「それはやっぱり、野乃ちゃん次第なんじゃないかな。野乃ちゃんが今日も鰹が美味しいと思って食べてくれてるように、心の在り方っていうか、気持ちの部分が関係してくるんだと思うよ。俺はただコーヒーを淹れてるだけだから。そりゃ、いつも美味しいコーヒーを淹れたいなとは心がけてるけど、俺だけの力じゃどうにもならないこともあるし」
「そうですよね……。あ、でも、さっき飲んだアイスコーヒー、とっても美味しかったです。まだよくわからないけど、たぶん、そういうことなんですよね」
「そうだね。そうかもしれないよね」
ふっとわずかに目元を緩める野乃に、渉も眼鏡の奥の目を細める。
野乃が自分が淹れたコーヒーを美味しいと思って飲んでくれるなら、いくらでも淹れたいと思うけれど、こればっかりは、きっと〝どうにもならないこと〟なのだろうとも思う。
「リクエストしてくれたら、いつでも淹れるよ」
言うと野乃が嬉しそうに「はい」と少しだけ声を弾ませた。
そのまま味噌汁の椀に口をつけようとして、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば渉さん、お客さんに接するときは〝俺〟が〝僕〟になるんですね。最初は気づかなかったんですけど、なんか静かなギャップって感じで、いい感じです」
「え、そう?」
「はい。接客業だってことを考えると意外ってほどでもないんですけど、使い分けてる感じが大人だなあって思えるっていうか。汐崎君なんて、初日からめちゃくちゃ慣れ慣れしいし〝俺、俺〟ってばっかり。私、ああいうタイプと仲良くなれる気がしません」
「あはは。元樹君もまた、ひどい言われようだなあ」
「笑いごとじゃないですよ。勝手に店までついてくるし、タダでコーヒー飲んでくし」
もしかして、元樹君と帰ってくるたびに野乃の機嫌があまりよろしくないのは、彼がジュースやコーヒーをタダ飲みしていくことも関係しているのだろうか。
野乃が元樹君に下したあんまりな酷評に思わず声を上げて笑ってしまいながら、渉は改めて早く野乃に心から美味しいと思えるようなコーヒーを淹れてあげたいなと思う。
でも、それは自分一人の力ではけして淹れられないものだということも、渉はわかっている。
野乃は今はまだ、答えを探している途中なのだろう。
ここでの生活や元樹君ら、ここに住む人たちと関わっていくうちに少しずつ答えが出せていけるといいんだけど、と思いながら、渉はやっと味噌汁に口をつけた野乃と同じように、自身も味噌汁をすすった。
野乃が溶いてくれた味噌加減は、自分で加減するより断然美味しかった。
渉が切った少し歪な豆腐を一つ口に運んだ野乃の「美味しい」のひと言に、渉はまた、眼鏡の奥の目をふっと細めて笑う。
「それはよかった。食べてる最中にあれだけど、明日の晩ご飯は何にしよう?」
「そうですね……渉さんは何が食べたいですか?」
「え、俺? うーん、何がいいだろう……」
それからの晩ご飯の時間は、ごちそうさまでしたと揃って手を合わせるまで、あれも美味しそう、これも美味しそうと、明日の晩ご飯の話で持ちきりだった。
三週間もすると野乃も少しずつここでの生活に慣れてきたようで、つい先週まではきっちり制服に着替えて階段を下りてきたのに、今週はパジャマの上にカーディガンを羽織った格好で朝食の席に下りてくることも増えてきた。
気を許しはじめてくれたんだろうなと思うと素直に喜ばしいが、寝起き直後の無防備なパジャマ姿を見るにつけ、渉は申し訳ないような、多少の居心地の悪さを感じるような気がするのもまた、確かである。
家族にしか見せたことのないだろう姿をこんなおじさんなんかに見せて、野乃が後々、後悔する日が来ないといいんだけど……。
などと、少々斜め方向かと思われる心配をしつつ、渉は野乃の前に焼きたてのトーストを二枚乗せた皿を置く。
テーブルにはすでにスクランブルエッグとコップに注いだ牛乳が二人ぶん、準備を整えてある。
あとは渉用にトーストを焼くだけなので、ひとまず席についてパンにバターを塗っていくことにする。
朝食は和食だったり洋食だったり、日によってまちまちだ。晩ご飯はだいたい和食が中心だけれど、ハンバーグだったりパスタだったり、洋風のものもよく食べる。
昨日は店に来てくれた〝ベーカリー堀江〟の奥さんである堀江《ほりえ》芙美《ふみ》さんから手作り食パンを一斤もおすそ分けしてもらったので、さっそく朝食の席に出すことにした。
冷凍させておけば急いで食べなくても大丈夫ということだけれど、できるだけ美味しいうちに食べようと思う。
「あ、先に食べてて。学校の時間もあるでしょ?」
律義に待っている野乃に言うと、彼女は「すみません」と申し訳なさそうに言ってから「いただきます」と焼きたてトーストにかじりつく。
ベーカリー堀江の手作り食パンは、耳までふわふわ、中はもっちりとした食感だ。
パンがちぎれたところからほうほうと湯気が立ち、渉のお腹はさらに空腹感が助長される。実に美味しそうだ。
