六星行者【一之卷】~銀翼の天子

 遥は、険しい表情で、柱のヤモリを見詰めていた。キリキリと意識を集中させている。

──何か、する気だ。

 息を顰めて見守っていると、遥の右手がスイと動いた。人差し指と中指をピンと揃えて突き立て、自分の額より、少し高めの位置に構える。

 この指の『形』は、知っていた。
『刀印』と呼ばれる印契(インゲイ)である。
《六星体術》でも屡々、形に入る前の精神集中法として用いられる、破邪の構えだ。

まさか…この小さなヤモリが?

 息詰まる緊張の中…。
遥は束の間、眼を閉じて深呼吸をした。それから、狙いを定める様に、刀印の先をヤモリに向けて突き出す。次の瞬間──。

「臨兵闘者、皆陣列在前!」

 気迫の籠る声と共に、印を結んだ指で、宙を縦横に斬り裂いた。

ピィィ───────!

 鋭い断末魔の声と共に、ヤモリの体が散々に砕ける。ボクは思わず顔を背けた。閉じた瞼の裏側に、凄惨な光景が過る。

 肉が飛び散り、骨が砕け──。

千切れた内臓と体液が、其処ら中に巻き散らされる…そんな悪夢の様な光景が、まざまざと脳裡に浮かんだ。

 ──だが。恐る恐る目を開け振り向くも、ヤモリの死骸らしき物は、回廊の何処にも見当たらない。

ただ…『それ』が張り付いていた付近に、白い紙吹雪がハラハラと舞っていた。

 ピカピカに磨かれた床には、砕けた肉片の代わりに、降り積もった真っ白な紙片が、こんもりと小山を為している。

 何だろう、これは?
溢れ落ちた一枚を拾おうと手を伸ばすと、何処からか涼やかな風が吹いて来て、あっという間に、それを吹き飛ばしてしまった。

「あ…!?」

 紙片の山が、瞬く間に風に拐われる。
気が付けば──辺りは、まるで何事も無かったかの様に、綺麗に片付いていた。
「おはよう、薙。」
「おはよ…。遥、今の何?」
「鍵爺の《式》だよ。」
「え──?」

 あれが噂の…。

「全くもう、あの爺さんは──!よくもまぁ毎日毎日、性懲りも無く仕込んでくれるよ。本当に、暇なんだから!!」

 遥は、ふわふわの前髪を乱暴に掻き上げてボヤいた。

「あれが鍵島の──?」
「うん、俺の祖父が仕込んだ式神。」
「え?? 祖父!?」

 思わず素頓狂な声を挙げてしまう。
突き付けられた真実に、ボクは激しく混乱した。

「え?…いや、ちょっと待って。つまり鍵島の大叔父様と遥って──?」

「うん。鍵爺は、俺のオカンの父親なんだ。ゴメンね、変態で。」

 済まなそうに、苦笑して見せる遥。
まさか、彼と鍵島の大叔父が因戚関係にあったとは…。

衝撃的な事実の前に、ボクは言葉を無くしてしまった。それを見た遥が、怪訝に眉根を寄り合わせる。

「あれ?? もしかして知らなかった?」
「…知らなかった…」

 初耳だ、そんな相関図は。
遥とは再従兄弟(マタイトコ)であると教えて貰ってはいたが、鍵島惟之の孫だとは訊いていない。

 ボクが、そう言うと──。
遥は、少しバツが悪そうに頭を掻いて言った。

「鍵島家は、オカンの実家なんだ。鏑木に嫁いで姓が変わったから、薙が解らなくても無理ないよ。因みに爺ちゃんは、甲本家から鍵島家に婿養子に入った人なんだ。」

 ──婿養子。成程、そういう事か。
今日は朝から、驚きの連続だ。お陰で、眠気も吹き飛んだけれど。
 そうして遥は、母屋に向かう道すがら、鍵島家の詳細を語ってくれた。

「…鍵島家はね。平安時代、宮廷の中務省・陰陽寮に仕えた、陰陽師の家柄なんだ。」

「陰陽師…」

 茫然とするボクを見て、遥は、やっといつもの笑顔に戻った。

「鍵島家縁りの者の多くが《式神》を使役出来るのは、その所為だよ。あれは本来、陰陽道の術だからね。六星行者は密教の僧侶だから、式神は使わない。…というか『使えない』のが普通なんだ。」

 それを聞いて。
ボクはふと、一慶の言葉を思い出した。

『一座の中でも、式神を使えるのは限られた人物だけだ』

 確かに、彼も同じ事を言っていた──。
成程。あれは、こういう意味だったのだ。

「少し難しくなるんだけれど。」

 そう前置きをしてから、遥は語り始めた。

「良い機会だから、仏教と陰陽道の違いを教えてあげるよ。仏教の伝来は、飛鳥時代だ。聖徳太子が、国の思想統一を図る目的で広めた、外来の宗教だって事は…勿論、知っているよね?」

