もう何も失うことのない、彼らの日常。

 サイン会が終わっても、僕ら二人はずっと一緒にいた。先ほどのカフェで、嬉野さんは興奮した表情を浮かべながら、名瀬先生の作品の魅力を僕に語り続けている。

 まさか、名瀬先生が公生くんの知り合いで、隣の部屋に住んでたなんて。そんな嬉野さんのセリフを、僕はもう五回は聞いた。五回も聞いてなお、僕はその事実を頭で理解することができなかった。

 だから嬉野さんが先輩にもう一度会いたいと言った時、なんの迷いもなく頷いて、僕の住んでいるアパートへと向かった。

 いつものように、からかうように先輩は微笑んで、ネタバラシをしてくれると思ったから。けれど、そんなネタは一つもなかった。僕の隣の部屋から出てきた先輩は、僕らを見て困ったように微笑んでから、知りたくもなかったネタバラシをしてくれた。

 もう、小説は書かないと。

※※※※
 名瀬先生がもう小説を書かないと言った時、私は大切な人が死んでしまったことを聞かされたかのような喪失感に囚われた。その場で泣き崩れてしまいたかったが、そんなことをしてしまえば先生が困ってしまうだろうから、私は最後の最後まで涙をこらえ続けた。

 それが決壊したのは、公生さんが呆然としていた私を心配して、部屋へと入れてくれた時。私はその場にへたり込み、壊れたように泣き崩れた。それから彼は、部屋の中で私を慰め続けてくれた。彼がいてくれなかったら、私はきっと立ち直ることができなかっただろう。

 先生は、もう小説を書かない。その事実をようやく頭の中で理解できた頃には、すでに涙は枯れ果てていた。仕方のないことなのだと、私は諦めにも似た感情を心の中に抱く。

 それから壁にかけられた時計で時間を確認して、私は焦った。

「もう、終バス終わっちゃってる……」
「えっ?!」

 最終バスは、もう三十分も前に最寄りの駅を通過していた。事前にバスの時間を調べていたはずなのに、泣き崩れていたため、すっかりと頭の中から抜け落ちていた。

 公生さんはタクシーを呼ぶよと言ってくれたけど、夜中に娘が涙で目元を赤く腫れさせて帰ってきたら、きっとお父さんとお母さんは心配してしまう。だから無理を言って、今日だけ部屋に泊めさせてもらった。

 今日会ったばかりの人に、その提案をすることは少しばかりの勇気が必要だったけれど、不思議と抵抗はなかった。この人なら、信頼できる。そんな予感が、密かに私の心の中にあった。

 結局は無理を押し通すことに成功して、公生さんは私が部屋に泊まることを了承してくれた。私たちは一緒の部屋に寝たけれど、それ以上は何もしなかったし、何もされたりしなかった。私の心には、ただ純粋な安心感が芽生えていた。
 翌日、男性の部屋であまりにも無防備に寝ていた私は、部屋のドアが開く音で目が覚めた。時刻を確認するために跳ね起きた私と、すでに私服に着替えていた公生さんと目が合う。彼は困ったように、微笑んだ。

「おはようございます。ぐっすり寝てたので、起こすのも悪いかと思って」
「あ、いえ……」
「もしかして、今日お仕事でしたか?」

 今日は、仕事ではない。だから私はすぐに首を振って、口元から垂れていた液体を手の甲で拭った。そして公生さんが持っている、コンビニの袋に視線が向かう。

「朝ごはん、本当は用意できたらよかったんですけど。僕、ちょっと料理が苦手で……」

 そう言って彼が袋の中から取り出したものは、健康を気遣ってくれたのかサラダ系のものが多く、私のお腹がくーっと小さく鳴った。

 その恥ずかしい音が公生さんに聞こえてしまったのか、口元を緩めて苦笑する。

「朝ごはんにしましょうか。すぐ、用意しますので」
「あ、はい……」

 その優しさは卑怯だろと、私は心の中で密かに思った。
 朝食を食べ終わった後、公生さんは「体調、もう大丈夫ですか?」と心配してくれた。そういえば、起きてからは全然頭の痛みを感じていない。昨日の薬が、しっかりと効果を発揮しているのだろう。