それから四~五分ほどトースターで焼いて、渉も食パンにかじりつく。こんがりときつね色のそれからは小麦とバターの風味が絶妙な具合で混ぜ合わさっており、香りといい、味といい、とにかく最高だった。
さすがにニ十分もあれば渉もとうに朝食を食べ終え、食器を下げたついでに洗い物まで終わらせている。
しかし年頃の女の子にしては、野乃の支度は少し早いような気がしないでもない。
今の子たちはこんなに準備が早いものなのだろうか? スロースターターの渉には、野乃の準備の早さは羨ましくもありつつ、なかなかに驚異だ。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はい」
けれど、学校のほうにも慣れてきたようで、登校していく野乃の声や後ろ姿には、送り出すこちらも安心する部分が増えてきた。
いきなり環境が変わったせいももちろんあっただろうけれど、以前は少し背中が丸まっているように見えていたのだ。
しかしそれも最近ではほとんど見られず、渉は叔父夫婦に一つ面目が立ったことに毎朝ほっと胸を撫で下ろす思いだ。
元樹君の話では、やはり集団で来られるとビクビクしてしまうようなところがまだ多少見受けられるそうだけれど、クラスで少しずつ喋る相手もできてきたようで、その点では安心して見ていられるようになってきたという。
きっと少しずつ、けれど確実に野乃は変わっていっているのだろう。
彼女の保護者として、渉はそのことがとても嬉しい。
やがて開店時間の十時が近づいてくると、渉は店の表に【恋し浜珈琲店】とだけ書かれた小さな立て看板を置いた。
ドア横に掛けた【close】の札を裏返し【open】にするのも、もうすっかり習慣になっているので、月末月曜の定休日でもついいつもの習慣でうっかり【open】にしてしまいそうになったりする。
……店の鍵は開いていないのに。
「ふっ」
そんなことを思い出していると、つい笑ってしまった。口元に緩く握った拳を当て、くくっと笑い声を噛み殺す。
なんだか、野乃が来てからというもの、昔の記憶だったり印象に残っていることだったりが、ふとした瞬間に思い出されることが増えたように思う。
一人で店をやっていると、良くも悪くも決まりきったルーティンを淡々とこなすようになってしまう。それはとても気楽だったけれど、ときにはやはり寂しさが募ることもあった。
叔父夫婦が強引に野乃の転校手続きをしてくれたおかげで、そんな日々の生活に張りが出てきたのだ。
お客様以外の人を――野乃をこうして気遣えることが、今は幸せだ。
その日は、午後になってもお客様は入らなかった。
まあこんな日もあるさ、と気楽に構えながら時間になるとフレンチトーストとコーヒーで昼食をとり、さらに食後にもう一杯コーヒーを飲みながらのんびりと本を読みつつ、ひとり静かな店内で過ごした。
今日、初めてのお客様が店に現れたのは、野乃が学校から帰ってくる時間が近くなってきた頃――午後三時を少し過ぎたあたりのことだった。
今回も初見のお客様だ。
「いらっしゃいませ、ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」
カウンターの中で本を読み耽っていた渉は、ドアベルが立てるリンリンという音に弾かれるようにして立ち上がり、いつものちょっとおかしなお出迎えの台詞を口にする。
「……あの、エスプレッソをひとつ」
そう言ったお客様は、シャープな顎のラインに沿ってカットされた前下がりショートボブがとてもよく似合う、クールビューティー系の若い女性だった。
右耳のほうにだけ髪を掛けていて、少し吊り気味の涼しげな目元とややハスキーな声がクールで格好いい。
彼女は入り口に一番近い窓際の席にさっそくつき、頬杖をついて海のほうへと目を向ける。
「かしこまりました。少々お待ちください」
まず先に水をお持ちして、それから改めてエスプレッソを淹れはじめる。
水のグラスを持っていった際、彼女からはふわりと森林系というか、ウッディな香りがして、渉は落ち着くいい香りだなと思う。
香水にはとんと疎い……それ以前に、男女問わずファッションや髪型にも驚くほど疎い渉だけれど、これは男性用の香水なんだろうか。
女性がつけるにしては飾り気のない香りに、クールで格好いいという彼女のイメージが上塗りされる。
余談だが、前下がりショートボブやクールビューティーなどの言葉は、野乃が読んだまま忘れて部屋に持って上がらなかった彼女の雑誌から、つい最近学習した。
渉個人の性格のせいもあるのだろうけれど、男一人の生活では最近の若い子のファッションに鈍感になってしまうのも無理はない、といったところだろうか。
思い出して雑誌を取りにきた野乃に「……そういうの読むんですね」と驚かれたのは三日ほど前の出来事である。
それはともかく。
「お待たせいたしました、エスプレッソでございます」