実際、出版してお金をもらうことは無かったことに気づいた。妹はこんなに自分のことを信じてくれている。ありがたい存在だ。

咲は、今日の作品は妹とアメリカで出会ったノーマについて書いてみようと考えついた。

ノーマと犬の顔:
”「見て、この犬の顔が虫に食われて、変でしょ?」そう言うと、ノーマは顔の部分が欠けている油絵の犬を見せた。
咲と美里は顔を見合わせた。そして、繕うように、「そんなこと気にしないほうがいいですよ」と言った。いつになく、ノーマは気分が沈んでいるようで、帰り際にも名残惜しい気がした。「ノーマ、近いうちにまた会いに来るから、元気でいて下さいね」そして、これがノーマに会った最後の午後だった。

「お姉ちゃん、やっぱりあの油絵の犬の顔が虫に食われたのは、お知らせだったのかもね」「そう思いたくもなるよね。あれから半年しない内に亡くなったんだもんね」ノーマはいく枚かの油絵を咲と美里に残していたが、どの絵も完璧な状態で、虫などに食われていなかった。ノーマが不吉に思ったことも不思議ではない。ノーマはボランティアで犬の里親募集を手伝っていた。自分でも行き先の見つからなかったサムという犬を預かっていた。ノーマが飼っていたヨーキーのクッキーはノーマが88歳で亡くなった後、娘のキャッシーに引き取られた。

ノーマは高齢にもかかわらず、車も運転していたし、おしゃれで、料理上手な女性だった。最後に会った時、「もう料理が作れなくなった」と珍しく弱気なことを言っていた。彼女に招かれると、素敵なフランス料理の雑誌を参考に作ったお料理をご馳走してくれた。出かける時もいつもオシャレで自慢の友達だった。アメリカ人の友人は片手で数えるほどしかいない咲にとってこんな素敵な友人に恵まれたことは奇跡だった。咲がアメリカに住んだのは半年しかないのに、犬を通じて知り合ったのだった。預かった犬の散歩中に出会ったので、”犬も歩けば棒に当たる”だ。

ノーマは、若い頃はあだ名が”ザ・ボディ”と言う程スタイルの良い女性だった。メキシコのティファナに半年住んでいた時は、メキシコ人の美男子にバラの花束をプレゼントされたそうだ。その上、新聞社で働くキャリア・ウーマンでもあった。
「サンディエゴで女性で家を買った一番最初の女性として男の人からも嫉妬されたのよ」と話していたから、先駆者としての苦労も経験していた。
彼女の家はレモン色が好きだったノーマの趣味を反映して、黄色い家だった。庭には、レモンやオレンジの木が植えてあり、実がなると咲たちも良くもらったものだった。

咲は、ノーマにもう一度会いたくなり、友人の久子が降霊術をやってくれると申し出たので、飛びついた。死んだ後どうしているのか知りたかったのだ。美里も誘うつもりだったが、反対されそうなので今回は一人で、久子の住むエンシニータスに向かった。久子は、幼少期から霊感が強く、声が聞こえたり、タロットカードで占ったりするのが得意だった。彼女は時に通訳をやっているので、咲は働いている会社にこの友人が通訳として来たのがきっかけで知り合った。久子は、少したどたどしい日本語を話す。それが、外国っぽくて魅力的だった。

久子は、アパートに着いた咲にハーブティーを勧めると、降霊術は日暮れを待って始めると告げた。霊を降ろすせいか部屋はきれいに片付けられ、お香でも炊いたのか、リラックスするいい香りがした。フルーツと花もお盆に備えられていた。咲は精霊に向き合うためお清めの代わりにシャワーを浴びてさっぱりさせてもらった。食べ物もこの降霊術前は軽くするように勧められて、野菜や果物中心に軽く済ませていた。久子の透き通るような声が歌のような美しい呪文を唱えると、
「今からサンディエゴに住んでいて、2月に亡くなったM通り135番地ののノーマ・ブレナンさんに来ていただきます」と続けた。
咲は目をつむって一生懸命ノーマの姿を思い浮かべようとしていた。久子の前には、咲が持ってきたノーマの写真が置かれていた。

