あやかし心療室 お悩み相談承ります!

そうして、リナの心理相談所での生活が始まった。

 服装も初日はスーツだったが、えんじ色の作務衣を渡された。

 和服は着慣れないが、いざ着てみるとなかなか動きやすくて作業がしやすい。

 しかし、あやかしたちを出迎えてその悩みの解決の手助けができたらと意気込んでいたリナだったが、はじめに押し付けられた仕事はリナの想像とはまるで違っていた。

 リナの主な仕事は、完全に雑用だった。
 いや、雑用どころではなく、粟根の面倒を見る係と言ったほうが正確かもしれない。

 粟根が「コーヒーが飲みたい」と言ったら、すぐさま用意する。

 粟根がお腹すいたと言ったら、ご飯をつくる。
 粟根の溜めに溜めた、山のような洗濯物を洗って干して、心理相談所の掃除だけでなく、粟根が住まいとして使っている二階の掃除もリナの仕事になっていた。

 粟根が住む二階は、お風呂や洗面所もあるひとり暮らし用の住まいだ。
 一階ほど広くはないし、そんな散らかってはいないが、それでもなかなか骨が折れる。

 そしてやっと空いた時間で、分厚い妖怪図鑑を読み込む。

 小さいころから父親とふたりで暮らしてきたため、リナにとって家事をすることは苦ではない。
 はじめこそ文句も言わずに粟根に指示されたことをせっせとこなしていたが、そんなことが一週間続いたあたりで、リナは気付いた。

 この相談所は、大丈夫なのだろうかと。

 なにせここ一週間、来客がないのだ。

 改めて予約張を見てみると、予定も入ってない。

 本当にこの相談所は機能しているのだろうかと、リナは不安になった。

 ちゃんと給料が出るかどうかも心配だ。

 そしてついにリナは確信に迫る。

 最近粟根がハマっているキャラメルマキアートをつくって長テーブルに置くと、ソファに寝そべる粟根を見下ろした。

「粟根先生、私は家政婦としてここに雇われたわけではないと思うのですが……」

 もともと、リナは心療相談の助手として雇われていたはず。
 そのためにあの分厚い妖怪図鑑と格闘もしているのだ。

 クッションを頭の下に置き、長い足をクロスさせてソファの上で優雅に読書を嗜たしなんでいた粟根は、リナのその言葉を聞いて、顔を上げた。

 そして至極まじめな顔をリナに向けて頷く。

「ええもちろん、リナさんのことは優秀な助手として雇っています。どうして家政婦だなんてリナさんが思っているのか、不思議ですねぇ」

 と言って、粟根が白々しく目を泳がせたのを見て、リナは怪しい、と思い目を細めた。

 そしてそのまま粟根の心の声に耳を澄ませると、

『いけない。このまま本来の仕事とは関係のないところで、リナさんをこき使ってるってバレたら、この自堕落な生活がもう送れなくなってしまう……』

 と悔しそうに粟根が心のなかで呟いていた。

「私は粟根先生の自堕落な生活を助けるためにこの仕事についたつもりはありませんからね⁉」

 リナが怒鳴ると、先ほどまで白々しい態度だった粟根は隠すのをやめたようで、キリッと目元を鋭くさせるとゆっくりと上体を起こした。

 先ほど、リナが持ってきたキャラメルマキアートに手を伸ばそうとするので、リナはすっとキャラメルマキアートを粟根の手から遠ざけた。

 どういうつもりで働かせているのかを吐かせるまで、このキャラメルマキアートは飲ませない、とリナは鋭く粟根を見やる。

 粟根は観念したように座り直して、その秀麗な顔で真っ直ぐリナを見た。

「まあまあ、リナさん、落ち着いて。だって、相談者が来ないんですからしょうがないじゃないですか。そうとなれば相談者が来るときのために体力を温存することこそが大事な仕事です。そう思いませんか?」

『まあ、来ないなら来ないで私は全然構いませんけどね。このままずっと、キャラメルマキアート飲んでゴロゴロしていたい』

「内心、ゴロゴロしたいってめちゃくちゃ思ってるじゃないですか!」

 粟根の心の声を聴いてリナが頬を膨らませると、またゴロゴロ、ゴロゴロと地鳴りのような音が聞こえてきた。

 しかし今度は粟根の心の声ではない。

 どうやら外から聞こえてくるようだ。

「え? この音なんですか? ゴロゴロゴロゴロ、上から聞こえてくるんですけど……」

 そう言ってリナは窓のほうに目を向けた。

 粟根も窓を開けて外の様子をうかがう。
 つい先ほどまで明るかったはずなのに、雲が空一面を覆って今にも雨が降り出しそうだ。
 このびりびりとお腹に響くような音はどうやら雷雲のせいらしい。

