六星行者【一之卷】~銀翼の天子

「やっぱりね。違うもんは違うんだよ。」

 少し真顔になって、彼は言った。

「誰かに似せようと頑張ったところで、結局そうはなれない。だけどそれは当前の事なんだ。皆、この世で唯一つの存在なんだから。」

 その通りだ。どんなに努力しても、ボクは親父にはなれない。所詮、真似事は真似事だ。

 不意に黙り込んだボクに、遥はフワリと渋面を解いた。

「髪も人の『一部』だからね。百人いれば百通りの個性がある。髪質だって、いつも同じじゃない。体調によっても日々違ってくる。人気モデルと同じ様になりたくても、なれないのが当たり前だ。『その人』にしか似合わない髪型、『その人』だからこそ映えるメイクってのがあるんだよ。それを無理に真似したところで、似合うとは限らない。」

 遥が何を言いたいのか…何と無く解ってきた。じっと耳を傾けていると、不意に鏡の中で目が合う。

 遥は、ふんわり笑い掛けながら続けた。

「真似をする事が悪いとは言わない。チャレンジ精神は大切だ。『自分を変えたい』という気持ちもね。だけど、外見は似せられても、中身まで似せる事は到底不可能なんだよ。誰かの《偽者》になるだけだからね。そんな無意味な努力をするくらいなら、自分流のスタイルを自由に楽しんだ方が、全然愉しいよ。そう思わない?」

 何気ない風を装っているけれど…。
遥の言葉は全て、ボクに向けられたものだと解った。迷う心に、直接訴え掛けてくる。

「…『理想』に近付きたいのなら、『今』をありのままに受け止めなきゃね。現状把握は大切だ。それが出来なきゃ改善も発展も無い。先ずは、自分を好きになる事から始めたらどうかな?何かを始める前に、自分を否定しちゃったら、忽ち先に進めなくなるよ?」

「……。」

 それは、とても説得力のある言葉で…
ボクは妙に納得してしまった。遥は、ボクが抱える不安の因が何処にあるのか、ちゃんと気付いている。

だからこそ、遥なりの方法で励まそうとしているんだ。
「皆各々、長所と短所がある。でも、そういうの全部ひっくるめて『自分』なんじゃない?型に填める事で、自分本来の良さを打ち消してしまうなんて…そんな勿体ない事、薙にはして欲しくないな。」

シャキン!

また、ハラリと髪の束が落ちた。
遥の細く長い指で、何度も何度も掬い取られる。

鋏を入れる度に、どんどん新しい自分に変わってゆく。それは、とても不思議な感覚だった。

 仕上げにドライヤーを充てた後、櫛で型を整えながら遥は言う。

「この先、薙がどんな結論を出すのか解らないけれど…。もし、当主になる道を選ぶのなら、薙にしか出来ない遣り方で、薙らしい当主になれば良いよ。先代の真似なんてしなくていい。変えたいと思ったら、どんどん変えて良いんだ。だから、あまり考え込まないで。見ている俺まで辛くなるよ。」

「遥…」

 言葉を詰まらせるボクを気遣う様に…遥は、クシャリと髪を掻き混ぜる。

「ほら、笑って。悩み過ぎは、肌にも髪にも良くないよ。」

「髪にも?」

「うん。頭皮のコンディションが悪くなって、抜け毛が増えたりすることがある。だから、悩み事も程々に。──さ、出来たよ!」

 そう言うと、遥はサッとケープを外した。
 大きな鏡の中には、少し大人びた自分が映っていた。

「どう?大人っぽくなったでしょ?」
「うん…自分じゃないみたいだ。」

「長さは殆ど変えていないんだ。全体的にボリュームを抑えて、サラサラの髪が生きる様に、毛先を軽くしてみたんだよ。」

 つまり…どういう事なのだろう?
確かに、前より随分軽くなった感じはする。襟足の辺りが、特に──。

 頭を左右に動かして鏡を覗き込んでいると、遥がスッと手鏡を取り出して、後ろ姿を見せてくれた。合わせ鏡で見る自分の後髪は、見た目も軽やかに変わっている。

「うん…いいかも。」

 切った髪の毛の分だけ、心が軽くなった気がした。

「ね? 髪型が変わっても、薙は薙のままだったでしょう??」

「そうだけど…何だか、いつもと気分が違う。」

「少しだけ、後押ししたんだよ。」
「後押し?」
「そ。薙の『親離れ』の後押し。」

 遥は、パチリと片眼を瞑った。
『親離れ』…か。確かにそうかも知れない。

「イメージ・チェンジは、そういう意味合いでするもんだよ。ほんの少し、自分を後押しするだけで良い。本当に変われるかどうかは、自分次第だ。」

「うん。少し解ってきた。」

 自分は自分──
誰かの真似じゃない道を、選ぶ。
自立とは、結局そういう事なのかも知れない。

「気に入った?」
「うん、とても。ありがとう、遥。」
「どういたしまして。」

遥は、ニッコリ笑って答えた。
 肝心な結論は未だ出せなかったけれど、遥のお陰で気持ちだけはスッキリした。

午後から店に顔を出すという彼を、玄関まで見送った後──ボクは、急に時間を持て余してしまう。

 暇だな…何をしよう?
当初の予定通り、あの広大な庭を散策してみようか?

 庇の下から覗き見た庭は、ゆらゆらと陽炎が揺れている。

外は、まだ暑そうだ。
夏の盛りを過ぎたアブラゼミが、暑苦しい声で鳴いている。

 季節の変わり目とは云え、まだまだ残暑は続いていた。空は蒼く澄んでいるのに、蒸れた風が鬱陶しい。

 散歩は、やめて措こう。
また熱中症で倒れたりしたら洒落にならない。
祐介辺りに、強(シタタ)か嫌味を言われる事になるだろう。

 ブラブラと回廊を渡り、西の対屋に向かいながら、ふと思い出した。

そう云えば──。
昨夜、祐介が言っていたっけ。

『東の対屋には行った?』
『面白いよ、伸之さんの部屋』

…………
…………
ちょっとだけ。
ほんの少しだけ、覗きに行ってみようかな?

──それは、そんな些細な好奇心からの行動だった。
 東の対屋(タイノヤ)は、甲本家当主のプライベート・スペースだ。風呂も厨房も寝室も、全て此処に揃っている。

 …それにしても。

プライベートスペースに、対屋一軒分も必要なのだろうか?沸々と湧き起こる疑問を胸に渡殿を行き過ぎると、《東の対》への道は、仕切り戸で封鎖されていた。

これ以上、先へ進めない。
仕方が無いので中庭に降り、外から廻ってみる事にした。

確か…小上がりの石段付近に、下駄箱が隠してある筈なんだけれど…?

ボクは床に這いつく張る様にして、石段の辺りに手を伸ばした。

 …あった!
回廊の下──根太の柱に打ち付ける様に、小さな下駄箱が設えてある。スラリと扉を開けて、中から小さめの下駄を取り出した。

中庭に降り、東の対屋へと廻り込めば、直ぐにそれと判る壮麗な瓦屋根が見えて来る。

 凄い威圧感だ。…流石は、六星首座の私邸だけある。幾重にも裳越(モコシ)を纏った屋根も、尋常でない太さの柱も…造りの全てが重厚かつ豪奢で、ボクの様な田舎者は、只々、目を見張るばかりだ。

庭の景色も一際雅やかで、細部に渡って贅を凝らした造りになっている。

 …何だろうか、この非現実的な世界は。
これを全部一人で使えと…?

信じられない。
まるで殿様じゃないか。
「この様子じゃ、中も嘸(サゾ)かし豪華なんだろうな…。」

 誰にともなく、ボクは呟いた。

この古さと豪華さから察するに、中にはきっと国宝級のお宝が、わんさか飾られているに違いない。

…見たい。でも困ったな。
回廊には、やはり雨戸が立てられていて、中には到底入れそうにない。

中庭から建物の周囲を、グルりと廻ってみたけれど、猫の子一匹も潜り込め無い程、厳重に封鎖されていた。

 ──つまらない。折角ここまで来たのに。

 独りその場に立ち尽くしていると、建物の向こうから、此方に近付いて来る人影が見えた。

「…っんだよ。何処も開いてねぇじゃねぇかっ!つまんねぇな!!」

 ぶつぶつと呟きながら、玉砂利を派手に蹴散らしている。

…誰だろう?
如何にも柄の悪そうな若い男だ。

 赤く染めた短髪に、吊り上がった目。
高くて細い鼻梁と、大きめの口。
真ん中にスカルがプリントされた、真っ赤なTシャツを着ている。

ブラックジーンズに鋲打ちのベルト。
腰に下がった太いチェーンが、歩く度にチャラチャラと音を立てていた。

 それに、あの耳…!
ピアスが沢山付いている。
シルバーの──でも全部、形が違う。
お約束の安全ピンまで、当然の様にぶら下がっていた。

    
首の回りに、子犬用の細い首輪が二本、交差する様に巻かれてあるが──あれは一応、お洒落のつもりなんだろうか? 何やら、見ていて息苦しい。

 それにしても派手な人だ。

この屋敷では、あまりお目に掛れないタイプだが、闖入者にしては、いやに堂々としている。

 一体、何者なのだろう…?
真っ赤な服の若い男は、先程から頻りに辺りを見回している。

 大きく後ろを振り返った瞬間…。
剥き出しの右肩から二の腕に掛けて、黒いタトゥーが刻まれているのが見えた。

龍が剣に巻き付いた様な不思議な図柄…
もう見るからに気合いの入ったパンク青年だ。

 これは…あまり関わり合いにならない方が良いかも知れない。気付かれない様に、そっと踵を返した──その時だった。

 玉砂利が『チャリ…』と音を立てて、不幸にも、彼と目が合ってしまった。

「──んぁ?!」

 男が怪訝に片眉を吊り上げる。
…やはり、挨拶ぐらいして措くべきだろうか?

