六星行者【一之卷】~銀翼の天子

【序】

宇《そら》に、六星在り。

金。火。水。

風。土。木。

世に禍《まが》つ星現るる時、

金剛の星、宇より降りて人の身を纏い、

乱世を惑わす悪しき天魔を討つ。

          ──六星天河抄より。
 ──最悪の夏だった。

暑さのあまり、殆ど溶けそうになりながら、ボクは街の中をフラフラと歩いている。

覚束無い足取り。

首筋を伝い落ちる汗。

虚ろに吹き抜ける風が、アスファルトに隠る熱を、悪戯に撒き散らしている。

 気温39℃。湿度18%──。

苛烈な放射熱と、目映い照り返し。
陽炎揺らめく繁華街は、僅かな日陰にも涼を感じる場所が無い。

 酷い夏だ。最悪の夏だ。
拭っても拭っても噴き出る汗。
街路樹に停まった油蝉が、狂った様に啼き喚いている。

 暑い──。

手を翳して天を仰げば、街角の電光掲示板が、更なる気温の上昇を告げていた。新たに示された外気温は、ボクの平熱を5℃以上も上回っている。

肌を射す紫外線。ヒリヒリと痛む頬。
汗ばんだ背に、薄いTシャツが張り付いて気持ちが悪い。

 暑い──

まるで、オーブンの中に閉じ込められている様だ。

羽を毟られ、美味しく調理される七面鳥の気分を想像してみる…。

チリチリと煙を上げる表皮。
沸点を越えて、煮え滾(タギ)る血液。
薄い皮膚から染み出た脂肪が、ジュウと蕩けて滴り落ちる…。

 リアルなその想像は、今措かれている状況と、悉く符合した。

あぁ…
ボクは、一体どうしてしまったんだろう?
本当はもう、考える事すら厭わしいのに、馬鹿げた妄想が止まらない。

熱く蒸れた空気が、なけなしの理性を狂わせる。
「あぁもう!一体何処なんだよ、此処は!?」

 不安と苛立ちの中で、ボクは叫ぶ。
綺麗に整った街並みは、まるで迷宮の様だった。

もう随分歩いた筈なのに、なかなか目的地に辿り着けない。人に道を尋ねたりもしたが、説明がマチマチで、さっぱり要領を得なかった。

 見知らぬ土地をさ迷う孤独が、益々ボクを追い詰める。最早、自分が何処に居るのかさえ解らない。

 それに、この茹だる様な暑さ…。
思考力は衰える一方だ。

ボクを導く唯一の羅針盤は、叔父が描いた適当極まりない路線図と、下手くそな手書きの周辺地図だけ…。これがまた剰りにも御粗末で、満足に読み解く事も出来ない。

今更助けを呼ぼうにも、モバイルフォンは充電切れ。明らかに、ナビゲーションアプリの過剰使用が原因である。

唯一の助けの綱も、こうなれば無用の長物だ。救援ツールを失ったボクは、文字通り、八方塞がりである。

 それにしても暑い。もう限界だ。
肩に担いだリュックが、一際重く感じられる。

──いけない。
意識が遠くなってきた…。
足が縺れる。目が霞む。

熱中症という病の恐ろしさを、ボクは、今更ながらに痛感していた。

このままでは死んでしまう。
まるで、夏の陽に焼かれて干からびてゆく、哀れな蛙の様に──。

 妄想が、気力の限界を超えた一瞬。
急な眩暈に襲われて、ボクはヘナヘナと座り込んでしまった。そのまま、ぐったりと倒れ込む。

酷い頭痛と吐き気。
目の前に、きらきらと金の粉が舞っている様な錯覚が起きる。

 これはいけない。熱中症の典型的な症状だ。助けを呼ばなければ、歩く事も出来ない。

そう頭では思うのに、上手く声が出せなかった。喉の奥が引っ付いたように固着して、悲鳴ひとつあげられない。

 朦朧とする脳内に、繰り返す言葉は唯一つ。

暑い…暑い…

あつ…い……

…………

 そうして。思考が止まると同時に、ボクの自我は闇に墜ちた。
 世界が暗転して、間も無く──。
俗に言う『お迎え』とやらが、やって来た。
天国は思いの外、近場にあるらしい。

…それとも。死者には、時間の経過など関係無いのだろうか?

