痛い處(トコ)ろを突かれて…ボクは、それ以上何も言えなくなってしまった。
悔しいけれど、真織の弁は正しい。
今のボクは、とても行者とは言えない。
体の奥に感じる底知れぬ《力》も、それを引き出す術を知らないボクには、『宝の持ち腐れ』に過ぎなかった。
無力なボクを見て、真織は、勝ち誇った様に嘲笑(ワラ)った。握り締めていた拳を静かに開き、そのまま真っ直ぐ此方に差し出す。
──と、次の瞬間。
彼の掌にポウッと青い炎が立ち上った。
「……狐火。」
険しく双眸を眇めて、蒼摩が呟く。
揺らめく狐火を掌で弄びながら、真織は鷹揚(オウヨウ)と言った。
「母は、私に近付き過ぎたのです。その挙句、自身が《稲綱狐》に憑かれてしまった…。」
ゆらり、ゆらり。
炎は、段々大きくなる。
…おかしい。
其処だけ、空間が歪んで見える。
未だ、散瞳薬の効果が残っているのだろうか?
真織は、狐火を見詰めながら、嗜虐的な笑みを浮かべて話を続けた。
「気の毒な母は、《狐憑き》の息子を持ったばかりに、次々と道を踏み外していった。彼女が、犯罪者の呪殺を行う様になったのは、私が正式に六星行者に取り立てられた直後の事でした。」
「稲綱狐に、唆されたんですね?」
蒼摩の言葉に、真織は無言で頷いた。
稲綱狐《イイヅナギツネ》──。
予(アラカジ)め教えて貰ってはいたけれど、それ程の力を持っているものなのか…?。
「稲綱に憑かれた者は、突然、人格が変わるのが特徴なんです。」
蒼摩は、淡々とした口調で説明した。
もうすっかり、いつもの冷静さを取り戻している。
「例えば、神の声を聞いたとか…観音様のお告げがあったとか…。神憑(カミガカ)り的な力を使って、人心を扇動し誘惑するのが《稲綱狐》の遣り方です。騒ぎを起こしている新興宗教の教祖の殆んどが、《稲綱憑(イヅナツ)き》ですよ。」
やはり、狐霊は唯の動物霊ではない。
人をたぶらかし、人を殺(アヤ)め…遂(ツイ)には、人を狂わせてしまう。
霊媒体質だった千里さんは、狐霊と同調し易かったのだろう。
──況してや、彼女は素人だ。
侵食する狐霊に、抗(アラガ)う事すら出来なかったに違いない。
「そう。狐憑きとは、かくも恐ろしい存在だ。とは言え…それを幾ら言葉で説明しても、真の理解には程遠いでしょうね。」
そう云うと。
真織は、不意に微笑み掛けてきた。
「良い機会です。実際に御見せ致しましょう。狐霊遣いのなんたるかを──!!」
素早く何事か唱えると、真織は燃え盛る狐火に向かって、フッと息を吹き掛けた。
青い炎は、揺らいだ数だけ、無数の小さな狐火になる。そうして瞬く間に、部屋のアチコチに散らばった。
キキィ…キィ。
キィキィキィ…。
小さな鳴き声が響く。
「首座さま、これが野狐(ヤコ)ですよ。奴らには、およそ知性や秩序というものがない。其処ら中に蔓延(ハビコ)っては悪さをする。」
野狐(ヤコ)──?
ボクには、青い光の塊にしか見えない。
視界がチラつく。やはり、未だ散瞳薬が効いているのだ。
僅かな光源すら──眩しい。
「貴女は仰有いましたね。『天魔を受け入れる事で救済し、永きに渡る闘いを終結させる』と。実に素晴らしい心掛けだ。受け入れる事こそ、仏教の神髄!天魔を救う前に、是非この《狐憑き》の闇行者を救って見せて下さい。」
ぅわん!と、空気が唸った。
「薙、伏せろ!」
一慶の叫びより一瞬速く、野狐の大群が襲い掛かって来る。ボクは反射的に頭を下げて、紫の体を抱き締めた。
すると──
「ノウマク、サンマンダ、ボダナン、キリカ、ソワカ!」
一慶が素早く印を切り、真言を唱えた。
野狐の群れが一瞬で消滅する。
ギィギギィ───ッ!
