなかったが、帰りにコンビニで夕食用にサンドイッチとおいしそうなケーキ、それにポカリを買った。
マンションの自分の部屋ですぐにパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。疲れていたんだな。すぐに眠ったみたいだった。
目が覚めるともう薄暗くなっていた。頭痛は治まっていない。
熱はあるかと測ったら39℃もあった。道理で身体がだるい訳だ。
買い置きの解熱鎮痛薬があったはずと探す。見つかったのでとりあえず飲んでもうひと眠りする。
次に目を覚ました時は、寝汗をかいていて、下着がびっしょり濡れていた。すぐに着替えをした。パジャマも替えた。
何時ころかと目覚ましを見ると午後8時を過ぎたところだった。熱を測ると37℃あった。
喉が渇いているので冷やしたポカリを取りにキッチンへ行こう。ついでに冷凍室にアイスノンがあったはずだから持ってこよう。
部屋を出ると地味子が丁度夕食を食べているところだった。
「帰れられていたんですか? 気が付きませんでした」
「体調が悪くて早退してきた。部屋でずっと寝ていた」
「大丈夫ですか?」
「風邪か、インフルエンザかもしれない。熱がある」
「医者に診てもらいましたか?」
「いや、たいしたことはないだろうと思って様子を見ることにした」
「お薬は飲んだのですか?」
「頭も痛いので解熱鎮痛剤を飲んで寝たら汗をかいた。今着替えをしたところだ。俺に近づかない方がいい。移るといけないから、それに手をよく洗ってうがいをしておいた方がいい」
「私に何かできることはありますか?」
「特にないけど、何かあればお願いする、その時は携帯に電話するから」
「そうしてください」
俺は冷蔵庫から買ってきたサンドイッチとケーキとポカリを取り出して部屋に戻った。
ひとりで食べて地味子には移さないようにしないといけない。食べながらポカリを飲む。冷たいポカリが美味しい。
お腹が落ち着いたところでもうひと眠りした。
夜中に寒気がした。体温を測ると39℃もある。また、解熱剤を飲む。
時計は2時を指していた。寒気を我慢していると眠ってしまった。
また、汗をかいているのに気づいて目が覚めた。4時を過ぎたところだった。
下着とパジャマを着替える。体温は37℃。頭痛は治まっている。
喉が渇いた。枕元のポカリは空っぽなのでキッチンまで飲み物を取りに行くことにした。
ドアの音か冷蔵庫のドアの音で気が付いたのか、地味子が起きてきた。
「大丈夫ですか?」
「喉が渇いたから、飲み物を取りに来た」
「電話してくれれば、持って行ってあげたのに」
「折角眠っているのに起こすのも悪いと思って」
「こんな時は遠慮しないで下さい。それより本当に大丈夫ですか?」
「寒気がして熱が出た。解熱剤を飲んだら、また汗をかいて、下着やパジャマを取り換えた」
「下着やパジャマはまだ新しいのはあるのですか」
「もう一組くらいはあるから大丈夫だ」
「熱は?」
「今は37℃。これより下がらない」
「明日、医者にかかった方がいいです。必ず行って下さい」
「様子をみてからでいいだろう」
「必ず行って下さい。約束してください」
「分かった。それほどまでいうなら行くよ」
「朝になったら、朝食を準備して、洗濯をしますから、それまでゆっくり休んで下さい」
俺は部屋に戻った。咳は出ないが、節々が痛い。とりあえず眠ろう。
*******************
ドアをノックする音で目が覚めた。地味子の声がする。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。今、熱を測る」
「どうですか?」
「38℃ある。今日も休むから」
「下着とパジャマを着替えて、とりあえず、朝食を食べませんか? 食欲はありますか?」
「お腹は空いている。すぐ行く」
着替えをしてリビングダイニングのテーブルに行くと、もう朝食が準備されていた。地味子はマスクをしている。
「私はもう済ませましたので、ゆっくり食べてください。その間にシーツと枕カバーを取り換えて洗濯します」
地味子はそういうと俺の部屋に入っていった。
朝食を食べ終わったので部屋に戻ると地味子はすでにベッドのシーツや枕カバーを新しいものに交換し終わっていた。
そして、洗濯機に着替えた衣類を入れて洗い始めていた。
「このままにしておいてください。お昼に来て洗濯物を片付けますから」
「自分でするから、いいよ」
「言うとおりにしてください。身体を大切にしてください。それから必ずお医者さんへ行ってください。約束してください」
「必ず行くから」
「それより白石さんに移らないか心配している」
「心配ご無用です。インフルエンザの予防注射は毎年必ずしています。今までインフルエンザにかかったことはありません」
「でも油断しないで」
「大丈夫です。今も気を付けています」
俺がベッドに横になるのを見届けると、部屋から出て行った。洗濯機は勝手に回って乾燥もしてくれる。
8時過ぎに地味子が部屋のドアを開けて顔を出した。
「いいですか、お医者さんへ行ってくるのですよ。それからお昼に見に来ますからね」
そう言い残すと地味子は出勤した。
結構口うるさい。でも心配してくれるのはありがたい。9時になったら、会社に電話して、近くの医院へ行こう。
*******************
大通りにある医院まで歩いて行った。少し頭が痛い。朝早かったのですぐに診てもらえた。
インフルエンザA型だという。薬をくれた。安静にしていれば2~3日で治ると言われた。これで一安心だ。
帰りにコンビニによってパンと飲み物、ポカリを多めに買った。
