そこには滝がある。
神秘的なまでに繊細で、衝動的になる程豪快な滝が流れる。
周囲は森と草で囲まれ、何者もその景色を汚す事はできない。
そんな場所にたった一人……迷い込んでしまった少年がいた。
「ここは……」
ゆっくりと流れる滝に近寄る。
そこで少年は目を疑った。
竜がいる――
流れ落ちる滝の水。
その水を身体で受け止めるように眠っている。
道理で神秘的なはずだ。
まさに神秘の象徴とも言える存在が、そこに居たのだから。
白銀のウロコを纏い、巨大な翼を休めている。
少年が近寄ると、竜はゆっくりと閉じていた瞳を見開く。
「あっ……えっと……」
目が合ってしまった少年は、その眼光に戸惑いを見せる。
しかし視線は逸らさなかった。
そんな少年を見つめていた竜が、重い口をゆっくりと動かす。
『珍しいな――ここに生きた人間が来るとは――』
「生きた……人間?」
『ここは生と死の境界――死に行く運命にある魂が、冥界へ降る途中で迷い込む場所だ』
「死に行く運命……」
少年が呟く。
そして思い出す。
自分がこの場所へ辿り着く前の出来事を……次に悟った。
ああ、そうか……。
俺……死んだのか。
今から約1時間ほど前の事。
季節は夏。夏休み真っ只中の少年は、仲の良い友達と山奥の川辺へ遊びに来ていた。
インドア派で普段はほとんど外で遊ばない少年だったが、この日は幼馴染の少女にほぼ無理やり連れて来られている。
さらにこの時は、とある事情から落ち込んでおり、とても遊ぶ気分ではなかったのだ。
最初は呆けていた少年だったが、幼馴染に手を引かれ川へ入る。
しかしそれがいけなかった。
遊ぶ気が無い中途半端な状態で川へ入ってしまった少年は、不規則に来る波に足を捕られる。
倒れ込む途中、少年の手は少女の手をするりと抜け、少年だけが波となった。
「それで流された後は、苦しくて気を失ったんだっけ? そりゃあ死ぬよな……」
『何をぼやいているのだ? 少年、君はまだ生きているぞ』
「えっ? でも今、死ぬ運命とか言ってた気が……」
ここで少年は最初に竜が言った一言を思い出す。
珍しいな――ここに生きた人間が来るとは――
「思い出した様だな? 少年」
「で、でもだったら何で俺……こんな場所にいるんだ? あの時確かに川へ……」
『簡単な話だ』
少年の疑問に、竜は親切に答えを教えた。
『お前はまだ生きている。だがおそらく瀕死なのだろう。このまま放っておけば死ぬ……だからこの場所に迷い込んだのだ』
「そっか……」
なんだ……
やっぱり死ぬんだな……俺。
「ん? ちょっと待って、という事はつまりあんたも同じなの?」
『何の話だ?』
「あんたも俺と同じ死にかけなのかなって話」
寝そべっていた竜が、ゆっくりと起き上がる。
そうして自身の事を語りだした。
『その通りだ少年。我もお前と同じ死に損ないの魂よ……これでも我は不老不死を司る竜でな。どんな事があっても死なん。大昔に致命傷を受けたが、こうして生きながらえている。ただ肉体を失ってしまった所為で、もう二度とここから出る事は叶わんがな……』
「もう二度とって……いつからここにいるの?」
「さぁな。昔の事過ぎて忘れてしまったよ」
竜は切なげにそう言った。
少年には竜の表情なんてわからない。
わからないはずなのに、どうしようもなく悲しそうだった。
「未練とかないの?」
だからこんな質問をしたのだろう。
『未練か……あるとも……』
「どんな未練?」
少年は何の躊躇も無く聞いていく。
竜を相手にしているとは思えない程冷静で、どこか諦めているようだった。
そんな少年に対して、竜も友人と接するように話す。
『ずっと昔、我を救ってくれた女が居た……。我と女はもう一度会う約束をした。その時に、救ってくれた礼を言うつもりだった……だが今となっては、もう叶わん願いだ』
「そっか……」
「お前はどうなのだ? 少年」
「えっ、俺? 俺は……そうだな~」
少年は俯き、そして上を見上げる。
「もちろんあるよ。だってまだ子供だし……やりたい事は山ほどあったよ」
だけどもう出来ない。
そう思うと涙が溢れそうになる。
さっきまで一緒に居た友達とも、もう二度と会えない。
それはとても悲しい事だ。
『涙は流さんのだな?』
「ああ、泣いても何も変わらないって知ってるからさ」
『強いのだな。少年は……』
「別に強くなんか――」
『一つだけ生きる方法がある』
突然告げられた希望に、少年は声を出さずに驚く。
竜は続けてこう言った。
『この方法なら、お前は再び現世へ帰還できるだろう』
「そんな方法あるのか!?」
『ある。ただし、この方法を用いれば……お前は人間では無くなるがな』
「えっ……」
人間じゃなくなる??