「もう、大丈夫みたいです」
「そっか……」

 彼は安心したように微笑んだ後、照れ臭そうに頬を指でかく。そんな姿に私は首をかしげると、意を決したように公生さんは口を開いた。

「あの、これから映画見に行きませんか?気分転換に」
「……えっ?」

 私が思わず聞き返すと、焦ったように彼は早口でまくし立てる。緊張しているのは、雰囲気で伝わってきた。

「落ち込んでる時は、たくさん遊んだ方がいいと思うんです。僕も、わりと落ち込んだので……」

 きっと、昨日私が泣き崩れたのを心配してくれたのだろう。その優しさが嬉しくて、だけど同時に顔を赤くしている彼が面白くて、思わずくすりと笑ってしまった。そうして笑うと、彼はさらに顔を赤くさせる。

 私は結局、公生さんの提案に素直に頷いた。ほっと胸を撫で下ろしている彼を見て、また密かにくすりと笑みがこぼれた。


 とりあえず駅前ショッピングモールの映画館で映画を見ようということになり、私たちはバスに乗って駅へと向かった。商業系の高校へ通っていたから男性と接する機会が少なかったため、そういえば最後に男の人とこんな風に出かけたのはいつだっただろうかと、バスに揺られながらふと思う。

 隣でつり革を掴む公生さんを盗み見ると、緊張しているのか口角が引きつっていた。この人は多分、女の人と二人で出かけたことがないのだろう。私も多分、男の人と二人だけで出かけたのは、これが初めてだった。

 高校時代に友達が他校の男子生徒を呼んで、親睦会と言う名の合コンを開き、それに参加させられたことは何度もあった。波風を立てないように連絡先を聞かれれば交換をした。だけど二人で出かけるようなことはしなかった。

 私はなんとなくチャラチャラしている人が苦手で、申し訳ないけど拒否反応を起こしていたから。少なくとも合コンに参加するタイプの男性とは、上手く話をすることができなかった。

 私は趣味を共有することができる、もっと落ち着いた人が好みなのだろう。だから合コンでとても有名な作家さんの、とても有名な作品の名前をあげて、読んだことがあるかと聞いてみたりした。けれど返ってくるのはだいたい、映像化されたものは見たことがあるという言葉で、その後に原作も読んでみるよと笑顔を向けられる。試しに原作本を貸してみて、二日ほどで読了報告をされた時に感想を聞いてみたけれど、彼の感想は原作の感想じゃなく映画の感想だった。おそらく、原作と映画の内容が違うことを知らなかったのだろう。

 たくさん本を読んでて頭がいいんだね、と言われたりもしたが、別に活字を読むのに頭の良さは関係がないでしょと、心の中でツッコミを入れていた。だからせめて趣味を共有できないかと思い、メールで十冊ばかりオススメの本を紹介してみたけど、それからというもののその人からメールが返ってくることはなかった。それからというものの、私は私の趣味のことを誰かに打ち明けるのはやめにした。

 そういう高校生活を送っていたから、男性の方とこんな風に出かけることになるなんて、想像すらしていなかった。私を元気付けるために、映画へ誘ってくれたのは嬉しい。けれど、外見は落ち着いた雰囲気で、内面は狼だったらどうしようと、私は一人で勝手に心の中をモヤモヤさせている。

 書店で話しかけられた時も初めはナンパかと思ったが、彼のことを知れば知るほど、私の思い描いていた理想の男の子だと感じてしまう。

 彼は、どっちなのだろう。肉食系なのか、草食系なのか。そんな風に公生さんの顔をジロジロ見つめていると、見つめていたのがバレていたのか、顔を赤くさせて俯いてしまう。

「……公生さんは、歳はおいくつなんですか?」

 突然話しかけると、公生さんはびくりと肩を震わせて、囁くように答えてくれた。

「あの、二十歳です……」
「え、ほんと?」

 私は思わず、目を丸めてしまう。

「公生さんって、二、三歳は上なのかと思ってました」
「えっ?」
「私も、二十歳なんです」

 今度は彼が、私と同じように目を丸める。

「嬉野さんも、二十歳なんだ。てっきり二、三歳は上なのかと思ってた」

 それから自分のデリカシーのない発言に気付いたのか、慌てたように「あ、あの。別に老けてるとかじゃなくて、大人っぽいって意味ですっ」と訂正した。

 私は慌てる彼がおかしくなって、思わず笑みをこぼす。

「大人っぽいって言ってくれたの、公生くんが初めて。いつもは子どもっぽいって言われるから」

 思わず公生くんと呼んでしまい、しかも敬語が抜けてしまった。だけど同い年なんだから、失礼じゃないよねと思い直す。突然くだけた話し方になったため、公生くんはまた、ほんの少し顔を赤くさせた。