帰ってベッドに横になる。やはり、身体がだるい。熱は38℃ある。熱がなかなか下がらない。まあ、1日寝ていよう。こういう日もあっていい。ウトウト眠る。
ドアをノックする音で目が覚めた。すっかり眠っていた。目覚まし時計は12時を過ぎている。マスクをした地味子が顔を出す。
「お医者さんへ行ってきましたか?」
「ああ、行ってきた。お薬ももらってきた」
「なんと言われましたか?」
「インフルエンザA型、2~3日安静にしているように言われた」
「じゃあ、おとなしくしていてください」
「そうするしかないだろう」
そういうと、部屋に入ってきて、洗濯機から乾燥した衣類などを出して畳んで、クローゼットにしまってくれた。
「お昼はどうします」
「コンビニでパンを買ってきたから後で食べる」
「今は、その位がいいですね。夕食はいつも作っていますから、それを食べてください。お腹にやさしいもの考えますから」
「食べに行けないのでお願いできるかな。助かる」
「じゃあ、おとなしく待っていてください」
そう言うと、地味子は部屋を出て、会社へ戻っていった。地味子がいてくれてよかった。助かった。
それから、飲み物とパンで簡単に昼食を済ませてまた眠った。よくこれだけ眠れると思うくらい眠った。
それでまた寝汗をかいて目が覚めた。地味子が洗濯をしておいてくれてよかった。また、着替える。
今度はもう眠れない。時刻は5時前になっている。
玄関ドアの音がした。地味子が帰ってきた。ほっとしたのはどうしてだろう。
部屋のドアをノックして地味子が顔を出す。
「どうでした?」
「よく眠れた。でもまた寝汗をかいたので、下着を交換した。洗ってもらったので助かった。ありがとう」
「それはよかったです。待っていてください。夕食を作ります」
しばらくするとまたドアをノックして顔を出す。
「簡単ですが、夕飯ができましたらから、食べてください」
「ありがとう。ご馳走になります」
ダイニングテーブルには2人分の夕食が用意されていた。
「お腹にやさしいようにうどんにしました。あと卵焼です。簡単ですが消化の良さそうなものにしました」
「うどんはお代わりがありますから、たくさん食べて下さい」
お昼から何も食べていなかったので、すぐに平らげた。
うどんは出汁が効いていておいしい。汗をかいたので塩分と水分の補給に最適だ。おかわりをした。
それに卵焼きも出汁が効いておいしい。こんな卵焼きは初めて食べた。
確かに簡単な夕食だったが、満ち足りた。
地味子は料理が上手い。これなら毎日夕食を作ってもらうのも悪くないかなと思う。地味子がようやく食べ終わる。
「ごちそうさま、おいしかった、ありがとう。身体も温まった」
「病気の時はこのくらいがいいと思います。もう少し良くなったら肉料理にします」
「治るまでお願いできるかな」
「いいですよ。ひとり分も二人分も手数が同じですから。いつも多めに作って冷凍保存していますから、大丈夫です」
「白石さんがいてくれてよかった。でもインフルエンザが移らないように気を付けてくれ」
「早く休んでください。また、熱がでますよ」
そういわれて部屋に戻って、ひと眠りした。
夜中の12時ごろに汗をかいて目が覚めた。また、下着とパジャマを替えた。熱を測ると36.5℃に下がっていた。ほぼ平熱に戻った。
それから明け方まで目が覚めなかった。
*******************
朝、目が覚めて体温を測ると36.5℃で平熱だ。ただ、身体が少しだるい。
出勤しようかどうしようか迷っていると、地味子がノックして顔を出す。
「どうですか?」
「熱は下がったので、出勤しようかと思っている」
「絶対に今日は休んで下さい。無理しないで下さい」
「もう大丈夫だから」
「私の父はそれがもとで亡くなりました。だから行かないで休んでください」
「知らなかった。お父さんはこれがもとで」
「朝食を召し上がって下さい。準備ができています」
テーブルにはトーストとミックスジュースがあった。
「お腹にやさしくて水分が取れるものを考えました。ジュースには牛乳、ヨーグルト、バナナ、リンゴ、ニンジン、キャベツが入っています。たくさん飲んで下さい」
ジュースはとてもおいしかった。ほどほどの冷たさで味も良い。3杯飲んだ。
「本当に今日も1日休んでください。お昼に見に来ますから、その時昼食になにか買ってきます。いいですか安静にしていてください。約束ですよ」
そういうと、後片付けを終えて、替えた下着などを洗濯機にかけてから、地味子は出勤した。
12時過ぎに地味子はまた戻ってきた。
昼食におにぎりをいくつかとインスタントの味噌汁を買ってきてくれた。これもなかなかおいしいかった。
また、乾燥した衣類を片付けてくれた。
3時に熱を測ったら37℃あった。やはり出勤しなくてよかった。寝ていても身体がだるい。また、眠った。
5時に目が覚めた。身体がすっきりした感じがした。体温の測ると36.5℃だった。
ようやく回復したと実感できた。そうなるとお腹が減ってたまらない。地味子はまだ帰ってこない。早く帰ってきて夕食を作ってほしい。
6時半過ぎになって。地味子が帰ってきた。ドアから顔を出す。
「ごめんなさい。遅くなって、仕事が立て込んでいて、すぐに夕食の準備をします。体調はどうですか?」
「もうすっきりした。身体のだるさもなくなった。熱は平熱になった」
「そうですか、では、お肉料理でも作ります。待っていてください」
準備ができたと呼ばれてテーブルに着くと、料理が並べられていた。
「生姜焼き定食になります。私の肉料理はこんなものですが、召し上って下さい」
まさしく、生姜焼き定食だった。野菜がたくさん入った味噌汁がついている。それから漬物。生姜焼きの味付けがいい。それに味噌汁もおいしい。漬物は一夜漬け?