「どんな方法なんだ?」
『我と一つになれば良い。我は不老不死の竜神……お前の肉体も修復できよう』
「あーなんだ……そういう事か。それなら頼む!」
少年は笑顔で言った。
その態度に竜は驚く。
『良いのか? そんな簡単に決めてしまって。 我と一つになれば、君は純粋な人では無くなるのだぞ?』
「わかってる。でもそうすれば、あんたも復活できるんだろ?」
予想外の返答に竜は再び驚かされる。
「だったら一石二鳥でしょ? 俺もあんたも、まだやりたい事ができるんだからさ」
『少年……』
屈託の無い笑顔で少年は言いきる。
この少年は自分の事だけでなく、この竜の心まで思考の材料にしていた。
そこに竜は少年のうちにある優しさに触れる。
『やはり強いな少年……お前は強い心をもった少年だ』
「普通だって!」
それを普通と言える事が、強い心を持っている証拠なのだ。
竜がゆっくりと歩み寄る。
滝から出て、少年の立つ場所へと進む。
少年は身構える事無く、ただ真っ直ぐに竜を見つめていた。
そうして互いに視線を合わせる。
『少年、名を聞いておこう』
「あーそういえば名乗ってなかったっけ? 俺はそらと――水瀬天斗《みなせそらと》だ」
『天斗、いい名だ』
「あんたの名前は?」
『我は竜神――名は天武《てんぶ》。天斗、お前に最上の感謝を送ろう』
「こちらこそ、ありがとう」
天斗が右手を差し出し、天武が顔を近づける。
こうして少年と竜は出会い――
ひとつになった。
季節は春。
今日は3月21日木曜日、晴天。
ここは都心から少し離れた西の町――九十九町。
都市部に近づくほど増えるビル、離れていくほど増える民家。
朝になると、町の住民は皆同じ方向へと歩いていく。
都心はこの町から東側で、学校も会社もそのほとんどが都心側にある。
だから朝になると、学生も社会人も皆同じ方向へ行く。
街を繋ぐ電車も同じだ。
朝は都心へ向かう電車が込み合い、逆に都心から来る電車は空いている。
もちろんこの街にも会社はあるし、学校だってある。
しかしわざわざ都心から通うものはいない。
よって朝の電車は空いている……どころか人一人乗っていない事もしばしば。
そんな電車に一人だけ、珍しく乗客の姿があった。
身長は170cm前半、髪は黒で短髪。
服用や雰囲気からしてまだ学生だろうか?