怖ましい断末魔の叫び。
見上げれば…空中に、青い蛍の様な残り火が、ふわふわと漂っていた。
「荼吉尼天(ダキニテン)の真言ですか──。流石は《金の星》の北天(エース)。相変わらず反応が速いですね、一慶くん。」
「荼吉尼天(ダキニテン)は、お稲荷さんだ。狐の親玉に、野狐が敵う筈がない。全てアンタが教えてくれた事だよ、真織さん?」
「…そうだったね。本当に素晴らしい生徒だよ、君は。」
気位高く顎を聳(ソビ)やかす真織の表情には、まだまだ余裕がある。 次の手に打って出ようとしているのか、推し測る様に、此方の隙を狙っていた。
緊迫した空気が肌を刺す。
突然の野狐の襲撃に、ボクは、驚いて何も出来なかった。
一方──。野狐をあっさり片付けてしまった一慶はと言えば、此方も、真織に負けじと余裕綽々の表情を浮かべている。
「…凄い…。」
無意識に、賛嘆の言葉が洩れた。
そうとう場数を踏んでいるに違いない。
これが、行者の闘いなのだ──すると。
「お前もやってみるか?」
「…え!?」
一慶が、思いも掛けない事を『提案』して来たので、ボクは面喰らった。不敵な提案者は、何をか企む様な顔でボクを眺めている。
「丁度良い。実地で教えてやるから、狐の祓い方くらい覚えとけ。」
「え…えぇっ?嘘でしょう、無理!」
「お前は神子だろう?無理な訳あるかよ。触りだけだが、調伏の修法を教えてやる。…記別でな。」
「きべつ?」
「記別ってのは要するに、修行の前借りだ。後でちゃんと借りを返せよ?」
えぇっそんな──??
借りを返すって、どうやって!?
だが問い質す暇も無く、次の攻撃が始まった。
真織が印を組んで、召還の文言を唱えている。それを見た一慶は、狼狽(ウロタ)えるボクの傍らに立ち、小声で話し掛けてきた。
「来るぞ──管狐(クダギツネ)だ。」
真織が、懐から小さな銀の筒を取り出す。
親指程の太さの、ステンレスパイプだ。
あれは──『笛』?
それを、徐ろに口に咥えてスーッと吹く。
音は、出なかった。
代わりに、筒の中からスルリと白い煙の塊が滑り落ちた。
一つ…二つ、三つ。
白い煙玉は、虚ろに宙に漂っている。
「あれが、管狐です。」
蒼摩がボソリと呟いた。
──管狐と呼ばれたそれは、虚空でグルグルと旋回を始める。
上に下に、右に左に。
長く尾を曳きながら、三つの煙玉が宙空で絡み合う。
良く目を凝らして見れば──成程。
あれは、確かに『狐』だ。
三角の耳と、尖がった鼻面。
時々大きく口を開けて、シャアッ!と威嚇の声を挙げる。
宙にたゆとう管狐達を、愉悦に満ちた眼差しで眺めながら、真織は言った。
「管(クダ)は野狐(ヤコ)よりも、幾分知恵がある。命ずれば、宿主の言う通りに動いてくれます。そう…例えば、こんな風に。」
言い終わるや、宙に向けて笛を吹いた。
途端に狐達の耳がピクリと動く。
…それが、攻撃の合図だった。
突如、一匹の管狐がボクに向かって急降下する。
キィッ!キシャ──!!
大きく開けた口から、恐ろしい咆哮が洩れた。
「ぅわ!」
噛み付かれる!?
ボクは思わず身を竦めた。
「馬鹿!! 目、閉じんな!開けてろ!!!」
一慶に、後ろから小突かれる。
「痛っ!何するんだよ、いきなり!?」
「煩い、前見ろ!」
言われて、恐る恐る前を見る。
すると、ボクの顔面すれすれの位置に、大口を開けた管狐が浮かんでいた。
どうしたのだろう?
まるで、凍り付いた様に動かない。
──見れば。
他の管狐達も、時を止めた様に、空中で静止していた。
「霊縛か。一慶くんは反応が速いね。」
抑揚の無い声で呟く、真織。
この現象を引き起こしたのは、一慶なのか?
いつの間に──!? 傍に居たのに、全く気が付かなかった。
茫然と立ち尽くしていると、蒼摩が然り気無くボクの前に立った。刀印を結んで、徐ろに《九字》を切り始める。
「臨、兵、闘……」
それを見た一慶が、直ぐ様ボクに指示を出した。
「蒼摩が、暫く時間を稼いでくれる。今の内に、紫を膝から下ろせ。」
「あ、うん…。」
ぐっすり眠り込んだ紫を、起こさない様に…ボクは、彼の頭を優しく膝から下ろした。
立ち上がると直ぐに、一慶の指導が始まる。
「いいか?先ずは印を結ぶんだ。」
背後からボクを囲い込むように、一慶の両腕が回された。
丁度、後ろから抱き締められる様な形になる。背中に触れた体温が、やけに生々しく感じた。居心地の悪さに身動(ミジロ)ぎすると──
「集中しろ、馬鹿!」
「痛っ。」
こめかみを、ピンと弾かれる。
手厳しい師匠に一から手順を教わりながら、ボクは、徐々に降伏の修法に入った。
たどたどしく結んだのは、蓮華の蕾の様な美しい《合掌印》である。体術の構えとして組む印契(インゲイ)とは、感覚がまるで違う。
両手を併せた瞬間、自分の中の深い場所に、ポゥッと光が灯った気がした。
「薙、心の中に『月』を思い浮かべろ。真っ白な、欠ける事なき『満月』だ。そうして、月と自分が一体化していく姿を強くイメージする。出来るか?」
ボクは頷いた。
多分、出来ると思う。
…片や。蒼摩は《九字》を切って、一匹また一匹と管狐を捩じ伏せていた。
気迫の隠る横顔には、玉の汗が浮かんでいる。
(大丈夫かな、蒼摩…?)
