罪
先日、若い警官が上司を銃殺するという事件がありました。銃殺した理由は罵倒されて発砲したという物だそうです。テレビでは、細部まで伝えきれないので、ある程度は推量になりますが、きっと指導が厳しかったとっさに発砲してしまったんだろうなと、考えざるを得ませんでした。
まあ、犯人をかばうわけではありませんが、きっと、それなりに苦しかったのではないかなと思います。たぶん、警官になるわけですから、正義感がとても強い方だと思いますし、まだ職務に慣れていないとしても、一生懸命やっていたんじゃないかなあ。と、私なりに考えていました。
こういう事件だけでなくても、やっぱり若いときは、感情的になりやすくなる。切れるという言葉がありますが、その通りに爆発することだって稀ではないのです。それは、国でも民族でも関係ありません。その証拠に、文献や小説などを読めば、どこの国の小説であっても若い登場人物は怒りを持つという場面が必ずありますし、映画を見ても同じことが言えますね。
昨日も書きましたが、若いというわけですから、年齢が低くなります。つまり、この世にあらわれてから、少ししか時間がたっていないのです。と、言うことはまだまだ知識など当然ありません。でも、昨日も書いたんですが、今の時代、わからないと素直に表現をすると、酷い反応が来ます。そうなると、やっぱり自分はダメだと思ってしまう人のほうが多いのではないでしょうか。一昔前なら、わからないものはわからないのだ!と主張することもできましたが、今は、それができないで、こういう大事件になってしまうというケースが頻発しているようです。確かに自分で調べるのも必要なのかもしれないけれど、それを求める過程で傷ついたり、自尊心が喪失したりすれば、結果として正しい答えは得られないことになるでしょう。しかし、どういうわけか、高齢の人たちは、それには、全く気が付かず、ただ若者はなっていないと平気で言いふらすのです。まるで若い自体が悪事で、若いということは罪なのだ!とでも言いたげに。
ですから、意志表示ができるということは、ある意味すごいことなんですね。うちの子はうるさくて手がかかって仕方ないという愚痴は、実は素晴らしいことでもあるわけなんですね。逆におとなしくて手がかからずよい子は、意志を伝えられずに苦しい思いをしているのかもしれないのです。一言も弁解しないで。
寂しさを忘れよう
今日は、ちょっとばかり、知人とトラブルがありました。まあ、結論から言うと、過去を忘れられないということは、明らかに不利なのです。でも、それができないというのは本当に悲しいことであり、苦しいことです。
トラブルこそありましたが、知人とは、何とか話が付き、和解することができました。
心からほっとしています。
文字のやり取りは時にはこうして、難しいなあと思うこともあります。便利な物ではあるけれど、相手の表情やしぐさなどを見て話せないので、そこらへんが難しいですね。そうなると、やっぱり、電話はなくならないでほしいなと思わずにはいられませんでした。
メールはとても便利だけど、そういう弱点はありますから、誤解されて、変なほうへ行ってしまうことはあるので、あまり好きな道具ではありませんね。
さて、本題に戻りますと、過去を忘れられないというのは、本当に困ります。それだけ傷ついているのだろうなと思うけど、それのせいで様々な「症状」に結びついてしまうのは困る。ひどくなれば、妄想や幻聴などもおこります。幻聴が聞こえてきて、それに快楽を覚えてしまう人というのは、それしか会話する相手がないから、次第にそっちの方が気持ちよくなってしまうのです。そして、だんだんに、正常な行動が苦痛になっていき、できなくなってしまうのでしょう。たどり着いた先は、精神科に入ったり、刑務所に入ったり。
それから先、もとへ戻るのは非常に困難です。
