「今日は、ありがとう。気をつけてね」
個室から出て、かなさんがていねいに見送る。
「最後に聞いていいかな?」
僕は、低いトーンで彼女に訊いた。
「いいけど、なに?」
「僕の好きな人も、君と同じ仕事をしてるんだ。そんな人を好きになるんて僕、おかしいかな?」
苦笑いをした僕の瞳に、どこか哀しい色が浮かんでいた。
「それが、その彼女の秘密なんだね」
そう言ったかなさんの口調は、やさしかった。
「でも、そんなの全然おかしくないよ。むしろ同じ立場の目線で言うけれど、私はすごくうれしいよ」
仕事で見せる作り笑顔とは思えないほど、かなさんは頬にえくぼを作って笑った。
「ありがとう」
僕は、その言葉がたとえ嘘だったとしてもうれしかった。
*
『8月20日《土》午後8時36分』
永遠に終わらないと思っていた長い夏休みが後、数日で終わろうとしていた。美希さんは未だに店にも来ておらず、会えていない。
「夏休み終わったら、学校に来るだろう。そしたら、また会えるだろう」
淡い期待を抱きながら、僕は夏休みの宿題に目を落とした。机の上に乗っている、数枚の用紙。それと、シャーペンと消しゴム。
「はぁ」
僕は椅イスから立ち上がって、閉めていた寝室の窓を開けた。開いた窓の外からにぎやかな笑い声が聞こえ、そういえば今日は近所の地蔵盆で母親はさっき出かけたんだなぁとなんとなく思った。
「暑い」
窓の外から見える夏の夜空には、瞬く星がきれいだった。夜空には黄色満月が浮かんでおり、アブラセミの鳴き声から、ツクツクボウシの鳴き声にいつのまにか変わっていた。夏も終わりに近づいているというのに、気温にまだ大きな変化は見られない。
あれから数日後、かなさんは仕事をやめたらしい。
ホームページからも名前が消えており、彼女が風俗嬢だったことすらも一瞬で消去された。しかし、インターネット上の掲示板の書き込みは止まらなかった。むしろ、増すばかりだった。
誹謗中傷の言葉や、見ててイライラする言葉が無数にレス投稿されていた。
「夢で見たとおり美希さんの死の原因は、やっぱりこのインターネットの掲示板なのかなぁ?」
僕は、なんとか美希さんを助け出す方法を考えた。思考をめぐらせて、僕の夢が現実に起こらないように願いながら。でも、助け出す案は思い浮かばなかった。
インターネット上のスレッドの削除を思いついたが、削除の仕方がわからなかった。それなら書き込みをしている匿名者を特定する方法も頭の中で思いついたが、やっぱりそれもわからない僕はあきらめるしかなかった。
「クソ」
歯がゆい。このまま、僕の夢が現実になりそうで不安だった。しかし、どうすればいいかわからなかった。
「ただいま」
僕が苦悩している最中、母親が地蔵盆から家に帰ってきた。母親が帰ってきたのを気づいた僕は、慌てて勉強机に座った。
「ただいま、未来」
「おかえり」
母親が寝室に入って来たので、僕は短く返事をした。
「これ、地蔵盆でもらったお菓子」
「そう、ありがう」
そう言って僕は、母親から袋に入った地蔵盆のお菓子を受け取った。
「宿題はできた?」
「いや、まだ」
「じゃ、宿題やって寝るのよ。それと、クーラーのエアコンも切ってね。じゃ、お休み」
そう伝えて、母親は僕の部屋から出た。
僕は、母親からもらった地蔵盆のお菓子をひとつ食べた。そして、再び残っていた宿題に取りかかった。しばらくしてから、室内のエアコンを切って僕はベッドの上で眠りについた。
*
『8月29日午後8時20分』
長い夏休みが終わっても、結局美希さんの姿は学校にはなかった。
「はぁ」
ため息とともに、僕のふくらんだ期待が一気にしぼんだ。美希さんがいつもいた窓の方に視線を向けても、制服を着た男女が楽しそうに話していた。
「未来、久しぶり」
「ん」
後ろから声がすると思って振り向くと、美希さんの幼馴染の裕也がそこにいた。