「咲、久しぶり、元気にしてる?」どうやら、ノーマが来たらしい。
「ノーマ、どうしてる?今はどこにいるの?」
「お花畑よ。そばにきれいな川が流れているわ。ここは快適よ」
「ノーマ、懐かしくて、とても嬉しい。犬は、クッキーはキャッシーが面倒を見てるから安心して下さいね」
生きているときは英語で会話していたのに、今ノーマと日本語で会話しているのが不思議だった。
「あなたに黄色いワンピースをあげたかったのに、渡せなくて残念だったわ」「良いんですよ。そのお気持ちだけで、嬉しいですから」ノーマは生前から黄色のワンピースをくれると言っていた。最後にお邪魔した際に探してくれて、見つからなかったことを死んだ後も気にしてくれていたのだ。

「私は本当に日本人と、ユダヤ人は素晴らしいと思ってるわ。あなたたちは頭が良いから、尊敬しているわ」
これは、ノーマがいつも言っていたことだ。久子にはこのことは何も話していないから、このセリフはノーマが良く言っていた言葉だ。
「ノーマ、あなたがいなくなって私も美里も寂しいです。でもアメリカであなたに知り合えて本当にラッキーだと思います」
「私は、ここからいつも咲と美里を見守っているから、頑張ってね」
咲は涙で何も言えなかったが「ありがとうございます」と涙と鼻水に悩まされながら、やっとの事で言えた。
「そろそろ、さよならだけど、私たちの思い出を忘れないでね」咲は頷き、セッションが終わった。

セッションが終わると、
「あ!あの絵の話をし忘れた」と犬の顔が虫に食われた話をすることを忘れたことに気づいた。でもあまりにも不吉な出来事だったので、忘れて良かった。せっかく、ノーマと久々に話せるのだから楽しいことだけ話せば良い。久子はセッションで疲れたのか、「眠い」と言って先に眠ってしまった。咲はセッションでの会話を何度も反芻していた。ちょうど一人でその余韻に浸れて良かった。

次の日の朝、折角なので近所の美味しいベーグル屋で朝食を採った。
「久子さんは、いつから降霊術をやってるの?」
「大学の時からかな?」と久子は思い出しているようだった。
「そうそう、声が聞こえるようになったのは、中学の時だけど、大学の時降霊術の教室に通って、その後ね。最初は同級生に頼まれてやっていて、正式にお金を取るようになったのは社会人になって3年目くらいかな」
「ねえ、本当に今回は無料で良いの?この朝食代は私に払わせてね」
久子は黙って頷くと「次回からは正規料金でお願いね。30分50ドル一時間100ドルね」と微笑んだ。二人はしばらく会っていなかったので積もる話もあったが、今回は降霊術の話に花が咲いて時間が足りなかった。名残惜しい気もしていたが、時間が来たので帰らなくてはならなかった。

咲は次の週末まで美里には会えなかったが、美里に会ってノーマの話をしたくて仕様が無かった。
「お姉ちゃん、例の降霊術どうだった?怪しいことに巻き込まれないでね」美里にはメールで降霊術でノーマと話したと伝えていたので、開口一番その話になった。
「すごいよ。ノーマが日本語でメッセージ送ってきた。あれは絶対本人だった」「へえ、どんなことが?」咲はノーマと美里しか知らない内容を霊が話したことを妹に教えた。
「それって、偶然じゃないの?」やはり、その場にいなかった美里には半信半疑だったようだ。
「それで、お姉ちゃんいくら払ったの?」
「ただにしてくれた。次回は正規料金だって」
「気をつけてよ。これでその降霊術にはまり込まないようにね」妹の現実的なセリフは想定内だったが、この辺でこの話は切り上げたほうが良さそうだった。

咲はノーマとこれ以上話す必要はないと美里を安心させ、
「ノーマは私と美里を見守ると言ってくれたよ」と伝言を伝えた。この経験はベーグル代で済んだことも忘れずに美里に伝えると、
「でも、あの犬の顔が虫に食われたのは不思議だったね」と美里は言った。
「虫の知らせ、かな?ノーマさんもさすがに恐ろしがっていたよね」美里の家にはノーマの描いた白アザラシの絵が掛かっていた。
「あの絵だけだったね、虫が食ったのは」人は時として天からのメッセージを受け取るのかもしれない。知ることが良いのか悪いのかは別として。”

書き終えると、咲はあることに気が付いた書いていると亡くなった友人もまるで生きているような感覚になることだった。
「そうか、死んだ人と会えるのは降霊術だけではないか」
そう思うと、自分の大好きなノーマのことについて書くことは幸せな作業に思えてきた。うまくいけば、ノーマのことがもっと多くの人に知ってもらえる。