「公生くんは、何月何日生まれ?」
「えっと、四月二十七日です」
「うわ、マジですか」
「もしかして、嬉野さんも?」
「うん。四月二十七日」

 同じ日に生まれた私たちは、偶然にもこうして知り合うことができた。もしかすると、こういうのが運命なのかも知れないと、私は密かにロマンチックに浸っていた。
 ショッピングモール七階にある映画館で今話題の恋愛映画を見た私と公生くんは、七階にあるお寿司屋さんで昼食を食べていた。目の前にはマグロやブリなどの様々なお刺身が乗せられた海鮮丼が置かれていて、それを食べながら、私は公生くんに話を振り続けている。

「映画、すごいよかった! ちゃんと原作のこと考えてくれてて、原作になかったエピソードを補完してくれてたし!」
「そうなんだ」
「そう! そうなの! もしかして、公生くん原作読んだことない?」
「読もうとは思ってたんだけど、実は忘れてて」
「えー、もったいないよ、それ。貸してあげる。今日帰りに家まで寄ってよ」

 思わずその提案をして、自分のことなのに驚いてしまった。もう、自分の好きな小説を貸さないと、心に決めていたのに。

 彼なら、わかってくれるとでも思ったのだろうか。公生くんの部屋には、本がたくさん置かれていたから。だから、私の趣味を共有してくれると、そんな甘い考えを持ってしまったのかもしれない。

 だけどそれはやっぱり甘い考えで、私はすぐに現実を知った。公生くんが、首を振ってしまったから。まさか、こんなにも明らかな拒否を示されるとは思わなくて、私はかなり落ち込んだ。

 けれど、彼はすぐに言葉を続けてくれる。

「ううん、貸してくれるのは嬉しいけど、大丈夫。ちゃんと買って、作者さんを応援したいから。映画もすごく面白かったし、これ食べ終わったらすぐに本屋に行こうよ」
「え、買ってくれるの?」
「元々、買おうとは思ってたから。映画を見て話の内容わかっちゃったけど、嬉野さんの話を聞いてたら、原作の方も読みたくなっちゃった。あと、昨日嬉野さんにオススメされた本で、気になるのもあって」

 私は思わず、公生くんのことを見つめてしまう。こんな人、初めてだった。昨日はテンションが上がって、大好きな本の話を、並んでいる時にたくさん話してしまったから。多かれ少なかれ、引かれたと思っていたのに。私の話なんて、彼の頭の中には残っていないと思ったのに。

 私は初めて、男の人に対して大きく心が揺り動かされた。こんなにも趣味の話をして嬉しいと感じたのは、生まれて初めてのような気がする。ずっと、わかってくれる人がいなかったから。

 私は思わず机越しに、公生くんの両手をガシッと掴む。それからすぐに「友達になろ!」と叫んだ。とても恥ずかしいセリフで、周りに座っていたお客さんたちがくすりと微笑む声が聞こえてきたけれど、私はふざけてないしとても真剣だった。

 男性との距離の詰め方がわからない私は、こんな不器用な方法を取ることしかできない。けれど、そんな笑っちゃうような告白だったのに、公生くんは少し恥ずかしそうに視線をさ迷わせた後、「……うん。よろしく、嬉野さん」と言ってくれた。

 それから私たちは昼食を食べた後、五階にある本屋へと向かった。公生くんは、迷わずに数冊棚から本を取り、私に見せてくれる。

「オススメしてたの、この本だよね?」
「うん! うん! それっ! すごく面白いから!」
「たくさんあるから時間かかりそうだけど、頑張って読むよ」
「読み終わったら、感想聞かせてね。あ、とりあえず連絡先交換しようよ」

 そういえば連絡先を交換していなかったことを思い出して、私はミニバッグからスマホを取り出す。私たちはそれから、メールアドレスと電話番号をお互いのスマホに登録した。

 公生くんが私の名前が登録された連絡先一覧を見つめていたから、「どうしたの?」と訊いてみると、わずかばかりの逡巡の末にその理由を教えてくれた。

「実は、アドレスに誰かの名前を登録したの、久しぶりで」
「え、そうなの?」
「人付き合いが苦手で、大学で友達作れなかったから」

 そう言って公生くんは笑ったけれど、その笑みは無理をして作ったものなのだと、私はすぐに理解することができた。

 そして私もこれまでの生活を振り返って「うん、なんとなく、わかるかも」と呟いた。私の持っているスマホの画面には、様々な人の名前と連絡先が登録されているけれど。

「嬉野さん、人付き合い上手そうだけど。大学でも、友達結構いるんじゃないの?」
「ううん、私大学通ってないよ。普通に、仕事してる」
「それじゃあ、職場の人とたくさん話したりしない?」
「それはするけど、本心を包み隠さず言ったことは、高校生の頃からたぶん一度もないから。隠さないと、みんな私の前からいなくなっちゃいそうで」