「雨のない雷ですか。リナさんが相談者が来ないことに不満を言ったりするから、どうやら大型の相談が来たみたいです」
「え?大型の相談ですか?」

 と、リナが聞き返すと、窓の外から「アーニキー!」という少年のような甲高い声が聞こえてきた。

声がするほうに目線を移すと、十歳くらいの男の子が金色の髪の毛と大きな狐のような耳をふわふわと揺らしながら、笑顔でリナたちのもとへ走ってくるのが見える。

「アニキー! これからアニキに相談したいって、雷様がやってきますぜ!」

 と、狐耳の少年が尻尾をぱたぱたと振りながら、粟根に言った。

 一度粟根の黒い狐耳姿を見たことはあったが、それ以来ほかのあやかしの姿を見たことはない。

 リナが少年の狐耳に釘付けになっていると、少年がぎょっとしたように飛び上がった。

「ア、アニキ! この女の人、なんすか!?」

 そう言って、少年はリナから距離をとる。

 ピンと立っていた狐耳が警戒するようにペタリと下がった。

「ゴン、警戒しなくても大丈夫ですよ。この人は最近雇った人間です。サトリの血を引く佐藤リナさん。そんな怖がらなくてもとって食ったりはしないですから。たぶん」

 と粟根が面倒くさそうにリナを紹介する。

「先生、たぶんって言わないでください。とって食べるわけないじゃないですか。それよりも、この子は……」

「この子は、権之助といって、まだ子供ですが狐のあやかしです。時々、うちに相談したいという者を連れてきてくれるんですよ」

 粟根が説明すると、権之助と呼ばれた少年は、恐る恐るリナとの距離を詰めてくる。

 その瞳には好奇心の色もあるが、まだよく知らないリナの存在に戸惑ってもいるようだ。

 眉間に皺を寄せて、まじまじとリナを見ていた権之助が、なにかを思いついたかのようにパッと顔を上げた。

「あ、新しい子分ってことですか? アニキ」
 と確認する権之助に、粟根は少し考えるように上を向いたが、にやりと笑って頷いた。

「まあ、そんなものですね」
「違いますよ!」

 子分になった覚えはありませんと、リナは断固として否定するが、権之助は子分と聞いて、先ほどまで弱々しく垂れていた狐耳をピンと立てた。

「新しい子分! じゃあ、俺と一緒だ! 俺の妹分だ! よろしくな、リナ!」

 権之助はそう言って、くしゃっと満面の笑みを浮かべて親指を立てた。

 ニッと開かれた口から可愛らしい八重歯が見える。
 頭の狐耳が嬉しそうにぴくぴくと動いていて、リナを歓迎してくれる気持ちが心を読まずとも伝わってきた。

 子分扱いされたことには納得がいかないが、ゴンの登場でなんだかリナは微笑ましい気分になった。

「うん、よろしくね、権之助君」
「俺のことは権之助のアニキって呼んでもいいからな!」

 と尻尾を振って楽しそうに言う。
 その可愛らしい姿にリナは和んだ。

 粟根はそんなふたりのやりとりを見守ってから、改めてゴンのほうに顔を向けた。

「それより、ゴン、雷様がどうしたって?」
「そうだ!なんか雷様の夫婦がすっげえ喧嘩してて、そんで雷もめっちゃ鳴ってて、やばいっす!近くのあやかしたちが、朝も夜も雷がうるさくって眠れないって!めっちゃ怒ってるんす!」

 勢いよく権之助はそう言うと、粟根は大体のことを理解できたようで、なるほどと大きく頷いた。

「雷様の夫婦ですか……」

 そう粟根が呟くと同時に、遠くで雷がゴロゴロと轟とどろく音がした。

 先ほどよりも雷鳴は強くなっている。

 権之助は、雷が嫌いなようで、怯えるようにふるふると狐耳を震わせる。

「そ、それじゃあ、アニキ、俺、ちょっと用があるから!」

 そう言って、権之助は逃げ出すように雷雲が迫る方向とは逆方向へと走っていく。

 しかしその途中で振り返るとリナのほうを見た。

「べ、別に雷が怖いから帰るわけじゃないんだからな!用があるからだからな!」

 権之助は妹分だと思っているリナに対してそう弁明する。

 するとちょうどゴロゴロと大きく雷雲が鳴って、権之助は「ピャ!」と変な鳴き声を出して、金色の毛をした子狐の姿に一瞬にして変わった。

 少年の姿から一瞬にして子狐の姿に変わった権之助にリナが驚いていると、粟根が、
「先ほど狐のあやかしだと言ったでしょう?まだ幼いので変化が安定してないんですよ」
と説明した。

 権之助はそんなふたりの会話が耳に入った様子もなく、雷雲が来る前にとササーッと山の繁みのほうに消えていった。
 なんとも可愛らしいうしろ姿である。
権之助の姿が見えなくなると、粟根が窓の扉を閉めた。