咲は去年会社で起こった事件について書いてみようと思った。それは、30になって間もない1人の男性についてだった。

差出人不明の迷惑メール:
”そのメールは、迷惑メールとして届いていた。金城はもう少しで削除するところだった。
「桜の花が散る。寂しいことです。」
と書いたメールの差出人は”X”とサインがあったが、金城には心当たりはなかった。

昼休憩に、同僚の今野に相談した。
「変なメール来なかった?」
「今朝は、忙しくてメールチェックしてないよ。で、どんな内容のメール?」
金城はそのメールが、何かを告げているようだと言うと、
「気になるんなら、課長に相談すれば。」
「それほどの事もないから削除する。」
そろそろ午後1時になり、休憩も終わる。その場は、それで終わった

金城は、その午後は配達物を届ける用事で外出し、午後4時頃、席に戻ってきた。すると、今野が寄ってきた。
「おい、聞いたか?」
「なんだよ。」
「お前の今朝のメール、どうした?」
「なんで、気持ち悪いから消したけど。」
「死んだらしい。」
「え!誰が?」
「しばらく会社休んでた井上君だよ。噂では、自殺らしい。」それだけ、言うと、今野は自分の席に戻って行った。

井上と言うのは、若手で期待されていた真面目そうな男で、負荷が高かったその部署での仕事に疲れ、休業していた若手だった。金城は、顔見知り程度で、よく知る相手ではない。
会社ではストレスから休業する社員が後を絶たない。
金城は、「若いのに可哀想に」と思いながらも、「もっと状況を詳しく知りたい」好奇心も感じていた。あのメールが、井上の親しい者宛に来ていたら、自殺との関連性も考えられるが、井上と金城は口を聞いたのも2、3度程しかない。
「あのメールは削除して良かったんだ。」と金城は思った。

想像通り、狭いオフィスに幾つかのグループで噂話に花が咲いている。単調な作業の毎日には時として、こうした刺激が必要だとでも言うように、噂は会社を活気付けてくれる。
「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、結婚話は退屈な部類で、不倫もの、左遷ものが人気の種だった。いつになく、秘書の女性たちも活気を帯び、そういう類に混ざることが、金城も女性の輪に入れる機会でちょっぴり楽しくもあった。

「ねえ、金ちゃん(秘書は金城をこう呼ぶ)、井上くんの話聞いた?最近会社休んでたよね」
業務上、守秘義務を持つこの女性(陽子)は、低く小さな声で話しかけてきた。”守秘義務”これこそが最大のスクープネタなのだ。
「いや、ちょっと外に出ていたから。何があったの?」念のため、向こうの情報を聞き出してみる。
「それがね…」やはり、今野と同じ情報だった。唯一違うのは死因については、公表されていないようだった。
金城はもう少しでメールのことを話しそうになったが、なぜだか、言うのを躊躇った。陽子は口が硬い方ではないので、言いふらされるのを恐れたのだ。過去にも尾ひれをつけた情報が社内を駆け巡り、面倒な事件に幾つか巻き込まれていた。

午後一番で、部署全員35人が会議室に召集された。死んだ井上の上司だった課長が言った。
「今日は、悲しいお知らせです。病気で休業していた井上くんが1週間前、亡くなってしまったことをお伝えしなくてはなりません。彼はとても仕事熱心な若者で、素晴らしい仲間でした。」
代わって、部長がスピーチをした。「他の部署への多言は無用なので、くれぐれも注意してください。」
黙祷はなく、この会議が口止めのためであることは、明白だった。一人の人間への最後のお別れの意味などどうでも良いのだった。あるのは、サラリーマン特有の”保身”だった。

金城はその後、メールを受け取ることはなかった。心のどこかで、以前は会社に対して抱いていた理想や忠誠心が自分の中にないと感じた。
金城自身も、「仕事ができない」と言われて死んでしまいたいと思った過去はないとは言い切れなかった。でも死んで尚、あの上司たちがのうのうと生きていくことに何の変化ももたらされない現実を見せられた今、「図太く生きてやろう」と闘志がわいていた。

井上の死にモヤモヤしたのは、金城一人ではなかった。休憩室の片隅で内緒話をする際、飲み会でプライバシーが守られた状態の中で、少しずつ、仲間は心の内を語る。

結局、最後まで、あのメールの送り手は分からず仕舞いだ。

この事件後、あの時会議で話した部長は副社長に就任し、課長だった男は次長になった。人が死のうと、企業の中ではインパクトは無いようだった。

金城は春になり、桜が咲く度、散っていった30歳の命を思い出す役を背負ったようだった。

他人事には思えなかった。”