 だから偽りの自分を演じて、今私の周りにはたくさんの友人や知人がいる。本来の姿を見せていたら、ここに登録されている連絡先は、一つもなかったかもしれない。

「私はたぶん、人付き合いが上手すぎるんだと思う。だから周りに人は寄ってくるけど、本心は隠してるから疲れちゃうよ。いつも、ひとりぼっち」

 けれど、今は一人じゃない。本心を包み隠さずに伝えることができる、素敵な友達が目の前にいる。たった一人だけでも、私は嬉しかった。

「そんなこと、ないと思う」

 公生くんは不意にそう言って、私から視線を外した。どうして視線を外したのか、私はなんとなく、公生くんのことがわかってきたような気がする。つまるところ、自分で言っておいて、今から言おうとしていることに照れているのだ。

 それでも、公生くんは私に話してくれた。

「嬉野さんが笑顔でそういう話をしてくれたら、きっと相手も嬉野さんのことが好きになると思う。隠す必要、ないんじゃないかな」

 目を合わせてはくれなかったけれど、公生くんがちゃんと言葉にしてくれただけで私は嬉しかった。そして……それは一種の告白なんじゃないかと、私は密かに心の中で思う。
 公生くんは、私のことを好きになってくれたのだろうか。

 いつもオドオドとしている彼を見ていると、なんとなく本心がわからなくて、私は口元を手で隠しながら密かに微笑む。嬉しくて、嬉しくて、小さな声となり笑い声が口元から漏れた。

 それを公生くんに聞かれてしまい、首をかしげられたけれど、私は笑いを抑えることができなかった。次第に彼は私のことを心配して「……大丈夫?」と訊ねてくれる。私は尚も笑みをこぼしながら「ありがとね」と答えた。

「それじゃあ将来子供ができたら、その子にも本を好きになってもらおうかな」
「嬉野さん、彼氏いるの?」
「ううん、いないよ。そういう公生くんは?」
「僕も、いないよ。そもそも、女の子の友達がいないから」
「そっかぁ、見る目ないんだね」
「どういうこと?」

 思わず口にしてしまった言葉を飲み込むように、私は再び口元を手で抑える。なんだか急に恥ずかしくなって、顔が焼けたように熱くなった。

 だけど、すぐに公生くんの言葉を思い出す。隠す必要は、ないんじゃないか。本心は、伝えてしまったほうがいい。ましてやそれが嬉しい言葉なら、相手も嬉しい気持ちになれるから。

 そう考えた私は、抑えていた口元を解放して、彼に伝えた。

「公生くん素敵なのに、寄ってこないなんて女の子の見る目がないなって。私だったら、すぐにアタックするのに」

 最後に余計な言葉を言ってしまった私は、羞恥で熱くなった頬に思わず両手を当てる。公生くんはといえば、しばらくの間呆けたように口を半開きにした後、びっくりしたのか半歩後ずさって「え?!」と、声を上げた。

 私は慌てて、両手を前に突き出して左右に振る。

「あ! じょ、冗談だからっ! あんまり本気にしないでね!」
「あ、冗談……冗談だったんだ……」

 少し寂しげな表情をする公生くんが面白くて、私はまた、数秒前は恥ずかしかったはずなのに微笑んでしまう。冗談だと言ったけれど、もしかすると私の方が、肉食系なのかもしれない。

 自分の魅力に気付いていないところが愛おしくて、私がそれを気付かせてあげるお手伝いをしたいと思った。

 次第に私たちは笑い合っていて、いつのまにか落ち込んでいた気持ちも吹き飛んでいる。帰るとき、次はいつ会おうかと約束して、手を振って別れた。自宅へと帰る道すがら、胸の鼓動がいつもよりちょっとだけ早いことに気付いて、すぐにこれが恋なのだと理解できた。

 それからしばらくしてから私たちは付き合うことになって、一緒の部屋に暮らすようになって、結婚をして、可愛い可愛い女の子が産まれることになるなんて、この時の私は想像すらしていなかった。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:42

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作品のキーワード

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア