ボクの落胆など、とうに御見通しだった一慶は、一語一語噛んで含める様に、こう言い聞かせた。
「…大体な。俺達行者が何年も掛けて修めた法や術を、素人のお前に、たった一日でクリアされちまったら、俺達の立つ瀬が無いだろう?幾らお前が『行の天才』でも、仏の真理を瞬時に悟るなんて到底、不可能なんだよ。仏道は、頭で悟るもんじゃない。信じ、行い、体験して、初めて悟りを得るんだ。…そこを勘違いするな。」
「うん…。」
「紫は、幼い頃から次期当主として修行を積んでいる。あの離れの建物でも、たった一人で、朝から晩まで修行していたんだろう。悟りの境涯へ到る道筋は、人各々違っていて良いんだ。お前には、お前なりの悟り方がある。誰かと比べる為に、紫の姿を見せた訳じゃない。」
ボクは、何も言えぬまま頷いた。
一慶の言葉には不思議な力がある。
胸の中に痼(シコ)っていたものが、春の雪解けの様に緩んでゆく気がした。
──たっぷり反省した處ろでタイミング良く、欠伸が漏れる。
カチカチに固まっていた体が、安堵と共に急激に弛緩していった。
「漸く力が抜けて来た様だな?いい加減、俺も限界だ。飯食いに行くぞ。」
「行きたいけど立てない…足、痺れた…」
「はぁ!?」
呆れた様に眉を上げると、一慶は不意に意地悪な笑みを浮かべた。
「足が痺れて、ね。例えばこの辺とか?」
いきなり足の甲を踏まれる。
刹那、ビリリと電気の様な痺れが展がり、ボクは声にならない悲鳴を挙げた。
「ぃ──っ!な、にするんだよ!!」
「どうだ、堪らないだろう?」
「卑怯者!ボクが動けないと知って!!」
「さっきのお返しだ。俺だって足を踏まれたからな。これでチャラにしてやる。」
そう言うと…。
彼はボクの手を取り、立たせてくれた。
痺れが収まるのを待って、瞑想室を出る。
太陽は既に天頂に差し掛かっていた。
日曜日だと云うのに、屋敷の中は異様に静かだった。
護法も家政婦さん達も、一体何処に行ってしまったんだろう?西の対は、人っ子一人見当たらない。
苺は、何故か実家へ戻ってしまったし…いつの間にか、烈火の姿も消えている。
遥は鍵爺の元へ泊まり込んでいて、今日も帰らないそうだ。祐介も、昨夜から引き続き病院に詰めている。つまり、今この屋敷に居るのは、ボクと一慶と紫の三人だけだ。
火が消えた様に寂しくなった邸内…。
「喧しいのが居なくて、丁度良いじゃないか。」
そう言って一慶は、笑うけれど──。
「一慶は良いの?何か予定は?」
「別に何も。今日は丸一日、お前に付き合ってやれるよ。」
「そっか…ありがとう。」
良かった…。
何故か、心底安心している自分がいる。
紫は、まだ本堂に籠っている様だった。
昼食を用意してくれた氷見に依れば…彼の澄んだ読経の声は、早朝四時から延々と続いているらしい。
一慶は、云う。
「この様子じゃ、紫と顔を会わせるのは夜になるだろうな。」
夜まで…。
そんなにも長い時間、紫は祈り続けるのか。
まだ食事を摂った形跡も無いのに。
「修行の方法にも、六星各々のスタイルがあるんだよ。《土の星》の行者は、特にもストイックだ。若い内から、厳行に身を窶(ヤツ)す傾向がある。」
「そうなんだ…。」
やはり、行者の修行は厳しい。
