「やっぱりね。違うもんは違うんだよ。」
少し真顔になって、彼は言った。
「誰かに似せようと頑張ったところで、結局そうはなれない。だけどそれは当前の事なんだ。皆、この世で唯一つの存在なんだから。」
その通りだ。どんなに努力しても、ボクは親父にはなれない。所詮、真似事は真似事だ。
不意に黙り込んだボクに、遥はフワリと渋面を解いた。
「髪も人の『一部』だからね。百人いれば百通りの個性がある。髪質だって、いつも同じじゃない。体調によっても日々違ってくる。人気モデルと同じ様になりたくても、なれないのが当たり前だ。『その人』にしか似合わない髪型、『その人』だからこそ映えるメイクってのがあるんだよ。それを無理に真似したところで、似合うとは限らない。」
遥が何を言いたいのか…何と無く解ってきた。じっと耳を傾けていると、不意に鏡の中で目が合う。
遥は、ふんわり笑い掛けながら続けた。
「真似をする事が悪いとは言わない。チャレンジ精神は大切だ。『自分を変えたい』という気持ちもね。だけど、外見は似せられても、中身まで似せる事は到底不可能なんだよ。誰かの《偽者》になるだけだからね。そんな無意味な努力をするくらいなら、自分流のスタイルを自由に楽しんだ方が、全然愉しいよ。そう思わない?」
何気ない風を装っているけれど…。
遥の言葉は全て、ボクに向けられたものだと解った。迷う心に、直接訴え掛けてくる。
「…『理想』に近付きたいのなら、『今』をありのままに受け止めなきゃね。現状把握は大切だ。それが出来なきゃ改善も発展も無い。先ずは、自分を好きになる事から始めたらどうかな?何かを始める前に、自分を否定しちゃったら、忽ち先に進めなくなるよ?」
「……。」
それは、とても説得力のある言葉で…
ボクは妙に納得してしまった。遥は、ボクが抱える不安の因が何処にあるのか、ちゃんと気付いている。
だからこそ、遥なりの方法で励まそうとしているんだ。
「皆各々、長所と短所がある。でも、そういうの全部ひっくるめて『自分』なんじゃない?型に填める事で、自分本来の良さを打ち消してしまうなんて…そんな勿体ない事、薙にはして欲しくないな。」
シャキン!
また、ハラリと髪の束が落ちた。
遥の細く長い指で、何度も何度も掬い取られる。
鋏を入れる度に、どんどん新しい自分に変わってゆく。それは、とても不思議な感覚だった。
仕上げにドライヤーを充てた後、櫛で型を整えながら遥は言う。
「この先、薙がどんな結論を出すのか解らないけれど…。もし、当主になる道を選ぶのなら、薙にしか出来ない遣り方で、薙らしい当主になれば良いよ。先代の真似なんてしなくていい。変えたいと思ったら、どんどん変えて良いんだ。だから、あまり考え込まないで。見ている俺まで辛くなるよ。」
「遥…」
言葉を詰まらせるボクを気遣う様に…遥は、クシャリと髪を掻き混ぜる。
「ほら、笑って。悩み過ぎは、肌にも髪にも良くないよ。」
「髪にも?」
「うん。頭皮のコンディションが悪くなって、抜け毛が増えたりすることがある。だから、悩み事も程々に。──さ、出来たよ!」
そう言うと、遥はサッとケープを外した。
大きな鏡の中には、少し大人びた自分が映っていた。
「どう?大人っぽくなったでしょ?」
「うん…自分じゃないみたいだ。」
「長さは殆ど変えていないんだ。全体的にボリュームを抑えて、サラサラの髪が生きる様に、毛先を軽くしてみたんだよ。」
つまり…どういう事なのだろう?
確かに、前より随分軽くなった感じはする。襟足の辺りが、特に──。
頭を左右に動かして鏡を覗き込んでいると、遥がスッと手鏡を取り出して、後ろ姿を見せてくれた。合わせ鏡で見る自分の後髪は、見た目も軽やかに変わっている。
「うん…いいかも。」
切った髪の毛の分だけ、心が軽くなった気がした。
「ね? 髪型が変わっても、薙は薙のままだったでしょう??」
「そうだけど…何だか、いつもと気分が違う。」
「少しだけ、後押ししたんだよ。」
「後押し?」
「そ。薙の『親離れ』の後押し。」
遥は、パチリと片眼を瞑った。
『親離れ』…か。確かにそうかも知れない。
「イメージ・チェンジは、そういう意味合いでするもんだよ。ほんの少し、自分を後押しするだけで良い。本当に変われるかどうかは、自分次第だ。」
「うん。少し解ってきた。」
自分は自分──
誰かの真似じゃない道を、選ぶ。
自立とは、結局そういう事なのかも知れない。
「気に入った?」
「うん、とても。ありがとう、遥。」
「どういたしまして。」
遥は、ニッコリ笑って答えた。
肝心な結論は未だ出せなかったけれど、遥のお陰で気持ちだけはスッキリした。
午後から店に顔を出すという彼を、玄関まで見送った後──ボクは、急に時間を持て余してしまう。
暇だな…何をしよう?