咲はこの事件に憤りを感じていた。井上と書いた人物は、部会で咲を一度手伝ってくれたことがあった。とても丁寧な仕事ぶりで、気遣いのできる感じの良い人だった。咲はお礼に彼の席までチョコレートのかかった柿の種を持って行った。「井上君、あの柿の種食べてくれたのかな?」
ふと、そんなことを思った。

「あ、あのエピソードも書いてみよう!」
記憶が記憶を呼び覚ますように次の作品に取り掛かった。それは、那覇に旅行した時、井上君のあの事件を思い出させる不思議な体験をした話だった。

高い志:
”「行ってらっしゃいよ。折角なんだから」
M夫人は咲に旅行に行くことを勧めた。気分転換になるから、との理由だった。
「でも、会社を休んでいるし」実際、お金を使うのももったいない気もしていた。
「10周年の記念なんでしょ。会社からも多少補助が出るんでしょ?記念になるはずよ」

咲は、M夫人と会ったその足で、旅行業社のカウンターに向かった。
「どこに行かれますか?」
ちょうどその朝ニュースで沖縄県知事選が話題になっていた。地下鉄では安室奈美恵の引退が雑誌のタイトルになっていた。
「では、那覇行きを。2泊3日で今週末でお願いします」
こうして咲は那覇に行くことになった。なぜか行ってみたくなったのだ。

セントレア空港は黒いTシャツの若者たちが咲と同じ那覇行きのゲートにいた。そのTシャツには”高志保青年団”と書かれていた。
「奇遇ね。井上君と同じ名前だわ」
井上と言うのは咲の会社の同僚で”高志”と言う名前だった。彼は病気で休業中、何度会社が連絡しても出てこようとしなかった。最終的に自宅で亡くなっているのが先月、分かったところだった。

「ご両親が高い志を持つ子に育てようとしていたのね。若いのに可哀想に」と会社でも噂になっていた。
偶然とは言え、彼の名前に似たTシャツが目に入った時はドキッとした。咲は
「この青年のためにも会社と戦おう」と思っていた所だったのだ。

フライト時間になり、席に着く、隣には人の良さそうな、爽やかな容姿の男性が座った。咲は尋ねた。
「ご旅行ですか?私は初めてで、観光なんですけど」
男性はちょっとびっくりしたようだったが、
「友達の結婚式で名古屋に来たのですが、那覇で働いています」と快く答えてくれた。そして、出身は熊本で、仕事は那覇だと教えてくれた。
「失礼ですが、どのようなお仕事ですか?」さらに聞くと。
「労働基準局の監査官です」との返事だった。
「生まれて初めてです。労働局の監査官には今まで一度も会ったことがありません」喜ぶ咲に、男性はどのような経緯で監査官になったかを話してくれた。

「もしも、大学生が監査官になりたいと相談してきたら、どのようなアドバイスをしますか?」と咲が調子に乗って、問うと、
「会社と争って、経済的にも苦しい相談者に寄り添える人になってほしい、と伝えたいです」との返答が返ってきた。
咲はこの男性の考え方に感銘を受けた。
「あなたのように誠実な方が監査官をやっていると分かっただけでも、この旅は素晴らしいです」と告げると、名も知らぬ男性は嬉しそうだった。

こんな感じで、おしゃべりをしていたので時間はあっという間に過ぎ、那覇に着く時間になっていた。男性は名前を教えてくれたが、今では咲はもう忘れてしまった。一期一会である。

それにしても、偶然とは不思議で、”高志”と書いたTシャツの人々に会ったり、会社とトラブルになっている最中に労働基準局の監査官に会ったりするなんて神様のシナリオは出来すぎている。

那覇の街は咲の行ったところがある場所では、どことなく台湾を思わせる気がした。すれ違う人々は普段名古屋で見かける人たちより異国情緒を感じさせる。彫りの深い顔立ちだった。どことなく生活に疲れた様子も漂っていた。

街角では県知事選の選挙活動をしている人が呼びかけをしている。咲はモノレールでホテルのある駅にたどり着いた。

ホテルのフロントで「この近くに郷土料理を食べられるお店ありませんか」と聞くと、ホテルの目の前にある有名店を教えてくれた。行ってみると観光客がよく来る店らしく、テレビ取材に来た芸能人のサイン色紙が飾ってあった。咲は、沖縄そばと豚の角煮を注文したが、値段は結構高く、二品で2000円もした。

