地味子と偽装同棲始めました―恋愛関係にはならないという契約で!

11時過ぎにタクシーでマンションに到着した。

今夜は飲み過ぎた。いつもは気を付けて飲んでいるが、今回は意外と早く酔いが回った。

仕事の話に気合が入りすぎて喉が渇いて無意識に飲む量が増えたからだと思う。

それに興奮してくるとアルコールの回りが早くなるような気がする。

玄関ロビーへ入る時にキーをかざすが、キーを持つ手が定まらない。しっかりしなければと気を引き締める。もう一息で部屋にたどり着く。

この時間にコンシェルジェはいない。エレベーターに乗ったのは憶えている。自分の部屋のドアを開けて玄関の中に入ったのも憶えている。

安心したのか、そこでしばらく座って眠ったみたいだ。どのくらいそれから時間が経ったか分からない。

急に吐き気を催したので気が付いて、玄関わきにあるトイレに駆け込もうとするが、脚がもつれる。

もう喉まで上がってきている。トイレのドアを開けたところで、吐いてしまった。

意識が朦朧とする中で、なんとか後始末をしようとするが身体が言うことを聞かない。あきらめて、そこに座って、またうとうとした。

「どうしたんですか?」と物音に気付いたのか、声をかけられた。

地味子がいつものトレーナースタイルで顔を覗き込んでいる。

「気持ちが悪い。また、吐きそうだ」

地味子はすぐに俺が起上るのを手伝ってくれて、トイレの中で吐かせてくれた。

随分長い時間かかったような気がする。その間、地味子は俺の背中をさすってくれていた。俺からすると随分小さな手だったけど心地よかった。

少しずつ酔いが醒めてきていた。

「ありがとう、もう全部吐いたから」

「大丈夫ですか? 洗面台でうがいをして、手を洗ったほうがいいですよ。着替えも」

地味子は俺の部屋まで付いてきてくれた。そして、ウォークインクローゼットの中に入って、タオルと下着とパジャマを出して、それをベッドに置いて部屋を出ていった。

手を洗って、口を濯ぐとさっぱりした。きっと全部吐いたからだろう。

スーツを脱いでパジャマに着替えてから、椅子に腰かけてぼんやりしていると、酔いも醒めてきた。

ここで眠るとまた酔いが回る。これは経験から分かっている。酔いを十分醒ましてから眠ると二日酔いにもなりにくい。

喉が渇いたので、飲み物を取りにキッチンへ行こうと部屋を出た。

なんとかまっすぐ歩けた。玄関脇のトイレを地味子が掃除してくれていた。

最初に吐いたゲロは幸いトイレの入り口だったので、床まで汚すことはなかった。明日の朝、起きてから掃除しようと思っていた。

「すまないな、俺の不注意だった。明日の朝、俺が掃除するから」

「気にしないでください。トイレ掃除は私の仕事ですから、それより大丈夫ですか?」

「ああ、全部吐いたら楽になった」

「こんなことは初めてですが、遅い時はいつもこうなんですか?」

「こんなに吐いたことはめったにない。会社勤めをしてから3回目くらいかな」

「何か面白くないことでもあったのですか?」

「いや、仕事の話に夢中になっていたので、喉が渇いて、飲み過ぎた」

「クールな篠原さんには似つかわしくないですね」

「俺がクール?」

「いつも冷静であまり感情的にならないですから」

「そうみえる?」

「はい」

「どちらかというと、気が短い性格でね。それを自覚しているから、できるだけ冷静になるようにいつも努めているだけだ。今日は仕事の打ち上げだったので、それもあって油断した。飲んで議論を始めるとつい夢中になってしまうんだ」

「良い仕事仲間がたくさんおられて羨ましいです」

「白石さんにはそんな仕事仲間はいないのか?」

「いないこともありませんが、以前の会社の同僚くらいです」

話している間に掃除が終わった。

「申し訳なかったね。こんな時間にそれもゲロの後始末をしてもらって」

「トイレの掃除は契約のうちですから、お礼は必要ありません」

「これは想定外のことだろう」

「関係ありません」

「今度何か別にお礼をするよ」

「それより、もうこんなことが無いように飲み過ぎには注意してください。身体にもよくありませんから」

「分かった。気を付けるよ。コーヒーを入れるから飲まないか?」

「今、コーヒーを飲むのは胃には良くないと思います。吐いたばかりでしょう。白湯の方がいいんじゃないですか?」

「そうか、じゃあ、そうするか」

「明日は土曜日でお休みですから、ゆっくり眠って今日の疲れをとって下さい。篠原さんが起きてからゆっくり掃除を始めます。おやすみなさい」

地味子はそういうと部屋に戻って行った。

ゲロの嫌みを言うことまもなく、淡々と後片付けをしてくれた。彼女にコーヒーを注意されると反発もなく自然に従ってしまった。

話をしていると心が安らぐ。これでぐっすり眠れる。ありがとう、地味子。良い娘を同居人にしてよかった。

優しい嫁をもらうと、飲んで夜遅く帰っても、きっとああ言ってくれるんだろうな。
今日は大学のゼミの同窓会があった。会場が六本木だったこともあり、2次会は俺のマンションでということになった。

すぐに地味子の携帯に連絡を取ってみる。すぐに電話に出てくれた。

「これからマンションで2次会をすることになった。俺も含めて10人くらいだ。30分ぐらいで着くと思う。それで突然で申し訳ないが、以前言っていたように、給仕を手伝ってほしい」

「分かりました。それで服装はどうしますか?」

「そうだな、黒のスーツにエプロンというのはどうかな」

「分かりました。そうします。何か準備しておくことはありますか?」

「お酒は買い置きがある。途中のコンビニでつまみ、飲み物、ミネラルウオーターや氷を買っていくから、着いたらすぐにつまみを皿に盛りつけてほしい。それからグラスを人数分準備しておいてくれればいい。リビングダイニングの食器棚に入っている」

「分かりました」

9時過ぎにマンションに着いた。

途中のコンビニで必要な買い物を済ませた。すべてを払ってもどこかのスナックでの支払い1名分だ。

全員が一緒にエレベーターで32階へ上がる。

皆、玄関で靴を脱いで興味新々で中に入る。

ダイニングテーブルの上にグラス、氷サーバー、皿が準備されていた。

リビングダイニングを歩き回っているもの、外の夜景を見ているもの様々だ。

10人のうち女子が3人だ。既婚者は1次会で帰った。ここへ来たのは皆、独身者だ。

「ここが2次会の会場です。皆さん、遠慮しないで寛いでください。ここは11時でお開きにします。それまで2時間くらいありますので、カラオケでも歌ってください。カラオケには最新の曲も仕入れてあります」