「もっとゆっくりしたかったですが、来てしまうものは仕方がありません。リナさんも、同席してもらいますからね?」

 粟根にそう言われて、これから相談するために患者様が来るのだということを思い出した。

 リナにとっては初めての仕事である。
 粟根が「どうせ来るのなら出迎えましょう」と言い、リナたちは受付で雷様の到着を待つことにした。

「リナさん、見慣れないあやかしを見ることになると思いますけど、倒れたりしないでくださいよ?」
「だ、大丈夫ですよ。たぶん」

 粟根に言われたとおり、妖怪図鑑で予習はしているので大体の妖怪の姿はわかっているつもりだった。

「まあ雷様の見た目は、迫力こそありますが人間に似ている部分もあるので、リナさんなら大丈夫でしょう」

「雷様というとつまり、雷を落としたりする、あの鬼のあやかし、ですよね?」

 どちらかと言えば神様のような存在なんじゃないだろうかと、リナは、自身が知る雷様を頭のなかでイメージした。

 図鑑にも載っていた気がする。
 角の生えた鬼で、顔はかなりの強面、ヒョウ柄の服を召していて、太鼓を持っている、そんな定番な姿を思い浮かべる。

 たしか人間の子供のおへそが好物だという話が図鑑に載っていたような気がすると、リナは急いで雷様の情報を思い起こしていた。

「そのとおりです。雷様としてお勤めしている鬼族のことを一般的にそう呼びます」
「雷様っていうのは役職的なものだったんですか」

 というか、そんな雷様はいったいどんな悩みを持っているというのだろうか。
 ついに初仕事。しっかり働けるのだろうか。
 そう思うと、リナに緊張が走る。

 リナはそわそわと落ち着かない様子で窓の外を眺めた。

 ゴロゴロという雷の音がどんどん近づいてきている。「近いな」と粟根が言うやいなや、相談所の扉が勢いよく開かれた。

 そこには、これぞ鬼! という迫力ある出で立ちのふたりが立っていた。

 体つきからして男と女の鬼のふたり組で、先ほど権之助が話していた喧嘩をしているという雷様の夫婦で間違いないだろう。

 男のほうの大柄な鬼は、真っ赤な体にヒョウ柄の腰布を巻いて、頭に二本の角を生やしている。
 髪型はパンチパーマだ。
 もう片方の女の鬼は、少々小柄で同じく真っ赤な体に二本の角、胸ははちきれんばかりの迫力で、その胸と、腰より下をヒョウ柄の布で隠しているような格好をしていた。

 思い描いていた姿と同じ鬼らしいファッションに、リナは恐怖よりも感動を覚えて口元に手をやる。
 思わずすごいと感嘆の言葉が口から出そうになっていた。


「アンタが粟根先生か?知り合いが、お前に相談してこいってうるせぇから来てやったぜ」

 大柄な鬼が睨みを利かせながらそう言った。鬼はとても大きくて、それだけでもリナにとっては恐ろしいのに、ぎらぎらした視線はものすごい迫力だった。

「はい、そうです。どうぞこちらへ」

 鬼の凄みもどこ吹く風という感じで、粟根は穏やかな笑みを浮かべて鬼の夫婦を中に招き入れる。
 リナはというと雷様の迫力に少しばかり尻込みしていたが、それよりも粟根の外面のよさに呆れていた。

 リナの前では、やれキャラメルマキアート持ってこいだの、掃除をしろだの、ソファでくつろぎながらリナを顎で使う粟根だ。

 たまに笑ったとしてもなにか意地悪なことを言ってにやりと笑っているぐらいだろう。
 リナの前ではそんな態度なのに、患者の前ではあの爽やかで穏やかな笑顔である。
 そういえば、父の徹もその外面のよさでまんまと娘の労働契約を勝手に結んだのだ。

 粟根の爽やかな笑顔になんとも言えない腹立たしさを感じたリナは、鬼の形相のことなど気にならず、思いのほか落ち着いた気持ちで鬼の夫婦のあとに続いた。

 そうして心療室に四人が揃うと、大きなふたり掛けのソファに鬼の夫婦を座らせ、粟根とリナはテーブルを挟んで向かい合う形でそれぞれひとり掛け用のソファに腰を下ろした。

 一旦四人が腰を下ろして落ち着いたタイミングで、粟根が引き続き外面よく微笑んだ。

「はじめまして。あやかし心理相談所の所長の粟根と申します。お話を伺いたいので、まずはお名前を教えてください」

 粟根にそう尋ねられ、男の鬼のほうがおもしろくなさそうな顔をして口を開く。

「おでは、このあたり一帯の空を司つかさどる吾郎だ。そんで隣は……」
 と言って、大柄の鬼、吾郎は、さっきから不満そうにそっぽを向いてソファに座っている女の鬼のほうを顎でしゃくった。

「おでの女房の光子だ」

 しかし光子は、うんともすんとも言わず、腕を組んだまま左斜め下あたりを見て、不機嫌そうに鼻を膨らませていた。

「おい、光子、黙ってんじゃねぇ。挨拶しろってんだ」

 吾郎がそう言うと、光子が顔を上げてキッと吾郎を睨む。

「うるさいねぇ!アタシは今、頭が痛いんだ!大きい声出すんじゃないよ!」

 と、苛立たしげに光子が言うと、頭痛がするようで、眉根を寄せてこめかみのあたりに指を当てた。
「まったく光子は、愛想のねえ鬼だなぁ」

 と吾郎が嫌味がましく言うが、当の光子は顔を吾郎から逸らすと、口をへの字に曲げるだけだ。
 夫婦というものをあまりよく知らないリナですら、これはかなりこじれているというのがわかった。

 しかし粟根はそんなことはお構いなしに飄々とふたりに話しかける。

「吾郎さんに、光子さんですね。よろしくお願いします。それでは早速本日の相談内容を伺ってもよろしいですか」
 粟根の問いかけに吾郎が言いづらそうに、ぼそぼそと答えた。

