六星行者【一之卷】~銀翼の天子

「薙。」

 独り物思いに耽っていると、祐介が急に顔を近付けて言った。

「向こうに座って。立ちっ放しじゃ、話も出来ないよ。」

「…うん。」

 促されて座ってはみたけれど、どうにも居心地が悪い。

それもその筈。ボクは今…閉ざされた空間に、祐介と二人きりなのだ。然程、親しい訳でもなく──況してや、第一印象が最悪だった彼と。

 慣れない雰囲気に緊張していると、スイとグラスを差し出された。

「どうぞ。」
「あ…ありがと。」

 蒼いグラスに、なみなみと注がれたのは、水晶を溶かした様な澄んだ日本酒だった。手吹きガラスの水玉模様が映り込み、キラキラと輝いている。

…宛ら、夜の雫を集めたみたいに。

 ふと顔を上げると、祐介が静かな笑みを履いて、ボクを見ている。細めた眼差しに促されて…ボクはそっと、グラスに唇を近付けた。

 仄かに、フルーツの様な香りがする。
透明な雫の集まりを口に含んだ刹那…舌に、ピリッと程良い刺激を感じた。

まろやかな口当たり。
雑味も濁りも無い、上品な後味の酒だ。
ゆっくりと喉の奥に流し込めば、微かな熱がポウッと体中に拡がる。

 これは、日本酒ならではの温もりだ。
キン!と冷えた酒が体内に入ると、瞬時に熱に変わる。

その少し後から、フワリと良い香りが鼻孔に返って来て──

美味しい!
良く磨かれた、純米の大吟醸だ。
 この味と香りには、覚えがあった。

あぁ。
何ヵ月振りだろう、これを呑むのは?

「これ、『鶴峯』の大吟醸だね?」
「ご名答。良く判ったね。」
「この味は良く知っているもの。」
「あぁ。伸之さんが好きだった酒だ。」

 ボクは頷いた。

…そう。親父は、これに目が無かった。
そして『鶴峯酒造』は、ボクがアルバイトをしていた酒蔵でもある。

親父の紹介で始めた仕事だ。
鶴峰の杜氏と親父は旧知の仲で…ボク等は良く、酒蔵へ遊びに行った。親父と出掛けた、数少ない思い出の一つである。

…………
…………
何だろう、この感覚?
酒が体に染み込んだ途端、ボクの中の記憶の鍵が解き放たれてしまったみたいだ。

 懐かしくて、少し苦しい。
親父と一緒に過ごした幼い頃の思い出が、一度に胸に迫って来る。

それに…あの、掛け軸。
此処には、親父の面影が生きたまま詰まっていて、辛くなる。

 俯いていると涙が出そうだったので、ボクは、自分から話題を変えた。

「ねぇ。祐介はどうして…こんな所で、独りで呑んでいるの?」

「どうして?さあ…どうしてだろう。」

 硝子の酒器から溢れた光が、瑚珀の瞳の中に反射している。

「敢えて言うなら…眠るには惜しい気がしたから、かな。」

「どういう意味?」

「そうだね…多分、僕も浮かれているんだろう。皆と同じでね。」

「浮かれている?? 祐介が?…嘘だ。」

「嘘じゃないよ。キミが此処に居るというだけで、全ての魂が活性化している。…ほら、見てごらん。」

 ──そう言って。
祐介は、丸い格子窓をサラリと開け放った
 月が見える。
その下に、虹色を帯びた淡い雲。
明るい星がひとつ、二つ…そして。
降り注ぐ月光を受けて、鑓水(ヤリミズ)がサラサラと流れていた。

他には、何も見えない。
漆黒の闇ばかりだ。

「…月が、何か??」

 意図する處ろが解らず問い掛けるボクに、祐介は只、首を横に振る。そうして、小さく手招きをした。

 ──何だろう?
訳も解らぬらまま、丸窓に近付くと…

「外を良く見ていて。」

 耳元に囁きながら、祐介がフッと明かりを消した。真の闇が訪れた…その刹那。無数の淡い光の粒が、ゆらゆらと宙に浮いているのが見えた。

 綿毛にも似た白い光──これは…

「蛍?」
「蛍に見えるかい?」
「違うの??」
「…もっと良く見て。」
 彼に言われた通り、ボクは精一杯、窓辺に身を乗り出した。

目を凝らして良く見れば、蛍だとばかり思っていた光の粒達は、ひとつひとつ形も色も違っているのが判る。

「蛍じゃない…何なの、これ?」

 怪訝に首を傾げた途端。光の粒が一つ、ふっとボクの目の前に降りて来た。

そうして。微かな明滅を繰り返しながら、フワリフワリと虚空に円を描き始める。

(…何?)