「すごいところに住んでいるんだな。学生の時とは雲泥の差だな」

「親父のマンションだ。維持費は自分持ちなので、金がかかって困っている」

「ここに住めるならその位いいじゃないの」

「彼女を紹介してくれないのか?」

「そうか、皆さん、手伝ってくれているのは俺の従妹で結衣といいます。ここに一緒に住んでいます。ただし、手出し無用でお願いします」

「そういえば顔が似ているかな」

「まあ、そういうことにしておいてやろう」

誰かがそう言っているうちに、カラオケが始まった。それで皆の関心はカラオケに移った。

地味子はウイスキーの水割りを作って各人の席の前に置いてくれている。

つまみを3皿に盛って、座卓のテーブルとダイニングテーブルに置いてくれている。地味子の給仕を女子が席で手伝ってくれていた。

なんとかパーティーらしくなってきた。ソファーには10人は座れるので丁度良かった。ダイニングテーブルにも3人座っている。

初めて大勢の客を招いたが、なんとかなった。すごいところと言われて優越感もある。まあ、見せて自慢したいこともあって招待した。

順にカラオケを廻して歌う。俺も1曲歌った。

このマンションは防音が効いている。窓はすべて2重ガラスで、玄関ドアも頑丈に出来ている。隣の物音が聞こえたことがない。

もちろん、階上の音も聞こえたことがない。隣人の気配を感じない造りになっている。

誰かが地味子に話しかけているのに気付いた。地味子は迷惑そうにしている。あんな地味子に関心のあるやつもいるんだな。

「おい、おい、俺の従妹にチョッカイをかけるのはやめてくれよ。せっかく機嫌をとって手伝ってもらっているんだから」

「そう言う訳ではないんだけどね、話してみたくなっただけだ、そう、目くじらをたてるなよ」

笑いながら席に戻ってくれた。地味子はほっとしたようだった。

地味子に目で合図するとダイニングテーブルの椅子に座った。地味子に近づいて小声で話しかける。

「すまないな、夜遅く、突然に」

「契約どおりですから、大丈夫です」

「11時にはお開きにするから」

「その方がいいです」

「君も一曲歌ってみる?」

「遠慮しておきます」

「君も友達をつれてきてパーティーをしたらいい。事前に分かれば、俺は遅く帰るなり部屋に閉じ籠るなりするから大丈夫だ」

「そのうちお願いするかもしれません」

「遠慮はいらない。ここで歌うなら費用はかからない」

「そう言ってもらえて嬉しいです」

11時丁度にお開きにした。参加者全員が丁寧にお礼を言って帰っていった。

1階のマンションの玄関まで皆を見送ってから部屋に戻ると座卓やテーブルの上はもうすっかり片付けられていた。地味子は手際がよい。

「もう片付けてくれたんだね、ありがとう」

「皆さん、楽しまれているようでよかったですね。誰でもここへ来ると驚くと思います」

「維持費が高いから有効に使わないとね」

「篠原さんは恵まれています。ご両親に感謝しないと」

「白石さんのご両親は健在なの?」

「母一人子一人ですが、母は元気にしています。今は離れて暮らしていますので、親不孝をしています」

「一度ここへ連れて来たら、そして泊ってもらうといい」

「ありがとうございます。でも母は仕事が忙しくて来られないと思います」

「ところで、お礼を支払っておきたいけど、3時間で3千円でいいか?」

「そうですね、時間的には3時間にはなっていませんが、それでよろしければいただきます」

「ありがとう助かった。コンビニの買い物を含めても安上がりだった。次の機会も頼めるかな」

「はい、喜んで。人の歌う歌を聞いているのも楽しいですね。選曲で人柄が分かります」

そう言えば、歌を聞いて拍手をしていた。そう言ってくれるとこれからも気兼ねなく頼める。良い娘だ。
隆一が昼休みに企画部の俺の席にわざわざやって来た。こういう時は何か頼みたいことがある時だ。

「真一、頼みがあるんだが」

「また、合コンのメンバーになってくれとか?」

「ずばり、そのとおり、頼むよ、1名足りないんだ」

「いいけど、いつ?」

「今週の金曜日、仕事が終わってから来てくれればいいけど、8時までには来てほしい。頼む」

「ここのところ、付き合っている娘にも飽きてきたところだから、いいだろう。場所はメールで入れておいてくれ、電話番号も」

恵理とも最近は疎遠になってきている。最後に会ったのは3か月も前のことだ。

恵理は自然に離れて行った。俺にその気がないと見限ったのかもしれない。

去る者は追わず、来るものは拒まず!

******************
今日は隆一に頼まれて合コンに参加する。時間は金曜日の8時。

このくらいなら仕事が終わってからゆとりをもって参加できる。

指定された会場に着くと隆一が待っていた。

「遅かったな」

「8時と言う約束だぞ、ちゃんと間に合った」

「仕事が終わったらすぐに来てくれと言っておいたのに、覚えていないのか?」

「すまん、覚えていなかった。8時までには行くと言ったはずだ」

「まあいいから席についてくれ。皆に紹介する」

「彼が俺の親友の篠原真一君だ。歳は32歳、決まった相手はいないと聞いているから、今日来てもらった」

一番端の席で立っている俺に女子の視線が集まる。ざっとみたところ女子が5人、男子が俺を含めて5人だった。俺を待っていた訳だ。

「篠原真一です。隆一と同じ会社に勤めています。どうぞよろしく」

皆、立ちあがって乾杯してくれた。座るとすぐに目の前の席の女子が早速話しかけてくる。

「どんなお仕事をされているんですか? いつもこんなに遅くまでお仕事なんですか?」

仕事の中味を聞いてくる。こんな女子は苦手だ。せっかく週末に仕事を忘れて、はめをはずして飲みたいのに、もっと他の話題はないのか? 

まあ、社交辞令にしても、聞きたいのは分からなくもない。

こういう場ではたわいのない話が一番いい。

そんなことにはならないだろうが、こんな娘と一緒になったら家に帰ったらすぐに会社の話を聞かれて話さなければならないかとふと思ってしまう。

合コン会場はすぐに俺の来る前の賑わいに戻っている。前の席のその女子に話題を変えようと話しかける。

「それより最近何か面白いことあった?」

俺は自分のことを話すのは自慢話をしているようで好きではない。

いや自分のことを分かってほしいと思う女子にめぐりあっていないからかもしれない。

めったに俺の方から自分のことは話さない。聞かれたら答えるくらいにしている。

こんな時は聞き手に回るのが一番だ。

女子は関心を持ってもらったと思って話し始める。要所に相槌を打って、的確な質問をしてやると、ますます盛り上がって話をしてくれる。

本当に面白い話も出てくるから楽しい。

話が途切れたところでトイレに立つ。そしてそれを利用して席を移る。

トイレに立つと俺の席が空く。そうすると別の男子が目当ての女子が近くにいると移って来る。

その男子の席が空くので、トイレから戻ってその席に着く。暗黙の了解事項だ。

斜め前の女子は静かに飲みながら、隣の女子の話を聞いて相槌を打っている。

カールした髪が肩まであって優しい感じのする女子だ。でも他の女子にはないどこか寂し気な不思議な雰囲気もある。

大人びたシックなワンピースを着ているが、彼女の雰囲気によく似合っている。

きっとこのために着替えて来ている。こんな服装で勤めている訳がない。

ずっと気になって見ているが、人の話を聞いているだけで、彼女も自分からは話をしようとしない。

それに俺が斜め前に座ったのに俺を見ようともしない。まるで無視されている。

こんなことは初めてだった。今まで俺が前に座ると大概の女子は笑顔を作って話かけてきた。

しばらくすると俺を避けるように端に空いた席に移って行った。嫌われている? 逃げると追いかけるのは男の本能かもしれない。

しばらく様子をうかがっていると彼女の前の席が空いた。すぐに移って俺から話かけてみた。

「ほかの人の話を聞くのが好きなんだね」

「はい、私は話すのが苦手なので」

返事をしてくれたが、目を伏せてまともに正面の俺の顔を見ようとしない。やはり避けている?