次の日の朝、小雨の中、ホテルを出ると、バスターミナルへと向かった。ひめゆりの塔へ行こうとしたのだ。
「糸満バスセンターで次のバスに乗り換えてね」
案内所の女性に教えてもらい、1台目の糸満バスターミナル行きのバスに乗り込んだ。

朝の通学バスのようで高校生がたくさん乗っていた。雨はどんどん激しさを増す中、咲は那覇の景色を見ようと思った。糸満に着くと雨は止んでくれていた。乗り換えのひめゆりの塔行きのバスまで、まだ一時間半もあったので、海を眺めて過ごそうと歩き出した。

バスターミナルの隣はとても立派なお屋敷でシーザーが二匹屋敷を守っていた。その向かいは海で覗き込むと熱帯魚のように綺麗な魚が泳いでいた。
「なんだ、これなら水族館に行かなくてもいいや」などと思いながら釣り人を見たりして時間をやり過ごした。まだまだ時間が余っていたので、ターミナルから反対側に少し歩くと、ちょっとした食堂を見つけた。

「いらっしゃい」と明るい笑顔の女性が招いてくれたので、
「飲み物だけですけど、良いですか?」と断り、大丈夫だったので、食堂に入った。
ハーブティーが海風で冷えた体にはぴったりなようだったので注文し、大きな水槽のある部屋に落ち着いた。この食堂は、釣り船も出しているそうで、その日は凪で船は出していないとのことだった。メニューにはシャーク・フライ、つまりサメのフライもあった。食堂にはガイドブックの他、琉球王朝についての本も置いてあったので、それに目を通したりすると、バスの時間が来た。そこで、ターミナルへと戻った。

入り口に花束を売っていたので、1束買うと慰霊碑に供えた。修学旅行のグループが案内係りの説明を受けていた。一面に亡くなった女学生や先生の写真が飾られていた。涙なしには見れなかった。乙女たちの写真と一人ひとりの性格などを読んでいると、彼女たちがよりリアルな存在として浮かんで、若くして戦場で命を失ったことが改めて分かった。
「あなたたちの死を無駄にはしませんから」とつぶやいていた。こんな無残な無意味な死を作った戦争が憎く、何もしてあげられない自分が悔しかった。

帰り際、少女が2人母親らしき女性に伴われて入っていくのに気がついた、手には花束がなかったので、咲は花束を急いで買って、その母娘を追いかけた。
「良かったら、これ備えてください」
親子はお礼を言い、花束を受け取ると、去って行った。
咲は少女が慰霊碑に花を供えることが、意味深い気がしたのだった。

帰りのバスでは、東京から来ていた女性と知り合い、思ったことを述べあった。
彼女も「かわいそうでたまらない」と言っていた。
「今からどうするんですか」と聞くと、偶然にも咲と同じく首里城へ行くとの返事だった。彼女は那覇に友人がいて、その人との約束があったので、そこで別れた。
「もしかしたら、首里城出会うかもしれないですね」と言っていたが、首里城では再会しなかった。

首里城はとても良い空気が漂う場所で、一歩敷地内に入った瞬間精霊たちが
「良く来たね。メンソーレ」と挨拶してくれている気がした。それは木々や花々の妖精たちのように感じた。嬉しい気持ちで涙が流れて
「ありがとう!」を何度も繰り返した。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
首里城前のおにぎり屋で一休憩すると、そこで働く女性も東京から首里に移り住んだと言っていた。不思議な吸引力を持った地なのかもしれない。

咲は体をほぐそうと、ネットで見つけたマッサージ店を予約した。店の名前が面白く、”グリグリ”と言う店だった。担当は60過ぎの太った女性で、沖縄の宮古島出身だった。経営者も宮古島出身で働く人も皆宮古島の人たちだった。どういう経緯があったのか、多分スピリチュアルの話で意気投合して、その夜はマッサージの女性と食事に行くことになった。店から歩いて10分の居酒屋を予約してもらい、二人は歩いてそこに向かった。居酒屋は特別美味しいわけでもなく普通の居酒屋だったが、観光客の咲は地元の人と一緒に食事ができるだけで嬉しかった。
この女性曰く、
「沖縄の人は結構したたかだから、安心して良い」との話だった。咲は沖縄が損をしているのではないか心配だったので、この言葉は意外で、新鮮だった。
「この女性の言う通りなのかも知れない」そう思えてくる夜だった。不思議と気持ちは軽くなった。