なぜ、そうなるのかと言いますと、正常な行動というのは、必ずあることをしなければ成立しません。それはなにかと言いますと、人間が面と向かって話すということです。例えば、掃除をするのだって、自分一人で使う物であれば、あまり掃除を念入りにしたりはしませんよね。しかし、誰かほかにも使う人がいれば、入念に掃除をしたりする。ご飯だって、一人で食べるには、インスタントで済ませますが、誰かがいれば、栄養分を考えて、手作りの食事を作りたくなります。どういう事かと言いますと、人が意欲的に行動していくためには、必ず「相手」が必要で、一人だけではできないのです。過去を忘れろと人は言いますが、現在の事に重点を置けば嫌でも忘れられます。相手がいれば、その人のことを思って嫌でも行動しなければならなくなりますから。つまり、過去を忘れろではなく、まず寂しさを忘れることを始めるべきです
忘れるということ
前回過去を忘れるには寂しさを忘れるということを書きましたが、そもそも忘れるとはどういうことなのか。私自身も疑問に思っていました。
忘れるということは、辞書的な言い方をしてしまうと、記憶からなくすことです。何かを電車の中に忘れるという意味ではないですよ。この場合は、事例を忘れるの意味でお考え下さい。
しかし、生きていればわかりますけど、人間は、悪い記憶という物は、いつまでも覚えてしまうもの。よく人は忘れろと、簡単に使いますが、具体的にどうするのか、という点に関しては、全く答えは得られないので、余計につらくなるからやめてくれということもあります。重大なことや、思春期に起きたことはそうなりやすいようです。
今日は、雨の中、ある講座に参加してきて、少し参考になったことがありました。その先生と話したことも踏まえて、もう一度先ほどの問いへの答えを出しますと、人間、辛いことを記憶から消すというのは、まず不可能なのです。消したつもりになっても、無意識に覚えてしまって、行動パターンには出ると先生はおっしゃっておられました。ですから、忘れよう忘れようと努力する行為は、全く意味はありません。
では、どうしたらいいのでしょうか。過去にある悲しみや苦しみから解放されるには。
私は、まず理由を知ること、そして、二度と同じことを繰り返さないようにするために努力することだと思います。
消すことはできないのですから。
そうすることによって、同じ過ちを繰り返さないことができるし、繰り返さないように行動することによって、意識の変革ができます。
まず、違うところに意識を持っていくと、専門家の方は口をそろえて言われますが、悩んでいるときは、違うところとはどこだと反論したくなるし、そのためにほかのことをしてごまかしても何もたのしくなく、結局劣等感を強くするだけになります。
それなら、徹底的に戦うほうが良いでしょう。二度と、同じ辛いことを起こさないためには、どうすればいいのかを徹底的に考える。このようなつらい思いは二度としたくないという気持ちを大切にするのです。
大事なことは、物に救いを求めないこと。物を追及してしまうと、依存性が生じてしまいますし、そのあまり、また破たんしてしまう事にもなりかねない。物は、変革のための道具位に考えておくのが一番で、それより大事なのは、自分の改革なのです。
徹夜明け
以前は、随筆的な要素が強かったのですが、こちらの弄齋の章は、日記的な章段です。
まあ、日常生活です。
私的な要素の強い章段になりますので、苦手なひとは、避けた方がよいかも。
今日は、というか、昨日は徹夜で作業をしていました。不思議なもので、すごく興奮してまったく寝れないときもあり、そういうときはパソコンに向かって書き続けています。頭から、次から次へとわいてくる時があるんです。
気がついたら朝の鐘が鳴っていました。
休もうと思いましたが、もう朝なのでで朝食をとりました。そのあとは急に眠気が来て、しばらく死んだように寝てました。
母が仕事から戻ってきたので、母に連れられて、図書館にいきました。膨大な本は、私の居場所。テレビが嫌いな私は、本ばかり読んでいます。
もう、読みまくります。なぜか、テレビよりは頭に入るような気がする。なんでかな。よくわからないけど、その方がよい。映像は、余分なことが多すぎで、肝心の物が見えてこない。
本は本でも写真ばかりのものは嫌いです。
事実はいろいろ解釈できてよいと思う。
限定されたらこまります。だって、文字を読んでいろいろ類推するのが、人間だもの。
図書館から戻ったら、また疲れが出て寝てました。