大きなキャリーバッグを引き、リュックサックを背負っている。
その青年が電車の窓から景色を眺めていると、携帯電話に着信がくる。
「はいもしもし――ああ、婆ちゃん?」
どうやら相手は祖母だった様子。
「うん、大丈夫だって。それじゃ着いたら連絡するよ」
青年が通話を切る。
そして再び窓の外を見つめる。
「ふぅ……戻ってきたんだな。この町に」
街の景色が遠ざかり、近づいていくホーム。
青年を乗せた電車が速度を緩めていく。
かすかに聞えるブレーキの音と共に、電車は駅へと入っていく。
反対側のホームには人だかりが出来ているのに対し、こちらのホームは人っ子一人いやしない。
停止する電車、開く自動ドア。
青年は席を立ち、荷物を持って電車を降りる。
そのままエレベーターに乗って下へ降り、改札へと向かう。
ポケットから切符を取り出し改札機に通す。
1番出口はコチラですと書かれた看板に従い駅を出た。
広がる景色は駅前商店街と通勤通学に急ぐ人々。
青年は立ち止まり、空を見上げて言った。
「ただいま、九十九町」
皆さん始めまして、そしておはようございます。
とても良い朝ですね。
おっと、先に自己紹介をしておきましょう。
俺の名前は水瀬天斗です。
この春から晴れて高校生になります。
天斗はリュックサックを背負い直して歩き出す。
行き交う人々や建物を見ながら歩く。
歩きながらしばしば立ち止まり、ふと携帯電話の画面を見る。
「えっと、確かこっちだな」
天斗は目的を地図で確認していた。
そして再び歩き始める。
さっきも言ったけど、俺はこの春から高校生です。
通う高校の名前は、九十九第一高等学校。
ここ九十九町にある唯一の高校で、割と有名な新学校だったりします。
俺が今日この街に訪れているのは、これから高校生活を送るにあたって引っ越す必要があったからです。
実はこの街には初めて来たわけではないんです。
そもそも俺の生まれた場所が、ここ九十九町ですから。
中学に入学する前まではこの町に住んでいました。
それから訳あって祖父の家に引越しましたが、こっちの高校に通うために戻ってきました。
「結構変わってるな~」
天斗は街を眺めながら歩いていく。
彼がこの街に住んでいたのは3年前まで。
その頃に比べると、やはりいろいろと変化が見受けられるらしい。
空き地だった場所に家が建ち、良く訪れた店が移り変わっている。
3年という期間は短いようで長かったようだ。
目的地に向かって歩き続ける天斗。
このまま進めば信号のある横断歩道へ差し掛かる。
丁度その付近から、彼はこれから住む家について考えていた。
少し遅くなったけど、今は新しい住居に向かっている途中です。
前に住んでいた家は、ある事情で無くなってしまったので、まったく新しい家に住む事になりました。
家の名前は確か「ひゃくやそう」?だったと思います。
ネットで見つけて決めたのですが、ここの家賃……なんと1万円。
しかも水道光熱費込みでこの値段なんです。
最初はあまりの安さに詐欺だと思いましたが、提携していた不動産屋で確認した所、案外普通に良かったのでここに決めました。
ただ珍しい事に契約をその場で行うらしく、相手側の都合がつかなかった事もあり実物は見ていません。
写真は見せてもらっています。
なんでも元々旅館だった建物らしく、古いですが風情があって良い感じです。
加えて管理人さんは旅館だった頃の女将さんが勤めているらしく、朝食・夕食も提供してくれるという好条件。
これは住まない訳にはいかないでしょ?
そんなこんなで荷物を持って歩いているんです。
それにしても、駅からだいぶ遠いな……
信号に差し掛かる。
丁度渡ろうとしたタイミングで点滅しだしたので、天斗は急いで渡った。
なんとかギリギリ渡りきって少し息をきらす。
その時だった。
後ろでドスンと誰かが倒れる音が聞える。
天斗が振り返ると、幼い女の子が転んでしまっていた。
それも横断歩道のど真ん中で……
危ないな~
まぁあれだけ分かりやすく転んでたら、さすがに車も止まってくれるだろ……
立ち上がれ無さそうだったら助けに行くか。
心の中で暢気に考える。
しかし事はそう上手くいかなかった。
遠距離から青信号になった事を確認したトラックが接近する。
しかもかなりのスピードで……
おいおい!
あのトラックちゃんと止まるよな?
さすがに引いたりしないよな?
トラックは減速する気配が無い。
転んだ女の子も泣いていてすぐには立ち上がれない様子。
どうやらトラックの運転手は信号しか見てないらしい。
トラックは運転席が高い分目線も高い。
その所為で下に転んでいる女の子に気づいていないのだ。
「くそっ!」
天斗が飛び出す。
焦りから大量の汗を流し、転んでいる女の子に駆け寄る。
ここでようやく運転手がブレーキを踏む。
しかしもう遅かった。
距離的にも減速しきれない。
天斗は女の子を抱かかえる。
ちくしょう!