「おでたちの夫婦喧嘩をどうにかしてほしい。ほかの鬼たちがおでたちの夫婦喧嘩の音がうるさくって眠れねぇって文句言いやがる。そんで、ここに相談してこいって言われたんだ」
 しぶしぶ答える吾郎を見て、リナはぽかんと目を見開いた。

 あやかしという人外からの相談事ということで少々身構えていたのだが、思っていたよりも相談内容が普通だったからだ。

たしかに以前粟根から、あやかしの悩みも人とそう変わらないとは聞いていたが、想像以上に人と変わらない。

「じゃあ、ただ夫婦喧嘩をどうにかしてほしいっていう、相談なんですか?」と、リナが思わず口にすると、光子がその迫力満点な顔をさらにしかめて口を開く。

「ただの夫婦喧嘩なもんですか!この人ったら、喧嘩の途中で怒りに任せてむやみに雷を鳴らすんですよ!それをずーっと!」と、語気を強めて光子が語った話にリナは目を丸くした。

「そ、そんなに雷を鳴らしちゃうんですか!?」

 リナがそう言ってちらりと吾郎のほうを見ると、吾郎は気まずそうにふいと視線を外した。

 吾郎の反応を見ると、どうやら本当に雷を鳴らしてしまうらしい。
 先ほどはあやかしの悩み事が夫婦喧嘩だなんて思ったより普通だ、などと思ったリナだったが、喧嘩で雷が鳴り響くなんて規模が違うと思い直した。

「雷が鳴るなんて、それは、怖いですね」
 とリナが気遣わしげに言うと、リナの反応に満足したのか光子は少々機嫌をよくしたようで「そうなのよ」と少し表情を和らげて頷いた。

 そんなふたりのやりとりをおもしろそうに見ていた粟根が口を開いた。

「なるほど。たしかに、雷を鳴らされたら怖いでしょうね。ちなみに、ふたりの喧嘩の原因を伺っても?」

 と、粟根が興味深そうに目を細めて言うと、先ほどまで威嚇するような態度だった吾郎が、さらに眉間に皺を寄せた。

「喧嘩の原因なんて、その都度バラバラじゃし、覚えとらんな」
 と歯切れの悪い吾郎を見て、隣の光子がまたしても顔をしかめる。

 そして吾郎への不満を一気にまくし立てた。

「大体はこの人のだらしなさが原因ですよ。酒を飲んでは道端で寝るし、家事も一切手伝わないくせに、文句だけは一いち人にん前まえ!それでアタシがぶつくさ言うと、逆上してむやみに雷を鳴らし出すんですよ!」
 光子の口はまだまだ止まらない。リナはその勢いに呆気にとられながら続きを聞く。

「先生は目の前で雷を鳴らされたことがあります⁉今まで、三百年も一緒に連れ添ってきた、自分の妻に対してですよ⁉ たまったもんじゃありませんよ! 本当に、この人は怒ってばかりで情けない鬼なんです。先生、お願いですからこの人の癇かん癪しゃくを治してください!」

 と、もともと赤い鬼の肌をさらに赤くさせ、眉間に深い縦皺を刻み、燃え滾たぎる怒りを爆発させるかのように光子はまくし立てた。

「お、おでのせいだけじゃないだろ。み、光子がいつまでも、ちょっとしたことで、怒っとるから」

 と大柄な鬼の吾郎が少々身を縮めて、情けなく眉尻を下げてぶつぶつと呟く。
 その吾郎のグズグズした態度に、光子はさらに肩を怒らせた。

「ちょっとしたこと⁉アンタねぇ、そのちょっとしたことだって積み重なればちょっとどころじゃ済まないのよ! 大体アタシはねぇ、別にアンタのだらしなさにここまで怒ってるんじゃないのよ。逆上して、雷を鳴らすその馬鹿さ加減に呆れてるのよ。こんなか弱い女鬼に対して、雷を鳴らす鬼なんて……ウッ」

 と、急に息が詰まったように、光子は顔を苦しそうに歪め、目から大粒の涙をぼたぼたとこぼした。

「ああ、どんなにアタシが怖い思いをしたか」

 そう言って光子はしくしくと涙を流す。真っ赤だったはずの顔色が今は青ざめて見えた。

 心を覗かなくとも、光子が本当につらいというのは、彼女の様子を見ているだけでわかった。

 さめざめと泣き出した光子を見て、吾郎は弱り切った様子で申し訳なさそうに口を開く。

「雷を鳴らしちまうのは、悪いとは思ってるけどようでも、小さなことでいつまでもぐちぐち言われたってなぁ。さっきだって、ちょっと腰布そのまま放置してただけで怒るしよう。あれはあとで片付けるつもりで」

 そうまごまごと不平を口にする吾郎に、先ほどまで涙をこぼしていた光子の目じりが急激に吊りあがった。

「またそれかい⁉あー嫌になるねぇ。アンタはいつもそう言うけど、一度だって自分で片付けたことがあるのかい?アンタが放った汚い腰布を毎回拾って洗ってやってるアタシの身にもなりなさいよ!」