「折角だから話をしないか?」

「今日は頼まれて人数合わせでここへ来たんです。ですから」

「俺も幹事の隆一に人数合わせで呼ばれたから来たんだ」

「そうなんですか」とそっけない。

「じゃあ同じ助っ人ということで話そう」

「本当に話し下手なので、お話を聞くことは好きですから、何か話してください。身の回りのことだとか、自己紹介でもいいです」

「そういわれてもなあ、自分のことはあまり話したくないな、自慢するみたいで」

「それならどうして来られたんですか? 彼女を見つけるためではないのですか?」

「話をしたら彼女になってくれるのか?」

「それは」

「君もここへ来たというのは頼まれたからだけじゃないだろう。その気があったからだろう。いい男がいないかと」

「私はどうしてもと頼まれたからです。この服も貸してもらいました」

「そうなのか、道理で会社帰りには見えなかった」

「友人の家で着替えてきました」

「名前はなんというの?」

「名前ですか?」

「教えてくれてもいいじゃないか?」

「うーん、石野、石野絵里香です」

「絵里香か、いい名前だ。歳は大体想像がつく」

「確か、幹事さんが篠原さんと紹介していましたね」

「そうだ。彼とは同じ会社の同期で親友だ」

「良い会社にお勤めなんですね」

「それほどでもない。いいかげん辞めるかもしれない」

「そうなんですか?」

「先のことは分からないからね」

せっかく話ができるようになったのに、隆一がここはお開きにしてもう2次会のカラオケに行くと言っている。

すでに会場は確保してあるというので、そこへ移動することになった。全員行くみたいだ。

こんなことは珍しい。幹事がしっかり会費を徴収している。

絵里香は帰りたそうだったが、向こうの幹事に説得されてついて来たようだ。何か俺の方を見ながら話し合っていた。

カラオケ会場は1次会の居酒屋のすぐ隣のビルだった。10人は入れる大きめの部屋に全員が収まった。ここで11時くらいまで交代で歌う。

大人しくて話をしない絵里香はこの時にはもう他の男子に敬遠されていた。俺は一番端に座っていた絵里香の隣に席をとった。

横に座っても俺を避けるようにこちらを向こうとしないで、中央の歌い手の方ばかり見ている。

歌い終わると拍手する。俺も絵里香に相手にされないのでしかたなく歌を聞いている。

歌の順番が回ってきた。絵里香の番だ。向こうの幹事が歌うように促したので、しぶしぶ歌を入力して前に出ていった。

曲は「レモン」だった。思いのほか、すごくうまい。そういう印象を受けた。

俺のレパートリーを先に歌われた。女子が歌うとまた良い曲だ。

席に戻ってくるまで拍手した。絵里香は恥ずかしそうにして戻ってきた。

「とても上手だね」

「相当練習をしましたから。もともと歌を聴くのは好きですが、歌うのは苦手ですから」

「ほかに好きな曲はないの?」

「もうひとつありますが、それも練習中です」

「そのうち、聞かせてくれないか」

「うまくなったら歌ってみます」

「是非、聞かせてほしい」

俺の番になったので、古い歌「さよならをするために」を歌った。皆知らないと思う。

俺も最近知って覚えた曲だ。歌い終わると皆も絵里香も拍手してくれた。まあ、うまく歌えた方だと思う。

大学の時からカラオケに友達と行くようになった。自分でも意外だったが、歌はうまく歌える。

曲を数回聴くと歌詞を見ながらだと歌える。音感は良い方みたいだ。席に戻ると絵里香が話しかけてきた。

「良い曲ですね。センスがいいです」

「そういわれると悪い気がしない。ほめ上手だね」

「選曲で人となりが分かります。結構、センチなんですね。そうは見えませんが」

「確かにそうかもしれない。でも初めてそう言われた」

「私も今の曲、好きになりそうです」

「同じセンスなのかもしれないね」

「どうでしょうか?」

絵里香に2巡目が回ってくる直前に時間になった。

俺はもう少し絵里香と話をしたかった。ようやく打ち解けるかなというところまできたのに残念だった。

携帯の番号を聞いたけど、教えてくれなかった。逃げると追いかけたくなる。逃した魚は大きい。

*******************
マンションの部屋には11時半前には着いた。

珍しく地味子はまだ帰っていなかった。地味子が遅くなることもあるんだ。そういえば今日は9時過ぎになるとメールが入っていた。

俺も11時頃とメールを入れておいた。

もうこんな時間だけど大丈夫かなと心配していると、12時少し前に玄関ドアの閉まる音が聞こえた。部屋のドアを開けて顔を出すと地味子が自分の部屋に入る後姿が見えた。

「おかえり、おやすみ」と声をかけたら、驚いたように「ただいま、おやすみなさい」と言って入って行った。

これで一安心とすぐにベッドに入った。翌朝は、昼頃まで寝ていた。地味子は俺が起きると掃除と洗濯をしてくれた。

*******************
月曜日に食堂で隆一から合コンのお礼を言われた。

「真一、金曜日はありがとう。お陰で顔が立った」

「いや、空いていたから暇つぶしになった。気にするな」

「一人で帰ったのか?」

「ああ、気になった娘がいたけど、先方の幹事と一緒に帰っていった」

「声をかけなかったのか?」

「かけたけど、断られた」

「お前の誘いを断る女子もいるんだな」

「携帯の番号も教えてくれなかった」

「お前には気がなかったんだ」

「そうでもないと思うけど、俺を避けていたのは事実だ」

「気になるのか?」

「少し気になっている」

「名前は聞いたのか?」

「石野絵里香と言っていた」

「どの娘だ?」

「カラオケで『レモン』を歌っていた娘だ」

「分かった。真一が好きそうな娘だった。少し陰があるような」

「そう思うか?」

「先方の幹事に彼女のことについて聞いてやろうか?」

「そうだな、機会があればちょっと聞いてみてくれ」

「もう一度会いたいのか?」

「そうだな、できればもう一度会ってみたい」

「分かった。おまえにしては珍しいな。聞いてみてやるよ」
あの合コンから1週間後くらいに社員食堂で隆一が隣に座った。そして俺に小声で伝えた。

「例のおまえの気になっていた女子のことだけど、この前の先方の幹事とお礼方々話をした」

「なんて言ったんだ?」

「俺の親友の篠原真一君が石野絵里香さんを気に入ったみたいで、どうしてももう一度会いたいと言っていると伝えた」

「それで」

「絵里香って、どの子というので、カラオケで『レモン』を歌っていた娘と言うと分かったみたいで、彼女に聞いてみるからと言ってくれた。それで昨晩、俺に連絡があった」

「どうだった?」

「その絵里香に真一ともう一度会う気があるか聞いてみたところ、1対1ではダメと言われたそうだ。それで、その娘に説得を頼んで、俺と真一とその幹事の山内さんと、2対2で会う約束を取り付けた」

