会話とお酒を二人で三時間ほど楽しんだ後、優太の帰宅時間がやってきた。

「帰るの?」

私は、優太に視線を向けて訊いた。

もっと彼と一緒にいたいという気持ちはこの時間でさらに強くなり、別れが惜しい。

「ほんとうは帰りたくないけど、母親もほっとけないんだ。なんだかんだ言って、ここまで育ててくれたからな」

母親のことを思い出したのか、優太はしんみりと言った。

優太の言葉を聞いて、私はまた自分の母親を思い出した。

たしかにお酒ばかり飲んでいて嫌悪感を抱いていて大阪の実家を離れたが、母親のことも心配するときはある。

ーーーーーーその気持ちは、わかるよ。でも、もう少し私と一緒にいてほしいなぁ………。

彼と離れるのが辛くて、私はまたわがままになる。
「今日一日、梢と一緒にいられて楽しかったよ」

目を細くして笑う、優太。

「うん、私も」

私は、ニコッと笑った。

「ほんとうはさぁ、詩織からデートに誘われてたんだぁ」

「えっ!」

優太の発した言葉を聞いて、私の心臓がドクンとなった。

「今日言いたいことがあるから、私とデートしてくれって」

優太は詩織のことを思い出しながら、淡々と私に説明する。

詩織にうそをついてることがバレると思って、私の額から嫌な汗がダラダラと流れ出した。

「そ、それでなんて言ったの?」

私は、焦った様子で彼に訊いた。

「え、べつになにも言ってないよ。今日は会えないから、また違う日にしてくれって言ったんだ」

優太は、淡々とした口調であったことを私に話す。

「私の名前、出してないよね?」

私は、不安そうに訊いた。

「出してないよ」

優太は、はっきりと言った。

「そう、よかった」

それを聞いて私は、胸をなでおろした。

「詩織より、梢が好きなんだ。だから、俺は梢と一緒にいたいんだ」

そう言って優太は、私の肩にポンと右手を置いてやさしく笑った。

「優太」

私は一歩近づいて、甘えるように彼の胸に顔をうめた。

また私は詩織から好きな人をうばった結果になったけれど、前の人生よりも幸せだった。
翌日。私は窓から差し込む太陽のまぶしい光と、うるさいせみの鳴き声で目をさました。

私はふとんをたたんで、開いてる窓に視線を移した。青い絵の具を塗りつぶしたような空がどこまでも広がっており、今日もうだるような暑さが続いていた。

ーーーーーーブルブル!

そのとき、私のスマートフォンからけたたましい着信音が狭いワンルームアパートの一室に鳴り響いた。

「きっと、昨日の優太からのお礼の電話ね」

そう思って私は、スマートフォンを右手で取った。しかし、ディスプレイに表示されていた名前は私の弟、清水翼だった。

「翼………?」

私は、弟の名前を口にした。

清水翼は、三つ年の離れた私の弟で、大阪の家で母親と実家で暮らしている。
「もしもし?」

私は、眠たそうな目をこすりながらそう言った。

『なんで昨日、電話に出なかったの?姉ちゃん』

電話の向こうから聞こえる弟翼の声は涙ぐんでいたが、その中に怒りも含まれていた。

「電話くれてたの?ごめんね」

私は、軽い口調で謝った。

昨日は優太と一日デートを楽しんでいた為、弟からの電話に出る余裕がなかった。

『昨日、なにやってたの?電話にも出られない、大切な用事だったの?』

翼は、さらに怒りのこもった声で私に訊く。

「なんでもいいでしょ。それより、用があって私に電話してきたんでしょ。早く言ってよ!」

朝から弟の翼が喧嘩腰で話すので、私は強い口調で言い返した。

『………死んだ』

電話越しから聞こえた優太の声が突然、小さくなったので私は「えっ!」と聞き返した。

『お母さんが昨日、肝臓がんで死んだんだよ』

今度は怒り声ではなく、翼は悲しそうに言った。

「え、死んだ……」

自然とつぶやいた声とは裏腹に、私は母親の死が理解できなかった。
『六月の下旬から体調を悪くしたお母さんは、病院に行って検査をしてもらったんだ。そしたら末期の肝臓がんって、病院の先生から診断されたんだ』