「味付けが良くて美味しい。味噌汁は今作ったのか、漬物がおいしいけどどこで買った?」
「味噌汁はあり合わせで作りました。漬物も余ったお野菜の一夜漬けです」
「料理が上手だね」
「母が教えてくれました」
「今朝、言っていたけど、お父さんはインフルエンザがもとで亡くなったのか?」
「そうです、無理をして、肺炎になって、私が高校1年の時に、あっという間になくなりました。だから油断してはいけません」
「お母さんはどうしている?」
「父が亡くなってから実家の仕事の手伝いをしています」
「大変だったんだ」
「母は苦労をしました。私はそれに甘えていただけで、ありがたく思っています。そんなことより、食べ終わったら早く休んでください。明日の朝の調子で出勤するか判断したらいいと思います。でも私は大事をとってもう1日休養されることをお勧めします」
「分かった。明日の朝の状況で判断する。ありがとう」
*******************
翌朝、大事をとってもう一日休むことにした。
確かにここのところ忙しかったし、夜遊びもした。疲れが溜まっていたのかもしれない。だからインフルエンザにも感染した。地味子の忠告に素直に従うことにした。
その日はベッドで横になったり、テレビを見たり、読書をしたり、いつもの休日とは違った過ごし方をして、身体を休ませて、ゆとりを取り戻せた。明日からは出勤しよう。
6時半過ぎに地味子が帰ってきた。今日の昼は冷食のチャーハンを準備してくれていた。夕食が楽しみだ。
地味子がドアをノックして顔を出す。
「夕食はシチューにしました。少し時間がかかります」
「お腹が空いた。楽しみにしている」
本当に楽しみにしていた。7時過ぎに呼ばれてテーブルに着くと、シチューが用意されていた。ほかに野菜サラダがあった。
おいしいシチューだった。おいしかったので、お代わりを2回もした。お代わりをすると地味子も嬉しそうだった。
「夕食ありがとう。今日はゆっくり英気を養えた。明日から出勤する」
「すっかり回復したみたいですね。よかったです」
「それで、お礼をしたいのだけど」
「そう、おっしゃると思っていました。篠原さんは私の好意を受けるのがおいやなのですね」
「そういう訳でもないけど、お世話になったのでお礼はしておきたい」
「借りをつくりたくないのは分かります。それで、お世話した時間を計算しておきました。それと昼食と夕食の材料費を計算しておきました。内訳は洗濯の時間と食事の準備ですが、食事の準備時間は私の食事の準備ための時間でもありますので、半分にしました」
明細をみると3日間で僅か4.5時間の4500円、昼食と夕食の材料費など1350円の合計5850円だった。
「こんなに少なくていいのか」
「実費はそれだけでから、多く貰っても気が引けますから、それだけいただければ十分です」
「分かった。ありがとう。もう元気になったから、コーヒーでも入れてあげよう」
「コーヒーをご馳走になります」
手をよく洗ってコーヒーを2杯作った。飲んでくれてほっとした。
今回は地味子には世話になりっぱなしだった。もし、いなかったら、熱のある身体で食事や買い物に出かけなければならなかった。
それに彼女の作ってくれた食事は豪華なものではなかったが、心の籠ったおいしい食事だった。おふくろの飯を思い出した。
こうしてインフルエンザは完治した。幸い、地味子にも感染しなかった。
久しぶりに出勤して昼休みに一息ついていると、隆一が俺の席のところまで来てくれた。
「インフルエンザに罹ったんだって?」
「ようやく治った。もう大丈夫だ。あの地味子にはとても世話になった。いい子を同居人に選んだよ」
「そうか、俺もそう思う。真一とは気が合うんじゃないか? 俺はおまえにお似合いだと思うけどな」
「まあ、気軽に話せるし、気遣いがいらないから楽だ」
「どうだ、考えてみては?」
「なにを?」
「彼女と付き合ってみたらどうだ」
「いまも同居しているのだから、付き合うはないだろう。それに全く色気を感じない。その気になれない」
「まあ、そうかもしれないが、俺はいいと思うけどな」
隆一の言っていることが今ひとつ分からなかった。
それより絵里香のことが気になっている。インフルエンザで寝込んでいる間、俺は絵里香にメールを入れなかった。
人を恋焦がれるにはそれ相応の気力が必要だ。寝込んでいる間はそういう気力がなくなっていた。
そういう時は弱気になっているので連絡しない方が無難だ。まあ、連絡を入れないで引いてみるのも良いのかも知れないと思っていた。
今日は欠勤明けだから朝から何かと忙しかった。7時過ぎになってようやく時間が取れた。それで絵里香にメールを入れてみた。
[しばらく連絡できなかったけど元気にしている?]
すぐに返信があった。
[はい、元気にしています。お元気でしたか?]
すぐに返信する。
[インフルエンザに罹ったけど、ようやく治った。週末に会えないか?]
[この前と同じ場所、時間でよろしければ]
[了解、待っている]
思わずデートの約束をとりつけることができた。引いてみるのも時には必要だったのか?