当初の予定通り、あの広大な庭を散策してみようか?
庇の下から覗き見た庭は、ゆらゆらと陽炎が揺れている。
外は、まだ暑そうだ。
夏の盛りを過ぎたアブラゼミが、暑苦しい声で鳴いている。
季節の変わり目とは云え、まだまだ残暑は続いていた。空は蒼く澄んでいるのに、蒸れた風が鬱陶しい。
散歩は、やめて措こう。
また熱中症で倒れたりしたら洒落にならない。
祐介辺りに、強(シタタ)か嫌味を言われる事になるだろう。
ブラブラと回廊を渡り、西の対屋に向かいながら、ふと思い出した。
そう云えば──。
昨夜、祐介が言っていたっけ。
『東の対屋には行った?』
『面白いよ、伸之さんの部屋』
…………
…………
ちょっとだけ。
ほんの少しだけ、覗きに行ってみようかな?
──それは、そんな些細な好奇心からの行動だった。
東の対屋(タイノヤ)は、甲本家当主のプライベート・スペースだ。風呂も厨房も寝室も、全て此処に揃っている。
…それにしても。
プライベートスペースに、対屋一軒分も必要なのだろうか?沸々と湧き起こる疑問を胸に渡殿を行き過ぎると、《東の対》への道は、仕切り戸で封鎖されていた。
これ以上、先へ進めない。
仕方が無いので中庭に降り、外から廻ってみる事にした。
確か…小上がりの石段付近に、下駄箱が隠してある筈なんだけれど…?
ボクは床に這いつく張る様にして、石段の辺りに手を伸ばした。
…あった!
回廊の下──根太の柱に打ち付ける様に、小さな下駄箱が設えてある。スラリと扉を開けて、中から小さめの下駄を取り出した。
中庭に降り、東の対屋へと廻り込めば、直ぐにそれと判る壮麗な瓦屋根が見えて来る。
凄い威圧感だ。…流石は、六星首座の私邸だけある。幾重にも裳越(モコシ)を纏った屋根も、尋常でない太さの柱も…造りの全てが重厚かつ豪奢で、ボクの様な田舎者は、只々、目を見張るばかりだ。
庭の景色も一際雅やかで、細部に渡って贅を凝らした造りになっている。
…何だろうか、この非現実的な世界は。
これを全部一人で使えと…?
信じられない。
まるで殿様じゃないか。
「この様子じゃ、中も嘸(サゾ)かし豪華なんだろうな…。」
誰にともなく、ボクは呟いた。
この古さと豪華さから察するに、中にはきっと国宝級のお宝が、わんさか飾られているに違いない。
…見たい。でも困ったな。
回廊には、やはり雨戸が立てられていて、中には到底入れそうにない。
中庭から建物の周囲を、グルりと廻ってみたけれど、猫の子一匹も潜り込め無い程、厳重に封鎖されていた。
──つまらない。折角ここまで来たのに。
独りその場に立ち尽くしていると、建物の向こうから、此方に近付いて来る人影が見えた。
「…っんだよ。何処も開いてねぇじゃねぇかっ!つまんねぇな!!」
ぶつぶつと呟きながら、玉砂利を派手に蹴散らしている。
…誰だろう?
如何にも柄の悪そうな若い男だ。
赤く染めた短髪に、吊り上がった目。
高くて細い鼻梁と、大きめの口。
真ん中にスカルがプリントされた、真っ赤なTシャツを着ている。
ブラックジーンズに鋲打ちのベルト。
腰に下がった太いチェーンが、歩く度にチャラチャラと音を立てていた。
それに、あの耳…!
ピアスが沢山付いている。
シルバーの──でも全部、形が違う。
お約束の安全ピンまで、当然の様にぶら下がっていた。
首の回りに、子犬用の細い首輪が二本、交差する様に巻かれてあるが──あれは一応、お洒落のつもりなんだろうか? 何やら、見ていて息苦しい。
それにしても派手な人だ。
この屋敷では、あまりお目に掛れないタイプだが、闖入者にしては、いやに堂々としている。
一体、何者なのだろう…?
真っ赤な服の若い男は、先程から頻りに辺りを見回している。
大きく後ろを振り返った瞬間…。
剥き出しの右肩から二の腕に掛けて、黒いタトゥーが刻まれているのが見えた。
龍が剣に巻き付いた様な不思議な図柄…
もう見るからに気合いの入ったパンク青年だ。
これは…あまり関わり合いにならない方が良いかも知れない。気付かれない様に、そっと踵を返した──その時だった。
玉砂利が『チャリ…』と音を立てて、不幸にも、彼と目が合ってしまった。
「──んぁ?!」
男が怪訝に片眉を吊り上げる。
…やはり、挨拶ぐらいして措くべきだろうか?
「こ…こんにちは…」
「────。」
返事が無い。
真一文字に唇を結び、射る様な眼差しをボクに注いでいる。
…ややあって。
男が、漸く口を開いた。
「お前、誰?」
そんな事を訊いて来るという事は、どうやら、この屋敷の人ではなさそうだ。
部外者なら…遠慮する事はないか。
ボクは、鋭く射抜く男の眼光に負けじと、高く顎を聳やかして誰何(スイカ)した。
「そっちこそ、誰?」
「あぁ?」
「ボクは甲本薙。貴方は?」
「甲本…薙だぁ?」
「名前、教えたよ。そっちも名乗るのが礼儀でしょ?」
赤い髪の男は、ニヤリと片側の口角を吊り上げた。
「甲本を名乗るって事は、あれか?お前が《金の星》の新しい当主か?」
「…だったら、どうする?」
まだ当主になるとは決めていないけれど──
弱気な素振りを見せるのが嫌で、ボクは睨み返した。
「なんだよ…まだガキじゃねぇか。おう、お前!しょっぱなから、なに鼻息荒げてんだ?? 喧嘩売ってんのかよ?」
挑戦的な視線を投げつけながら、男はゆっくり近付いて来る。玉砂利を踏む足音が、否応なしに緊迫感を高めた。
ジャリ…ジャリ……
ジャリ……
そうして。
男は、目の前でピタリと足を止める。ボクより頭ひとつ半程も背が高い。その身長差で高圧的に見下ろしながら、男は言った。
「…ってことは、あれだ。お前が、次代の首座か?第五六一世・金剛首座さまかよ!」
言葉の最後は、拳と一緒に出てきた。
ボクは咄嗟にその手を取って、男の右脇下に潜り込む。そのまま体を捻って右肩に担ぎ上げると、男の体がフワリと浮いた。
宙で一回転して、下に落ちる。
ズシャア────!
派手な音と共に、真っ白な玉砂利が四方に飛び散った。
「い───ってぇな、畜生!」
下品な叫び声が響き渡る。
「てめ…っこの糞餓鬼!何すんだよっ!?」
「先に仕掛けたのは、そっちだ。」
「…へぇ…?」
男は、のそりと身を起こして言った。
「面白れぇガキだなぁ、お前。」
仮にも初対面の相手に、『この糞餓鬼』はない。幾ら年上でも失礼だと思う。
…怒って良いだろう、これは。
無言で睨(ネ)め付けてやると、男は素早く立ち上がって、体を解す様にグルリと左右の肩を回した。
「…ま、いいや。折角だから、お相手して貰おうか。新しい首座さまのお手並み拝見だ。」
そう言って、コキコキと首を鳴らすと…男は、軽く足を開いて腰を落とした。両手を胸に構えて、右足を半歩下げる。
これは《東天》の構え──。
防御より攻撃を目的とする、スピード技中心の形だ。
ボクは下駄を脱ぎ、裸足になると、西天の構えで対峙した。
「…ふん。《東天》の攻撃には《西天》の防御ってか?セオリー通りで面白くねぇな。」
男は、何処までも挑発的だった。
不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと両腕を回す。
「型通りじゃ俺は倒せねぇぞ、首座さま!」
猛る叫びと共に、攻撃が始まる。
素早く繰り出される両手の突き。避ける度に、空を斬る音が耳元に響く。
ブン!
ブン、ブン──ブン!!
ボクは、右に左に身を沈ませて攻撃を避けた。最後の突きは、左の手刀で叩き落とす。
ザッ!と音を立てて、男の足が玉砂利の上を滑った。
…互いの拳圧が打つかり合った証だ。
「いいね、いいね!チビの癖に、なかなか良い動きするじゃねぇ?…んじゃ、次はこうだっ!」
崩した態勢を立て直すと、直ぐに鋭い蹴りが飛んで来た。体を反らせてそれを避けた處ろへ、男の手刀が振り下ろされる。
ブン!
間一髪。頭を傾けて攻撃を躱わした刹那、手刀の先が、ボクの右頬を掠めて行った。
…ちょっと…危なかった。