「ありがたい、手数をかけたな」

「それでいつに設定する?」

「早いに越したことがないから、今週の金曜日、間違いない時間で、8時集合ではどうか、先方と調整してくれ。費用はすべて俺が持つ」

「悪いな」

「こっちこそ、すまん。俺のために」

「気にするな」

絵里香にもう一度会えそうだ。隆一は本当に頼りになる。

*******************
次の日の5時過ぎに隆一から内線入る。話があるから休憩コーナーへ来てほしいという。

「話って何?」

「例の彼女の件だ」

「それで、金曜日はOKか?」

「ああ、条件付きだ、2対2でカラオケならいいそうだ」

「それで十分だ」

「それとその幹事から彼女のことを聞いた」

「聞かせてくれ」

「それで彼女のことなんだが、あることが原因で男性不信になって、しばらくは、お付き合いはしたくないそうだ」

「その原因を聞いたんだが、はっきりとは言わなかったが、前に付き合っていた同じ会社の男性に裏切られたのがショックだったようだと言っていた」

「裏切られたって?」

「上司からセクハラを受けて相談したのに無視された上にかばってくれなかったということらしい。聞いたのはここまでだ」

「少し陰があったような気がしたのはそのせいかもしれないな」

「それでも会ってみたいのか」

「ああ、気になっているので、もう一度会ってみたい。だから設営を頼む」

*******************
金曜日の7時過ぎに、隆一とレストランで落ち合って、軽く食事をする。

「おまえらしくないな。そっけなくされた女子を追いかけるなんて」

「逃げると追いかけたくなる」

「おまえのプライドが許さないのか?」

「いや、彼女の雰囲気というか、何かに惹かれるんだ。理由は分からない」

「まあ、余り深入りしない方が良いかもしれないな」

「そうかな」

「今回の真一は今までとは少し違うからな」

「そうか、大丈夫だ」

予約したカラオケ店のビルの前で待っていると二人が現れた。二人とも派手ではないが大人びた服で来た。

絵里香と一緒に来た女性はこの前も見ていたせいかどこかで会ったような気がした。

隆一が二人をエスコートしてカラオケ店に入る。俺は後から続いて入る。時間は2時間ということになった。

案内された部屋は4人では十分な広さがあり、お互いに離れて座れる。二人は向こう側に坐った。

飲み物を注文した。俺たちはハイボールを頼んだが、彼女らはウーロン茶とジンジャエールだった。

酔わせてどうこうしようなんて思ってはいないが、これじゃあ盛り上がらない。まあ、しらふで話をするのも悪くない。

最初から話がしにくい雰囲気なので、隆一が「俺がまず1曲歌う」と曲を入れて歌い始める。

気を使ってくれている。隆一が歌っている間、俺は絵里香を見ていた。

絵里香はそれが分かっているのか、ずっと隆一の方を見ている。終わると拍手をする。俺と目を合わせようとしない。

続いて、絵里香の相方の女性が1曲歌う。絵里香は相変わらず歌っている彼女の方を見ている。

「彼女、名前は何と言ったっけ」

「山内さんです」

「山内さんか、どこかで以前に会ったような気がする」

「この間の合コンでしょう」

「そうかな、まあいいか、それより、次は俺が歌う。君には『レモン』を歌ってほしいけど,入れておいても良い?」

「はい、お願いします」

さすがに俺が歌う時は俺の方を向いてくれた。俺は絵里香を見つめて歌った。この前の「さよならをするために」を歌う。

この歌は元カノのことを歌った歌だと思う。この場に合わない歌ではない。歌い終わると絵里香は拍手してくれた。

次は絵里香の番だ。歌い始めるが、この前よりも数段うまくなっているように思った。この歌は女性が歌うと情感があってとてもいい。終わると拍手する。

「情感が籠ってとてもよかった。この前より上手になったね」

「あれから練習しましたから」

「男性不信だと、隆一から聞いたけど、来てくれたんだ」

「彼女に歌でも歌って気を紛らしたほうが良いと説得されてきました」

「じゃあ、その気がないこともない訳だ」

「今はお付き合いなんかしたくありません」

「少しリハビリをした方がよいと思うけど」

「リハビリしても元に戻らないこともあります」

「完治しなくてもいくらかは良くはなると思うけどね。前の恋人に裏切られたと聞いたけど、聞かせてくれないか、話すとリハビリになると思うけど」

「話したくありません」

「彼女には聞いてもらったんだろ、男の俺にも話してくれてもいいじゃないか。男の気持ちは分かるつもりだ」

「まあ言われてみれば全く無関係の人だから差し障りないのかもしれませんね」

「話す気になってきた?」

「上司からセクハラを受けたんです。執拗なセクハラです。3年先輩の付き合っている人がいて、その上司に自分と付き合っているからやめてほしいと言ってほしいと頼んだのですが」

「してもらえなかった?」

「自分で解決しないといけないと言って働きかけをしてもらえませんでした」

「難しいところだね」

「それで彼女に相談して、会社に訴えて、その上司が異動になり、ようやく解決しました。でも彼はそのことが噂になると、私から距離を置くようになり、結局別れてしまいました」

「彼は保身のために君と離れたんだね。分からなくもないけど」

「私は彼がとっても好きで彼にすべてをかけていました。お付き合いしていることも彼のために会社では秘密にしていました。それを良いことに、分からないように私から離れていきました。そんな彼を好きになった私がバカだったのかもしれません。それで男性が信じられなくなりました」

「俺だったらそんなことはしない。守ったと思う」

「思うというのは自身に降りかかったことではないからです。その時どうするかは分かりません」

「そうかもしれない。でも俺は会社にしがみつこうとは思っていないから」

「どうしてですか」

「いずれ辞めようかとも思っているからだ」

「それならそういう発言もできると思います」

「会社をどうしても辞められないとしたら、彼とは同じ行動はとらないと言えますか?」

「おいおい、話に夢中になるのはいいが、歌を歌ったらどうだい。そのために来たんじゃないか」

「そうだな、俺の番か、じゃあ、この曲で」

答えに窮したところで隆一が助け船を出してくれた。そばにいて聞こえたみたいだ。

彼女も感情的になっていた。これ以上話すとせっかくの関係が壊れる。そこまではしたくない。

歌っているが、彼女の言葉が耳に残っている。何と答えようか? 考えながら歌い終わった。

「次は君の番だ、新曲を頼みます」

「練習中ですが『君を許せたら』をお願いします」

「それも俺の好きな曲だ」

絵里香は歌った。これもとても上手だった。情感が籠っている気がした。席に戻ってくる。

「これが今の君の心境なのか?」

「どうお思いになるかはあなたの自由です」

「さっきの質問の答えだけど、俺には仮定の話だから答えられない。その状況でないと答えが出ない。申し訳ない」

「いいんです。きっとその程度にしか私は好かれていなかったのですから」

「君の言うとおりかもしれない。反論はできない」

隆一も相方の彼女と話している。時々こちらを見るのは俺たちのことが気になっているのか、俺たちを話題にしているのかどちらかだ。

そうこうしているうちに二人はデュエット曲を歌い始めた。

「あっちは結構二人で盛り上がっているみたいだ」

「彼女は親友でセクハラの時も励ましてくれました。今日も彼女が一緒でなければ来ないところでした。この前の合コンもいつまでも引っ込んでいてはいけないと言って無理に連れて来られたんです」