 思わず窓の外に手を差し延べると、光はスッと近寄って来て、ボクの掌に乗った。

「え──!?」

 手の上に降りたモノを見て、ボクは忽ち凍り付く。白く光る玉の中に、見た事も無い《生き物》がいて不気味に蠢いていた。

「ぅわ──っ!?」

ボクは思わず、悲鳴を挙げる。

 それは、全く奇妙な形をしていた。
頭部は鬼、下半身は蛇か竜の様に見える。

山羊の様に捻れた角が、二本。
口には、小さな牙まで生えていた。

「な、何これっ?!」

「魍魎(モウリョウ)だよ。水に棲む自然霊だ。」
「霊?──痛っ!!」

 突如、鋭い痛みが走った。
魍魎がボクの掌を噛んでいる。小さな牙が食い込んで離れない。

痛みのあまり、ボクは慌てて手を振り払う。その途端…光の玉は、泡雪の様に熔けて消えた。

    
 痛い…。
魍魎は去ったけれど、掌には小さな咬み傷の痕が残った。

こんな事が、あるのだろうか?
霊が攻撃して来るなんて!?

 信じ難い気持ちで、自身の掌を眺める。

…ふつふつと湧き出る血の雫。
右中指の付け根付近に、二つ並んだ小さな穴が空いている。微かな痛みは、紛れも無く現実のものだった。

半ば茫然とそれを眺めていると…不意に、祐介が覗き込んで来た。

「…噛まれた?」
「うん、少しだけ。」
「見せて。」

 有無を言わさず手を引き寄せられる。
親身な様子で傷口を眺める彼に、思い切ってボクは訊ねた。

「今の、あれ…本物だよね?」
「本物だから噛まれたんだろう?」
「魍魎って噛むの?」

「ごく偶に攻撃してくる事はあるよ。身の危険を感じた時なんかにはね。普段は、大人しくて無害なものだ。あまり心配しなくて良い。」

「…無害じゃないよ。噛まれたもの。」

 ボクが拗ねると、祐介はフワリと破顔して言った。

「あれは、愛情表現だよ。」
「愛情表現!?噛むのが?どうして??」

「彼等は『言葉』を持たない。だから、噛んだんだ。キミに自分達の『存在』を知らせたくてね。」

「え?」
「初めてだろう、こういうものを視たのは?」

 ボクは、コクリと頷いた。
所謂る『霊』という存在には、生まれてこのかた縁が無い。

勿論、姿を『視る』のも初めてだ。

    
 知る由もなかった、異世界の住人達──
存在すら意識した事も無い…なのに。
何故、急に視(ミ)えたりしたのだろう?

「彼等はキミに会いに来たんだよ。本来は、とても用心深いんだ。水辺の草むらに隠れ棲んで、滅多に人前に姿を見せたりはしない。こんな風に行者の前に、のこのこ顕われたりはしないものだよ。見付かった途端、消されてしまうからね。なのに…キミに焦がれるあまり、危険を冒して姿を顕した。憐れで小さな訪問者達さ。」

「ボクに会いに…?何故!?」
「キミが当主の血を引く人だから。」
「血…また、それ?」

 不満を込めたボクの呟きと、突拍子も無い祐介の行動は、ほぼ同時だった。

「──っ!?」

 思わず、ヒッと喉を鳴らす。

祐介が…ボクの掌に唇を押し当てるなり、流れていた血を、舌先でペロリと舐め取ったのである。

「ちょっ…祐介!」
「──応急処置。」
「自分で出来るから!離して!!」

 慌てふためくボクを見て、祐介は悪戯に笑った。

「キミの血は甘いな。」
「へ、変な事言わないでよっ!」

 振り払おうともがけばもがく程、祐介は面白がって、ボクの手に舌を這わせた。

指の間を舐ぶられ る感触に、ゾクリと肌が粟立つ。
 湿った舌先。
吹き掛けられる生温い吐息に、押し殺した喉から、奇妙な声が洩れる。

 物も言えず身を竦めるボクを、上目遣いに見上げながら…祐介は言った。

「本当に──キミの血は甘い。甘露の様に喉に沁みるよ。それに、とても良い香りがする。僕達にしか判らない『首座の味』だ。」

「祐介…」

「この血を慕って、これからもっと多くの魂が集まって来る。皆、嬉しいんだ。この家に当主が還って来てくれて。」

「…ボクは未だ…当主じゃない、よ…」

「それでも、血は裏切らない。些少な魍魎達ですら、キミが『何者なのか』を本能的に知っている。一度は失われた存在──だが、こうして再び『キミ』という継承者を得た。だから、喜んでいるんだよ。」

