「うん、そうだね。知世もどこかでそれを読んでくれているといいんだけど。こればっかりは、そうあってほしいって願うしかないね。……ああ、もう。最後の最後まで知世に振り回れっぱなしの恋だったなぁ。次にするなら振り回す恋じゃないと、なんか俺的に納得がいかないよ……。でもまあ、振り回されるのは俺の性分なんだろうけどさ」
「じゃあ、どっちが先に恋人ができるか、勝負しません?」
すると、たはは……と苦笑している渉に思わぬ挑戦状が叩きつけられた。
目を瞬く渉に野乃は不敵に笑って「もしかして勝つ自信がないんですか?」と煽り立てる。
お互い、新しい恋をしようと思えるようになったことは大進歩だ。
でも。
「ちょっとそれは聞き捨てならないね。俺が本気出せはすぐだよ、すぐ」
こんなに煽られて。しかもまだ十六歳の女子高生に胡乱な目を向けられて、大人しくしていられるわけがない。
モテないこともないのだ、渉は。……狭い範囲でだけれど。
「本当ですか? なんか若年寄っぽいんですよね、渉さんって。本当にすぐできます?」
「……なっ!」
「ほーら。そうやってすぐに言い返せないところが気弱っぽいんですってば。汐崎君なんか、どんなにやり込められても、うーうー言いながら、それでも野乃、野乃って二言目には懐いてくるんです。渉さんも頑張らないと、汐崎君にも先越されちゃいますよ」
「やめてよ、それだけは本当に嫌なんだけど……」
「あははっ!」
思わず頭を抱えると、野乃が声を上げて笑った。
でもまあ、野乃に恋人ができるということは、同時に元樹君にも恋人ができるということ(野乃さえOKなら、そして渉は父親のように立ちはだかってやろうと思っている)なのだろうから。
それをまだ知らない野乃には、今のうちにたっぷり笑っていてもらおうと思う。
――と、リンリン。
「ちょっとちょっとー……。なんなんだよ、野乃。一緒に帰ろうって言ったのに先に帰りやがってさー。めっちゃ自転車漕いだわ、めちゃくちゃ漕いだわ……」
涼しげに鳴るドアベルの音とともに、制服のワイシャツの襟元にパタパタと空気を送り込みながら元樹君がやって来た。
しばらくすると嘉納さんと三川さんもフーフーと赤い顔をしながら現れて、元樹君の姿を見つけるなり「漕ぐの早すぎだから!」「あんなの普通に追いつけないよ~……」と、ぶーぶー文句を言いはじめた。
「はい。二人にもオリジナルブレンドのアイスコーヒーね。急いで追いかけてきたんならなおさら喉が渇いたでしょう。今日はほんと、真夏みたいに暑い日だから」
すかさず二人にも、野乃と同じコーヒーを出す。元樹君はすでに二杯目に口をつけていて、すっかり小さくなって中の氷に助けを求めていた。
なんだか不憫な図である。もしかしたら元樹君も渉と似たタイプかもしれない。
でも、たぶん男は総じて〝女性〟という生き物にあらゆる面で弱い。渉もよーく学習済みだ。
それはともかく。
「一気に賑やかになりましたね。これじゃあ、ゆっくり感傷に浸る暇もありませんね」
「うーん。でもまあ、感傷なら二年間も浸ってたからねぇ。もうそろそろ飽きたよ。これからは、これくらい賑やかじゃないと。野乃ちゃんたちを見てると元気が出るし」
カウンターに寄りかかって三人を眺める渉にコソコソ近づいてきた野乃と、そんなやり取りをする。……本当にそう思う。心から。
野乃が来てくれたおかげで変わった、店の中の風景。雰囲気。渉の心。野乃の心。そのどれをとっても、この店にとって必要な変化だったのだと思う。
「それならよかったです!」
言って、野乃が三人のもとへ駆けていく。
その眩しい背中に、渉はいつものように眼鏡の奥の瞳をふっと緩めた。
本格的な夏のシーズンを迎え、恋し浜はたくさんの観光客や海水浴客で連日大いに賑わいを見せるようになっていた。
野乃の発案で、今年は恋し浜海水浴場に直接出向いて冷たいコーヒーを売ろうということになった渉は、店内のお客様への対応に、海水浴場のお客様への対応と、目が回るほど忙しい。
おかげさまで売り上げは去年の今時分とは比べ物にならないほど上がっている。いや、店をはじめてからの最高記録を毎日更新中だ。
――が。
「ごめん野乃ちゃん。ちょっとだけ……一瞬だけでいいから休ませて……」
リンリン、とドアベルを鳴らして売り子から戻ってきた野乃に、渉はへろへろの笑顔で頼み込む。