だが、杞憂は無用だった。
彼の行力は、一慶に勝るとも劣らないもので、瞬く間に、全ての管狐を消し去ってしまう。
ところが、敵も去るもので…。
真織は、間髪措かずに笛を吹き、更に五体の管狐を呼び寄せてしまった。
一匹祓えば一匹現われ…の繰り返しである。
いつまでもキリが無い。
一進一退の攻防を繰り返す蒼摩と真織に、ボクは忽ち不安になった。
援護しなくて良いのだろうか?
真織は、まだ余裕が有りそうだけれど…??
「大丈夫だ。蒼摩に任せろ。お前は自分の為すべき事を為せ。それが邪霊討伐の原則だ。」
一慶の言葉に、ボクはハッとした。
そうか…これは、討伐の現場なのだ。
俄かに緊張した背に、一慶の胸がピタリと寄り添う。
「…集中しろ、薙。余計な事は考えるな。大丈夫だ、お前なら必ず出来る。」
「うん。」
力強い励ましに、心が落ち着く。
不思議だ──。
一慶の言葉には、絶対の安心感がある。
彼が「大丈夫」と言うのだから、きっと何とかなるに違いない…そう思えてしまう。
揺るぎ無い自信を胸に──。
ボクは、最大限に集中を高めた。
月、月、月──。
欠ける事なき、全(マッタ)き満月。
あぁ…
心の真ん中に、白く輝く球体が見える。
それが徐々に、大きく強く輝いて、自分の中が、白い月でいっぱいになる。
頭はキンと冴えて、全身が透明になった気がした。
「…やるじゃないか。あとは陀羅尼(ダラニ)を唱えるだけだ。」
一慶が、耳元で囁いた。
「俺の唱える陀羅尼(ダラニ)を、そっくりそのまま繰り返せ。」
静かに頷くと、ボクの合掌を押し包む様に、一慶の大きな手が重なった。
「ノウマク、サンマンダ…」
「…ノウマク…サンマンダ…」
そうして、何度繰り返し唱えた事だろう。
気が付けば、ボクは自分一人で長い長い陀羅尼を唱えていた。
「ノウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウン、タラタ、カン、マン──。」
…詠うように、囁くように。
唱えれば唱える程、祈れば祈る程。
脳内に濃密な『月』のイメージが湧いて来る。
「ノウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウン、タラタ、カン、マン…。」
何度目かに唱えた陀羅尼が、唐突にボクの《力》を開放した。
カ──ッ!と。
体中から光が溢れ出す。
魂が破裂して、一気に中身が噴き出した様な…この開放感。
キィキィと煩く鳴くのは、管狐達だ。
ボクの霊光を畏(オソ)れて、一斉に姿を消す。
それは…ほんの一瞬の出来事だった。
ボクが放った霊光は、まるで超新星爆発の様に、忽ち部屋中に遡及する。そうして…見る間に燃え尽き、消滅してしまった。
代わりに押し寄せて来たものは、泥の様な倦怠感である。四肢から力が抜け…眼の奥が鈍く痛んだ。
一体何がどうなったのか、皆目見当が付かない。そこへ──
「金目の…神子…!」
真織が感嘆の声を挙げたので、ボクは自身の変化を知った。
あぁ、また金目になってしまったのか。
だけど…そんな事さえ、今はどうでも良くなっていた。
体がダルくて、ふわふわする。
何やら綿菓子にでもなった気分だ。
暫し、飽和状態で立ち尽くしていると、一慶がやって来て、ボクの頭をクシャリと混ぜた。
「やったな。初めてにしちゃ上出来だ。」
誉められた…。
つまり、ボクの降伏は成功したのか?
まるで実感が無い。
身体中に開放の余韻が残っていて、狂おしい程だ。
朦朧とするボクを一瞥すると、一慶はジーンズのポケットに両手を挿し込んで、真織を振り返った。
「アンタの狐は全て消えた。さて、次はどうする?? 稲綱でも出してみるか?」
「……。」