「そう言う意味では俺も彼女に感謝しないといけないな。また、会える?」

「分かりません?」

「携帯の番号を教えてくれないか?」

「ダメです」

「じゃあ、メルアドくらいはいいじゃないか? いやなら見なくて削除すればいいだけだから」

「じゃあ、メルアドだけなら」

とうとう絵里香はメルアドを教えてくれた。これで繋がりはできた。今日のところはこれでよしとしよう。

俺たちはのっている彼ら二人のデュエット曲をずっと聞くことになった。

約束の時間が過ぎて出口で2組に別れた。ただし、俺と隆一、絵里香と山内さんの2組だ。

俺たちは飲み直そうと隆一の知り合いのバーへ行った。少し歩いて振り向くと2人の姿はもう見えなかった。

「隆一は山内さんと何を話していた?」

「おまえたちのことだ。ひょっとすると似合いだと言っていた」

「どこが似合いだ?」

「真一はあんな陰のある感じの女子を好きになるみたいだからだ。昔からそうだった。でも周りにくる娘は明るい子ばかりだったからな」

「そうかもしれない。あまり明るい娘は裏があるみたいでどうも気が許せない」

「陰がある娘は陰が気になるだろう。それに裏がないとも言えないだろう」

「そうだな」

「でも、山内さんの話では彼女いい娘みたいだよ。元彼にすごく尽くしていたそうだ。だからなおさら捨てられて可哀そうだったと言っていた」

「おまえなら癒してやれるかもしれないな」

「どうかな、難しそうな娘だ」

「でも気になるんだろう」

「そうだ」

「今回会ったことでますます気になってきた」

「真一らしくないな」

「こういうのを恋するというのかもしれないな。初めての感情だ。自分でも気持ちを冷静にコントロールできない」

「まあ、頑張ってみることだな、悔いのないように」

「分かっている」

小一時間飲んでマンションに帰ってきた。地味子はすでに帰っていた。

昼頃メールが入って、今日は10時過ぎになると連絡があった。俺は11時過ぎと返信しておいた。

「ただいま」と部屋に声をかけると「おかえり」と言ってくれた。

シャワーを浴びてベッドで横になる。心地よい疲労が眠気を誘う。絵里香に会えてよかった。

メルアドをもらったことを思い出してメールを入れる。グーグルのアドレスだけど繋がるだろう。

[今日は会ってくれてありがとう。また、会いたい。おやすみ]と送った。思いのほか早く、すぐに返信が来た。

[今日はありがとうございました。歌を聞いてくれてありがとう。おやすみ]とだけ書かれていた。

返事をくれたことから、嫌われてはいないと思った。これで安心してぐっすり眠れる。
あれから毎晩絵里香にメールを送っている。

すぐに返事がある時もあるが、夜遅くなってからのこともある。

絵里香がどこに勤めているのか、どういう生活をしているのかは全く情報がない。

ただ、メールをすると必ず返事はくれる。無視されることもないので。こちらに気がないことはないと言える。

でも決して絵里香からメールをもらうことはなかった。

こちらが一方的に送るメールに対して儀礼的な返信をしているだけのようにも思われた。

一度二人だけで会いたいというと、やんわり断られた。

食事を一緒にしたい、ご馳走したいと言うと、ご馳走される理由がないからと断られた。

いままでの娘は大体これでのってきて食事をした。

会って話がしたいというと、何の話という。男女が会って話をするのに何の話はないだろう。

今までならこれで気がないとやめてしまうところだが、今回は気になってムキになっている。俺もどうしてなのか分からない。

どういう条件なら会ってくれるのか、率直に聞いてみた。

絵里香の条件は、周りに人がいる場所であること、高級なところでないこと、割り勘にすること、週末の8時以降、1時間くらいということだった。

条件を出したということは会っても良いということだ。後は条件に合う場所を提案すればいいだけだ。

シティホテルの最上階のラウンジを提案した。

ここなら周りに人もいるし、雰囲気もいい。テーブル席をとればゆっくり話ができる。値段もそこそこだ。

絵里香は提案を受け入れた。来週の金曜日の8時に約束を取り付けた。

*******************
ラウンジには早めについた。窓際のテーブル席を予約しておいた。絵里香はまだ来ていなかった。

8時を少し過ぎたころに絵里香が現れた。来てくれたとほっとした。

手で合図すると席にやってきた。今日の服装は少し控えめだけど可愛さもある不思議な雰囲気だ。

「また会えてうれしい。よく来てくれたね、飲み物は何にする?」

「ジンジャエールでお願いします」

すぐにジンジャエールとジョニ黒の水割りとつまみを何品か注文した。

注文した飲み物が来るまで話しあぐねていると絵里香が先に口を開いた

「私と会いたいとおっしゃって言いますが、何が目的ですか?」

「目的?」

「どういうことを考えているんですか?」

「独身の男女が会うのに理由がいるのか?」

「それを聞きたいのです」

「俺は君に会ってどことなく惹かれた、いや頭の中から君が消えないんだ」

「私のどこに惹かれたんですか?」

「はっきりとは言えないんだが、君は綺麗でとても可愛い。それに時々見せる悲しそうな何かに惹かれる」

「それで私と会ってどうしたいんですか?」

「君のことをもっと知りたいと思って、それじゃだめなのか?」

「もう十分に分かっていらっしゃるじゃないですか?」

「何も分かっていない。だから付き合いたいんだ。自分から付き合いたいと思ったのは君が初めてだ。そして、付き合いたいと言ったのも初めてだ。いままでこんな気持ちになることはなかった」

「綺麗で可愛いとおっしゃいましたが、綺麗で可愛くなかったら、どうなんですか?」

「どうって?」

「もし私があまり可愛くなかったらどうなんですか?」

「うーん、そうだな、どうか分からない」

「じゃあ、外見が好きなだけじゃないですか」

「だから、付き合って君のことが知りたいと言っているんだけど、普通はそうじゃないのか」

「そうかも知れませんが、私はそういうのがいやなんです」

「君の言っていることが理解できない」

「あなたには理解できないと思います。だから、お付き合いを躊躇するんです。本当の私を見てくれそうに思えません」

「恋人に守ってもらえず裏切られたと聞いたが、そのことが関係しているのか? 俺は恋人を裏切ったりは絶対にしない」

「どうしてそう言い切れるのですか? ご自分の将来がかかっていたとしたらどうですか?」

「仮定の話には答えられないな」

「そうでしょう。確信がないでしょう」

「私を守ると誓えますか」

「今の段階では付き合ってもいないから何とも言いようがない」

「私があなたの恋人になったとしたら、裏切らないと誓えますか、守ってくれますか?」

「その時は約束する」

「人を見かけから好きになる人は本質を見ることができないのではと思っています。私はあなたの内面を見たいと思います」

「それなら付き合ってくれるのか?」

「はい、お望みならお付き合いします」

「よかった。ありがとう」

1時間の約束だったので、9時に絵里香は帰っていった。

一緒に帰ろうと誘ったが、寄るところがあるからと言って一人でラウンジを後にした。

俺はそこにしばらく残った。少し考えてみたかった。

絵里香はとうとう付き合うと言ってくれた。

付き合いたいと俺の口から相手にいったのはこれが初めてのような気がする。

いままでは、気に入った娘には暗黙の了解で誘っていたから、あえて付き合ってくれとは言わなかった。

まあ、そういうと責任が生ずると考えていたのかもしれない。付き合ってくれと言ってしまうと、気持ちが離れた時には別れると言わなければならない。

そういうのが、またうっとうしいと思っていた。

いつもフリーでいたい。男の身勝手かもしれない。絵里香はそれを見通しているのか? 分からない娘だ。

マンションに帰ると、地味子はもう帰っていた。部屋に「ただいま」と声をかけると「おかえりなさい」と言ってくれた。

絵里香のあの潤んだような目を思い出した。まあ、よしとしよう。絵里香にメールを入れる。もう自宅かもしれない。

[今日はありがとう。付き合ってくれると聞いて嬉しかった。おやすみ]と送ると、すぐに返事があった。

[今日はお話ができてよかったです。少しだけあなたのことが分かりました。おやすみなさい]
午後の会議中に頭が痛くなった。

企画の説明をしたが上出来だった。質問も想定の範囲内で無難に答えることができた。

緊張したせいかとも思ったがそうではなさそうだ。

ようやく会議が終わった。席に戻っても身体がだるい。仕事の疲れが出た? ひょっとしたら風邪を引いた? いやインフルエンザか? 

隣の席の山田さんは二日前から休んでいる。インフルエンザとの連絡が入っていた。

悪い予感がする。仕事に集中できないので早退することにした。幸い今日はこの後の予定はなかった。

部長に午後半休を申請をした。「最近は忙しかったから疲れが出たんだろう、ゆっくり休んでくれ」と言われた。

食欲がなかったが、帰りにコンビニで夕食用にサンドイッチとおいしそうなケーキ、それにポカリを買った。

マンションの自分の部屋ですぐにパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。疲れていたんだな。すぐに眠ったみたいだった。

目が覚めるともう薄暗くなっていた。頭痛は治まっていない。

熱はあるかと測ったら39℃もあった。道理で身体がだるい訳だ。

買い置きの解熱鎮痛薬があったはずと探す。見つかったのでとりあえず飲んでもうひと眠りする。

次に目を覚ました時は、寝汗をかいていて、下着がびっしょり濡れていた。すぐに着替えをした。パジャマも替えた。

何時ころかと目覚ましを見ると午後8時を過ぎたところだった。熱を測ると37℃あった。

喉が渇いているので冷やしたポカリを取りにキッチンへ行こう。ついでに冷凍室にアイスノンがあったはずだから持ってこよう。

部屋を出ると地味子が丁度夕食を食べているところだった。

「帰れられていたんですか? 気が付きませんでした」

「体調が悪くて早退してきた。部屋でずっと寝ていた」

「大丈夫ですか?」

「風邪か、インフルエンザかもしれない。熱がある」

「医者に診てもらいましたか?」

「いや、たいしたことはないだろうと思って様子を見ることにした」

「お薬は飲んだのですか?」

「頭も痛いので解熱鎮痛剤を飲んで寝たら汗をかいた。今着替えをしたところだ。俺に近づかない方がいい。移るといけないから、それに手をよく洗ってうがいをしておいた方がいい」