夢も何も見ないで、ほんとに寝てました。何時間寝ていたのかわからないくらいねてました。
夕食を食べて、再度疲れが出て、少し寝て、また今に至るというわけです。
咳の症状が取れず、痰がらみのせきと、気管がぜろぜろと鳴っているのが聞こえる。
今年はなんだか、症状が特に強いなと言うようなきがする。10年来自己免疫性疾患やったけど、年によってよい悪いは違うんですが、今年はもしかすると、裏年になるのかな。
ずっと、そうならなかったからひさしぶりです。
やっぱりずっと、友達ですね。
顔を出してくれると、症状が出るんですね。
悪友とは、そういうものです。でも、完全に悪人ではありません。私自身が間違ってることに気づかせてくれるからです。親友まではいかないけど、病気も友達の一人にしてあげたい。
今日はなんか、変な日だったかもしれない。そう思ったときは、そういう日もあるさくらいしか考えてないけど、やっぱり徹夜で仕事をすると、あまりよいことはないようです。
お気をつけくださいませ。
片時も離れず
今日から、本格的にゴールデンウィークに突入しましたね。世間では、大渋滞とか大混雑という言葉で溢れていますが、まるで観光地に縁がない私は、こんなに大量に休みがあると返って困ると思ってしまいます。それをいって何になるという方の方が多いかも知れませんが、障害がある方はわかるかも。
今日は、家族も休みなので、一日私はパソコンの前で、小説書きをしていました。
まあ、とりあえず書いていますが、私は、やっぱり現代のオンライン小説業界には向かないなと思ってしまいます。やっぱり異世界ファンタジーというものは、私にはできません。
一度、杉三シリーズとして書いたけど、なんだか、文明批評譚になってしまったし。
何て言うのかな、流行りの武器や魔法の描写というのが、本当にできません。よくあるカタカナのカッコいい名前も作れない。
書くだけではなく、読むのも苦手です。サイトに投稿された他の小説を読むことも多いですが、カタカナの中世世界風の舞台に、権力とか秘宝をめぐって、テレビゲームのような戦闘を繰り広げるものを、どうしても読破できないです。
やっぱり文学は、主人公の葛藤や、行動を読んでいき、そこに並列して成長していったり、或いは堕落していく様子を鑑賞するのが味噌だと思いますので。
最近は、そういう箇所が非常にかけている物が、多くて、なかなかよい作品が見つかりにくくなりました。
まあ、いずれにしても、苦手な分野です。
今書いているのは、本当に下手くそなものですが、人間のすれ違いみたいなものを中心にしています。
そういう方が、やっぱり描きやすい気がします。
でも、受け入れてくれる方が、非常に少ないのも事実で、まだ寸評をもらっておりません。
何かあればよいのにな、と思うんですけどね。
もし、興味がありましたら、ご連絡ください。
とにかく、自分の書きたいと言う癖はまだまだ続くようですが、どうしても、時代に流れてついていくということは、まだまだできないな、とおもってしまうのです。
そんなことを思いながら、今日も小説を書いていました。
でも、パソコンに向かって、キーをうちながらなにか書いているのは、本当に幸せであり、いつまでも続けてしまいます。咳や、血痰があっても、そんなことはそっちのけになります。だからこそ、やめられない止まらない、になってしまうのです。
荒神をみた
今日は、NHKで「荒神」というテレビドラマをやっていて、テレビは大嫌いなんですけれども、宮部みゆきの原作ということもあり、ちょっと見てみました。時代は江戸時代ですが、ある村に怪獣があらわれ、それと勇敢に闘う女性の話でした。
江戸時代に、怪獣ものは作れるのか?というところがまず疑問点でした。まあ、全体を通して見てみましたが、ただ、時代設定を江戸時代にしただけのことであり、内容的には、ゴジラ映画とそんなに相違はありません。確かに、主演の内田有紀さん扮する女性が、怪獣を作り出してしまった元凶であり、彼女が自爆しなければ、解決はできないというところが文学的ではありましたが、そこをめぐって、内紛があったりすると、もっと面白くなるのではないかな、と、思ったり、結構不満が多い番組だったと思います。全体的にいうと、単に怪獣が現れた場所を変更し、闘う武器を原始的にしただけで、ストーリー自体は、さほどかなあと言う感じ。確かに、CGで製作した怪獣の気持ち悪さと、内田有紀さんの美しさをアピールすることには成功したかも知れないですが。