こうして、咲の2泊3日の旅は終わった。学びの多い旅だった。沖縄の空気に触れ、湿度を肌で感じた後、親近感を持ってニュースを見るように変わっていた。選挙結果が出て、沖縄県知事が決まった。自分が選挙戦を実際に見てきた土地の選挙結果は楽しみだった。けれど、咲は政治にそれほど興味がある方ではない。結果は咲が勝ってほしいと願っていた方が勝っていた。

今回のひめゆりの塔と首里城のチョイスはとても良かったと自己満足している。たまたまそこに行っただけだが、連れて行かれたのかもしれない。

咲は高い志を持つようにと望まれたあの同僚のことを思い出す。何もしてあげることができなかった自分への無念さも感じている。ひめゆりの塔でつぶやいたあの言葉が頭に浮かんだ。
「あなたの死は無駄にしませんから」

咲はこの先彼女たちや彼の分も生きる決意を迫られたのだ。那覇への旅はその”きっかけの旅”だった。”

咲は、今、自分が浮き草のように思えた。悪い意味でなく、川の流れに乗って流れている。この流れに逆らわない生き方が今の自分に合っている。
興味があることは一歩踏み出す。そのスタンスだ。

「そうだ、全てのきっかけになった3月の講演会についても書いてみよう」と思った。

咲が3月に見た夢:
”夢を見た。Sくんがお見合いして、その相手が”ティンカー・ベル”(ピーターパンに出てくる妖精)だった。脈絡のない奇想天外な夢だ。
Sくんは、「ティンカー・ベルとの間に子供ができるか」
「長生きしないのではないか」と、心配している様子だった。

ティンカー・ベルは妖精だから、人間のように年をとることもないし、ひょっとしたら何も食べなくても、愛だけあれば生きられるかもしれない。
Sくんとはしばらく会っていないし、親しい仲でもない。突然の夢の中での登場が不思議だった。

続けてもう一つ夢を見た。

ペンギンが出てきた。どうやら咲が飼っているらしい。咲にはペンギンと話せる能力があるらしく、
「誰かにこの新発見を伝えたい」と思っている夢だった。

ちょうど、その翌日に精神世界の”引き寄せの法則”の講演会に行く予定だったので、この夢を引き寄せたのかもしれなかった。いやいや、前の日に村上春樹の小説を読んでいた。その中にペンギンの形の携帯ストラップが確か出てきたから、そのせいかもしれない。

”引き寄せの法則”の講演会当日、名古屋から新幹線で、大阪に行ってみると、気持ちがポジティブになる講演会だった。
「エゴを捨て、自分自身が素晴らしい存在であることに気づきなさい。感謝を持って、起こっていることをありがままに受け入れるなさい。」
このメッセージは、咲の心に刺さった。心で物事を感じることの大切さについても話があった。
「何かをやろうとすると、宇宙全体が助けてくれる。」と聞いて、咲は最近暗い気持ちに押しつぶされそうだったので、明るい光を見た気がした。

咲のお気に入りは、質問コーナーだった。一人目の手が上がった。夫の愚痴に迷惑な気持ちを抱いていた主婦は、夫に優しく接してあげたり、マッサージをしてあげなさいとアドバイスをもらった。男の人は小さい子供のように母性みたいな優しさを求めているはずだ。優しい言葉には、きっと癒されるはずだ。

2人目の質問は、母親とうまく付き合えない女性で、母親への不満を具体的に200書き出すようアドバイスされた。書いているうちにどうでも良くなってくるそうだ。咲は幸運にも、両親に対する確執は過去に何とか浄化していたので、今の所これを必要とはしないが、知っておいて損はない情報だと思った。

3人目も、女性で、今度は双子の7歳の娘に関することだった。この双子は霊感少女らしく、母親の将来の不安について(健康状態)占ってくれるらしい。咲は結婚もしていないし、子供もいないので、このような超能力者の近くにいるこの母親が羨ましい気がした。この母親の質問は、娘たちの育て方についてだった。「二人について本でも出せば?」との返答だった。