*******************
金曜日の午後8時、約束の時間に絵里香は現れた。今日もシックな落ち着いたダークグレーのワンピースに可愛いベストを着ている。
「会ってくれてありがとう」
「私も誰かと少しお話がしたくて」
「相談事があるのなら、相談にのるけど」
「そんなものはありません。ただ、誰かとお話がしたかっただけです」
「リハビリの一環かな」
「そうかもしれません」
「私は元カレと別れてから私のどこが気に入ってもらえたのか考えていました」
「それでどうだったの、どこを気に入ってもらっていたのか分かったの?」
「きっと私の見た目が気に入っていただけだったんです。私の内面というか私自身を気に入っていたのではなかったように思いました。いろいろありましたが、表面的にしか私を見てもらえていなかったから、心から好いてもらえていなかったのだと思いました」
「どのくらい付き合っていたの?」
「1年位でしょうか?」
「私はすべてを見てもらっていたつもりでしたが、彼は表面的にしか私をみてくれていなかったのだと思います」
「彼の責任と言いたいのか」
「私の見せ方が悪かったのかもしれません。彼に見る目がなかったのかもしれません。分かりません」
「それで俺に何を聞きたい?」
「あなたには私を見る目があるのでしょうか?」
「俺に見る目があるかどうかは分からない。それに君とそれほど付き合っている訳ではないからね。それで君はどうなんだ。男を見る目があるのか? 自分ではどう思っているんだ」
「私も分かりません」
「まあいい、今日はこれからカラオケにでもいかないか?」
「そうですね。歌を歌って憂さ晴らしもいいかもしれません」
「それなら、俺のマンションに来ないか?」
「あなたのマンションにですか?」
「カラオケがある」
「本当ですか?」
「それに俺の住んでいるところも見てもらいたい。連れ込んで君をどうかしようと思っている訳ではない。俺を知ってもらいたいだけなんだ」
「カラオケだけと約束していただけるのなら、行ってもいいです」
「そうか、ありがとう」
「じゃあ、ちょっと電話させてくれ。同居人がいるんだ。都合を聞いてみる」
俺は席を立って、地味子に電話を入れる。出ない。携帯が切られているか、圏外とのアナウンス。
地味子からは帰宅は10時以降になるとメールが入っていた。9時前だから、今ならまだ帰っていないだろう。
「電話に出ないけど、まだ帰っていないみたいだ。大丈夫だから行こう」
「同居している人がいるんですか」
「俺の従妹だから心配ない」
「それならなおのこと安心です」
ひょっとするかなと誘ってみたが、絵里香は来る気になってくれた。マンションに案内する。
受付にはまだコンシェルジェがいた。軽く挨拶して前を通り抜ける。絵里香はあまり緊張していないようだった。安心している?
でもエレベーターに乗ると緊張した様子で話しかけてきた。
「すごいマンションですね」
「親父の所有で、俺が維持費を負担して住んでいる。従妹を同居させてその代わりに掃除、洗濯をしてもらっている」
「維持費って結構かかるんですか?」
「前に住んでいた1LDKのマンションよりも随分かかる」
「こんな豪華なマンションに住めていいですね」
すぐに32階についた。玄関ドアを開けて中に招き入れる。地味子はやはり帰っていなかった。
「左の部屋が俺の部屋で、右の部屋が従妹の部屋だ。ここがリビングダイニングでカラオケはここに置いてある」
「広いですね」
「ソファーに坐っていてくれないか。コーヒーを入れるから。砂糖とミルクはどうする?」
「ブラックでお願いします」
コーヒーメーカーにセットしてソファーに戻り、カラオケの準備をする。
「歌いたい曲を決めておいて」
コーヒーを取りにキッチンへ行く。もうできていた。カップに注いで持っていく。
「決まった?」
「『レモン』をお願いします」
「俺もそのあと歌わせてくれ」
「いいですよ。初めて聞かせてもらえますね」
コーヒーを一口飲んでから、絵里香が最初に歌った。この前に聞いた時と同じで情感がこもっていて聞き惚れた。
次に俺が歌った。絵里香はジッと俺の顔を見て聞いてくれた。割とうまく歌えたと思う。
「上手ですね。情感が籠っていて、いいですね」
「ほめ上手だね。他に歌ってみたい曲はないの?」
「それじゃあ、『君を許せたら』をお願いします。このまえより上手くなっていると思いますので、聞いてもらえますか?」
「この前もすごくよかった。是非聞かせてほしい」
絵里香は、今度は俺を見つめて歌ってくれた。
言うとおり、この前よりもずっと上手くなっていた。聞いていると身につまされる曲だ。俺好みで歌ってみたい曲だ。
「いいね、2曲ともいい曲だ。こんな歌が好きなんだね」
「悲しい曲が合っているように思います。歌っていると歌の中にいるような気持になって」
「歌に酔っている?」
「そういうんじゃなくて、身につまされるというか、悲しくなります」
「ロマンチストなんだ」
「自分を悲劇の主人公のように考えるのかもしれません」
「じゃあ、俺が悲劇のヒロインを助ける王子様になってあげる」
「私はお姫様ではありません。ただの失恋したOLです」
絵里香に近づこうとすると彼女は逃げるように立ち上がって窓際へ行って外を見た。
ここからの夜景はとても綺麗だ。初めて見た時はいつまでも見ていていた。
「夜景がきれいだろう」
「いいですね。遠くまで見えますね。こちらは海の方向ですか?」
「天気の良い昼間だと東京湾がみえる」
「しばらく見ていていいですか」
「ああ、好きなだけ見ていていいよ」
俺も立ち上がって窓際に行く。
絵里香が身構えるのが分かる。それでもかまわずに後ろから肩を両手でつかんでそれから抱き締める。華奢な身体だ。
「だめです。放してください。約束が違います」
「好きなんだ。気持ちがおかしくなるくらいに好きなんだ。こんな気持ちは初めてだ」
「私のどこが好きなのですか?」
「分からない。本能的にと言った方がよいかもしれない。理由なんか後から考えればいい」
「ほかの人にもそうおっしゃっているのでしょう」
「本当に好きなんだ、今日は泊っていってくれないか?」
「何をおっしゃっているんですか?」
「真面目に言っている。そうでないとおかしくなりそうなんだ」
「従妹さんが帰ってくるのでしょう」
「大丈夫だ。気にしないと思う。こっちへきて」
手を引いて絵里香を俺の部屋に連れて行く。抵抗はするが断固とした拒絶はしていない。
ここは強引にでも、今を逃すともうこういう機会はないと思った。
部屋に入って抱き締めるとあきらめたのかおとなしくなった。それでキスをしてゆっくり離れた。
「泊まっていってほしい」
これで逃げ出せばそのまま帰そうと思った。
「それほどおっしゃるのなら泊ります。シャワーを浴びさせてください」
「バスルームはそのドアの向こうにある。バスタオルはそこに置いてあるから」
絵里香は黙って入っていった。
俺の熱意が通じたのか? どうして泊って行く気になってくれたのだろう?
