君という優しさに甘えた罰

「これは私の憶測に過ぎないけど……ハルさんにとってのつらいできごとを、全部ヒナが経験してるんじゃないかな。そしたら、ハルさんの幸せそうな性格、ヒナの悲劇のヒロイン面も納得がいく」


 唐突な考察に、私は耳を疑った。


「そんなこと……」
「ま、普通に考えるとありえないよね」


 アキのため息交じりの言葉に、小さく頷く。


「ありえないけど、そうとしか思えない。その線が濃厚だと思う」
「じゃあ……私は、ハルの代わりにつらい経験をしてきたってこと……?」


 実際に言葉にしてみると、自分が何を言っているのだろうと思ってしまう。


「で、ここで考えなきゃいけないのは、なんでハルさんとヒナが入れ替わったり、元に戻ったりしているのかってこと」


 私という存在が生まれたことは、今考えることではないらしい。
 それよりも先に、その入れ替わりの原因を究明するべきなのか。


 私には、何を優先的に考えればいいのか、わからなかった。


「これについてはハルさんの身内に聞くべきだなあ……」


 アキはそう言いながら、私の顔を見てくる。


「私、知らない……」
「言うと思った。大丈夫、私は知ってるから。今から行ってもいいけど……まずはご飯食べてくれる?」


 そう言われて、私は急いでご飯を食べ終えた。
 そしてアキの服を借りて、ハルの身内に会いに行くことになった。
「緊張してんの?」


 その人の家に行く途中、アキが意地悪い顔をして聞いてきた。


「……私にとっては、初めて会う、から……」
「まあ……そうだよねえ……」


 まだ何か言いたいことがありそうだった。
 でも、自分からそれを促すことはできなくて、私は黙ってアキの横顔を見る。


 私の視線に気付いたアキが私のほうを向く。


「今から会うのは、ハルさんの義理の弟」
「義理?」
「その辺はそいつに直接聞いてね」


 アキはそう言って足を止めた。
 そこを、私は知っていた。


「ここって、アキの……」


 彼氏の家?と続けようとしたら、両頬をつままれた。


「彼氏じゃなくて友達。高校の同級生」
「でもあの日、家にいたよね……?」
「高校の同窓会の後で、何人かでお泊り会しようってなって。あいつの家に泊まってたの」


 つまり、二人は付き合っているわけではない……


「だいたい、お兄ちゃんの恋人の弟と恋人関係になるって、なんか嫌なんですけど」


 言いたいことはなんとなくわかる。


「さ、とりあえず話を聞いてみよう」


 アキはそう言ってドアをノックした。
 鍵を開ける音がして、ドアが開く。出てきたのは当然、彼だ。
「成海、ハル……じゃなかった。今はヒナか」


 彼は私のことを知っているみたいだった。


「どうぞ」


 私たちは彼の家の中に入る。彼は一人暮らしみたいで、お世辞にも綺麗な部屋だとは言えなかった。


「成海、適当に座っといて」
「はいはーい」


 アキは慣れたように散らかった荷物を端に置き、二人分の座る場所を作った。そしてそのまま座る。
 私はもう一つ、開いた場所に腰を下ろす。


「成海っていうんだ」
「うん。成海明希。明るい希望って書くけど……私のどこに明るさやら希望があるのかっていうね。完全な名前負け」


 アキは自虐的に笑う。
 その笑顔が、なんだか気に入らなかった。


「……少なくとも、今の私にとってアキは希望そのものだよ。明るさは感じられないけど」
「なにい?」


 冗談が通じたのか、アキは私の頬を両手で挟んだ。


「いつの間に仲良くなったんだよ」


 お茶を準備していた彼が、ローテーブルにコップを並べた。そして荷物の上に座る。


「ちょっとね。で、今日は話を聞きに来たんだけど」
「ハルヒナのことか」


 お茶を飲みながら、さらっと言った。


「やっぱり知ってたんだね、津村は」
「そりゃまあ、十年以上の付き合いだし」
 二人が話しているのに、私はまだ緊張していて、黙って聞くしかなかった。


「ヒナ」


 彼に名前を呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げる。彼の優しい表情に、どこか安心した。


「こうやって話を聞きに来たってことは、自分の存在意義でも知りたくなった?」


 首を縦に振る。


「そのことなんだけど、もしかしてヒナはハルさんのつらいことを代わりに経験してたりする?」
「すごいな。そこまでたどり着いたのか。まあ……ありえないと思うかもしれないけど、実際に起こってるんだ。信じるしかない」