4人目は、阪神淡路の地震で生き埋めになりかかったトラウマを抱えた女性で、このPTSD(Post Traumatic Stress Disorderー心的外傷後ストレス障害)を乗り越える方法がないか質問した。とても難しい質問だと思ったが、アドバイスはシンプルで、貧乏ゆすりなど体を揺り動かす体操がトラウマには効くそうだ。

人生で悩み事が生まれてアドバイスが欲しい時など、自分が質問を紙に書いて、悩み事の解決法を目をつぶって考えると、自然に頭に答えが浮かぶこともあるそうで、咲も次回何か質問があったら、試してみようと思った。

咲の見た夢を分析すると、Sくんは咲自身で、妖精のような魔法の存在と知り合いたいと思っていて、できれば神様や天の声が聞けるようになりたいという欲求がペンギンと話せる自分として現れた気がする。

人に頼らず、自分の中にあるメッセージに耳を傾けよう、そう思わされる午後のひとときだった。
「良いことを考えて、どんどん良いものを引き寄せよう。」と心が震えた。
ペンギンも妖精も自分の心に住んでいて、ここから時々取り出して、相談すればいいのかもしれない。”

よくよく考えると、ペンギンもティンカー・ベルも咲の飼っている犬のリッキーが形を変えて登場しているのかもしれない。

リッキーを飼い始めたのは、前に飼っていたクッキーの亡くなったことが発端だった。咲は里親になった体験も書いておこうとパソコンに向かった。

犬に飼われる:
”昨日クッキーを火葬した。火葬所ではダンボール箱に入れたクッキーを他の箱と一緒に燃やしたようだ。骨はもちろん拾えない。でも拾いたいとは思わなかった。その代わり、クッキーの毛を一つまみ切り取って、思い出に取っておくことにした。クッキーと一緒に暮らした年月は7年。6歳から13歳までを過ごせた。心に空いた穴をどうやって埋めるのか?
「やはり、また里親になろう。」

インターネットでヨークシャテリアのメスを探しても、一匹も見つからなかった。出てくるのはオスばかり、連絡しても、
「一人暮らしの方には差し上げられません」
「保証人が居ないとダメです」と梨の礫だった。
咲は愛知県に住んでいるので、名古屋やその近郊で探したが、見つからなかった。

一人、「何匹かおりますので会いに来てください」と言ってくれた神戸の里親会の人がいるにはいたが、犬種が違うので、結局断った。

最後に、姫路の里親会にヨーキーのオス(推定5歳)がいるというので、連絡を取ると、「取りに来て下さい」との返事だった。

約束の12月1日がやってきた。結局、1日前に姫路に行っていた咲は、ドキドキしながら、姫路駅に向かった。約束時刻の5分前にその女性はやってきた。新幹線の予約時間まで10分しかなかったので、大急ぎで書類にサインし、約束通り5万円の料金を払うと、まだ咲に慣れていない犬をキャリーバックに入れると、名古屋へ向かった。

震えている犬をカバンの中に手を入れて撫でながら新幹線は目的地名古屋に到着した。咲は地下鉄に乗っている時も犬の入ったバッグが誰かに迷惑をかけるのではないか、そわそわしていたが、無事に覚王山の駅に着いた。

犬は当たり前かもしれないが、生きていた、そして、元気だった。咲はホッとした。覚王山には、前から気になっていた獣医があったので、早速そこへ連れて行った。獣医も助手も犬好きらしく、うまく犬をあやしながら皮膚の具合を確認して、栄養不足から荒れている皮膚にクリームを塗ってくれた。
耳もかなり汚れていたので、洗浄し、クリームのような薬をくれた。
餌代も合わせると1万円くらいかかったが、必要経費だ、仕様がない。
犬はまだ散歩したことがないらしく、うまく歩けない。またバッグに戻すと、咲はアパートに向かって歩き出した。

まだ名前が決めていなかったので、道々いろいろな名前を考えていた。結局、前の犬がクッキーだったので、リッキーと名付けた。一番心配なのは、おしっこの躾だっt。オスはメスと違って、足を上げて用をたす。最初のうちはオムツをしていたが、試しに取ってみた。心配するほどのことはなかった。

前の犬は足が悪かったので、今度の犬は、若くよく動く。同じ犬種でも、性格が違う。眠るときもリッキーは咲にぴったりと体をくっつけてくる。甘えっ子のようだった。耳の汚れは、1週間もすると治り、皮膚の乾燥もトリマーに分けてもらった薬用のシャンプーのお陰で良くなってきた。