ずっとコーヒーばかりを淹れ続けているので、カウンターの内側は戦場だ。元樹君たちが手伝ってくれる日もあるが、あいにく今日は三人揃って補講で壊滅的に人手が足りない。
どうやら三人は、それぞれにうんと苦手な教科があるらしい。テスト前にあれだけ額を突き合わせて勉強していたのに、その努力は点数に現れてくれなかったようだ。
「えー? 何言ってるんですか、たっぷりオーダーを取ってきたんですから、ちゃっちゃと働いてください。お客様が待ってるんです、あのギラギラの真夏の太陽の下で!」
しかし野乃は、びしっと店の外を指さすと、無情にもオーダーを取ったメモ紙をカウンターに並べていった。
ものの見事にアイスコーヒーだらけ。店内にいるとわかりにくいけれど、今日もとびっきりの真夏日だ。冷たいものが飛ぶように売れていく。
「う……それはさぞかし冷たいコーヒーが美味しいよね。わかった、もうすぐお昼時も過ぎるし、そしたら野乃ちゃんもちゃんと休憩しよう。午後にはみんなも応援に来てくれるんだよね? それなら野乃ちゃんは店の中で洗い物を中心に頼むよ」
見違えるように明るく、そして強くなった野乃に気圧されつつ、時計で時刻を確認しながら午後の予定も組み立てていく。
幸い三人とも一教科だけだ。補講が終わったその足でお腹を空かせながら来てくれるだろう。それまでに賄いの準備もしておかなくては。
わかりました、とにっこり笑って、野乃がしばしの休憩にカウンター席に腰を下ろす。
しかしコーヒーが揃うとすぐに席を立ち、また軽快にドアベルを鳴らして真夏のギラギラ輝く太陽のもとへ飛び出していった。なんだかこの頃の野乃は弾丸っぽい。
「ふふ」
でも、それが本来の野乃なのだということは、渉もよくわかっていた。思わず笑い声を漏らしてしまいながら、ずいぶん頼もしい背中になったなと渉は思う。
「はは。野乃ちゃんらしいや」
この調子だと店のメニューに口を出してくるのも時間の問題なのではと思い至って、ますますおかしくなってしまう。
例えば、スイーツを置いてみたらどうかとか、ラテアートのバリエーションを増やしてみたらどうかとか、想像するだけで面白い。
夏休みの間だけじゃなくアルバイトさせてほしい、なんて言い出すかもしれない。野乃はお客様の心を解きほぐすのが上手だから、きっとそういう面でも頼りにしてもらえるだろう。
「……ああ、いい天気だ」
洗い物からふと顔を上げ、窓の外の青空に目をやる。
空はどこまでも抜けるように澄んでいて、すぐ近くの砂浜から、海水浴客たちの楽しそうな笑い声が海風に乗って渉のもとまで運ばれてくる。
どこにでもありそうな海沿いの小さな町。海を間近で臨めるその場所に、まるで絵本の中から抜け出てきたような可愛らしいログハウス風の店がある。
店の名前は【恋し浜珈琲店】。
地名にどんな商売をしているのかをくっつけただけの、なんの捻りもない店の名前だけれど、渉はこの名前がとびきり気に入っているし、そこからはいつもコーヒーのいい香りが潮風に乗って漂い、失くした恋を抱えた人を優しく導いてくれていることを知っている。
店員はひとり。二十代後半で、黒髪で痩身で眼鏡で。下宿人の女子高生に尻に敷かれているような、なんとなく生涯を通して振り回される感の漂う渉だ。しかも朝に弱い。
そしてもうひとり。今は夏休み限定のアルバイトだけれど、そのうち絶対に本格的に働きだすつもりでいるだろう、パワフルな女子高生の野乃だ。
彼女には気の置けない友人が三人いて、彼らも野乃が大好きだし、野乃も本当に気を許している。
その中の一人の男の子は、野乃に気があるようだけれど……どうなることか。
今の『恋し浜珈琲店』は、こんなにも賑やかなメンバーで構成されている。
――リンリン。
そのときまた、店のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」
渉は、空から目を戻してカウンターの奥からにっこりと笑いかける。
「……あの、失恋を美味しく淹れてくれるって聞いてきたんですけど」
「はい。ここは恋し浜珈琲店ですから。美味しく失恋を淹れて差し上げます。もしよろしかったら、可愛い相談役にお話ししてみてはいかがでしょうか。僕なんかよりずっと頼りになる子なんですよ。一期一会だと思って、ちょっと考えてみてください」
そう尋ねたその人に、渉はまた、ふっと笑った。
もう少ししたら、きっと野乃が元気な笑顔を咲かせて戻ってくる。
【終】