「そんなところに、つっ立てんなよ。じゃまだぞ」
裕也は軽い口調で言いながら、自分の席に向かう。
「あ、悪い」
そう言いながら、すぐに僕も自分の席へと歩いて向かった。
夏休みに入る前に、席替えを一度した。僕と裕也の席は近いが、美希さんとは離れた。そのせいで、裕也とはよく話してしまう。
「未来、夏休みの宿題やったか?」
裕也が、机の上にカバンを置いて僕にそう訊ねた。
「ああ、なんとか」
僕は眠たそうな目をこすりながら、そう答えた。
母親に言われた日は宿題はまだ半分ぐらいしかできてなかったが、その次の日から徹夜をしてなんとか宿題を終わらせた。そのせいで、朝から眠い。
「ほんとかよ?」
それを聞いた裕也が、驚きの声を上げた。
「俺、夏休みの宿題半分ぐらいしかやってないんだ。見せてくれないか、未来」
両手をパンと合わせて、裕也は僕にお願いした。
「べつに、いいけど」
そう言って僕は、学校の黒いカバンから宿題用紙を取り出した。それを、裕也に渡した。
「ありがとう」
お礼を言って、裕也はやってない国語と数学の宿題用紙を僕から受け取って、慌ててその場で写し始めた。
ーーーーーーそういえば最初、裕也と会ったときも彼は美希さんのノートを借りて写させてもらってたなぁ。
彼とのやりとりで、僕の頭の中に美希さんの姿が浮かび上がった。
「美希さん………」
彼女が未だ姿を見せないことに、僕の心がざわざわする。
*
京都市の住宅街にある、マンションの一室で彼女は深い悲しみに包まれていた。母親は最近失った今、学校にもしばらく姿を見せていない。
「お母さん。私、もうしんどいよ」
私は仏壇の前に飾ってある、母親の遺影に話しかけた。もちろん、返事は返ってくることはない。ただただ、やさしい笑みを浮かべている母親の遺影が仏壇に飾られている。
「しんどいなら、今日も休んでもいいよ。美希」
私の弱音を耳にしたのか、後ろからやさしい声がした。
「………」
振り向くと、六つ年上の来年社会人になる大学四回生の兄の姿が目に映った。
「俺も、バイト増やすし、これ以上妹にめいわくかけるわけにはいかないからな。大学の学費も後半分ぐらいだし、ここまで払ったら俺のバイトだけで十分やっていけるさ」
私の頭に軽くポンと右手を置いて、兄が顔をクシャッと笑った。
「………」
今、やさしくされると、泣きそうになる。それが精神的に弱ってると、余計に涙があふれる。
「だいじょうぶよ、お兄ちゃん。学校は秋ぐらいから行く予定だし、仕事も後少しぐらい続ける予定」
涙をぬぐって、私は明るく笑って見せた。
「そうか?でも、あまり無理すんなよ。じゃ俺、大学に行ってくるから」
心配そうな表情を浮かべたまま、兄は外に出かけた。
「行ってらっしゃい」
私は、兄の背に手を振って見送った。
兄が大学に出かけたと同時に、ひとりマンションの一室に取り残された、私。兄はあんなやさしいことを言っていたが、週三のバイトでは残りの学費も払うことは難しい。それを知ってる私は、「もう少し、がんばらないと」と、呟いた。
私は仏壇の前に飾ってある母親の遺影に手を合わせた後、思い出の中学生の卒業アルバムを手に取った。ペラペラとめくり、私の一番好きなページを開いた。
「裕ちゃん」
私は、好きな人の名前を口にした。
それは、私と裕ちゃんが一緒の写っている思い出の写真だった。写真の中で裕ちゃんは笑っており、私は頬を赤くしていた。
「はぁ」
口から小さなため息を吐いて、私は卒業アルバムを両手でパタンと閉じた。
裕ちゃんのことは好きだが、彼に自分の秘密を知られて嫌われたくない。
「裕ちゃん。私の仕事知ったら、きっと嫌いになるだろうな………」
裕ちゃんに私の秘密をバレたことを想像したら、すごく泣きたくなった。
「でも、後少し。未来さんも私の秘密を守ってくれてるし、このままいけばきっとだいじょうぶ」
そう自分に強く言い聞かせて、あえて自分を元気づけた。