ギンガムチェックとりんごパイ

 一日の授業からようやく解放されると、学校全体が、わやわやと一気に浮き立つ。

 部活へ向かう生徒、帰宅部の生徒、特に意味もなく教室に残って友人たちとだべる生徒もいれば、課題の提出を忘れて居残りを余儀なくされたり、先生に捕まって雑用を押し付けられてしまう運の悪い生徒もいる。


 もちろんここ――蓮丘《はすおか》高校でも、おそらくは全国共通だろう高校生たちの放課後が、チャイムの音とともにはじまっていた。


「あ、外周行くとこだ」


 九月も下旬にはなったものの、まだ日中は若干、暑さの残る秋風にセミロングの髪をなびかせながら、小松《こまつ》香魚《あゆ》はぽつりと呟く。

 教室に誰もいなくなったのをいいことに、そそくさとベランダへと出て校門前のロータリーを眺めていた香魚は、つま先立ちをして転落防止の柵から少し身を乗り出し、二十人はいるだろう大所帯の先頭を凛と背筋を伸ばして走っていく黒い頭を目で追う。


「剣道着で外周とか、なんて眼福……」


 眼福という言葉は、つい最近覚えた、香魚の中での高度な日本語だった。中高生の恋愛を主に描いたケータイ小説から得た知識で、機会があれば自分も使ってみたいと思っていた、いわば憧れの日本語のようなものだ。
「この間までは暑かったから、Tシャツにハーパンだったもんなあ。秋って最高」


 またひとりごちて、校門前をだらだらと帰っていく帰宅部の生徒を追い抜いていく隊列を見送る。

「蓮高、ファイ!」「オー!」という、野球部にも引けを取らない掛け声を響かせながら校門を駆けていく黒い隊列は、校門前のなだらかだがそこそこ長い坂道を颯爽と下り、あっという間に小さくなっていく。


 彼らが進む両隣には黄金色《こがねいろ》に色づきはじめた稲穂が重そうに首《こうべ》を垂れ、稲刈り時を待っている。そこから少し視線を前方に向ければ、まだ夏の名残りが残る山の緑が、青空との絶妙なコントラストを醸し出していた。


 空には柔らかそうな雲が泳ぎ、ピチチチと鳥が飛んでいく。もっと上空には鷹《たか》だか鳶《とび》だかが大きな翼を広げて旋回していて、のどかだなあと、この時季は特に香魚はそう思う。


 どこにでもある地方の田舎風景。セーラー服はかろうじてまだ夏服だが、そろそろ朝夕は肌寒くなってきたし、ちょっとダサい。ほかの女子がそうしているように、香魚も紺色やキャメル色をしたダボダボのカーディガンを羽織ってはいるけれど、なんだか自分だけダサさが増幅されたような気がするのは、気のせいだろうか。


 学校にいる間はなぜか妙に落ち着かない気分になってしまうのもまた、この時季特有の香魚の心理状態だ。
「あ、まーた見てたな。そこから見るくらいなら、第二体育館に行けばいいのに」


 四角く区画された田園の中の道を右に折れていった剣道部を眺めていると、背中から唐突に声をかけられ、香魚の肩はビクリと跳ね上がった。振り返ると、斜め後ろにはいつのまにか友人の河西《かさい》優紀《ゆうき》が立っていて、にやにやとにやついた顔を香魚に向けていた。


「優ちゃんか。びっくりしたー……」

「なにもびっくりすることないでしょ。私は普通に声かけただけなんだから」


 そう悪びれる様子もなく言って肩を竦める優紀は、香魚の中学の頃からの親友だ。お互いに性格はわかりきっていて、変に気を使うこともないので、一緒にいるととても落ち着く。ダボダボのカーディガンだって、優紀と一緒なら不思議と自分に対してのダサさは感じない。堂々と着ていられる。


 教室の中にいる優紀は、掃除の時間から開け放たれている窓枠に頬杖をつき、香魚と同じように緩やかに吹き込む秋風にわずかに髪をなびかせる。彼女の前髪がふわりと音もなく揺れて、サイドの髪が頬を撫でる。
「秋だなあ、とか思ってたんでしょ?」