 ハルの身内である彼の言葉を聞いても、私もアキもその事実を受け止めきれなかった。
 そんな非現実的なこと……


「ハルが精神的ダメージを負うと、少し意識が朦朧として、はっきりしたときにはヒナになる」


 それが人格の入れ替わりということらしい。


「元に戻るのは?」
「ヒナが少しでも幸せを感じたとき。もしくはその嫌なことを忘れたとき。寝て起きたら戻る」


 アキの質問に、彼は落ち着いて答える。


 そうか……だから私には、幸せな記憶がなかった……


「ヒナ、大丈夫?」


 現実を受け止めきれていなかったら、アキが俯く私の顔を覗き込んできた。
 はじめはあんなに敵意をむき出しにしてきたのに、今はこんなに優しいなんて……少し信じられない。嬉しいけれど。
「……大丈夫」


 この流れで大丈夫ではないと言って、話を止めるわけにはいかないと思った。これ以上聞いて嫌な思いはしたくないと思ったが、それでも私が聞かなければならない話だと思った。


 だけど、うまく言えていなかったのか、アキの心配そうな表情は消えなかった。


「話、続けてもいいか?」
「ちょっと、ヒナがショックを受けてるんだから、少しくらい」


 私はアキの服を引っ張った。それと同時に、アキは言葉を止める。


「本当に、大丈夫だよ。今逃げても、仕方ないと思うし……いつか聞かなきゃいけないなら、今聞く。それに……私っていう逃げ道を潰さなきゃ、ハルはずっと嫌なことから目を背け、逃げる人生を送ることになる」


 アキに話しているうちに、少しずつ話を聞く覚悟ができてくる。これはアキに言っているようで、本当は自分に言っているようなものだった。


「私もハルも、強い人間にならなきゃいけない。だから……続けて」


 彼をまっすぐと見つめて言うと、彼は頷いてくれた。


「まず、ハルが俺の家族になったのは十二年前。そのときすでにハルの精神状態は最悪だった」
「なんで?」


 アキの質問に、彼は言いにくそうに視線を逸らす。


「……両親を……同時に失ったからだ」
 息をのんだ。そして、そのことを少し思い出した。
 誰かを失い、一人になったという孤独感。


 だから私は、一人になることに対して恐怖心を抱いているのかもしれない。


「ハルの親族はハルを引き取ることを嫌がって、施設に入れようとした。だけど、ハルの両親と仲が良かった俺の両親がハルを引き取った」


 私が話を続けてほしいと言ったのに、ずっとアキと彼で話が進む。信じられない事実を受け止めることでいっぱいいっぱいだった。


「じゃあ、津村の家に引き取られた時点で、ハルさんは……」
「もう、すべてを諦めたような感じだった。それから数日後、急に人が変わった。名前もヒナって言うし」


 二人は私のほうを見る。


「私はヒナだと思ったんだもん……」
「まあそんなことは置いといて」


 ……置いておくなら、私のほうを見なくてもよかったのに。


「俺たちは正直、めちゃくちゃ気を使った。ドストレートに負の感情をぶつけてくるヒナに、笑顔になってもらおうとした。でも、何日かしたらまた違う人になって……今度はハルって。俺はまったくもって何が起こったのかわかんなかった」


 彼でなくても、理解はできないだろう。
 こうして話を聞いている本人でも、混乱しているし。


「ハルは、ヒナのことを覚えてないみたいだった。俺の親は子供なりの現実逃避だろうって、特に気にしなかった」
 普通はそうだろう。つらいことがあったら人格が変わるなど、誰が信じる。


