味見では普通だったけど、冷めて辛くなったのかな。
筑前煮をとって食べてみた。その味はいたって普通。甘辛くて美味しい。辛すぎるということはない。今までの彼氏にだって辛いと言われたことないのに、誠司さんの口には合わないのだろうか。
食べながら考えてるうちに、眉間にしわが寄っていたようで、誠司さんが慌てて、大袈裟すぎるほどに手を横に振った。
「ちゃう、ちゃう、カスミの味付けが悪いんやない。しゃーないねん」
必死になって言ってくれてるのは伝わるけど、その意味がわからなくて、首をかしげた。
誠司さんは苦笑する。
「カスミのせいじゃないって言ったねん。これがカスミの生まれ育った味やろ。俺は大阪育ちやから、どうしてもこっちの関東の味付けは濃く感じるねん。お出汁も効いてないやん」
その言葉がストンと胸に落ちた。
「そっか。関西って薄味なんですよね。お出汁も使って」
「せやな。まあ、おせちは傷みにくいように濃いめの味付けにしてたと思うんやけど、それでもうちのはもうちょっとだけ薄かったねん。俺はそれが普通やけど、こっちの人には関西で食べた飯が味せえへんかったって言われたことあるし、好みは人それぞれなんやけどな」
誠司さんはそう言いながら、寂しそうな顔で笑う。わたしは胸が痛くなった。
気づいてしまった。
彼はこのおせちを食べたいんじゃない。本当に食べたいのは故郷の味。実家のおせちなんだ。
故郷の味なら、どんな顔をして食べるんだろう。
トクンと小さく胸が鳴った。
その顔を見てみたい気が……する。
会ったばかりの人に、しかも、ついさっきまで別の彼氏がいたというのに、こんなことを思うのは変だ。自分で自分に戸惑う。
「関西の味じゃないけど、それでも食べてもらえて嬉しいです。ありがとうございます」
「俺やなくて、彼氏が食べてくれてたら一番やったねんけどな」
「そう……ですね」
眉間にしわを寄せて「重い」と言った健吾の顔を思い出して、わたしは俯いた。
「でも、仕方ないんです。21歳の男におせちは重いんですって。家庭的すぎて、結婚をせかしてるみたいに思われたのかも」
「彼氏、大学生か?」
「はい」
「そうか。遊びたい盛りやしな。彼女がおせち作ったら、ひくんかなぁ」
誠司さんはまた卵焼きを食べながら、首を傾げた。
「俺みたいに32歳にもなった男なら、逆にうれしいんやけどな。一人暮らしが長いから、家庭的な料理も食べる機会少ないねん」
「そっか。じゃあ、今度は誠司さんみたいな彼氏を作ります」
顔をあげて、今度はきちんと笑った。
「なんやしんみりしたし、酒でも飲んでええか。おせちって言えばやっぱ酒やしな」
「うん、もちろん」
「おっしゃあ!」
誠司さんは嬉しそうに片膝を打つと、立ち上がってキッチンへ消えた。
すぐに戻ってきたその左手にはグラスが二つ、右手には一升瓶が握られてる。瓶をテーブルにドンと置くさまを、目を見開いて見た。
てっきり缶のビールかチューハイをもってくると思っていた。酒ってそのまま日本酒のこと?