もう間に合わない――
衝突を覚悟した瞬間。
天斗の視界に映ったのは走馬灯ではなく、トラックの奥にある歩道を、和服姿で歩いている少女の姿だった。
その少女の口元が動く。
大丈夫。
そう言っているように見えた。
昔住んでいた町へ帰ってきた日。
俺は見知らぬ少女を助けるために飛び出した。
あの瞬間、トラックが迫り来る光景を見て、俺は覚悟を決めた。
しかし、
「何だ今の……」
俺は無傷だった。
もちろん抱かかえた女の子も無事だ。
そして俺の背中側には、急速で迫ってきたトラックが止まっている。
何が起こったのかを簡単に説明すると、あのトラックはギリギリの所で俺達を躱したのだ。
それはもう本当に、文字通りスレスレのギリギリで躱していった。
下手な絶叫マシーンなんかよりよっぽのスリリングな体験をだった。
正直あれは漏らしてもおかしくない……いや、漏らしては無いけど。
俺は抱かかえた女の子の顔を覗いた。
「もう大丈夫、目を開けてごらん」
少女は固く閉じていた両目をゆっくりと開けた。
そして自分が無事な事を知り、瞳は涙で潤んだ。
俺は少女の頭を撫でて、ニッコリと笑った。
それからある場所を確認する。
「居ない」
俺が確認したのは、トラックが迫ってきた方向のさらに後ろ。
覚悟を決めた一瞬、見知らぬ和装の少女が立っていた場所だった。
でも今は誰もいない。
あの時は確かに居たはずで、大丈夫と口が動いていたはずなのに……
夢だったのか?
夢にしてはハッキリしすぎていた気がする。
それに何だろう……懐かしい感じがした。
見ず知らずの、初めて見た少女だったのに、なぜだかとても懐かしくて……とても切なく感じたんだ。
ずっと昔――
また会いましょう。
誰かと交わした約束を思い出す。
自分の中にある他人事のような思い出が、俺の脳裏を過ぎる。
それからすぐに警察が来た。
俺は状況を説明して、女の子は駆けつけた母親に保護された。
警察からの事情聴取によると、トラックの運転手は徹夜明けで意識が朦朧としていたらしい。
完全に寝ていたわけではなく、信号が青になったのは見えていた。
でもそれしか見えていなかったのだ。
それでもギリギリで躱せたのは奇跡と言って良い。
奇跡……といか、奇妙な感覚に襲われてハンドルをきったと運転手は言っていた。
まるで誰かに操られるように、無意識でハンドルをきったらしい。
操られたと言えば聞こえが悪いけど、それで命が救われたのなら良いことなのだろう。
俺は一通り話し終えた後、実に一時間かかってやっと解放された。
「はぁ……ってやばい! もうこんな時間かよ!」
左手にはめた腕時計で時間を確認する。
すでに短針と長針はどちらも12時を回っていた。
予定では午前中にあいさつに行く予定だったのに、これは完全に遅刻だ。
俺は荷物を担ぎなおしてから走った。
「はぁ……はぁ……」
全速力で走ってきた俺は両膝に手をついて息をきらしていた。
目の前には急勾配な坂道が見える。
スマホで地図を確認すると、この坂道を上った先に目的地はあるようだ。
それにしても急な坂、加えて少し薄気味悪い。
もう昼だと言うのに霧が出ている。
いや、あれは雲なのか?
ここ九十九町は周囲の町に比べて標高が高い。
具体的に言えば、ちょっとした山くらいの高さにあるらしい。
そうだとしても不気味だ。
坂道の先がまったく見えない。
だけど地図上ではこの先になっている。
時間も越えているし行くしかない。
「よし」
俺は呼吸を整えてから昇り始めた。
霧なのか雲なのか曖昧な白い靄に踏み入れる。
その瞬間寒気がしたような悪寒に襲われた。
白い靄の中を歩きながら、俺は昔の記憶を辿った。
そもそもこんな場所に坂道なんてあったっけ?
確かに俺が暮らしていた時から区画整理とかで道は新しくなっている。
だからってわざわざ坂道を作るか?
いやそんな面倒な事はしないだろう……
俺の記憶が確かなら、こんな場所に坂道なんて無かったし……それにしても長いな。
もう十分位歩いているぞ?
全然この白い靄は晴れないし、周りの風景すら見えないくらい濃くなってきた。
どうしよう……一旦戻ったほうがいいのかな?