澱んでいた家の中の空気は、リッキーの動き回るエネルギーにかき混ぜられて気の巡りも良くなったようだった。痩せぎすだったリッキーは咲の手作りご飯を食べてしっかりした骨組みに変わった。

リッキーはどこから来たのか?里親会に聞いても、
「分からない」との返事だった。リッキーにクッキーの話をすると、やきもちを焼いている雰囲気だ。この存在感はアパートを充満させる。

「僕を見て、僕を見て。僕がこの世界の中心だよ」そう叫んでいるようだ。

リッキーを迎えに行くまで、咲は姫路に行こうなんて思いもしなかった。
でも咲は姫路城を見ることもできた。アーモンドトーストも食べた。人生は分からない。

咲はクッキーの後追いもしなくて済んだ。新しく生きる希望(理由)ができたから。それで良い。咲にとって大事なのは、もう一人でないことだ。

まあるい二つの瞳が咲の一挙手一投足を見ている。咲が動けば、リッキーも動く。これは、一人と一匹にしかできないダンスだ。咲が撫でると、リッキーはうっとりと目を閉じる。リッキーはお腹がすくと咲の唇を舐める。赤ちゃん犬が母犬にするように。

人間が犬を飼うことは、主人が人間のようだが、実際、犬は人間を癒してくれる。咲をよく知る友人も、
「咲さん、犬を飼ってから精神的に大分落ち着いたよね」と言っていた。

第一、犬は人を裏切らない。その逆はあるけれど。犬を飼うと、予防接種、フィラリア治療薬、登録料、餌代、等々出費が嵩む。

犬を飼ってはいけない物件もあるのだから、飼えることに感謝しないといけないかもしれない。

犬は咲についてどう思っているのか?どうも、リッキーを見ている限り、リッキーが主人で咲を飼っていると思われている。

「まあ、いいや。幸せだから」

犬に飼われる人間は「明日もこいつのために頑張って生きよう」と思う。”

「こんな話、犬を買っていない人には退屈だろうな」咲は自虐的に思った。
この話を書きつつ、クッキーを亡くした時危うい自分がいたことに気付いた。
それほど、犬は自分を支えてくれている。

共感は得られないかもしれないが、これはまぎれもない真実だ。

「本当に書く作業を通して自分の心の中にしまっていたものが出てくるようだ」

咲は最近いろいろな作家の生き方に興味を持ち出した。インタビュー記事を読んだり、本を読んだり、結構面白い。最近読んだものから着想を得て、次のような文章を書いた。

その他大勢:
”「はい、只今お繋ぎします。」ところが、つなぐべき相手の名前も部署も分からない。
「すみません、xx部のyyさんにお電話なんですが、内線番号教えてください。」

あれ、おかしい、この同僚は2年ほど前に辞めていたはず?おかしいと思ったら全ては夢の中での出来事だった。
久々に見る会社の夢だ。

咲が動いたのに気づき、横に寝ていた愛犬もベッドから飛び降り、朝ご飯の催促をしてくる。昨日、会社を舞台にした短編小説を書いていたので、眠りにつく時も夢の中で小説を書き続けていた。小説を書いても今のところ誰も読んでくれてはいない。

しかし、咲は書き続ける。誰かが言っていた。ハンガリーからスイスに亡命したアゴタ・クリストフだったと思う。「自分を信じて書き続けることが大事だ」と。

昨日は、アガサ・クリスティが残したメモ書きのノートを解読した人が書いた本を読んでいた。
実に何通も登場人物についてのメモがあり、最後まで殺人方法や誰を犯人にするか迷っていた様子が伺えた。
買い物メモのような、雑然としたメモから探偵小説の金字塔が生み出されていたとは!”そして誰もいなくなった”の登場人物も最初は10人以上だったというから驚きだ。そして、クリスティは自信たっぷりな人物でなく、謙虚な人物だったことも嬉しい発見だった。

咲は、時間つぶしにYouTubeでいろいろな番組を見たり聞いたりしている。昨日は有名な文学賞をとって話題のお笑い芸人のインタビューを見ていた。彼の第1作に描かれた売れない芸人についてのコメントが咲の心に留まった。売れない芸人は無意味な存在ではない。実際に表面に出てこなくても、彼らがいることで、芸人全体のレベルにも影響を与えると言う内容だった。不思議にこれが頭に残って、今朝もまたこの言葉が頭に浮かんだ。