シャワーの音が聞こえた。もう我慢できなくなって服を脱いでバスルームへ入った。
裸の絵里香がシャワーを浴びていた。でも彼女は驚かなかった。
俺が入ってくることを予測していた? そう思うと俺は返って落ち着いて冷静になった。
「すぐに替わります。少し待って下さい」
「ああ、ごめん」
俺は絵里香がシャワーを浴びているのをじっと見て待っていた。
絵里香は洗い終わるとバスタオルを身体に巻いて出て行った。それを唖然として見ていた。
肝が据わっている。不思議な娘だ。それで俺もすっかり落ち着いた。
シャワーで身体を洗い終わるとキッチンへ行って冷たい飲み物を持ってきた。
絵里香はベッドに腰かけている。
「飲む?」
「いただきます」
絵里香は半分くらい一気に飲んでそのボトルをサイドテーブルに置いた。
俺もそれを見ながら喉を潤した。一息ついてもっと冷静になろうと思う。
絵里香が俺をじっと見ているので腕を伸ばして抱きしめた。絵里香が耳元で囁く。
「ちゃんと避妊してください」
「ああ、分かっている。心配するな」
それだけ確認すると絵里香が抱きついて来た。俺たちはお互いを貪るように愛し合った。
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絵里香は俺に背中を向けて横になっている。俺は後ろから抱えるように彼女を抱いて、余韻に浸っている。
愛し合っているとき、彼女はえも言われぬ声を出していた。喉の奥から絞り出すような細い声だった。
悲しくて泣いているのか、快感からなのか分からなかった。ただ、魂に響くような声だった。今でも耳に残って離れない。
「悲しかったのか? 泣いているのかと思った」
「よく覚えていません」
「ありがとう」
「私のことが分かりましたか?」
「いろいろなことが分かった。それでますます好きになった」
「でも私の一部しかまだ見ていません」
「付き合ってもっと見てみたいし見せてほしい」
「見る目がないと見えません。見ようとしないと見えません」
「面白いことを言うね。楽しみにしている」
「私をしっかり抱き締めて寝てください」
「ああ、いいよ」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
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朝、気が付くと抱き締めて寝ていたはずの絵里香がいなかった。
いつかの恵理ように早起きして地味子と話でもしているのかとリビングダイニングへ行ってみた。誰もいなかった。
まだ、外は薄暗い、時計を見ると5時を過ぎたところだった。
夢を見ていたはずがない。昨夜は絵里香と愛し合って一緒だった。抱き締めて寝ていたのは間違いない。部屋に戻って、また眠った。
次に目が覚めたら8時を過ぎていた。これでも土曜日の今日は早く起きた。昨夜の余韻でまだ少し身体が興奮しているのかもしれない。
そうだメールしてみよう。
[昨夜は泊ってくれてありがとう。黙って帰ったんだね]
すぐに返事が入る。
[黙って帰ってごめんなさい。起こすと悪いと思って。始発で帰りました。昨夜はよい思い出になりました。ありがとうございました]
まずまずの内容の返信だった。彼女は家に帰っていたので安心した。
ただ、どこに住んでいるかも知らないし、携帯の番号もまだ教えてくれない。
身繕いをして部屋着に着替えてリビングダイニングへ行く。地味子が朝食を用意していた。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨夜は誰かお泊りでしたか?」
「ああ」
「そうですか。4時過ぎに玄関ドアの音がしてどなたかが出て行かれたようです」
「そうか、気が付かなかった。始発に合わせて出て行ったのかもしれない」
「白石さんは、昨夜は何時ごろ帰って来たんだ。連れて帰ると連絡しようと思ったけど、携帯がつながらなかった」
「カラオケで気が付かなかったのかも知れません。帰ってきたのは11時を過ぎていたと思います」
「また、女性を泊めたのですか?」
「まあ、そうだ」
「この前の恵理さん?」
「いや、別の娘だ」
「浮気症ですね」
「いや、今度は本気だ」
「そうなら、その人も喜んでいるでしょう」
「それが分からないんだ」
「つかみどころがない、不思議な娘なんだ」
「気になりますか?」
「ああ、仕事が手につかないくらいにね」
「うまくいくといいですね」
「そうだね、ありがとう」
地味子だと何でも気楽に話せる。これだと彼女を連れて来て鉢合わせしても大丈夫だ。
両親が上京してくることになった。
結婚して後を継げと親から強いられている。お見合いの話もいくつかあるという。でも今はまだここで気ままな生活をしていたい。
それを避けるために考えてきた方策がある
。好きな人と同棲していることにする。いずれ結婚するつもりだと言えば、両親が反対するに決まっている。それで時間が稼げる。
良い相手が見つかればその人と結婚したい。今はその相手が絵里香だと思うようになってきている。
あれから彼女のことが気になってしかたがない。絵里香には正直言ってとても惹かれている。
あのどことなく憂いのある雰囲気が気になってしかたがない。
でもあれ以来会っていない。何かと理由をつけて会ってくれないからだ。会うのを避けているみたいだ。
絵里香ときちんと付き合ってみたい。その気持ちの方が強い。
これから何回も会っていればきっともっと気持ちを通じ合えると思っている。今は時間が必要だ。