確かに、テレビドラマ化は面白いのですが、原作にある面白さがぶち壊しになることがある。俳優や女優の美しさにばかり目がいってしまい、はて、肝心のストーリーは?となってしまう物があまりにも多いので、あまり好きではありません。映画化も同様です。
小説は、文字さえあれば、それでよいと思います。元々頭で想像することが、いちばん楽しめるようにできてるはずです。少なくとも、テレビの歴史より、文字の歴史の方が圧倒的に多いんですから。
そして、書くがわとしては、読んでくれている人が、すぐ想像できるような文書にすることが第一だと思います。だから、変に飾りをつけたり、かっこよくする必要はないのです。
楽譜でも同じですが、本と言うものは、いつでも本物に出会うことができるから面白いもの。琴を弾くときもそうだけど、本からでる言葉をしっかりとつかんで想像すれば、いつでもその情景に会いにいけます。だから、本の字がつくものはよいものであることが多いのではないでしょうか。もっと、文字を読む楽しみを、共有していけたらよいのにと思ってやみません。
17/40
診察
今日は、病院に診察にいってきました。
お医者さんに気になることをいって、また面倒な検査をして、再度話して、で終わり。
先日から咳が酷いのと、なかなか寝れないことを話してみました。で、採血とか画像とかやって、また話すんですが、なによりも膠原病の専門用語ばかりで、こちらにはまったくわからず、ため息がでるほどです。
そのお説教を聞かされたあとは、大量のステロイドです。やたら説教がながいわりには、薬は数種類です。理由は簡単です。合うのがそれしかないから。いろいろ試してみたけど、いずれも失敗しており、入院したりもしているから、私は追加も変更もしたくないと思い、そのままでいます。
ほんとは、もう少し飲まないといけないんですが、朝起きれないとか、いろいろ副作用が強く出て、仕事に妨げになるためにやめています。仕事ができないと、私ではなくなりますから。本当に。
かつてはペンも握れないくらい痛かったんですが、いまは、かなり減りました。というより慣れかなあ。
足を引きずって歩くのを嘲笑されたこともありますが、気にしなくなりました。出掛けるときは着物を着れば、歩きがおかしいのはあまり目立ちません。そう考えたら着物は意外に便利かも。
まあ、鐵は熱いうちにたたけで、大量の薬とか手術とかして根治する病気もあるけど、こういうものは、いつまでたっても残ってしまう。しばらく静養すれば、というものとはまた違います。もちろん、そういう物が必要になってしまう場合も多々ありますが、それ以外のときだってあります。そして、自分を評価する機能はまだ残っています。私は何もしないと悲しくなってしまう。だから、体調さえよければいろいろやってます。琴、ピアノ、作曲、勉強、、、。
何を社会に甘えてるの?なんて言われたこともあったけど、居場所を持つ権利は、あるはずだと思います。その方が、体調もかえってよくなるきがします。
終わったあとは、コンビニでお茶を飲みました。今日は、暑いからいろんな方がお茶を飲んでいました。
みんな、それぞれ違う人生を送っていますが、きっとなにかしら辛いことがあるんだろうなと思います。
そんななかで、私は生きている。
何かしたいなと思っても、できない私が、なぜか生きています。
本当に、何をしたいの?といつも自分にといていないと、この世界では生きていくには難しそうです。ほんとうに、思います。
伝統
今日は、朝起きたら朝食をとり、まず琴の練習をやりました。
曲は松竹梅。非常に難しい曲です。
時にリズムがわからなくなることもあります。
箏曲の楽譜表記は、まず洋楽とは違うため、解読が大変です。しかも、流派により書き方が大幅にちがうため、それぞれの解読が難しくなります。
同じ古典箏曲でも、流派により全然別の曲のようにみえるのもよくあります。