誠司さんは重そうな瓶を片手で器用に傾けて、グラスに注いだ。
「はい」
「へ?」
透明な液体が並々に入ったグラスを差し出された。
それが何を意味するのかわかり、すぐさま首と手を大きく横に振る。
「わたし、日本酒なんて飲めないよ」
お正月のお屠蘇が大嫌いなせいもあってか、日本酒を飲んでみようなんて思ったことすらなかった。
普段飲むのはチューハイやカクテル、それも甘くてジュースみたいなやつだ。アルコールの味がすると、顔をしかめてしまうほど苦手なんだ。
「まあ、まあ。そう言わんと、一杯だけでも付き合ってや」
グラスを手に押しつけられ、中身がこぼれそうになったものだから、咄嗟に受け取ってしまう。
そのグラスと誠司さんの顔を交互に見る。
にっこり笑った誠司さんに負けて、仕方なく飲むことにした。
とはいえ、ゴクリとなんて飲めないから、ちびりちびりと舐めるように口に含んだ。
舌に広がる辛さに顔をしかめる。もう一度舐めるけど、やっぱり同じ。
しばらくわたしの様子を見ていた誠司さんもお酒をあおった。
「すごっ……! お酒、好きなんですね」
「ああ、うまいやん。酒はなんでも好きなんやけど、今日は正月やからな、正月らしく日本酒や。カスミの作ってくれたおせちは和食ばっかやから、やっぱ日本酒が一番うまいで」
「そんなもんですか」
誠司さんがあんまりおいしそうに飲むものだから、勇気を出して、一口ゴクッと飲んでみると、あまりに濃いお酒の味にびっくりした。辛くて、喉が焼けるようだ。
ビールの苦みもまずいと思ったけど、日本酒はもっと嫌いかもしれない。
お酒の味をごまかすために、急いで甘い卵焼きを口に放り込んだ。ひと噛みすると、すぐに嫌な味が甘さで和らぎ、ホッとした。
誠司さんと一緒においしく飲めないのは申し訳ないけど、こればかりは仕方ないよね。
わたしは小さく息をつくと、早くグラスを空にするために、息をとめて、残りを一気に飲んだ。
次に気付いたのは、頭の痛さだった。ズキズキと締め付けるような痛みを感じる。
枕の位置が悪いのかと、ごそごそ動いてみるけど、頭を動かせば強く痛み、とても寝苦しかった。
息を吐くと、その匂いがすごく臭いことに気づく。
にんにくとは違うこの匂いは、何?
それに、どうしてこんなに頭が痛いの。
頭痛もちではないので、その痛みに違和感を感じる。
痛みでこれ以上寝ることは無理なんだから、起きて薬を飲んだほうがいいと思うのに、目がすごく重くて、まぶたは開かない。
眠い。
寝たい。
でも、痛いし臭いしで寝られない。
さっきからその堂々めぐりだ。動くと痛いのに、ひょっとしたら頭と枕の位置で治まるかもしれないという望みは捨てきれなくて、ゴロンと寝がえりをうった。そのとき、手が何かに当たった。
「イテッ」
「え?」
どこかから聞こえた声に驚き、あんなに重たかったはずのまぶたが開いた。
ぼやけた視界が広がる。次第に輪郭を形作り、すぐ前に男の顔があらわれた。
しかし、頭の中には霞がかかったような状態で、思考が定まらない。
自分の状況がのみこめないまま、なんとなく、その頬に手を伸ばした。ザラリとした感触を指先に感じ、一気に頭が覚醒する。
「な、なんで!?」
ベッドに手をついて体を起こし、隣で寝ている男を見下ろした。
男もまだ完全に起ききってないようで、「うーん」とうなりながら、目を擦っていた。
この人は――誠司さんだ。
昨日の記憶とその顔が一致する。
一緒におせちを食べて、勧められるままにお酒を飲んで――そこまでしか覚えてない。
わたし、寝てしまったの?
部屋の様子をうかがうと、電灯はついていないのに窓から差し込む光で部屋は明るい。
昼過ぎに誠司さんと出会って、それから食べていたんだから、何時に寝てしまったのかは覚えてないけど、その日のうちに起きたなら空は暗くてもいいはず。冬は暮れるのが早い。
ということは、日が明けてしまったのはほぼ間違いない。今は何時なんだろう。
ベッドの上からぐるりと部屋を見回すと、本棚のマンガの前に小さな青い時計が置かれていた。
目をこらして見ると、針は9時45分すぎだ。
いつもよりはずっと早くに寝てしまったはずと考えれば、かなり寝過ぎたのかもしれない。
それにしても、どうして寝てしまったんだろう。日本酒を飲んだから?