逸足飛びに辿り着ける様なものでなはい。
ボクは──何処まで、彼等の境地に迫れるだろうか?付け焼き刃の修行が通用するとは思えないが…それでも、他に方法が無い。
…二人きりの遅い朝食を済ませた後。
ボク等は再び瞑想室に向かった。
《観想》と呼ばれる瞑想行を続ける。
方法としては、向坂家の離れで初めて修した、あの霊縛術に良く似ていた。
自身の心に全《まった》き月を想い浮かべ、仏と一体になる事を祈る、祈る──ただ祈る。
呼吸が整い、心が定まると、次第に迷いも焦燥も失せていった。
作法や、そこに臨む姿勢は大分身に付いて来たと思う…だが。まだ、はっきりとした祈りの感じが掴め無い。
そうして暫く祈念に没頭した後。
静かな声で、一慶が話し掛けてきた。
「随分、安定して来たな。心が波立たなくなった。集中力や持続力も付いて来ている。」
「判るの??それは、天解の術で?」
「天解を使わなくても、一緒に祈れば判る。」
そういうものなのか…。
言われて見れば、そうかも知れない。
一緒に祈りに入ると、時々同じ深さで『呼吸』しているのを感じる。
吸う。吐く。
吸う。吐く。
祈念が深まる程に、二人の呼吸がシンクロし…時には、鼓動が『重なる』様な錯覚すら覚えた。
共鳴感、若(モ)しくは一体感とも云うべきそれが、ボクを強く後押ししてくれる─…。
「それは、お前の祈り方が、かなり良い線行っているという証拠だよ。」
「でもまだ、ほんの一瞬そう感じるだけなんだ。合わせるタイミングが外れると乗り物酔いをした様になる…ただ…」
「ただ?」
「時々…体の内側が、金色に光る感じがする…。体が浮いている様な…縦に伸びていく様な感覚?」
あぁ、もう!
上手く説明出来ない。
あの不思議な浮遊感を、何と表現すれば良いのだろう?
もどかしさに思わず唇を噛んだら、一慶が、面白そうにフッと笑って言った。
「いいよ。そのまま続けてみろ。」
「でも、上手く説明出来ない。」
「お前が感じたままを、言葉にすれば良い。多少、滅茶苦茶になっても構わない。そうやって、自分が『観(カン)じたもの』を具体的に言葉に表す事が、今のお前には必要なんだ。」
和らいだ眼差しで彼は言った。
意外な優しさに触れて、ボクの緊張がふと緩む。
「あのね、何て云うのか…。祈っていると、頭と足を同時に引っ張られる様な感じがする時があるんだ。此処ではない、別の何処かに連れて行かれるみたいで…。」
ボクは、祈りの中で感じた事を、自分の言葉でありのまま伝えた。
「誰かに押さえていて貰わないと、吸い込まれてしまいそうになるんだ。…少し怖い感じがして…どうしても、それ以上先に進めない。」
気持ちの全てを出し切ると、一慶が小さく微笑んだ。
「順調みたいだな…。それでいいんだ。もう暫く、このまま続けてみよう。お前が感じた『怖さ』は、自分と仏が一体となる事への本能的な『畏《おそ》れ』だ。お前は『仏』を『光』と観《かん》じた。今度、同じ光を見たら、思い切ってその中に飛び込んでみろ。」
「飛び込む?」
「それが、《入我我入(ニュウガカニュウ)》と言われる境地だ。仏とひとつになる事でお前の《金目》も完全に開くと思う。」
それから。
一体何時間、そうして其処に座しただろう?
