私の隣の家に一人暮らしのおばさんがすんでいる。おばさんは、40歳くらいと聞くけれど、なんだか、もっと年を取っているように見える。なぜか私は、おばさんに挨拶をかけることができない。おばさんは、長年精神病院というところに入っていて、非常に変な人なので、絶対に声をかけてはならないと母がよくいっていた。私も、その通りなんだろうなと思って、絶対に声をかけることはなかった。
でも、ある日の事だった。私は、学校から帰るときに、いままで持ち帰ることのなかった教科書をすべて持ち帰るようにと、教師からしかられた。私は、勉強と言うものは役にたたないから、教科書をもって帰ろうと言う気になれなかったのだ。家でも、勉強はしないで、大学受験対策に、予備校にいってばかりのような気がする。私は、予備校がメインで、学校はにのつぎにしてくれればよいのになあと、何回も思った。でも、この優先順位は変えると言うことはできないらしかった。
仕方なく、私は持っていた紙袋に教科書を全部入れて、重たい紙袋をよいしょともちあげて、学校をでた。もう、大学受験勉強をしなければならないときなのに、なんでわざわざ学校の教科書を眺めて勉強しなきゃいけないんだろう、と、嫌な気持ちがして仕方なかった。
同級生たちは、私がするようなことはしていないらしい。彼女たちは、どうして学校と受験勉強を両立させているんだろう。誰かが教えているのだろうか、それとも、兄弟がいて、お手本をみせてくれたから、ちゃんとやり方がわかっているんだろうか。いずれにしても、一人っ子というものは、こういうときに困るのだ。私が、教えてほしいと聞けば、大人はそんなこと自分で考えろと言う。でも、私はわからない。自分で考えろと言う言葉を、大人はかっこいいと思って使っているのだろうか。多分、そうだろう。私は、過去に前例がないので、わからないしか言いようがない。同級生に聞けば、そういうことをはなす余裕がないのだろうか、なにも話してくれない。だから、きっと彼女たちは、前例があるからだとしか、言いようがないのである。受験シーズンになり、自分のことで精一杯で、他人のことを構っていられない、という子も、少なからずいるのかも知れないが。
私は、重い鞄を持ちながら道路を歩いた。私のすんでいる地区からは、自転車通学は認められていない。だから、歩くしかなかった。
「こんにちは。」
不意に誰かの声がした。
振り向くと、隣のおばさんだ。あの、ちょっと、おかしい人だから近寄るなといわれていたあのおばさんだ。
「重いの?大丈夫?少しもってあげようか?」
おばさんにいわれて私は答えに詰まる。普段から口を利いてはいけないとされていた人に声をかけられたのだから。もう、走って逃げてしまおうか、と身構えると、紙袋の持ち手がきれて、中身が道路に散乱した。私はいそいで中身をひろい集めようとしたが、おばさんは、親切に中身を拾ってくれた。私の家族がするような、あんた、またこんなに落としてどうするの!なんていう、小言もなにもいわないで。
「おばさんが少しもってあげるね、重たそうだから。」
私の、落書きだらけの教科書をもって、おばさんは、道路をあるきはじめた。おばさんは、私が隣の家の住人であることは、すでに知っているみたいである。
「最近の高校生は、教科書が多くて大変ね。でも、おばさんは、高校で勉強ができなかったから、まゆちゃんには、一生懸命勉強してほしいなあ。」
おばさんは、そんなことを語り始めた。
「高校で勉強ができなかったんですか?」
その台詞におどろいてしまう。私はだれでも、高校へ大学へいくのは当たり前だと思っていたからだ。おばさんの頃だってそうだったのではないか?私は、驚いてしばらくなにもいえないでいると、
「おばさんは、高校でいじめにあったの。だから、高校側から出ていけと言われたのよ。いじめた方ではなくいじめられたほうを、学校は追い出しちゃうのよね。おばさんは、そのあと病院に送られた。ただ、苦しくて、助けて欲しかっただけのことなのに。」
そんなことがあったのか、と思われるようなことを、おばさんは、話始めた。
「病院といっても、刑務所みたいなところよ。自由はないし、なにもさせてもらえないし。だから、おばさんは、まゆちゃんの教科書を運べてとても嬉しい。まゆちゃん、ありがとうね。これからもちゃんと勉強してね。」
にこやかに笑って、そんなことをはなすおばさんに、私は嘘はないなとわかった。うそであれば、このような笑顔は作らないだろう。それくらい晴れやかな笑顔だった。
そうこうしていると、私たちは、それぞれのいえのまえについた。
「はい、まゆちゃん。きょうは、おばさん、まゆちゃんの役に立てて嬉しかった。ぜひ、これからも役に立ちたいわ。おばさんに、手伝わせてね。」
そういうおばさんは、私に持っていた教科書を渡した。
「有り難うございました。おばさんが手伝ってくれてたすかりました。」
私は、にこやかに、そう、できるだけにこやかになるように、笑顔を作った。
「まゆちゃんありがとう。あたしはね、どうせ、誰かに何かしてあげてもね、嫌われてしまう人間なのよ。あたしはね、そんな風ににこにこして、お礼をされたことがない。」
おばさんは、今現在のことを嘆くようにいった。
「いいえ、あたしは、おばさんに、手伝ってもらって嬉しかったです。ありがとうございました。」
私は、軽く頭を下げて教科書を玄関先においた。おばさんは、その最初から最後まで見ていた。
「どうしたんですか?おばさん、まだ羨ましいの。」
私は、まだおばさんが出ていかないのでそういってしまう。
「おばさんも、できればあの頃にかえりたいわ。おばさんは、いじめられてて、独りぼっちだったから、まゆちゃんと話が出来て本当によかった。」
そうか、おばさんと話ができて、なんだか別のことを学べたようなきがしたのである。
おばさんは、やっぱり悲しかったんだ。それに、悪い人でもなかった。
もしかしたら、私は受験よりも、大事なことを得たのかもしれない。
おばさんのように、かわいそうな人をつくらないために、私は生きたい。
反射的にそう思ってしまう。
「おばさん、時おりでよいから、まゆちゃんと一緒に勉強しない?まゆちゃんも、きっとおばさんとの時間を楽しみにしていると思うの。」
私は、おばさんに、わかるようにそういった。
おばさんは、生まれてはじめてこうして誘ってもらうことが嬉しいようで、涙を流して泣き出した。
「おばさん、涙はもう見せないにしよう。」
おばさんは、決して悪い人ではないから。
もしかしたら、高校の教科書はこのためにあるのではないか。罪はなくとも勉強が出来なかったひとたちのために。私はそう考えて、こうすることも勉強だと思い直した。