ノックもなしの出来事に、先生は驚いたように入口を振り返る。
 同じように目を向けて、私はもっと驚いた。

「藤倉君?」

 そこには息を切らせた藤倉君が立っていて、何故か先生を睨んでいる。

「何でこんな所でご飯食べてるの?」
「――え?」

 鋭い視線は先生を捉えたままだったから、初めは自分に向けられた台詞だと気付かなかった。

「こんな所って……藤倉、ここお悩み相談室なんだけど?」

 呆然としてしまった私の代わりに、先生が答えてくれる。確かにこれはお悩み相談の一環だ。嘘は言っていない。
 すると今度は、見開かれた瞳が私を映した。

「月島、何か悩んでるの?」
「あのねぇ、人には大なり小なり悩みがあるでしょうが。お前はないの? 呑気だねぇ」
「先生には訊いてない」

 先生は少しでも空気を和ませようと茶化したみたいだったけど、藤倉君はにべもない。

「……はあ。お前、そんなつんけんしてちゃ、月島さんに嫌われちゃうよ。せっかく捕まえたんでしょ?」
「え?」
「ちょっと!」

 何だか話がこんがらがってきた。少しだけ気になる言葉も飛び出たけど、でも今はそれは後だ。ちゃんと言わなくちゃ。だって、変に誤解されたくない。
 だから私は藤倉君へと向き直って、きちんと伝わるように彼の目を見つめた。

「少しだけ先生にお願いしていたことがあったの。悩みなんていうほど大層なものじゃないから、心配しないで。黙って来ちゃってごめんね」

 考えてみれば彼は、自分のせいで私が傷付くことがあるんじゃないかと恐れていた。昼休みなんて、呼び出しには格好の時間帯。行き先も告げずに教室を出てきたのは、浅慮だったかもしれない。
 心配させたかな? そう思ってもう一度、ごめんね、と謝れば、藤倉君は漸く保健室の中へと足を踏み入れた。

「ほんとに大丈夫?」

 トボトボ歩く姿は、まるで迷子の子犬のよう。

「大丈夫大丈夫!」

 だから私は急いで彼の元へと駆け寄った。

「ごめん。姿が見えなかったから美濃部さんに訊いたら、保健室行ったって言われてさ、心配して飛んできたら、先生と楽しそうに飯食ってたからちょっとムカついた」
「え?」

 楽しそう……だったかな? 今度は私が目を開くと、藤倉君は慌てて取り繕った。

「月島にじゃない! 先生に」

 ギロリ、そんな音がしそうなほどの目付きで先生を睨む。

「そりゃあ悪うござんした」

 でも先生は右から左、ちっともそんなこと思ってないように、ずずっと冷やし中華を啜った。

 思わず笑ってしまう。先生にも、そして藤倉君にも。
 そんな風に気にしてもらえるなんて思ってもいなかったから、なんだかくすぐったい。それこそ、しょんぼりした子犬みたいに垂れた耳が、彼の頭に見える日が来るなんてね。

「相談、終わったの?」

 そんな私の含み笑いに少々バツの悪そうな顔になった藤倉君は、先生と私を交互に見やる。先生の背中も少しだけ揺れていて、多分笑っているんだろう。気付いた藤倉君は、一刻も早くここから出たいようだった。
 だけど私はその言葉に僅かに逡巡してしまう。
 終わったと言えば終わったけど……

 最後に言いかけた一言が、無性に気になっていた。

「終わったよ。行きなさい」

 でも先生は、退室を促す。そうされてしまえば、部活対抗リレーのチーム分けに未だ拘りを見せている自分を藤倉君には知られたくなくて、はい、と頷くしかない。

 食べかけのお弁当を片付け、ありがとうございました、と声をかけた。
 だけど藤倉君と並んで歩きながら、保健室の扉に手を掛けようとしたとき、先生は唐突に口を開いた。

「守れよ」
「え?」

 私も藤倉君も、先生の言葉の意味を計りかねる。だけど振り向いた先の瞳は、とても真剣な色を帯びていた。

「好きなら、大事なら、必ず守れ。いいな」
「言われなくても」

 それが私のことだと分かった瞬間、頬が熱くなった。
 藤倉君は挑戦的な笑みを浮かべそう答える。頼もしくもあり、嬉しくもあるけど……私は先生のその言葉に、その表情に、何かが引っ掛かった。

「肝に銘じろよ」

 しつこいほどの念押しに、最後は藤倉君も戸惑った表情を見せる。
 けど、お決まりのように「シッシッ」と払われて、結局私たちは強制的に保健室を後にさせられた。