……何もなかったよね。
隣の誠司さんを見ると、彼はグレーのトレーナーを着ているし、わたしも違和感がないから、ただ寝ていただけだとは思うんだけど。
それでも不安になって、自分の格好を確認してみるけど、服は着ていた。昨日と同じで、おかしいところはない。
布団から抜け出て、立って全身を見る。
スカートは少し皺になってるけど、出歩けないほどじゃない。寝相の良い自分に感謝だ。
一通り確認し終わったちょうどそのとき、物音がして振り返ると、誠司さんが起きていた。
わたしは誠司さんに声をかけた。
「……おはよう、ございます?」
語尾が上がったのは、上半身を起こした彼が腰を折り曲げて、掛け布団の上に突っ伏したからだ。
「誠司さん?」
覗きこむように見ると、「んん」と小さなうなり声が聞こえた。起きたというより、まだ頭は半分寝ているのかもしれない。
朝に弱いのかな。
寝ぐせのついた髪を見て、口元が緩んだ。
それにしても、本当に何もしなかったんだ。男なんていざというときは信用できないと思っていたけど、ちゃんと誠実な人もいるのね。
心が何か温もりで満たされていく。
誠司さんを起こさないようにそっと頭を上げると、頭に痛みが走った。こめかみをおさえ、顔をしかめる。
わたしの動く気配に気づいたのか、誠司さんがベッドの上でもぞもぞと動き、薄く目を開いてわたしを見た。
「……おはよ。どうした、頭が痛いんか」
「ええ。痛みで起きてしまって」
「二日酔いやな、大丈夫か」
「……二日、酔い?」
これがそうなのか。いつも酔いすぎないようにセーブして飲むので、二日酔いになったことはない。
ん?
「もしかしてさっきから何か臭いのって、わたし、酒臭いんですか?」
腕の匂いを嗅いでみるが、よくわからない。
「臭うほど飲んでないはずやけど、水を飲まずに寝たら自分の息が臭く感じることはあるで」
誠司さんはベッドから抜け出すと、部屋の隅にある棚へ向かった。
棚に置いていた小ぶりの透明なケースを持って、こっちに戻ってくる。彼は歩きながらケースを開けると、薬の箱を取り出した。
「ほら、飲んでおけや。頭痛薬や」
箱から2錠出してわたしに渡すと、今度はキッチンから2Lの水のペットボトルとグラスを取ってきて、それらも渡してくれる。
「ついでに水もたくさん飲んどき」
「……ありがとう」
わたしはベッドに腰かけて、グラスに水を注ぐ。
「昨日は俺も悪かったわ。あんなに酒に弱いと思わんくて」
それを聞いて、どういう顔をすればいいかわからなかった。
誠司さんは謝りながらも、その顔は悪いと思っているように見えない。わたしの飲み方に呆れたのかもしれない。
そう思うと、その謝罪を素直に受け入れるわけにはいかず、首を横に振った。
「ううん。一気に飲んじゃったわたしが悪いし」
「せやな。日本酒なんてそこそこ度数高いのに、まさか一気飲みするとは思わんかったわ」
そう言う誠司さんは、口では意地悪を言ってるのに、顔は笑っていた。それが幼く可愛く見え、ドキッとする。年上に可愛いっていうのも何だけど。
「に、日本酒なんて初めて飲んだから、どれだけ強いかなんて知らなかったの」
「いや、何も割らずに飲むんだから、それなりに強いってのは想像つくやろ」
「だって、カクテルやチューハイしか飲んだことないし」
顔を背けて、「もういいでしょ、別に」と早口でまくし立てると、薬を飲んで、水もお代わりをしてごくごくと一気に飲む。
わたしは年下と付き合っていただけあって、大人っぽい姿よりも子供っぽい姿に弱いのかもしれない。
誠司さんの、黙ってるときの男くさい外見と、時々見せる子供のような表情とのギャップに驚かされる。
鍛えられた大きな体だから精かんな印象だけど、よく見れば、切れ長より丸っこい瞳で、童顔なのかもしれない。
「ああ、そういや、カスミの携帯が何度も鳴ってたで」
「え?」
ドキンとした。
「あ、ありがとう」
教えてもらったお礼を言って、かばんを探す。
胸が早鐘のように動く。