 と、光子がカッと噛みつくように怒鳴りつけると、先ほど弱り切っていた様子の吾郎も唇をプルプルと震わせ、顔に怒りの色があらわれた。

「はあ⁉ お前、自分の亭主の腰布をそんな汚ねぇもんみたいに言いやがって!」

「汚いもんでしょうよ!」
「なんだとぅ⁉」

 と、まるで子供の喧嘩のように収拾のつかないふたりを、粟根とリナはどうしたものかと見つめていた。

 なんといってもとにかく大柄鬼の夫婦の喧嘩だ。
 ビリビリと雷のようにふたりの声が心療室に響き渡り、小さな壁掛け時計がガチャンと音を立てて床に落ちた。

 迫力がすごいなんてもんじゃない。ちらりとリナが粟根に視線を向けると、彼は真剣な顔で、ふたりの喧嘩をじっと見入っている。
 そして眺めているうちに口角がにぃっと上がった。
 なにかを企んでいるような様子だ。不審に思ったリナは思わず粟根に尋ねる。

「と、止めなくていいんですか、先生?」
 喧嘩をしているふたりには聞こえないように、リナが小さな声で耳打ちすると、粟根は夫婦喧嘩から視線を離すことなく、頷いた。

「ええ、そうですね。そのうち止めますが、今はまだ止めません」

 そう答える粟根の声色が、なにかおもしろいものを発見した子供のように楽しそうな響きに聞こえて、リナは戸惑った。

「で、でも、このままだと、どんどん喧嘩がエスカレートしそうですよ!?」

 そう小さく抗議の声を上げるリナに、粟根はちらりと視線を動かした。

「あ、そうだ、リナさん。喧嘩のときのふたりの心を読んでてくださいよ。今が一番大事なとこなんですから」

 粟根は静かにそう言って、すぐに視線を鬼の夫婦に戻したが、リナはその言葉に目を丸くした。
 あの鬼の形相の人たちの心を読めと⁉と、さっと血の気が引く。口に出る言葉ですらかなり乱暴である。
 さぞかし心のなかの暴言は凄まじいに違いない。リナはそう思って躊ちゅう躇ちょして、再び粟根を見る。
 彼は再び真剣な眼差しで鬼の夫婦喧嘩を見続けていた。

 先ほどまでの外面ばかりがいい様子とは見間違えるような彼の姿に、リナはこれも仕事なのだと腹をくくる。

 覚悟を決めたリナは、ふたりの鬼の心に気持ちを集中させた。怒鳴る光子の言葉とともに、彼女の心の声がリナに流れ込んでくる。

『なんでこの人はアタシのことを……ザザッ……わかってくれないんだろうねぇ!』

 吾郎の心の声は『最近の光子は怒りっぽいんだ!』と、口にしている言葉とほぼ同じ音が心のなかで呟かれていた。

 何故か光子の心の声にザザッという雑音が入るのは気になったが、お互いが本音でぶつかり合っているのは心の声を聴いても明白だった。

 むしろ心の声のほうが、飛び交うふたりの暴言よりもずっと冷静で、ふたりの本音が伝わりやすい。
 けれどふたりの乱暴な口喧嘩は止まらない。

「じゃあアンタは、アタシが神経質だから悪いって言ってるの⁉」
「別に悪いとは言っとらんだろ!」
「言ってるわよ!ああもうアンタと話してると、イライラするよ!アタシがねぇ、どんな気持ちでいるのかわかってんのかい!」
「わ、わかるわけねぇだろ!そんなに乱暴に言われちゃぁ、わかれっていうほうが無理だ!」

 と吾郎が言い放ったタイミングで、光子から強烈なほど強い感情を持った心の声が、リナのなかに入ってきた。

『グチグチ言う私が悪いっていうの⁉ 頭にきた! ザザッもう許せない!』

 光子は立ちあがり、そして文字どおり鬼のような形相で、吾郎を見下ろす。

「アンタがだらしないから言いたくないのに文句言わなくちゃいけないのよ⁉この、ブサイクなデベソ!!」

 と、今までにないほどの怒声が光子の怒りで歪んだ口から放たれた。
 そして言ってやったとばかりに、ふんと鼻息を鳴らす。

 そんな光子を、吾郎が信じられないものを見ているかのように目を見開く。

 しかしその顔はすぐに怒りに変わった。
吾郎は体全体を震わせ、目を吊りあげ、歯をむき出しにして口を開ける。

「ブサイクな、デベソだとぉ⁉また言いやがったなぁ⁉亭主に向かってなんてことを言いやがる!」
 そう吾郎が叫び立ちあがると、途端に窓の外の景色は真っ黒な雲に覆われて、ゴロゴロと地鳴りような音を鳴らし始める。