《金目》が完全に開くまで…そう思っている内に祈りが遠のき、ボクの頭は、もうすっかり飽和状態になっていた。
弛んだ気持ちの間隙を突いて、強力な睡魔が襲って来る。奥歯で頬の内側を噛み、どうにかそれを退散させるが、睡魔は何度となく現れては、ボクを誘惑した。
…眠い…もう限界だ
グラリと頭が下がる──そこへ。
不意にポンと肩を叩かれたので、ボクは慌てて飛び起きた。
「おい、薙?聞こえているか?」
「え…っ!?」
驚いた弾みで、結んでいた印が解ける。
我に返り、ふと見上げると、長身を折り曲げて覗き込む一慶の顔が間近にあった。鼻と鼻がくっつきそうな位置で視線が交わり、ボクは思わず声を上げる。
「ぅわ!」
思いの外大きな声が出て、そのまま腰が脱けた様に、ヘタリ込んでしまう。それを見た一慶は、不機嫌に双眸(ソウボウ)を眇(スガ)めて言った。
「お前…そんなに驚かなくても…」
「だって、顔が近いから!」
「近けりゃ何だよ?別に捕って食おうって訳じゃなし。本当に失礼な女だな。」
確かに、過剰反応だったかも知れない。
顔を覗かれるとは思わなかったので、すっかり油断していた。
気を付けなければ…。
無防備な寝顔を晒すことだけは、もう二度と御免である。
「休憩だ。さっきから、何度か声を掛けていたんだがな。聞こえなかったのか??」
「ゴメン…聞こえなかった。」
「やれやれ。」
一慶は呆れた様に溜め息を吐いている。
気まずさを取り繕おうと、ボクは慌てて立ち上がった。
その途端、足が縺(モツ)れて前のめりになる。
「あ!」
転ぶ寸前。
一慶の腕が伸びて、ボクを支えた。
「──っと、おい。危なっかしいな。急に立つなよ、捻挫するぞ?」
「そうだった、ゴメン。」
予(アラカジ)め注意を受けていたのに、忘れていた。
長時間正座した後は、気を付けて立たないと、骨折する事もあると…。
情けない程、フニャフニャになっているボクを見て、一慶は『仕方ないな』と肩を竦《すく》めた。ボクの腕を取り、ゆっくりと立たせてくれる。
「手、放すぞ。立てるか?」
「うん、大丈夫。」
そうは言ったものの、まだ少し、足先の感覚が無かった。…フラフラする。
すると。
まだ何処かボーっとしているボクを見兼ねた様に、一慶が言った。
「疲れただろう?休憩の序(ツ)でに夕飯にしよう。流石に身が保(モ)たない。」
「もう、そんな時間?」
ボクの言葉に、一慶はモバイルフォンの画面表示を見て言う。
「丁度、七時十分を回ったところだ。もう、八時間近くも祈っている。」
八時間?? たったそれだけ?
一心に祈っていたから、時間の感覚が無い…。
「初めてにしては、良く頑張ったな。立派な《三昧耶行(サンマヤギョウ)》だよ。」
三昧耶(サンマヤギョウ)とは、修行の範疇に深く入り込んだ状況を言う。
だが──
ボクは、そこまで到達出来たのだろうか…?
正直なところ、良く解らない。
見上げれば明かり取りの天窓から、澄んだ星空が覗いていた。
「…すっかり夜だね。」
なのに──。
ボクは未だ《金目》を手に入れてない。
こんな調子で、間に合うのだろうか?
また少し、焦りが出始めた…その時。
一慶が、思いも掛けない言葉をくれた。
「もう直ぐだよ。」
「え?」
「かなり近い線まで来ていると思う。祈る呼吸も掴めた様だし…あと一息ってところだろう。」
「そうかな?逆に、どんどん遠ざかっている様な気がするんだけど…。」
再び自信を失い掛けてた矢先に言われた、この言葉は…寧ろボクを、曖昧な気持ちにさせた。近付いているのか、遠ざかっているのか、自分ではもう判断が着かない。
黙り込んだボクを見て、一慶は、ふわりと微笑んだ。
「ほら、見てみろよ。」
そう言って、シャツの胸ポケットから、銀に輝くジッポーを取り出す。
「なに?」
「映っているだろう?…お前の目が。」
ボクの目──?
彼に言われた通り、手渡されたジッポーに、自分の目を映して見る。鏡面仕上げの銀のボディには、半分透き通って僅かに金色を帯びた、ボクの瞳が映っていた。
「金目に…なり掛けてる…。」
「あぁ。なかなか良い仕上がりだ。この調子で今夜一晩、続けてみないか?勿論、紫を寝かし付けた後でな。」
「付き合ってくれるの?」
「乗り掛かった船だ。この際、とことん付き合ってやる。その代わり…」
「その代わり?」
「今夜は朝まで寝かさないからな。覚悟しとけよ?」
「…それ…セクハラだよ、一慶…。」
ボクは、力無く切り返した。
再度、観想の行に就いたのは、それから小一時間後のことである。ピンと張り詰めた空気の中、ボクは本堂に座し、真摯な祈りに入っていた。
もう迷いは無い。
夕食も摂った。入浴も済ませた。
一慶の勧めで、略式の《水行《す》も行ってみた。
初めての水垢(ミズゴ)りは、冷たさばかりが先立ってしまって…まるで『罰ゲーム』でもさせられているみたいだったけれど。それでも、どうにか無事に遣り遂げた。
紫は、既に夢の中にいる。
一日中、祈りに祈った所為か、倒れ込む様に布団に潜ると、あっという間に安らかな寝息を立てていた。
午前0:00、深夜の本堂。
不動明王の尊前には、清らかな灯明(トウミョウ)の光が揺れていた。
ボクは本尊と向き合う様に端座(タンザ)し、一慶は、その背後に座して、静かに祈りを深めている。
もう少し…あと、もう少しなんだ。
先程、中途半端に変わり掛けていた《金目》は、ものの数分で元に戻ってしまった。
…けれど。今度こそ完成させてやる!