「こ…こんにちは…」
「────。」

返事が無い。
真一文字に唇を結び、射る様な眼差しをボクに注いでいる。

 …ややあって。
男が、漸く口を開いた。

「お前、誰?」 
そんな事を訊いて来るという事は、どうやら、この屋敷の人ではなさそうだ。

部外者なら…遠慮する事はないか。

ボクは、鋭く射抜く男の眼光に負けじと、高く顎を聳やかして誰何(スイカ)した。

「そっちこそ、誰?」
「あぁ?」
「ボクは甲本薙。貴方は?」
「甲本…薙だぁ?」

「名前、教えたよ。そっちも名乗るのが礼儀でしょ?」

 赤い髪の男は、ニヤリと片側の口角を吊り上げた。

「甲本を名乗るって事は、あれか?お前が《金の星》の新しい当主か?」

「…だったら、どうする?」

 まだ当主になるとは決めていないけれど──
弱気な素振りを見せるのが嫌で、ボクは睨み返した。

「なんだよ…まだガキじゃねぇか。おう、お前!しょっぱなから、なに鼻息荒げてんだ?? 喧嘩売ってんのかよ?」

 挑戦的な視線を投げつけながら、男はゆっくり近付いて来る。玉砂利を踏む足音が、否応なしに緊迫感を高めた。

ジャリ…ジャリ……
ジャリ……

 そうして。
男は、目の前でピタリと足を止める。ボクより頭ひとつ半程も背が高い。その身長差で高圧的に見下ろしながら、男は言った。

「…ってことは、あれだ。お前が、次代の首座か?第五六一世・金剛首座さまかよ!」

言葉の最後は、拳と一緒に出てきた。
ボクは咄嗟にその手を取って、男の右脇下に潜り込む。そのまま体を捻って右肩に担ぎ上げると、男の体がフワリと浮いた。

宙で一回転して、下に落ちる。

 ズシャア────!

派手な音と共に、真っ白な玉砂利が四方に飛び散った。
「い───ってぇな、畜生!」

 下品な叫び声が響き渡る。

「てめ…っこの糞餓鬼!何すんだよっ!?」
「先に仕掛けたのは、そっちだ。」
「…へぇ…?」

男は、のそりと身を起こして言った。

「面白れぇガキだなぁ、お前。」

 仮にも初対面の相手に、『この糞餓鬼』はない。幾ら年上でも失礼だと思う。

…怒って良いだろう、これは。

 無言で睨(ネ)め付けてやると、男は素早く立ち上がって、体を解す様にグルリと左右の肩を回した。

「…ま、いいや。折角だから、お相手して貰おうか。新しい首座さまのお手並み拝見だ。」

そう言って、コキコキと首を鳴らすと…男は、軽く足を開いて腰を落とした。両手を胸に構えて、右足を半歩下げる。

これは《東天》の構え──。
防御より攻撃を目的とする、スピード技中心の形だ。

 ボクは下駄を脱ぎ、裸足になると、西天の構えで対峙した。

「…ふん。《東天》の攻撃には《西天》の防御ってか?セオリー通りで面白くねぇな。」

 男は、何処までも挑発的だった。
不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと両腕を回す。

「型通りじゃ俺は倒せねぇぞ、首座さま!」

 猛る叫びと共に、攻撃が始まる。
素早く繰り出される両手の突き。避ける度に、空を斬る音が耳元に響く。

ブン!
ブン、ブン──ブン!!

 ボクは、右に左に身を沈ませて攻撃を避けた。最後の突きは、左の手刀で叩き落とす。

ザッ!と音を立てて、男の足が玉砂利の上を滑った。

…互いの拳圧が打つかり合った証だ。

「いいね、いいね!チビの癖に、なかなか良い動きするじゃねぇ?…んじゃ、次はこうだっ!」

 崩した態勢を立て直すと、直ぐに鋭い蹴りが飛んで来た。体を反らせてそれを避けた處ろへ、男の手刀が振り下ろされる。

 ブン!

間一髪。頭を傾けて攻撃を躱わした刹那、手刀の先が、ボクの右頬を掠めて行った。

 …ちょっと…危なかった。