 そして、ピカッと稲妻が光って、容赦なくあたりに立ち轟いた。

「きゃ!」

 思わずリナが声を上げて、頭を抱えた。

「アンタ!また雷鳴らして!」

 光子はまた怒りと怯えが入り混じったような表情になった。

「しゃらくせぇ!」

 しかし、頭に血が上った吾郎の心のなかは怒りでいっぱいで、ふたりの喧嘩が収まる様子もない。
 もうダメだリナがそう思ったとき。

――パンパン。

 と、先ほどまで静かにふたりの喧嘩を見ていた粟根が、まるで柏手のように手を鳴らした。

 その軽やかな音は、雷やふたりの喧嘩の音よりもあたりに響き渡って、リナも鬼の夫婦も思わず粟根のほうへと視線を移す。

「はい、ありがとうございました。喧嘩の再現までしてくださるとは、わかりやすくて非常に助かりました」

 粟根は、先ほどまで繰り広げられていた大迫力の喧嘩を本当に見ていたのだろうかと思うほどにけろっとした表情で言ってのけた。

 あまりにものんきな声色で粟根がそう言うものだから、さすがの鬼の夫婦も呆気にとられたような顔をする。

 しかし粟根はそんなことを気にする素振りもなく、ふたりに笑顔を向けて、
「まぁまぁとりあえず、おふたりとも座りませんか?」
 と言った。

 鬼の夫婦はそんな粟根を見て、そして改めてお互いの顔を見合うと、ふんと鼻を鳴らして、ソファに座り直した。

 粟根は涼しい笑みを浮かべて飄々としているが、あんなに激しい夫婦喧嘩を根本から解消することができるのだろうかと、リナには不安しかなかった。

 心の声を聴いたからこそ、喧嘩の最中にお互いが不満を溜め込んでいるというのがよくわかった。
 特に光子の鬱憤は相当なもので、ずっとイライラしている。
 それになんだか変な雑音が混じっていた。

「ほらね、先生、見たでしょ? この人ったら、喧嘩になるとあんなふうに雷を鳴らすのよ! もう呆れます!」

 光子が目を吊りあげて、まくし立てるようにそう言うと、吾郎は気まずそうに目を伏せる。

「だってよう」

 と、かすれた声で小さく呟いて、吾郎が肩を落とした。

 どうやら反省しているようだ。そんな吾郎を責めるように光子は続ける。

「この人ったら、雷を出したあとは、いつも後悔してるような態度をとるのよ。もうしない、許してくれ光子って言って。私もそれを信じちゃうんですけど、でも怒るとすぐにこれなんです」

 光子の鋭い視線が吾郎に刺さり、吾郎はさらに小さくなっていく。

「うう。そうや、光子の言うとおりや。やっぱり、おでが悪いよな。すぐに雷を鳴らしちまう我慢のきかねぇおでが悪い。でも、どうもこの癇癪は治そうと思ってもどうにもならねぇ。何度も何度も、治そうって思ってるのに、頭にくると、鳴らしちまうんだ」

 吾郎が、肩をがっくり下げて気が抜けたようにそう言った。

 そんな夫婦のやりとりを見ていた粟根は、笑顔で頷いた。

「なるほど。でも、おふたりが喧嘩の再現をしていただいたことで、手っ取り早く根本を解決する方法がわかりましたよ」

「えっ」
 と声を揃えて驚く夫婦。
 それと一緒にリナも声を上げて驚いていた。

 そして吾郎は鼻息を荒くして、前のめりに粟根に問いかける。

「それはなんや!なんでも言ってくれ!おでは頑張ってみせる!おでのこの癇癪の治すためなら、おではなんでもやるぞ!」
 と鼻息荒く宣言するが、粟根は首を横に振った。

「あ、いえいえ。ご主人に治してもらいたいことはないんです。光子さんにお願いしたいことでして」

「ええ!? おでじゃないのか!? なんで光子なんだ? おで、また雷鳴らしちまったんだぞ。おでが悪い。そうだろ? だから先生は、おでに説教をするんじゃないのか?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で吾郎が粟根に言い募るが、粟根は肩を竦めるだけだった。

「お説教? そんなことをするつもりはありませんが」
「な、なんでだ?」
「なんでと言われても例えば私がお説教をすれば雷を鳴らさなくなるなら、喜んで吾郎さんにお説教しますけど」

 訝いぶかしげな顔で尋ねる吾郎に、粟根が顎に手を添えながらそう返す。

粟根の言葉を聞いて、吾郎は困ったように頭をポリポリと掻いた。
「いや、そういうわけじゃねぇけどもよ」

「まあ、吾郎さんがご自身の癇癪をどうにかしたい、治したいというお気持ちがたしかなら、また個人的にこちらに来てください。僭せん越えつながら、サポートします。ですが、吾郎さんの癇癪を治すのはなかなか大変な道のりです。癖というものは、すぐに治るものではありませんから、時間がかかりますよ」
 にやりと口角を上げ粟根は言った。

「で、でも、先生、さっき手っ取り早い方法があるって」
「私が言ったのは、ご主人が夫婦喧嘩中に雷を鳴らさずに済む手っ取り早い方法です」

「へ?それって同じ意味じゃねぇのか? ま、まさか!」
 と顔色を悪くした赤鬼の吾郎は、悔しそうに顔を歪めて下を向いた。

 先ほど雷を鳴らした迫力からは一変し、いまや消えいってしまいそうなほど小さく背中を丸めている。

「先生は、あれだろ? こんなろくでなしとは別れたほうがいいと、光子に言い
たいんやろ? おでもな、本当は、光子のためを思えば、それがいいんじゃないかと、考えたりもする」
 そう言って吾郎は、でっぷりとしたお腹にちょこんと飛び出ている自分のへそをおもむろに指さした。