そう思った時、急に白い靄は晴れた。
だけどその代わりに、俺の心に靄がかかった。
「なっ……なんだよここ……」
俺は目を疑った。
白い靄が晴れて見えた先には、見た事がない街並みが広がっていた。
幻想的というより不気味と表現した方が的確だろう。
本やテレビで特集されている江戸時代の街並み、それを薄暗くしたようなイメージ。
そもそも空が青くない。
暗く濃い紫色をした空が見える。
時刻的には昼真っ盛りのはずなのに、太陽が昇っていない。
かといって月も出ていない。
一体ここは――
考え事をして立ち止まっていると、後ろから来た誰かにぶつかった。
よかった、他にも誰か居るみたいだ。
そう思って振り返る。
「すいませ――」
振り返らなければ良かった。
ぶつかった人の顔を確認しなければ良かった。
そもそも顔なんて無かった。
「あら珍しいお客さんね?」
「うっ……うおぁ――」
顔の無い通行人が喋った。
声は意外と普通に女性の声だった事に驚いた。
それ以前に驚きすぎて、俺はその場から逃げた。
何なんだ!何なんだ!何なんだ!?
今の人顔無かったぞ??
っていうか人だったのか?
俺はわけも分からず走った。
走って走って走りつかれて、呼吸を落ち着かせるために立ち止まった。
すると、
「お待ちしておりました」
少女の声が聞える。
俺は前屈みになっていた上体をゆっくりと起こした。
そこに立っていたのは、
「ようこそ――百鬼夜荘へ」
和装の少女だった。
和装の少女が天斗に話しかける。
「長旅お疲れ様でした。中でゆっくり休んでくださいね」
この娘、どこかで見たような……
あっ、
天斗はその少女の顔を見て思い出した。
「君はあの時、トラックの後ろに居た……」
「はい。やっぱりお気づきになられてたんですね」
「そりゃあ目が合ったし、というかどうしてこんな――」
この瞬間、俺は我に返った。
そうだ、そうだよ!
今はそんな事を気にしてる場合じゃ無いだろ!
「君っ! 早くここから逃げた方が良いよ!
「逃げる……?」
和装の少女はキョトンとした顔になる。
「そうだよ! よくわからないけど、ここはおかしい! さっきも顔が無い女の人が居たし――」
「ああ、顔無しさんですね? 確かに最初は驚かれる方も多いですが、悪い方ではありませんよ?」
少女は平然とそう答えた。
俺は訳が分からなくなって混乱した。
「悪い方じゃないって、顔が無いんだよ!? あれじゃまるで妖怪みたいじゃないか!」
「ふふふっ、何を言ってるんですか」
少女が笑う。
そして、
「みたいじゃなくて妖怪に決まってますよ」
笑いながら衝撃の一言を言い放った。
俺はその時、一瞬だけ世界が静止したような違和感を感じた。
「可笑しな事を言いますね」
「可笑しな、事……可笑しいのは君の方だろ! 妖怪? 妖怪がいる事を、そんな……当たり前みたいに言って!」
「さっきからどうされたんですか? それ程驚く事ではないしょう? 貴方も妖怪なんですから」
「俺は人間だよ!」
俺が叫ぶようにそう言うと、少女は面食らったように固まった。
しかしそれも僅かな時間だった。
すぐに少女はこう言い返してくる。
「そんな……ご冗談は止めてさい」
「この状況で冗談なんて言えるか! 正真正銘俺は人間だよ!」
「でっ、ですが貴方、水瀬天斗さんですよね? 今日からこの【百鬼夜荘】に下宿される予定の」
「百鬼夜荘?」
そういえばさっきもそう言って……
俺は少女の右隣に立て掛けられた看板に目をやった。
するとそこには、確かに【百鬼夜荘】と刻まれていた。
何だよこの物騒な名前……俺が入居する予定だったのは確か――
「ひゃくやそう……ここは「ひゃくやそう」って名前じゃないの?」
「ひゃくやそう? 看板にも書いてありますけど、ここは百鬼夜荘です」
それは見ればわかる。
という事は俺が間違えたって事なのか?
だけど俺は地図通り歩いてきたはずだ。
ここは間違いなく、俺が目指していた場所なんだ。
だとしたら何かの手違いがあったとか?