かばんはおせちを食べたテーブルの側で見つかり、携帯を取り出した。
画面が暗いままの携帯を見つめる。
着信履歴を見たくない。
そんな考えが浮かび、そう思ってしまう自分が不思議だった。
このタイミングで何度もとなると、十中八九、昨日別れた健吾からだろう。もし、健吾のアパートを出てすぐに電話をくれていたなら、今頃は仲直りして、元サヤにおさまっていたと思う。
一人になることが苦手なわたしは、一言でも謝ってもらえたら折れてしまう。
健吾のことを好きじゃなかったと気づいても、一人でいることに比べたら、誰かといることを選んでしまうんだ。
でも、どうしてか、今はそんな気になれなかった。
元サヤに戻りたくないと思ってしまっている。だから、電話には気づかなかったふりをしたい。
結局、携帯を開かないまま、かばんに戻した。
「おい、かけなおさんで、ええんか」
声をかけられて初めて、自分の行動を誠司さんに注視されてたと知り、顔をあげた。
「電話の相手、彼氏か親御さんやろ。何も言わんと泊まったから、親御さん心配してるんや――」
「心配してくれる人なんていません」
誠司さんを遮ったわたしの言葉は、自分でもかたい声だと思う。震えないように、わざと低く力の入った声を出した。
「両親も親しい親戚もいません。わたしは一人です」
誠司さんの顔は見れなくて、その後ろを睨みつけるように見ていた。
それでも、彼が息をのんだと気配でわかった。
「電話はたぶん元カレですけど、今は連絡をとる気にならないので」
視線をおとし、前髪を触りながら、うすく笑った。
「……だからか」
「だからか?」
何が『だから』なのかわからなくて、オウム返しに問うた。
「いや、料理な。和食作れる若い女の子なんて、今どき珍しいやん。俺の今までの彼女はせいぜいオムライス、焼き飯レベルや。おせちなんて、たとえ本を見ながらでも、よう作らんと思うわ」
「両親が事故で亡くなったのが高校2年のときで、それから一人で生活してきましたからね」
仲のよかった祖父母は先に他界していたし、他の親戚は遠方に住んでいて、ろくに会ったこともなく、その家族の一員にはなれなかった。
ただ、奨学金とバイト代だけで学費と生活費をまかなうことは厳しかったので、卒業までのお金は出してもらった。
それだけでも、十分にありがたい。
高校を卒業後は今の会社に入社して、がむしゃらに働いて、生活してきた。
「やっぱり外食は高くつくので、食費を浮かすために、もう8年くらいはずっと自炊してます。そりゃあ、多少はうまくもなりますよ」
「うん、いいんやないか」
そらしていた視線を誠司さんに合わせる。
「そういう生活を恥じる必要はないやん。俺やったら、彼女がうまいご飯作ってくれたら嬉しいし、やっぱ嫁さんも下手よりうまい人がなってくれたらいいやろうなって思うで」
その言葉に救われたと感じた。
誠司さんの顔を見つめる。
こういう人のそばにいたい。誠司さんがわたしを好きになってくれたら――。
「さてと」
誠司さんの声で我に返って焦る。
わたし、今、何を考えてたんだろう。会ったばかりの人だというのに。
会って1日で好きになった経験はなく、自分で自分に戸惑う。
「腹減らへん? どっか食べに行こか」
誠司さんはトレーナーを脱いで、よく鍛えられた肌を出した。
ほどよく厚い胸板、割れたお腹、引き締まった腕。
マッチョというよりはカッコいいと思えるような、ほどほどの筋肉がついてる。細マッチョというやつだろうか。
わたしは思わず、誠司さんの体をじろじろと見てしまった。
「スポーツ、好きなんですか」
あまりに体がすごいから、話しかけられたこととは関係ないことを訊き返していた。
「ああ、我ながらすごいやろ」
こっちを振り向くと、胸をパンと叩いた。
「触ってみるか、硬いで」
「え」
さ、触る?
「ほら」
腕を取られて、胸へもっていかれる。
そっと触れた胸は温かく、そして硬かった。
「うわ、すごっ」
思わず何度も押すように触る。
健吾の胸はこんなに硬くなかった。胸ってこんなに硬くなるの?