それでもだめならあきらめるしかないが、やれるだけやってみたい。
こんな気持ちを残したままで、他の女性と見合いをしたり、結婚をしても良いことはないし。相手に失礼だ。ここは時間を稼ぐしかない。
「白石さん、お願いがあるんだけど、リビングダイニングに来てくれないか?」
「どうしたんですか?」
地味子がリビングに出てきた。相変わらずのださいトレーナースタイルだ。
「親父とお袋がこの週末にここに押しかけてくることになった」
「それがどうかしたのですか?」
「故郷へ帰って見合い結婚をして、実家の後を継げとうるさいんだ」
「私とは関係のない話ですが」
「俺がここを出ていくと白石さんもここを出ていかなければならなくなるぞ。それでもいいのか?」
「いつかはそうなるでしょうから、覚悟はできています。でも今すぐと言う話でもないでしょう」
「そのとおり。今、俺はその気がない。好きな娘ができたんだ。だから時間が必要なんだ」
「ちゃんと付き合っているんですか?」
「何で俺が君に彼女との関係を説明しなければならないんだ」
「私にお願いってなんですか?」
「彼女の代わりに俺の恋人になって両親に会ってもらいたいんだ」
「本人に頼めばいいじゃないですか」
「頼めるくらいなら君に頼んだりしないだろう」
「ほかに何人も恋人の役を引き受けてくれる人がいるじゃないですか? あの恵理さんに頼んだらどうですか?」
「恵理に頼んで本気になったらどうする。後始末がもっと大変だ」
「私なら、後始末は簡単だとおっしゃるんですか?」
「もともと恋愛関係にはならないと賃貸雇用契約書に書いてある」
「確かに書いてあります」
「衣服や準備にかかる費用は俺がすべて負担する」
「私ならお金で済むと言う訳ですか?」
「契約の範囲内だと思うけど、時給は10倍出してもいいから、どうしても引き受けてくれないか?」
「引き受けた後はもっと難しいことになるかもしれませんが、良いのですか?」
「どういう意味だ? 俺の恋人になりたいのか?」
「いいえ、私よりもあなたの問題です」
「お引き受けする前に聞いておきたいのですが、あなたはその人のことをどう思っているのですか?」
「本当は俺にもよく分からないんだ。でも彼女にとても惹かれるんだ。初めての経験だから何といってよいか分からない」
「気持ちが固まっているわけではないんですか?」
「よく分からないんだ。だから時間が欲しい」
「時間稼ぎのためですか?」
「親に恋人と同棲しているところを見せると少なくとも見合いはあきらめるだろう。今はそんな気にはなれない。時間稼ぎと言えばそうかもしれない」
「私はどうすればいいんですか?」
「両親は俺の好みを知っている。俺の好みの服装、髪形などをそれらしくしてほしい。きっと信じる」
「両親はいつここへいらっしゃるんですか?」
「土曜日の3時に来ると言っている。そしてここに泊まりたいと言っている」
「ここに泊まるんですか?」
「そうだ」
「私との同居を言っていないのですか?」
「言う訳ないだろう」
「じゃあ、私はどうすればいいのですか?」
「両親は俺の部屋に泊める。ダブルベッドだから二人でも寝られるし、俺が来る前はそうしていたらしい」
「あなたはどうするんですか」
「ソファーでもいいが、それはまずい、恋人と一緒に住んでいるということにしたいから、君の部屋に泊めてくれ」
「困ります」
「頼むよ、誓って何もしないから」
「少し考えさせてください」
地味子は自分の部屋に入って行った。
俺はこの提案を引き受けてもらおうと必死だった。それだけ絵里香に惹かれていることに気が付いた。
コーヒーでも飲もうとコーヒーメーカーをセットする。こういう時はコーヒーを飲んで落ち着くのが一番だ。
小一時間ほどして地味子が部屋から出てきた。部屋に入った時とは違って何かふっきれたようすだった。
「お引き受けします。土曜日の午前中に一緒に出掛けてあなたの気に入った服を買って下さい。帰ってから準備します」
「ありがとう」
「これはあなたの責任ですることです。これだけは承知しておいてください」
それを聞いて安心した。これで絵里香と付き合う時間が確保できたと思った。
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土曜日の9時に母親から電話が入った。これから新幹線で出かけるという。着くのは3時頃だと言う。
それを聞いて二人で今日の服装のためにショッピングに出かけた。
俺は以前に絵里香が着ていたようなシックなワンピースを選んだ。
地味子と絵里香は身長も体つきも似ている。費用は俺が支払った。
それから絵里香がしていたような髪形を説明して同じ髪形にしてくれるように頼んだ。
地味子は髪をカットして帰るというので、お金を渡して、俺は一人でマンションに戻った。
12時前に地味子が戻ってきた。
「お昼は何か召し上がりましたか?」
「いや、余り食欲がない」
「サンドイッチを買って来ました。一緒に食べませんか?」
「ああ、一切れもらうとするか? コーヒーを入れてあげよう」
「ありがとうございます」
サンドイッチを一切れ口に入れる。緊張しているのか、あまり食べる気にならない。
「それで、これからのことだけど、両親が3時ごろに来るから、これから準備をして、俺が呼ぶまで自分の部屋にいてほしい。両親に事前の説明を終えてから、君を紹介するから、恋人の振りをしてくれていればいい。特段、話もしなくていい。すべて俺が話す。いいね」
「分かりました」
「ああ、それからメガネは外してね。それからお化粧もしっかりしてね、頼むよ。成否は白石さんにかかっているから」
