どこにでもありそうな海沿いの小さな町。海を間近で臨めるその場所に、まるで絵本の中から抜け出てきたような可愛らしいログハウス風の店がある。
店の名前は【恋し浜珈琲店】。
地名にどんな商売をしているのかをくっつけただけの、なんの捻りもない店の名前だけれど、そこからはいつもコーヒーのいい香りが潮風に乗って漂う。
店員はひとり。二十代後半の、黒髪で痩身で眼鏡がよく似合う男性だ。
リンリン、と来客を知らせるベルが鳴れば、彼は眼鏡の奥の柔和な瞳をふっと細めて、
「いらっしゃいませ、ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」
カウンターの奥からにっこりと笑いかける。
今日もまた、コーヒーを飲みに来た客が、ひとり。
「――あの、失恋を美味しく淹れてくれるって聞いてきたんですけど」
「はい。ここは恋し浜珈琲店ですから。美味しく失恋を淹れて差し上げます」
そう尋ねたその人に、彼はまた、ふっと笑う。
五月の薫風が爽やかに木々の枝葉を揺らす頃。新緑の間を吹いてくる、その快い風に黒い髪を遊ばせながら、外舘《そとだて》渉《わたる》はホウキとちり取りを手に店先の掃除に勤しんでいた。
掃除はいつも、カウンターの中や流し台、仕事道具であるコーヒーミルやコーヒーカップ、店内の床に客席テーブルや窓はもちろんのこと、椅子の裏まで入念にしている。
けれど今日からは遠縁の親戚にあたる宮内野乃《みやうちのの》が、店舗兼住宅である【恋し浜珈琲店】で下宿をはじめることになっている。さらに入念に掃除しておくに越したことはない。
高校二年生、誕生日は十月の終わりだそうだから、まだ十六歳。
そんな年頃の女の子を藪から棒に下宿させてほしいと頼まれたときは、滅多に声を張ったりしない渉もさすがに「ええっ?」と電話口で大きな声を出してしまった。
しかし、野乃の下宿を頼んできた遠縁の叔父の話によると、理由は話さないからわからないが高校に入学して半年ほどした頃から急に不登校になってしまい、野乃の父親である叔父も、母親も、どうしたらいいかわからない状況がここ半年ほど、ずっと続いていたのだという。
そんなとき、部屋から出てきた野乃が、ふと言ったのだそうだ。
「親戚に珈琲店をやってる人がいるでしょ、あそこの町の高校なら、行ってもいい」と。
部屋から出てくれるならなんでもいいと思った叔父夫婦は、さっそく渉に野乃の下宿を頼み込み、ちょっと考えさせてくれませんかと返事を保留にしている間に勝手に転校手続きを済ませ、そうして今日、野乃を単身、ここに送り込んでくることとなった。
あまり人の話を聞かないのは、外舘の血筋の者にはよくあることだ。良くも悪くも、思い立ったら即行動に移すところも。渉もその辺はもう諦めている。……でも。
「どうしたもんかなぁ……」
リクエストしてくれたのは嬉しいけど、と渉は頭を掻く。
野乃がうんと小さい頃、盆や正月に親戚一同で集まったときに数回会った程度の自分のことを覚えてくれていたこと、今、恋し浜で珈琲店を営んでいることを知って頼ってくれたことは嬉しいが、もうかれこれ十年以上会っていないのだ。
心の面も含めて野乃の扱い方だってわからないし、自分はもう、けっこうなおじさんだと自覚している。
あの頃は渉はまだ高校生で、野乃は幼稚園児だった。
五歳かそこらの子供と十六~七の高校生では当然話なんて合うわけもなかったけれど、酔っぱらった親戚たちに早々に疲れてしまった渉と野乃は、よく休憩と子守りを兼ねて縁側で遊んだものだ。
それから十年以上経った今、野乃はあの頃の渉の年齢になった。けれど渉は、高校生の頃、どんなことが好きで、何をやって過ごしていたか、けっこう忘れてしまっている部分も多い。
それに野乃は女の子だ。きっと、どんなことが好きかも何をやって過ごすのかも全然違うに違いない。そういう点で渉は朝からひどく困っているのだった。
――と。
「あの、渉さん……ですか?」