ボクは、臍下丹田(サイカタンデン)にグッと力を込めた。
「気負うな、薙。そういう方向に祈ってしまうと《天狗霊》が憑く。」
「てんぐ?」
「そうだ。行者が祈念に入る時、己の行神力に溺れると、逆に《妨害霊》を呼び寄せる事がある。自惚れの心は、《第六天魔》にも繋がってしまうんだ。そうでなくても、加行(ケギョウ)に入った行者には、霊的妨害が顕(アラワ)れ易い。『やってやろう』と変に気負わず、あくまでも、仏と一体になる事だけを念じるんだ。」
「うん、わかった。」
不思議な言葉ばかりが耳に飛込んできた。
加行、天狗霊、第六天魔…。
此処に来てから、ずっとそうだ。
知らない言葉、知らない世界。
戸惑い、迷い──悩んでは、また勇気付けられの繰り返し。
自分の『立場』と『気持ち』の折り合いが付けられず、いつも苛々していた。
でも、今は違う。
『仲間』と呼べる人達がいて、その絆を大切にしたいと思い始めている。
大切な人達の為に、自分に出来る精一杯の事をしたいと…心からそう願う自分が居る。
ボクが力になれるなら、何でも…どんな事でもしてあげたい。人々に望まれて生まれてきたのが神子だというのなら…出来る筈だ、きっと。
ボクは改めて、本尊を見上げた。
威容を湛える、不動明王。
阿吽(アウン)の牙を噛(ハ)む、憤怒(フンヌ)の相。
右手に剣、左手には索(サク)を持ち、燃え盛る火炎を背に、静かに結跏趺坐(ケッカフザ)している。
「──凄いね、お不動様。特に、あの目。生きているみたいだ…」
「玉眼というんだ。水晶が填め込まれている。」
「目が水晶なの?」
「あぁ。お前の《金目》に似ているだろう?透明で…角度を変えるとキラリと輝く。」
「よく解らないけれど…。ボクの目は、あんなに怖くないよ──多分。」
曖昧な返事をすると、背後でクスッと忍び笑いが聞こえた。
「不動明王が怖いか?」
「少しだけ。」
正直に答えると、頭をポンと撫でられた。
「それが『畏(オソ)れ』だ。本当に尊いものに対して感じる、人間の本能的な感覚だよ。」
一慶は、言う。
「お前の金目を初めて見た時。正直、俺も畏(オソ)れを感じた。」
「…うん、やっぱり気持ち悪いよね。」
「そういう意味じゃない。綺麗だった。」
「え…?」
ボクが訊き返すと、一慶は少しだけ声を潜めた。
「あんな綺麗なものは、他に見た事が無い。コイツを、これから俺が護るのかと思ったら、嬉しくて体が震えた。」
「一慶…。」
「四天になれて良かったと、あの時、初めて思ったよ。俺の『護るもの』が『お前』で良かった。」
胸の奥が、ドキンと撥ねた。
そんな言葉が返って来るとは、思わなかったから…。
思わず振り返ろうとした途端──
「こっち見んな。気が弛むだろう。」
両手で頭を挟まれて、強引に前に向けられてしまう。
「今夜、見れると良いな?お前の金目。」
「うん。頑張る。」
「よし。じゃあ、始めるぞ。」
背中を、バンと叩かれる。
だがそれは、痛みよりも寧ろ、優しさを感じる行為だった。
何故だろう?
一慶が側に居ると思うだけで、こんなにも安心する。その手の温かさが、ボクの勇気になる。
だから…。
ボクも、やれるだけの事をしよう。
この温もりに応える為にも。
──そうして。ボクは、再び祈り始めた。