「やろ?」
誠司さんは嬉しそうにはにかんだ。
「俺、体動かすんが好きでな。暇な日はジム行ったり、平日もここで簡単な筋トレしてんねん」
そう言うと、誠司さんは箪笥から黒いセーターを取り出し、着替えた。
「んで、何が食べたいんや」
「良かったら何か作りますよ」
ベッドから立ち上がると、持ったままだったグラスと水をキッチンに持っていく。
「作るって、冷蔵庫の中には何もないで」
グラスを洗おうと蛇口に伸ばしかけた手を止め、振り返る。
「何もないの?」
「ああ」
「えーと、開けてもいい?」
わたしは2ドアの少し小さめの冷蔵庫を指さして訊いた。誠司さんが頷いたので、冷蔵庫の大きい方のドアを開けて中を見た。
……なんだ、この冷蔵庫は。
そこには、缶ビールがぎっしり詰まっていた。
冷蔵庫の中がほぼいっぱいになる量ということは、1ダース以上ありそうだ。
ビール以外のものは醤油やソース、ケチャップ、マヨネーズといった調味料の類に、水のペットボトル、牛乳などで、食材は見当たらない。
誠司さんの言った通りではあるけど、本当に何もないのも珍しい気がする。
そういえば、いつの間にか片付けられているから忘れていたけど、昨日はキッチンにカップ麺の空カップや弁当の空き箱があったんだった。
本当に全然自炊してないんだ。
「ねぇ、ちゃんと家でご飯を作らないと、体に悪いよ」
振り返って誠司さんを見る。
彼は着替え終わっていて、ジーンズを穿いていた。
「作らなって言われても、ろくに作ったことないから、一人ではよう作らんよ。実家にいるときにも、料理の手伝いをしたことないねん。それに、仕事終わりで疲れてるときに自炊する気おきへんし」
誠司さんは頭をかき、視線を宙にさまよわせた。その姿を見て、そっと溜息をつく。
「とにかく、おせちを食べてもらって、泊めてももらったから、そのお礼も兼ねて、今日は何か作るわ。今からスーパーで食材を買ってきて、余ったものはわたしが家に持って帰るから」
「マジで!? ありがとう」
わたしが言い終わるより一息早くのタイミングで、彼がわたしの手を取った。
その顔はとても嬉しそうに輝いてる。そんな顔をされると、わたしまで頬が緩む。
「買い物行って、作ってだから、朝ごはんと言うより昼ごはんになっちゃうけどね」
「それはしゃーないよ。もう10時やしな。久々にのんびり寝てもうたわ」
その言葉にクスッと笑いをもらした。確かに、どう考えても寝過ぎだった。
誠司さんが何時に寝たのか知らないけど、わたしはアルコールの影響なのか、疲れがたまっていたのか、1日の半分は眠っていたはずだ。
「それじゃ、車出すから、一緒に買いに行くか」
「うん、ありがとう。じゃあ、洗面台借りるね」
荷物を一人で持つよりは楽だから、ありがたく乗せてもらうことにする。
彼氏の家に泊まるつもりでかばんに入れていた化粧ポーチとフェイスタオルを持つと、誠司さんに洗面所の場所を教えてもらった。部屋を出てすぐ左の扉だ。
洗面所は、右側手前に洗濯機、その奥に鏡と洗面台、一番奥に浴室の扉がある。
鏡を覗き込むと、目の周りのアイライナーやマスカラがとれて、パンダのような目になっていた。
「……ひどい顔」
化粧は薄いほうだと思うけど、昨日は久々に気合いを入れてメイクしたせいか、化粧くずれがひどい。
これを誠司さんに見られたのかと思うと恥ずかしい。
幸い、ポーチにはメイク落としが入ってる。落とせばいいんだ。
メイクと一緒に、健吾との思い出もすべて流し去ってやる。
何度も何度もすすぎ、フェイスタオルで顔を拭いた。
そうして現れたのは、腫れぼったい顔をしたノーメイクの自分。ため息をつきたくなる。
誠司さんを待たせてはいるけど、むくんだ素顔を見られるのも嫌だ。軽く化粧はしよう。
粗は隠したいけど、誠司さんには散々情けない姿を見られているので、彼氏の前でしていたようながっつりメイクである必要はないだろう。
ささっと薄化粧をして、誠司さんの元へ戻った。
入れ替わりで、誠司さんは洗面台へ消える。
わたしは今のうちにと思い、かばんを持ってトイレへ向かった。
「誠司さん、トイレ借りるね」
「おお」
昨日はトイレの場所を聞かずじまいだったけど、キッチンの向いのドアを開けると、思った通り、そこがトイレだった。
扉を閉め、かばんから替えの下着を取り出す。
彼氏でもない男性の家で下着を脱ぐことは抵抗を感じるけど、同じ下着を身につけているのも嫌だ。
下着をかえてトイレを出たあとは、何食わぬ顔で上着を羽織って待った。
ほどなくして、誠司さんが戻ってきた。
はねていたはずの髪の毛はワックスで整えられている。
彼は用意の整ったわたしを見ると、「行こか」と促して背中を向けた。