「分かっています」
地味子は準備のために部屋に戻った。
そういえば、俺はメガネを外した地味子の顔を一度も見たことがなかった。
時計が3時を指している。しばらくしてドアチャイムが鳴る。
ドアを開くと両親が立っている。すぐに中に入ってもらう。新幹線に乗ってはるばる来たのだから疲れが見える。
ソファーに坐ったところですぐに話が始まりそうな気配がする。もう少し気持ちを落ち着けたい。
「綺麗に掃除がいきとどいているじゃないか、母さんが心配していた。広いから掃除が大変だろう。感心だ」
「顔色も良くて元気そうなので安心したわ。駅でおいしそうなお弁当を買ってきたから夕食に食べましょう」
「今日は泊っていくからな。サブルームでいいから」
「俺の部屋で寝てくれ。俺がサブルームで寝るから、シーツや枕カバーを取り換えておいたから、そうしてください」
「そうか」
「サブルームに誰かいるのか?」
「そのことなんだけど、お見合い話を持ってきたみたいだけど、俺には好きな人がいる。今日はせっかくだから二人に紹介したいと思って、サブルームに待たせている」
「そんな話をなんで前もってしないんだ」
「会ってみてくれ、丁度良い機会だから」
俺は歩いてサブルームのドアをノックして地味子に声をかける。
「出てきて、両親と会ってくれないか。紹介するから」
ドアが開いて地味子が出てきたが、その姿を見て俺は声がでなかった。
絵里香じゃないか!
慌ててサブルームの中を覗く。誰もいなかった。座卓の上にあの赤いメガネが置いてあった。
「まさか! 君は!」
絵里香はゆっくり歩いて両親の前に行って深くお辞儀をした。
俺は気が動転して何が何だか分からなくなっている。
今、目の前にいるのは正しくあの絵里香だ。間違いない。
あの憂いに満ちた眼差し、思わず撫でたくなるような髪。すべてあの絵里香だ。
今の今まで気が付かなかった。
あの地味子がこの絵里香?
俺は何てことをしていたんだ。
『心ここにあらざれば、見れども見えず!』か!
俺には何も見えていなかった。また、見ようともしていなかった。
俺はどうすればいいんだ。
深呼吸をする。
少し落ち着いて来た。
地味子が言っていた「あなたの責任」と言う意味がようやく分かった。すべて俺の責任だ。
「しし紹介します。こちらが石野絵里香さんです。ここ半年ここで一緒に生活しています」
「初めまして石野絵里香です」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「いずれは結婚を考えています」
「おまえには店を継いでもらいたいと考えている。嫁もそれ相応の人と考えている」
「そんなに簡単に結婚を考えていいの、真一」
「彼女の前でその話はないだろう。失礼だろう」
「あなたには社長の嫁としての覚悟はあるのか?」
「その話は彼女には関係ない」
「関係なくはないわよ。私も大変だったから」
「俺は認めん。帰るぞ!」
「あなた、せっかく来たんですから、泊っていきましょうよ。石野さんともお話してはどうですか」
「いや、帰る。帰ってお互いに頭を冷やす。失礼する」
親父が席を立ったので、お袋もついていった。
「親父、落ち着いて、頭を冷やして考えてくれ! 俺の好きな人と結婚させてくれ!」
「おまえこそ、どこの馬の骨かしらん女と軽々しく結婚するというな! 頭を冷やすのはおまえの方だ!」
想定はしていたが、喧嘩別れになった。ただ、これでかなり時間は稼げる。
玄関から戻ると、絵里香がソファーに座っていた。
「悪かったな、いやな役目を頼んで」
「想像していたとおりでしたから」
「済まない。君が絵里香だなんて今の今まで全く気が付かなかった」
「私もだます気はなかったんです。でもすぐに本当のことを言わずに申し訳ありませんでした」
「俺は本当に今迄どうかしていた。見る目がないと言うか何にも見ていないというか嘆かわしい限りだ」
「いえ、同居の契約書に恋愛関係にならないという条項がありますから」
「すぐにでも契約書を改訂して削除しよう」
「それでいいんですか」
「そうしたい。そして俺と付き合ってくれないか?」
「いまさら付き合ってくれはないと思います。もう半年も一緒に暮らしているのですよ」
「そうだな」
「俺のことをどう思ってくれているんだ? あの時、俺の部屋に泊まってくれたじゃないか? 俺が好きだからじゃなかったのか?」
「どうしてか今も分からないのです。あのときどうしてあんな気持ちになったのか?」
「俺は絵里香が好きだったし、今もその思いは変わらない」
「あなたのことがよく分からないのです。一緒に暮らして、あなたの裏も表も見てきました。あなたがこの私をどう思ってくれているのか分からないのです」
「だから、付き合ってくれと言っている。付き合ってくれれば分かるようにする」
「私と絵里香のどちらと付き合いたいのですか?」
「どちらでもない君自身とだ」
「考えさせてください」
「俺も混乱している。考えてみてくれ。いずれにしてもこのまま同居は続けたいと思っている。契約を変更しよう。ただし解除はしない」
「それも考えさせてください」
「分かった」
そう言うと絵里香は部屋に戻った。それから部屋からずっと出てこなかった。
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翌朝、絵里香は地味子に戻っていつものように朝食を作ってくれた。
「おはよう。元に戻ったんだ。絵里香のままでいてくれないのか?」
「はじめは地味にしてくれた方がよいとおっしゃっていました。契約どおりにしているだけです。見た目で気持ちが変わるのですか?」