「うん。今日は剣道着で外周に行くみたいで、秋は眼福だなあって思ってた」

「なにそれ。てか、そこから見てわかるの? みんな同じ格好だし、ちょっと遠いじゃん」

「わかるよ、背格好とか頭の形で!」


 香魚の力説をよそに、ふーんと、さして興味もなさそうに遠くの山の稜線をなぞるように視線を移す優紀は、香魚の友人の中で唯一、彼女の想い人を知っている。


 一松《いちまつ》悠馬《ゆうま》――それが香魚の想い人だ。


 彼は香魚や優紀と同じ二年生で、先のとおり剣道部に所属している。出身中学も三人とも同じで、中学三年時、悠馬が蓮丘高校を受験するつもりらしいという噂を小耳に挟んだ香魚は、悠馬を追いかけるようにして、ここを受験することに決めたのだ。


 もともと蓮高を受験するつもりだった優紀には、不純な動機だと散々言われたし呆れられもしたが、だって好きなんだから仕方がない。中学時代から通算四年に渡って片想いをしている香魚には、同じ高校に通えていることも、遠くからではあるが、こうして悠馬の姿を眺められることも、奇跡に等しいのだ。
「そんなことより、もうすぐ夜行遠足だね。香魚、今年こそお守り渡しなよ」

 毎年毎年、一向に変わり映えのしない田舎の風景を眺めるのも飽きたのか、ふいと教室に体ごと反転させながら優紀が言う。


 夜行遠足とは、蓮高の伝統行事だ。

 夜行の名は、男子が歩く距離――105キロメートルを夜通し歩くことから由来している。女子はその翌日の早朝から一日をかけて43キロメートルの道のりを歩く。

 ゴールはそれぞれ、碁石《ごいし》と南和《なんわ》。


 道中では卒業生や近隣住民からの差し入れがほどこされ、保護者やボランティアが夜行遠足の安全を陰からサポートする。また、有志による豚汁などの炊き出しや休憩所も各所に設けられ、疲れた心と体を癒してくれる。


 十年ほど前に生徒が事故に遭い、一時は中断していたが、卒業生や在校生からの復活を望む熱い声が上がり、ルートの見直しを計ったり、ボランティアの人数を増やしたりと、よりいっそうの安全対策を施し、再び開催されるようになったのが、七年前だ。


 そして、この夜行遠足は、蓮高生にとってバレンタインより重要な行事である。

 好きな男子にチョコを渡すのと同じ原理で、本命の男子生徒に赤のギンガムチェックのお守りを渡すのが、昔からの習わしだ。
 誰がはじめたものなのか、いつからそうなのかは香魚にもわからないが、夜行遠足には意中の相手に赤のギンガムチェックのお守りを渡すというのが、蓮高女子の伝統になっている。しかも手作りなのだから、どれだけ本気かが嫌でも相手に伝わるのである。


 それともうひとつ。

 お守りといえばりんご、というのも、よく知られている伝統だ。


 男子の中で完歩できた生徒だけがもらえるそのりんごは、過酷な道のりに反して、たったのひとつ。それを見事ゲットし、後日、お守りをくれた女子にお礼として渡すのが、蓮高男子のホワイトデーのお返し、ということになる。そして女子は、そのりんごのお礼にアップルパイを焼き、一緒に食べるのだ。


 なんて胸キュンする行事なんだろう!

 小学生のときにたまたま知り、以来、漠然とした憧れは持っていた香魚だったが、いざ自分がその年齢になって実際に体験する側になると、その憧れはますます強くなっていくばかりだった。悠馬と同じ高校まで追いかけてきたのだから、なおさらである。


 ただ、本命のお守りを渡せば必ずりんごが返ってくるというわけではないのが、この行事の切ないところだ。
  自分の本命の相手が、本命お守りを何個ももらうような人気のある男子だったり、完歩率五十パーセントという過酷さゆえに途中リタイヤを余儀なくされてりんごがもらえなかったりと、お守りをもらう男子のほうにも、状況に応じてりんごを返せない理由が発生する。

 また、アップルパイを一緒に食べれば自動的にカップルになれるというわけではないのも、この行事のある意味、残酷と呼べる部分である。

 香魚にはよくわからないが、きっとそういうことだったのだろう。過去には三年連続で同じ男子生徒に本命お守りを渡し、三度目でようやくアップルパイを一緒に食べることに成功したが、それっきりなにもなかった、というなんとも悲しい結末を迎えた先輩もいたというから、なかなかシビアな世界だ。


 まさに青春。まさに命がけ。

 蓮高伝統の夜行遠足は、そうやって幾多の汗と笑顔と失恋の上に、今年も無事、開催される運びとなっているのだった。


「今年こそ渡しなよ、って……。優ちゃんは軽く言うけど、こっちは命がけなんだよ。そう簡単に渡せたら苦労はしないよ」


 夜行遠足のあらましを思い出し、香魚は自分の両腕を抱いてぶるりと身震いした。