「私に何かできることはありますか?」

「特にないけど、何かあればお願いする、その時は携帯に電話するから」

「そうしてください」

俺は冷蔵庫から買ってきたサンドイッチとケーキとポカリを取り出して部屋に戻った。

ひとりで食べて地味子には移さないようにしないといけない。食べながらポカリを飲む。冷たいポカリが美味しい。

お腹が落ち着いたところでもうひと眠りした。

夜中に寒気がした。体温を測ると39℃もある。また、解熱剤を飲む。

時計は2時を指していた。寒気を我慢していると眠ってしまった。

また、汗をかいているのに気づいて目が覚めた。4時を過ぎたところだった。

下着とパジャマを着替える。体温は37℃。頭痛は治まっている。

喉が渇いた。枕元のポカリは空っぽなのでキッチンまで飲み物を取りに行くことにした。

ドアの音か冷蔵庫のドアの音で気が付いたのか、地味子が起きてきた。

「大丈夫ですか?」

「喉が渇いたから、飲み物を取りに来た」

「電話してくれれば、持って行ってあげたのに」

「折角眠っているのに起こすのも悪いと思って」

「こんな時は遠慮しないで下さい。それより本当に大丈夫ですか?」

「寒気がして熱が出た。解熱剤を飲んだら、また汗をかいて、下着やパジャマを取り換えた」

「下着やパジャマはまだ新しいのはあるのですか」

「もう一組くらいはあるから大丈夫だ」

「熱は?」

「今は37℃。これより下がらない」

「明日、医者にかかった方がいいです。必ず行って下さい」

「様子をみてからでいいだろう」

「必ず行って下さい。約束してください」

「分かった。それほどまでいうなら行くよ」

「朝になったら、朝食を準備して、洗濯をしますから、それまでゆっくり休んで下さい」

俺は部屋に戻った。咳は出ないが、節々が痛い。とりあえず眠ろう。

*******************
ドアをノックする音で目が覚めた。地味子の声がする。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。今、熱を測る」

「どうですか?」

「38℃ある。今日も休むから」

「下着とパジャマを着替えて、とりあえず、朝食を食べませんか? 食欲はありますか?」

「お腹は空いている。すぐ行く」

着替えをしてリビングダイニングのテーブルに行くと、もう朝食が準備されていた。地味子はマスクをしている。

「私はもう済ませましたので、ゆっくり食べてください。その間にシーツと枕カバーを取り換えて洗濯します」

地味子はそういうと俺の部屋に入っていった。

朝食を食べ終わったので部屋に戻ると地味子はすでにベッドのシーツや枕カバーを新しいものに交換し終わっていた。

そして、洗濯機に着替えた衣類を入れて洗い始めていた。

「このままにしておいてください。お昼に来て洗濯物を片付けますから」

「自分でするから、いいよ」

「言うとおりにしてください。身体を大切にしてください。それから必ずお医者さんへ行ってください。約束してください」

「必ず行くから」

「それより白石さんに移らないか心配している」

「心配ご無用です。インフルエンザの予防注射は毎年必ずしています。今までインフルエンザにかかったことはありません」

「でも油断しないで」

「大丈夫です。今も気を付けています」

俺がベッドに横になるのを見届けると、部屋から出て行った。洗濯機は勝手に回って乾燥もしてくれる。

8時過ぎに地味子が部屋のドアを開けて顔を出した。

「いいですか、お医者さんへ行ってくるのですよ。それからお昼に見に来ますからね」

そう言い残すと地味子は出勤した。

結構口うるさい。でも心配してくれるのはありがたい。9時になったら、会社に電話して、近くの医院へ行こう。

*******************
大通りにある医院まで歩いて行った。少し頭が痛い。朝早かったのですぐに診てもらえた。

インフルエンザA型だという。薬をくれた。安静にしていれば2~3日で治ると言われた。これで一安心だ。

帰りにコンビニによってパンと飲み物、ポカリを多めに買った。

帰ってベッドに横になる。やはり、身体がだるい。熱は38℃ある。熱がなかなか下がらない。まあ、1日寝ていよう。こういう日もあっていい。ウトウト眠る。

ドアをノックする音で目が覚めた。すっかり眠っていた。目覚まし時計は12時を過ぎている。マスクをした地味子が顔を出す。

「お医者さんへ行ってきましたか?」

「ああ、行ってきた。お薬ももらってきた」

「なんと言われましたか?」

「インフルエンザA型、2~3日安静にしているように言われた」

「じゃあ、おとなしくしていてください」

「そうするしかないだろう」

そういうと、部屋に入ってきて、洗濯機から乾燥した衣類などを出して畳んで、クローゼットにしまってくれた。

「お昼はどうします」

「コンビニでパンを買ってきたから後で食べる」

「今は、その位がいいですね。夕食はいつも作っていますから、それを食べてください。お腹にやさしいもの考えますから」

「食べに行けないのでお願いできるかな。助かる」

「じゃあ、おとなしく待っていてください」

そう言うと、地味子は部屋を出て、会社へ戻っていった。地味子がいてくれてよかった。助かった。

それから、飲み物とパンで簡単に昼食を済ませてまた眠った。よくこれだけ眠れると思うくらい眠った。

それでまた寝汗をかいて目が覚めた。地味子が洗濯をしておいてくれてよかった。また、着替える。

今度はもう眠れない。時刻は5時前になっている。
玄関ドアの音がした。地味子が帰ってきた。ほっとしたのはどうしてだろう。

部屋のドアをノックして地味子が顔を出す。

「どうでした?」

「よく眠れた。でもまた寝汗をかいたので、下着を交換した。洗ってもらったので助かった。ありがとう」

「それはよかったです。待っていてください。夕食を作ります」

しばらくするとまたドアをノックして顔を出す。

「簡単ですが、夕飯ができましたらから、食べてください」

「ありがとう。ご馳走になります」

ダイニングテーブルには2人分の夕食が用意されていた。

「お腹にやさしいようにうどんにしました。あと卵焼です。簡単ですが消化の良さそうなものにしました」

「うどんはお代わりがありますから、たくさん食べて下さい」

お昼から何も食べていなかったので、すぐに平らげた。

うどんは出汁が効いていておいしい。汗をかいたので塩分と水分の補給に最適だ。おかわりをした。

それに卵焼きも出汁が効いておいしい。こんな卵焼きは初めて食べた。

確かに簡単な夕食だったが、満ち足りた。

地味子は料理が上手い。これなら毎日夕食を作ってもらうのも悪くないかなと思う。地味子がようやく食べ終わる。

「ごちそうさま、おいしかった、ありがとう。身体も温まった」

「病気の時はこのくらいがいいと思います。もう少し良くなったら肉料理にします」

「治るまでお願いできるかな」

「いいですよ。ひとり分も二人分も手数が同じですから。いつも多めに作って冷凍保存していますから、大丈夫です」

「白石さんがいてくれてよかった。でもインフルエンザが移らないように気を付けてくれ」

「早く休んでください。また、熱がでますよ」

そういわれて部屋に戻って、ひと眠りした。

夜中の12時ごろに汗をかいて目が覚めた。また、下着とパジャマを替えた。熱を測ると36.5℃に下がっていた。ほぼ平熱に戻った。

それから明け方まで目が覚めなかった。

*******************
朝、目が覚めて体温を測ると36.5℃で平熱だ。ただ、身体が少しだるい。

出勤しようかどうしようか迷っていると、地味子がノックして顔を出す。

「どうですか?」

「熱は下がったので、出勤しようかと思っている」

「絶対に今日は休んで下さい。無理しないで下さい」

「もう大丈夫だから」

「私の父はそれがもとで亡くなりました。だから行かないで休んでください」

「知らなかった。お父さんはこれがもとで」

「朝食を召し上がって下さい。準備ができています」

テーブルにはトーストとミックスジュースがあった。

「お腹にやさしくて水分が取れるものを考えました。ジュースには牛乳、ヨーグルト、バナナ、リンゴ、ニンジン、キャベツが入っています。たくさん飲んで下さい」

ジュースはとてもおいしかった。ほどほどの冷たさで味も良い。3杯飲んだ。

「本当に今日も1日休んでください。お昼に見に来ますから、その時昼食になにか買ってきます。いいですか安静にしていてください。約束ですよ」

そういうと、後片付けを終えて、替えた下着などを洗濯機にかけてから、地味子は出勤した。

12時過ぎに地味子はまた戻ってきた。

昼食におにぎりをいくつかとインスタントの味噌汁を買ってきてくれた。これもなかなかおいしいかった。

また、乾燥した衣類を片付けてくれた。

3時に熱を測ったら37℃あった。やはり出勤しなくてよかった。寝ていても身体がだるい。また、眠った。

5時に目が覚めた。身体がすっきりした感じがした。体温の測ると36.5℃だった。

ようやく回復したと実感できた。そうなるとお腹が減ってたまらない。地味子はまだ帰ってこない。早く帰ってきて夕食を作ってほしい。

6時半過ぎになって。地味子が帰ってきた。ドアから顔を出す。

「ごめんなさい。遅くなって、仕事が立て込んでいて、すぐに夕食の準備をします。体調はどうですか?」

「もうすっきりした。身体のだるさもなくなった。熱は平熱になった」

「そうですか、では、お肉料理でも作ります。待っていてください」

準備ができたと呼ばれてテーブルに着くと、料理が並べられていた。

「生姜焼き定食になります。私の肉料理はこんなものですが、召し上って下さい」

まさしく、生姜焼き定食だった。野菜がたくさん入った味噌汁がついている。それから漬物。生姜焼きの味付けがいい。それに味噌汁もおいしい。漬物は一夜漬け?