「水瀬さん、そろそろ冗談は終わりにしませんか?」
「だから冗談じゃないってば!」
俺はカバンからある用紙を取り出した。
「ほら、これ見て!」
それを少女に見せた。
その用紙は仲介ショップで渡されたもので、この場所の地図と物件の名前が記されていた。
「えーっと、地図はこの場所で合ってますね。でも、あれ? 名前が……」
少女が見た用紙には、「ひゃくやそう」と平仮名で書いてあった。
「ちょ、ちょっとお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ? ああ、うん」
少女は慌ててスマートフォンを取り出した。
そしてどこかへ電話をかける。
「もしもし、お世話になっております――」
おそらく仲介ショップの人だろう。
今回の入居については、仲介ショップを利用した。
ネットでこの物件を見つけて、家賃が格安だった事に一目ぼれして電話した。
それから店に行って話を聞き、この場所の住所と名前の書かれた紙を渡された。
なんと珍しい事に、正式な契約は実際の住居に行き、その場で大家さんと直接結ぶ形だった。
だから仲介ショップで知りえた情報は、書類に抱えれた情報だけで、まだ何も手続きはしていない。
もしこれが何らかの手違いなら、その辺りに原因がありそうだけど……
「――はい。えっ? あーえっと、すぐに取り下げていただけますか? はい……はい、申し訳ありません。また折り返し連絡いたしますので――」
相手の声は聞えなかったけど、俺はなんとなく状況を察した。
というより、どうやら予想通りだったようだ。
「すいませんでした!」
電話を終えた少女は、すぐに俺の方へ駆け寄ってきて、それから見事なお辞儀と謝罪の言葉を口にした。
「どうもこちらの手違いで……」
「あー、えっと……とりあえず色々説明してもらえませんか?」
こうなった状況とか、この場所の事とか……
色々と知りたいことが山ほどある。
「はい。説明いたしますので、中にお入りください」
俺は少女の案内で中へ入った。
中は建物の概観通り貫禄ある旅館のようなだった。
構造もまさに旅館そのもので、畳が敷かれ障子で区切られた部屋が何部屋もある。
途中大きな部屋があったけど、おそらくあれは宴会場か何かだろう。
ますます疑問が増えた。
俺は案内された座敷に入り、少女はお茶を用意して俺の前に座った。
「あの……本当にすいませんでした」
少女は再度頭を下げた。
「もう良いですって。それより、えっと……どうしてこうなったか説召してもらう前に、一つだけ先に聞いても良いですか?」
「何でしょう?」
「ここは……この世界は一体何なんですか?」
疑問はいくつかある。
その中で一番最初に、一番知りたかった事を俺は聞いた。
そして少女が答える。
「ここは【裏】――妖怪や人で無い者達が暮らす【裏】の世界です」
全ての事柄には必ず【表】と【裏】がある。
そこに一つの例外も無い。
そしてこの世にもそれはあった。
【表】とは人間が住む側の事を示し、【裏】は妖怪達、人ならざる者達が住まう側を指している。
本来、表の存在は裏の存在を感知する事が出来ない。
故に表の存在である人間は、裏側の世界へ立ち入る事はできない。
「裏……妖怪達の世界か。そんなものが本当にあったんだな」
「はい。この百鬼夜荘は、その妖怪達が住まうための宿舎なんです。ですから人間である水瀬さんが来られたのは、完全にこちらの手違いでして……」
少女がまた謝ろうとした事を察した俺は、すかさず次の質問をした。
「それじゃ、俺はどうしてこっちの側へ来られたの? 今の話だと、人間は立ち入れない領域なんでしょ?」
「それはおそらく、水瀬さんが高い【霊力】をお持ちだからだと思います」
【霊力】とは、文字通り霊的な力。
魂を繋ぐ力でもあり、妖怪や人外の存在は高い霊力を持っている。
人間も僅かながらに持っており、その中で稀に妖怪達に匹敵する程高い霊力を持って生まれる者が要る。
霊力は魂を繋ぐ力、高い霊力を持っている者は例外的に裏側の存在を知覚できる。
「私がはじめ水瀬さんを人間ではないと勘違いしたのは、水瀬さんが高い霊力をお持ちだったからです。おそらくですが、その高い霊力の影響で、この場所へ迷い込んでしまったのでしょう」
迷い込んだというか、自分の意思でここに来たわけだけど……でもそうか、霊力か。
まぁそうだよな。
俺が高い霊力を持っていても不思議じゃない。
確かに俺は人間だけど、只の人間ってわけじゃない。
俺には、まだ誰にも教えていない秘密がある。
「それで、今回の件なのですが……」
「あっ、はい。説明お願いします」
「畏まりました。実は――」
少女の話によると、最近ここ百鬼夜荘は入居者の不足という問題を抱えていたらしい。