「見てくれ先生、おでのデベソ。小さいし、不格好やろ?雷鬼族にとって、デベソは男の誇りだ。ずっと弟の立派なデベソと比べられてな、おでは、自分のデベソが嫌いやった。でも、光子はな、こんなちんけなデベソのおでのこと好き言うてくれてな。でも、おでのデベソはやっぱりブサイクや。光子にはっきりとそう言われちまったしな」

 そう言って吾郎は斜め上を見てどこか懐かしそうに目を細めると、光子のほうに顔を向けた。

 吾郎に穏やかな顔で見つめられて、光子が少し困ったような顔をする。吾郎は、再び視線を粟根に戻すと小さく口を開いた。

「光子は、怒って雷を鳴らしちまうおでみたいな鬼にはもったいねぇ。でも、おで、光子を手放したくなくてずっと言えないでいたんだ」
 そう小さく呟くと、吾郎は覚悟を決めたかのように背筋をピンと伸ばした。

「先生がそう言うなら、おで、光子と、光子と別れる。それが光子のためや」

 苦渋の選択だ、とでも言いたそうに、唇を噛みしめた吾郎がつらそうに言った。
 目には涙が滲んでいる。まさに鬼の目にも涙。

「ア、アンタ……」
 吾郎の真剣な様子に虚をつかれたような光子は戸惑いを隠せない。

「悪かったな、光子。ずっと縛り付けちまってよう。もう自由や。光子といた三百年、最後は喧嘩ばかりやったけど、幸せやった」
 と言って、悲しさを耐えるように唇を噛んだ吾郎が、熱い眼差しで光子を見つめる。
 目を見開いた光子の口が微かに震えた。

 そして、吾郎の眼差しに応えるように、光子も真っ直ぐ吾郎を見つめ返す。
 ふたりは大粒の涙をその目に溜め、お互いがお互いをその目に映していた。

「あ、すみません。盛りあがっているところ悪いのですが、私は別れろとは言うつもりはありませんよ。まあ、もちろんそれもひとつの選択肢ではありますが」

「ええ!?」

 粟根の言葉に、鬼の夫婦は再び声を揃えて、ぴょんと飛び上がって驚きを表現する。さすが三百年連れ添っているだけあって、息がぴったりだ。

「じゃ、じゃあ、その方法ってなんなんだ? それをすれば、おでは光子と別れなくてもいいのか? 癇癪を起こさなくて済むんか?」

「ええ、そのとおりです」
と自信たっぷりに答える粟根に吾郎が怪訝そうな顔をすると、粟根は光子のほうに顔を向けた。

「光子さん、喧嘩になったときに、ご主人の『へそ』については、言わないでほしいんです」
「へそについて? それは、まあ、先生がそうおっしゃるなら言わないようにはしますけど。それで、ほかにはなにをすればいいですか?」
「いえ、ほかにはなにもありません。それだけです」

 粟根があっさりとした口調でそう言うと、鬼の夫婦もリナも、目をぱちくりと瞬かせて粟根を見た。

「それだけ、なんですか?」
 とリナが思わず口を挟むと、粟根は当然だと言うように頷いた。
鬼の夫婦は信じられないとばかりにお互いを見合い、光子が改めて粟根を見て訝しげに口を開いた。

「じゃあ、本当に、へそのことを言わないだけでいいんですか?」
「そうです。実際に夫婦喧嘩の流れを見させてもらったところ、ご主人の怒りが爆発するきっかけは"おへそ"について触れたときだけです。男の鬼にとってはおへそはプライドに関わるデリケートなことですから」

 吾郎は粟根の言葉を聞いて真剣に頷いている。
 吾郎にとっておへそというのは、本当にとても大切なもののようだ。

 以前のリナだったら冗談にしか聞こえなかっただろうが、妖怪図鑑のおかげですんなりと理解できた。本にも一部の鬼族の間では、おへその良し悪しが男鬼の沽こ券けんに関わる重要なものだと書かれていた。

「それに、光子さんは本気で、ご主人のおへそのことを悪く思っているわけではありませよね?」 粟根が訳知り顔でそう言うと、光子ははっとした顔をして下を向いた。

「そりゃあ、三百年連れ添った亭主のおへそよ。悪いものだなんて思うわけないやないの」

『むしろあの形がキュートで可愛いって思ってる』という光子の心の声をリナは聴いてしまい、まじまじと吾郎のおへそを見る。
 キュートで可愛いおへそだと光子は言うが、リナの目から見たら、ちょこんと飛び出た少々黒ずんだただのへそにしか見えない。
 そもそもそこまでへそを気にかけたことがないので、へその美醜がよくわからなかった。

「そんなわけがねぇ! いいんだ、光子。気なんて遣うな。思ってねぇなら、あんなふうに口に出るわけねぇ」
 と悔しそうに、吾郎が言った。
 彼の目には先ほどから涙が滲んでいる。

「いえ、本当に、光子さんはそんなこと思っていないはずですよ。リナさん、光子さんの心のなかはどうでしたか?」

 粟根に話を振られて、リナは小さく頷いた。

「はい、たしかに。むしろご主人のおへそが、キュートで、その、可愛いって言ってました」
 とリナが先ほど聴き取った光子の心の声を伝えると、光子は驚いたように目を見開いた。