『ちょっと、あなた大丈夫?』

 混沌とする意識の中で聞く、天使の囁きは、アニメ声。些(イササ)か俗っぽいと言えなくもないが、これも、日本のサブカルチャーに対応したサービスなのだろう。

 知る由もなかった死後の世界──。
天国の意外な真実に、つくづく感心していると、再びあの特徴的な声が呼び掛けてきた。

『大丈夫かって訊いてんのよ?ねぇちょっと、聞こえないの?』

 ──天使は、日本語が堪能だった。
やはり神の使いともなれば、それなりの語学力を備えているのだろう。ボクが返事をしないので、少し苛立っている様だ。

無視をしているつもりは無いが、何しろ身体が言う事を聞かない。天使なら、寧ろ、此方の事情を察して欲しいとさえ思う。

 ボクは死んだのだ。声など出せる筈が無い。このまま安らかに、引導を渡してはくれまいか?

十九歳という若さで生涯を終えるのは、本意じゃないが…これも、天命というものだろう。

無宗教ながら、心の中で十字を切る。

 
安らかな気持ちで、神のお召しを待っていると、突然ピタピタと頬を叩かれた。

「こらっ!こんな所で寝ちゃダメでしょう!? 起きなさい──起きてってば!!」

 天使が、ボクの体を激しく揺らす。
鼻を摘まみ、耳を引っ張り、頬をムニムニと揉み上げる。

随分と手荒な介抱だ。ぞんざいに扱われて、ボクは少しばかり不機嫌になる。

 …なんて乱暴な天使だろう。

生前の信心が足りなかったボクに、非があると言われれば、それまでだが──こうして天に召されたからには、もっと優しく対応してくれても良さそうなものを。

…すると天使は、突然、声を荒らげた。

「ねぇ!いい加減、目を覚ましてよ!あんた、マジでヤバいってば!! せめて日陰に移動しなさい!本当に死んじゃうわよ!?」

 ──『本当に死んじゃう』?
つまり、ボクはまだ生きているのか??

言われてみれば、確かに。
遠くで、人のざわめきが聞こえる。
此処は未だ、道の真ん中だ。焼けたアスファルトが直かに肌に触れて、ジリリと熱い。

日陰…
そうだ、早く日陰に移動しなければ。

天使の『お告げ』の通り、『本当に死んでしまう』。その上、通行の妨げにもなる。迷惑行為と道路交通法違反で、人の道すら外れてしまう。

 ボクは、渾身の力で身動(ミジロ)ぎした。

だが、立つどころか、寝返りも打てない。小さな手が懸命にボクの腕を引っ張るけれど…グタリと脱力した体は、一ミリも動かなかった。

 四肢に力が入らないのは、何故なのか?
こんなに頑張っているのに、指の一本も動かせない。まるで、自分の身体ではなくなったかの様に──

(あぁ…もう、これ以上は…。)

不意に、真っ暗な絶望が舞い降りる。
ぐったりと力尽きたまま、ボクは死を覚悟した。

最早、これまで。
残念だが、ボクは運が無かったのだ。

だから、天使さま。
そんなにボクを引っ張っらないで。
肩が…脱臼してしまうじゃないか…。

 意識が薄れ掛けた、その刹那──

「動けないのか?困った奴だな。」

突然、見知らぬ男の声が聞こえて、体が、ふわりと軽くなった。

両手と両足が宙に浮いている。
誰かがボクを持ち上げている。
一体、誰が──?
 それは、とても懐かしい感覚だった。
遊び疲れて眠り込み、父の腕にそっと抱上げられた──あの、幼い頃の記憶が甦る。

膝裏にガッシリと挿し込まれた逞しい腕が、遠い日の郷愁を呼び覚ます。

(誰──?)

なけなしの力で薄目を開ければ、逆光の中、大きな黒い影がボクを覗き込んでいた。

「ほら、しっかりしろ。暴れるなよ?振り落すぞ。」

 …綺麗なバリトンの声。かなり上背のある、若い男性である。父親以外の男に抱き上げられたのは生まれて初めてで…一瞬、体が強張った。

 ちょっと待て。
これは所謂る『お姫様抱っこ』というやつではないか!?

やめてくれ!!
ボクは小さな子供じゃない。
こんな往来で、冗談じゃないぞ──!

 叫ぼうとして口をパクパクさせていると、先程のアニメ声が横から口を挟んで来た。

「どうする?このまま病院に連れて行く??」

「そうだな。祐介に連絡してくれ。やっと見つかった、てな。」

 盛大な溜め息を吐くと、男は、ボクを抱えたまま大きく方向転換した。為す術も無く運ばれて、見知らぬ車の後部座席に押し込まれる。その途端、急に恐ろしくなった。

 本当に…助けてくれるのだろうか?
もしかしたら、このまま如何わしい場所へ連れて行かれるのではないか??

そこには如何にも人相の悪い輩がいて、あんな事やこんな事を──

(嘘だろう?神様、助けて──!!)

 心の叫びは、神に届かなかった。
耳障りなエンジン音と共に、動き出す車。
差し迫る恐怖と不安の中で、ボクの意識は、再び緩やかに暗転していった。