別に問題があって入居者が集まらないのではなく、そもそもこの近辺に暮らす妖怪達が減ってきたことが原因らしい。
そこで今回、意を決して新しい試みを行った。
それが表の世界の仲介ショップを活用する事だったのだ。
「表の世界にも妖怪がいるって事?」
「はい。裏の世界は時代が変わるにつてれ、どんどん狭くなってきているんです。江戸時代には今の倍以上の広さがあったんですが、今ではうんと狭くなってしまいました」
世界が広いとか狭いとか、そういう話についてはよくわからなかった。
だけど何となく、森林が伐採されて住処が無くなっている動物と同じ感覚なのかと思った。
詳しい事は後で聞いてみよう。
「そこでこの春から表のお店と契約して、新しい入居者を募集していたんですが……どうも情報に誤りがあったみたいで」
「誤りって、どっち道普通の店なんて使ったら、俺みたいな人間が間違えてきちゃうと思うけど?」
「その辺りは大丈夫です。お店にはこっち側の人がいるので、その人に根回しを頼んでますから」
根回し?
あーそういう事か。
だから手続きを全部現地で行うって形をとってるわけね。
普通の人間はこの場所にたどり着けない、だけど妖怪ならたどり着ける。
それを目印にしてるってわけか。
もしくはあの時仲介ショップで話した人が、そもそも人間じゃなかったとか?
それも十分ありえそうだな。
「まぁ大体の事情はわかりました。でもどうしよう……そうなると新しい入居先を探さないとな……」
入学式まで残り一週間と少し。
その短い期間で新しく住む場所は見つかるのか?
いいや無理だろ。
仮に見つかったとしても、実際に入居するまでに学校が始まる。
となると、一旦祖父母の家に戻るしかないけど、あそこから学校までは遠い。
新幹線を使えば通えなくは無いけど、金銭的な問題で厳しい。
これ以上祖父母に迷惑をかけたくないし、自力で何とかしないと……
今後について考えていると、その様子を見ていた少女が口を開く。
「あの、もしよかったらこのままうちに住んでしまいませんか?」
「えっ? いいんですか?」
「もちろんです」
「でも俺、人間ですよ?」
「ですが今回はこちらの不手際が原因ですし、水瀬さんさえ宜しければこちらは大丈夫です」
魅力的な提案だと思った。
もともと家賃が安い事に引かれて選んだ事もあって、多少の不便は覚悟していた。
予想していたのはもっとボロ屋だととか、そういう類の不便だったから、まさか妖怪の宿なんて思ってなかったけどね。
まぁそれは別として、
「……」
「?」
俺はジーっと少女を見つめた。
そしてこう答えた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「はい! こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
こうして新しい入居先は、予定通り?決まった。
「では手続きを始めましょう。こちらに目を通してからサインをお願いします」
少女から契約書を手渡しされる。
俺はそれを受け取って、言われた通り目を通した。
その最中、ふと思ったことを口にする。
「あっ、そういえば今日って大家さんは居ないんですか?」
「えっ? 大家は私ですけど……」
俺は書類から目を逸らし、耳を疑った。
「大家……? 君が大家さん?」
「はい、そうですよ? そういえば自己紹介がまだでしたね。私がこの百鬼夜荘の大家で、【座敷童子】の幸《サチ》と言います」
【座敷童子】――東北地方に伝わる妖怪、というより精霊的な存在である。
座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く……見た者には幸運が訪れる……家に富をもたらすなどいくつも伝承がある。
外見は住み着く家によって異なると言われており、少女である場合もあれば、少年の場合もあるという感じでマチマチ。
少女の場合は、生まれたての赤子のような質の黒髪に、おかっぱ頭なのが特徴的とされている。
彼女もその特徴にそっていて、容姿は十五歳くらいだ。
「そうか、そうだよな。ここが裏側なら、君も人間じゃないのは当然だよな。外見が普通の女の子だから忘れてたよ」
「ふふふっ、そうですよね」
数分前に顔無しっていうもっと印象深い出会いもあった所為もあるだろう。
彼女は見るからに普通の女の子、可愛らしい女の子だった。
「座敷童子か」
「はい。こう見えて立派な妖怪なんですよ?」
サチは笑顔でそう言った。
その笑顔を見た俺は、心が温まるような感じを憶えた。
座敷童子……見た人に幸運をもたらす妖怪か。
確かに彼女を見ていたら、何だか幸せな気分になれる気がする。
幸せな気分……幸運……あれ?