ふいに背中から呼びかけられて、渉ははっと我に返った。振り返ると、背中の真ん中あたりまでだろうか、長く伸ばした黒髪をさわさわと風になびかせたひとりの少女が、じっと渉の返事を待っていた。
――野乃だ。十六歳の。渉は彼女の両手と肩に重々しく提げられているバッグやキャリーケースに目を留め、そう直感する。
それに、よくよく考えてみれば、この辺で渉のことを名前で呼ぶ若い人はいない。三十歳手前の身としては恥ずかしいのだけれど、「渉ちゃん」と親しげに名前で呼んでくれるのは、たいていが店の馴染みの四十代から上の世代の人たちだ。
「いらっしゃい。野乃ちゃん……でいいんだよね? ずいぶん久しぶりだね」
「はい。今日からお世話になります。最後に会ったのは、十二年くらい前のお盆です」
そっか、もう干支が一回りしちゃってたんだね、なんて言いながら、渉は野乃の荷物を預かり、バッグを自分の肩に掛け直す。
すみません、と小さく呟いた野乃に、キャリーケースも預かるよと言うと、彼女は「これは引いて歩くだけなので」と遠慮した。
「そう。じゃあ、とりあえず店の中に入ろうか。言ってくれたら駅まで迎えに行ったんだけど、歩くとけっこう遠かったでしょう。今、冷たい飲み物を出してあげる」
「はい」
眼鏡の奥で目をにっこり笑わせると、いくぶん緊張も取れたのか、渉に続いて野乃が店内に入ってくる。
今日は五月晴れだ。朝から夏のような太陽が恋し浜を照らしている。
両手にキャリーケースを引く野乃に店のドアを開けておいてやりながら、言葉少ななのは、ついこの間まで不登校だったからだろうか、と渉は考えた。
十二年前と今を比べても仕方がないけれど、幼稚園児だった頃の野乃はよく笑う子だったのに。
下宿が決まってから――叔父夫婦が勝手に転校手続きを済ませてしまったので、引き受けざるを得なくなったともいう――からは、野乃も自ら荷物をまとめたり、必要なものがあれば買いに出かけていたそうだけれど、その佇まいにはやはりどこか陰がある。
初冬に張る薄氷のように、触れれば簡単に割れてしまいそうで、渉は少し怖い。
「はい、カルピスソーダのミント添え。今日みたいに暑い日には、こういう涼やかなものを目で見て涼むのも風流だよね。炭酸がまだ効いてるうちにどうぞ」
バッグを適当な場所に置くと、野乃に好きな席に座るように促し、渉はさっそくカウンターで飲み物を作った。
彼女が待つ窓際のテーブル席に運ぶと、野乃はそう言って笑った渉を見て、それからミントが添えられたグラスを見て、ほんの少し表情を和らげる。
ちなみにカルピスソーダは渉の調合だ。あまり炭酸がきつくならないように、微炭酸に調整したつもりだ。ミントも、もともとここに生えていたものを使わせてもらっている。
数年前までは空き家だったものを気に入り、購入したのだ。店舗用の一階部分は、渉がほとんど自分で改装した。二階はこの家を買ったときのまま使っている。
前の人はものを大事に扱う人だったようで、目立った傷も痛みもなく、むしろ木のぬくもりがとても心地いい。店や生活に必要なものは知人に安く売ってもらったり、家具の処分に困っている人から譲り受けたりして、なんとか店の形になった。
開店して丸二年になる。
「……美味しい」
ぽつりと感想を落とした野乃に、渉は満足げに笑う。どうやら、カルピスの味も炭酸の効き具合もちょうどよかったようだ。グラスの中で揺れるミントの緑が目に涼しい。
「珈琲店だから、コーヒーしかないのかと思ってました」
「そんなことはないよ。小さいお子さんを連れてくる人もいるし」
「そうなんですね。私、まだコーヒーの美味しさがわからないから。……コーヒー牛乳なら飲めるんですけど、無理にブラックに慣れようとしたら、お腹痛くなっちゃって」
「はは。そんなこともあるよ。缶コーヒーとかだと、けっこう癖のあるブラックもあるから。自分好みのブラックかどうかは、飲んでみないとわからないしね」
「……そうですよね。でも、どっちにしろ、私にはまだ早かったみたいです」