 そんな!ボク…

ボクは未だ…当主になるかどうかも決め予ていると言うのに!?

「…僕は、事実を言ったまでだ。だけど、怖がらせちゃったのなら謝るよ。」

 こちらの動揺が伝わったのか、祐介の声が少しだけ優しくなった。

「でもね、薙。これだけは覚えておいて?首座の血は甘い誘い水だ。全ての魂が寄る辺るとする。生ける者も、死せる者も──皆、首座の救済を待っている。だからこそキミに、無条件の愛情を注ぐんだ。皆が浮かれているのは、その所為だよ。皆、キミに救いを求めている。首座によって与えられるそれを、心待ちにしているんだ。」

「救いだなんて…出来ないよボク、そんな大それた事!」

「──そうかな?少なくとも、ここにいる連中は、キミを当主と認めたようだよ?」

「ちょっと待ってよ。ボクは未だ何も…」
「僕も…待っていたんだよ。」
「え?」

 そう言うと──。

祐介は含みのある眼差しで、ボクを覗き込んだ。
「待っていたって…何を?」
「勿論、キミを。」
「どうしてそこまで」

「キミが《神子》だからだよ。決まっているじゃないか。」

 此方が言い終わらない内に、彼は畳み掛けて来た。

「キミに逢えて、本当に嬉しかった。僕が仕える当主は可愛い女の子で──しかも《神子》だと言う。六星行者として、こんなに幸運な巡り合わせは無いよ。神子とは文字通り『神の子』だ。生まれながらに、比類なき力を備えている。僕は是非、キミに首座に就いて欲しいと思っているよ。」

 祐介は、ボクが首座になると、確信している様だった。

何を根拠にそう思うのか、ボクには解らない。もしかしたら、何かしらの思惑があるのかも知れない。

 月に群雲が掛かる様に…ボクの未来にも、みるみる暗雲が立ち込めた。

彼等の熱意にほだされて、このままズルズルと当主に祀り上げられちゃあ堪らない。

流されない様に気を付けなければ…。

「他に質問は?」
「え?」

「まだ何か釈然としないって顔をしているね。僕で解る事なら、何でも答えるよ?」

「それ…さっき、一慶にも言われた。」
「カズが?へぇ…」

 …また、だ。
ボクが一慶の名を出した途端、祐介の表情が、また少し鼻白んだ様に見えた。

何やら奇妙な感覚に捉われて、ボクはふと尋ねてみる。


    
「ねぇ。二人は仲が悪いの?」
「え?」
「だって。昨日も喧嘩してた…」

「だから仲が悪いのかって?本当に、そんな事が知りたいの??」

 コクリと頷けば、彼は呆れた様に溜め息を吐いた。

「そんなに仲が悪そうに見える?」

「──少し。」

 正直に答えると、祐介はぷっと噴き出した。

「心配しなくてもいいよ。これでも僕等は信頼し合っているんだ。幼馴染みだしね、互いの長所も短所も知り尽くしている。仲が悪いんじゃない、馴れ合っているだけだよ。キミには、そう見えないのかも知れないけどね。」

「そうなの?」

「少なくとも、《四天》としてキミを支えるには全く支障がないから、安心して。」

「ふぅん?」

 思わず鼻を鳴らしてしまう。
つまり。喧嘩する程仲が好い…ってやつなのかな?

「じゃあ、もう一つ訊いて良い?どうして祐介は、一慶を『カズ』って呼ぶの?」

「どうして?──あぁ、そうか。キミは知らなかったんだね。いや、知らなくて当然か…」

 独り言の様に呟くと、祐介は一度外した目線を確りとボクに合わせた。

「そう大した理由じゃないよ。皆は、彼を『いっけい』と呼んでいるけれど、彼の本名は『かずよし』なんだ。」

「かずよし?甲本かずよし…?」