「味付けが良くて美味しい。味噌汁は今作ったのか、漬物がおいしいけどどこで買った?」

「味噌汁はあり合わせで作りました。漬物も余ったお野菜の一夜漬けです」

「料理が上手だね」

「母が教えてくれました」

「今朝、言っていたけど、お父さんはインフルエンザがもとで亡くなったのか?」

「そうです、無理をして、肺炎になって、私が高校1年の時に、あっという間になくなりました。だから油断してはいけません」

「お母さんはどうしている?」

「父が亡くなってから実家の仕事の手伝いをしています」

「大変だったんだ」

「母は苦労をしました。私はそれに甘えていただけで、ありがたく思っています。そんなことより、食べ終わったら早く休んでください。明日の朝の調子で出勤するか判断したらいいと思います。でも私は大事をとってもう1日休養されることをお勧めします」

「分かった。明日の朝の状況で判断する。ありがとう」

*******************
翌朝、大事をとってもう一日休むことにした。

確かにここのところ忙しかったし、夜遊びもした。疲れが溜まっていたのかもしれない。だからインフルエンザにも感染した。地味子の忠告に素直に従うことにした。

その日はベッドで横になったり、テレビを見たり、読書をしたり、いつもの休日とは違った過ごし方をして、身体を休ませて、ゆとりを取り戻せた。明日からは出勤しよう。

6時半過ぎに地味子が帰ってきた。今日の昼は冷食のチャーハンを準備してくれていた。夕食が楽しみだ。

地味子がドアをノックして顔を出す。

「夕食はシチューにしました。少し時間がかかります」

「お腹が空いた。楽しみにしている」

本当に楽しみにしていた。7時過ぎに呼ばれてテーブルに着くと、シチューが用意されていた。ほかに野菜サラダがあった。

おいしいシチューだった。おいしかったので、お代わりを2回もした。お代わりをすると地味子も嬉しそうだった。

「夕食ありがとう。今日はゆっくり英気を養えた。明日から出勤する」

「すっかり回復したみたいですね。よかったです」

「それで、お礼をしたいのだけど」

「そう、おっしゃると思っていました。篠原さんは私の好意を受けるのがおいやなのですね」

「そういう訳でもないけど、お世話になったのでお礼はしておきたい」

「借りをつくりたくないのは分かります。それで、お世話した時間を計算しておきました。それと昼食と夕食の材料費を計算しておきました。内訳は洗濯の時間と食事の準備ですが、食事の準備時間は私の食事の準備ための時間でもありますので、半分にしました」

明細をみると3日間で僅か4.5時間の4500円、昼食と夕食の材料費など1350円の合計5850円だった。

「こんなに少なくていいのか」

「実費はそれだけでから、多く貰っても気が引けますから、それだけいただければ十分です」

「分かった。ありがとう。もう元気になったから、コーヒーでも入れてあげよう」

「コーヒーをご馳走になります」

手をよく洗ってコーヒーを2杯作った。飲んでくれてほっとした。

今回は地味子には世話になりっぱなしだった。もし、いなかったら、熱のある身体で食事や買い物に出かけなければならなかった。

それに彼女の作ってくれた食事は豪華なものではなかったが、心の籠ったおいしい食事だった。おふくろの飯を思い出した。

こうしてインフルエンザは完治した。幸い、地味子にも感染しなかった。
久しぶりに出勤して昼休みに一息ついていると、隆一が俺の席のところまで来てくれた。

「インフルエンザに罹ったんだって?」

「ようやく治った。もう大丈夫だ。あの地味子にはとても世話になった。いい子を同居人に選んだよ」

「そうか、俺もそう思う。真一とは気が合うんじゃないか? 俺はおまえにお似合いだと思うけどな」

「まあ、気軽に話せるし、気遣いがいらないから楽だ」

「どうだ、考えてみては?」

「なにを?」

「彼女と付き合ってみたらどうだ」

「いまも同居しているのだから、付き合うはないだろう。それに全く色気を感じない。その気になれない」

「まあ、そうかもしれないが、俺はいいと思うけどな」

隆一の言っていることが今ひとつ分からなかった。

それより絵里香のことが気になっている。インフルエンザで寝込んでいる間、俺は絵里香にメールを入れなかった。

人を恋焦がれるにはそれ相応の気力が必要だ。寝込んでいる間はそういう気力がなくなっていた。

そういう時は弱気になっているので連絡しない方が無難だ。まあ、連絡を入れないで引いてみるのも良いのかも知れないと思っていた。

今日は欠勤明けだから朝から何かと忙しかった。7時過ぎになってようやく時間が取れた。それで絵里香にメールを入れてみた。

[しばらく連絡できなかったけど元気にしている?]

すぐに返信があった。

[はい、元気にしています。お元気でしたか?]

すぐに返信する。

[インフルエンザに罹ったけど、ようやく治った。週末に会えないか?]

[この前と同じ場所、時間でよろしければ]

[了解、待っている]

思わずデートの約束をとりつけることができた。引いてみるのも時には必要だったのか?

*******************
金曜日の午後8時、約束の時間に絵里香は現れた。今日もシックな落ち着いたダークグレーのワンピースに可愛いベストを着ている。

「会ってくれてありがとう」

「私も誰かと少しお話がしたくて」

「相談事があるのなら、相談にのるけど」

「そんなものはありません。ただ、誰かとお話がしたかっただけです」

「リハビリの一環かな」

「そうかもしれません」

「私は元カレと別れてから私のどこが気に入ってもらえたのか考えていました」

「それでどうだったの、どこを気に入ってもらっていたのか分かったの?」

「きっと私の見た目が気に入っていただけだったんです。私の内面というか私自身を気に入っていたのではなかったように思いました。いろいろありましたが、表面的にしか私を見てもらえていなかったから、心から好いてもらえていなかったのだと思いました」

「どのくらい付き合っていたの?」

「1年位でしょうか?」

「私はすべてを見てもらっていたつもりでしたが、彼は表面的にしか私をみてくれていなかったのだと思います」

「彼の責任と言いたいのか」

「私の見せ方が悪かったのかもしれません。彼に見る目がなかったのかもしれません。分かりません」

「それで俺に何を聞きたい?」

「あなたには私を見る目があるのでしょうか?」

「俺に見る目があるかどうかは分からない。それに君とそれほど付き合っている訳ではないからね。それで君はどうなんだ。男を見る目があるのか? 自分ではどう思っているんだ」

「私も分かりません」

「まあいい、今日はこれからカラオケにでもいかないか?」

「そうですね。歌を歌って憂さ晴らしもいいかもしれません」

「それなら、俺のマンションに来ないか?」

「あなたのマンションにですか?」

「カラオケがある」

「本当ですか?」

「それに俺の住んでいるところも見てもらいたい。連れ込んで君をどうかしようと思っている訳ではない。俺を知ってもらいたいだけなんだ」

「カラオケだけと約束していただけるのなら、行ってもいいです」

「そうか、ありがとう」

「じゃあ、ちょっと電話させてくれ。同居人がいるんだ。都合を聞いてみる」

俺は席を立って、地味子に電話を入れる。出ない。携帯が切られているか、圏外とのアナウンス。

地味子からは帰宅は10時以降になるとメールが入っていた。9時前だから、今ならまだ帰っていないだろう。

「電話に出ないけど、まだ帰っていないみたいだ。大丈夫だから行こう」

「同居している人がいるんですか」

「俺の従妹だから心配ない」

「それならなおのこと安心です」

ひょっとするかなと誘ってみたが、絵里香は来る気になってくれた。マンションに案内する。

受付にはまだコンシェルジェがいた。軽く挨拶して前を通り抜ける。絵里香はあまり緊張していないようだった。安心している? 