実は山田の古典箏曲は、出版社の倒産により、もうほとんどてにはいりません。たまに、Yahooのオークションなどで見つかりますが、欠陥品が多いため、なるべくなら使わないでいます。
だから、仕方なく生田ので代用するんですが、両者のいがみ合いがやたらひどく、山田の人は山田でやれ!という考えが強いため、あまりこれは受け入れてもらえません。でも、ないものはないと開き直って生田のを使っています。
仕方ないことですからね。
そんなわけで、いろいろな派閥の楽譜が読めるようになりました。
いまは、5種類の派閥の楽譜が解読できます。
唯一、自慢できるのはそのくらい。あとは、自慢などまったくありません。
着物はたくさん持っていますけど。
着物と言えば、楽天のポイントがかなりたまっていることに気がつきました。
いつも楽天で買うことが多いのですが、ポイントは、使わないのでたまる一方です。
最近は、インターネットで、リサイクル着物と称し、古い着物をうんと安くうる商売が流行っています。そういうのに特化した店も見かけられます。
でも、そのような実店舗では、気に入った着物があっても、裄が短いとか、おは処理が出ないとか、難癖をつけられて結局買えないことが多い。特に男性にたいしては酷い。なら、はじめっから販売するなよな、と思わざるを得ないほど、酷いことを平気で言う店員さんも多いです。
実は私も、そういうことをさんざん言われてきたので、図書館で和裁の本などを借りて、少し寸法直しを学びました。まあ、本当に下手くそですが、簡単な修理ならやってます。でも、限界があるのもまた事実。しかし、着てみたい人は大勢いるはず。だから、多少のことは気にしないで着るのが一番大事だなあと思います。
着物にしろ、琴にしろ、ちょっと柔軟になればもう少しみんなに普及するのになあ、と思います。伝統は、金持ちの老婦人のためにあるのでは、ないのです。
我が家の男性たち
今日も、朝方くらいまですごい雨がふりました。
あと、雷も鳴りました。真っ暗な中のかみなりは非常に怖いので、よく寝れなくなります。もう、ものが壊れたりするんじゃないかとか、ものすごく不安になる。
特にパソコンができないのは痛手です。
一度、雷がなっていながら無理矢理パソコンをして、パソコンが壊れたときは、大慌てでした。幸いにも、データは、救出できましたけどね。
今日は、静岡でひさしぶりに針治療をやりました。
針だからといって、バカにしてはなりません。
こういう、長い歴史が作ってくれた東洋医学も必要です。特に正体不明の病気のときはぜひ。
悪いところを直すのではなく、よい方へ回らせるという東洋医学は、すごい発想だな、と思います。
ただ、針をブスブス刺すだけですが、終わったあとは、すごくらくになります。
ああよかった、という感じ。
今日は、家族もいてくれたので、特にしなければならない家事もなくのんびり過ごせました。
我が家は、家事は女の専業という家訓はなく、祖父が洗濯物を畳んだりしますので、ちょっと異様です。
なぜか、男の癖に、縫い物が好きな人です。
ボタンとか袖直しは勝手にやってます。
料理も、魚をさばいて、天ぷらとか作っています。
なんか、とても楽しそうです。
なんですかね、仕事が大変だったからでしょうか、祖父や父の趣味はそういうところに向かいます。
金魚を飼うのが大好きな父は、水槽の掃除も頻繁にやっています。
母は、そういうところがあきれているようですが、鼻歌うたって、金魚の世話するのがとても楽しそうです。時に珍しい種類の金魚を飼って、楽しんでいることもありました。
なんか、そういうのを作った原因は、私しか子供ができなかったのに、あるのかなあと、私は自分を責めたことがありました。父は職場の部下の方の仲人をやったりもして、ご夫婦の子供さんをすごく可愛がったりしていました。
もともと、父も母も子供や家庭がすきなんですよね。
期待に応えられなかったダメな娘なのかな、とか思ったこともありましたが、基本的に誰かに何かするのが生き甲斐というのがうちの家族です。
私も同じです。世話をするというか、なんかの役にたてたらなといつも思ってしまう。それが理想なのかなと思うんですが、いまは、病気のために、申し訳ない気持ちでいっぱい。
頑張って少しでも、ありがとうと言われたい。