夜は、色々考えすぎてあまり眠れなかった。これだから勢いで行かないと、あれこれ悩んで結局二の足を踏んでしまう羽目になるのだ。今まではずっとその性格のせいで、自分から行動する機会を潰してきた。後悔したことも数知れず。
 でも今日は行かなくては。
 勇気が欲しくて、あまり喉を通らない朝食を無理矢理流し込んだ。エネルギーが勇気に変わると、そんな風に信じて。

 藤倉君の両親は共働きだと、以前彼の口から聞いたことがあった。午後は友人がお見舞いに来る可能性もあるので、二人きりになるなら午前中だ。だから私は、ちょうど十時過ぎに行なわれる検温と血圧測定が終わったら、彼の所へお邪魔しようと考えていた。

 ――コンコン。

 すると扉がノックされ、私は、あれ、もうそんな時間? と時計へ目を向けた。でも見れば、まだそれは九時前。
 面会時間は何時からだったっけ? もしかして藤倉君が来たの? 心臓をドキドキさせながら、私は少しだけ身だしなみを整えると、どうぞ、と声をかけた。
 でも入って来たのは、予想していなかった人物、琴平さんだった。
 ちょっとだけ身構えてしまう。昨日の今日では何だか気まずくて、私は視線を意味もなく動かす手元へと落とした。

「ごめんなさい」

 でも、挨拶よりも先に発せられた第一声に、私は目を丸くしてしまった。

「え?」
「昨日、酷いこと言ったわ。だから、ごめんなさい。月島さんだって、転びたくて転んだんじゃないって分かってたのに、気が動転してしまって……」

 歯切れの悪い物言いをする彼女。

「う、ううん」

 私は否定の言葉を口にしながら、彼女に謝られるこの状況が、決して正しくないことを頭の隅では理解していた。

 いつも優しくて可愛い学校の人気者。頭も良くて冷静で、感情よりも理性が勝るパーフェクトな人。
 だからこそ、私を睨みつける、昨日の瞳が忘れられない。完璧な彼女が、押し殺せないほどの怒りを抱いた瞬間の、あの瞳が。
 それなのに、今日こうして朝早く、頭を下げに来てくれたのだ。プライドもきっと高いだろう彼女が、だ。

「誰が悪いわけでもないって言い聞かせてたのに、話を聞いて湧き出てしまった感情を、どこへやったら良いのか分からなくなってしまって……。月島さんが隣にいて、つい責めてしまったの。心にもないことを言った、なんて綺麗事は言わないわ。でも、絶対に口に出してはいけないことだった。家に帰って凄く反省したの。月島さんだって辛くないわけないのにって。だから、本当にごめんなさい」

 彼女はもう一度頭を下げた。
 真摯な言葉だからこそ、逆に胸が痛かった。
 私は呆然としてしまって、うん、だとか、もう気にしないで、だとかそんなうわ言を繰り返したような気もするけど、気付いたら琴平さんは既に目の前からいなくなっていた。

 ため息を一つ吐く。

 ――潔い琴平さん。

 この世界に、藤倉君と両想いになれた今に、異様に執着する私。

 ――悪いと思ったら、謝ることを躊躇わない琴平さん。

 自分を何とか正当化しようとする私。

 涙が一筋零れた。
 何に対しての涙なのか、自分でももう分からない。

 でも、少しずつ少しずつ落とされ続けたインクは、きっと知らないうちに心の色を変えてしまっていたのだ。どす黒く、恐ろしいまでに醜い色に。
 心が容姿に反映する、そんな魔法があったのならば、私はきっと今、見るに堪えない姿へと変貌を遂げるだろう。
 もはや流れた涙すら、透明かどうか疑わしかった。

 ふらふらと病室を出る。どこへ向かうのかは、自分でも分からなかった。ただこの部屋にいたら、私は次の瞬間には、病室に颯爽と現れたヒーローのような魔法使いによって、醜い姿に変えられるんじゃないかと恐怖した。