でもエレベーターに乗ると緊張した様子で話しかけてきた。

「すごいマンションですね」

「親父の所有で、俺が維持費を負担して住んでいる。従妹を同居させてその代わりに掃除、洗濯をしてもらっている」

「維持費って結構かかるんですか?」

「前に住んでいた1LDKのマンションよりも随分かかる」

「こんな豪華なマンションに住めていいですね」

すぐに32階についた。玄関ドアを開けて中に招き入れる。地味子はやはり帰っていなかった。

「左の部屋が俺の部屋で、右の部屋が従妹の部屋だ。ここがリビングダイニングでカラオケはここに置いてある」

「広いですね」

「ソファーに坐っていてくれないか。コーヒーを入れるから。砂糖とミルクはどうする?」

「ブラックでお願いします」

コーヒーメーカーにセットしてソファーに戻り、カラオケの準備をする。

「歌いたい曲を決めておいて」

コーヒーを取りにキッチンへ行く。もうできていた。カップに注いで持っていく。

「決まった?」

「『レモン』をお願いします」

「俺もそのあと歌わせてくれ」

「いいですよ。初めて聞かせてもらえますね」

コーヒーを一口飲んでから、絵里香が最初に歌った。この前に聞いた時と同じで情感がこもっていて聞き惚れた。

次に俺が歌った。絵里香はジッと俺の顔を見て聞いてくれた。割とうまく歌えたと思う。

「上手ですね。情感が籠っていて、いいですね」

「ほめ上手だね。他に歌ってみたい曲はないの?」

「それじゃあ、『君を許せたら』をお願いします。このまえより上手くなっていると思いますので、聞いてもらえますか?」

「この前もすごくよかった。是非聞かせてほしい」

絵里香は、今度は俺を見つめて歌ってくれた。

言うとおり、この前よりもずっと上手くなっていた。聞いていると身につまされる曲だ。俺好みで歌ってみたい曲だ。

「いいね、2曲ともいい曲だ。こんな歌が好きなんだね」

「悲しい曲が合っているように思います。歌っていると歌の中にいるような気持になって」

「歌に酔っている?」

「そういうんじゃなくて、身につまされるというか、悲しくなります」

「ロマンチストなんだ」

「自分を悲劇の主人公のように考えるのかもしれません」

「じゃあ、俺が悲劇のヒロインを助ける王子様になってあげる」

「私はお姫様ではありません。ただの失恋したOLです」

絵里香に近づこうとすると彼女は逃げるように立ち上がって窓際へ行って外を見た。

ここからの夜景はとても綺麗だ。初めて見た時はいつまでも見ていていた。
「夜景がきれいだろう」

「いいですね。遠くまで見えますね。こちらは海の方向ですか?」

「天気の良い昼間だと東京湾がみえる」

「しばらく見ていていいですか」

「ああ、好きなだけ見ていていいよ」

俺も立ち上がって窓際に行く。

絵里香が身構えるのが分かる。それでもかまわずに後ろから肩を両手でつかんでそれから抱き締める。華奢な身体だ。

「だめです。放してください。約束が違います」

「好きなんだ。気持ちがおかしくなるくらいに好きなんだ。こんな気持ちは初めてだ」

「私のどこが好きなのですか?」

「分からない。本能的にと言った方がよいかもしれない。理由なんか後から考えればいい」

「ほかの人にもそうおっしゃっているのでしょう」

「本当に好きなんだ、今日は泊っていってくれないか?」

「何をおっしゃっているんですか?」

「真面目に言っている。そうでないとおかしくなりそうなんだ」

「従妹さんが帰ってくるのでしょう」

「大丈夫だ。気にしないと思う。こっちへきて」

手を引いて絵里香を俺の部屋に連れて行く。抵抗はするが断固とした拒絶はしていない。

ここは強引にでも、今を逃すともうこういう機会はないと思った。

部屋に入って抱き締めるとあきらめたのかおとなしくなった。それでキスをしてゆっくり離れた。

「泊まっていってほしい」

これで逃げ出せばそのまま帰そうと思った。

「それほどおっしゃるのなら泊ります。シャワーを浴びさせてください」

「バスルームはそのドアの向こうにある。バスタオルはそこに置いてあるから」

絵里香は黙って入っていった。

俺の熱意が通じたのか? どうして泊って行く気になってくれたのだろう? 

シャワーの音が聞こえた。もう我慢できなくなって服を脱いでバスルームへ入った。

裸の絵里香がシャワーを浴びていた。でも彼女は驚かなかった。

俺が入ってくることを予測していた? そう思うと俺は返って落ち着いて冷静になった。

「すぐに替わります。少し待って下さい」

「ああ、ごめん」

俺は絵里香がシャワーを浴びているのをじっと見て待っていた。

絵里香は洗い終わるとバスタオルを身体に巻いて出て行った。それを唖然として見ていた。

肝が据わっている。不思議な娘だ。それで俺もすっかり落ち着いた。

シャワーで身体を洗い終わるとキッチンへ行って冷たい飲み物を持ってきた。

絵里香はベッドに腰かけている。

「飲む?」

「いただきます」

絵里香は半分くらい一気に飲んでそのボトルをサイドテーブルに置いた。

俺もそれを見ながら喉を潤した。一息ついてもっと冷静になろうと思う。

絵里香が俺をじっと見ているので腕を伸ばして抱きしめた。絵里香が耳元で囁く。

「ちゃんと避妊してください」

「ああ、分かっている。心配するな」

それだけ確認すると絵里香が抱きついて来た。俺たちはお互いを貪るように愛し合った。

*******************
絵里香は俺に背中を向けて横になっている。俺は後ろから抱えるように彼女を抱いて、余韻に浸っている。

愛し合っているとき、彼女はえも言われぬ声を出していた。喉の奥から絞り出すような細い声だった。

悲しくて泣いているのか、快感からなのか分からなかった。ただ、魂に響くような声だった。今でも耳に残って離れない。

「悲しかったのか? 泣いているのかと思った」

「よく覚えていません」

「ありがとう」

「私のことが分かりましたか?」

「いろいろなことが分かった。それでますます好きになった」

「でも私の一部しかまだ見ていません」

「付き合ってもっと見てみたいし見せてほしい」

「見る目がないと見えません。見ようとしないと見えません」

「面白いことを言うね。楽しみにしている」

「私をしっかり抱き締めて寝てください」

「ああ、いいよ」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

*******************
朝、気が付くと抱き締めて寝ていたはずの絵里香がいなかった。

いつかの恵理ように早起きして地味子と話でもしているのかとリビングダイニングへ行ってみた。誰もいなかった。

まだ、外は薄暗い、時計を見ると5時を過ぎたところだった。

夢を見ていたはずがない。昨夜は絵里香と愛し合って一緒だった。抱き締めて寝ていたのは間違いない。部屋に戻って、また眠った。

次に目が覚めたら8時を過ぎていた。これでも土曜日の今日は早く起きた。昨夜の余韻でまだ少し身体が興奮しているのかもしれない。

そうだメールしてみよう。

[昨夜は泊ってくれてありがとう。黙って帰ったんだね]

すぐに返事が入る。

[黙って帰ってごめんなさい。起こすと悪いと思って。始発で帰りました。昨夜はよい思い出になりました。ありがとうございました]

まずまずの内容の返信だった。彼女は家に帰っていたので安心した。

ただ、どこに住んでいるかも知らないし、携帯の番号もまだ教えてくれない。

身繕いをして部屋着に着替えてリビングダイニングへ行く。地味子が朝食を用意していた。

「おはようございます」

「おはよう」

「昨夜は誰かお泊りでしたか?」

「ああ」

「そうですか。4時過ぎに玄関ドアの音がしてどなたかが出て行かれたようです」

「そうか、気が付かなかった。始発に合わせて出て行ったのかもしれない」

「白石さんは、昨夜は何時ごろ帰って来たんだ。連れて帰ると連絡しようと思ったけど、携帯がつながらなかった」

「カラオケで気が付かなかったのかも知れません。帰ってきたのは11時を過ぎていたと思います」

「また、女性を泊めたのですか?」

「まあ、そうだ」

「この前の恵理さん?」

「いや、別の娘だ」

「浮気症ですね」

「いや、今度は本気だ」

「そうなら、その人も喜んでいるでしょう」

「それが分からないんだ」

「つかみどころがない、不思議な娘なんだ」

「気になりますか?」

「ああ、仕事が手につかないくらいにね」

「うまくいくといいですね」

「そうだね、ありがとう」

地味子だと何でも気楽に話せる。これだと彼女を連れて来て鉢合わせしても大丈夫だ。