「でも、それ以来何度もヒナが現れた」
「……待った」


 私よりも先に、アキが手を挙げた。


「ヒナと津村は面識があったってこと?」


 彼は頷く。そしてアキは私を睨んできた。


「それなのに、私と津村が浮気って……あんたの記憶、どうなってんの」


 私だって、アキと同じことを思った。自分の記憶がここまで捏造されていて、頼りにならないとは思わなかった。


「まあでも、ヒナはたまにしか出てこなかったし、つらいことばかりだった。その記憶が大きすぎて、ほかのことはよく覚えてないんだよ」


 彼が私をフォローするように言ってくれた。


「でも、こんなに長いことヒナでいるのは初めてだ。何を感じた?」
「感じた?」
「無意味にヒナになることはない。ヒナも、少しくらい嫌なことはわかるだろ?そうじゃなかったら、自分だけがつらい目に遭ってるとは思わないだろうし」


 言われてみると、そんな気がしてくる。
 あのとき、私は……


「私に、恋人がいて……その彼が、浮気をしてるって……」
「ヒナはハルの恋人を知らなかった。だからヒナに変わった瞬間、偶然目の前にいた俺を恋人だと思い、成海といるところを見て、俺と成海が浮気をしていると思った。……たぶん、そういうことだと思う」
 動揺する私の言葉に続けて、彼が言ってくれた。


「私たちの関係を勝手に勘違いした原因がそうだとして……なんで私とお兄ちゃんが恋人同士だったとか思ってたの」
「あの人に、そう聞いた……から……」


 そう言いながら、自信がなくなった。
 本当に、あの人が言っていたのか。


 ううん、確かに言っていた。アキが、自分の元カノだと。
 今までの記憶は頼りないけど、ここ一か月の記憶は確かだ。


 だけど、私が彼が浮気をしたって話して、どうしてあの人はその浮気相手を元カノだと思うって言ったんだろう。


 私をハルだと思って私に声をかけたのなら、私の発言がおかしいと思うはず。


 彼氏である自分を目の前にして、そんな話をされたのに。誰を彼氏だと言っているのか、その彼氏の浮気相手の顔なんて、知らないはずなのに。


 あの人は……何かを、隠してる……?


「これ以上は、ハルに戻らないと何にもわからない」


 私が終わりのない思考の迷路に迷っていたら、彼がため息とともに吐き出した。
 まとまっていなくても言うべきかと思ったが、どう言い出せばいいのかわからず、私は黙るしかなかった。


 部屋は静寂に支配されてしまう。


「……ねえ」


 すると、アキが暗い声を出した。
 私と彼はアキの話に耳を傾ける。


「ヒナが感じたっていうのは、ハルさんの嫌な気持ちになったときの記憶ってこと?」
「まあ、簡単に言うとそういうこと」
「じゃあ……考えたくないけど……お兄ちゃんが浮気をしていたってことにならない?」


 アキの言うことを、私も信じたくなかった。
 ハルを重ねていたとはいえ、優しくしてくれたあの人が、ハルを裏切るような……


「……あ」


 あることを思いついた私は、自然と言葉がこぼれた。
 話すことがなくなった二人は、私が続きを言うことを待っている。


 まだまとまっていないけど、とりあえず初めから話してみようと思う。


「私が初めてあの人と会ったとき、私は彼氏が浮気をしていたって言った」
「初対面でいきなりそんなこと言ったの?」
「あの人に、声をかけられて、何があったのって聞かれて……」


 そうだ。あの日、私はあの人に声をかけられたんだ。
 あのときあの人は……どんな表情をしていた?


「お兄ちゃんは、ハルさんだと思って声をかけたんだと思う。だから……驚いていたと思う。自分の彼女が目の前で彼氏がーって言うんだもん」


 アキの言う通りだ。普通に記憶喪失になったのでは、と思うだろう。


「でも、私はそのとき、間違いなく、その浮気相手が自分の元カノだって言われた」


 この情報に、嘘はない。私の作り出した記憶でもない。
 まぎれもない事実だ。


「なんで、お兄ちゃんはそんなこと……」