電話の向こうから聞こえる、翼の悲痛な叫び声を聞いて私の胸が苦しくなった。

「うそ……でしょ……」

私は、かすれた声でつぶやいた。

『うそじゃない。昨日、お母さんが俺に言ったんだ。〝死ぬ前に、梢に会いたい。大阪に戻って来てほしい〟って。なのに、どうして姉ちゃんは戻って来てくれなかったんだよ!』

「………」

『そんなに、お母さんがきらいだったのかよ!』

「………」

翼の怒り声を聞いて、私はなにも言えなくなる。

『姉ちゃんはお酒ばっかり飲んでるお母さんをきらっていたけど、あれはスナックの仕事をしていたからしかたなく飲んでいたんだぞ!』

電話越しから翼は、うったえるかけるように私に言った。

「うそでしょ………」

私の口から出た声は、ふるえていた。

お母さんが夜おそくまでお酒ばかり飲んでいたことは知っていたけれど、それが仕事の為だとは知らなかった。
『父親が残した借金をひとりでお母さんは、夜な夜なスナックの仕事をして返済してたんだ!』

「うそ……」

私はしぼり出すような声で言った。

最近、母親が毎晩夜に出かけてお酒を飲んで朝帰りしていることに嫌気を感じて、私は大阪の実家を離れた。しかし、母親が仕事のためにお酒を飲んでることなんて知らなかった。

「私たちのためだったの………?」

私は、ふるえた声で訊いた。

『そうだよ』

はっきりとした口調で、翼はそう言った。

「そんな………」

私の声が、さらにふるえる。

私の頭の中に楽しかった母親との思い出が走馬灯のようにかけめぐり、勝手に家を飛び出した罪悪感が胸をしめつけられるような思いになる。
『スナックの仕事だけでは返済できないから、お母さんは週三日、パートで事務の仕事もしてたんだ』

「‥……」

翼の言葉を聞いて、私の瞳から涙がぽろぽろとこぼれた。

私の知らないところで、母親が一生懸命がんばってくれていたと思うと涙が止まらない。

ーーーーーーお母さん、ごめんね。

私は、泣きながら謝った。

初めて母親のがんばりを知っても、私は泣くことしかできない。最後に母親に言った、『違う親から産まれたかった』という言葉が私を悲しませる。

『母親の命よりも、大事なことが昨日に会ったのかよ!最後ぐらい、帰って来てやれよ!』

怒り声を上げて、翼は電話を一方的に切った。電話が切れたのと同時に、翼の声が聞こえなくなった。
私は慌ててスマートフォンのディスプレイをタッチし、昨日の着信履歴を確認した。私の瞳に映ったのは、ずらりと並ぶ翼からの着信履歴だった。

「こんなに電話くれていたなんて………」

私は液晶画面をスクロールして、翼からの着信履歴を見た。

翼の言ったとおり、昨日は何回も私に電話をした履歴が残っていた。

「どうしたらいいの?」

私は持っていたスマートフォンをふとんの上に投げ捨て、ごろりとフローリングの床に寝ころんだ。

昨日に戻って母親に会いたいという気持ちもあるが、タイムリープすると優太とデートしたことがなかったことになってしまう。

「はぁ」

私は、困った表情を浮かべながら深いため息をついた。

窓から聞こえる、うるさいせみの鳴き声が私の耳に届く。

ーーーーーーブルブル。

そのとき、私のスマートフォンが鳴り響いた。

私はふとんの上に投げ捨てたスマートフォンを手に取って、ディスプレイに視線を落とした。
「優太」

私は、ディスプレイに表示されている彼の名前を小さな声で口にした。

ディスプレイに表示されていたのは山田優太で、彼からLINEが一件送られてきた。

私は表示されている、LINEの新着メッセージをタッチした。

【昨日は、梢とデートできて楽しかった。梢の作ってくれた、料理めっちゃおいしかった。ありがとうな!】

絵文字付きの彼からのLINEの文章を見ると、涙腺がゆるんだ。

タイムリープすると、こんな大切な思い出がなかったことになるなんて辛いとしか言いようがなかった。

私はLINEを返信せずに、彼に電話をかけた。

タイムリープしてしまったら、こんなふうに楽しく優太としゃべれるかわからないからだ。だからタイムリープする前に、優太の声が聞きたかった。