「うん。」

    
「陰陽道は、それより後──平安時代に、中国の『陰陽五行』の思想を承(ウ)けて誕生した、日本独自の呪術なんだ。仏教・道教・神道の影響を承けながら、宮廷貴族を中心に広まったんだよ。だから、仏教と同じ真言を用いる術が、沢山ある。今、俺がやったのは『九字切り』と云われるもので、密教でも陰陽道でも、わりとポピュラーに使われている『破邪法』だよ。映画や漫画なんかで、見た事ない?」

「うん、ある…」

 遥の言う様に…『九字』は、意外にも『ポピュラー』な呪文だ。

大昔の忍者映画や時代劇などにも、屡(シバシバ)そういう場面を見掛けるし、一部のコミックやアニメーションでも、登場人物の決め技として使われている。

格好良いイメージもあるし、真言などに比べれば認知度は高いだろう。

 …陰陽師の存在と、同じくらいには…。

 尤(モット)も。
実際に、それを遣(ツカ)う場面に出会(デクワ)したのは、ボクも初めてだ。まるで映画でも見ている様で…未だ何処か、現実感が無い。

 遥は、ボクの理解が追い付くのを待ちながら、順を追って話を続けた。

「他にも、陰陽道には、仏教の影響を強く承けたと思われる点が多々あるんだ。例えば…有名な陰陽師・安倍晴明。彼は、式神として『十二神将』という、仏教の神々を従えたと言われている。そんな風に、陰陽道には、密教の術法を積極的に取り入れる姿勢が伺える。同じ時代に空海や最澄が現れて、密教が急速に広まったからね。影響を受けるのは、当然だったのかも知れないけれど。」
 遥の丁寧な解説を聞いて、思わず『成程』と唸ってしまった。

…つまり。陰陽道は、間口が広いのだ。
あらゆる思想や宗教を貪欲に吸収しながら、時代と共に大きく発展している。

 強かで、抜け目ない呪術──。
それは、『日本人の気質』そのものの様にも思えた。

 そんな感想を率直に伝えると、遥も笑いながら同意してくれた。

「まぁ確かに、柔軟性はあるよね。陰陽道は、自然現象を解明する思想から、呪術へと発展したものだけれど…平安中期からは、いろんな宗教に感化されて、どんどん進化していったんだ。《星占い》みたいな事もしていたんだよ?」

「星占い!? そんな事もするの?」

「うん。密教には『宿曜経(スクヨウキョウ)』と云って、星の動きで物事の吉凶を測る修法(スホウ)があるんだ。陰陽道では《天文道》と呼ばれるものが、それに該当するんだよ。最初は占いに過ぎなかった天文道も、密教の影響を承けてからは、学術的に発展したんだ。」

「へぇ…」

 ──遥は、凄い。
知識も豊富だし、良く研究もしている。
きっと沢山、修行したのだろう。

見掛けに依らず勤勉な一面を知って、ボクは素直に感心してしまった。

 ボクが大学で受けた宗教学の講義は、あくまでも、学術的・歴史学的な側面からアプローチした内容がメインだ。だから、密教の修法に関する詳しい内容までは、解らない。

 だが。遥の話を聞けば、占いと宗教の関連性や解釈の違いを、明確に知る事が出来る。

今まで、解りそうで解らなかった概念が、少しずつ此方に近づいて来てくれているようで…何やら、眼から鱗が落ちた気分だ。

 今日は、朝から目を見張る事ばかり起こる。
中でも、鍵島家の家系に関わる真実などは、一番の驚きと言えるだろう。
「ねぇ、遥。一つだけ訊いて良い?甲本家と鍵島家は、古くから交流があったの??」

 ボクが尋ねると、遥はカクンと首を傾げて、考える様な仕草を見せた。

「うーん…交流と言うか。鍵島家は元々、甲本家の分家なんだ。そこには、行者なのに、何故か陰陽師になっちゃった変わり者の御先祖がいてね。鍵島元成(カギシマモトナリ)って云うんだけれど…その人が、現在の《鍵島流》の祖となったんだ。」

「じゃあ、その人…えーと…元成さんは、行者を辞めて陰陽師になっちゃったの?」

「いや。それがどうも、そういう訳ではないらしいんだよね。」

「どういうこと?」

 疑問を投げ掛けるボクに、遥は、慎重に言葉を選びながら説明した。

 ──平安の昔。

行者の家の三男として生を受けた鍵島元成は、《六星一座》の行力に、陰陽道の術力を取り込もうと考えていた。

そこで。自ら師に就いて修行し、名実共に《陰陽師》となったのである。

 晴れて、陰陽寮に仕える身となった元成だったが…その裏では『式神を遣う行者』として、以前と変わりなく、六星一座でも活躍していた。

この時生まれた『特異な修法』の数々は、今の世にまで伝えられている。

「つまり、元就さんは陰陽寮をスパイしていたの?」

「いや。寧ろ、術者同志の情報交換が目的だった様だね。」

 遥は苦笑しながら言った。

「陰陽道と密教…互いの長所を併せる事で、より高度で強力な『行法』を確立したかったんだろう。つまりギブ・アンド・テイクの関係を築いたんだ。上手く互いを利用しつつ、天皇の御世を法力で護ったのさ。この元成の決断が、現在の六星行者に《式神遣い》という新しい流派を作ったんだ。」