「難しい質問だね。人は見た目が9割という。俺は絵里香に恋をしていたんだ」
「今の地味な私ではないのですね」
「そうかもしれない。じゃあ君は絵里香ではないのか?」
「今は白石結衣で、石野絵里香ではありません」
「使い分けている?」
「そんな器用なことはできません」
「絵里香が好きなら、今の私も好きなはずです」
「何と言って良いのか、どうしてか俺は絵里香が好きになったんだ」
「そうですか」
あれから地味子は頼んでも絵里香にはなってくれなかった。
それに付き合ってくれという話もしなくなった。
いわずもがなで、こうして同居して毎日顔を合わせているのだから当然のことかもしれない。
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2日後、九州支社の機構改革のために1週間の出張が入った。
今、東京を離れたくなかった。地味子のことが気になっていた。
でも二人とも一人になって冷静になることも良いかもしれないと思っていた。
ところが、出張から帰ると地味子がマンションからいなくなっていた。
こともあろうに俺が出張している間に引越しをした。あれから彼女は機会をうかがっていたのかもしれない。
ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。『賃貸雇用契約の解除をお願いします』とだけ書いてあった。
キーはコンシェルジェが預かっていた。携帯にかけてみるが通じない。メールも音沙汰なし。
それから会社にもいなくなっていて、派遣元の会社も退職していた。携帯は解約されていた。
隆一に頼んで絵里香の友人の山内さんと連絡を取ってみたが、彼女も連絡がとれないと言っていた。
行方が全く分からなくなった。
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どうしたことか、地味子が俺から逃げるようにいなくなってしまった。なぜだ? 分からなかった。
そんなに嫌われていたのか? そうなら同居を半年も続けるはずがない。
それよりも好意を持ってくれていたはずだ。体調の悪い時は親身になって世話をしてくれた。
時給千円だったけど、好意は感じたし、好意がなければあんなにまでしてくれなかっただろう。
地味子は俺のすべてを見ていた! 確かにそうだ。
恵理も連れ込んだし、合コンで女の子を持ち帰っていた。すべて見られていた。
今さら俺と付き合ってくれはないだろう。よく考えるとそれは当然のことと思えた。
でもあの絵里香のことが忘れられない。あの憂いを含んだ眼差し、耳に残るあの悲しいような細い声、すべては俺に見る目がなかったからだ。
もうあきらめるしかないのか?
地味子がいなくなってから2年後、俺は会社を円満退職した。俺は35歳になったところだった。
それまでは実家とは恋人の絵里香がいるからと言って何とか遠ざかっていられた。
そしてその間にいなくなった白石結衣を随分探したがとうとう見つからなかった。
しかし、故郷の父が突然倒れて会社を引き継いでやらなければならなくなった。
辞表を出した時、企画部長は随分引きとめてくれたが、白石結衣を失った今はもう東京に思い残すことはなくなっていた。
隆一は昨年会社を辞めて故郷に戻って実家の老舗の菓子店を継いでいた。引き上げるときに送別会を主催してやった。
「隆一がいなくなると寂しくなる。随分と世話になった。感謝している」
「真一も早く帰ってこいよ、故郷はいいぞ」
「隆一は入社した時から、ずっとこの時を考えていたよな、迷いもなくて偉いよ。そんな心境には今でも達していない。いずれそうなることもあるかもしれないが、その時は相談にのってくれ」
「いや、俺は高校の時から随分迷っていたんだ。真一には言わなかったけどな。大学へ行ってから、学費や生活費がかなりかかることが分かって驚いた。今までのほほんと学校へ行って好きなことをしていたが、すべて親のお陰だと思った」
「それは親の務めだろう」
「同級生で家庭の都合で大学進学をあきらめたやつがいた。俺よりも成績が良いのにすぐに就職した。俺は恵まれていると初めて分かった。それを両親に話すと、親父が自分も親に大学まで出してもらったが、この店のお陰だと言っていた。だから店を継ごうと言う気になった」
「そんなこと初めて聞いたぞ」
「言うまでもないことだ。真一はそんなことは分かっていると思っていた。このことは親との約束を果たすだけだ。俺を東京の大学へ出してくれて、何不自由のない生活をさせてくれた。そして今まで好きなようにさせてくれた。自分の力も外で試せた。これで悔いはない」
「それでいいのか?」
「ああ、これが俺の定めだと思っている。ここまでにしてくれたのは、ずっと続いている今の店のお陰だ。おれは店を継いでその恩を返そうと思うし、返さなければならないと思っている」
「隆一は偉いな、俺はまだまだその心境に至っていない」
その送別会の時、婚約者を連れて来て皆に紹介していた。
半年前に故郷でお見合いして婚約中とのことだった。しっかりした好感のもてる女性だった。
お見合いも良いかなとその時初めて思った。
あのとき隆一と話したことが現実になろうとは思いもしなかった。俺も歳をとったということか?
親父が倒れた時に帰省したが、隆一が見舞いに来てくれた。
そのときに、会社を辞めて帰ることを相談した。
隆一は「その気になったのなら迷うことなどない。帰って店を継いだらいい」と言ってくれた。
それで俺も迷いが吹っ切れた。