「ええ⁉なんでアタシが思ってることがわかるん!?」

 慌てる光子をどうどうと宥なだめ、粟根はリナのことをふたりの前に出した。

「すみません、紹介が遅れてしまいましたね。彼女は私の助手をしてくれている佐藤リナさんといいまして、妖怪サトリの力を持ってます。心の声を聴くことができるんですよ」

 あっさりとリナの力のことを明かす粟根に、リナは嫌な汗を流した。
 こんなこと普通の人間に話せば、気持ちが悪いと怖がられてしまう。
 ふたりにも気味悪がられたらどうしよう。そう不安に思ったが……。

「そうなんか!」
「便利ねぇ」

 と、リナの予想に反して、ふたりの鬼は感心している。
 むしろ褒めるような言葉さえ交わしていた。

「リナさんの力は本物ですからね。それに、光子さんは、ご主人が怒るとわかっていて、へそのことを口にしていませんか?」

 すると光子はばつが悪そうに、自分が吾郎に言ってきたことを振り返る。

「言われてみれば、アタシ、主人がそのことをすごく気にしているのを知っとる。ひどく傷つくだろうことも、アタシ、知ってて……」

「なんで、光子、わざわざ怒らせようなんて」
「ついカッとなって……」

 光子の本心がわからないというように、悲しそうな顔をする吾郎を見た粟根は言葉を続ける。

「吾郎さん。怒りなどで我を忘れたときに言ってしまう言葉は、その人の本心なんだと思いがちですが、本当は逆なんです。怒っているときほど、その言葉の多くは本心ではありません」

「え、それって、先生、どういう意味なんですか?」

 怒っているときの言葉は本心ではないと言うが、夫婦喧嘩中の心の声を聴いたリナからすれば、ふたりの心の声と発している言葉は同じようなものだった。

 納得しきれていないリナと鬼の夫婦を諭すように、粟根はやわらかな笑みを浮かべて口を開く。

「本当に怒っているときは、相手を傷つけたいという思いが強く働いてしまうんです。相手にも自分と同じぐらい嫌な思いをしてほしいって思ってしまう。ですから、相手が一番言われて傷つく言葉を選ぶんです。本心には関わらず、ね」

 リナは粟根の言葉を聞いて、改めて自分が聴いたふたりの心の声を思い出す。

「たしかに喧嘩の最中、光子さんがご主人のおへそを指摘したときの心の声は、ただ怒りの表現でした。イライラするとか、頭にきたとか感情が先立っていました」

 リナの言葉に粟根が頷くと、再び夫婦のほうに視線を戻す。

「夫婦というのは、長年一緒にいるから相手のことをよくわかっています。だからこそ相手が一番傷つく言葉も知っている。三百年も一緒にいるならばなおさらでしょう」

「そうなんか……」
 と吾郎は納得したように呟いたが、彼の心のなかはまだ腑に落ちていないようだった。

 『今までも喧嘩はしたことあるけど、デベソのことを指摘してくるんは最近や。光子はそれほどまでに怒ってるってことやろ? なんで急にそんな怒りっぽくなったんやろか』

 リナは吾郎がそう心のなかで呟いたのを聴いた。

 するとそのとき、光子が「う」と苦しそうにに呻うめき出し、口元に手を当てた。

「す、すみません、ちょっとお手洗いを借りてもいいかしら」

 と気分悪そうに光子が言う。
 リナは急いで立ちあがって、光子の背を支えると、トイレまで案内した。
 光子は苦しそうに駆け込んでいった。

 そんな光子の様子に、リナはある仮説を立て、慌てて粟根に報告しようと心療室のソファに戻るが、そこでは吾郎がこの世の終わりかのように頭を抱え込んで落ち込んでいた。

「光子は、もうおでのことなんか好きじゃないのかもしんねぇ。最近は特におでといると機嫌が悪いし、一緒に食事もしたくないみたいで、食事中に気分が悪くなって席を外すことも多いんだ。デベソを悪く言うのは本心ではないって言ってたけど、きっともうおでたちは終わりなんだ」
 と、吾郎が顔を俯かせ、悲痛な声色で嘆き出した。そんな吾郎をなんとか元気づけようと、リナは励ましの言葉を探す。

「あの、奥さんはたしかにイライラはしてましたけれど、ご主人のこと、本当に愛してます。さっき別れ話をし始めたときだって、別れたくないって、はっきりと心の中で言ってました」
「だけどよう」
 と言って、吾郎がしょんぼりとうなだれた。

 粟根はそんな吾郎を見て、左下に視線を落とした。
 そしてなにかを考えるように顎の下に手を置くと、視線だけ上げて吾郎のほうを見た。

「吾郎さん、つかぬことを聞きますが、奥さんが妊娠している可能性はありませんか?」

 リナが先ほどもしかしてと思っていたことだ。
 気分が悪そうに奥さんがトイレに駆け込んだのは、悪つわり阻なのではないか、と。

 だけど吾郎は、悲しそうに表情を曇らせて首を振る。