 式神遣いの鍵島家──。
その霊流の夜明けは、一人の行者の意外な転身から始まったのだ。
 ボク等は、長い長い回廊を巡りながら、長い長い話に花を咲かせた。会話の合間に何度か立ち止まっては、仕掛けられた式神を排除する遥。

 近頃は、これが彼の朝の日課になっていると言う。

「ボクの所為《せい》で…ゴメンね、遥。」

「厭《いや》だな、どうして謝るの?薙は全然悪くないよ。気にしない気にしない、ね?!」

 屈託の無い遥の笑顔は、いつもボクを安心させてくれる。和やかな雰囲気のまま…ボク等は漸く、西の渡殿を行き過ぎた。

 そうして。
母屋の入口に差し掛かった時のこと──

「あれ…?」

中庭の『奇妙な風景』に目が留まり、ボクはふと足を止める。

「遥、見て。秋なのに梅が咲いている。」
「え──?」

 中庭に視線を投げた途端、遥は、僅かに双眸《そうぼう》を眇《すが》めた。

「ぅわ、最悪…!」

 傾斜の弛い遥の眉が、忽ちギュッと寄り合わされる。吐き捨てた呟きは、いつにない緊張と嫌悪感に満ちていた。

 ボク等が見詰める先には、季節外れの紅梅が咲き乱れている。

厳しかった残暑も漸く峠を越し、涼風が吹き始めた初秋の中庭──其処に。

一本の梅の木が、目にも鮮やかな紅を湛えて、これ見よがしに立っていた。

    
染まり始めたナナカマドより楓より、なお紅い梅の花。

 …それは、とても奇妙な光景だった。

秋風にそよぐ紅梅の花弁は、宛(サナガ)ら、指先に滲んだ血の滴を彷彿とさせる。

鮮烈で生々しい『紅』だ。
綺麗だけれど、少し怖くもある。

 ふと傍らを見遣(ミヤ)ると──遥は、両手を腰に当てた姿勢のまま、ガクリと項垂れていた。

「そう来たか…」
「遥?どうしたの??」

遥の様子がおかしい。
覗き込もうと近付いたら、突然ガバッと顔を上げて叫んだ。

「糞!ごっつ腹立つ、あの老い耄れ!!」
「…え…?」

 遥の豹変振りに驚いて、ボクは思わず後退った。

──怒っている。何故だか良くは解らないけれど、物凄く怒っている!遥のこんな顔は、それまで見た事がなかった。

深く刻まれた眉間の縦皺。
ピクピクと引き攣る頬。
リスの様に大きな瞳は爛々と燃え盛り、目尻が吊り上がって三角形になっている。

なまじ綺麗な顔立ちをしているだけに、怒りの形相は凄まじく、何やら般若面を彷彿とさせた。

「あったま来た!きっちり降伏(ゴウブク)してやる!! 手加減しねぇからな、クソ爺!」

「え…な、何!?」
 身の毛もよだつ様な呪詛を吐くと、遥は回廊の際に立った──と、不意に。ボクを振り返るや、はんなり笑って、こんな事を言う。

「ごめんね、薙。危ないから、ちょっとだけ下がってくれる?今、めっちゃ気合い入れて、あれを破るから。」

…『破る』?

 言い終わるが早いか、遥は、胸の前で両手を交差した。指先をスッと伸ばし、両の親指と小指で輪を作る。

 あぁ…これも知っている。
軍荼利明王(グンダリミョウオウ)の印だ。

《六星体術》では、精神集中の構えとして用いていたが──つまり、あれ等は全て、行者が使う『印契』を流用したものなのだ。

 もしかしたらボクは…自分でも良く解らない内に、親父から、行の基礎を習っていたのかも知れない。──そう、《六星武術》を媒介にして。

 この場にそぐわぬ感慨に耽っているボクを他所に、遥は険しい表情で、前方を睨め付けていた。

いつもの朗らかな笑みは跡形も無く消え失せ、峻厳な行者の顔になっている。梅の木に掛けられた何等かの術を、渾身の力で『破ろう』としているのだ。

 神々しくも近寄り難いその雰囲気は、当に、悪鬼を踏みしだく軍荼利明王そのものである。

優しい遥を、こんなに怒らせるなんて…
鍵島の爺ちゃん、冗談が過ぎるよ。

そろそろ悪巫山戯(ワルフザケ)は辞めにして欲しい。遥が、あまりにも気の毒だ。