もしかして、
「あの時トラックが逸れたのって、君が何かしたから?」
「はい。私は運を操る力を持っていますので、あの時は少しだけその力を使わせてもらいました」
やっぱりそうだったのか。
今思い返してみても、あの時助かったのは奇跡と言うか不自然だった。
急にトラックが曲がった事、その時の運転手の証言、そして一瞬だけ視界に映った彼女の姿……
その不自然が、今ようやく繋がった。
繋がったというより解消されたって方が正しいだろう。
要するに全部彼女のお陰だったんだ。
俺が、あの女の子が無事でいられたのは……
それを知った俺は、その場で彼女に深く頭を下げた。
「ありがとう」
「えっ、やめてください水瀬さん! 私は別に大したことは――」
「君が居なかったら、俺は今こうして居ないし、あの女の子も助けられなかった。君のお陰であの子を助ける事ができたんだ」
「……」
サチは頬を赤らめながら無言で天斗を見つめていた。
「だからありがとう。俺とあの子を助けてくれて」
「ふふっ」
そして彼女は笑った。
口元に手を当て、可愛らしい仕草で笑った。
どうして笑ったのか分からない俺は、顔を上げて彼女を見た。
「やっぱり水瀬さんは優しい人なんですね。力を使って良かったです」
「いや、俺は別に優しくなんて……」
「いいえ、水瀬さんは優しい人です。そうでなければ、私はあの時力を使っていませんでしたよ?」
「え?」
「私は、水瀬さんが女の子を庇って飛び込む姿を見ました。自分の命すら省みず、赤の他人を助けようとした姿……格好良かったです」
サチは真っ直ぐ目を見てそう言った。
俺はその視線が恥ずかしくて顔が熱くなった。
よく見ると彼女も、少しだけ頬が赤くなっている。
「あんな事が出来る人を、私は知りません。たとえ妖怪だったとしても、きっと無事では済まなかったでしょうし、ませてや水瀬さんは人間ですから、もしかすると死んでしまっていたかもしれない。それなのに、貴方は飛び込んだ。だから私は、助けたいと思ったんですよ?」
何なんだろう。
この告白でもされているような感じ……
めちゃくちゃ照れくさいし、どう反応すればいいのかわからない。
だけど凄く嬉しい。
「結果的に私が助けた形になりましたけど、あの女の子を助けたのは、間違いなく水瀬さんです。だから私に感謝なんてしなくても良いんです。私がそうしたくて勝手にやった事ですから」
「……いや、それでもありがとう」
サチはそう言うけど、俺は敢えてもう一度感謝を伝えた。
彼女の笑顔が、素直な気持ちが嬉しくて眩しくて、俺は感謝せずにはいられなかった。
「ふふっ、どういたしまして。それと水瀬さん、私の事は大家さんではなく、幸って呼んでください。私はこの名前が好きなので、そう呼んでもらえると嬉しいです」
幸という名前は、幸せという字を書く。
まさに座敷童子である彼女に相応しい名前だと……いや、たとえ座敷童子じゃなくても、彼女にこそ相応しい名前だと思う。
彼女を見ていると、そんな気がしてならない。
彼女は座敷童子であろうとなかろうと、見知らぬ誰かに幸福を齎してくれるような気がした。
「わかった。えーっと、幸?」
「はい。何でしょうか水瀬さん」
俺はごほんと咳払いをして、
「これからお世話になります」
彼女にそう伝えた。
そして彼女もこう返した。
「はい! これからよろしくお願いしますね。水瀬さん」
こうして俺は、高校入学を前にして一人の少女と出会った。
彼女の名前は幸、可愛らしい座敷童子の女の子。
言伝えによると、座敷童子は見た者に幸福をもたらすと言われている。
はたして彼女と出会った俺には、これからどんな幸福が訪れるのだろうか?
今はまだ、誰も知らない未来である。