そうして、彼は黄泉の扉を押し開いた。
ギ…ギギイィィ。
耳障りな音を立てて、門が開く。
その先には、世にもおぞましい光景が展がっていた。
亡者、亡者、亡者…
数え切れない程の死者の群が、よろめき這いつくばり…重い足を引き摺る様にして、《黄泉比良坂》を登って逝く。
真織は、尚も囁いた。
「六年前も…私は、こうして門を開けました。」
──え?今、何て??
「それじゃあ、千里さんが離れに向かった時、この門を開けたのは…!?」
「私です。彼女がそれを望んだのでね。」
「そんな──!」
玲一が苦渋に満ちた表情で、呻いた。
「やはりお前か、真織!?」
あぁ。やはりこの人は知っていたのだ。
だけど疑いながらも、敢えて言及しなかった。それは、親としての情なのか──それとも、別の何かなのか?
ボクは、肩越しに真織を振り仰いだ。
「何故、千里さんは離れに行こうとしたの?それは、本当に彼女の意志だったの!?」
「私が唆(ソソノカ)したとでも?」
「それ、は…」
ボクが口籠ると、真織は薄い笑いを閃かせて言った。
「さて、何故なのでしょうね?それは本人から直接、訊いて下さい。この坂の上に居りますよ。本当に、直ぐ其処です。」
この坂の上に…?
ボクは改めて、開け放たれた《門》の先を見た。
蠢く無数の腕(カイナ)。
まるで、青白い蜘蛛の大群の様だ。
苦悶の声が心耳に響く。
「…怖いですか?ですが、死者の世界とは、こういうものです。貴女が『救う』と断言した世界ですよ。良く目を凝らして御覧なさい。あぁ。勿論、肉眼で見る必要は無い。心の眼…《心眼》で視るのです。散瞳薬の効果が残っていようと、全く問題ありませんよ。」
真織に言われる迄もなく、今のボクの『眼』には、呻きながら這い摺り回る、不気味な亡者達の姿しか視えなかった。
まるで金色の紗幕が降りた様に、辺り一面が霞んで視える。
──と、突然。
真織がボクの手を強く引いた。
「さあ、行きましょう。」
それから、一慶と蒼摩を振り返り…
「君達もいらっしゃい。その為に、付き添っていらしたんでしょう?」
挑発的な真織の誘いに、二人は、そっと視線を交わす。
束の間、無言で意志を確認し合うと…蒼摩がスイと寄って来てボクの耳元に囁いた。
「首座さま。」
「なに?」
「身体守護の祈念を施します。少しの間、じっとしていて下さいますか?」
訳も分からないまま、彼に言われた通りにすると…蒼摩の細い指が、サッと印を結んだ。
両の中指と薬指を伸ばして突き合わせ、残りの指を内側に折る。
そして──
「オン、ヤマラジャ、ウグラビリャ、アガッシャ、ソワカ」
蒼摩が真言を唱えた途端、身体の内奥にピリリと痺れる感覚があった。
「──っ!」
思わず、胸を抑えて俯く。
「痛みましたか?」
「…いや、大丈夫。」
痛くはない。
ほんの少し、射し込む様な感じがあっただけだ。でも、それは一瞬の出来事で…今はもう何も感じない。
これを見ていた真織が、クスリと不敵に笑った。
「閻魔天咒(エンマテンジュ)かい、蒼摩くん?」
「はい。真織さんが護りに附いて下さるのなら、こんなものは必要無いと思いましたが…念の為。」
蒼摩が慇懃(インギン)に答えると──
「信用されていない様だね、私は。」
「お気に障ったのなら謝ります。こう見えて、心配性なものですから。」
澄ました顔をして切り返す蒼摩。
真織を前にしても、全く臆する風が無い。
稀代の狐霊遣い相手に、対等にものが言えるなんて…その気位の高さは賞賛に値する。
場も弁(ワキマ)えず感心していると、今度は一慶が歩み寄って来て、背後に立った。シャランと鈴の様な音がして、ボクの首にペンダントが掛けられる。
「一慶…これ何?」
「御守りだ、着けてろ。」
「御守り?」
中央に、蓮の花──。
その上下左右に小さな三ツ又の鈎爪が付いた、不思議な型のペンダント・トップが、ボクの胸元で金色に輝いている。
「これは《羯磨(カツマ)》と言うんだ。お前にやるよ。」
羯磨──。
この形に一体どんな意味があるのか、ボクは知らない。だけど、その金属的な重みは、少しだけ不安を取り除いてくれた。
真織は気を害した様に、きつく双眸を眇めたが…直ぐに元の無悲な表情に戻り、冷たく言い放った。
「じゃあ、行きましょうか。」
──そう言うなり、ボクの肩を抱き寄せる。
「いいですか、首座さま?私から離れてはいけませんよ。貴女は目立ち過ぎるんだ…良くも悪くもね。」
ピタリと体を付けると、真織はボクの腕を自分の腰に巻き付けた。
「腕は、こう。こうして密着する事で、貴女が私の一部となる様に、目眩ましを掛けます。亡者共に決して見付からない術をね。」
身長差がある所為で、ボクの体は、真織の脇にスッポリと押し包まれる形になった。
何やらこのまま、闇の中に拐(サラ)われてしまいそうで怖い。
この様子を、端で眺めていた一慶は、不愉快そうにピクリと片頬を引き攣らせた。
門を潜り抜ける一歩手前で、真織は、ふと後ろを振り向く。
「お父さん、貴方はどうします?着いて来るのか、来ないのか?」
「…私は残って、護摩を焚く。」
険しい顔で答える父に、真織は『護摩ね』と呟いた。
「…今更、遅い。」
誰にも聞こえない声で、小さく嘲ける。
そうして。真織の言うがまま、ボク等は門の向こうに一歩を踏み出した。
呻き声。哭き声、叫び声。
亡者達の叫喚が空間に充ち充ちている。
嘆いているのか、怒っているのか。
そもそも、亡者に『心』が有るのかどうかすら、ボクには解らなかった。
想像を絶する死者の世界──。
魂は、命の終わりと共に失ってしまうものだと思っていた。
だが。彼等は死して尚、こうして苦しみ叫び、歩き続けている。
朽ちたその体の何処かに、ほんの僅かでも人間らしい感覚が残っているのか──それとも。生前の感情が、残像の様に焼き付いているのだろうか?
オォォ……
オォォ……
言葉にならない叫びを上げながら、亡者の群が行く。
重い罪を背負った死者達が、腐敗した肉の塊をズルズルと引き摺りながら、ひたすら《黄泉の国》を目指して移動している。
悪夢の様なその光景を、ボクは真織の腕の隙間から眺めながら歩いた。
《黄泉比良坂》──根の国へ向かう道。
いつか見た地獄絵図そのままの、凄惨で壮絶な場所だ。
嘗ては人間だった者達が、見るも浅ましい姿に変わり果て、其処ら中を這っている。
肉の削げ落ちた体。
露出した頭蓋骨。
眼窩から抜け落ちた目玉が、ドロリと溶けて顎の先に垂れ下がっている。
辛うじて皮膚片が張り付いている者もいれば、僅かばかり残った体毛を、突き出た骨の間から、ユラユラと揺らめかせている、骨格標本みたいな者もいた。
腕の無い者。
足を失った者。
頭が半分しか無い者。
亡者達は皆、体の何処かしらが欠損している。乱れたその姿に、ボクは幾度も吐き気をもよおした──が。
やがて見慣れて、驚かなくなった。
恐怖に対する感覚が、麻痺してしまったのかも知れない。スプラッター映画を、連続で百万本も観た様な感覚だ。
『もうすぐ到着します…』
頭の中に声が響く。他心通(タシンツウ)だ。
驚いて見上げると、其処には、真織の無感動な眼差しが在った。
冷たく凍る、眼鏡の奥の瞳。
ボクを抱き寄せる逞しい腕だけが、火の様に熱い。
『ほら…すぐ其処に見えているでしょう?あれが当家の離れですよ』
言われて、ふと顔を上げると…成程。
黒い瓦屋根の、小さな日本家屋が、虚空にボンヤリ浮かんで視えた。
あれが、向坂家の離れ…だが。
どうやって彼処へ行けば良いのだろう?独り思案を巡らせていると、感情の籠らない声で真織が言った。
『離れには黄泉の門から入るのです』
──門?
何処に、そんなものが??
『良く御覧なさい。門は目の前です』
(え…何処??)
『ほら』と顎で示されて視線を巡らせると、いつの間にか、ボク等の前に巨大な門が出現していた。
重く垂れ込める庇(ヒサシ)。
真っ黒な屋根瓦。
太い門柱の前には、身の丈一丈はあろうかという巨人が、左右に一体ずつ立っている。
何とも恐ろしい姿だ。
八本ある長い手で、歩み寄る亡者達を無造作に鷲掴んでは、門の中にポイポイ放り込んでいる。
『何、あれ!?』
『あれは、黄泉軍(ヨモツイクサ)。黄泉の国の《鬼》ですよ』
…よもついくさ?
ボクは改めて、二体の巨人を見た。
痂(カサブタ)だらけの顔。
長く尖った耳。
鼻は無く、暗い空洞になっている。
伸びた黒い舌が、ダラリと地に投げ出され…その舌先は、まるで別の生き物みたいに、地面の上でチロチロと蠢いていた。
四つもある目は、縫い付けられた様に、全てピタリと閉じている。気味の悪い八本の長い手が、大きな背中から突き出して──まるで、蜘蛛だ。
『…彼処で何をしてるんだろう?』
すると。
ボクの呟きに、真織が答えた。
『彼等は冥府の門番です。門前に立って、亡者を罪状毎に選り分けているのですよ』
『鬼の門番!?其処をボク等が通るの??』
『大丈夫です。黄泉軍には見えません。彼等は眼が見えないのです』
『そう…良かった…』
ホッと胸を撫で下ろすと、不意に真織が言った。
『首座は他心通がお上手ですね』
あ…いつの間にか、ボクは…!?
『構いません、その方が私も楽です』
そう語る真織の瞳に、一瞬だけ、いつもの優しさが戻った気がした。
《黄泉軍》は、八臂(ハチビ)を交互に繰り出して、次々に亡者達を鷲掴んでいた。
車輪の様にブンブン振り回される腕。
鎌の様な鉤爪に乱暴に掴まれて、亡者の体がグシャリと潰れる。
そうして一度バラバラになった骨は、門の向こう側に到達した途端、ザワザワと寄り集まって再び亡者の姿に戻った。
凄まじい光景だ。
あの腕に掴まれたら、生身のボク等も、唯では済まないだろう。
少し怖かったが──。
真織の指示に従って、ボク等はタイミング良く《黄泉の門》を抜ける事が出来た。
…門柱の横を通り抜ける一瞬。
《黄泉軍》の長い腕がブン!と勢い良く振り降ろされ、ボクの体の直ぐ脇を掠めた。
真織がクイと引き寄せてくれたので、巧く躱わす事が出来たけれど…流石に、冷や汗は禁じ得なかった。
彼等の腕は、あまり器用でないらしい。
一度振り降ろすと、次のストロークに入る迄に、やや時間が掛かる。
だから、八本もあるのだろうか?
擦れ違い様に見た黄泉軍は、『何か』を仕留め損ねた…という事が判ったのか、醜怪な顔を巡らせて、キョロキョロと辺りを見回していた。
門を抜けると、其処は現実世界だった。
山の中。見渡す限りの赤松林。
頭上高く鳶が鳴いて、空に大きな円を描いている。
目の前には、獣道の様な頼りない一本道が細く長く延びていた。他には何も無い。さっきまでの凄惨な風景が嘘の様だった。
「あれが、離れです。」
真織の指差す先に、黄泉比良坂で目にした平屋の建物があった。だけど…。
「これを何とかしないと通れませんね。」
足元を見て、蒼摩がボソリと呟いた。
苔むした幾つもの倒木が、細い山道を塞いでいて、足の踏み場も無い。建物は目と鼻の先にあるのに、其処へ繋がる一本道は完全に封鎖されている。
永い間、下界との行き来が無かった事を、あからさまに物語る光景だ。
「酷いな、予想以上だ。或る意味、黄泉比良坂より凄惨な光景だな。」
ぶつぶつボヤキながらも、一慶は散乱する倒木を片付け始めた。真織と蒼摩も、各々に作業を始める。
ボクも手伝おうとしたけれど…
「あー。危ないから、お前は此方に来んな。その辺で、適当に休んでろ。」
…と言う具合に。
あっさり、一慶に止められてしまった。
あれでも一応、ボクを女性扱いしたつもりなのだろうか?却(カエ)って気味が悪い。
実際。ボクが手伝わなくても、ものの数分と経たぬ間に道は開通してしまった。
鬱蒼と生い茂る、草木の海。
その奥に、古びた向坂家の離れ家が佇んでいる。
漸く辿り着いた離れは、見た目以上に老朽化が進んでいた。外廻りからも、破れて桟(サン)だけになった障子戸が、はっきりと確認出来る。
割れたガラス。
穴の空いた雨戸。
壊れ掛けていた裏木戸は、一慶が馬鹿力を振るったお陰で、完全に倒壊してしまった。
「俺は、扉を開けようとしただけだ。」
「でも壊れましたよね、結果として。」
「俺が破壊したとでも?」
「そうです。他に誰がいるんですか。」
一慶と蒼摩の掛け合い漫才は、こんな時でも健在だった。この緊張感の無さ。たった今、死者の世界を見て来たとは思えない。
それからボク等は、生い茂る雑草を掻き分ける様にして、玄関に辿り着いた。引戸に手を掛け、滑らせようとしたが…
ガタガタ、ガタ。ガタガタ!
扉は、恐ろしく建て付けが悪かった。
建物に入る前に、また暫し苦戦する羽目になる。
それにしても、妙だ。
鍵は開いている筈なのに、引戸はビクとも動かない。何度か力任せに引いている内に…
ガタン!
「あれ?」
扉が溝から外れてしまった…。
「あ~あ、壊してやがる。薙の馬鹿力。」
何だと──?
一慶だけには言われたくない!
引っ掻いてやろうかと身構えた途端、蒼摩がボクの袖を引いた。
「見て下さい、首座さま。」
指差す方向に綿埃だらけの廊下がある。
その壁には…
「血痕…?」
「みたいですね。」
くすんで変色してはいたが、明らかにそうと判る大量の血液の跡が残っていた。
「古いものですが、かなりの出血です。…生きていてくれると良いのですが。」
蒼摩の冷静な分析は、ボクを俄かに不安にさせた。
「とにかく探すしかないだろう?二手に分かれるか。」
一慶に背を叩かれて、何とか気を取り直す。
喩え『どんな姿』でも、今は二人を探すしかない。
「紫、何処だ!」
それまで沈黙を守っていた真織が、突如大きな声で叫んだ。だけど返事は無い。
「千里さんは?」
「解りません。私も暫く、此の家には来なかったので。」
ボクの質問に早口で答えながら、真織は次々と部屋の襖戸を開けていった。
──タン!ガタン!
家のアチコチで、襖や戸が開く音がする。
蒼摩は棟続きの納屋を、一慶は東側の客間を──各々、捜索していた。ボクも負けじと、探し回る。
…それほど広くもない邸内。
程無く、尋ね人の一人が見付かった。
「おい、こっちだ。」
東側の和室の前で、一慶が手招きする。
表情が固い。
嫌な予感がする。
ボクと真織が駆け付けると、和室の中には、既に蒼摩が居て、畳に片膝を着き両手を合わせていた。
「…蒼摩…?」
そっと声を掛けると、蒼摩は静かに顔を上げてボクを見た。
「…遅かったみたいです。」
そう言って、畳の上に目線を落とす。
其処には、半ば白骨化した遺体が横倒わっていた。乱れた長い髪の中に、ドス黒く縮んだ小さな顔が埋まっている。
豪華な赤い西陣織りの振袖を着た、『女性』と思われる人物が、布団の上に整然と寝かされていた。
枯枝の様な両手は、胸の上できちんと組まれてある。
「これ…は…?」
「母です。」
感情の篭らない声で呟く真織。
「左の薬指に見覚えのある指輪が…。」
見れば確かに。
萎びた左の薬指に、血赤の珊瑚が填め込まれたプラチナの指輪が、そこだけ不思議な程生き生きと、美しい輝きを放っていた。
…綺麗に調えられた遺体。
こんなに丁寧に、死出の旅支度を調えたのは──
「…紫。紫は?」
ハタと気付いて、ボクは駆け出した。
探さなくては。
一刻も早く探さなくては──紫を!